SGRAエッセイ

  • 2018.11.08

    エッセイ580:マイリーサ「繋げて育む協働の輪―ふくしまスタディツアーに参加して」

      2018年5月25日、私は初めてSGRAふくしまスタディツアーに参加させていただきました。渥美国際交流財団SGRAでは2012年から毎年、原発事故の被災地である飯舘村を訪れています。出発の前、私はSGRAスタディツアーに参加した先輩方の感想文を読み、飯舘村の状況について少し事前勉強をさせていただきましたが、現場では、飯舘村がおかれている厳しい状況を改めて感じることができました。   「ふくしま再生の会」理事長の田尾さんのご案内で、私たちは住民の帰還開始から1年となる飯舘村を見学しました。正直、この美しい里山が消滅の危機に直面していると思いました。そして、「ふくしま再生の会」が非常に困難な課題の解決に挑んでいるというのも初日の感想でした。日本の農山村は元々人口減少や高齢化の進行に苦しんでいますが、原発事故災害という特殊な環境において、その傾向はいっそう拍車をかけられています。   しかし、このスタディツアーで、私は次第にある現象に気づき、ここは交流人口がとても多いことに驚きました。というのは、ツアー中に私たちは他地域からの訪問者をよく見かけました。土曜日になると、何世帯かの高齢者しかいない限界集落に奇跡が起きていました。田植えを翌日に控え、佐須地区の「再生の会」の拠点に様々な分野の幅広い世代の人々が訪れていました。   やはり、人と人が集う場所には明日への活力が生まれると、私はその時強く感じました。原発事故が発生した3ヶ月後から、ここ佐須地区を舞台に、村民・専門家・ボランティアの協働による除染法の開発や農作物の栽培試験の取り組みが始まっていましたが、種まき、田植え、稲刈りなど1年を通して村民は多くの参加者の方々と一緒に米を育ててきました。現在は人々の繋がりによる協働の輪が広がりつつあります。   話によると、ほぼ毎週末(土日)、「ふくしま再生の会」の活動拠点に人びとが集まり、各種の活動を行っています。埼玉県立鴻巣高校のボランティアや東京大学のサークルのツアーなど若者たちが来ていました。そうした中で、大学と結ぶ活動の創造的展開も生み出されています。東京大学や明治大学などとの協働により、住民の目線による農地再生の取り組みと新しい地域づくりも可能になっているのではないかと感じました。   人々のつながりの「輪」は、環境保全に限らず、歴史と文化の継承という可能性も生み出しています。山津見神社拝殿の天井絵(オオカミ絵)の復元プロジェクトへの協力、明治時代に造られた校舎の保全と活用、味噌づくり継承プロジェクトなどはその好例です。こうした持続的な交流と協働こそが、「ふるさと再生」の仕組みを作り上げることができるのではないかと感じました。外国人の私は、日本のこのような多様な主体を持つ社会活動の展開とそれによる社会的価値創造にとても励まされました。   飯舘村は、日本の最も美しい村の一つとして知られていますが、飯舘村に行ってさらに、信じられないほど美しい光景に出会いました。それは「繋げて育む協働の輪」です。私は人々のつながりに非常に感動しました。またこの美しい村に行きたいです。   ※SGRAスタディツアーの報告(2018年5月に実施)   英訳版はこちら   <マイリーサ Mailisha> 昭和女子大学国際学部教授。2000年一橋大学社会学研究科博士課程修了、博士(社会学)。専門分野は教育社会学、農山村の地域づくり。近年、日本の里山保全と中国の少数民族地域での環境問題を研究対象としている。日本学術振興会外国人特別研究員、立教大学非常勤講師、昭和女子大学人間文化学部特命教授などをへて、現職。主な著書に『内発的村づくりにおける人間形成をめぐって』(一橋大学大学院社会学研究科博士学位論文、2000年)「流域の生態問題と社会的要因――」中尾正義等編『中国辺境地域の50年史』(東方書店、2007年)他。     2018年11月8日配信    
  • 2018.10.25

    ボルジギン・フスレ「AFC#4:SGRAセッション『現代モンゴル地域における社会変容』報告」

    2018年8月26日の午後に開催された第4回アジア未来会議自主セッション「現代モンゴル地域における社会変容」は、激変する北東アジア社会の複雑な状況を視野に入れながら、最新の資料を駆使して、モンゴル地域における社会変遷を焦点に特色ある議論を展開することを目的とした。同セッションでは、国立政治大学民族学部准教授の藍美華(LAN Mei-hua)先生と私が共同で座長をつとめた。   SGRA会員、内モンゴル大学モンゴル研究センター准教授のリンチン(仁欽、Renqin)氏の報告「20世紀後半の内モンゴルにおける草原生態系問題の検討」は、20世紀後半の内モンゴルにおける放牧地開墾問題の実態はどうだったか、その背景と要因は何であったか、放牧地開墾問題はモンゴル人地域社会に何をもたらしたか、さらに今日の内モンゴルにおいても生じている環境、漢化、自治区の自治権の低下、人口、言語教育など非漢民族の生存権問題と如何に関連しているのかなどについて考察した。 リンチン氏は、結論として、下記の事を指摘した。 第1に、「大躍進」運動では、農業地域か牧畜業地域かを問わず、内モンゴル地域では「農業を基礎にする」という方針のもと、「牧畜業地域の食糧と飼料の自給」という名目で、中華人民共和国建国以来最大規模の放牧地が開墾された。 第2に、「文化大革命」期間の「牧民はみずから穀物を生産すべき」のスローガンのもとで、内モンゴル生産建設兵団による2回目の大規模の放牧地開墾が行われた。しかし、その結果、食糧と飼料の自給が成し遂げられるどころか、むしろ穀物は減産したのである。 第3に、草原生態系への破壊的影響をもつ開墾により、放牧に利用できる草原の面積が縮小したため、牧民たちは生産手段でもある放牧地を失い、生活の困窮状態に陥った。 第4に、近年、北京、天津にとどまらず、はるか朝鮮半島、日本にまで猛威を振るっている「黄沙」の主な発生源は内モンゴルとされているが、そう簡単に結論づけることはできない。内モンゴルにおける環境問題は、実際このようは政治的・社会的・人為的要因があった。   SGRA会員、昭和女子大学国際学部国際学科教授のマイリーサ(Mailisha)氏の報告「観光化の中における文化伝承」は、甘粛省粛南ヨグル族自治県白銀モンゴル自治郷(1930年代に外モンゴルから河西回廊に移住したハルハ・モンゴル人の村落)における「伝統文化の担い手と継承のための工夫」の事例を検証した。言語や文化の消滅の危機にさらされている少数民族の生存戦略と、その潜在的な可能性について検討し、「民族風情園」など「中国的な見せる観光」における問題点を指摘し、たいへん興味深かった。   東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程ソルヤー(Suruya)氏の報告「フルンボイル地域における民族衣装の再創造――ダウル人を中心に――」は、日本における文化人類学の先端的な研究成果を吸収し、ホブズボウムとレンジャーの「伝統の創造」論を踏まえ、先行研究を批判的に参考にしながら、民族表象の問題として民族衣装に焦点をあてた。フィールドワークで得た成果に基づいて、ダウル人の民族衣装を中心に、内モンゴル・フルンボイル地域におけるモンゴル系サブグループの民族衣装が、20世紀以降、いかに衰退から「再生」へと発展してきたのか、それがフルンボイルのモンゴル系サブグループのアイデンティティの再構築とどのような関係をもっているかなどについて検討をおこなった。今日、ダウル人は伝統を取り戻そうと、その民族衣装を再構築し続けているが、そのプロセスにおいて、実際は、多くの伝統が失われ、また新たな「伝統」が生まれ続けていることなどを指摘した。   桐蔭横浜大学FIJ欧米・アジア語学センター非常勤講師ボヤント(Buyant)氏の報告「内モンゴルにおける土地紛糾の一考察」は、モンゴル人社会の現状を踏まえ、映像資料を含む第一次資料を用いて、2010年以降、内モンゴル地域で農民・牧畜民と地方政府の間で起きた土地・生態環境をめぐる紛糾を焦点に、さまざまな矛盾や葛藤を抱えている多民族国家中国の民族問題の現状について考察し、検討した。1978年に「改革開放政策」が提唱されて40年が経過した現在、少数民族地域におけるインフラ整備や資源開発、経済成長、党幹部養成等は目覚ましい勢いで進んでいる一方、「党国家」をおびやかす事件が多発し、少数民族をとりまく状況は急速に変わっている。氏の報告は刺激的であり、関心をもたらせた。   セッションの最後に、藍美華氏がセッション報告の成果をまとめ、今後の研究の展開について期待をかけた。   当日の写真     <ボルジギン・フスレ Borjigin_Husel> 昭和女子大学国際学部教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、昭和女子大学人間文化学部准教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編著『国際的視野のなかのハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2016年)、『日本人のモンゴル抑留とその背景』(三元社、2017年)他。        
  • 2018.10.25

