SGRAイベントの報告

  • 2012.11.07

    第1回SGRAスタディツアー「飯館村へ行ってみよう」報告

    今回のSGRAフォーラムは、スタディツアー(福島被災地訪問)という特別プログラムとして、2012年10月19日~21日(2泊3日)に行われました。東京から貸切のマイクロバス1台で約4時間かけてJR福島駅に着き、そこで東京からの田尾陽一さんと金沢から来た私(李鋼哲)が合流し、車内で弁当を食べながら、さらに2時間近くかけて相馬市に行きました。   参加者はSGRAらしく、韓国からわざわざ来日した2名、シンガポール、ノルウェイ、台湾、中国出身の会員、渥美財団関係者など総勢14名でした。「構想アジア」研究チーム(チーフ:李、顧問:平川均名古屋大学教授)が形式的にではあるものの本企画を担当することになりました。   今回のスタディ・ツアーは、「ふくしま再生の会」理事長の田尾さんのご協力を得て、福島県相馬市と飯館村を主な訪問地としました。同会は東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故によって破壊されてしまった被災地域の生活と産業の再生を目指すボランティア団体として、昨年6月の設立以来、飯舘村に活動の拠点を設け、被災者とともに知恵を出し合いながら再生へ向けた各種のプロジェクトを推進しています。   「ようこそ!福島へ」とは言われても、原発事故で放射能被害が深刻な福島に足を運ぶのはなかなか勇気が要るものです。私も「参加する」と答えたものの、「放射能は大丈夫だろうか」と不安を感じました。妻は「遺言書でも残していってらっしゃい」と冗談半分で言いました。   福島駅のバス停留場で、田尾さんより放射線量計測器(自己開発制作したもの)を配っていただき、駅周辺の放射線量を測ったら、0.28マイクロ・シーベルトでしたが、この線量がどの程度のものであるのかさっぱり分からないのでドキドキしました。田尾さんは物理学が専門であり、かつて広島で被爆した経験があるだけに、理論的にも実践的にも放射線の人体に対する影響などに非常に詳しい方なので、彼が案内するところだったら大丈夫だろうと思いました。   福島駅から相馬市に向かってバスで走行する途中、休憩所で地元名物のアイスクリームをみんなで食べながら、草の生えているところで放射線量を測ったら、なんと最高は(福島駅に比べると10倍以上も高い)3.2マイクロ・シーベルトまで上昇し、みんな一瞬緊張が高まりました。ちなみに、国際基準では、「事故などによる一般公衆の1人の年間被曝量は1ミリ・シーベルト=1000マイクロ・シーベルトを超えないように」となっており、実はほとんど影響がないそうです。   バスは引き続き走り、相馬市に着きました。相馬市は海岸地域であるために地震と津波の被害を受けましたが、福島原発からは約50キロ離れており、放射線の影響はそれほどなく、原発避難指定地域から大勢の避難者を受け入れていました。   相馬市で我々を迎えてくれたのは、「おひさまプロジェクト」代表を務める大石ゆい子さんでした。元気ハツラツな方で、被災者達を支援する活動をしている小さなアパートの事務所に我々一行を案内してくれました。そこは被災者達に元気になってもらうための教室で、様々な活動をしているということでした。   そこで橋本経子さん(ホリスティック・アドバイザー)が、自分の病弱体験を踏まえて避難生活者達に行っている心理的なケア活動について紹介してくれました。橋本さん自身が、被災者達の辛い立場を十分理解し、命の危険を冒してまで、避難地域の被災者の自宅まで一緒に立ち入り、必要な家財の整理や墓参りなどを手伝ったとの、感動的な物語を聞かせてくれました。そこは放射線量が80マイクロ・シーベルトの危険地域だったとのことでした。避難した人たちは家族がばらばらになって県内や県外で避難生活を送っているケースが多く、「一日も早く復興して帰郷したい」という気持ちだということがよく分かりました。この教室で約1時間半、地元の人々のお話を聞き、質疑応答もしました。   その後、またバスに乗って海岸地域の被災地を見学しました。地震や津波被害で多くの建物は破壊され、流されたその惨状は目を覆いたくなるひどいものでした。テレビで見るのとは違い生々しい光景で、それを見ていた参加者の心情を想像していただけるでしょう。   夕方まで見学した後、バスに乗って隣の伊達(だて)市霊山(りょうぜん)の山中にある「福島ふるさと体験スクール」に向かいました。この施設は子供達に自然と農業、伝統的な生活体験をさせる目的で、2年前に東京の高校の校長をしていた酒井徳行さんが私財を投げ打って作ったのですが、原発事故で子供達が来られなくなり、我々「大きな子供」達が泊まることができたのです。   心をこめて用意された美味しい夕食を食べながら交流会が行われました。大石ゆい子さんと河北新報編集委員の寺島秀弥氏さん駆けつけて夕食懇親会に参加しました。自己紹介の後、大石さんが「おひさまプロジェクト」について紹介してくれました。   このプロジェクトは、「健康や癒し」をキーワードに食事や運動とグリーン・ツーリズム、エコ・ツーリズムを取り入れた体験滞在型の「までい流ヘルス・ツーリズム」構築を目指し、新しいライフスタイルの振興を行うことで、QOL(生活の質)の向上を図ることを目的としています。健康、食、環境が共存できる広域的で新鮮な地域活性化事業に取組み、地域が自立できる<場>を構築し、活力ある地域社会を実現するために、同じ志を持った仲間で立ち上げたものです。   飯舘村の人々は原発事故の被害に立ち向かって一所懸命闘っています。彼らは「までいの力」(「までい」とはこの地方の方言で、「両手を動かして頑張れば、いかなる困難も乗り越えられる」との意味)を発揮し、「までいの精神」でふるさとの再建に立ち向かっています。その精神に感銘を受けました。   翌朝、宿泊施設を後にして飯舘村に向かいました。途中で飯舘村農業委員会会長の菅野宗夫さんが乗車し、我々を案内してくれました。最初に被災者の仮設住宅(福島市松川工業団地敷地内)を訪問しました。仮設住宅に住んでいるのは、ほとんどシルバーの方々で、老人村のようでした。避難した人々はここで一応安定した生活を送っているようですが、精神的・心理的にはますます不安な状況とのこと。これからどうなるのか?ふるさとに戻れるのか?など心配する毎日を送っているとのことでした。   そこで数名の方から避難生活に関するお話を聞きました。「いいたてカーネーションの会」というNGOの代表佐野ハツノさんは地元で被災者支援活動、心理的なケア活動を精力的に行っている様子を聞かせてくれました。住民のおばあさんたちが、寄附してもらった着物の生地を使って、洋服や様々なグッズを作って販売しています。この事業によって、おばあさんたちの目が輝くようになったとのことでした。   しかしながら、地元の皆さんの訴えの多くは、「国や政府が充分な対応をしてくれない」、「世間はもう自分達のことを忘れている、報道にも出ない」、「早くふるさとに戻って平常の生活をしたいのに、何も起こらない」などでした。政治家、官僚やマスコミに対する怒りがかなり貯まっている様子でした。   気持ちが重くなる言葉を心に刻みながら、我々はバスで全村計画的避難区域の飯館村に向かいました。この地域は、住民は昼は入ることができますが、泊まることはできません。線量計の放射線量は徐々に上がりました。飯館村の南にある立ち入り禁止区域の前のゲートまで行き、そこで全員バスから降りました。周辺の放射線量を測ったら最高31マイクロ・シーベルトまで上がりました。皆さん少し緊張した表情をしながらも、写真を撮ったり、警備員に話しかけたり、平静な雰囲気を演出していましたが、バスに戻ってそこから離れると皆ほっとした表情で、「ここまで来たのだからもう怖くない」という感じでした。現場を体験すると勇気も倍増するようでした。   引き続き飯舘村役場近くにある特別養護老人ホーム「いいたてホーム」に行きました。そこの休憩室で弁当を食べ、施設長の三瓶政美さんのお話を聞いた後、施設見学と隣接している役場見学をしました。80名あまりの老人が介護施設に入っており、避難指定地域ではあるが、地元の行政の判断と国の許可を得て全員避難せずにいるとのこと。従業員は施設や近くに住むことができず、全員が避難地域外から車で長時間をかけて毎日出勤せざるを得ない、という厳しい状況でした。   最後の訪問地は菅野宗夫さんの自宅がある山村でした。宗夫さんの自宅は「ふくしま再生の会」の現地事務所になっています。近くの田圃や畑には田尾さん達が作った飯舘村再生モデル事業の「イネ栽培実験田」があり、実験用で栽培した稲が田圃に干されていました。この稲は放射線量がたくさん含まれているので、「一粒とも残さず国に納めよ」という国の指示があるそうです。サツマイモの実験畑も見学しました。このモデル事業は、田圃や畑などの放射線量を常時計測しながら除染作業を進めていき、何年かかるかは分かりませんが、村人達が戻って来て自分の家と土地でかつての平穏な生活と農業ができることを目指しているとのことでした。   宗夫さんの自宅は、事務所としてだけではなく、線量計設備(田尾さん達が手作りした)が配置され、簡素な設備ではあるが立派な実験室のようでした。そこで色々なデータを計測し、データ分析する大学や、国内外に向けてインターネットメディアを通じて発信しています。そこで我々はこたつを囲んでお茶を飲みながら宗夫さんのお話を聞きました。理路整然と被災地の現状、国の対応、地元の対応などについて説明してくれました。「原発事故は福島だけのことではない、日本のことであり、アジアのことであり、全世界のことである」、「この事故で世界が教訓を汲むべき」と強調しました。だからこそ、地元の現状を常に世界に向けて発信することが必要なのです。   「我々SGRAのメンバーとして、福島被災地のために何ができるのか」、参加者は皆、見学しながら常に考えていましたが、「世界に向けて日本に向けて発信して原発事故を忘れさせない」、「原発事故の被害について考える」ことが我々の役割ではないか、と考えるようになりました。   飯舘村を後にして、バスは宿泊地の霊山紅彩館に向かいました。立派なリゾート宿泊施設で、霊の宿る山の中にありました。入浴後、2回目の夕食と懇親会がありました。菅野宗夫さんも後を追って参加してくれました。ここでも宗夫さんと田尾さんのお話を聞き、参加者全員が感想発表をしました。2日間、参加者は貴重な体験をしながら、地元の人々や支援者達のお話を聞き、強く胸を打たれました。「福島を永遠に忘れることはできない」というのが参加者共通の思いでした。   翌朝は宿泊地を後にして、伊達市保原歴史文化資料館を見学しました。東北の藩主伊達家の歴史について勉強するよい機会でした。養蚕で財をなした旧亀岡家住宅も大変素晴らしく、東日本大震災でもほとんど無傷だったという明治時代の洋風建築に見とれました。1時間ほどの見学後、バスは福島を後にして東京に向かいました。   「福島よ、忘れさせない!」   スタディ・ツアーの写真   (執筆および文責:李鋼哲 [SGRA構想アジア研究チームチーフ、北陸大学教授] )       2012年11月7日配信
  • 2012.10.24

