SGRAの活動

  • 2012.12.26

    レポート第64号「東アジア軍事同盟の課題と展望」

    レポート64号本文 レポート64号表紙   第43回SGRAフォーラム 「東アジア軍事同盟の課題と展望」講演録 2012年11月20日発行   もくじ   【発表1】ポスト冷戦期における米韓同盟の持続と変化 朴 栄濬(韓国国防大学校安全保障大学院副教授)   【発表2】台湾内政の変動と台米同盟                     渡辺 剛(杏林大学総合政策学部准教授)   【発表3】ポスト冷戦期の米比同盟―引き続く過去と新たな脅威                     伊藤裕子(亜細亜大学国際関係学部教授)   【発表4】日米関係における「日米同盟」―過去、現在、今後―                     南 基正(ソウル大学日本研究所副教授)   【問題提起1】「同盟」を超える領土紛争の対応と連携~「尖閣諸島」における日米・中台の「協力」関係                     林 泉忠(琉球大学法文学部准教授)   【問題提起2】対テロ戦争にみる安全保障の新展開                    竹田いさみ(獨協大学外国語学部教授)   【パネルディスカッション】  
  • 2012.12.20

    エッセイ360:朴 炫貞「第2回SGRAカフェ報告:まずは知ることが大事な、福島飯舘村からのメッセージ」

    未曾有の東日本大震災から1年9ヶ月が経ちました。時の流れは早く、世間から311のことはもう忘れられているかのようにも見える今も、福島の問題は続いており、そこには奮闘している人々がいます。2回目を迎えたSGRAカフェは、『福島をもっと知ろう』というタイトルで、飯舘村の菅野宗夫さんをお招きし、飯舘村の話を直接聞いて福島の問題を考える<場>として企画され、12月6日に東京九段下の寺島文庫ミネルヴァの森で開催されました。   カフェでは、まず、10月に「飯舘村スタディツアー」に参加したシムさんをはじめとする参加者の話を聞きました。映像や話には、スタディツアーで飯舘村を訪ねた時に見た「現実」があり、実際に行かなかった人々にとっても心を打つ「何か」がありました。そこに人が居ることを忘れずに、直接その人たちと話して知ろうとする心が大切だという参加者の話によって、マスコミからの福島情報とはまた違う一面を知ることができました。   飯舘村スタディツアー報告の後、3階の講義室に移って菅野さんの話を聞きました。飯舘村は、東京のJR山手線の内側の3.5倍の面積があり、その内の75%が山という、緑の豊かな土地です。事故前の飯舘村は日本で最も美しい村のひとつに選ばれるほど自然環境に恵まれ、自然を土台にしながら、人間対人間の見つめ合いや対話、ふれあいを大事にする村でした。   しかし、大事にしていた自然との生活は、母なる地球の運動である地震や津波ではなく、それに続く原発事故という人災によって奪われてしまいました。原発から遠く、原発から何の利益も受けず、原発の影響など考えもしなかった飯舘村は、今では高い放射線量が測定され、計画的避難区域に指定されており、昼間は入ることができますが、泊まることは許されません。   震災の翌日の3月12日、原発に隣接する浪江町や南相馬市から1500人もの人たちが避難してきたので、何が何だかよく分からないまま、村中総出でお手伝いをしました。ヘリや車の往来が激しく、国道周辺に白い作業服がポイ捨てされている異常な様子がみられ、ものすごく恐ろしいことが起こっているという噂が広がったといいます。安全に対する無責任な発言が飛び交う中、3月18日から自主避難がはじまり、3月30日には「飯舘村は放射性ヨウ素131が避難基準の2倍」というIAEA(国際原子力機関)の発表がありました。それでも「人体には影響がない」という説明がされたりしていましたが、4月22日になって突然、公式に避難区域に指定されました。データに基づいて人間の健康を第一にしないといけないのに、早めの対応がなかったことは非常に残念に思っている点です。避難したといっても、生活の基盤になっていた畑や家畜は避難できない状態であり、まるで人生を奪われたようなものでした。   原発問題の最も恐ろしいことは、気持ちが一つになれないことだと菅野さんはいいます。福島においても溢れる情報の中、どの情報を信じればよいか判断するのが非常に難しいので、同じ村の中でも、様々な意見がでてきてしまうのです。その上、福島というだけで物が売れず、差別まで受ける状況は、問題の解決を遅らせる大きな要因になっています。 このような深刻な状況にも関わらず、今の飯舘村では「自分の村は自分たちで見守りたい」と、夜は無人になってしまう村の治安を自ら守る活動や、生き甲斐のために避難先でも農業を始めるなど、自分のところでできる努力をしているそうです。   今回のカフェには、40人を超える参加者がありました。特に日本大学、日本女子大学や専修大学からの20代前半の学生が多く参加したことが特徴で、活発な質疑応答も行われました。「これからの要望」、「福島を忘れないための試み」、「福島の人々におけるきれいなキャッチコピーに対する印象」、「選挙に対する考え」、「環境に対する意識」など、様々な側面からの質問や意見が出ました。このような質問に対して、菅野さんや「ふくしま再生の会」の田尾さんは、今日のような話し合いの場があることがとても大事であり、元気な姿で復興に取り組むのが表面だけにならないように、まずは現場を知ってから考えてほしいと話しました。2時間におよぶの熱い話において、菅野さんは最も大事なこととしてチャレンジ精神を強調しました。そして、「忘れ去られることとの戦い」に言及し、現場の声を聞かないと分からないようなことに接する努力をしてほしいと語りました。   「豊かな暮らし」というものは、環境や文化、人々の価値観よって違うでしょうが、飯舘村は自然との豊かな暮らしが美しく調和されていた村という印象を受けました。いつ元の生活に戻れるのか分かりません。戻れないかもしれません。しかし、時は過ぎていきますが、今も飯舘村の問題、福島の問題は進行中です。今私たちにできることは、福島を忘れることなく、常に意識をおいて知ろうとすることからはじめ、皆で考えることから変化の風が起こると考えます。菅野さんは「皆との出会いが幸せだ」と何回も言いました。 菅野さんに出会えたことを私たちも幸せに感じられたのは、今でも元気で前向きに人々との出会いを大事にする菅野さんのエネルギーに刺激を受けたからではないでしょうか。人とのふれあいを大事にし、豊かな自然と暮らした飯舘村の美しさを忘れないことが、まず私たちにできることであると、しみじみと感じました。   尹飛龍さんが撮影した当日の写真   飯館村スタディツアー報告   ------------------------------- <朴炫貞(パク・ヒョンジョン)☆PARK Hyunjung> 韓国芸術総合大学芸術士、武蔵野美術大学修士。映像作品制作とともに映像を用いたワークショップ・展示を企画・実施している。 -------------------------------     2012年12月20日配信
  • 2012.11.14

