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2013.11.27
2013年9月29日午後、東京国際フォーラムで第45回SGRAフォーラムが開催された。これはSGRA「安全保障と世界平和」チームが開催する6回目のフォーラムであるが、テーマは「紛争の海から平和の海へ―東アジア海洋秩序の現状と展望」であった。
「安全保障と世界平和」チームは、2012年2月に、「東アジア軍事同盟の課題と展望」と題してリユニオン・フォーラムを開催したばかりであったが、同年の夏から秋にかけて、日中、日韓間に島々の領有をめぐって激しい応酬があり、東アジアの海が荒れ模様を増している状況を前に、この地域において安全保障と平和を考える上で、領土問題は避けて通れないものであることを意識せざるを得なかった。「安全保障と世界平和」チームでは、東アジア共同体の構築が地域の安全と平和に寄与するとの認識を共有し、その可能性を模索することを内容にフォーラムを開催したこともあった。東アジアには、一方に軍事同盟の現実があり、もう一方に共同体構築の初期的徴候が見えるなか、徐々に「軍事同盟」から「共同体」へ移行しつつある、というのがこれまでのフォーラムの成果であったと思う。ところが、2012年の夏以降の情勢は、この見通しが現実離れしたものではないかという疑問を抱かせた。日増しに深刻化する領土問題は、上述の移行の方向を逆転させ、共同体構築の議論は失せ、軍事同盟強化の叫び声だけが鳴り響いているように思われる。折しも、フォーラム開催3日前の26日には、安倍晋三首相が国連総会で演説し「積極的平和主義」を唱えていたが、安倍首相の日ごろの言動からみて、それは日米同盟強化の掛け声のように聞こえていた。
果たして領土問題は東アジアの海に紛争の渦を沸き起こし、共同体議論は破綻してしまうのか。それとも領土問題は東アジアの人々に協力と平和の大切さを気づかせ、共同体議論の突破口を用意させるきっかけとなりうるか。この地域は今、その岐路に立っているといえるが、共同体議論と領土紛争は対蹠関係にあることから、そのどちらにしろ、性急な結論に走ってしまうように思われる。したがって、その中間領域で、かつ長いタイム・スパンで、じっくり現実を見つめる必要がある。「(武力によって)強制できず、(対話によって)譲歩できず、したがって解決できず」の現実が物語るのは何であるのか。その現実を見つめると、そこに戦後の歴史の中で紆余曲折を経ながら形成された「秩序と規範」、即ち「東アジア型国際社会」の存在を確認することができるのではないだろうか。第45回SGRAフォーラムはこうした問題意識から企画された。
その意味で、国際社会の「秩序と規範」を明文化した「国際法」の見地から、領土問題への視座を提供した村瀬信也先生(上智大学)の基調講演を最初に聴いておくのは、各国の立場を考慮して行われるメインの報告を適当な位置関係に並べるための縦軸と横軸を用意する上で、有用なことであった。村瀬先生は、国際法が国家間の「抗争」を「紛争」としてコントロールし、解決を図ることで国際社会に「法の支配」を確立し、平和と安定を保証してきたと強調し、特に国際法の中心的役割が「紛争の司法的解決」であるとして、日本が抱える3つの領土問題の解決を国際司法裁判所に委ねることを提案している。また村瀬先生は、その前段階として、日露の間で作成した『共同作成資料』のようなものを日韓、日中間にも作成することが望ましいと主張した。その主眼は領土問題を「非政治化」することにあった。
メイン報告は5つあった。順に韓国、中国、台湾、日本の立場からの報告があり、北極海における日中韓の協力の可能性についての報告で締めくくられた。まず韓国からの発言として私が報告した。私は、1965年の日韓漁業協定締結に至る日韓交渉の経緯を振り返り、そこに「東アジア型国際社会」の形成を見出すことが可能であるという内容の報告を行った。領土問題も絡み熾烈に展開された漁業交渉の過程において、日韓の交渉者たちは「国際法の適用」を受け入れ、そのため「国際法とは何か」をめぐって交渉が展開した。その結果、当時の国際法の常識を超え、グローバル・スタンダードを先取りする形で妥協が成立したが、私は、その経緯から学ぶべきことがあると主張した。
次に李成日さん(中国社会科学院)による中国の立場からの報告があった。李成日さんは、経済的相互依存が深まる反面、歴史認識と領土問題をめぐり政治関係において摩擦が激化するアジア・パラドックスへの中国の対応を考察することで、領土問題に対する中国の立場を暗黙に提示しようとした。その1つが「新型大国関係の構築と推進」であるとし、その中で「米国の東アジア同盟体制」と「中国の経済的台頭」という2つの新しい秩序変動要因の組み合わせを調整することで、地域の安定を確保することができるということであった。李成日さんは領土問題について直接言及はしていないが、読み方によっては、米国の東アジア同盟体制を硬直化させ、その結果、中国の平和的発展に不利な国際環境を作り出すことに繋がりかねない領土問題に中国は内心慎重である、と解釈できる報告だった。
私と李成日さんの報告は、領土問題を直接扱った報告というよりは、領土問題が時間の長さと空間の広がりのなかでどのような意味を持つものかを提示したものであった。これに対して林泉忠さん(台湾中央研究院)は、領土問題を正攻法で取り上げ、最近中国が関心を寄せ、台湾が戦後一貫して主張してきた「琉球地位未定論」を敢えてテーマにした。林泉忠さんが問題にしたのは、「なぜ中国において琉球地位未定論が再燃しているか」ということと、「領土問題と沖縄問題との間にどのような接点があるのか」という2つの問いであった。林泉忠さんは、琉球地位未定論が日本の9.11国有化措置への反応であること、領土問題に沖縄問題が絡む背景に長い歴史の経緯があることを明らかにした上で、結論としては、琉球地位未定論の再燃は領土紛争の解決に役立たないとの意見を表明した。
福原裕二さん(島根大学)は、領土問題を国家のナショナリズムのレベルから離れ、その海域を生活の場とする漁民の視線に目の高さをあわせた分析を行った。福原さんは、研究者があまり取り扱おうとしない漁業関係の資料に目をむけ、丁寧な実証分析を行った結果、日韓間の海域における漁業の実態と損得勘定などを合わせて考えるならば、これまでの議論やアプローチは、問題の内実を捉えることができないばかりか、むしろ、領土問題と漁業問題の交錯した形で危機的状況を醸成している現実を浮かび上がらせた。その結果、領土問題の議論のあり方は、実は、地域の経済と人々のニーズに即した問題解決を遠ざけているという。
ここまでの報告が日中韓の「紛争の海」をテーマにしたものであるなら、朴栄濬さん(韓国国防大学)は日中韓の「協力の海」が北極海において実現可能な機会として登場しつつあることを力説する報告を行った。日中韓の三国は隣接する海域で紛争を繰り広げながらも、一旦グローバルな舞台に立てば、協力することから生まれる利益が、葛藤による損失の発生を上回ることを知ることになる。今は、北極海がそのような舞台になりつつある。この地域での協力の可能性を現実のものとするためには、隣接する海域での紛争をうまく管理する必要がある。朴栄濬さんの報告は、遠くの「協力の海」を媒介に、近くの「紛争の海」は「平和の海」になり得る、といっているように聞こえたが、それは行き過ぎた解釈であろうか。
当初、司会の役を任された朴栄濬さんであったが、私がこの報告を強く要請したことから、報告者に回ることになった。そのため、李恩民さん(桜美林大学)に司会をお願いした。領土問題はデリケートな問題であり、難しい役回りであったが、李恩民さんは快くお引き受けくださり、慎重な進行で、フォーラムの成功を導いた。