    第1回SGRAカフェ「李元徳:最近の日韓外交摩擦をどうみるか」報告

    日中韓台の領土問題で多くの動きがあり、報道を見ている側の頭にも多くの「?」「!」が生まれたと思われる。できるだけ多くの情報に接するように心掛けても悲しいかな、言語、自国内の報道の枠や立場から逃れるのはなかなか難しい。SGRAかわらばんの投稿では「日本からの見方」だけではない考えに接することができた。経済力の急激な高まりやデモの規模の大きさから日中関係に意見は集中しがちだったが、ここで韓国との関係も知りたいところだ。   2012年10月18日(木)、そうした中、第1回SGRAカフェは、「最近の日韓外交摩擦をどうみるか」とのテーマで、東京九段下の寺島文庫みねるばの森で行われた。いつものフォーラムとは異なり、20人程度の小規模、場所も文庫カフェという、知的かつお洒落な雰囲気で参加者もくつろいだ表情を見せていた。   寺島文庫は日本総合研究所理事長の寺島実郎氏が「4万冊の世界の地歴に関わる書物を集積し、知の交流と発信の場」とすべく設立した研究施設で、驚いたことにここの書庫には寺島氏が高校生の頃、渥美国際交流財団の渥美理事長のご父君の鹿島守之助氏へ宛てた手紙が残されている。また渥美理事長が寄贈された書籍もあり、不思議なご縁を感じながらの開催となった。   韓国国民大学日本研究所所長の李元徳教授による講演は、「日韓関係の在り方を規定する構造変化」、「最近の日韓外交の葛藤:観戦ポイント」、「領土、歴史摩擦の悪循環からの脱皮」、「日韓関係の未来ビジョン」の4部から構成されており、まずは2国間だけではなく、冷戦下での米ソ関係が元となっていた日中韓の力関係が、その後再編過程(Power Transition)の進行、力の均衡(Balance of Power)の流動化過程の進行を経て次第に米中両強構図に再編されているとし、東アジア全体の国際秩序の地殻変動の観点から見るべきと指摘した。そしてかつての植民地関係(従属、依存関係)にあった日韓の力関係と市民社会は、現在では相対的に均等化し、競争・競合関係となっている珍しいケースであるものの、一方で対外認識における温度差があり、日本と韓国とでは中国と北朝鮮に対してのとらえ方に悲観的と楽観的な違いがあることを示した。   第二の「最近の日韓外交の葛藤:観戦ポイント」において、日本人には納得しづらいであろう李明博大統領の言動を、心理面から考えればわかるのではないかと島訪問の背景にあったであろう慰安婦問題解決や打開への期待について、島訪問から1か月後に大統領に会った李教授ならではの考えを述べた。しかしその訪問が結果として日本側の激しい反発を招いたことへの大統領の驚き、そしてこれまで韓国がどんなに過激な反応や報道をしてもそれを冷静に受け止めていた(成熟した)日本が、今回は冷静に受け止められないことを変化としている。   その後のウラジオストックでの日韓首脳の動静や米国の憂慮表明、さらには日本知識人宣言や村上春樹の朝日新聞論説、河野元官房長官の読売新聞のインタビューなどが韓国内の反日ムードを和らげたとし、こうした知識人による声明は日本のみならず中国や韓国でも起きており、普遍的な視点を持った動き、そして歴史を知ることの重要性を訴えた。   第三の「領土、歴史摩擦の悪循環からの脱皮」で、今後も日韓摩擦は頻度も深度も深まるとの考えを示し、その動きが法的局面にも移行しているとし、一例に韓国の憲法裁判所、大法院判決を挙げたが、それは日韓の歴史を知らない判事達の判決と批判し、今後ウルトラナショナリストの政治家登場を危惧、歴史摩擦の管理(Management)を次善の策とし、予防外交として戦略的な考慮の重要性を指摘、中長期的及び戦略的観点をもって日韓両国が協力することが双方の利益とまとめた。そして日韓の懸念となっている慰安婦問題については①立法解決、②財団設立による解決、③仲裁、④外交的解決の4つのシナリオを挙げ、その中の④の外交的解決として総理大臣の謝罪を「談話」の形で表明し、対する韓国は補償を求めないという形が100点満点でないにせよ、60~70点の解決ではないかとしている。   第四の「日韓関係の未来ビジョン」では、ヨーロッパにおける独仏関係をモデルとし、日韓関係も応用できないかと、市場統合や共同規範を提示した。(クーデンホーフ・カレルギーの「汎ヨーロッパ主義」を日本語に訳したのが鹿島守之助氏だったと、講演直前に寺島文庫の書庫で知り驚いたとのこと)また2国関係だけでなく、世界の中での日韓関係として考えることを挙げ、日韓が未来東アジア共同体形成の共同主役になるべきとして講演を締めくくった。   会場からは中国人のSGRA会員から「これまで機能していた棚上げ論が機能しなくなったのはなぜか」等の質問があり、日韓からだけではない見方も出された。講演後の懇親会には寺島氏から日本酒が、渥美理事長からはSGRAのシンボルマークでもある、たぬきの形をしたせんべいの差し入れがあり、フォーラムとはまた違うアットホームな雰囲気で和やかに行われた。   当日の写真   (文責:太田美行 [渥美財団プログラムオフィサー] )     2012年10月24日配信
  • 2012.09.19