    第2回SGRAカフェ「福島をもっと知ろう」へのお誘い

    第2回SGRAカフェは、福島県飯館村の菅野宗夫様に、日本で一番美しい村が原発事故の後どのようなことになったのか、10月のスタディツアーに参加したSGRA会員との対話形式でお話しいただきます。福島は現在本当はどうなっている?避難された人々の生活は?ふるさとは再生できる?いつ帰れる?という素朴な質問にお答えいただけると思います。 ●日時:2012年12月6日(木)午後6時30~9時30分 ●会場:寺島文庫1階みねるばの森 東京都千代田区九段北1-9-17 寺島文庫ビル1階 九段下駅(5番出口)徒歩3分 ( Tel: 03-5215-2950 ) ○会費(ビュッフェの夕食付):SGRA会員・学生は1000円、非会員2000円 ○準備の都合がありますので、参加ご希望の方はSGRA事務局へお名前と緊急連絡先をご連絡ください。 SGRA事務局: [email protected] ○スタディツアー参加者からひとこと 「百聞は『一会』にしかず。是非ご一緒に福島の今を考えましょう!」(シム) 「メディアでふくしまについて色々聞いたあなたへ。メディアではなくちゃんとふくしまの人の話を聞きましょう。何もしないまま「何もできない」とはいえないでしょう。」(ソンヤ) 「福島=日本の再生に期待していますから、是非来てください!」(陳景揚) 「山重水復疑无路,柳暗花明又一村(陸遊「遊山西村 」)(于暁飛) (「山が重なり、川が入り組んでいて、もう道がない、もうだめだと思いきや、進めるだけ前へ進んでいるうち、急に道が開けて、柳もこんもりと茂げ、花が咲き乱れ、桃源郷のような村が すぐそこにあった」という意味です。絶望な環境に置かれても、諦めないで前へ前へ、そのうち苦境を乗り越える!)
  • 2012.11.07