    朱琳「AFC#4:SGRAセッション『東アジアのナショナリズムを再考する』報告」

    第4回アジア未来会議の一環として、私が企画責任者を務めるグループセッションが8月26日(日)午後にソウルのThe_K-Hotelで開催された。セッションのテーマは「東アジアのナショナリズムを再考する――日・中・韓の近代史からの問い」である。   今日、東アジア諸国の相互依存が一層深まる一方で、感情的摩擦が次第に表面化するようになった一面も否定できない。それは、それぞれ周辺文化への理解の未熟さや、「東アジア」という空間形成の歴史的経緯の軽視などに由来したところが多いと言えよう。そこで、文化のグローバリゼーション(光と影の両面)などに対応しうる「国民国家」というシステムのより広い文脈での位置づけ、および総合的な見通しが問われている。このような問いに検討を加えるために、狭義の一国史に限定することなく、「東アジア」という「場」を多様な文化が接触・連鎖する「舞台」として複眼的・動態的に認識し考察する必要があるように考えられる。 このような問題意識のもとで、今回は3名の発表者と2名の討論者を迎えてセッションを組んでみた。   まず、李セボン氏(延世大学比較社会文化研究所・専門研究員)は「儒者の視点から見た「文明」とナショナリズム――中村正直を中心に」という題で発表した。主に幕末から明治初期にかけて活動し儒学というレンズを通して西洋を見た中村正直(1832~1891)の思想を手がかりに、儒者のいう「文明」とナショナリズムの関係について考察している。   ついで、黄斌氏(早稲田大学地域・地域間研究機構・次席研究員)は「アジア主義・ナショナリズムとマルクス主義の狭間――李大釗の葛藤」という題で発表した。中国ナショナリズムの系譜を時系列に整理した上、その系譜の中に中国共産党の創立に参加した李大釗(1889~1927)の思想を位置づけ、その思想の変容および影響などを分析している。   3番目の発表者は柳忠煕氏(福岡大学人文学部東アジア地域言語学科・専任講師)であり、発表題目は「朝鮮知識人の戦争協力と〈朝鮮的なもの〉――尹致昊と李光洙を中心に」である。帝国日本の戦争遂行に協力した植民地朝鮮の知識人の政治的想像力とはどのようなものだったのかという問題提起を行い、尹致昊(1865~1945)と李光洙(1892~1950)の二人のそれぞれの戦争協力の理由と論理を明らかにし、〈帝国/植民地〉という状況における〈朝鮮的なもの〉の保存への試みとその逆説を解析している。   討論者として、平野聡氏(東京大学大学院法学政治学研究科・教授)と劉雨珍氏(南開大学外国語学院・教授)を迎えた。3名の発表内容について逐一、感想とコメントをされただけでなく、的確なアドバイスもいただいた。   セッションとして、必ずしも最初から意識していたわけではないが、結果的に明治・大正・昭和の3つの時期をカバーし、そして日・中・韓の3国の知識人の思想的葛藤と苦闘を凝縮的にそれぞれの発表に反映させたことになり、よくバランスがとれた。発表者と討論者に加え、聴衆も積極的に参加してくれたおかげで、大変濃密な議論の時間を過ごすことができた。   聴衆に福島大学のある教授がおられ、会議後、ここソウルでこんなに高いレベルの発表およびコメントを聞けるとは思わなかったという。この言葉を励みに、今後できればよりよい企画を提案できるよう協力していきたい。   *発表者、討論者、そして、何よりも渥美国際交流財団の関係者の方々のおかげで、セッションを成功裏に開催できたことを心より感謝申し上げます。皆さま、本当にどうもありがとうございました!   当日の写真   <朱 琳(シュ・リン)ZHU_Lin> 東北大学大学院国際文化研究科准教授。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。専門はアジア政治思想史。     2018年10月25日配信  
  • 2018.10.11