    エッセイ349:ボルジギン・フスレ「ウランバートル・レポート2012夏」

    2012年は、ユーラシア大陸をまたぐ世界史上で最大のモンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンの生誕850周年である。関口グローバル研究会(SGRA)がモンゴル科学アカデミー国際研究所、歴史研究所と共催した第5回ウランバートル国際シンポジウム「チンギス・ハーンとモンゴル帝国――歴史・文化・遺産」は7月24、25日にウランバートル市のモンゴル日本人材開発センターで開催された。本シンポジウムは在モンゴル日本大使館、モンゴル・日本人材開発センター、モンゴル科学アカデミー、モンゴルの歴史と文化研究会、モンゴル・ニューステレビ局(MNCTV)の後援をえた。 シンポジウムの準備のため、私は7月22日にウランバートルについたが、予約したホテルはすでに満室になっているため、隣のホテルに泊まることになった。その日についた他の方も、同じホテルに泊まった。 翌23日の午前、新聞社の取材を受けた後に、実行委員会のモンゴル側のメンバーと打ち合わせをし、在モンゴル日本大使館の書記官青山大輔氏と連絡をとった。午後にはモンゴル・日本人材開発センターのKh. ガルマーバザル総括主任、神谷克彦チーフアドバイザー、佐藤信吾業務主任に挨拶した。そして、国際研究所の職員と一緒に、会場、同時通訳設備のセッティング、名札の印刷などを確認した。その後、空港にて、今西淳子代表、愛知淑徳大学准教授藤井真湖氏をむかえた。 24日の午前、快適な雰囲気のなかで、今西代表が内モンゴル歴史文化研究院長孟松林氏と会談をおこない、私は通訳をつとめた。 シンポジウムは同日午後から始まった。開会式は午後1時からの予定だったが、私達が会場についたところ、新聞社やテレビ局の記者がおおぜい押し寄せてきて取材をしたため、開会式は少し遅れて始まった。 開会式では、モンゴル科学アカデミー国際研究所所長のL. ハイサンダイ(L. Khaisandai)教授が司会をつとめ、在モンゴル日本大使館林伸一郎参事官、モンゴル科学アカデミーT. ドルジ(T. Dorj)副総裁、と今西淳子SGRA代表が挨拶と祝辞を述べた。続いて、モンゴル科学アカデミー会員、国際モンゴル学会(IAMS)名誉会長Sh. ビラ(Sh.Bira)教授、一橋大学田中克彦名誉教授(代読)、内モンゴル歴史文化研究院長孟松林教授が基調報告をおこなった。その後、5人の発表者が歴史や軍事の視点から、チンギス・ハーンとモンゴル帝国について発表をおこなった。その日の夜、ケンピンスキーホテルで、モンゴル科学アカデミー国際研究所と歴史研究所主催の招待宴会がおこなわれた。 翌25日の発表は、政治、文化、民族、遺産などの視点から、チンギス・ハーンとモンゴル帝国について議論を展開したものであった。SGRA会員、フィリピン大学講師フェルディナンド・マキト(Ferdinand C. Maquito)氏は大学の仕事の都合でシンポジウムに参加できなかったが、その論文「チンギス・ハーンとフィリピンの黄金時代」は代読され、たいへん注目された。SGRAのモンゴル・プロジェクトは、2007年に企画され、2008年に正式にはじまり、これまで5回シンポジウムをおこなってきた。マキト氏はウランバートルには一度も訪れたことがないが、実際、裏でこれらのシンポジウムの準備活動に携わってきたことをここで特記し、感謝申し上げたい。 その日の夕方、ウランバートルホテルで、SGRA主催の招待宴会がおこなわれた。今西代表が挨拶を述べた後、モンゴル科学アカデミー歴史研究所事務局長のヒイゲト(N. Khishigt)氏、愛知大学教授ジョン・ハミルトン(John Hamilton)先生、愛知淑徳大学准教授藤井真湖先生、東京外国語大学の上村明先生等がユーモアのあふれる挨拶を述べ、宴会はたいへん盛り上がった。 一日半の会議で、オブザーバーをふくめて、モンゴル、日本、中国、韓国、フィリピン、イギリス、ロシア、アメリカ、タイ、台湾などの国や地域から百名近くの研究者が会議に参加した。そして共同発表も含む、20本の論文が発表された。(発表の詳細は別稿にゆずりたい)。『国民郵政』や『首都・タイムズ』、『モンゴル通信』、モンゴル国営テレビ局、MNCTV、UBSなどモンゴルの新聞、テレビ局十数社が同シンポジウムについて報道した。 26日、海外からの参加者は、ツォンジン・ボルドグのチンギス・ハーン騎馬像、13世紀モンゴル帝国のテーマパークなどを見学した。写真撮影が好きな、SGRA会員の林泉忠さんは、大草原を見渡して、「これほど美しいひろい草原があるなんて、今ここで死んでもかまわない」とおもわず言った。それを聞いて、みんな微笑んだ。参加者からは「モンゴルの大草原、国全体を世界遺産に登録すべき」という提案もあった。昼食の後、興奮したみなさんは、いわゆる「モンゴル帝国時代の服」を着て、記念写真をとったが、後でチェックしてみたら、妙な感じだった。今西さんはすでにモンゴルの馬になれたようで、馬に乗って、自由に草原をかけ走った。ほかの人たちも馬に乗ったり、らくだに乗ったりした。このテーマパークは、13世紀モンゴル帝国の宗教、民家、学校などのテーマで、特色のある6つのキャンプより構成されているが、各キャンプにつくたびに、みな去るに忍びなかったが、5番目のキャンプ「学問の塾」に到着したところで、すでに帰らなければならない時間になった。結局、6番目のキャンプに行くのを断念し、後ろ髪を引かれる思いで帰りの車に乗った。 シンポジウムの写真 モンゴル国際研究所撮影 フスレ撮影 ------------------------------------- ボルジギン・フスレ(Husel Borjigin):東京大学大学院総合文化研究科学術研究員、昭和女子大学非常勤講師。中国・内モンゴル自治区出身。北京大学哲学部卒。内モンゴル大学講師をへて、1998年に来日。東京外国語大学大学院地域文化研究科博士前期課程修士。2006年同研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学・日本学術振興会外国人特別研究員をへて現職。著書『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編『ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年――2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2010年)、『内モンゴル西部地域民間土地・寺院関係資料集』(風響社、2011年)他。 -------------------------------------- 会議の報道 Sonin.MN 『こんにち』日報社 振興社 科学アカデミー歴史研究所 在モンゴル日本大使館 Zindaa モンゴル科学アカデミー歴史研究所の発表者に対するインタビュー
  • 2012.06.13

    第2回日台アジア未来フォーラム「東アジアにおける企業法制の継受及びグローバル化の影響」報告

    2012年5月19日、国立台湾大学法律学院の国際会議場で第2回日台フォーラム「東アジアにおける企業法制の継受およびグローバル化の影響」が開催された。今回のフォーラムの趣旨は法制史の観点から、19世紀末に東アジア各国の企業法制がどのように西洋法制を継受したか、そして20世紀を通して現在に至るまで、これらの企業法制がグローバル化の影響を受けながら、どのように変容してきたかということを明らかにするもので、当日の参加者は約150名であった。   開幕式では、国立台湾大学法律学院・蔡明誠院長、渥美国際交流財団・渥美伊都子理事長、台湾法学会・王泰升理事長が開幕のスピーチをしてくださった。次に、慶応義塾大学法学部・宮島司教授が「会社法はどこへ」という題名で基調講演を行った。宮島教授は日本会社法について、明治期の商法典から2006年実施した新会社法までを4つの時期に分けてそれぞれの変遷を丁寧に説明し、各時期の改正では大陸法系、あるいは英米法系の影響をどのように受けたかということをも紹介した。また、近時、日本会社法における株式会社の機関設計ないし企業統治の規範内容に対して鋭い見解を示した。その後、元台湾司法院院長・中原大学講座教授・頼英照教授が「社外取締役制度から見た外国法の移植」という題名で基調講演を行った。頼英照教授は最初に台湾会社法の沿革を詳細に紹介し、2006年、台湾証券取引法がアメリカ法を模倣して導入してきた社外取締役制度を例として、外国法制の移植の善し悪しに言及した。   第1セッションは、国立政治大学法学院・頼源河教授が座長を担当し、「西洋法の継受期のアジア各国における企業法制」というテーマで3名の学者が報告を行った。東洋大学法学部第一部・後藤武秀教授は「台湾における西洋近代法の受容と慣習法の調整:台湾の伝統的会社組織である合股を例として」という題名で報告を行った。後藤教授は日本統治時代の台湾においては、西洋法の継受国である日本が統治しているとしても、最も盛んだった企業形態は家族経営からなる合股であったことを紹介した。合股は現代法の観点から言うと、組合という概念に類似している。このような特殊の組織形態は台湾独自の慣習法として樹立している。韓国国立忠南大学法学専門大学院・李孝慶准教授は「韓国における企業法制の継受と改革」という題名で報告を行った。李准教授は日本統治時代の韓国において、1912年朝鮮民事令により日本商法が適用され、1948年韓国政府樹立以降、1962年までこの商法が引き続き適用されてきたことを紹介した。これに加えて、韓国の商法はその後も何度も改正されたにもかかわらず、内容的には日本法をモデルにしたものが依然として多く、日本法から強い影響を受けたと言えよう。国立台湾大学法律学院・蔡英欣助理教授は「法律移植と既存規範との衝突、調和:日本商法及び20世紀初期の中国会社法制を中心として」という題名で報告を行った。蔡助理教授は日本商法と中国会社法制が制定された際に、両者が同じ課題、すなわち慣習法を無視し専ら西洋法を継受したことに対して経済界が猛反発したという課題に直面したことに言及し、国が外国法を継受する場合には自らの慣習を重視する必要性を強調した。   第2セッションは、常在国際法律事務所・林秋琴パートナーが座長を担当し、「第二次世界大戦後のアジア各国における企業法制」というテーマで3名の学者が報告を行った。慶應義塾大学法務研究科・高田晴仁教授は「第二次大戦後の日本の企業法制:1950年商法改正を中心として」という題名で報告を行った。第二次大戦後、敗戦後の日本はGHQの指示を受けて、法制度を大幅に改革した。日本商法もその中の一つであった。1950年商法改正により、アメリカ法をモデルとして、授権資本制度や株式会社の機関権限の新たな配分といった改正が行われ、今日の日本会社法の基礎になったといえよう。ただ、このような改正内容は日本の風土に合わないものが少なくないと強調した。国立台湾大学法律学院・黄銘傑教授は「東アジア各国における競争法の継受」という題名で報告を行った。黄教授は日本、台湾、韓国と中国など東アジア各国が現代競争法をいつ、またどのように制定したかを紹介した。周知のように現代の競争法の原型は1890年アメリカのシャーマ法である。東アジア各国は競争文化を欠いたが故に、アメリカの競争法を継受した際に異なった規範モデルを制定したということを指摘した。香港大学法学院・呉世学教授は「第二次世界大戦後の香港会社法の展開」という題名で報告を行った。呉教授は香港の会社法について、従来イギリス法の影響を受けた一方、近時、自らのモデルを模索していると指摘した。また、香港の行政機関の統計データにより、近時、香港で会社設立の数は飛躍的に増加していることを紹介した。   第3セッションは、萬國法律事務所・顧立雄パートナーが座長を担当し、「グローバル化時代のアジア各国における企業法制」というテーマで3名の学者が報告を行った。まず、中国人民大学法学院・楊東准教授は「全球化時代中国会社法の改革と整備」という題名で、中国会社法の形成ないし変遷を紹介した。中国は、1993年に国有企業を改革するために初めて会社法を公布してから、近時、国有企業ではなく一般企業を視野に入れ、企業の株主保護を重視してさまざまな改革を行ったと説明した。明治学院大学法学院・来住野究教授は「日本における近時の会社法改正と企業統治のあり方」という題名で、近時、日本の会社法において企業統治のあり方を検討した。2002年日本商法改正により、アメリカ型の委員会設置会社が導入されたが、現在に至っても、かかる新制度を利用した企業の数はほんのわずかである。このような改正結果をいかに評価するか、と問題を投げかけた。国立台湾大学法律学院・邵慶平准教授は「根本的な会社民主観念:グローバリゼーションの下での台湾会社法の堅持と示唆」という題名で、台湾会社法は長年、何度も改正されてきたが、アメリカ法のように取締役会優位主義を採用するようになった。取締役会優位主義を採用しているといっても、いくつかの近時の判決から、今の時代でも株主権は依然として相当に重視されているという動向が見えると強調した。   オープンフォーラムは、国立台湾大学法律学院・王文宇教授が座長を担当し、第3セッションで報告した楊東准教授(中国)、来住野究教授(日本)、邵慶平准教授(台湾)及び呉世学教授(香港)がパネリストとして参加者からの質問を受け、活発な議論を行った。最後に、今西淳子常務理事および王文宇教授が閉幕スピーチを行い、フォーラムは成功裡に終了した。   (文責:蔡英欣)   フォーラムの写真(1)   フォーラムの写真(2)   アンケート集計   (基調講演)頼英照「社外取締役制度から見た外国法の移植」日本語訳  
  • 2012.03.07