    第1回SGRAスタディツアー「飯館村へ行ってみよう」報告

    今回のSGRAフォーラムは、スタディツアー(福島被災地訪問)という特別プログラムとして、2012年10月19日~21日(2泊3日)に行われました。東京から貸切のマイクロバス1台で約4時間かけてJR福島駅に着き、そこで東京からの田尾陽一さんと金沢から来た私(李鋼哲)が合流し、車内で弁当を食べながら、さらに2時間近くかけて相馬市に行きました。   参加者はSGRAらしく、韓国からわざわざ来日した2名、シンガポール、ノルウェイ、台湾、中国出身の会員、渥美財団関係者など総勢14名でした。「構想アジア」研究チーム(チーフ:李、顧問:平川均名古屋大学教授)が形式的にではあるものの本企画を担当することになりました。   今回のスタディ・ツアーは、「ふくしま再生の会」理事長の田尾さんのご協力を得て、福島県相馬市と飯館村を主な訪問地としました。同会は東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故によって破壊されてしまった被災地域の生活と産業の再生を目指すボランティア団体として、昨年6月の設立以来、飯舘村に活動の拠点を設け、被災者とともに知恵を出し合いながら再生へ向けた各種のプロジェクトを推進しています。   「ようこそ!福島へ」とは言われても、原発事故で放射能被害が深刻な福島に足を運ぶのはなかなか勇気が要るものです。私も「参加する」と答えたものの、「放射能は大丈夫だろうか」と不安を感じました。妻は「遺言書でも残していってらっしゃい」と冗談半分で言いました。   福島駅のバス停留場で、田尾さんより放射線量計測器(自己開発制作したもの)を配っていただき、駅周辺の放射線量を測ったら、0.28マイクロ・シーベルトでしたが、この線量がどの程度のものであるのかさっぱり分からないのでドキドキしました。田尾さんは物理学が専門であり、かつて広島で被爆した経験があるだけに、理論的にも実践的にも放射線の人体に対する影響などに非常に詳しい方なので、彼が案内するところだったら大丈夫だろうと思いました。   福島駅から相馬市に向かってバスで走行する途中、休憩所で地元名物のアイスクリームをみんなで食べながら、草の生えているところで放射線量を測ったら、なんと最高は(福島駅に比べると10倍以上も高い)3.2マイクロ・シーベルトまで上昇し、みんな一瞬緊張が高まりました。ちなみに、国際基準では、「事故などによる一般公衆の1人の年間被曝量は1ミリ・シーベルト=1000マイクロ・シーベルトを超えないように」となっており、実はほとんど影響がないそうです。   バスは引き続き走り、相馬市に着きました。相馬市は海岸地域であるために地震と津波の被害を受けましたが、福島原発からは約50キロ離れており、放射線の影響はそれほどなく、原発避難指定地域から大勢の避難者を受け入れていました。   相馬市で我々を迎えてくれたのは、「おひさまプロジェクト」代表を務める大石ゆい子さんでした。元気ハツラツな方で、被災者達を支援する活動をしている小さなアパートの事務所に我々一行を案内してくれました。そこは被災者達に元気になってもらうための教室で、様々な活動をしているということでした。   そこで橋本経子さん(ホリスティック・アドバイザー)が、自分の病弱体験を踏まえて避難生活者達に行っている心理的なケア活動について紹介してくれました。橋本さん自身が、被災者達の辛い立場を十分理解し、命の危険を冒してまで、避難地域の被災者の自宅まで一緒に立ち入り、必要な家財の整理や墓参りなどを手伝ったとの、感動的な物語を聞かせてくれました。そこは放射線量が80マイクロ・シーベルトの危険地域だったとのことでした。避難した人たちは家族がばらばらになって県内や県外で避難生活を送っているケースが多く、「一日も早く復興して帰郷したい」という気持ちだということがよく分かりました。この教室で約1時間半、地元の人々のお話を聞き、質疑応答もしました。   その後、またバスに乗って海岸地域の被災地を見学しました。地震や津波被害で多くの建物は破壊され、流されたその惨状は目を覆いたくなるひどいものでした。テレビで見るのとは違い生々しい光景で、それを見ていた参加者の心情を想像していただけるでしょう。   夕方まで見学した後、バスに乗って隣の伊達(だて)市霊山(りょうぜん)の山中にある「福島ふるさと体験スクール」に向かいました。この施設は子供達に自然と農業、伝統的な生活体験をさせる目的で、2年前に東京の高校の校長をしていた酒井徳行さんが私財を投げ打って作ったのですが、原発事故で子供達が来られなくなり、我々「大きな子供」達が泊まることができたのです。   心をこめて用意された美味しい夕食を食べながら交流会が行われました。大石ゆい子さんと河北新報編集委員の寺島秀弥氏さん駆けつけて夕食懇親会に参加しました。自己紹介の後、大石さんが「おひさまプロジェクト」について紹介してくれました。   このプロジェクトは、「健康や癒し」をキーワードに食事や運動とグリーン・ツーリズム、エコ・ツーリズムを取り入れた体験滞在型の「までい流ヘルス・ツーリズム」構築を目指し、新しいライフスタイルの振興を行うことで、QOL(生活の質)の向上を図ることを目的としています。健康、食、環境が共存できる広域的で新鮮な地域活性化事業に取組み、地域が自立できる<場>を構築し、活力ある地域社会を実現するために、同じ志を持った仲間で立ち上げたものです。   飯舘村の人々は原発事故の被害に立ち向かって一所懸命闘っています。