    金キョン泰「第3回『国史たちの対話の可能性』円卓会議報告」

    (第4回アジア未来会議円卓会議報告)   2018年8月25日から26日、ソウルのThe_K-Hotelで第3回「国史たちの対話の可能性」円卓会議が開かれた。今回のテーマは「17世紀東アジアの国際関係ー戦乱から安定へー」で、「壬辰・丁酉倭乱」と「丁卯・丙子胡乱」という国際戦争(戦乱)や大規模な戦乱を取上げ、その事実と研究史を確認した上で、各国が17世紀中頃以降いかに正常化を達成したかを検討しようという趣旨であった。各国が熾烈に争った戦乱と、相互の関係を維持しながらも、各自の方式で安定化を追求した様相を一緒に考察しようとしたのだ。 8月24日夕方のオリエンテーションでは国史対話に参加する方々の紹介があり、翌朝から2日間にわたって熱い議論が繰り広げられた。三谷博先生(跡見学園女子大学)の趣旨説明に続いて、趙珖先生(韓国国史編纂委員会)の基調講演があった。17世紀に朝鮮で危機を克服するために起きた数々の議論を参照しながら、17世紀のグローバル危機論の無批判的な適用を避けて、東アジア各国の実際の様相を内的・外的な観点から包括的に検討すれば、3国の歴史の共同認識に到達できると提言した。   第2セッションの発表テーマは「壬辰倭乱」だった。崔永昌先生(国立晋州博物館)は「韓国から見た壬辰倭乱」で、韓国史上の壬辰倭乱の認識の変化過程を具体的に分析した。鄭潔西先生(寧波大学)は「欺瞞か妥協か―壬辰倭乱期の外交交渉」で、従来は「欺瞞」と解されていた明と日本の講話交渉について再検討し、明と日本の交渉当事者が真摯に事に当っていたことを明らかにした。また、豊臣秀吉は講話交渉のなかで日本を明の下に、朝鮮をまた日本の下に位置させようとして朝鮮の王子などの条件を提示したが、明はそれを拒否したと報告した。荒木和憲先生(日本国立歴史民俗博物館)は「『壬辰戦争』の講和交渉」で、壬辰倭乱後の朝鮮と江戸幕府との間の国交交渉における対馬の国書偽造とこれを黙認した朝鮮の論理に注目した。壬辰倭乱というテーマは3国ですでに多くの研究が蓄積された分野であり、対立点も比較的に明確である。各国の史料に対する相互の理解が高まっているので、今後、より実質的かつ発展的な議論が期待されている。   第3セッションの発表テーマは「胡乱」だった。許泰玖先生(カトリック大学)は「『礼』の視座から見直した丙子胡乱」で、朝鮮が明白な劣勢にあっても清と対立(斥和論)した理由を、朝鮮が「礼」を国家の本質と信じていたことによると分析した。鈴木開先生(滋賀大学)は「『胡乱』研究の注意点」で、韓国の丙子胡乱の研究で「丁卯和約」と「朴蘭英の死」を扱う方式について紹介し、史料の重層性と多様性を理解するために利用できる事例とした。祁美琴先生(中国人民大学)は「ラマ教と17世紀の東アジア政局」で、清朝が政治的混乱を収拾していく過程でラマ教を利用しており、ラマ教もこれを利用して歴史の主役になれたことを明らかにした。清朝が中原を支配する過程で当時存在したいくつかの政治体や宗教体の実情も視野に入れなければならないという事実を再認識させてくれた。 本テーマは、倭乱に比べて3国間共同の対話が本格的に行われていない分野であると思う。史料の共有と検討はもちろん、3国の思想(あるいは宗教)にも大きな変動をもたらした事件として、一緒に議論する部分が多い研究分野と考えられる。   第4セッションの発表テーマは「国際関係の視点から見た17世紀の様相(社会・経済分野を中心に)」だった。牧原成征先生(東京大学)は「日本の近世化と土地・商業・軍事」で、豊臣政権後、江戸幕府に至る財政制度と武家奉公人の扱いの変動を分析した。変化の起きた点を明快に指摘し、専門でない人でも容易に理解することができた。崔ジョ姫先生(韓国国学振興院)は「17世紀前半の唐糧の運営と国家の財政負担』で、壬辰倭乱当時、明の支援に対する軍用糧食を意味した「唐糧」が、「胡乱」を経て租税に変化する様相を具体的な分析を通じて説明した。趙軼峰先生(東北師範大学)は「中朝関係の特徴および東アジア国際秩序との繋がり」で、「東アジア」と「朝貢体制」という概念について問題を提起して、本会議が対象としている17世紀以降の韓中関係の特性を紹介し、該当の概念語に対する代案が必要であることを提言した。 政治の動きの下にあって社会を動かす根元、社会・経済に対する関心は、本主題の発表者相互間はもちろん、他のテーマを担当した発表者や参加者たちも積極的な関心を示した分野だった。政治と同様に各国の経済構造は相当な差異を見せるという事実を確認し、これも今後の「国史」間の活発な交流が期待される分野であることを確認した。   セッション別の相互討論と、第5セッションの総合討論では、発表者が考える歴史上から具体的な論点まで多様な範囲の質疑応答が続いた。より熱烈な討論を期待した方たちが物足りなさを吐露したりもしたが、これは決して発表会が無気力であったという意味ではないと考えている。「国史」学者たちが自分の意見を強調する「戦闘的」討論から、外国史の認識を蓄積しつつ、さらに一段階上のレべルに進み始めたことを証明するものだったと思う。   また、「公式討論」の他に、他の国の異なる様相を理解して、その根源がどこにあるか再確認しようとする個別の討論があちこちで行われていたことを目撃した。そして、研究者間の個人的な交流も不可欠であるという考えを持つようになった。 3国の参加者たちが定められた発表と討論時間外にも長時間、共に自由に話し合う時間が必要だと思った。もちろん現実的には仕事が山積の状況で、さらに長い時間を一緒に過ごすのは難しいだろうが、3国以外の土地で会議を開催したり、オンラインを通じた持続的な対話をしたりして、問題意識の共有を進める方式も有効であろう。 また、今までの対話を通じて、自分の専門分野がもつ独特の用語や説明方式に固執せず、これを他の専門分野の学者にどうすれば簡単に伝えられるか、さらに、一般の人たちも理解できるようにする方式を考える必要があるという気がした。筆者もまた同じ義務を持っている。   3回の「対話」に参加しながら、ずっと感じるのは、言語の壁が大きいという事実だった。3国は「漢字」で作成された過去の史料を共有することができるという長所を持っている。歴史的にも近い距離で共通の歴史的事件をともに経験した。互いに使用する史料では疎通できるが、史料に根拠した自分の見解を伝えて相手の意見を聞くには「通訳」という手続きを経なければならなかった。3国の研究者たちがお互いの問題意識を認識してこれを本格的に論議を始める直前に会議の時間が尽きたような惜しい気持ちが残ったのは事実である。   しかし、多大な費用と努力を傾けた同時通訳は確かに今回の3国の国史たちの対話に大きく役立った。十分ではないが、2回目に比べて1歩、1回目に比べて2歩前進したという感じがした。 対話の場を作っていただいただけでなく、言語の障壁を少しでも低めるための努力をしてくださった渥美国際交流財団に感謝する。当初より5回で計画されている「対話」だが、その後も、たとえ小規模でもさらに踏み込んだ対話を交わすことができる、小さいながら深い「対話の場」が随時開かれることを期待する。   韓国語版報告書   会議の写真   関連資料 *報告書は2019年春にSGRAレポートとして3言語で発行する予定です。   <金キョンテ☆Kim Kyongtae> 韓国浦項市生まれ。韓国史専攻。高麗大学校韓国史学科博士課程中の2010年~2011年、東京大学大学院日本文化研究専攻(日本史学)外国人研究生。2014年高麗大学校韓国史学科で博士号取得。韓国学中央研究院研究員を経て現在は高麗大学校人文力量強化事業団研究教授。戦争の破壊的な本性と戦争が導いた荒地で絶えず成長する平和の間に存在した歴史に関心を持っている。主な著作:壬辰戦争期講和交渉研究(博士論文)       2018年10月11日配信  
  • 2018.10.04

