SGRAスタディツアー

  • 角田英一「第62回SGRAフォーラム・APYLP+SGRAジョイントセッション「再生可能エネルギーが世界を変える時…?-不都合な真実を超えて」報告」

    2019年2月2日、東京・六本木の国際文化会館で、第62回SGRAフォーラム・APYLP+SGRAジョイントセッション「再生可能エネルギーが世界を変える時…?-不都合な真実を超えて」が開催された。このフォーラムは、国際文化会館がアジア太平洋地域の若手リーダー達を繋ぐことを目的として組織し、SGRAも参加する、「アジア太平洋ヤングリーダーズ・プログラム(APYLP)」とのジョイントセッションとして開催された。   今回のフォーラムは、2015年のCOP21・パリ協定以降、急速に発展しつつある「再生可能エネルギー」をテーマとして、その急速な拡大の要因や将来の予測を踏まえて「再生可能エネルギー社会実現の可能性」を国際政治・経済、環境・技術(イノベーション)、エネルギーとコミュニティの視点から、多元的に考察することを目的とした。   フォーラムで行われた、研究発表と基調講演を概観してみよう。 午前中のセッションは、120名の会場が満杯となる盛況の中、デール・ソンヤ氏(一橋大学講師)の司会、今西淳子氏(渥美国際交流財団常務理事・SGRA代表)の挨拶で始まった。 第1セッションでは、3名のラクーン(元渥美奨学生)の研究発表が行われた。トップバッターの韓国の朴准儀さん(ジョージ・メイソン大学兼任教授)は、「再生可能エネルギーの貿易戦争:韓国のエネルギーミックスと保護主義」の発表を行い、専門の国際通商政策の視点から文在寅政権の野心的すぎる環境政策、中国の国策の大量生産による市場独占、アメリカの保護主義政策などを分析しながら、韓国の太陽電池生産の衰退を取り上げ、再生可能エネルギービジネスが大きく歪められている現状に警鐘を鳴らし、政策転換の必要性を力説した。 第2の発表は、高偉俊氏(北九州市立大学教授)による「中国の再生可能エネルギー政策と環境」。中国の環境問題を概観した上で、深刻な環境汚染を克服するために「再生可能エネルギーへの転換が必要だ」と訴え、政府主導で中国国内や外国で展開される中国製大規模プロジェクトを紹介したが、一方で、中国は大規模プロジェクトに傾斜せず、きめ細かな環境政策が必要であると強調した。第3の発表は、葉文昌氏(島根大学准教授)の「太陽電池発電コストはどこまで安くなるか?課題は何か?」で、PVの独自のコスト計算を披露しながら、太陽光発電コストを削減するための様々なイノベーションの可能性を示した。その上で、発電と同時に蓄電のイノベーションの必要性を訴えた。   春を思わせる陽光の下、庭園で行われたコーヒーブレイク後の第2セッションでは、原発被害からの復興と地域の自立のために「再生可能エネルギー発電」を新しい地域産業に育てようと試みる福島県飯舘村の事業が紹介された。まず、飯舘村の村会議員佐藤健太氏が、2011年3月11日の福島第一原発事故による被害と昨年まで7年間の避難生活を振り返りながら、飯舘村の再生、新しい地域づくりの核に「再生可能エネルギー発電」を取り上げる意義と将来のヴィジョンを語った。次に登壇した飯舘電力の近藤恵氏は、既に飯舘村内で実施中のコミュニティレベルの小規模太陽光発電プロジェクトなどの取組を紹介すると共に、現在の日本国内の規制、制度の下での地域レベルの発電システム拡大の難しさを語った。   午後のセッションは、2本の基調講演と分科会でのディスカッションが行われた。 1本目の基調講演はルウェリン・ヒューズ氏 (オーストラリア国立大学准教授)の「低炭素エネルギー世界への転換と日本の立ち位置」。この講演の中でヒューズ氏は、低炭素エネルギーへの転換の世界的な流れを概観し、気候変動対策等を重要な政策とかかげ、低炭素エネルギーの振興を語りながらも、明確な指針が定まらない日本のエネルギー政策を多様なデータを用いながら解説した。 これに対して2本目の基調講演者ハンス=ジョセフ・フェル氏(グローバルウォッチグループ代表、元ドイツ緑の党連邦議員)は「ドイツと世界のエネルギー転換とコミュニティ発電」の中で、1994年に世界初の太陽光発電事業者コミュニティを設立し、ドイツ連邦議会の一員として再生可能エネルギー法(EEG)の法案作成に参画、その後世界の再生可能エネルギーの振興に取り組んできた経験を紹介しながら、「Renewable_Energy_100」のスローガンの下に、再生可能エネルギー社会の実現を訴えた。   午前中の5本の発表、午後の2本の基調講演の後、講演者、参加者が「国際政治経済の視点から」、「環境・イノベーションの視点から」、「コミュニティの視点から」の3分科会に別れて、熱い議論が展開された。   