彼らは「までいの力」(「までい」とはこの地方の方言で、「両手を動かして頑張れば、いかなる困難も乗り越えられる」との意味)を発揮し、「までいの精神」でふるさとの再建に立ち向かっています。その精神に感銘を受けました。   翌朝、宿泊施設を後にして飯舘村に向かいました。途中で飯舘村農業委員会会長の菅野宗夫さんが乗車し、我々を案内してくれました。最初に被災者の仮設住宅(福島市松川工業団地敷地内)を訪問しました。仮設住宅に住んでいるのは、ほとんどシルバーの方々で、老人村のようでした。避難した人々はここで一応安定した生活を送っているようですが、精神的・心理的にはますます不安な状況とのこと。これからどうなるのか?ふるさとに戻れるのか?など心配する毎日を送っているとのことでした。   そこで数名の方から避難生活に関するお話を聞きました。「いいたてカーネーションの会」というNGOの代表佐野ハツノさんは地元で被災者支援活動、心理的なケア活動を精力的に行っている様子を聞かせてくれました。住民のおばあさんたちが、寄附してもらった着物の生地を使って、洋服や様々なグッズを作って販売しています。この事業によって、おばあさんたちの目が輝くようになったとのことでした。   しかしながら、地元の皆さんの訴えの多くは、「国や政府が充分な対応をしてくれない」、「世間はもう自分達のことを忘れている、報道にも出ない」、「早くふるさとに戻って平常の生活をしたいのに、何も起こらない」などでした。政治家、官僚やマスコミに対する怒りがかなり貯まっている様子でした。   気持ちが重くなる言葉を心に刻みながら、我々はバスで全村計画的避難区域の飯館村に向かいました。この地域は、住民は昼は入ることができますが、泊まることはできません。線量計の放射線量は徐々に上がりました。飯館村の南にある立ち入り禁止区域の前のゲートまで行き、そこで全員バスから降りました。周辺の放射線量を測ったら最高31マイクロ・シーベルトまで上がりました。皆さん少し緊張した表情をしながらも、写真を撮ったり、警備員に話しかけたり、平静な雰囲気を演出していましたが、バスに戻ってそこから離れると皆ほっとした表情で、「ここまで来たのだからもう怖くない」という感じでした。現場を体験すると勇気も倍増するようでした。   引き続き飯舘村役場近くにある特別養護老人ホーム「いいたてホーム」に行きました。そこの休憩室で弁当を食べ、施設長の三瓶政美さんのお話を聞いた後、施設見学と隣接している役場見学をしました。80名あまりの老人が介護施設に入っており、避難指定地域ではあるが、地元の行政の判断と国の許可を得て全員避難せずにいるとのこと。従業員は施設や近くに住むことができず、全員が避難地域外から車で長時間をかけて毎日出勤せざるを得ない、という厳しい状況でした。   最後の訪問地は菅野宗夫さんの自宅がある山村でした。宗夫さんの自宅は「ふくしま再生の会」の現地事務所になっています。近くの田圃や畑には田尾さん達が作った飯舘村再生モデル事業の「イネ栽培実験田」があり、実験用で栽培した稲が田圃に干されていました。この稲は放射線量がたくさん含まれているので、「一粒とも残さず国に納めよ」という国の指示があるそうです。サツマイモの実験畑も見学しました。このモデル事業は、田圃や畑などの放射線量を常時計測しながら除染作業を進めていき、何年かかるかは分かりませんが、村人達が戻って来て自分の家と土地でかつての平穏な生活と農業ができることを目指しているとのことでした。   宗夫さんの自宅は、事務所としてだけではなく、線量計設備(田尾さん達が手作りした)が配置され、簡素な設備ではあるが立派な実験室のようでした。そこで色々なデータを計測し、データ分析する大学や、国内外に向けてインターネットメディアを通じて発信しています。そこで我々はこたつを囲んでお茶を飲みながら宗夫さんのお話を聞きました。理路整然と被災地の現状、国の対応、地元の対応などについて説明してくれました。「原発事故は福島だけのことではない、日本のことであり、アジアのことであり、全世界のことである」、「この事故で世界が教訓を汲むべき」と強調しました。だからこそ、地元の現状を常に世界に向けて発信することが必要なのです。   「我々SGRAのメンバーとして、福島被災地のために何ができるのか」、参加者は皆、見学しながら常に考えていましたが、「世界に向けて日本に向けて発信して原発事故を忘れさせない」、「原発事故の被害について考える」ことが我々の役割ではないか、と考えるようになりました。   飯舘村を後にして、バスは宿泊地の霊山紅彩館に向かいました。立派なリゾート宿泊施設で、霊の宿る山の中にありました。入浴後、2回目の夕食と懇親会がありました。菅野宗夫さんも後を追って参加してくれました。ここでも宗夫さんと田尾さんのお話を聞き、参加者全員が感想発表をしました。2日間、参加者は貴重な体験をしながら、地元の人々や支援者達のお話を聞き、強く胸を打たれました。「福島を永遠に忘れることはできない」というのが参加者共通の思いでした。   翌朝は宿泊地を後にして、伊達市保原歴史文化資料館を見学しました。東北の藩主伊達家の歴史について勉強するよい機会でした。養蚕で財をなした旧亀岡家住宅も大変素晴らしく、東日本大震災でもほとんど無傷だったという明治時代の洋風建築に見とれました。1時間ほどの見学後、バスは福島を後にして東京に向かいました。   「福島よ、忘れさせない!」   スタディ・ツアーの写真   (執筆および文責:李鋼哲 [SGRA構想アジア研究チームチーフ、北陸大学教授] )       2012年11月7日配信
  • 2012.10.24