    第4回アジア未来会議 東南アジア宗教間の対話円卓会議「寛容と和解-紛争解決と平和構築に向けた宗教の役割」報告

    2016年秋の第3回アジア未来会議での円卓会議「東南アジア宗教間」の対話では、グローバリゼーションに翻弄される東南アジア各国の諸課題への宗教の対応が議論された。 この時に、重要なトピックの一つとして提示されたのが、宗教間の「対立と和解」であった。今回、2018 年8月24日から28日までソウルで行われた第4回アジア未来会議では、「寛容と和解」をテーマとして円卓会議「東南アジア宗教間の対話『寛容と和解-紛争解決と平和構築に向けた宗教の役割』」を開催した。   対立や紛争では、その原因が政治経済的な課題であるにもかかわらず宗教の対立としての様相を帯びることが多い。宗教が民族や集団の基層文化のなかに深く根ざしているからにほかならないからである。民族、宗教のモザイクといわれる東南アジアにおいても、その傾向が顕著に表れ、対立が暴力的な宗教間の紛争に至ることも少なくない。   しかし、その一方で東南アジアでは、平和的な手段により対立や紛争を解決した事例も多く、和解に至るプロセスの経験も蓄積され始めている。今回の円卓会議では、東南アジア及び日本在住の宗教者、宗教研究者が集い、タイ、ミャンマー、インドネシア、ベトナム、フィリピンにおける紛争解決、平和構築の経験、事例をベースとして和解、平和構築に向けた宗教および宗教者の役割を探った。   【各国からの事例発表】(円卓会議は英語で行われた)   発表1:タイ Vichak_Panich(Vajrasiddha_Institute_of_Contemplative_Learning) “Buddhism_of_the_Oppressed:_Restoring_Humanity_in_Thai_Buddhist_Society” 「虐げられし者達の仏教へ−タイ仏教に人間性の回復を」   発表2:ミャンマー Carine_Jaquet(The_Research_Institute_on_Contemporary_Southeast_Asia) “Brief_Report_on_the_Situation_of_Rohingya_People” 「報告−ロヒンギャの人々の現状」   発表3:インドネシア Kamaruzzaman_Bustamam-Ahmad(Ar-Raniry_State_Islamic_University) “The_Dynamics_of_Muslim_Society_in_Aceh_after_Tsunami” 「津波災害後のアチェのイスラム社会のダイナミズム」   発表4:ベトナム Emmi_Okada(The_University_of_Sydney) "Reaching_Beyond_the_Religious_Divide_for_Peace: The_Experience_of_South_Vietnam_in_the_1960s" 「平和と宗教の分断を超えて−1960年代の南ベトナムの経験から」   発表5:フィリピン Jose_Jowe_Canuday(Ateneo_de_Manila_University) "Muslim_and_Christian_Dialogues_in_the_Southern_Philippines: Enduring_Grassroots_Inter-religious_Actions_in_a_Troubled_Region” 「南部フィリピンのイスラム教とキリスト教の対話−試練に耐える紛争地域におけるグラスルーツの宗教間対話の試み」   (文責:角田英一)     ◆小川忠「第4回アジア未来会議円卓会議『東南アジア宗教間の対話』に出席して」   会議テーマは「異なる宗教間」の対話であったが、「同じ宗教内」での対話こそ必要とされている。これが、今回の会議に出席して強く感じたことだ。   監修者の島薗進先生が会議冒頭で述べられた通り、世界中で宗教復興ともいうべき現象が顕著になっている。多様な宗教が混在する東南アジアも例外ではない。そして「イスラム過激派テロ」「ロヒンギャ問題」「ミンダナオ紛争」等日々接する東南アジア報道から、冷戦終結直後に政治学者ハンティントンが提起した通り、宗教を基盤とする文明が互いに対立し、流血を生んでいるかの如き印象をもってしまう。特にイスラム教については、その狂信性、好戦性ゆえに対立、暴力を拡散させているというイメージが、世界中に拡がっている。   しかし、イスラム教、仏教、キリスト教と様々な宗教的背景をもつ本会議出席者たちは、「宗教紛争」とされるものの多くは、植民地支配の負の遺産、国民国家建設の失敗、政治権力の宗教動員等によるものであって宗教が根本原因ではない、と指摘した。さらにイスラム教のみならず、平和的な宗教とされる仏教においても、排外的ナショナリズムと結合し他宗教に対する敵意を煽る強硬派が次第に勢力を拡大している。   そしてイスラム教、仏教内部において、政教分離を拒否し宗教とナショナリズムの結合を目指す動きが強まっている一方、これに抗し、宗教を政治から切り離し一定の距離を置き人権、民主主義を育てていこうというリベラル派が存在することも浮き彫りにされた。両者の亀裂が深まっているのが昨今の状況だ。それゆえに同一宗教内の対話が重要なのである。   対話の鍵を握るのは、宗教教義を「解釈する力」である、という指摘もあった。同じ宗教のなかにも相反する教義が存在する。宗教の有する多面性を理解した上で、今日の世界にあう創造的な解釈力が、それぞれの宗教において求められている。   グローバリゼーションが宗教にもたらしている衝撃も議論となった。グローバリゼーションとは、欧米発の情報、文化、価値観が世界中に拡がり、世界の画一化が進行するというイメージがあるが、ことはそれほど単純ではない。グローバリゼーションには様々な潮流が存在する。中東発のワッハーブ主義、サラフィー主義という厳格化、原理主義的イスラム思想が、インドネシアのアチェ他東南アジアで影響を強めている状況が報告された。   そしてグローバリゼーション時代に発達したソーシャル・メディアが、国境を越える大量の情報流入を東南アジア地域にもたらしている。それは国際的な対話と相互理解を育む機会を増大させるとともに、テロを煽る過激組織プロパガンダの影響力拡大にもつながっている。またグローバリゼーションに反発する排外感情の高まりという副作用も看過できない。ソーシャル・メディアは世界の平和にとって諸刃の刃のような存在、という見方が参加者のあいだで共有された。   各報告を聞くにつけ、東南アジア各国において宗教と社会の関係は多様かつ複雑であり、それを一般化して語るのがいかに危険であるかを再認識した。また対立から和解への道のりが容易ではない、とも感じた。しかし、ミンダナオの事例報告で述べられた通り、平和的手段により紛争を解決しようという模索がこれまで何度も試みられ、そのなかで和解に至る経験も蓄積され始めている。今できることを一歩一歩進めていくしかない。   多様な宗教的背景をもった東南アジアと日本の知識人が虚心坦懐に議論する場はありそうで実はさほど多くない。そうした貴重な機会を提供してくれた主催者の渥美国際交流財団関口グローバル研究会の見識に敬意を表し、感謝したい。   <小川 忠(おがわ・ただし)OGAWA_Tadashi> 2012年早稲田大学大学院アジア太平洋研究科 博士。 1982年から2017年まで35年間、国際交流基金に勤務し、ニューデリー事務所長、東南アジア総局長(ジャカルタ)、企画部長などを歴任。2017年4月から跡見学園女子大学文学部教授。専門は国際文化交流論、アジア地域研究。 主な著作に『ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭 軋むインド』(NTT出版)2000、『原理主義とは何か 米国、中東から日本まで』(講談社現代新書)2003、『テロと救済の原理主義』(新潮選書)2007、『インドネシア イスラーム大国の変貌』(新潮選書)2016等。   英文の報告書(English Version)   円卓会議の写真       2018年10月14日配信  
  • 2018.09.27