    第11回日韓アジア未来フォーラム「東アジアにおける原子力安全とエネルギー問題」報告(1)

    金 雄煕 「第11回日韓アジア未来フォーラムを終えて」   2012年2月25日、高麗大学校経営館で「東アジアにおける原子力安全とエネルギー問題」というテーマで第11回日韓アジア未来フォーラムが開催された。昨年3月の福島原発事故後、ほぼ1年が過ぎようとする時点で、「本場」では真正面から取り上げにくいということと、東アジア(協力)という視点も必要という判断から、先ずはソウルで議論してみることになった。 今回のフォーラムの講師の顔ぶれは「大物」が多く、また全く違う立場から原発問題を考えているという特徴があった。   基調講演者の金栄枰(キム・ヨンピョン)先生は長年韓国で原子力問題を研究され、原子力政策フォーラム理事長を務める方である。役職からも予想されるように、明らかに原子力の必要性と安全性を強調する「教科書的」な議論を展開した。 これに対し、多彩な経験をお持ちの田尾陽一さんは、「福島再生」という観点から、除染作業など現場での再生努力の一部を紹介した。田尾さんとはフォーラムの一週間ほど前、東京でお会いする機会があったが、その時、孫正義さんを「孫くん」と呼んでいたことと、美味しい「福島産放射能マツタケ」の話に驚いた。田尾さんの議論がちょっと浮いてしまうかもしれないという心配もあったが、とても「新鮮な」議論であり、オーディエンスからの受けもよく、見事に当った結果となった。   全鎮浩(チョン・ジンホ)さんは福島原発事故以来、韓国で最も忙しくなった国際政治学者の一人で、中立的観点から東アジアにおける原子力安全協力の重要性を強調した。 最後のスピカーの薬師寺泰蔵先生は「科学技術と国家の勢い」という文明史的観点から「坂の上の雲」としての原発の必要性について力説した。田尾さんとは長いお付き合いのようで酒席などでは議論がよく噛み合うような感じだったが、原子力問題となると、目には見えないものの、相当隔たりがあるような気がした。   このフォーラムの創立メンバーの李元徳(イ・ウォンドク)さんの司会で行われたパネル討論では、ウクライナのオリガ・ホメンコさんによる貴重なチェルノブイリ体験談や経済学者の洪鍾豪(ホン・ジョンホ)さんのコンパクトな提案を聞くことができた。時間が限られていたせいか、案外激論もなく閉会した。   食事会では、奈良の今西酒造「春鹿」で「一気飲みラブショット乾杯」があったといわれている。しかし、残念なことにその場に遅れて到着したため直接確認することはできなかった。「春鹿」は2009年度の第9回慶州フォーラムで奈良から空輸してきた一升瓶が目の前で割れて消えてしまう大事件があって以来、日韓アジア未来フォーラムの公式乾杯酒となっている。未来人力研究院の李鎮奎(リ・ジンギュ)先生が法事で早く帰られた関係で飲みが足りなかったせいか、場所を変え宿泊先の有名なドイツビール屋でもう一杯をしたあと、第11回フォーラムは終了した。   韓国側主催の時にいつも感じることだが、私の予想からしては「満員御礼」に近いレベルの(李先生に動員されたかもしれない)聴衆の数に驚いた。終了まで席を外すことなく真摯に講演や議論を一生懸命聞いてくれた学生諸君にこの場を借りて感謝したい。当たり前のことだが、このフォーラムを形にしてくれた今西さん、石井さん、金キョンテさん、そして忙しいところ参加してくれた韓国SGRAの皆さんにも感謝しなければならない。とくに素敵な食堂に案内してくれた幹事の韓京子(ハン・ギョンジャ)さん、本当にお疲れ様でした。   最後にちょっとした心残りと次回フォーラムのご案内。異なる立場からの素晴らしい講演のわりには立ち入った議論に踏み込めなかった限界は残したものの、いつものように、本当に、形式、内容、そして番外の三拍子が揃った素晴らしいフォーラムであったと思う。次回フォーラムは今回のフォーラムのセカンド・ラウンドとして福島でという動きがあるということにご注目!ぜひふるって参加してください。 (仁荷大学国際通商学部教授)   当日の写真(金範洙撮影)   2012年3月7日配信
  • 2011.11.30

    第42 回SGRAフォーラム「アジア地域エネルギー供給セキュリティ及び建築分野の省エネルギー」報告

    2011年10月29日(土)午前9時半から午後5時半まで、SGRA、北九州市立大学、早稲田大学及び日本建築学会アジア地域における建築環境とエネルギー消費検討小委員会が共同で第42回SGRAフォーラムを開催した。本フォーラムでは、2名の先生方の基調講演に続いて、日本学術振興会若手研究者交流支援事業により北九州市立大学が招聘したアジアの若手研究者が、各国の都市・建築省エネルギーの現状及び政策について発表した。 SGRA代表今西淳子氏、北九州市立大学建築都市低炭素化技術開発センター長黒木荘一郎氏、日本建築学会アジア地域における建築環境とエネルギー消費検討小委員会主査張晴原氏がそれぞれ挨拶を行い、省エネルギー事業とアジア地域の習慣・文化を配慮した対応と、正確な情報提供の重要さを強調した。 最初に、(株)住環境計画研究所代表取締役所長中上英俊氏が「アジアにおける省エネルギー政策の重要性」と題した基調講演を行った。中上氏は東南アジア諸国(タイ、インド、ベトナム)におけるエネルギー消費の実態と見通し、また省エネルギー法を始めとする各国の省エネルギー政策の現状について報告し、それらの実態に基づいて、今後のアジアの省エネルギーのあるべき姿、日本の役割などを指摘した。 続いて、早稲田大学准教授高口洋人氏が「カンボジアの建築における成長とエネルギー消費に関する一考察」という基調講演を行った。高口氏は2009 年からカンボジアでエネルギー消費量やライフスタイルの調査を続けている。同氏は、東南アジアの新興国が、日本のような大量生産・大量消費社会を経ずに、いま何をすればサステイナブル社会に軟着陸できるのかという点について議論を広げ、カンボジアにおけるエネルギー消費実態を見ながら、どのような住宅やエネルギーシステムを提供すべきなのか、またそこで先進国はどのような役割を果たすべきか提案した。 午後の研究報告では、5ヶ国からの7名の若手研究者がそれぞれ国の省エネルギー事情及び取り組みについて報告した。インドネシアのBudi Faisal博士及びBeta Paramita氏は、バンドンの都市構造と環境エネルギーの関係について報告した。フィリピンからのStephanie N. Gille氏とJosefina S. De Asis氏はフィリピンのエネルギー消費現状及びマニラを中心とした省エネルギー及びグリーン建築の取り組みについて紹介した。インドのNicholas Iyadura氏はインドが世界で最も少なくエネルギーを消費し、最も少なくCO2を排出していることを説明し、先進国のような大量消費・大量排出の社会構造になると持続が不可能になるので、持続可能な発展はインドにとって重要な課題であることを力説した。タイのSuapphong Kritsanawonghon氏はタイのエネルギー実態及び省エネルギーの政策について報告した。オーストラリアのAndrew Irelan氏はオーストラリアにおける省エネルギー・環境分野の主な二つ制度であるNABERSとGREENSTARを紹介し、省エネルギー政策に関して、市場の力の重要性を強調した。 パネルディスカッションでは、Max Maquito博士が巧みに「エネルギーと環境」というフォーラムのテーマを、彼の専門である「市場と経済」に変えてしまった。そのおかげで、エネルギーと環境だけに留まらず、より広い話題を議論することができた。 参加してくださった皆さん、誠にありがとうございました。 フォーラムの写真 今西勇人撮影 ルィン撮影 (文責:高偉俊) 2011年11月30日撮影
  • 2011.10.26