    第1回SGRAカフェ「李元徳:最近の日韓外交摩擦をどうみるか」報告

    日中韓台の領土問題で多くの動きがあり、報道を見ている側の頭にも多くの「?」「!」が生まれたと思われる。できるだけ多くの情報に接するように心掛けても悲しいかな、言語、自国内の報道の枠や立場から逃れるのはなかなか難しい。SGRAかわらばんの投稿では「日本からの見方」だけではない考えに接することができた。経済力の急激な高まりやデモの規模の大きさから日中関係に意見は集中しがちだったが、ここで韓国との関係も知りたいところだ。   2012年10月18日(木)、そうした中、第1回SGRAカフェは、「最近の日韓外交摩擦をどうみるか」とのテーマで、東京九段下の寺島文庫みねるばの森で行われた。いつものフォーラムとは異なり、20人程度の小規模、場所も文庫カフェという、知的かつお洒落な雰囲気で参加者もくつろいだ表情を見せていた。   寺島文庫は日本総合研究所理事長の寺島実郎氏が「4万冊の世界の地歴に関わる書物を集積し、知の交流と発信の場」とすべく設立した研究施設で、驚いたことにここの書庫には寺島氏が高校生の頃、渥美国際交流財団の渥美理事長のご父君の鹿島守之助氏へ宛てた手紙が残されている。また渥美理事長が寄贈された書籍もあり、不思議なご縁を感じながらの開催となった。   韓国国民大学日本研究所所長の李元徳教授による講演は、「日韓関係の在り方を規定する構造変化」、「最近の日韓外交の葛藤:観戦ポイント」、「領土、歴史摩擦の悪循環からの脱皮」、「日韓関係の未来ビジョン」の4部から構成されており、まずは2国間だけではなく、冷戦下での米ソ関係が元となっていた日中韓の力関係が、その後再編過程(Power Transition)の進行、力の均衡(Balance of Power)の流動化過程の進行を経て次第に米中両強構図に再編されているとし、東アジア全体の国際秩序の地殻変動の観点から見るべきと指摘した。そしてかつての植民地関係(従属、依存関係)にあった日韓の力関係と市民社会は、現在では相対的に均等化し、競争・競合関係となっている珍しいケースであるものの、一方で対外認識における温度差があり、日本と韓国とでは中国と北朝鮮に対してのとらえ方に悲観的と楽観的な違いがあることを示した。   第二の「最近の日韓外交の葛藤:観戦ポイント」において、日本人には納得しづらいであろう李明博大統領の言動を、心理面から考えればわかるのではないかと島訪問の背景にあったであろう慰安婦問題解決や打開への期待について、島訪問から1か月後に大統領に会った李教授ならではの考えを述べた。しかしその訪問が結果として日本側の激しい反発を招いたことへの大統領の驚き、そしてこれまで韓国がどんなに過激な反応や報道をしてもそれを冷静に受け止めていた(成熟した)日本が、今回は冷静に受け止められないことを変化としている。   その後のウラジオストックでの日韓首脳の動静や米国の憂慮表明、さらには日本知識人宣言や村上春樹の朝日新聞論説、河野元官房長官の読売新聞のインタビューなどが韓国内の反日ムードを和らげたとし、こうした知識人による声明は日本のみならず中国や韓国でも起きており、普遍的な視点を持った動き、そして歴史を知ることの重要性を訴えた。   第三の「領土、歴史摩擦の悪循環からの脱皮」で、今後も日韓摩擦は頻度も深度も深まるとの考えを示し、その動きが法的局面にも移行しているとし、一例に韓国の憲法裁判所、大法院判決を挙げたが、それは日韓の歴史を知らない判事達の判決と批判し、今後ウルトラナショナリストの政治家登場を危惧、歴史摩擦の管理(Management)を次善の策とし、予防外交として戦略的な考慮の重要性を指摘、中長期的及び戦略的観点をもって日韓両国が協力することが双方の利益とまとめた。そして日韓の懸念となっている慰安婦問題については①立法解決、②財団設立による解決、③仲裁、④外交的解決の4つのシナリオを挙げ、その中の④の外交的解決として総理大臣の謝罪を「談話」の形で表明し、対する韓国は補償を求めないという形が100点満点でないにせよ、60~70点の解決ではないかとしている。   第四の「日韓関係の未来ビジョン」では、ヨーロッパにおける独仏関係をモデルとし、日韓関係も応用できないかと、市場統合や共同規範を提示した。(クーデンホーフ・カレルギーの「汎ヨーロッパ主義」を日本語に訳したのが鹿島守之助氏だったと、講演直前に寺島文庫の書庫で知り驚いたとのこと)また2国関係だけでなく、世界の中での日韓関係として考えることを挙げ、日韓が未来東アジア共同体形成の共同主役になるべきとして講演を締めくくった。   会場からは中国人のSGRA会員から「これまで機能していた棚上げ論が機能しなくなったのはなぜか」等の質問があり、日韓からだけではない見方も出された。講演後の懇親会には寺島氏から日本酒が、渥美理事長からはSGRAのシンボルマークでもある、たぬきの形をしたせんべいの差し入れがあり、フォーラムとはまた違うアットホームな雰囲気で和やかに行われた。   当日の写真   (文責:太田美行 [渥美財団プログラムオフィサー] )     2012年10月24日配信
  • 2012.10.03