    エッセイ579:ボルジギン・フスレ「ハバロフスクの旅」

      溥儀のシベリア抑留に関する調査のため、7月中旬にハバロフスクに行った。ロシアには何度も行ったことがあるが、ハバロフスクは初めてであった。今回の調査は、有名な言語学者で、ロシア語が堪能なK先生に同行した。   アシアナ航空が1時間以上も遅延したため、仁川空港に着いたのは7月11日の夜であった。空港内のホテルで一泊して、ロシアのオーロラ航空に乗り換えて、ハバロフスクに着いたのは12日の午後であった。アシアナ航空も、オーロラ航空も、ビールやワインなどアルコール類の飲み物を提供しないため、宿泊先のSopkaホテルでシャワーを浴びた後、すぐK先生と一緒に街に出て、ビールを売る店を探した。   ロシア人は親切だ。2人に道を尋ねたら、ともに「“栄光広場”を通って、坂を登り、ツルゲーネフ通りを通って、レーニン通りに沿ってまっすぐ行くと、曲がり角に赤い屋根のスーパーがある。そのスーパーはビールを売っている」と丁寧に教えてくれた。 言われた通りに10分間ほど歩いたら、赤い屋根のスーパーを見つけた。このスーパーには輸入品が多く、日本製のお菓子やチップスなども売っていた。K先生の薦めに従って、ドイツ製とオランダ製のビールを1種類ずつ購入した。K先生は2種類の干し魚とアーモンドなども購入した。   ホテルに帰る途中、栄光広場を通ったところ、「ここで飲もうよ。景色もいいし、空気もいい」とK先生が言った。「そうですね」と、その場で飲もうと思ったが、K先生が広場の「大祖国戦争犠牲者慰霊碑」と「永遠の炎」を指さしながら、「彼らには見せたくない。あっちにしよう」と言った。そして、2人は一緒に広場の端っこの、「永遠の炎」が見えない一角に座り、ビールを開けた。 ビールも、干し魚も本当に美味しかった。これまでさまざまな干し魚を食べたことがあるが、ここで食べたものが最も美味しかった。ホテルで夕食を終えて、2人は一緒に翌日の日程などを確認した。   翌日、朝食の後、K先生と一緒に、タス通信の報道も含む、手元にある溥儀に関する資料をホテルのフロントに見せながら、ロシア語と英語を交えて話し合った。目的地はクラースナヤ・レーチカ(中国で“紅河子”)――かつて溥儀や日本人の一部の将官が収容されたところで、今は「皇室通り」と命名されている。フロントは親切にいろいろなところに電話をかけて、場所を確認し、タクシーも予約してくれた。モスクワやサンクトペテルブルク、カザン、ウラン・ウデなど、ロシアのいろいろな所に行ったが、どこのホテルも英語の堪能なスタッフがいる。   タクシーに乗って、皇室通りを目指して走った。30分後、ハバロフスクから21キロほど離れたところの「村」、いいえ、今では立派なリゾートとなったリヴイエラ・ホテルに着いた。 ウースリ川に面するこのリゾートにはリヴイエラ・ホテルのほかに、皇宮ホテル、ウースリ・ホテル、青年ホテル、快適ホテルなども建てられ、ロシア料理のほかに、中華料理やアルメニヤ料理、ウズベキスタン料理などを経営するさまざまなレストランがある。また、スポーツ館や映画館、ミニゴルフ場、バトミントンコート、プール、ビーチ、こども園、スケート場やスキー場などがあり、パンフレットや看板などはすべてロシア語・中国語対照で書かれている。   「溥儀の旧居」と尋ねたら、すぐリゾートの西側の皇宮ホテルに案内された。訪れて見たら、2階建ての建物である。スタッフ(管理人?)が1人だけ。その人に1階の溥儀皇帝「博物館」に案内された。入場券は一人100ルーブルである。ホテルの宿泊者は無料で入れる。入ってみたら、狭い室に溥儀がシベリアに抑留された1945~50年の年表や、溥儀が書いた絵とノート、皇后ゴブロ・婉容(Wanrong,1906~46年)の弟で、溥儀の妹婿にもなった潤麒(Runqi,1912~2007年)が書いた絵、溥儀の東京裁判での証言、中国から送った皇室のテーブルや椅子などが展示されている。溥儀と潤麒が書いた絵やノートなどが見られたのは、意外な喜びだ。 しかし、この建物は、手元の資料やタス通信の報道の内容と異なっていることに気が付いて、スタッフに確認した。「溥儀はハバロフスクでいくつかのところで生活していた。ここはそのなかの1つだ」と、溥儀はここに住んだことがあることを強調した。   K先生としつこく、リゾート内で探してみた。この建物は「皇室通り3号」に位置している。タス通信の報道では、溥儀の旧居は「皇室通り5号」になっている。リゾート内を2回も回ってみたが、皇室通り5号というところは見当たらなかった。 皇宮ホテルに近いリゾートの出口で、守衛室のスタッフの中年の女性に尋ねたところ、「入場料を払ったか。100ルーブルだ」と言われた。なるほど、リゾートに入るのに、入場料を支払わなければならないのだ。その時、K先生がその女性に、「彼(フスレ)は皇后の親戚で、われわれは日本から溥儀皇帝の遺跡を探しに来たのだ」と説明すると、その女性の態度が一変し、私と握手して、「どうぞ、どうぞ」と言い、入場料が免除された。実は、私の上の姉は身体障碍者で、その夫は皇后ゴブロ・婉容の従弟郭文通(満洲国軍少将)の息子である。親戚と言えば親戚である。「皇室通り5号はどこにあるのか」と聞いたら、その女性は「むこうだよ」と、リヴイエラ・ホテルのほうを指さした。   K先生と「皇室通り5号」を探し続けた。なかなか見当たらない。疲れたころ、リヴイエラ・ホテルの外側に聳えているコンクリートの監視哨らしい建物が目を引いた。タス通信の資料と合わせて見たら、「あそこだ」と、私は興奮してK先生に言った。 2人は急いでリゾートを出た。そこで、やっと気が付いた。リヴイエラ・ホテルの外側の壁には「皇室通り5号」の看板があり、そのとなりに、溥儀が収容されていた2階建ての木造の建物とコンクリートの高い監視哨がある。収容所というより、別荘のような建物だ。ここは工事中で、入り口には「立ち入り禁止」の看板が掛かっている。私はカメラを出して、シャッターを押し続けた。工事をしている大工のリーダーらしい年配の方が私に手を挙げて、「中に入っていいよ」と言った。 それを聞いて、喜んでK先生と一緒に敷地の中に入った。さまざまな角度からこの溥儀の旧居と監視哨の写真を撮り続けたところ、突然、木造の建物から厳しい顔をしている痩せた中年の男性が出てきて、たいへん怒って、「ここは立ち入り禁止だ。撮影も禁止だ。どうやって入ってきたのだ。画像を消して、出て行って」と私たちを叱った。そこで、K先生は、その方に挨拶して、「私達は日本から来た」、そして私を指さしながら、「彼は皇后の親戚で、われわれは溥儀皇帝の遺跡を探しに来たのだ」と説明した。それを聞いたその方は、私に握手を求めながら、「ここは立ち入り禁止だ。撮影も禁止だ。写真を消さなくてもいいが、これ以上撮るな。早くここから出て行ってください」と言った。 そこを離れて、リヴイエラ・ホテルのなかのバーに入った。溥儀の旧居を確認できたことで、K先生は高級ヴォッカを注文し、私はビールで、2人は乾杯した。   午後、タクシーで、いったん、Sopkaホテルに戻った。その後、再び街に出て、散策をした。K先生は元気だ。84才の高齢にも関わらず、アムルースキー並木通りなどを回って、青年同盟広場にあるウスペンスキー大聖堂まで、2時間も歩き続けた。 2人は青年同盟広場の傍にある香港レストランで夕食をした。中年と年配の客もいれば、若者も少なくない。ディスコやワルツの曲が流れ続け、皆飲んだり、踊ったりしていた。30分もたたないうちに、K先生はとなりのロシア人のグループと合流した。84才の高齢で、ロシア人のおばさんたちと、飲んだり、踊ったりした。私も何度も誘われたが、踊る勇気はなく、最後まで断った。   夜のハバロフスクの街はロマンティックな雰囲気に包まれていた。   14日はまず、ハバロフスク軍事史博物館に行った。途中、スパソ・プレオブラジェンスキー大聖堂とハバロフスクの港にも訪れてみた。ハバロフスクのこの港はウースリ川を通して、中国の撫遠県との間を毎日1回、客船が6隻ずつ(中国から6隻、ロシアから6隻)往復の運航を行っている。 せっかくハバロフスク軍事史博物館が見つかったが、なんと閉館、しかも閉館は2年間も続いていることが分かった。館内の工事はしていないが、博物館の外側では増築の工事をしている。そのとなりの青年同盟広場には新たに建てられた記念碑が聳えており、その一角に日本人抑留者の姿も刻まれている。   その後、ハバロフスク郷土史博物館を見学した。ここには、ハバロフスクの自然・歴史・民俗・宗教・科学研究の成果・スポーツ・対外交流など、複数の展覧室を設けており、溥儀の通訳を務めたことのあるG.G.ペルミコフを記念するコーナーやハバロフスク裁判のコーナーも設けている。溥儀のハバロフスク抑留におけるいくつかのことを再度確認できた。   その後、ウースリ川に面する展望台に行ってみた。ここには大勢の中国人や韓国人の観光客が集まっていた。展望台の隣に、ロシア語・朝鮮語が刻まれている記念碑があり、朝鮮労働党中央委員会総書記金正日が2001年8月17日にこの展望台を訪れたと書かれている。実は、ハバロフスクは北朝鮮と密接な関係がある。第2次世界大戦期、ここにはソ連の援助を受けている朝鮮人のゲリラ部隊があった。今、この街には、キム・ユー・チェン通りと命名された道がある。 展望台を後にして、Intourist_Hotelを探しに行った。K先生が最初にハバロフスクに来たのは1968年であり、当時宿泊したのはこのホテルであった。しかし、ホテルは見つかったものの、K先生にとって、それは見る影もなく、完全に変わっていた。その後、K先生の思い出を探すため、2人はムラピョフ・アムールスキー通りに沿って、レーニン広場まで歩き続けた。   ハバロフスクに滞在した3日間に、たくさんの中国人や韓国人の観光客を見かけたが、日本人の観光客にはあまり出会えなかった。第2次世界大戦終結後、多くの日本人がハバロフスクに抑留され、ここには日本人墓地があり、また日本領事館も設けられている。   15日、朝食の後、ハバロフスク空港に行った。チェックインの手続きが煩雑で、かなり時間がかかった。その後の安全検査は、非常に厳しく、金属探知機が反応はなかったけれども、ポケットの底まで調べられた。私が安全検査を終えたところ、ちょうどK先生がとなりの冂型の探知機を通ってきて、赤信号が光って、警報が鳴った。中年の女性の検査員が携帯用の金属探知機でK先生の腰をさしながら、ロシア語で「○○を開けて下さい」と言った。K先生は、はっきり聞こえなかったせいなのか、微笑みながら自分のベルトを開けて、ズボンを脱いだ。それをみた女性の検査員はたいへん困ったようで、慌てて、大声で「ズボンを履いて下さい」と言った。それを見た周りの人もみんなびっくりしたようで戸惑っていた。 「君が“開けて下さい”と言ったじゃない。僕が脱ぎたいわけではないよ。君が“開けて下さい”と求めたのだから」とK先生がロシア語でそのように返した。 「“ポケットを開けて下さい”。ズボンじゃないよ。はやくズボンを履いて、ポケットを開けて下さい」と女性の検査員はなかなか落ち着かない。 周りの人はみんなやっと事情がわかって、笑った。 「そうか。ポケットか。はっきり言おうよ」と、K先生は淡々と、ズボンを履いた。 ポケットを開けたら、ハンカチなどはあったものの、金属らしいものはなかった。 「危険物が発見されなくて、残念だね」とK先生が冗談を言った。 結局、安全検査はこのように「無事」、済んだ。   空港の2階には免税店とコーヒー屋がある。K先生は免税店にはまったく興味がなく、コーヒー屋で1200ルーブル(約2000円)で187mlの高級ワインを購入した。私は600ルーブル(約1000円)で缶ビール1本を購入した。仁川空港のワインとビールも高かったが、ハバロフスク空港のビールは私が訪れた空港のなかで、最も高い気がする。 「ロシアが空港のお酒の値段をこんなに高くしているのは、ロシア人に飲ませない考えだ」とK先生は言った。 私は「空港で酔っ払いを防ぐために、こうしたのでしょう」と言おうと思ったが、黙ったままにした。   「これは本当に美味しい」と、K先生は満足そうにワインを堪能しながら、今回のハバロフスクの旅についての感想をいろいろと語った。その間、K先生は、突然、 「生命は自然がつくったもののなかでもっとも美しいものだ」と言い出した。 「どういうこと?」 「ゲーテの言葉だ」とK先生は、壁に飾ってあるポスターを指さしながら、言った。 それはハバロフスクの空港の広告だった。ドイツの大文豪ゲーテの名言を借りて空港のキャッチフレーズにするのは、ロシアらしいと思う。 免税店でワインを購入して、K先生にプレゼントした。 シベリア航空567便は定刻通りに東京に向かった。   ハバロフスクの写真   <ボルジギン・フスレ Borjigin_Husel> 昭和女子大学国際学部教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、昭和女子大学人間文化学部准教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編著『国際的視野のなかのハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2016年)、『日本人のモンゴル抑留とその背景』(三元社、2017年)他。     2018年9月27日配信
  • 2018.09.20