今回のフォーラムは、一日で「再生可能エネルギー社会実現のための課題と可能性」を探ろうという試みであり、さまざまな分野の多くのトピックスが取り上げられ、また様々な疑問、問題点も提起された。これらの議論を消化することは、容易ではないことを改めて感じさせられた。 フォーラム全体を通じて私が感じたのは、まず、「世界の脱炭素化、再生可能エネルギー社会に向かう傾向は後戻りできない現実、あるいは必然であろう」という認識が講演者だけでなく会場全体で共有されていたことである。 しかし、すべてが楽観的に進行して行くとは思えないことも、発表の中で明らかになった。また、分科会でも、各国、各分野がさまざまな課題を抱えていることが指摘されたし、このフォーラムで必ずしも疑問点が解消されたと言うこともできない。 例えば、地球温暖化の影響で顕在化する気候変動、資源の枯渇などを考えれば再生可能エネルギー社会(脱炭素エネルギー社会)への転換は、地球社会が避けて通ることができない喫緊の課題である。しかしながら、グローバルなレベルで大資本が参入し、化石燃料エネルギーから自然エネルギーに転換したとしても、地球環境問題は改善されるであろうが、大量消費文明を支える大規模エネルギーの電源が変わるだけで、大量生産大量消費の文明の本質は変わらないのではなかろうか、という疑問に対しての答えは得られなかった。 また、分科会では、巨大化するメガソーラが景観や環境を破壊するとして、日本でもヨーロッパでも反対運動が生まれていること、太陽光パネルの製造過程で排出される環境汚染物質などの問題も提起された。 FIT((売電の)固定価格買い取り制度)がもたらす、買い取り価格の低下による後発参入が不可能となる問題、財政が圧迫する(ドイツの事例による)などの問題点。蓄電システムなど技術的なイノベーションの必要性なども議論された。 当然のことながら、こうした地球社会の未来にもかかわる大きなテーマに簡単な解や道が容易に導き出されるとは思えないし、安易な解答、急いで解答を求める姿勢こそ「要注意」だと思える。   様々な課題や困難があろうが、再生可能エネルギー社会が世界に普及、拡大して行く傾向は、ますます大きな流れとなることは、間違いのない現実だろう。 ここで思い起こされるのが、このフォーラムのサブタイトルである「『不都合な真実』を超えて」というフレーズである。これは、アメリカ元副大統領アル・ゴアが地球環境問題への警鐘として書いた本のタイトルである。 大きな力強い流れがおこっている中では、流れに逆らう「不都合な真実」はともすれば語られず、秘匿される。 「再生可能エネルギー」の議論の中でも、福島第一原発事故においても、さまざまな「不都合な真実」が語られず、秘匿されてきたことが明らかになっている。 再生可能エネルギーの普及に向けた市民のコンセンサスのために、そして科学技術信仰のあやまちを繰り返さないためにも、さまざまな「不都合な真実」を隠すことなく、軽視することなく、オープンにして市民レベルでの議論を繰り返して行くことが求められる。   フォーラムの写真   《角田英一(つのだ・えいいち)TSUNODA Eiichi》 公益財団法人渥美国際交流財団理事・事務局長。INODEP-パリ研修員、国連食料農業機関(バンコク)アクション・フォー・デヴェロプメント、アジア21世紀奨学財団を経て現職     2019年3月14日配信
  • エッセイ583:野田百合子「飯舘村を訪れて」

    今までに経験したことのない類の、広くて深い学びだった。   忘れないようにとせっせとメモをとって、でもそれは気軽には読み返せなくて、心の奥の引き出しにそっとしまっておきたくなるような。 私にとってはある意味とても非日常な旅だった。東日本大震災の被災地には何度も足を運んだけれど、原発事故で全村避難していた村に来るのは初めてだ。線量計をつけて歩くのも、原発事故や放射線被害について学者の先生から生で話を聴くのも、村の農家の人の暮らしを見せていただいて本音がポロリとこぼれる瞬間に立ち会うのも初めてで。頭も心もたくさん揺さぶられた3日間だった。 しかし飯舘村に暮らす人々にとってそれは日常だ。変わらない、そして日々変わりゆく日常。福島では今も毎日震災や原発関連のニュースをテレビや新聞で取り扱っているのだろうか。少なくとも2年前はそうで、それは東京に住む私にとって一つの驚きだった。   東京から飯舘村に行くには、福島駅で新幹線を降りて1時間ほど東へ車を走らせる。9月半ば、ちょうど稲穂が黄金色に光ってとても美しい風景だった。いいなぁ、こんな季節に来られて幸せだなぁと思ったのも束の間、境を越えて飯舘村に入った瞬間に景色が一変する。