    第6回チャイナフォーラム「Sound Economy-私がミナマタから学んだこと-」報告

    孫建軍「第6回チャイナ・フォーラムin 北京」報告 2011年9月23日、第6回SGRAチャイナ・フォーラムin北京が、国際交流基金北京日本文化センター(以下、日本文化センター)で開催されました。 今回のテーマは「Sound Economy-私がミナマタから学んだこと-」です。今年はより多くの社会人の参加を得るため、日本文化センターのご好意を得て、初めて大学のキャンパス以外に会場を移し、当会場で行われました。SGRA、日本文化センターの関係者のほか、大学生はもちろん、会社員、NGO関係者、日本大使館、中国外交部の外交官など40名近くが参加しました。 本日の講師の(財)水俣病センター相思社初代事務局長の柳田耕一氏は、まず10分ほどの映画『水俣病 その20年』を流しました。水俣病に苦しむ患者の衝撃的な映像にみんなが息を呑みました。そして、柳田先生は歴史を軸に、水俣、加害企業による公害の拡大、水俣病の深刻化及び企業や政府との戦いなど、世界的に水俣病が有名になるまでのことを、写真や資料を交えながら語ってくださいました。最後に、あらゆるMinamata Diseaseを防げる社会作りの大切さを訴えました。 社会人が多かっただけに、質疑応答では、質問の角度や中味の深さが一味違っていました。食品会社の社員からは中国で問題となっている「地溝油」(下水や生ごみから回収した油)の危害、NGOの職員からは有機水銀を埋立地に封じ込める具体的な方法、外交官からは水俣からチェルノブイリ、そして福島といった人的災害における構造的な背景など、どれもSGRAチャイナ・フォーラムの新しいテーマとして取り上げることもできるような内容の濃いものでした。 講演の最後に、司会を担当していた私は、過去のSGRAチャイナ・フォーラムを振り返って、社会の深刻な問題を前に「自分は何をすればいいか」という参加者から講師への共通の質問について、感想を述べました。深刻な社会問題に積極的に関わるには3つの「き」、つまり「勇気」「根気」「知識」が必要です。水俣病のために働く柳田耕一先生にしても、植林の高見邦雄先生にしても、アジア学生文化協会の工藤正司先生にしても、TABLE FOR TWOの近藤正晃ジェームス先生にしても、チャイナ・フォーラムの講師の方々はいずれも、これらの3つの要素を備えた方です。そして、若者として社会的責任を全うするために3要素を備えてほしいと呼びかけました。 今年のチャイナ・フォーラムのもうひとつの新しい試みとして、同じ日の午前中に北京大学日本言語文化学部の2年生を対象に、ワークショップが行われました。1年しか日本語を習っていないのですが、柳田先生のお話を真剣に聞く学生の表情は今までの授業風景にないものがありました。学生が寄せた感想文では、写真や映像のインパクトが語られ、中国の現状と結びつけながら、命の重さ、政府の責任、集団主義などについて言及する内容が多かったことから、今年のテーマも、例年と同じように、中国人学生に深く考える材料を提供できたようです。 (北京大学日本言語文化学部副教授) ☆北京大学の学生さんの感想文 ☆北京フォーラムの写真(劉健撮影) ☆北京とフフホトのフォーラムの写真(石井撮影) ネメフジャルガル「第6回チャイナ・フォーラムin フフホト」報告 第6回SGRAチャイナ・フォーラムin フフホトは、9月26日(月)内モンゴル大学学術交流センターで開催されました。同フォーラムには、内モンゴル大学、内モンゴル農業大学、内モンゴル師範大学、内モンゴル工業大学、内モンゴル医学院からの教師や生徒および内モンゴル草原環境保護促進会などNGO関係者を含めて約130人が参加しました。私が司会を務め、内モンゴル大学副学長・モンゴル学研究センター主任のチメドドルジ教授が開会の挨拶をしました。チメドドルジ教授は、SGRAチャイナ・フォーラムが2年連続で内モンゴル大学で開催されていることに対しSGRAに謝意を表し、工業化が急速に進んでいる今日の中国、特に地下資源開発によって経済成長を支えている内モンゴルは、環境問題において日本を含む先進国の経験から学ぶべきことが多いと指摘しました。SGRA代表の今西淳子さんは挨拶をし、SGRAの設立経緯、活動の趣旨について紹介しました。 今回のフォーラムは、特定非営利活動法人地球緑化の会副会長兼事務局長、モンゴル国ダルハン農業大学名誉教授、元(財)水俣病センター相思社事務局長の柳田耕一氏を迎え、グローバルな視点から、水俣でおきた人類史的な事件の事実と意味についてご講演いただきました。 水俣病は20世紀中期に発生した世界中でよく知られている環境問題であり、化学工場の廃液が海に流されて発生した公害病です。柳田先生は、病気の発生から行政の対応、市民活動の広がり、現在残されている課題などを中心に水俣病に関して詳しく紹介しました。公式発見から半世紀経った現在でも、抜本的な治療法は無く、被害の全体像の解明は進まず、地域経済は疲弊したままです。一方、水銀による環境汚染は世界中に広がり、酷似した症状をもつ人々も出現し、現在では微量水銀の長期摂取による健康影響に世界の関心は向かっているようです。 内モンゴル大学環境と資源学院の郭偉副教授が、柳田先生の講演に対してコメントをしました。郭先生は環境学の視点から柳田先生たちの活動を高く評価し、環境問題は人類共通の問題であり、若い学生たちが自ら環境保護に取り組むよう呼びかけました。また、内モンゴルの草原地帯における地下資源開発に伴う環境汚染問題を紹介しました。講演後柳田先生は、会場からの質問に対し丁寧に答えました。SGRA研究員で内モンゴル大学OB、滋賀県立大学准教授のブレンサイン先生が閉会の挨拶をしました。フォーラムの通訳はSGRA研究員、北京大学日本言語文化学部副教授の孫建軍先生が担当してくださいました。 (内モンゴル大学モンゴル学研究センター研究員) ☆フフホト・フォーラムの報告(中文)
  • 2011.08.03