    エッセイ578:謝志海「定点観測のすすめ」

      インターネットとスマートフォンが当たり前にある昨今、この2つがあればどこにいても一瞬にして大量の情報を得られるようになった。一方で情報の質と正確さも問われるようになり、我々は溢れかえった情報から本物で質の高い情報を集めることが大切になってきた。そこで思うのは、やはり自分の身体を動かし自分の目と耳で情報を集めること。国際関係を専門とする私にとっては、身体を使ってとなるといろんな国を飛び回ることになる。それはどう考えても難しいのだが、やってのけている人もいるのだ。   その方は一言では肩書きを説明しきれないのだが、多摩大学の学長を務める寺島実郎氏である。彼のインタビューや彼の本を読むと繰り返し出てくる言葉がある――「定点観測」。テレビでよく見かける方なので、正直私は世界を飛び回っているイメージが無かったのだが、彼はアメリカ、イギリス、中東などの国々と都市を毎年同じ時期に訪ね、その場所にいる友人やキーマンから直接話を聞いている。現地で自身が見たもの聞いたもの感じたものこそがまさに「本物」の情報であり、東京でスマートフォン片手に情報検索して、この情報は信憑性があるのか?誰が書いたのか?など検証している時間よりもずっと早くて有意義なのではないかという気がしてくるのだ。   私も今年の春、かつて生活していた北京へ6年振りに行ったのだが、あいた口がふさがらないとはこのことで、変わり果てていた。日本に居てテレビでよく目にする最近の中国と言えば、例えば池上彰氏が教える中国では、すべてをスマートフォンで決済している街の人たち、車のライドシェアやレンタルサイクルといったシェアエコノミー、そして電気自動車の発達と、もしかしたら日本より進んだテクノロジーで便利な暮らしに見えるかもしれない。その実はというと、街は混沌としていた。私が住んでいた時よりも随分と伸びた地下鉄の駅も地上に上がれば、シェアサイクルの自転車が乱雑に積み上げられていて、歩道を占領している。まだ日本には進出していないライドシェアが一般的になっている割には一日中ひどい渋滞。   タクシーの運転手が言うには、スマートフォンを使ってどこでも配車手配が出来るようになったはいいが、ドライバーと手配した人との場所の行き違いなどもあり、余計な混雑を起こしているケースもあるそうだ。シェアエコノミーが発達しているようで、経済の発展により増えている車。中国では車の所有、特に輸入車に乗ることはまだまだ富の象徴であるのだ。北京の交通渋滞は日本でも有名だが、スマートフォンアプリで何でも出来るという便利さに都市の秩序が追いついていないのではないか?上海には年に一度は仕事で訪れていたのだが、北京という街には大層驚き、中国に関しては年に一度の定点観測では見逃しが多いということと、一つの都市だけを訪れるだけではいけないことを痛感したのであった。   そして現在、群馬県に住む私は東京へは、週に一度の講義や学会などで度々足を運ぶのだが、2020年のオリンピックへ向けて刻々と変わってゆく東京を体感することができる。タクシーが変わる、都心のバスにはオリンピックのキャラクター。そして何より、街中は英語に加え中国語(しかも簡体字と繁体字の両方!)と韓国語の表示が増え国際都市へ一途に向かっているなあと思うのである。東京に住んでいたままだったらあまり感じなかった事なのだろうか?   私は出来る限り自分が専門とする分野に関係する場所、興味がある場所には自分で行き、歴史が変わる様、潮目の変わりを見逃すことのないようにしたいと思う。「定点観測」というと、この有名なスピーチを思い出さずにはいられない。おそらくすでに星の数ほど引用されているであろう、故スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学における2005年の卒業式でのスピーチの後半:「先を見て点をつなぐことはできない。振り返ってそれらをつなぐことしかできない。だからあなた自身が将来なにかしらの形で点がつながると信じること。何かを信じること。」自分が信じた点へ赴き、点を増やし、今後の研究や授業に活かしたいと強く思うのだ。   英訳版はこちら   <謝志海(しゃ・しかい)Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学准教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師を経て、2017年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2018年9月20日配信
  • 2018.09.06