5つの報告が終わり、パネル・ディスカッションが始まった。パネル・ディスカッションも李恩民さんの司会で進行した。明石康さん(元国連事務次長)は、講演者や報告者が、時間の制限のため言えずに終わったこと、または暗黙に示唆した行間の意味をやわらかい言葉に包みなおして講演や報告の真意を一つ一つ丁寧に再確認し、このフォーラムが「領土問題ということで、とかく悲観的に暗い思いに浸ることに対する1つの建設的なアンチテーゼになっている」と総括した。その後、質疑とコメントがあった。それは、領土問題の国内政治、すなわち領土問題を提起する各国の政治的な意図の問題(高橋甫さん)、日中間の領土問題をめぐる決定的期日の問題と、領土問題と関連した中台協力の可能性(王雪萍さん)、北極海において協力を模索することが逆に領土紛争と絡んだトラブルを増大する可能性(黄洗姫さん)、領土問題解決の前提として日本の植民地主義に対する反省の総括の必要性(角田英一さん)、琉球独立論と「琉球地位未定論」の関係(沼田貞昭さん)、国際法の見地という大局的レベルと漁民たちの働く現場レベルに同時に焦点を合わすことの意義(加藤青延さん)、日韓間において歴史的に存在した「東アジア型」の解決を東南アジアに適応することの可能性(マキトさん)など、多岐にわたる質疑とコメントが寄せられた。質疑応答の時間を経て、講演と報告で言及されなかったが、この地域に散らばる領土問題を考える上で、必然に出会わされる問題の数々が出揃い、それに対する、講演者と報告者たちの暫定的結論が提出された。その詳細についてはレポートを参照されたい。
戯論と書いて「ケロン」と読む。言わずに知っていることをことさら言葉にする無益な言論を指す仏教用語である。誰の目にも明らかに墜落している飛行機のなかで「この飛行機は墜落するぞ」と騒ぎ立てる行動がそれに当たる。極端な例えであるが、そのような人は、懸命に機体を正常に戻そうとする機長にすれば、邪魔以外の何物でもない。物事の現象から距離をおくことで問題の根本に到達することを戯論寂滅というのだそうだ。無記(むき)という言葉もある。善悪、または正邪を決定することのできない、無意味な議論に応対しないことを指す。正論という名で横溢する戯論に無記で対応すること、それも一つの方法といえよう。問題のあり方を把握するより問題提起の仕方を工夫することによって問題解決の方向が違ってくるという考え方もある。国際関係論ではコンストラクティヴィズムの理論的枠組みがこれに近い。もっとも林泉忠さんのいうとおり、学問にタブーがあってはいけないが、プルーデンス(prudence、思慮)はなにも政治家だけに要求される徳目ではないだろう。
フォーラムの後に、「もっと荒れるかと思った」という感想が寄せられた。聴衆にとって、荒れずに終わったフォーラムが期待はずれだったのか期待通りだったのか、分からない。しかし「拍子抜け」の感想を持ったとすれば、企画の意図は活かされたことになる。報告者たちはみな、自国の立場を尊重、あるいは考慮しながらも、お互いに喧嘩する意図は最初からなかったからである。その点では、聴衆たちも同じ気持ちであったのではないかと察する。これは東アジア国際社会の現実でもあるのではないだろうか。この地域で協力は選択科目ではなく、必須科目だからである。そんな国同士で領土問題をめぐる劇的解決などありえない。実際の展開が「拍子抜け」の結論に終われば、もっともいい。紛争の海こそ平和の海への合鍵である。
フォーラムの写真
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<南 基正(ナム・キジョン)Nam Kijeong>
ソウル大学日本研究所副教授。韓国のソウル市生まれ。ソウル大学校にて国際政治学を学び、1991年にM.A.を取得。また、2000年には東京大学で「朝鮮戦争と日本-‘基地国家’における戦争と平和」の研究でPh.D.を取得。2000年には韓国・高麗大学平和研究所の専任研究員、2001年から2005年まで東北大学法学研究科の助教授、2005年から2009年まで韓国・国民大学国際学部の副教授などを経て現職。戦後の日本の政治外交を専門とし、最近は日本の平和主義や平和運動にも関心を持って研究している。主著に『戦後日本と見慣れぬ東アジア(韓国文、編著)』、『歴史としての日韓国交正常化II: 脱植民地化編(共著)』などがある。
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2013年11月27日送信
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2013.11.13
レポート66号本文(日英中合冊版)
レポート66 号表紙
沼田貞昭(元カナダ大使、日本英語交流連盟会長)
「日英戦後和解(1994-1998)」
講演録 2013年10月20日発行
<本文より>
戦後和解の問題について、学者としてではなく、外交の実務者として経験したことをお話します。戦後和解という場合にいろいろな側面がありますが、私は1994~98年まで在英大使館のナンバー2として勤務していたときに、一番この問題を経験しましたので、そのことを振り返ってみたいと思います。私にとってイギリスは、それが2回目の勤務でした。最初に勤務した1960年代の後半は、戦争の記憶がまだ残っていましたが、捕虜の問題が非常に騒がれている状態ではなかったのです。ところが、2回目の勤務中の1995年は、戦争が終わってちょうど50周年で、この問題がはっきりと出てきて、その処理に腐心することになりました。
SGRAレポート66号本文(日本語版)
SGRA Report #66 (English Edition)
SGRAレポート66号本文(中文版)
SGRAレポート66号本文(ハングル版)
SGRAレポート66号本文(ハングル版)表紙
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2013.11.06
第2回SGRAスタディツアーは、「福島県飯舘村へ行って、知る・感じる・考える」をテーマに、2013年10月18日(金)から20日(日)までの2泊3日に亘って行われました。実施にあたって、特定非営利活動法人「ふくしま再生の会」とGlobal Voices from Japanにご協力を頂きました。
初日の早朝、本年度及び元渥美奨学生、その他のSGRA関係者を中心に、寝ぼけ眼の参加者十数名が池袋のサンシャインシティに集合しました。バスの中では、最初の休憩後、ようやく目が覚めたところで、ふくしま再生の会より事前に提供して頂いた資料を基に、飯舘村の基礎知識と再生の会の活動概要について、再生の会でも活躍されているGlobal Voices from Japanの角田英一さんから簡単な説明を受けました。なるべく先入観や偏見をもたず、頭を白紙の状態にして現場に入るのが重要ということで、事前学習は本当に初歩的な内容に止めました。
お昼は、福島駅前で弁当を食べましたが、ここで3日間の案内人を担当してくださった、ふくしま再生の会の代表を務めていらっしゃる田尾陽一さんと合流しました。現地での流れ、地域の歴史や特性、また放射能汚染に関する田尾さんのレクチャーを聴きながら、仮設住宅に向かいました。この時点から配布して頂いた線量計で放射線量の計測を始めました。
仮設住宅では、自治会の会長、副会長、管理人の方々をはじめとして、入居者の皆さんからお話を伺いました。その中で最も印象的だったのは、実質的な家族分離状態に関する悩みでした。というのは、飯舘村は災害の前は3世代以上の世帯が一般的であったのに、汚染被害を受けた後、希薄な支援体制の下で避難する中で、この世帯構成が崩れてしまったのです。子どもをもつ若い世代は別の地域で生活を再建し始め、仮設住宅に残っているのは高齢者ばかりです。さらに、皆さんは自分の土地、即ち日々の農作業からも切り離されており、経済的な困難に加え、プレハブでは孤立しがちになるという課題も抱えていらっしゃいます。
次に、飯舘村の小学校3校が移されている仮設校舎を訪問し、3人の校長先生と懇談しました。校舎では良い学習環境が整っているとはいえ、生徒さんが学校外で過ごす時間の様子が心配事の一つであることが分かりました。具体的には、放課後の過ごし方が避難前後で大きく異なります。今は全員、授業が終わるとすぐにスクールバスで帰宅します。避難先がバラバラであるため、近所の友達関係などの絆が失われてしまいました。さらに広い空間と自然に恵まれた農村環境から切り離されたため、毎日の運動量が減り、体力低下が気になるそうです。バス通学や校庭が狭くなったことも影響しているはずです。