    エッセイ301:マックス・マキト「マニラ・レポートin蓼科」

    2011年7月2日(土)にSGRA蓼科フォーラム「東アジア共同体の現状と展望」が開催された。休憩中にパネルディスカッション司会の南基正さんからコメントを発言するよう頼まれた。フォーラムの真っ最中にマニラの家にいる愛犬が静かに亡くなったという知らせを受け取った僕は集中力が乱れていたが、要請に応じて何とか発言した。しかし、わかりにくいところもあったと思うので、ここで改めて整理して、その後の印象と一緒に述べさせていただきたい。 今回の発表者のなかには東南アジアの代表がいなかったが、基調講演をしてくださった恒川惠市先生と、黒柳米司先生がASEANに関して十分に話してくださった。それに少しだけフィリピンの立場を付け加えたい。 スペイン帝国がフィリピンを米国に譲るというパリ協定が署名された一年後の1899年、16世紀からスペインの海軍基地であったスービックに、星条旗が初めて掲げられた。それから100年近くたった1992年、米海軍は撤退し星条旗は下ろされた。その後、予想通り、スービック地域の経済は低迷したが、フィリピン政府がそこに経済特区を設置した結果、地域経済は回復に向かった。 当時、米軍の撤退はどちらかというと良かったと思った。あの国はうっかりすると軍事力をもって地域介入する傾向が強いので、東アジア共同体の構築はやはり我々東アジア人に委ねるべきであろうと思った。冷戦ベビーである僕としてはこのような考え方は驚くべきことであった。冷戦の恐怖に育てられたものにとっては、守ってくれる米軍はどうしても欠かせない存在のはずだったからだ。 スービックから米軍が撤退した頃、東アジア共同体について楽観的になる展開がいくつかあった。たとえば、東アジアの暴れん坊である北朝鮮をこの地域に巻き込もうとする日朝平壌宣言とか、あるいは、共産主義を支えてきた中央計画経済を放棄した中国の市場経済の導入とか。当時は、アメリカがなくてもこの地域はやっていけるのではないかという前向きな気持ちが湧いていた。 このような希望を象徴する当時のあるテレビ番組を思い出す。ある日本の俳優が銀座でタクシーを拾う。運転手さんに「ロンドンまでお願いします」という。目指す方向は西。太平洋を経て西欧を目指した今までとは正反対の、まさにその時代の風向きである。 残念ながら、平壌宣言は失敗に終わった。北朝鮮は弾道ミサイルの開発を進め、命中率はともかく、その射程距離に東南アジアの一部分も入ってしまった。そして、市場経済から膨大な富と力を蓄えた中国が、東南アジアの心とも言うべき南シナ海において威圧的な軍事力をもって暴走し始めた。シンガポール、ベトナム、そしてフィリピンはこのような行動に反発している。恒川先生が指摘されたように、残念ながら東アジアではまだ冷戦が終わっていない。 あの冷戦の悪夢が蘇った現状では、どうすればいいのか。基調講演にも取り上げられた逆転の発想があった。それは、黒柳先生が言及された「弱者である」ASEAN主導型の東アジア共同体である。しかしながら、この構想は東アジアの先輩である日中韓が容認するかどうかまだはっきりしていない。ERIAという東アジア共同体のための研究機関の本部は、日本の支持も受けてジャカルタにあるASEAN事務局に設置されたから、日本はASEAN主導を支持しているようである。しかし、韓国はソウルに設置したかったという。いずれにせよ、このASEAN主導型の東アジア共同体構築という構想に日中韓の容認が得られるならば、ASEANは喜んで協力するであろう。 ただし、この構想が容認済みという前提であれば、逆に日中韓の協力が必要となる。この構想が上手くいくためにはASEANの団結が益々重要になる。東アジア共同体の構築はASEANの中の一国だけでできることではないからである。そう考えると、日中韓に対して、ASEANを分裂させるような行動を避けていただくようにお願いしたい。 国際分業化は恒川先生の共同体の定義にも入っているが、僕もその通りだと思う。日本の企業も東アジアの国際分業化に大きく貢献してきた。EUのような制度がなくてもこれだけ域内貿易が進んでいるのはその結果とも考えられる。しかし、最近の動きをよくみると、日系企業の東アジアへの進出はある特定の国や地域に集中的に行われるようになりつつある。それ故に、日本は共有型成長という素晴らしい理念を持っているにも関わらず、バランスを欠いた分業化に成りつつある。このような不均衡な状態は結局ASEANの団結に打撃を与えかねない。 中国はまだ東アジアの国際分業化に日本ほど貢献していないが、領土問題の取り組みはASEANの分裂を進める危険性が十分にある。中国は多国間の話し合いの誘いに応ぜず、二カ国間の話し合いにしか対応しない姿勢である。これはASEANの分裂にも繋がりかねない。二カ国間の政府レベルの話し合いの大部分は不透明であり、政府同士が納得できたといっても、必ずしもそれが国民にとって良いとは限らない。劉傑先生が引用された「(東)アジアは中国の共通な故郷である」という言葉で思い出した。昔、中国の艦隊がアジアの海を帆走し回っている航海時代もあったが、当時の西洋的な考えとは違い訪問先を植民地化するような方針はなかった。乗組員が訪問先の国を気に入って、そこに住もうと決心して居残ったこともあった。今の中国はその原点に回帰していただきたい。 韓国は、北朝鮮巻き込み作戦の失敗や市場経済の過剰な導入により、日中韓の中では一番東アジア共同体の必要性を痛感しているかもしれない。1997年に勃発した東アジア金融危機によりIMFから厳しい政策転換を余儀なくされ、韓国社会は多大な打撃を受けたし、北朝鮮からは死者が出る軍事攻撃を2回も受けたのであるから。それだけに、ソウルではなくジャカルタ(ASEAN本部)にERIA本部が置かれたのは韓国にとって悔しいであろうが、朴栄濬さんの発表にあったように、韓国が戦後すぐに太平洋同盟構想を発表したように、今でもASEANを信じてくれるようお願いしたい。 今回のフォーラムの内容について、SGRAの仲間たちもいろいろと考えたようだ。意外にも、中国本土の仲間たちがASEAN主導型の共同体構築に寛大な姿勢であった。「強者同士だけだと何もならない」、「問題の島はどの国のものでもなく、皆で共有すればいい」、「皆さんの話は客観的でいい」など。これに対して、「辺境」の東北アジアの仲間たちは、「中国中心にすべき」という意見が強かった。「ASEAN+辺境」と提案しても直ぐ中国のことが気になって否定された。 良き地球市民を目指しているSGRAは、それ自体が小さな東アジア共同体の構築をしようとする活動である。SGRAは僕にとって共同体構築の悲しさや喜びを分かち合える場でもある。ASEANも軍事同盟もなくなり、東アジアという共同体のみとなる希望の未来、僕がこの目で見ることは出来ないかもしれないが、今から仲間たちとその準備を始めたい。 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------
  • 2011.07.27