    第1回SGRAカフェ「最近の日韓外交摩擦をどうみるか」へのお誘い

    下記の通り、第1回SGRAカフェ「最近の日韓外交摩擦をどうみるか」を開催いたしますので奮ってご参加ください。   日時:2012年10月18日(木)午後6時~8時半   会場:寺島文庫1階みねるばの森   講演:李元徳(韓国国民大学日本研究所所長)    「最近の日韓外交摩擦をどうみるか」 講師からのコメント:8月10日李大統領のシマ訪問から始まった一連の日韓対立の展開を多様な角度から分析し、日韓関係の今後の展望や望ましい方向を探るための<話し合い>の場になれば幸いです。   会費(ビュッフェの夕食付):SGRA会員・学生は1000円、非会員2000円   ●準備の都合がありますので、参加ご希望の方はSGRA事務局([email protected] )へお名前と緊急連絡先をご連絡ください。    
  • 2012.09.19

    エッセイ349:ボルジギン・フスレ「ウランバートル・レポート2012夏」

    2012年は、ユーラシア大陸をまたぐ世界史上で最大のモンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンの生誕850周年である。関口グローバル研究会(SGRA)がモンゴル科学アカデミー国際研究所、歴史研究所と共催した第5回ウランバートル国際シンポジウム「チンギス・ハーンとモンゴル帝国――歴史・文化・遺産」は7月24、25日にウランバートル市のモンゴル日本人材開発センターで開催された。本シンポジウムは在モンゴル日本大使館、モンゴル・日本人材開発センター、モンゴル科学アカデミー、モンゴルの歴史と文化研究会、モンゴル・ニューステレビ局(MNCTV)の後援をえた。 シンポジウムの準備のため、私は7月22日にウランバートルについたが、予約したホテルはすでに満室になっているため、隣のホテルに泊まることになった。その日についた他の方も、同じホテルに泊まった。 翌23日の午前、新聞社の取材を受けた後に、実行委員会のモンゴル側のメンバーと打ち合わせをし、在モンゴル日本大使館の書記官青山大輔氏と連絡をとった。午後にはモンゴル・日本人材開発センターのKh. ガルマーバザル総括主任、神谷克彦チーフアドバイザー、佐藤信吾業務主任に挨拶した。そして、国際研究所の職員と一緒に、会場、同時通訳設備のセッティング、名札の印刷などを確認した。その後、空港にて、今西淳子代表、愛知淑徳大学准教授藤井真湖氏をむかえた。 24日の午前、快適な雰囲気のなかで、今西代表が内モンゴル歴史文化研究院長孟松林氏と会談をおこない、私は通訳をつとめた。 シンポジウムは同日午後から始まった。開会式は午後1時からの予定だったが、私達が会場についたところ、新聞社やテレビ局の記者がおおぜい押し寄せてきて取材をしたため、開会式は少し遅れて始まった。 開会式では、モンゴル科学アカデミー国際研究所所長のL. ハイサンダイ(L. Khaisandai)教授が司会をつとめ、在モンゴル日本大使館林伸一郎参事官、モンゴル科学アカデミーT. ドルジ(T. Dorj)副総裁、と今西淳子SGRA代表が挨拶と祝辞を述べた。続いて、モンゴル科学アカデミー会員、国際モンゴル学会(IAMS)名誉会長Sh. ビラ(Sh.Bira)教授、一橋大学田中克彦名誉教授(代読)、内モンゴル歴史文化研究院長孟松林教授が基調報告をおこなった。その後、5人の発表者が歴史や軍事の視点から、チンギス・ハーンとモンゴル帝国について発表をおこなった。その日の夜、ケンピンスキーホテルで、モンゴル科学アカデミー国際研究所と歴史研究所主催の招待宴会がおこなわれた。 翌25日の発表は、政治、文化、民族、遺産などの視点から、チンギス・ハーンとモンゴル帝国について議論を展開したものであった。SGRA会員、フィリピン大学講師フェルディナンド・マキト(Ferdinand C. Maquito)氏は大学の仕事の都合でシンポジウムに参加できなかったが、その論文「チンギス・ハーンとフィリピンの黄金時代」は代読され、たいへん注目された。SGRAのモンゴル・プロジェクトは、2007年に企画され、2008年に正式にはじまり、これまで5回シンポジウムをおこなってきた。マキト氏はウランバートルには一度も訪れたことがないが、実際、裏でこれらのシンポジウムの準備活動に携わってきたことをここで特記し、感謝申し上げたい。 その日の夕方、ウランバートルホテルで、SGRA主催の招待宴会がおこなわれた。今西代表が挨拶を述べた後、モンゴル科学アカデミー歴史研究所事務局長のヒイゲト(N. Khishigt)氏、愛知大学教授ジョン・ハミルトン(John Hamilton)先生、愛知淑徳大学准教授藤井真湖先生、東京外国語大学の上村明先生等がユーモアのあふれる挨拶を述べ、宴会はたいへん盛り上がった。 一日半の会議で、オブザーバーをふくめて、モンゴル、日本、中国、韓国、フィリピン、イギリス、ロシア、アメリカ、タイ、台湾などの国や地域から百名近くの研究者が会議に参加した。そして共同発表も含む、20本の論文が発表された。(発表の詳細は別稿にゆずりたい)。『国民郵政』や『首都・タイムズ』、『モンゴル通信』、モンゴル国営テレビ局、MNCTV、UBSなどモンゴルの新聞、テレビ局十数社が同シンポジウムについて報道した。 26日、海外からの参加者は、ツォンジン・ボルドグのチンギス・ハーン騎馬像、13世紀モンゴル帝国のテーマパークなどを見学した。写真撮影が好きな、SGRA会員の林泉忠さんは、大草原を見渡して、「これほど美しいひろい草原があるなんて、今ここで死んでもかまわない」とおもわず言った。それを聞いて、みんな微笑んだ。参加者からは「モンゴルの大草原、国全体を世界遺産に登録すべき」という提案もあった。昼食の後、興奮したみなさんは、いわゆる「モンゴル帝国時代の服」を着て、記念写真をとったが、後でチェックしてみたら、妙な感じだった。今西さんはすでにモンゴルの馬になれたようで、馬に乗って、自由に草原をかけ走った。ほかの人たちも馬に乗ったり、らくだに乗ったりした。このテーマパークは、13世紀モンゴル帝国の宗教、民家、学校などのテーマで、特色のある6つのキャンプより構成されているが、各キャンプにつくたびに、みな去るに忍びなかったが、5番目のキャンプ「学問の塾」に到着したところで、すでに帰らなければならない時間になった。結局、6番目のキャンプに行くのを断念し、後ろ髪を引かれる思いで帰りの車に乗った。 シンポジウムの写真 モンゴル国際研究所撮影 フスレ撮影 ------------------------------------- ボルジギン・フスレ(Husel Borjigin):東京大学大学院総合文化研究科学術研究員、昭和女子大学非常勤講師。中国・内モンゴル自治区出身。北京大学哲学部卒。内モンゴル大学講師をへて、1998年に来日。東京外国語大学大学院地域文化研究科博士前期課程修士。2006年同研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学・日本学術振興会外国人特別研究員をへて現職。著書『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編『ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年――2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2010年)、『内モンゴル西部地域民間土地・寺院関係資料集』(風響社、2011年)他。 -------------------------------------- 会議の報道 Sonin.MN 『こんにち』日報社 振興社 科学アカデミー歴史研究所 在モンゴル日本大使館 Zindaa モンゴル科学アカデミー歴史研究所の発表者に対するインタビュー
  • 2012.07.11