続いて、仮村役場に行って「通行証」をもらい、実際の避難区域にあたる村に入りました。誰もいない従来の村役場の前で、最近まで村議会議員であった農家の菅野義人さんと待ち合わせた後、彼の案内を受け、村を見学しました。各種の公共施設、田畑(水田と畑)、バリケード、神社などを順番に回り、避難前後の状況と将来の展望について説明を聴きました。そして、手元の線量計で各所の汚染状況を自分達で常に確かめました。
夕方、隣接の伊達市にある旅館に着き、入浴を済ませた後の夕食では、各自の感想を共有し、不明な点を田尾さんに質問しながら議論を展開しました。参加者の心の中では、特に午後聴いた菅野義人さんの村と自分の家の歴史に関する言葉が響いたようでした。彼の家系は飯舘村において何世代にも亘る、少なくとも400年以上に至る歴史があり、天明の大飢饉(江戸中期)の際に90世帯のうち村に残った僅か3世帯の一つにあたるということです。今回の放射能汚染からの復興も自信がある、という極めて逞しい言葉でした。
2日目は、朝食をとってからバスで南相馬市に行き、約6キロまで福島第一原発に近づきました。原発までの現在の運輸経路とバリケードの現状、津波による被害状況や堤防などを見学し、放射線量を測って回りました。線量は飯舘村よりもずっと低いのですが、原発から20キロ圏内は長い間立ち入り禁止になっていたため、津波からの復旧が遅れています。
道の駅で昼食をとってから、飯舘村に戻り、午後は田尾さんに加えて農業委員会会長の菅野宗夫さんにお世話になりました。国家行政が進めている除染事業のぎくしゃくした流れ(仮々置場→仮置場→置場)について一通り把握し、その実態を見た後、菅野宗夫さんの土地を拠点にしているふくしま再生の会による様々なプロジェクトを見学しました。水力発電、オールタナティブの除染方法の開発、それを踏まえた栽培実験等々について勉強させて頂きました。最後に、菅野宗夫さんのご自宅でこたつを囲んで、災害直後の避難の流れなどのお話を直接伺いました。
宿舎に戻って入浴後の夕食兼総括は、菅野宗夫さんご夫妻とお父様も出席して下さったお陰で、懇談しながら有意義に議論が展開する会になりました。お父様は、蓼科ワークショップ参加者にとって映像からお馴染みの歌まで披露して下さいました。疲れが相当溜まっているにも関わらず、参加者はそれぞれの部屋に戻ってからも、目が自然に閉じてしまう直前まで、活発な議論で盛り上がりました。
最終日は、朝食をとって旅館を出発し、地域の歴史に対する理解を深めるために伊達市の文化財である保原歴史文化資料館に立ち寄りました。池袋に着いたのは夕方で、到着後すぐ解散となりました。
実は、私の出身国ハンガリーにおいて、与党は経済成長に伴い、かつロシアの資源への依存から脱却するために、原発を増設する方針を数カ月前に発表し、なおかつその技術移転を巡って日本と交渉する意図を明らかにしました。したがって、今回のスタディツアーでは、日本滞在期間に合わせて東電の電力使用歴が10年を上回る東京都民、あるいはコミュニティ開発・復興についても研究しているソーシャルワークの専門家という立場のみでなく、ハンガリーを母国とする身としても、個人的に考えさせられることがたくさんありました。参加者の具体的な感想も含む、より詳しい記録に関しては、映像作家の朴炫貞さんが撮影して下さったドキュメンタリー映像を楽しみにしていてください。
旅行の写真
金範洙撮影(1)
金範洙撮影(2)
今西撮影
ふくしま再生の会Facebook
-------------------------- <ヴィラーグ ヴィクトル ☆ Virag Viktor > 2003年文部科学省学部留学生として来日。東京外国語大学にて日本語学習を経て、2008年東京大学(文科三類)卒業、文学学士(社会学)。2010年日本社会事業大学大学院社会福祉学研究科博士前期課程卒業(社会福祉学修士)、博士後期課程進学。在学中に、日本社会事業大学社会事業研究所研究員、東京外国語大学多言語・多文化教育研究センター・フェローを経験。2011/12年度日本学術振興会特別研究員。2013年度渥美奨学生。専門分野は現代日本社会における文化等の多様性に対応したソーシャルワーク実践のための理論及びその教育。 ---------------------------
2013年11月6日
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2013.10.18
SGRAでは昨年に引き続き、福島県飯舘村スタディツアーを下記の通り行います。
参加ご希望の方は、SGRA事務局へご連絡ください。
日 時: 2013年10月18日(金)~20日(日)
<日程変更しました!>
集 合: 午前7時に池袋駅 (または午前11時に福島駅)
参加費: 15000円(交通費、食費、宿泊費を含む)
*ラクーン会員の方には補助がありますので事務局へお問い合わせください
定 員: 先着20名
募集締め切り:2013年9月20日(ただし定員になり次第募集を締め切ります)
申し込み・問い合わせ:SGRA事務局(
[email protected])
主催:渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)
協力:特定非営利活動法人「ふくしま再生の会」
フォーラムの趣旨:
SGRAでは、2012年2月25日に韓国高麗大学で、第11回日韓アジア未来フォーラム「東アジアにおける原子力の安全とエネルギー問題」を開催した後、同年10月19日から21日に、福島県飯舘村への第1回スタディツアーを実施、同年12月6日には東京で第2回SGRAカフェ「福島をもっと知ろう」、2013年7月5日から7日は、長野県蓼科でSGRAワークショップ「原発を知り、感じ、考える」を開催し、福島の現状を知って、原発の問題についてひとりひとりが考える機会を提供しています。
これらの一連のプロジェクトは、ソウルのフォーラムでご講演いただいた田尾陽一様のお取り計らいで、「ふくしま再生の会」およびGlobal Voices from Japan(GVJ)のご協力を得て進めています。「ふくしま再生の会」は東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故によって破壊されてしまった被災地域の生活と産業の再生を目指すボランティア団体です。2011年6月以来、飯舘村に活動の拠点を設け、被災者の方々とともに知恵を出し合いながら再生へ向けた各種のプロジェクトを推進しています。また、GVJは、留学生、日本留学経験者、日本やアジアに関心のある世界の若い世代のオピニオンや情報(News)を発信するInternet Broadcasting Systemです。今回のツアーでは、飯舘村を訪問してふくしま再生の会のプロジェクトを見学し、地元の方や関係者と懇談し、福島の再生について一緒に考えます。
プログラム
10月18 日(金)
7:00池袋駅、あるいは11:00福島駅集合。貸切マイクロバスで飯舘村へ。村内見学(村役場周辺、比曽地区、長泥地区バリケードなど)17:00霊山(りょうぜん)紅彩館ホテル着。食事後全員でミーティング。
10月19日(土)
7:30朝食、午前、南相馬見学。午後、飯舘村佐須・菅野宗夫さん宅着。宗夫さんと懇談、周辺の「ふくしま再生の会」実験場所見学。食事は、全員で紅彩館ホテルのレストランで。食事後全員で総括ミーティング。
10月20日(日)
7:30朝食、9:00出発。伊達市見学後、貸切マイクロバスで東京へ。池袋解散。(福島駅下車可)
皆様のご参加をお待ちしています。
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2013.10.09
―今西淳子氏にモンゴル科学アカデミー栄誉学位を授与―
2013年9月5、6日の2日間、渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)とモンゴル科学アカデミー歴史研究所の共催、在モンゴル日本大使館、モンゴル・日本人材開発センター、モンゴルの歴史と文化研究会の後援、双日株式会社、鹿島建設の協賛で、第6回ウランバートル日モ国際シンポジウム「モンゴルにおける鉱山開発の歴史、現状と課題」がウランバートルで開催された。