    李彦銘「第11回SGRAカフェ『日中台の微妙な三角関係』報告」

    7月28日(土)、台風の中で開催された今回のカフェは、テーマが「日中台の微妙な三角関係」であった。カフェの途中から大雨に見舞われ、中庭でのBBQを断念せざるをえなかったが、その分の時間を講演後の質疑応答に回すことができ、濃密な2時間を30人弱という参加者で共有できた。   講師を務めたのは、「辺境東アジア」アイデンティティという概念を考案された林泉忠先生(現在中央研究院近代史研究所副研究員)で、元渥美財団の奨学生でもあった。まず、今西淳子代表からSGRAカフェ開催の経緯の説明があった。卒業し各専門分野で活躍している奨学生と気楽にお互いの専門の話を、忌憚なく共有するというのが最初にカフェを開催した目的/きっかけとのことだった。   今回の講演のキーワードは「微妙な三角関係」であるが、その「微妙さ」、特に常に日台関係の懸念材料になる「中国要因」をよりよく理解するために、講師はまず歴史、つまり日清戦争の結果としての台湾植民地化から話を始めた。大陸から切り離された台湾島という地域では、大陸と異なるアイデンティティ形成・近代的国民国家(nation_state)を経験していたことが強調された。さらにその後の日中戦争とその結果としての国民党敗北・台湾入りも、大陸の共産党政権に対するイメージ形成、台湾内部の亀裂(本省人・外省人)につながっていったことなど、現在になっても、歴史は相変わらず中・台の異なる対日認識の根源であると言及した。その後は、戦後「日中関係」(日本と中華人民共和国および日本と中華民国)の形成や、日中国交正常化をきっかけに構築された「72年体制」、日中関係における「台湾問題」の歴史変遷を説明しつつ、中国政府が日台関係に常に多大な関心を払う主な要因をまとめた。つまり、中国政府にとっては、台湾はいまだに未統一の領土で、近代国家の建設にとって必要不可欠な一部であり、政権の正統性の中核にも関わる問題である。   そのうえで、近年の日台関係の主な動向とその懸念材料になる「中国要因」に話が移り変わり、日中台という三角関係のこれからが展望された。特に2013年以来は、日中関係の硬直化と同時に、日台の政治関係の強化が見受けられた。しかし中国政府は自国の実力増強と共に、一方でかつてほどない寛容な態度を示し、もう一方では注意深い警戒を示し、蔡英文政権により強硬な態度で圧力をかけ続けている。このようなアプローチは、台湾のさらなる日米接近をもたらすだろう。しかし中国政府と日米の政治的約束を破ることも決して簡単ではなく、この「微妙」な関係と複雑な駆け引きは今後も続くという結論にたどり着いた。   質疑応答では、もっぱら現実問題に集中していたが、なかでは例えば中国政府による国際社会での「台湾人いじめ」はいつまでなのかなど、専門的な質問というよりは一般人の生活感覚からの質問なども出てきた。このような感覚が生まれたことは、やはり、中国側の政策決定の基盤となる台湾社会への理解が十分ではないことをよく反映しているといえよう。また元外交官や、経済交流の実務家などオーディエンスからも自らの体験・展望が語られ、講師の議論を大変有機的に補完した。   その後は、BBQを楽しみながら講師と参加者の歓談がしばらく続いた。SGRAカフェの参加者の数は増えてきたが、多様な知見を気楽に忌憚なく共有するというモットーは、しっかり受け継いでいるようである。   当日の写真   英訳版はこちら   BBQの様子は下記リンクをご覧ください。 ◇趙秀一「真夏のBBQ」   <李彦銘(リ・イェンミン)LI_Yanming> 専門は国際政治、日中関係。北京大学国際関係学院を卒業してから来日し、慶應義塾大学法学研究科より修士号・博士号を取得。慶應義塾大学東アジア研究所現代中国研究センター研究員を経て、2017年より東京大学教養学部特任講師。     2018年9月5日配信
  • 2018.08.31

    第4回アジア未来会議報告

    2018年8月24日(金)~28日(火)、韓国ソウル市のThe_K-Hotelにおいて、21ヵ国から379名の登録参加者を得て、第4回アジア未来会議が開催されました。総合テーマは「平和、繁栄、そしてダイナミックな未来」。朝鮮戦争の後、韓国は絶え間ない努力と海外からの多大な援助によって「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を遂げました。歴史的経験から、開発にともなう苦痛や悩みをよく理解している韓国のソウルで開催されたこの会議が、これからのアジアの「平和と繁栄、そしてダイナミックな未来」に寄与することを願って、広範な領域における課題に取り組み、基調講演とシンポジウム、招待講師による円卓会議、そして数多くの研究論文の発表が行われ、国際的かつ学際的な議論が繰り広げられました。   アジアだけでなく世界各地から参加者が到着予定の8月24日(金)は、韓国では6年ぶりという台風19号がソウルを直撃するという予報が早くからだされ、東南アジアからの便が数本キャンセルになりましたが、台風の進路は東に逸れ、殆どの参加者はこの日に会場までたどり着くことができました。   翌、8月25日(土)の午前中は2本の円卓会議と同時進行で10の分科会が行われました。円卓会議の概要は以下の通りです。   ◇円卓会議A「第3回日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性」(助成:東京倶楽部) この円卓会議では、東アジアの歴史和解を実現するとともに、国民同士の信頼を回復し、安定した協力関係を構築するためには歴史を乗り越えることが一つの課題であると捉え、日本の「日本史」、中国の「中国史」、韓国の「韓国史」を対話させる試みです。今回は5回シリーズの第3回めで、「17世紀東アジアの国際関係ー戦乱から安定へー」というテーマで議論が展開されました。さらに、最後のセッションでは、早稲田大学の「和解学の創成」プロジェクトの一環として、今までに行われた歴史対話の試みについて振り返りました。(日中韓同時通訳)   ◇円卓会議B「第2回東南アジア宗教間の対話」では、「寛容と和解-紛争解決と平和構築に向けた宗教の役割」をテーマに、対立や紛争の原因が政治経済的な課題であるにもかかわらず、宗教の対立としての様相を帯びることが数多くあるが、それは宗教が対立する民族や集団の基層文化のなかに深く根ざしているからにほかならないという問題意識により、ミャンマー、タイ、インドネシア、フィリピン、ベトナムの紛争解決、平和構築の経験及び研究をベースとして和解、平和構築に向けた宗教および宗教者の役割、そして「平和と和解」への途を探りました。(使用言語:英語)   昼食休憩の後、午後2時から開会式が始まり、明石康大会会長が第4回アジア未来会議の開会を宣言しました。共催の韓国未来人力研究院の李鎮奎理事長の歓迎の挨拶の後、長嶺安政在韓国日本大使より祝辞をいただきました。   引き続き、「AIと人間の心、そして未来」と題した基調講演およびシンポジウムが開催されました。慶熙サイバー大学の鄭智勲教授「AIの今、そして未来」、ソウル大学の金起顯教授「AIと人間の心」の2本の基調講演の後、共催の韓国社会科学協議会の朴賛郁会長の進行で、韓国政治学会の金義英会長、韓国社会学会の申光榮会長、大韓地理学会の李勇雨次期会長、国際開発協力学会の權赫周時期会長、韓国国際政治学会の金錫宇会長を討論者に迎え、AIが社会に与える影響を検討しました。(韓英同時通訳) 最後に、400人を超える参加者は、HONAというグループによる韓国伝統楽器を用いたジャズのコンサートを楽しみました。   第4回アジア未来会議のプログラム     その後、台風一過で快晴の屋上庭園で開かれたウェルカムパーティーは、ジャズ演奏を聴きながら夜遅くまで続きました。   8月26日(日)午前9時から、12の小会議室を使って、分科会が行われました。前日の午前中と合わせて、7グループセッション、6学生セッション、43一般セッションが行われ、224本の論文発表が行われました。アジア未来会議は国際的かつ学際的なアプローチを目指しており、各セッションは、発表者が投稿時に選んだ「平和」「幸福」「イノベーション」などのトピックに基づいて調整され、学術学会とは趣を異にした、多角的で活発な議論が展開されました。   一般セッションと学生セッションでは、各セッションごとに2名の座長の推薦により優秀発表賞が選ばれました。   優秀発表賞の受賞者リスト     優秀論文は学術委員会によって事前に選考されました。2017年8月31日までに発表要旨、2018年2月28日までにフルペーパーがオンライン投稿された137篇の論文を14グループに分け、ひとつのグループを4名の審査員が、(1)論文のテーマが会議のテーマ「平和、繁栄、そしてダイナミックな未来」と適合しているか、(2)わかりやすく説得力があるか、(3)独自性と革新性があるか、(4)国際性があるか、(5)学際性があるか、という指針に基づいて査読しました。各審査員は、グループの中の9~10本の論文から2本を推薦し、集計の結果、上位19本を優秀論文と決定しました。   優秀論文リスト   クロージングパーティーは、同日午後6時半からピアノの演奏で始まり、今西淳子AFC実行委員長の会議報告のあと、共催の韓国社会科学協議会の朴賛郁会長のご発声により乾杯をして会の成功を祝いました。宴もたけなわの頃、優秀賞の授賞式が行われました。授賞式では、優秀論文の著者19名が壇上に上がり、明石康大会委員長から賞状の授与がありました。続いて、優秀発表賞48名が表彰されました。   パーティーの終盤に、第5回アジア未来会議の概要の発表がありました。フィリピン大学ロスバニョス校総長自らの歓迎ビデオと、実行委員会からの挨拶、そしてフィリピンからの参加者全員が会場も巻き込んでフィリピン版カンナムスタイルを踊り、会場は大いに盛り上がりました。   8月27日(月)、参加者はそれぞれ、非武装地帯スタディツアー、ソウル伝統建築ツアー、ソウル市内観光、南漢山城スタディツアー、NANTA鑑賞などに参加しました。   第4回アジア未来会議「平和、繁栄、そしてダイナミックな未来」は、(公財)渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)主催、韓国社会科学協議会と(財)未来人力研究院の共催、文部科学省、在韓日本大使館、ソウルジャパンクラブの後援、(一社)東京倶楽部の助成、CISV_Korea、(公財)本庄国際奨学財団、Doalltec(株)、グローバルBIM(株)の協力、そして、POSCO建設(株)、HAEAHN_Architecture(株)、(株)NIスティール、中外製薬(株)、三菱商事(株)、東京海上ホールディングス(株)、コクヨ(株)、鹿島道路(株)、大興物産(株)、鹿島建物総合管理(株)、イースト不動産(株)、Kajima_Overseas_Asia_Pte(株)、鹿島建設(株)のご協賛をいただきました。   運営にあたっては、渥美フェローを中心に実行委員会、学術委員会が組織され、フォーラムの企画から、ホームページの維持管理、優秀賞の選考、当日の受付まであらゆる業務を担当しました。特に韓国出身の渥美フェローには翻訳やビザ招待状の手配から、当日の会議進行における雑務まで、多大なご協力をいただきました。   400名を超える参加者のみなさん、開催のためにご支援くださったみなさん、さまざまな面でボランティアでご協力くださったみなさんのおかげで、第4回アジア未来会議を成功裡に実施することができましたことを、心より感謝申し上げます。   アジア未来会議は、国際的かつ学際的なアプローチを基本として、グローバル化に伴う様々な問題を、科学技術の開発や経営分析だけでなく、環境、政治、教育、芸術、文化など、社会のあらゆる次元において多面的に検討する場を提供することを目指しています。SGRA会員だけでなく、日本に留学し現在世界各地の大学等で教鞭をとっている研究者、その学生、そして日本に興味のある若手・中堅の研究者が一堂に集まり、知識・情報・意見・文化等の交流・発表の場を提供するために、趣旨に賛同してくださる諸機関のご支援とご協力を得て開催するものです。   第5回アジア未来会議は、2020年1月9日(木)から13日(月)まで、フィリピンのマニラ市近郊で開催します。皆様のご支援、ご協力、そして何よりもご参加をお待ちしています。   第4回アジア未来会議の写真(ハイライト)   フェアウェルパーティーの時に映写した写真(動画)   第5回アジア未来会議チラシ   写真付き報告書 日本語 English   (文責:SGRA代表 今西淳子)     2018年8月31日配信
  • 2018.08.16