    第7回SGRAチャイナ・フォーラム「ボランティア概論」ご案内(延期)

    残念ながら、今年のチャイナフォーラムは、中国当局から開催大学への勧告により中止になりました。   関連エッセイ   -----------------------------------------   下記の通りフフホト北京で開催いたしますのでご案内します。参加ご希望の方は、SGRA事務局までご連絡ください。   ★講演: 宮崎幸雄 「ボランティア概論」   【フフホトフォーラム】 日 時:2012 年9月17 日(月)午後4時半~6時半 *時間が変更になりましたのでご注意ください。 会 場:内モンゴル大学南校区教学主楼XF0201   【北京フォーラム】 日 時:2012 年9月19 日(金)午後4時~6時 会 場:北京外国語大学日本学研究センター多目的室   ◆主催: 渥美国際交流奨学財団関口グローバル研究会(SGRA) 協力: 内モンゴル大学モンゴル学研究センター 北京外国語大学日本語学科 後援: 国際交流基金北京日本文化センター   ◆フォーラムの趣旨:   SGRAチャイナ・フォーラムは、日本の民間人による公益活動を紹介するフォーラムを、北京をはじめとする中国各地の大学等で毎年開催しています。7回目の今回は公益財団法人日本YMCA同盟の宮崎幸雄氏を迎え、長年の体験に基づいたボランティア活動の意義ついてご講演いただきます。日中通訳付き。   ◆講演要旨:   1)私のボランティア原体験 <ベトナム戦争とボランティア> ①自分で手を挙げて(挫折からの逃走)②こちらのNeeds (体育) とあちらのInterests(養豚)   ③信頼なくして“いのち”なし(地雷原の村) ④解放農民の学校(自立・自助) ⑥プロ・ボランティアとして国際社会へ 2)ボランティア元年と云われてー神戸・淡路大震災によって広まるボランティア(観) 3)ボランティア活動の社会的効果(地域への愛着・仲間・達成感・充実感、・希望) 4)大災害被災地のボランティア活動と援助漬け被災者 中国人が見た東日本大震災救援活動と日本人が見た四川大震災救援活動 5)3 ・11若者の自意識と価値観の変化 国際社会の支援と同情・共感・一体感と死生観・共生観と人と人との絆   ◆講師略歴:   現職:(公財)日本YMCA同盟名誉主事、学校法人アジア学院評議員、学校法人恵泉学園委員(公財)公益法人協会評議員、(社)青少年海外協力隊を育てる会顧問、(社)CISV理事、在日本救世軍本営監事   略歴:1933年大阪に生まれる。関西大学英文科専攻后米国に留学、青少年教育を学び日本YMCAに就職。1969年、世界YMCA難民救済事業ベトナム担当ディレクターとしてサイゴンに7年間在住し、ベトナム難民の定住と難民青少年の教育に当たる。8年間、スイス・ジュネーブにある世界YMCA同盟本部の難民事業の統括責任者として国連難民弁務官事務所(UNHCR)との連絡担当、米国民間団体との交渉業務を担当する。1985年帰国後日本YMCA同盟常務理事・総主事1998年3月定年退職。1998年よりロータリー米山記念奨学会事務局長/専務理事、アジア青少年団体協議会会長、国際協力機構(JICA)青年海外協力隊・技術専門委員/青年海外協力隊を育てる会副会長・顧問として現在に至る。   プログラムは下記よりダウンロードしていただけます。 日本語 中国語    
  • 2012.07.01