近年、モンゴルは新たな資源大国として世界から熱い視線を集め、大きな変動期をむかえている。しかし、資源開発にともなう負の側面も問題化し始めた。インフレの進行、貧富の格差や環境汚染は日々深刻さを増し、社会インフラの整備の遅れも目立っており、大規模資源開発はモンゴルの地域生態システムへの影響をももたらしている。モンゴル政府は、鉱山開発、資源利用における関係諸国との友好関係を強調しながら、多くの葛藤に遭遇しており、対外関係は近時、複雑化してきている。このような現状のなか、今西SGRA代表と私は、モンゴル国の関係者と話し合って、今回のシンポジウムを企画した。
本シンポジウムでは、モンゴルにおける資源開発の歴史を振り返りつつ、同国の鉱山開発の現状、問題点をより多元的かつ総合的に把握し、さらに経験や教訓、問題への解決方法について、広い視野から検討することによって、モンゴルの持続可能な資源開発の発展のために意味のある議論を展開することを目指した。
9月4日午前、私がウランバートル国際空港に着くと、モンゴル科学アカデミー歴史研究所の職員が出迎えに来てくれたが、交通渋滞で、空港から歴史研究所に着くまでに、2時間余りもかかった。S.チョローン所長と会談した後、同研究所の職員と一緒に、プログラム、要旨集、会議でつかうパワーポイントなどを確認し、日本大使館の青山大介書記官とも連絡をとった。その後、ケンピンスキーホテルにて、6日夜のSGRAの招待宴会のメニューなどを確認して予約した。そして、今西さんと高橋甫氏を出迎えるため、空港に行った。
5日の昼、チョローン所長はスフバートル広場の隣にあるレストランに今西さん、高橋さんと私を招待した。モンゴルの鉱山開発や、日本と北朝鮮政府のモンゴルでの交渉などが話題になり、大変興味深かった。午後、私は歴史研究所の職員と一緒に会議の準備をし、夕方、モンゴル・日本人材開発センターにて、同時通訳設備のセッティングなどをした。日本からの参加者のほとんどはこの日の夜、ウランバートルについた。
6日午前、モンゴル・日本人材開発センター多目的室で開会式がおこなわれ、在モンゴル日本大使館の林伸一郎参事官、今西代表、モンゴル科学アカデミーのB. エンフトゥブシン総裁(E. プレブジャブ事務局長が代読)が挨拶をした。
今西さんはSGRA代表として、長年にわたって国際交流活動に貢献し、顕著な業績をあげ、とりわけモンゴルで国際理解に重要な意義を持つ国際学術シンポジウムをおこなってきて、日モ交流の促進とモンゴル研究の発展へ寄与した功績で、モンゴル科学アカデミーより同アカデミー最高栄誉賞――栄誉学位を授与された。モンゴル科学アカデミーはモンゴルの最高の科学学術機関であり、栄誉学位は同科学アカデミーの最高栄誉賞である。
開会式の後、前モンゴル工業大臣Ts. ホルツ氏が「モンゴル鉱業開発史」、名古屋大学客員教授、前在モンゴル日本大使 城所卓雄氏が「モンゴルにおける鉱山開発の歴史と問題点」をテーマとする基調報告をおこなった。
午前中の後半の会議では、モンゴル科学アカデミー歴史研究所のN. Ganbat副所長と埼玉大学の外岡豊教授が座長をつとめ、6本の論文が発表された。午後の会議では、高橋甫氏とモンゴル国立大学のJ. Urangua教授が座長をつとめ、7本の論文が発表された。その後おこなったディスカッションでは、チョローン氏と私が座長をつとめ、モンゴルの鉱山開発における問題点やモンゴルは戦後日本の経済発展の経験と教訓から何を学ぶべきかなどをめぐって、活発な議論が展開された。
同日夜ケンピンスキーホテルでSGRA主催の招待宴会がおこなわれ、50人ほどが参加し、モンゴルの国家殊勲歌手や馬頭琴奏者、柔軟演技者が素晴らしいミニコンサートを披露した。
7日午前の会議では、東京外国語大学の上村明氏とモンゴル科学アカデミー歴史研究所のS. Tsolmon教授が座長をつとめ、鉱山開発と環境保護をテーマとする11本の論文が報告された。日本からは上村明氏、外岡豊氏、特定非営利活動法人「地球緑化の会」の栁田耕一氏、千葉大学准教授児玉香菜子氏、SGRA会員で昭和女子大学准教授マイリーサ氏、首都大学東京非常勤講師包聯群氏、同大学教授落合守和氏(共同発表)が参加し発表した。N. Ganbat氏と一橋大学名誉教授田中克彦氏はその後のディスカッションの座長をつとめた。
午後は、ウランバートルから130キロほど離れたところにあるバガノール炭鉱を見学した。日本からの参加者にとって、この見学は非常に重要であった。その日の夜、バガノールの観光リゾートで歴史研究所主催の招待宴会がおこなわれた。星空のもと、宴会は続き、みなそれぞれの思いを語り、歌った。翌日の朝、今西さんの携帯から、2020年オリンピック開催地は東京に決定という朗報が入ってきて、みんなで喜びを分かち合った。
二日間の会議には、90人あまりが参加した。日本からは上記の報告者のほかに、双日株式会社の代表や「モンゴルの花」社の代表、名古屋大学の教員、東京外国語大学の留学生なども同シンポジウムに参加した。モンゴル国営通信社など22社が同シンポジウムについて報道した。
シンポジウムの写真
フスレ撮影
今西撮影
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<ボルジギン・フスレ Borjigin Husel>
昭和女子大学人間文化学部准教授。北京大学哲学部卒。内モンゴル大学芸術学院助手、講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。昭和女子大学非常勤講師、東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員をへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編『ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年――2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2010年)、『内モンゴル西部地域民間土地・寺院関係資料集』(風響社、2011年)、『20世紀におけるモンゴル諸族の歴史と文化――2011年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2012年)、『ハルハ河・ノモンハン戦争と国際関係』(三元社、2013年)他。
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2013年10月9日配信
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2013.09.29
下記の通りSGRAフォーラムを開催いたします。参加ご希望の方は、事前にお名前・ご所属・緊急連絡先をSGRA事務局宛 ご連絡ください。
テーマ:「紛争の海から平和の海へ-東アジア海洋秩序の現状と展望-」
日時:2013年9月29日(日)午後1時30分~5時30分 その後懇親会
会場:東京国際フォーラム ガラス棟 G409 号室
参加費:フォーラムは無料 懇親会は正会員1000円、メール会員2000円
お問い合わせ・参加申込み:SGRA事務局(
[email protected], 03-3943-7612)
◇フォーラムの趣旨
東アジアの海が荒れている。特に2012 年は日中・日韓の間で島々の領有をめぐり、激しい応酬が見られた。日本はロシアとの間でも4 つの島をめぐり領土問題を抱えている。このような現状で、東アジア共同体の構築に向けた議論はどこにいってしまうのか。果たして領土問題は東アジアの海に紛争の渦を湧き起こし、共同体議論は破綻してしまうのか。それとも領土問題は東アジアの人々に協力と平和の大切さを気づかせ、共同体議論を一歩前進させるきっかけとなりうるか。この地域は今、その岐路に立っている。一方、共同体議論と領土紛争はあまりにもかけ離れているため、そのどちらにしろ性急な結論に走ってしまうように思われる。したがって、その中間領域で、かつ長いタイム・スパンで、じっくり現実を見つめることが必要である。「(武力によって)強制できず、(対話によって)譲歩できず、したがって解決できず」の現実が物語るのは何であるのか。その現実を見つめると、そこに戦後の歴史のなかで紆余曲折を経ながら形成されてきた「秩序と規範」、即ち「東アジア型国際社会」の存在を確認することができるのではないだろうか。SGRA「東アジアの安全保障と世界平和」研究チームが担当する第6 回目のフォーラムは、こうした問題意識から「東アジア海洋秩序の現状と展望」を語ることで「紛争の海から平和の海へ」の可能性を模索したい。