    南 基正「第41回SGRAフォーラム in 蓼科『東アジア共同体の現状と展望』」報告

    2011年7月2日、第41回目のSGRAフォーラムが「東アジア共同体の現状と展望」をテーマに長野県の東商蓼科フォーラムで開催された。SGRA「東アジアの安全保障と世界平和」研究チームが企画・開催するフォーラムとしては、2003年2月の第10回フォーラム「21世紀の世界安全保障と東アジア」、2005年7月の第16回フォーラム「東アジア軍事同盟の過去・現在・未来」、2008年7月の第32回フォーラム「オリンピックと東アジアの平和繁栄」 に次いで4回目である。 今回のフォーラムの目標は、ASEANと日中韓など、東アジアの諸国が提唱している様々な東アジア共同体論を引き出し、その共通項をまとめ、そのような構想が政策や制度として定着するためにはどのような課題に取り組むべきかについて東南アジア、日本、韓国、中国、香港、台湾、モンゴル、北朝鮮などの視点から点検することにあった。当初の企画意図は簡単な発想から出た。「SGRAには丁度いいばらつきで東アジアの国々からの研究者が集まっている。彼らは自国の事情をよく理解しつつも、留学を含め海外での研究歴が長く、その間多様な出身国の研究者と交わったことがあるから、隣の国々の事情をもよく考えて、物事を発想し伝えることができる。このような研究者が集まっていること自体が、この地域で何か新しいものを形にしていく基盤となるだろう。それを表に引き出してみよう。」このフォーラムはそのような発想から企画された。 開会の辞で今西淳子常務理事は、アジアのなかに共同体のような形で平和の枠組みを構築することは、祖父である鹿島守之助・元鹿島建設会長の遺志であったと語った。改めてSGRAフォーラムで東アジア共同体を論じることの意義が大きく感じられた。 フォーラムは長くこの問題に携わり発言してきた2名の講演者の基調講演から始まった。まず、恒川惠一・政策研究大学院大学副学長が「東アジア共同体形成における『非伝統的安全保障』」という題目で講演を行った。恒川教授は、一般に共同体の条件として「分業の成立」と「不戦への合意」の二点があることを踏まえ、東アジアの地域において依然として影響力のあるアメリカのヘゲモニーと戦争よりは現状維持がいいという認識の拡大によって時間を稼ぎながら、経済の地域統合と機能的協力を重ねていくことで、上の二点を実質のものにし、共同体に近いものへとアジアの現実を変えていく、という具体的方法論を提唱された。その際に重要なことがこの地域において非伝統的安全保障における協力を推進していくことであると強調された。 続いて、第二講演者の黒柳米司・大東文化大学法学部教授が「ASEANと東アジア共同体構想―何を・誰が・いかに?」というテーマで講演を行った。黒柳教授は、アジア太平洋地域に幾多の重層的対話メカニズムが出来上がっているなか、共同体構築への道程ではASEANが主役とならざるを得ない幾つかの合理的な理由があり、これを認めることが重要であると主張された。その大きな理由は、ASEANの国々が地域平和を達成してきた実績があることに加え、周囲に脅威を与えない小国であるがゆえにリーダーシップが委ねられるという、逆説的現実にあった。したがって、ASEANが内部結束を深め、外部からの支持を獲得することの成否に東アジア共同体の成否がかかっている、というのがその結論であった。 休憩を挟み、韓国・中国・台湾/香港・モンゴル・北朝鮮の順に、それぞれの立場で見つめる東アジア共同体構想について発表があった。 朴栄濬・韓国国防大学校副教授は韓国の東アジア共同体構想を歴史的に辿る内容で報告を行った。朴副教授によれば、李承晩・朴正熙の両大統領が推進したアジア太平洋の多国間協力の枠組みが北朝鮮の脅威に対する安全保障として構想されたのに対して、金大中・盧武鉉の両大統領が追及した東アジア共同体は、北朝鮮を抱き込んで形成すべき民族共同体の外延として必要なものと認識されたところに違いがあった。このような差は今も受け継がれ、韓国社会においては進歩・保守を問わず、東アジア共同体に積極的な意見が多く見られる中、保守派が統一の過程で影響を及ぼす覇権国の登場を牽制する装置として東アジア共同体を論じる反面、進歩派は南北国家連合の環境作りとして東アジア共同体が語られている現状を指摘した。 劉傑・早稲田大学教授は、中国がいまだ東アジアの地域で共同体という概念で地域協力の枠組みを公式の文書で提起したことはないが、鳩山内閣が提唱した東アジア共同体構想は、「睦隣・安隣・富隣」を唱える中国の外交戦略と重なる部分もあり、東アジアの「一体化」に向けた議論は活発化していると、中国の現状を把握した。その上、中国は侵略された歴史があるため、どうしても主権へのこだわりが強く、「主権」と「国際協調」を同時に追求しながら、事案によっては二つの目標が衝突していると、中国の東アジア外交を分析した。なお、中国は「主権」を前面に出す外交でも、軍事力よりは強い文化力を背景にアジアを包み込む戦略をとることも考えられ、これが東アジア共同体へのもうひとつの道になりうるとの展望を提示した。 ここまでがいわゆる東アジア共同体作りにおいて「中心」といわれてきた国家からの研究者による講演と報告であった。夏のフォーラムでは恒例となった峠の釜飯で昼食をとり、午後の部では、「周辺」または「辺境」といわれてきた地域からの視点が加わった。 中国福建省出身で香港で育ち、日本で学び、現在は琉球大学で教えている林泉忠・准教授は台湾と香港の視点を介在させ、「中心国家」を中心に展開している東アジア共同体構想の閉鎖性を指摘し、脱「中心」主義と脱「主権」主義を志向することこそが、開かれ、かつ安定した共同体構想の不可欠な条件であると主張した。 次に内モンゴル出身のブレンサイン・滋賀県立大学准教授がモンゴルの立場から見える東アジア共同体構想について報告を行った。東アジアの「辺境中の辺境」であるモンゴルは、中国とロシアという大国に挟まれた緩衝地帯に位置し、早くから大国間の等距離外交で独立を守ってきた国であり、民主化以後には、安定した民主主義の上に、多極的かつ開かれた国家運営を行っている。豊富な資源に加え、そのような経験と志向を持つがゆえに、モンゴル国は東アジア共同体のもうひとつの構成員として注目すべき存在である、というのが主な主張であった。 最後に北朝鮮との国境地帯で中国の朝鮮族として生まれ育ち、北京で大学を卒業し、日本の大学院で学んだ後、韓国の釜山に位置する東西大学で教えている李成日・助教授の報告があった。報告では、中国との経済協力に新しい進展はあるものの、急速に進む東アジアの経済統合のなかで一人取り残されている状況、またARFを例外にするといかなる東アジアの地域協力機構にも加入していない現実など、北朝鮮を巡る厳しい現状に言及しつつも、「強盛国家」建設を目指す北朝鮮が、経済再建のためにも周辺環境の安定を望んでいると分析した。その上、地政学的に東アジアの中心に位置する北朝鮮を抜きにして、果たして東アジア共同体構想は現実として可能か、との問いを投げかけた。 ここまでの発表は李恩民・桜美林大学教授の司会の下で進行した。要領を得た司会ぶりでほぼ予定通りに会議は進み、いい流れを作っていただいた。そのお陰で、パネルディスカッションの時間が十分に確保できた。ここから私に司会の役が回ってきた。 パネルディスカッションは、平川均・名古屋大学教授の総括討論から始まった。平川教授は、まず、今回のフォーラムの意義として「『辺境』をいかに理解するか」という問題を中心課題にする必要があることを感じたと感想を述べられた。その次に、開会の辞で今西常務理事が、鹿島守之助のパン・アジアニズムに言及したことに触れ、日本が東南アジアをいかに位置づけるかの問題が、戦後日本の主流派のアジア政策と鹿島守之助のパン・アジア構想の重要な差異になっていたと指摘した。最後に、日本の東アジア共同体構想を語るうえでは、日本の構想の中で占める中国の位置を確認することが重要であると問題を提起された。 次に二人の元奨学生と二人の2011年度奨学生から感想が寄せられた。韓国出身の2000年度奨学生である鄭成春・韓国対外経済政策研究院・研究員は、東アジア共同体作りのドライバーズ・シートにASEANが座るべきだとの黒柳教授の報告に対して感想を述べ、日中の複雑な関係と立場を考慮すると韓国がもっと積極的に動く余地があるとの趣旨で発言した。フィリピン出身の1995年度奨学生であるF.マキト・アジア太平洋大学研究顧問は、ASEANのなかで大きくなりつつある中国の脅威への危機感を指摘し、そのような現状であるからこそ、東南アジア主導の共同体構想に賛成の立場を表明した。そのためにはASEANの国々が団結する必要があり、日本と中国は東南アジアの特定の国家に偏らず、公平な政策を採ることが要望されると訴えた。ベトナム出身で今年度奨学生のホー・ヴァン・ゴックさん(千葉大学)は、幼いときからこの地域に漢字文化圏があり、ベトナムがその文化共同体の一員であることを自覚していたと語り、経済開発に成功した日中韓は、先輩国家として、この地域の成長と安定のために役割を果たすべきであると注文した。台湾出身の謝恵貞さん(東京大学)は、林泉忠准教授の報告に触れ、内田樹の『日本辺境論』の視座に立てば日本も辺境であるとし、中心・辺境の境がなくなることが共同体形成の意義ではないかと問いかけた。また、劉傑教授への質問として、いずれ中国と台湾は協力体制を作っていくことになると思われるが、中国は台湾問題を「主権」の観点からアプローチせず、普遍的人権の問題で扱うべきであると訴えた。 最初に答弁に出た恒川教授が「本質をついている」と評価したように、フロアからのコメントと質問は、聴衆の集中力と理解力の高さを物語っていた。以後、午前の報告と同じ順番で基調講演者と発表者たちの追加発言と答弁が続けられた。しかし、徐々に答弁は教科書的な内容に丸く収まっていくような気がした。これでは、「辺境」の視覚を取り出し、「中心」のそれと交わらすことでようやく新しい問題提起がなされたのに、もったいない。そこで、最後の時間を使い、最後の質問をぶつけることにした。202Q(ニ・マル・ニ・キュウ)年に21カ国の署名をもって締結された蓼科条約をもって、東アジア共同体の成立が実現した、との仮想現実を作り出し、それについての感想をパネリストたちに要求した。 唐突の質問だったので、パネリストには考える時間が必要だった。丁度うまい具合に最後の質問がフロアから飛んできた。本年度奨学生で中国出身の李彦銘さん(慶応大学)からのコメント・質問であった。まずは、日本の共同体構想が明確に示されなかったことを指摘し、日本の核武装の可能性、中国の国民意識の急速な変化による中国指導部の政策と国民の意識のズレ、アジアにおけるナショナリズム克服の過程で日本の果たすべき役割など、報告とディスカッションで疎かにされた問題を提起した。 いずれも重要な問題提起であったが、終了の時刻がもう近づいてきており、これらの問題については深く議論できずに終わらなければならなかった。司会として進行に問題があったと認めざるを得ない。しかし、弁明の余地がないわけではない。「中心」と「辺境」の視座を交差させるという当初の趣旨を生かすため、パネリストの数が多くなり、その分、提起された問題も多岐になった。プレーヤーが多くなれば、それだけゲームは複雑になる。重層的なフレームワークの中で展開する東アジア共同体論議の難しさがそのまま今回のフォーラムに表れたような気がする。それでも、最後に何かを残したかった。その気持ちを最後の質問に込めた。 私の気持ちを理解していただいたのだろうか。パネリストの皆さんは、わずかに残った最後の答弁の時間を使い、私の唐突な質問に対して、機知を働かせた明快な文章の答弁をいただいた。その内容は、近刊のSGRAレポートを見ての楽しみにしていただきたい。 第41回SGRAフォーラムの写真は下記よりご覧いただけます。 マキト撮影   マティアス撮影 参考:蓼科旅行記 2011年7月27日配信
  • 2011.07.20