黄金色の稲穂はない。稲を育てるのが禁止されているからだ。そして見えるのは除染されてはげ山のようになった田んぼの跡地と黒と緑の巨大な除染袋の山ばかり。これが飯舘村の現実かとショックを受けた。そして境って何だろうと思った。放射性物質には境はない。村の中と村の外、境界線近くの線量は同じくらいのはずなのに地図上に引いた境が運命を分ける。村の一部は未だ帰還困難区域でバリケードで封鎖されている。その境目も難しい。バリケードの中は人が住めなくて荒れ放題で、でも中に家がある人には補償金がたくさん出るという。どちらがいいのか、いやどちらも嫌だな。村の人はこの美しい村で黄金色の稲や花を育てたり、牛を飼ったりして、昔ながらの暮らしを続けたいだけだっただろうに。   2017年3月31日に村の多くの地域で避難指示が解除になって、元の人口6,000人のうち約400人が帰村した。村に住む人、通う人、家族は別に暮らす人。人によって状況は様々だ。放射性物質は目に見えないし、この先の状況もわからない。だから一つひとつの判断に家族は揺れ、意見が分かれる。「これは放射能の問題というより生活や人間関係の問題、精神の分断だ。夫婦ゲンカ、親子ゲンカ、こういう問題はお金で解決できない。」ふくしま再生の会の田尾さんの言葉が胸に突き刺さった。   村に帰ってきて生活を再建しようとしている人にも何人かお会いした。 高橋日出夫さんは、国に建ててもらったというビニールハウスでアルストロメリア、トルコキキョウやカスミソウを育てて大田市場に出荷している。花について活き活きと語るときの日出夫さんの笑顔と、「生まれ育ったところでは見える景色全部が自分のもの。月も星も、飛行機までもうちのものと思う。避難先では月も星もよそのものって思ってたからなぁ」という一言が印象に残った。今67歳。あと20年は花を育て続けたいそうだ。   大久保金一さんは76歳。小宮地区にほぼ一人で住んでいる花の仙人だ。物心ついたときから花に興味を持っていて、花は食べられないからと親に叱られながらも花を植え育ててきた。震災の前の年に思い切って水を引いて花園を拡大しようとするも原発事故で中断。今も除染作業の最中だが、除染を終えたところには17種類の桜を始めボランティアの力も借りながら様々な花を育てている。金一さんは「原発事故があって涙を流さない日は一日もないといっても過言ではない」と言いながらも、花のことになると活き活きと語ってくれた。毎日一人であれをしよう、これをしよう、こうしたらどうかなとあれこれ考えて身体を動かす。生きる喜びとはこういうことなのかもしれない。事情の違う一人ひとりの生活の再建を支えるというのは気の遠くなるような道のりだと思う一方で、この喜びや尊厳を奪う権利は誰にもないのではと金一さんの姿を見ていて感じたのだった。   今回の旅を案内してくださったふくしま再生の会はシニア世代を中心とするNPO法人で、ほぼ毎週末東京などから飯舘村に通って村の人と一緒に様々な活動をしている。いま村の人は何を求めていてどんなデータや仕組みがあったらいいかを考え試行錯誤をしながら、ボランティアがそれぞれの関心や専門性を活かして活動しているのが特徴的だ。理事長の田尾さんは、「僕らは支援者じゃない。対等に協働している。ありがとうはいらない。村の人のためというよりか自分のためにやっている。」「ここは本物のフロンティア。まだわからないことがたくさんある。役に立てることがたくさんある」という。そして、なぜそこまでするのですかという質問には、「リタイアした人は都会でさみしいんだ。ここに来ると元気になる。人生100年、それをどう過ごすかだ。自分はここではりきっている。課題やわからないこともたくさんある。」と答えてくれた。   今回の旅で一番印象に残ったのは、あれをしよう、これをしようと自分で考えて身体を動かし、自分らしく生きる人の活き活きと輝く姿だった。それは被災した村の人も、再生の会の人も、たぶん私たちも同じ。人生とは、自分らしくクリエイティブに生きること。   では、私らしくクリエイティブに生きるって何だろう。私にとっては通訳の仕事を含めて、人と人との間に橋をかけることなのかなと思う。私はこの旅で村の人や再生の会の方たちにたくさんのものをもらった気がする。だから私らしく橋をかけることで何かお返しできたらと思った。具体的には今後、飯舘村に来たことのない日本の人、外国の人をもっとここに連れてきて橋をかけることで、お互いがもっと豊かになるような体験が提供できたらいいなと考えている。   今回お世話になった一人ひとりに感謝したい。SGRAの皆さんとのおしゃべりもとても楽しかった。 飯舘村、また来ます。 (2017年12月記)   <野田百合子(のだ・ゆりこ)NODA Yuriko> 英語通訳、ファシリテーター、ミディエーター。公益社団法人CISV日本協会理事。国際基督教大学卒業、現在は明治大学専門職大学院ガバナンス研究科に在学中(ミディエーション研究)。人と人との間に橋をかけ、お互いがより深く理解し合えるようにサポートするというのをライフワークに、日々活動している。       2018年12月20日配信