◇プログラム
詳細はこちらをご覧ください。
司会:李 恩民(桜美林大学リベラルアーツ学群教授)
【基調講演】村瀬信也(上智大学法学部教授)
「東アジアの海と領土-国際法の視点から-」
【発表1】南 基正(ソウル大学日本研究所副教授)
「東アジア型国際社会の出現-日韓漁業協定(1965)への過程を振り返るー」
【発表2】李 成日(中国社会科学院研究員)
「東アジア国際システムの現状と展望-中国内の議論を中心に—」
【発表3】林 泉忠(台湾中央研究院副研究員)
「「琉球地位未定論」の再燃で尖閣紛争の解決に役立つのか-中国と台湾の議論を中心に-」
【発表4】福原裕二(島根県立大学准教授)
「竹島/独島をめぐる海の一断面」
【発表5】朴 栄濬(韓国国防大学校安全保障大学院教授)
「北極海の開放と韓国・日本・中国の海洋協力可能性」
【パネルディスカッション】
司会:李 恩民
総括:明石 康(国際文化会館理事長)
討論者:上記発表者
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2013.09.25
2013年8月23日、フィリピン大学工学部にて、第16回日比共有型成長セミナー「都会・農村の格差と持続可能な共有型成長」が開催された。
午前8時45分、予定通りフィリピンと日本両国の国旗掲揚で開会した。日の丸は在フィリピン日本大使館から借り、両国の国歌は、英語訳のついたものをYouTubeからダウンロードした。今年の3月のSGRAかわらばん(エッセイ368:マニラ・レポート2013年冬)でも報告したように、本セミナーを共同で主催する団体の2つの国、フィリピンと日本の国旗掲揚と国歌演奏を行うことは、本セミナーの顧問である東京大学の中西徹教授からヒントを得て、フィリピン人で構成されたセミナー実行委員会で私が相談した結果である。ご存知のように、第2次世界大戦の最後に、マニラはベルリンとスターリングラードと並べられるほど壊滅的な破壊を被った。他の東南アジアの都市では、日本軍は比較的早く降伏したのに、なぜかフィリピンでは徹底抗戦をし、大勢の地元住民が巻き込まれた。実行委員会で相談した時、数人の委員が当時自分の家族が日本軍から受けた経験を分かち合ってくれた。私の提案は拒否されるのではないかと思ったが、最後には、全員一致で受け入れてくれた。「あの戦争は忘れてはいけないが、それを乗り越えて前に進まなくては」と。
中西先生が、参加者の誤解を招かないように、この国旗掲揚の意味を、開会挨拶で感動的に語ってくださった(下記参照)。日本大使館から日の丸の貸し出し許可が下りたので、中西先生と日の丸を受け取りにいく時に、大使にご挨拶をしたいと伝えたところ、卜部敏直大使は中西先生のために夕食会を開いてくださった。実行委員会のメンバー数人も一緒に招待され、大使公邸でマニラで一番美味しい和食をご馳走になった。
今回のセミナーは様々な点で今までの記録を更新した。参加者(200人強)、報告(25本)、協力(在フィリピン日本大使館、フィリピン高等教育委員会)、協賛(鹿島フィリピン、農業訓練所、マリア エズペランザ・B・ヴァレンシア&アソシエイツ、ダニエル・B・ブリオネス建設、フィリピン建築家連合)の数が倍増した。皆さんのご支援とご協力に心から御礼を申し上げたい。そして、実行委員たちが本当によく頑張ってくれたことに感謝したい。企画に協力してくれたフィリピン大学建築学部、フィリピン水と衛生センター、元日本国文部省奨学生同窓会、そしてフィリピン大学工学部(とくに機械工学部)にも感謝の意を表したい。
セミナーのテーマは「都会・農村の格差と持続可能な共有型成長」で、5つのブロックに分かれた。「持続可能な共有型成長(その他)」(ブロック1)、「都会・農村のコミュニティにおける社会サービスと生活」(ブロック2)、「持続可能な農業」(ブロック3)、「持続可能な都市」(ブロック4)、「都会の緑とグレー」(ブロック5)である。各ブロックで、平均5人の発表者から各15分の報告があった。合計26本の報告は一日がかりであった(最終的なプログラムは下記リンク参照)。フィリピンは丁度雨季で、セミナーが開催された週はフィリピンの各地で洪水がおこり、キャンセルした報告者や参加者もあった。しかし、実行委員会の懸命な努力により、220人もセミナーに参加してくれた。
名前を出さないのは報告者に対して申し訳ないが、全ての報告についてここで語りきれないので、関心のある読者はぜひ下記リンクより論文要旨をご参照ください。どの報告も、私達が目指すフィリピンのためのKKK(効率・公平・環境)を掲げたものである。ブロック1では、共有型成長KKKに関する定義が取り上げられた。「幸せ」、「環境倫理」、「日本から学んだ共有型成長」というやや広範なものから、フィリピン人が好む「モールに行くこと」やアキノ政権の「健康政策」という具体的な事例まで語られた。ブロック2では、水や衛生を地方に普及させるWASH(Water Sanitation and Health 水に関する衛生と健康)や、高原で母なる自然と調和するシステムを営んでいるKISS (Kapangan Indigenous and Sustainable Systems カパンガン地区における土着かつ持続可能システム)プロジェクトを中心に報告が行われた。お弁当のランチを挟んでブロック3では、ネグロスで実施されている事業を中心に議論が進められた。この事業については僕がDIRI(Downstream Integrated Radicular Import-Substitution 下流統合型幼根的輸入代替)モデルと命名し、研究を続けている。ブロック2と同じくこのブロックでも持続可能な共有型成長のための試みが語られたが、WASHは基本的にPCWSという非営利団体主導、KISSは農地改革省主導、DIRIは民間企業主導と、多様な形がある。ブロック4ではいかにマニラが都市集中型の発展から離れるかという主旨で、他の地方や国(オランダ)の持続可能なモデルが紹介された。同時に、東アジアにおけるフィリピンの戦略的な立地活用についても議論が進められた。ブロック5では、都会の緑とグレーの両側面についての報告があった。前者では、自然が重視されたモールや公共のスペースや都会型の農業がテーマだったが、後者では、都会のゴミは貧しい人々によって処理されているが、その人々を社会の公的な部分に取り入れる重要性が訴えられた。
会場から飛び込んできた質問があった。「あなたはフィリピンにおける共有型成長の実現をどう展望しているか、どのように実現できるかを聞かせてください。」
僕は、過去数年間製造業を、そして近年は農業を通じて、フィリピンの共有型成長へ貢献する道を探ってきた。中小企業・労働者・東アジアと成長が共有できそうなフィリピンの製造業や、KKKを実現できそうな持続可能な農業の可能性を探ってきた。そして、これらの部門を支援・指導する国家戦略がなければ、この可能性を実現することはできないという結論に至っている。僕たちが色々頑張ってみても、あまり進展がない感じである。というのは、フィリピン社会は、海外出稼ぎ者の送金に依存する深刻な病に掛かっている。フィリピン政府が、困難な産業・農業発展戦略を実施しなくても、海外出稼ぎ者から準備外貨が送金される。だから、この質問に対して明るい展望をなかなか描けない。
このように答えざるをえないはずであったが、このセミナーの2週間前に、僕はフィリピンにとって新しい道を発見した。そのきっかけは、国士舘大学の平川均教授、名古屋工業大学の徳丸紀夫教授、創価大学の遠藤美純博士によるフィリピンIT産業の調査である。1週間、IT産業の関係者とのヒアリングを行い、訪問中の皆さんと議論したお陰で、フィリピンIT産業には、上述したような製造業や農業の潜在力を引き出すダイナミズムが十分にあることに気付いた。フィリピンでも共有型成長の展望が明るくなったという気がする。