    張 桂娥「第1回日台アジア未来フォーラム報告(その2)」

    思いがけない盛況ぶりで午前の部は予定時間を少しオーバーして終了した。それから小一時間のランチタイムには、総勢150人の参加者たちが、お弁当で空腹を満たしながら積極的に交流を図り、懇談に花を咲かせた。熱気と活気にあふれる話し声が、雷を伴う激しい雨の音にも負けず、会場全体に溢れ、台湾名物の夜市も顔負けのダイナミズムさえ感じさせた。 短いハッピーアワーを惜しむ間もなく、午後の部は13時40分から定刻開始し、二つの会場に分かれて、パネル(2)とパネル(3)がパラレルに行われた。パネル(2)「言葉の力:言葉の日中往来」では、語彙研究と語学教育の新しい方法論を検討した。 先陣を切った謝豊地正枝女史(台湾大学日本語文学科教授)は、「『アニメ』等の視覚資料に用いられる日本語の日本語教育に与える影響について」を題に、日本語学習の立場からみるアニメ教材のメリットや功罪について詳しく分析した。 林立萍女史(台湾大学日本語文学科副教授)が発表した「アニメに見られる日本昔話の語彙」では、日本語教育関係の日本語語彙表を通し昔話語彙の難易度、意味分類を通し昔話語彙の意味的分布を明らかにすることによって、ビデオアニメ化される昔話の語彙特性の一側面を把握しようと試みた。林先生は今回のフォーラム開催の実現にもっとも尽力してくださった立役者であり、台湾大学日本語学科の素晴らしいスタッフ陣を率いながら、事務連絡や論文収集なども率先して全力投球した上、研究発表も自ら進んで引き受けてくださった。この場を借りて厚くお礼を申しあげたい。 3番手の孫建軍氏(北京大学外国語学院日本言語文化学部副教授)は、「西洋人宣教師と中日における欧米諸国の漢字表記の成立」という課題を究明するため、西洋人宣教師の中国語著作(漢訳洋書) を手がかりに、欧米主要国家の漢字表記の変化、成立過程及び日本語とのかかわりを整理し、近代漢語の成立における西洋人宣教師の歴史的役割を探った。 パネル(2)最後の発表は、方美麗女史(お茶の水女子大学外国語教員)による「表現教授法――効果的な外国語教授法」の実践報告だった。方先生は、 “表現教授法”における2つ目の学習段階であるドラマ教育をテーマに、特にドラマを言語教育に導入する目的・ドラマ指導するステップ・ドラマの効果を、実際の教室活動の映像とともに紹介する予定であったが、会場設備の機械トラブルの影響で一時中断された。 座長の頼錦雀女史(東呉大学日本語文学科教授兼外国語文学院院長)はパネルの進行に支障が出ないように機敏な対応で難局を切り抜けたが、最後まで、納得のいった発表成果が得られなかったし、発表後の質疑応答の時間も十分とれずに、セッションを終了せざるを得なくなった。不本意ながらも発表者にとって消化不良の発表になってしまったことに対し、どんな理由があったにせよ許されない大ミスとして真摯に受け止め、主催側を代表してこの場を借りて、あらためて深くお詫びを申しあげたい。次回開催時は、今回の教訓をしっかりと肝に銘じて反省させていただく所存である。 一方、文学作品の研究をメインにしたパネル(3)「ストーリーの力:夏目漱石から村上春樹まで」では、ジェンダーを始めとする日本文学作品の新しい切り口、あるいは日本文学の翻訳や受容について検討した。 まず、「漱石の初期小説にみる「トレンディ女性」像:彼女らの運命を追いながら」をテーマに発表された范淑文女史(台湾大学日本語文学科副教授)は、漱石の小説に登場した三人の女性――『草枕』の那美、『虞美人草』の糸子、及び『それから』の三千代の生き方を考察しながら、明治社会を生きようとする「トレンド女性」像の一端を明らかにすることを主旨とした。 横路明夫氏(輔仁大学日本語文学科副教授)は、フォーラムのサブテーマである「トレンド・ことば・ストーリーの力」に基づき、ポップカルチャーを視野に入れた「内面としての物語―夏目漱石、村上春樹、そして「ONE PIECE」―」という題目で発表された。ある人物の精神的位相を物語として表現するという方法に視点をおいて、夏目漱石・村上春樹・「ONE PIECE」の三者を貫くストーリーテラーとしての共通性を探った。 かわって蕭幸君女史(東海大学日本語文学科助理教授)は、「悪女物語の行方————漱石と谷崎の場合」というテーマを取り上げ、ジェンダーの観点からではなく、漱石の『虞美人草』を中心に、谷崎の『痴人の愛』に登場する悪女との比較を通して、悪女物語の行方、物語の力と「悪女」というキャラクターの関連性を追った。そして、近代に入ってから、創作者の男女を問わず、いわゆる悪女物語がいまだにその魅力の衰えを見せないのはなぜか、という謎解きにも挑んだ。 パネル(3)のアンカーはSGRAフォーラムでも活躍している孫軍悦女史(東京大学教養学部講師)であり、「世界はあなたたちのもの、また私たちのもの――中国大陸における『ノルウェイの森』について――」を題に、世界の村上春樹という現代日本文学の巨匠がトレンドとして中国に広がったプロセスを解明した。日本人に対する憎しみが絶対永久に風化しない中国本土における村上春樹作品の受容プロセスを、「政治×文化×市場」というグローバル経済事情の視点から読み解くというインパクトのある発表だったが、こうした文学作品を受け容れた若者たちの考え方の変容が把握できるようなさらなる発表成果を、期待せずにいられなくなるのも、孫先生の指摘された「ナイーブさ」であろうか。 盛りだくさんの素材を取り入れた4本の論文発表が終わった後、パネル(3)の座長を務めた朱秋而女史(台湾大学日本語文学科副教授)は、熟練かつ軽妙な司会ぶりを発揮し、スムーズで内容の充実した質疑応答が繰り広げられた。 まず台湾の文化大学の齋藤正志教授から、同じく漱石の「虞美人草」を取り上げた二人の先生に、物語の本質に迫る直球勝負的な鋭い質問を投げかけた。明治大学の宮本大人先生は、漱石や村上春樹の作中人物の価値の勘違いに注目し、「ONE PIECE」の人物造形について、橫路先生と意見交換した。最後は座長の范教授に特別指名された基調講演者の太田登先生が発表者全員に投げかけた観察眼という問題提起であり、近代化という大きな歴史的流れにそって視野を広めてほしいという期待を込めたご示唆であった。 2つの会場に分かれた参加者たちは、回廊に合流し、午後のティータイムを楽しんだ後、再び大講堂に戻り、16時から始まるオープンフォーラムに臨んだ。まず、スペシャルゲストとして遥々イタリアから来台したMaria Elena Tisi女史(ボローニャ大学、ペルージャ外国人大学契約教授)による報告であった。Tisi先生は、「イタリアにおける日本文化:日本学のトレンドと日常生活にみる日本文化」を題に、誰が日本文化をイタリアに紹介したのか、日本文化はどのようにしてイタリアに渡ったのか。イタリアにおける日本研究の流れを簡単に紹介した後、イタリアの日常生活に見られる日本文化を概観してくださった。参加者の皆さんは、この報告を通して、東アジア人の思考回路とは全く異なる感性と発想でとらえたイタリア発の日本観を発見していただけたと思う。 報告に続き行われた3つのパネルの総括が終わった後、本フォーラムのクライマックスを飾るフロアとの質疑応答&意見交換のコーナーに移り、今回の主催ホストでもある徐興慶氏(台湾大学日本語文学科教授兼主任)に座長をお願いした。 序盤から、質問の矛先は遠路遥々来場されたTisi先生に集中し、徐興慶先生も齋藤正志先生もイタリアの大学における日本研究の最新状況や、イタリアで日本語を勉強した大学生の進路などに興味を示した。それに対して、Tisi先生は「イタリアの大学の日本語学科の卒業生には殆ど仕事が見つからない。なんのために日本語を勉強したのか、学生のモチベーションもインセンティブも低下しつつある厳しい状況かも」と即答し、会場一同を驚かせた。その延長として、日本と中国のアカデミックな学術研究現場における漫画・アニメ研究について、宮本先生と孫建軍先生にもそれぞれ簡単に紹介していただいた。限られた時間であったが、熱意のこもったムードに包まれながら、濃密な意見交換が行われる中、フォーラムも順調に終盤を迎えた。 SGRAが初めて台湾で開催したフォーラムは、こうした議論を通して、グローバルに研究領域を広げた国際日本学研究の土台を固めるだけでなく、まだ学問として成り立っていない日本のサブカルチャーの受容研究においても、多角的な視野を提供できたと願うが、次回からは、閉会式で今西淳子SGRA代表も指摘していたように、「もっと学際的な分野にチャレンジして議論の場を広めたい」という目標を目指し、日台アジア未来フォーラムの新たな展開に向けて活動を続けていきたい。 振り返ってみると、一年間以上も費やして辿りついた長い道のりであったが、国際交流基金・中鹿営造・台湾日本人会より温かいご支援をいただいた上、台湾SGRAメンバーからも心強いご協力を、そして何よりも、徐興慶先生・林立萍先生の率いる台湾大学日本語学科の素晴らしいスタッフ陣の労を惜しまないご奉仕をいただいたお蔭で、フォーラムが成功裏に終わった。この紙面を借りて報告すると共に、改めて心より深くお礼を申しあげたい。 *第1回日台アジア未来フォーラム報告(その1)と当日の写真 --------------------------------- <張 桂娥(チョウ・ケイガ)☆ Chang Kuei-E> 台湾花蓮出身、台北在住。2008年に東京学芸大学連合学校教育学研究科より博士号(教育学)取得。専門分野は児童文学、日本近現代文学、翻訳論。現在、東呉大学日本語学科助理教授。授業と研究の傍ら日本児童文学作品の翻訳出版にも取り組んでいる。SGRA会員。 --------------------------------- 2011年7月20日配信