  • エッセイ582:リンジー・モリソン「ふるさとは、土でできている」

    SGRAふくしまスタディツアーで、5月25日から27日の間、初夏の飯舘村を訪れた。私にとって3度目のツアーであったということもあり、今回は比較的のんびりできた。真剣な勉強ツアーというよりも、飯舘の自然に癒やされて東京に帰ってきたという感じだった。   飯舘村に行くたびに、自分の恐怖心が和らいで気持ちが楽になってきているように思うが、今回は特に楽しいツアーだった。のんびりできたのもあるが、もう一つの原因は線量計を持ち歩かなかったからだと思う。不思議にも線量計を持っていると急に意識が変わり、まわりに危険性が潜んでいるように感じる。飯舘村に到着した当初は気分が弾んでいたが、線量計を手にした途端、気持ちが引き締まっていくのを感じたことを思い出す。   前回の訪問に比べて、飯舘村の様子はだいぶ変わっていた。あちこちに新築の建物ができたり、新しい高速道路が通ったりと、工事作業で村中が騒がしかった。どうやら村の復興予算を使い切るための事業のようである。こうした工事が村民のためになっているのであればいいのだが、建設会社ばかりの利益となっていたら、真の復興といえるか疑問が残った。   現時点で飯舘村に帰還しているのはまだ700人しかいない。さらに、その大半は昼間だけ帰って、夜は他の村で生活している。菅野宗男さんによると、国の復興対策の不足が原因で、「大方の人が戻りたいと思うような解除がよかったのに」と悔やんでいた。飯舘村を村民が帰れるような形にしないと、復興に使われている国民の血税が無駄になってしまうと宗男さんは懸念を示した。   しかし、そもそも若い人が村へ帰りたいと思っているのか疑問に思った。避難先や別の村で落ち着いてしまって飯舘に戻りたくない人が少なからずいる上に、菅野永徳さんが話してくれたように、「村に道路が一本通ると、地域が衰えていく」。つまり、村に出口ができると、若い人はより便利な生活を求めてどんどん流れ出ていく。永徳さんはこうした価値観の差がわからない。永徳さんからすれば、都会はお金がないと住めないところなので、お金に縛られる窮屈な生活になってしまう。一方、農家は水と空気と土だけで暮らせる。「どうして若い人はお金にすがり付かなければ生きていけない生活を求めるのか、理解ができない」と語っていた。永徳さんは自分自身にも責任を感じて、村の文化をちゃんと継承できなかった、歴史の重要性をちゃんと伝えられなかったから若い人が出ていってしまったのではないかと後悔していた。   永徳さんの話を聞いて、SGRAのメンバーで飯舘村を復興させるためにはどうすればいいかという話になった。そこで、何か文化的なイベントがあれば村の活性化につながるのではないかという提案が出た。永徳さんは、「昔は山津見神社に3万人も集まる大きなお祭りがあった。山津見神社は約970年前からある飯舘村の中心的な神社である。神社の由緒書によれば、源頼義の夢の中に、山の神の使者である白狼が現れたため、山津見神社は数少ない狼信仰のお社になった。明治以前、太平洋側には狼信仰の神社が多かったが、明治以降はそれが良くないという風潮になり、次第に消えていった。山津見神社のお祭りは獅子舞があったが、ある年が凶作だったためやめることになった」と教えてくれた。   土曜日の宴会で飯舘村議会議員の佐藤健太さんと会った。彼は飯舘村のお神楽(かぐら)を復活したいと話していた。健太さんもちょうどSGRAのメンバーと同じように、新しいお祭りやお神楽があれば村は活性化するのではないかと考えている。村の伝説や歴史と結びつけて新しい舞やお祭りが作れたらいいね、と話し合った。神社というのは村の年中行事の拠点だけではなく、血縁と地縁を示すものであり、郷土愛の象徴でもあるため、山津見神社を中心に据えて飯舘村の新しい行事を起こすのは、最適のプランだと思う。   今回の訪問でもっとも印象深かったのは、田植えの体験だった。来日して11年も経つが、田植えは初めてだった。田んぼの土が想像以上にどろどろしていて、歩くのに一苦労したが、その柔らかく栄養に満ちた土に触れることで、なんとも言えない快感を覚えた。いつも悩まされている手のアトピーは土を触れても炎症せず、むしろ少し改善したように思えた。体を動かし、外の空気を吸い、土に触れるのがこんなに気持ちいいものかと、自然の治癒力を改めて実感した。   