僕の発表の時に、僕の方から質問を投げかけた。「我々が日本から学べるものに関心がある人?」会場の3分の2ほどが挙手してくれた。手を挙げていない人々よ、これから僕が日本から学んだ共有型成長についてお話ししましょう。日本からいかに学べるか、経済学の視点から説明しましょう。この15分間の話で納得できない方のために、今、「フィリピンのために日本から学ぶ共有型成長」という本のシリーズを執筆しています。
今度のマニラ訪問で、意気投合した仲間達とその本の共著を決めた。その仲間が、いつ出版するのかと聞かれた時に、「5年前(に出版すべきだった)」と即答した。彼はフィリピン政府の政策立案・実行と多くの開発プロジェクトに関わっているからであろうか、この研究の重要性をすぐ理解してくれた。数年間、友人の経済学者に共有型成長の重要性を訴えてきたが、従来型の経済学(つまり市場万能主義)はフィリピンでも根強いらしい。この本にマニラ・セミナーのビションを詳細に書き、従来型と違う経済学をフィリピンに紹介しようと思っている。
この夏、フィリピンで大きなエネルギーをいただいた。第17回日比共有型成長セミナーは、来年の2月にマニラで開催する。「早すぎない?」と悲鳴をあげた実行委員もいたが、幸い20人以上の委員が、フィリピンのためのKKKという我々の使命を理解してくれている。第17回目のマニラ・セミナーは日本の建国の日、2月11日に開催する予定である。
関連リンク等
1.フィリピンの国歌 (英訳付き)
2.日本の国歌(英訳付き)
3.セミナープログラム (又はSGRAセミナー・レポート、まだ作成中)
4.発表書類
5.本エッセイ「マニラ・レポート2013年夏」の英語版
6. マニラ・セミナー16報告書(英語)
7. 中西徹教授の国旗と国歌に関する挨拶文
■ NAKANISHI, Toru "On Sharing the National Flag and National Anthem"
It is my great honor to be given a chance to talk about sharing and respecting the National Flag and National Anthem between the Philippines and Japan as a Japanese. The idea of this opportunity comes from an informal discussion with Dr. Max, Ferdinand Maquito, Program Organizer of this conference.
Frankly speaking, however, I could say that I have not loved HINOMARU and KIMIGAYO for a long time. I think many Filipinos may be surprised to hear this, but such a feeling is not so unusual among the Japanese people. Such tendency may come from the stance of mass media or the elementary and secondary level education in Japan. Some of us insist that HINOMARU and KIMIGAYO were symbols of the militarism in Japan during the World War II, so that respecting them so much will call back such militarism.
Indeed, the Japanese invasion caused huge damages to the other Asian countries like the Philippines. When I was a high school student, I read Without Seeing the Dawn, translated in Japanese, written by Stevan Javellana. This book inspired me to study the Philippine society. In this book it is eloquently described how the Japanese invasion violently changed the peaceful and happy days in a charming village in Panay Island into cruel and hopeless nights.
On the other hand, many Japanese youth were forced to serve in the so-called Kamikaze suicide squad that executed the suicide attack on the US warships, even if they did not want to die in such manner. Even as the bereaved families tried to understand the tragic loss of their sons, they have been condemned for long time after the War as if their sons were willing offenders. The ordinary people, mga tao, always lose loved ones in all wars everywhere.
From the historical point of view, it is true that the World War II had been a nightmare in the long history of Japan. If we, Japanese, really understand the history of the nightmare, none of us will repeat or participate in such tragic and sad mistakes ever. HINOMARU and KIMIGAYO were not created for the World War II but had existed since the Meiji or Edo era during the 19th century. Our history of invasions of the Asian countries has to be understood and accepted as our serious mistakes which disgraced the long history of Japan.
Furthermore, to tell the truth, I have had a basic question: can Japan really pay due respect to the national flag or the national anthem of another country, if she does not pay due respect to those of her own country? Such a question was elicited by one of my experiences in the Philippines about 5 years ago. (By the way, as introduced I have been coming back and forth to the Philippines more than 30 years now.)