    第5回ウランバートル国際シンポジウム「チンギス・ハーンとモンゴル帝国:歴史・文化・遺産」案内

    下記の通りモンゴル国ウランバートル市にてシンポジウムを開催いたしますので、論文、参加者を募集いたします。   【開催趣旨】   13世紀はじめ、チンギス・ハーンはモンゴル諸部を統一し、ユーラシアをまたぐモンゴル帝国を築きました。この偉業はチンギス・ハーンの子・孫に引きつがれ、モンゴル帝国も世界史上で最大の、空前絶後の世界帝国となりました。 チンギス・ハーンとモンゴル帝国について、かつてはさまざまな偏見、誤解がくりかえされ、歪曲、誹謗されていました。幸いにも、近年、とりわけ1990年代以降、チンギス・ハーンとモンゴル帝国に対する認識は変わりつづけ、チンギス・ハーンとモンゴル帝国に関する研究、論著も大きな成果を得て画期的な展開をみせてきました。 チンギス・ハーンは新しい歴史をつくりだし、モンゴル帝国はあらたな世界秩序を構築しました。チンギス・ハーンとその騎馬運団の挑戦は世界を揺るがしたと同時に、アフロ・ユーラシアの交流の道を大きくひらきました。モンゴル帝国時代、政治、軍事、商業、経済、貿易、科学、文化、宗教などはめざましく発展し、繁栄しました。これがあってからこそ、のちのヨーロッパのルネサンス、海洋進出があったのです。これらの歴史事実は、現在、世界的に承認されています。 しかし、チンギス・ハーンとモンゴル帝国は未だ謎に満ちており、解明されていない課題がいまだおおく残されています。チンギス・ハーン生誕850周年をむかえるこの機をとらえて、わたしたちは国際シンポジウム「チンギス・ハーンとモンゴル帝国――歴史・文化・遺産」を開催することにいたしました。 本シンポジウムは、近年の学界の最新の研究成果を総括し、歴史・文化・遺産の三つの視点からチンギス・ハーンとモンゴル帝国をアプローチし、広い視野から、特色ある議論を展開することを目的としています。   【日程】 2012 年7月24(火)~26日(木)   参加登録:7月24日(火)12:30~13:00 開会式・基調報告:7月24日(火)13:00~15:40 シンポジウム:7月24日(火)16:00~18:00時、 シンポジウム:7月25日(水) 9:00~12:00時、14:00~18:10時 草原への旅行:7月26日(木)   【会場】    モンゴル・日本人材開発センター 多目的室、セミナー室 (モンゴル国ウランバートル市)     【プログラム】        詳細は下記案内状をご覧ください。 案内状(日本語) Invitation in English    
  • 2012.06.15

    レポート第62号「Sound Economy ~私がミナマタから学んだこと~」

    レポート62号本文 レポート62号表紙   第6 回日SGRAチャイナフォーラム講演録 「Sound Economy ~私がミナマタから学んだこと~」 2012年6月15日発行   <もくじ・要旨>   【講演】Sound Economy (健全な経済と社会)~私がミナマタから学んだこと~                     柳田耕一(財団法人水俣病センター相思社初代事務局長)   水俣病は20世紀半ばに発生した世界で知られる環境問題の一つです。それは日本の南部の漁村で発生しました。当初、被害者は劇症型の病像を呈していたため「奇病」として恐れられ、隔離されるなどの酷い仕打ちを受けました。折から日本は戦後の復興期の入り口にあり、僻遠の地に救済の手が差し伸べられるまでには長い時間がかかりました。 公式発見から半世紀経った現在でも、抜本的な治療法は無く、被害の全体像の解明は進まず、地域経済は疲弊したままです。一方で水銀による環境汚染は世界中に広がり、酷似した症状をもつ人々も出現し、Minamata Diseaseは世界共通語となっています。現在では微量水銀の長期摂取による健康影響に世界の関心は向かっています。 もう一つの側面として関心がもたれているのは、社会経済的分野です。開発重視、科学重視、利益重視、人権無視の経済運営は、生活の基盤である環境を歪め傷つけ最後には地域社会そのものを持続不可能にしてしまいますが、その象徴として水俣病事件を捉えることもできます。   【報告】内モンゴル草原の生態系 ~鉱山採掘がもたらしている生態系破壊と環境汚染問題について~                      郭 偉(内モンゴル大学環境資源学院副教授)