田植えが終わったら、早苗饗(さなぶり)という、一種の直会(なおらい)が行われた。直会とは、お祭りが終了した後に神に捧げた供え物を参加者で頂戴する行事のことであるが、早苗饗も同じように田植えの作業が無事終了した後、田の神に供物を捧げて豊作を祈願し、皆でご馳走を食べてお酒を交わす宴のことである。   日曜日の夕方に東京へ帰ってきて自宅で横になっていたら、不思議な感覚に浸った。田植えをしていた時の感触がまだ足のまわりに残っていた。硬い地面と小石の上に立って、柔らかいどろどろした土の中を歩き回るあの感触がまだ身体から抜けていなかったのだ。泳いだ日の夜にまだ自分が泳いでいると感じるように、私の体はまだ田植えの感覚を忘れていなかった。人間の動き方、労働の形がいかに体に滲み付いていくのかを考えさせられるきっかけとなった。   田植えで皮膚に付いた土がなかなか落ちず、石鹸で一所懸命こすっても、まだ爪の裏などに残っていた。それを見て、普段からまったく土に触れていない自分が少しおかしく思えた。そして昔言われたことを思い出した。数年前に一軒家でルームシェアしていたが、借りていた家の前に小さなお庭があった。不動産屋はその家の前のお庭をいずれはコンクリートで埋める予定だと話したが、その時、「家の前を綺麗にする」という表現を使った。土を見えないようにすることが本当に「綺麗にする」ことなのかと、その時に強い反感を覚えた。でも、都会に住んでいる現代人には、珍しくない考え方なのかもしれない。   人はどんどん土に触れる環境から離れていく。現代社会では、確かに、多くの人には土に触れる必要がないだろう。しかし、その経験を失った我々は、それだけを失っているのだろうか。土の感触以外にも、忘れていることはないのだろうか。   長年大都会に住んで、私の体もきっと都会の生活のために形成されてきているのだろう。歩き方や振る舞いには、都会の匂いが滲みているに違いない。仕方ないことではあるが、永徳さんが言っていたようなお金のために働き、消費するばかりの生活が、どうしても後ろめたく感じてしまう。   今回まったくの素人が植えた早苗がちゃんと育つか、心配半分、楽しみ半分だ。また来年、よろしくお願いします。   英訳版はこちら   <リンジ―・レイ・モリソン Lindsay Ray Morrison> 2016年度渥美奨学生。2017年に国際基督教大学大学院アーツ・サイエンス研究科博士後期課程を修了し、現在は武蔵大学人文学部助教。専門は日本文化研究。日本人の「ふるさと」意識の系譜について研究している。       2018年12月6日配信  
  • エッセイ580:マイリーサ「繋げて育む協働の輪―ふくしまスタディツアーに参加して」

      2018年5月25日、私は初めてSGRAふくしまスタディツアーに参加させていただきました。渥美国際交流財団SGRAでは2012年から毎年、原発事故の被災地である飯舘村を訪れています。出発の前、私はSGRAスタディツアーに参加した先輩方の感想文を読み、飯舘村の状況について少し事前勉強をさせていただきましたが、現場では、飯舘村がおかれている厳しい状況を改めて感じることができました。   「ふくしま再生の会」理事長の田尾さんのご案内で、私たちは住民の帰還開始から1年となる飯舘村を見学しました。正直、この美しい里山が消滅の危機に直面していると思いました。そして、「ふくしま再生の会」が非常に困難な課題の解決に挑んでいるというのも初日の感想でした。日本の農山村は元々人口減少や高齢化の進行に苦しんでいますが、原発事故災害という特殊な環境において、その傾向はいっそう拍車をかけられています。   しかし、このスタディツアーで、私は次第にある現象に気づき、ここは交流人口がとても多いことに驚きました。というのは、ツアー中に私たちは他地域からの訪問者をよく見かけました。土曜日になると、何世帯かの高齢者しかいない限界集落に奇跡が起きていました。田植えを翌日に控え、佐須地区の「再生の会」の拠点に様々な分野の幅広い世代の人々が訪れていました。   やはり、人と人が集う場所には明日への活力が生まれると、私はその時強く感じました。原発事故が発生した3ヶ月後から、ここ佐須地区を舞台に、村民・専門家・ボランティアの協働による除染法の開発や農作物の栽培試験の取り組みが始まっていましたが、種まき、田植え、稲刈りなど1年を通して村民は多くの参加者の方々と一緒に米を育ててきました。現在は人々の繋がりによる協働の輪が広がりつつあります。   話によると、ほぼ毎週末(土日)、「ふくしま再生の会」の活動拠点に人びとが集まり、各種の活動を行っています。