I have been involved in some scholarship program for the students living as informal settlers in Malabon since 2006. The aim of this program is to assist students with good grades in the early high school level to take and pass the entrance examinations of the high standard universities, like the UP, and to assist them until their university graduation. About 5 years ago, I went to register some of my scholars for the entrance examination in a private university. I was doing this task for my wards, because their parents did not have enough money to do so.
After I queued up for long line I was finally in front of the registration window to submit the registration forms. I could get my turn at last. However, at this moment, the officer suddenly stopped working. I could not understand what happened to her and asked her why. Then she pointed to the window behind me without saying anything. When I looked back, everyone was silent in the room and were looking at only one thing: the national flag raising with the accompanying singing of the Philippine National Anthem. Immediately, I also paid due respect to the occasion. To pay due respect to the national flag and the National Anthem is very common everywhere in the world. This scene, however, is rarely seen in Japan! This was a very valuable experience for me, because I confirmed that Japan has not shared such an inspiring global standard.
Both HINOMARU and KIMIGAYO already existed long before the World War II started. If the Japanese still think that they are so sinful and therefore scarlet with shame, there must be a strong movement to change the National Flag and the National Anthem in Japan. However, we have not found such movement in Japan until now. I think all Japanese accept HINOMARU and KIMIGAYO positively or negatively. If one says this proposition is not right, I suppose that he would not face up to the history of Japan or he would like to get the absolution for the sins of the World War II by disguising to hate them.
Based on the above narration, the meanings for me as a Japanese of the honor to share the Japanese National Flag and National Anthem with Filipinos are the following three points: First, HINOMARU and KIMIGAYO continue to warn us against militarism. It can be said that for most of us Japanese to accept HINOMARU or KIMIGAYO gives us some pains to some degree or another. In general, Japanese have a feeling that to positively accept HINOMARU or KIMIGAYO means to have an abnormal thought, though to negatively accept them is not. I am confident, however, that we need some more positive deed, that is to say, to accept the whole of our history by squarely or directly confronting our stigma. HINOMARU and KIMIGAYO show our history itself. They always continue to remind us they are symbols of our long history and yet warn us of our historical events and warn us against futile and destructive military adventures.
The second point concerns a global standard of social custom. According to my understanding, there are no countries where many people have a negative image on their own National Flag and their own National Anthem, except Japan. I believe that we should pay due respect to the social custom based on historical traditions. HINOMARU and KIMIGAYO have a long history as repeatedly mentioned. Therefore, if I do not pay due respect to HINOMARU and KIMIGAYO, I must have not a global standard but a double standard. I am confident, finally, that the Japanese should pay due respect to HINOMARU as our National Flag and KIMIGAYO as our National Anthem.
Finally, all the program board members willingly consented to our, sort of test, for jointly honoring both our countries by this gesture through the initiative of Dr. Max. I know the relatives of many of you have grievous experiences similar to those described in Without Seeing the Dawn. On this point, the word “absolve” in a Catholic sense to which Dr. Max referred is very impressive to me. Here I confirm to be determined that Japan would never repeat the mistake in the World War II. Though our trial balloon today is very small step, I feel confident that it will give us a further push to fostering deeper friendship between the Philippines and Japan. Thank you very much for your kind attention.
(Professor, The University of Tokyo)
英語版エッセイはこちら
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<マックス・マキト Max Maquito>
SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。SGRAフィリピン代表。フィリピン大学機械 工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学) 産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧 問。テンプル大学ジャパン講師。
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2013年9月25日配信
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2013.09.06
下記の通りモンゴル国ウランバートル市にてシンポジウムを開催いたしますので、論文、参加者を募集いたします。皆様の積極的なご参加をお待ちしています。
【開催趣旨】
モンゴルは新たな資源大国として世界から熱い視線を集め、大きな変動期にあります。埋蔵資源はモンゴルに急成長をもたらしています。しかし、資源開発にともなう負の側面も問題化し始めました。インフレの進行、貧富の格差や環境汚染は日々深刻度を増し、社会インフラの整備の遅れも目立っています。そして、大規模資源開発はモンゴルの地域生態システムのへの影響をももたらしています。