    エッセイ577:陳龑「台日動漫畫文化国際学術研討会感想」

    今回の「台日動漫畫文化国際学術研討会」はとても新鮮な体験でした。「動漫畫」とは、「動画」(アニメーション)と「漫画」(マンガ)の総称です。日本では、アニメーションとマンガの「合併」した名詞がないように、アニメーションとマンガは学問の世界でもそれぞれのシステムがあって、独自の学会があります。従って、今回の台湾で開催された「動漫畫文化国際学術研討会」のような両方とも取り扱うイベントは、日本では存在していないのです。また、初日に漫画家の弘兼憲史先生が基調講演をされ、シンポジウムには台湾でアニメーションを実際に制作している黄瀛洲先生も列席されました。これも日本では珍しい「局面」と言えます。日本の研究会では、原作者とクリエイターを学会に誘うことはほとんどなく、研究をする際にも、「作者と距離を置かなければ客観的な結論を出しにくい」という考え方が根強いです。確かに、小説、美術などの伝統文化の研究領域においては、分野の分類が細かく、年代が離れているから作者と接触できない場合が多いのです。   しかし、アニメーション研究は果して伝統文化と同様に研究すべきでしょうか。マンガは美術研究のシステムが活用できますが、アニメーションは映画に近いです。劇場版アニメーションと芸術性の高い短編アニメーションは映画理論の適用性が高いと言えますが、「アニメ」という言葉が成り立つ原因である日本独特のテレビシリーズはまた別格です。「製作委員会」制度を中心に行われた「工業生産」の流れの中、マンガ原作と原作を運営する伝統出版社の力が極めて強いため、アニメーション研究を語る際には(特に「アニメ」が対象になるとき)、マンガと繋いでみるべきだと容易に考えられます。とはいえ、日本ではマンガとアニメの境界がはっきりして、アニメーション学会とマンガ学会のメンバーが大分重なっているにもかかわらず、別々のシステムで議論を展開しています。無論、深くディスカッションをするため、各自のシステムが必要ですが、こういう「動漫」を一緒に考える場も必要ではないかと考えます。   「現場」の方を誘うもう一つの利点は、業界の「イマ(現状)」を把握できることです。研究者だけだと、アニメやマンガを語る時、具体的な作品、或いは、ある歴史段階のトレンドに注目する場合が多いです。映画学か映像学の視点から出発した作品論、美学の視点から出発した考察など興味深いですが、現場の方から見ると、必要とする研究方向はまだまだ「物足りない」状態です。今回実際に台湾アニメーションと一緒に成長してきた黄瀛洲先生のご発表によれば、台湾アニメーションの現状はとても深刻になっています。資金の面でも、クリエイターの育成の面でも、さらにその前に、台湾人自身のアニメーションに対する認識が「アニメーションは日本とアメリカのもので、なぜわざわざ台湾自身のアニメーションを作る必要があるのか」という考え方であり、台湾アニメーションを発展させようとする努力家が、(逆に)一般観客からもっと応援を得たい状態であるということは初耳でした。   これは一般的学会では接触できない現場の人しか感じない現実であり、研究するモチベーションが左右されるぐらい衝撃的でした。一方、大陸のほうは全く逆の状況で産業振興政策が多く出されており、アニメーション制作によって起業したスタートアップ会社も新作を絶えず世に送りだしています。なぜ上記のような考え方が台湾にあるのか、台湾アニメーションの発展史はあまり注目されないが、本当に1960年代までは空白だったのか、このままでは台湾アニメーションの未来はどうなるのか等々、この現実から様々な研究方向が考えられます。現場の方との接触は、研究者にとって貴重で重要なことだと深く感じました。   日本のアニメーションとマンガはこの10年「Cool_Japan」文化政策の要として重視されてきましたが、すでにその前から日本のアニメーションとマンガは一緒に中国大陸と台湾地域に輸出されていました。実際、中国大陸と台湾地域では、「アニメーション」と「マンガ」が一体視される場合がほとんどです。このような背景のもとで今回の「異色」な学会が開催されたのですが、今後もまたこのような場ができたら嬉しいです。   <陳龑(ちん・えん)Chen Yan> 北京生まれ。2010年北京大学ジャーナリズムとコミュニケーション学部卒業。大学1年生からブログで大学生活を描いたイラストエッセイを連載後、単著として出版し、人気を博して受賞多数。在学中、イラストレーター、モデル、ライター、コスプレイヤーとして活動し、卒業後の2010年に来日。2013年東京大学大学院総合文化研究科にて修士号取得、現在同博士課程に在籍中。前日本学術振興会特別研究員(DC2)。研究の傍ら、2012~2014年の3年間、朝日新聞社国際本部中国語チームでコラムを執筆し、中国語圏向けに日本アニメ・マンガ文化に関する情報を発信。また、日中アニメーション交流史をテーマとしたドキュメンタリーシリーズを中国天津テレビ局とコラボして制作。現在、アニメ史研究者・マルチクリエーターとして各種中国メディアで活動しながら、日中合作コンテンツを求めている中国企業の顧問を務めている。     2018年8月16日配信