埼玉県立鴻巣高校のボランティアや東京大学のサークルのツアーなど若者たちが来ていました。そうした中で、大学と結ぶ活動の創造的展開も生み出されています。東京大学や明治大学などとの協働により、住民の目線による農地再生の取り組みと新しい地域づくりも可能になっているのではないかと感じました。   人々のつながりの「輪」は、環境保全に限らず、歴史と文化の継承という可能性も生み出しています。山津見神社拝殿の天井絵(オオカミ絵)の復元プロジェクトへの協力、明治時代に造られた校舎の保全と活用、味噌づくり継承プロジェクトなどはその好例です。こうした持続的な交流と協働こそが、「ふるさと再生」の仕組みを作り上げることができるのではないかと感じました。外国人の私は、日本のこのような多様な主体を持つ社会活動の展開とそれによる社会的価値創造にとても励まされました。   飯舘村は、日本の最も美しい村の一つとして知られていますが、飯舘村に行ってさらに、信じられないほど美しい光景に出会いました。それは「繋げて育む協働の輪」です。私は人々のつながりに非常に感動しました。またこの美しい村に行きたいです。   ※SGRAスタディツアーの報告(2018年5月に実施)   英訳版はこちら   <マイリーサ Mailisha> 昭和女子大学国際学部教授。2000年一橋大学社会学研究科博士課程修了、博士(社会学)。専門分野は教育社会学、農山村の地域づくり。近年、日本の里山保全と中国の少数民族地域での環境問題を研究対象としている。日本学術振興会外国人特別研究員、立教大学非常勤講師、昭和女子大学人間文化学部特命教授などをへて、現職。主な著書に『内発的村づくりにおける人間形成をめぐって』(一橋大学大学院社会学研究科博士学位論文、2000年)「流域の生態問題と社会的要因――」中尾正義等編『中国辺境地域の50年史』(東方書店、2007年)他。     2018年11月8日配信    
  • 江永博「第7回SGRAふくしまスタディツアー『<ふるさと>に帰る』報告」

    2018年5月25日、私は東日本大震災の翌年の2012年から毎年原発事故の被災地である飯舘村を訪ねている渥美国際交流財団SGRAスタディツアーに参加し、福島に向かった。   2泊3日のツアーでは、「ふくしま再生の会」の理事長田尾陽一さんの案内で、村役場をはじめ、未だに帰還が禁止されている区域である長泥のゲート、牛の放牧実験場、花のハウス栽培とメガソーラーがある関根・松塚地域、飯館村の信仰の中心とも言える山津見神社などを見学し、再生の会と村の方々のお話を伺い、田植えを体験した。震災の日から7年の歳月が経った今、被災地の復興、飯舘村の再生は如何なる状態なのか、私がこの3日間、目にしたもの、体で感じたことを文字で表してみたい。   福島駅からマイクロバスに乗り換え、通称中村街道の国道115号経由で、飯舘村に入った。面積の7割が山林の飯舘村の景色は、とても被災地とは思えないほど美しく、空気も非常に綺麗である。昨年(2017)3月に飯舘村に対する避難指示が解除されたが、原発被害の爪痕はまだ残っている。その代表的なものが除染の「副産物」=除染土のフレコンバックのピラミットである。過去にもツアーに参加したことのあるメンバーの話によると、前は真っ黒なフレコンバックのままのピラミットであったが、今はグリーンのシートに覆われているため、景観的にピラミットの威圧感が少し緩和されたようだ。   また、同じ景観的な意味合いで、景観作物の栽培という新たな試みも行われている。現段階は外で避難生活をしている人々が再び戻ってくれるための景観の「再生」であるが、将来的には観光または販売も視野に入れているそうである。再生の会福島代表の副理事長であり、佐須行政区長でもある菅野宗夫さんによると、震災後、園芸を含む畑作、牛の放牧と太陽光発電の売電は再生のための三大柱である。太陽光発電は言わずもがな、一見震災前と変わらない畑作と放牧も、ビニールハウスにおける遠隔操作や放牧実験中の牛の人工受精など現在最先端のICT技術が導入され、再生の道は一歩一歩着実に前へ進んでいると見受けられた。   こうした状況の中、飯舘村が直面している課題を取り上げたい。まず、私にとって今回のツアーで一番印象に残ったのは、現在再生可能エネルギー資源として注目を浴びている太陽光発電設備のメガソーラーである。私の出身地台湾では、東日本大震災の前からすでに原子力発電に反対する声があり、震災後の原発事故の影響で原子力発電を廃止すべきという主張が主流になった。その結果、もともと2011年に運転開始を目指していた第四原子力発電所は2015年に正式に凍結された。原子力発電の代わりに、現在注目されているのは太陽光・風力・水力などの再生可能エネルギーである。