モンゴル政府は、鉱山開発、資源利用での関係諸国との友好関係を強調しながら、多くの葛藤に遭遇しており、対外関係は近時、複雑化してきています。1992年の新憲法の発効から22年を経過したモンゴルは、こうして国内的にも対外的にも大きな課題を抱えています。
国内的には、持続可能な資源開発、伝統文化の維持、環境保護、格差解消、そしてこれらを実現するために不可欠な創造的な技術革新、また対外的には、開発外国資本の企業倫理、資源開発をめぐる日モ協力を含む国際協力の在り方などが問われているのです。
こうしたことから、関口グローバル研究会(SGRA)とモンゴル科学アカデミー歴史研究所は、第6回ウランバートル国際シンポジウム「モンゴルの資源開発の歴史、現状と課題」を本年9月6~8日に共同主催することにいたしました。
本シンポジウムでは、モンゴルンにおける資源開発の歴史を振り返りつつ、同国の資源開発の現状、問題点をより多元的かつ総合的に把握し、さらに経験や教訓、問題への解決方法について、広い視野から検討することによって、モンゴルの将来にとって意味のある議論を展開することを目指しています。さらに、対等なパートナーとしての日モ関係の在り方についての知見を交換し、モンゴルの持続可能な資源開発の発展のための新たな視点、方法を提言できればと思います。
皆さまの奮ってのご参加を、心からお待ちしております。
■日程:2013年9月6(金)~8日(日)
9月6日(金)開会式、基調講演、シンポジウム
9月7日(土)シンポジウム、閉会式
9月8日(日)バグノール炭鉱見学、草原旅行
【会場】
モンゴル・日本人材開発センター 多目的室、セミナー室
(モンゴル国ウランバートル市)
【プログラム】
詳細は下記案内状をご覧ください。
案内状(日本語)
Invitation in English
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2013.08.23
下記の通りフィリピン国マニラ市にてセミナーを開催いたしますので、論文、参加者、支援者を募集いたします。皆様の積極的なご参加をお待ちしています。
テーマ:「都会・農村の格差と持続可能な共有型成長」
日時:2013年8月23日(金)
会場:フィリピン大学(マニラ市)
言語:英語
このセミナーで取り上げる課題は、「持続可能な農業」「竹の生産と使用」「環境的倫理」「気候変動と農村・都会のダイナミクス」「接続装置:社会と物理的インフラ」「地域ハブ」「エコ観光と自然資源」「グリーン都市計画」等です。SGRAの設立当初からの方針に沿って、当セミナーは学際的×多分野的×国際的に開催されますから、ご関心のある地球市民のみなさんのご参加を大歓迎します。尚、当セミナーはインドネシアのバリ島で開催される第2回目アジア未来会議のフィリピン国内準備会議としても進めています。
セミナーの詳細(英語)
参加申込み・お問い合わせはSGRA事務局へ
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2013.07.17
2013年6月19日から21日まで、マニラにあるアジア開発銀行(Asian Development Bank, ADB)の本部で開催されたGlobal Development Network (GDN) の第14回年次グローバル会議に出席するため、マニラに一週間ほど帰った。論文発表をしないのに、飛行機代や会場の近くにある五つ星のホテルの滞在費などを補助してもらえたし、「不平等性、社会保護、包括的成長」(Inequality, Social Protection,
Inclusive Growth)というテーマがSGRAフィリピンのテーマである「持続可能共有型成長」(Sustainable Shared Growth)と関わっているので、大学は夏学期の最中であったが、スケジュールを調整して、世界中から集まった400人余りの経済開発研究者との議論に参加することにした。
アキノ大統領による基調講演では、フィリピン政府の、不平等性改善のための重要な対策である、条件付き補助金制度(Conditional Cash Transfer)が取り上げら れた。貧しい子供達が学校に通うことを条件に、現金が与えられている社会保護措置である。会議のなかでも、これについていくつかの興味深い研究が発表された。
本会議や分科会の間、僕はできるだけ参加者と話して研究やアドボカシーの可能性を摸索した。今後もさらに可能性を追求していきたいと思っている。セッションの質疑応答でも活発な議論があり、議長は大体の場合、参加者の勢いに負けないよう に必死だったし、できるだけ多くの人が質問できるように取り纏めていた。運よ く、僕はセッション中に質問の機会が2回まわってきたが、時間の制限で質問できなかったことも多かった。そのため、できるだけ、発表者を休憩時間中に捕まえて議論した。僕が質問したことは、重要だと思うので、下記のとおりご報告させていただきたい。
一つは「アジアや太平洋における包括的成長の実施」(Operationalizing Inclusive Growth in Asia and the Pacific) というテーマの分科会であった。発表者全員がADBの研究者だった。参加者が後ろの方に集まり、会議の間にさらに減ってしまいそうだったので、座長は「質疑応答の時に互いの顔がよく見えるよう に」前の方に移動するように促した。僕はすでに前のほうに座っていたので、移動の必要性がなかった。ADBの研究者が一般参加者との対話を嫌う傾向があるという印象を、僕はこの学会の早い段階で受けていたので、これで少し和らげることができてよかったと思った。
ADBの発表者の話を聞きながら、自分の頭で整理しようとしたのは、ADBが積極的に進めている「包括的成長」は以前の「共有型成長」とどう違うか、ということであった。どうしても発表者に確認しておきたかったので質問を投げかけた。「共有型成長」は1993年に世界銀行が発行した「東アジアの奇跡」という報告書で取り上げられた。発表者の一人が示した「成功した東アジア」がこの報告書の対象となっているが、日本を含むこれらの国々が成功できた理由の一つは、政府が行なった戦略的産業政策であると分析されている。発表者であるADBの研究者の報告を聞くと、両方の成長概念・開発政策・戦略が、貿易による地域統合、人材育成や雇用創出と言ったところで一致しているように聞こえた。ただ、雇用創出に関しては、一人の発表者が熱心に語ったものの、包括的成長の中では後からの思いつきのような存在だと受け止めざるをえなかった。これは一人が発表したADBの評価報告で最も明確だったと思う。ADBがあなたのプログラムをどう評価するか、ADBにとって何が重要であるか、明確に教えてくれる。ADBが発表した評価報告をみると、包括的成長は社会保護(=SAFETY NET、つまり人材育成や失業対策)を強調しているようである。この理解で行くと、次のフィリピンの事例のような問題がでてくるのではないか。フィリピンで教育を受けさせ、看護師やコール・センター従業員などを育てることは、果たして今のフィリピンにとって良いのだろうか。というのは、このような開発モデルに乗れば、フィリピンの早期非産業化(EARLY DE-INDUSTRIALIZATION)がますます深刻になりかねかないからである。僕は、今のフィリピンは、製造業を育てなくてはいけないと考えている。
例の「成功したアジア」を取り上げたADBの発表者は、正しい雇用創出がやはりフィリピンにとって重要で、この早期非産業化の議論をフィリピンで深める必要があると賛成してくれた。包括的成長の生みの親のようなもう一人のADB報告者(日本人ではないらしい)は、言葉的に両方の成長は似ているが、共有型成長のほうは「機会の平等性」を無視しているのではないか、と答えてくれた。この答えは先の僕の理解を確認できたと僕は受け止めている。教育のためにお金がない人々に補助金を提供したり、解雇者を救ったりすることは大事であるが、先ほどの早期非産業化の問題の解決策にならず、フィリピンは「中所得の罠」から益々脱出できなくなる。
もう一回質問の機会を与えられたのは、フランスに本拠を置いているFERDI財団(FONDATION POUR LES ETUDES ET RECHERCHES SUR LE DEVELOPPEMENT INTERNATIONAL、国際開発の研究財団)が設けた 分科会であった。
そこでは、被援助国の災害に対する脆弱性を含む成果主義の評価に基づくODAの配分について報告された。それに対して、指定のコメンテーターが、「このようなシステムは被援助国の政策者にとって難し過ぎて、下手をすると贈与の金額が削減される可能性がある。援助の政治経済学を念頭に置きながら、評価の提案を批判しなければいけない」と強調した。つまり、これ以上ODAの配分を複雑化するな、というコメントだった。
東京大学の博士論文や名古屋大学で研究員として研究をしていたときに、僕も日本のODAについて近代経済学の観点から研究したことがあるので、先のコメンテーターに対して、「政治経済といっても、ODAは政治家・官僚が参加している交渉テーブルではなく、最終的な恩恵者である被援助国の国民のところで終わるものである」と指摘した。FERDI財団が設けようとする成果主義のODA評価システムは、被援助国の政府の成績を評価する道具にもなりえるので、国民にとってありがたいものになるであろう。その意味でも、援助国のODAのやりかたを評価できるシステムでもあると思うので、研究の対象になった世界銀行の援助以外に、他の機関の援助の配分が成果主義に基づくものであるかどうか調べたことがあるかと質問した。
以上の僕のコメントについて、コメンテーターは笑顔でその通りだと認めてくれた。成果主義の評価システムの開発者は、他の国際援助機関の援助配分も調べたが、大体世界銀行と同じような結果が出た。ただし、成果に基づいて配分していない援助機関もあるので、そのような機関は今後、配分を見直す必要があるだろう。
会議の3日目の朝、今西淳子SGRA代表のアドバイスで、会議を抜けて、鹿島フィリピンの事務所に足を運んだ。SGRAフィリピンが8月にフィリピン大学と共催するセミナーのスポンサーをお願いするためであった。加藤総明COOと斉藤幸雄CFOが応対してくださり、僕がセミナーについて説明させていただいた後、セミナーの最大のスポンサーになることを決断してくださった。お二人は、第16回共有型成長セミナーで発表予定の建築学関係の研究に関心をもっておられるが、フィリピンにおける都会と農村の格差の解消にも興味を示してくださった。これからご指導とご支援をよろしくお願いします。
この他、SGRAフィリピンのセミナーだけでなく、来年8月にバリ島で開催するアジア未来会議への参加を誘ったり、インドやベトナムの参加者と共同研究プロジェクトの可能性を探ったりした。おかげさまで大変充実した3日間を過ごすことができた。Global Development Networkに感謝の意を表したい。今回僕は「SGRAジャパン」のメンバーとして登録した。僕の顔をみればすぐ日本人ではないとバレてしまうが、開発に関する日本の素晴らしい発想を信奉する者としてそう表現させていただいた。
英語版
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<マックス・マキト ☆ Max Maquito>
SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。
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2013年7月17日配信