しかし、今回のツアーで実際にメガソーラーを目の当たりにし、今までなかった印象を受けた。平野一面に広がるメガソーラーは壮観で迫力があるが、その大部分は周りに鉄フェンスと関係者以外立ち入り禁止の看板があり、周りの景観に融け込めない異様な風景という印象が非常に強かった。   再生の会と村の方々のお話を聞くと、理想的な太陽光発電は売電目的ではなく、コミュニティー使用が中心であり余った分だけ売電する形であるが、現在飯舘村の場合は、まだ村に帰還する人口が少ないため、このような状態になった。畑作として使わないまたは使えない土地を活用するために、再生可能エネルギーのメガソーラーの設置は一つの方法かもしれないが、村の風景に融け込まない鉄フェンスに囲まれたメガソーラーのままでは、村にとって貴重な自然景観が少しずつ外来の資本により蚕食されるような気がしてならない。外来資本の投資は非常に重要であるが、村を主体として考えず、資本主義至上の外来資本をそのまま不用意に受け入れたら、村にとって最終的には相容れない癌のような存在になってしまう恐れもあるのではないだろうか。飯舘村におけるメガソーラーはすでに目立つ存在になった。この目立つ存在を如何に工夫し、村に融け込ませ、村の風景の一部にするかは重要な課題だと考えられる。   メガソーラー以外、震災前から引き継いできた全国各地方と共通する課題は、人口の過疎化と高齢化である。これらの問題を解決するために、平成30年度から飯舘村は移住・定住支援事業を展開している。「10年間住めば、1区画200坪の分譲地を無償で譲渡」、「500万円までの住宅新築費用を補助」、「2年間新規職業に就くための活動支度金の支給」など非常に魅力的な内容であり、村はこの事業に力を注いでいる。   また、すでに避難先で新しい仕事と生活をはじめ、帰村しない人あるいはできない人のために、佐須行政区地域活性化協議会は、様々なイベントを企画し、ボランティア・学生・外国人・移住検討者などの人々との交流を通し、当地の歴史と文化を継承し、新たな地域づくりを図ろうとしている。こうした実質的な移住支援と人との交流による歴史・文化の継承=「心の故郷作り」が同時に推進され、飯舘村だからこその特徴=「飯舘村色」が見つけられたら、村は「再生」に止まらず、さらに一歩前に進む飯舘村の「新生」も期待できると思う。村の「新生」への期待を込めて、これからも飯舘村を見守っていきたい。   スタディツアーの写真     <江永博 CHINAG_Yung_Po> 渥美国際交流財団2018年度奨学生。台湾出身。東呉大学歴史学科・日本語学科卒業。2011年早稲田大学文学研究科日本史学コースにて修士号取得。現在早稲田大学大学院文学研究科日本史学コースに在籍、「台湾総督府の文化政策と植民地台湾における歴史文化」を題目に博士論文執筆中。専門は日本近現代史、植民地時期台湾史。       2018年6月28日配信  
  • 第7回ふくしまスタディツアーへのお誘い

    関口グローバル研究会(SGRA)では昨年に引き続き、福島県飯舘(いいたて)村スタディツアーを下記の通り行います。 参加ご希望の方は、SGRA事務局へご連絡ください。   SGRAでは2012年から毎年、福島第一原発事故の被災地である福島県飯舘村でのスタディツアーを行ってきました。   そのスタディツアーでの体験や考察をもとにしてSGRAワークショップ、SGRAフォーラム、SGRAカフェなど、さまざまな催しを展開してきました。今年も第7回目の「SGRAふくしまスタディツアー」を行います。ぜひ、ご参加ください。   日 程:          2018年5月25日(金)、26日(土)、27日(日) 人 数:           10~15人程度 宿 泊:           「ふくしま再生の会-霊山(りょうぜん)センター」 参加費:           一般参加者は新幹線往復費用+12,000円 (ラクーン会会員には補助が出ます) 申込み締切:       5月10日(木) 申込み・問合せ: SGRA事務局 角田 E-mail:  tsunodaaisf@gmail.com  Tel:  03-3943-7612   プログラム・詳細   今までのふくしまスタディツアーの報告や感想文    
  • エッセイ554:リンジー・モリソン「遠く険しい復興への道」

    2017年9月15日~17日、SGRAふくしまスタディツアーに参加し、今年の3月に避難指示解除が下りたのちの飯舘村の様子を観察してきた。私にとって2度目の参加で、約1年半ぶりの訪問であった。天気がよく、コスモスやススキが風にたなびく美しい飯舘村の秋の景色は、復興の兆しを見せ始めていた。村中に車が走り、新しい小学校の工事が始まり、村の人々が元通りの暮らしに戻れるように一生懸命努力していた。村民は、復興の道を日々着実に歩んでいる。それでも、村は完全に復興したとは決して言えない。帰還者はわずかの400人(震災前の人口の約6~7%)だけで、そのほとんどが60歳以上で無職の高齢者である。昼間だと人口は約1000人まで増えると聞いたが、村が復興するのには、村に住み、村で働く人が必要なのだ。   最初の日は、高橋日出夫さんの温室を見せてもらった。高橋さんは最高級の花を育てている農家で、スタディツアーの時は色とりどりのトルコキキョウとアルストロメリアが満開だった。花の美しさに魅了された参加者が大いに盛り上がったことは一つの良い思い出となったが、一番印象深かったのは高橋さん自身の話であった。避難の6年間、高橋さんは福島市で農地を借りて野菜などを育てていた。「やっぱり農家は何かを育てていないと気が済まない」と気さくに話してくれた。避難指示解除が下りてから、高橋さんはいち早く飯舘村に帰ってきた。なぜなら、「自分の生まれた土地の景色がいい」と語った。ふるさとの空と星はまるで自分のもののようで、よその空にはどうしても馴染めない、ということだった。それだけ高橋さんはふるさとの飯舘村を愛し、自分の一部として認識している。人間と自然の共存と融合。それこそ農家の生き方、また世界観なのだろう。高橋さんは、マスコミが来るたびに村民たちから辛い話ばかり求めてくるが、「私は戻れてすごく楽しい」と明るく話していた。   高橋さんの話を聞いて安心した参加者は私だけではないだろう。でも、高橋さんのように思う人はそれほど多くないのもまた事実である。高橋さんは帰還した6~7%に含まれる1人だが、言うまでもなく高橋さんのような人は少数派のまた少数派だ。マジョリティーの93~94%は自分たちのふるさとについてどう思っているのか、その話を聞くことができないのでわからない。帰還する人と、帰還しない人の違いは何だろう。一つは年齢である。帰還しない村民の多くは若い人で、すでに都市部で新しい生活を始めている。スタディツアーの間、帰還者が何度も話したように、原発事故の一番大きな悲劇は放射能汚染よりも、家族がバラバラになってしまったことであろう。事故前からも飯舘村を脅かしていた少子高齢化と過疎化は、事故によってさらに拍車が掛かったのである。   日本の地方の過疎化は、ずいぶん前から懸念されている問題である。政府は過疎化を防止すべく、過疎地域の復興や雇用の増大に努めたり、大学生が都会に集まりすぎないように都市部の大学を規制したり、文化庁を京都に移転させたり、さまざまな対策を講じてきたが、ほとんど効果が見られない。人口はどんどん3大都市に集中する一方である。その意味では、高齢者ばかりになってしまった今の飯舘村は、日本の地方の行く末を暗示しているのかもしれない。   スタディツアーの2日目は明治時代に造られた校舎に集まり、村の長老である菅野永徳さんの話を聞いた。菅野さんの話によれば、飯舘村が直面している問題の中で、若い世代がいないことがもっとも深刻である。今、飯舘村が抱えている問題は科学技術や政治関連のことよりも、文化の問題だという。若い人たちは伝統的な生活を後にして、便利さを求めてどんどん都市部に流れていく。   上の世代、特に農家の人たちにとっては、こうした世代間の考え方のギャップには理解しがたいものがある。農家は先祖代々の土地を耕して守るのが生活基盤であり、また生きがいでもある。途切れずに続いてきた伝統の中に自分が位置づけられ、自分と家の存在意義がある。だから、代々守ってきた土地を耕す人がいなくなったら、それは土地が荒れるだけでなく、自分たちの存在意義が失われかねないことをも意味しているのだ。高橋さんのようにふるさとの空や星が自分のものだと思っている人たちにとって、何十年、何百年もの伝統と、ご先祖様が見守ってきたふるさとの山川が荒れていくことほど苦しいことはないだろう。そうした状況の中、村民は絶えず村の将来を考えて、心配している。次の世代に何を残すかが、今後の大きな課題らしい。   その古い校舎の中で、菅野さんは「これからどうすればいいのか」と訪問者に問いかけた。正直、私にはわからない。私は政治家でもアクティビストでもない。この問題はどうすれば止まるのか、そもそも止められる問題かどうかもわからない。私は日本人のふるさと観を研究する者でありながら、日本のふるさとの行き先が見えない。冷たい畳の上に立って、自分の無力さを痛感した。   それでも、私は来年も、その翌年も、そしてその次の年も、飯舘村に行きたいと思う。何もできないかもしれないが、村を見て、村民たちと話して、引き続き村人の声を自分のまわりに届けていきたい。1人でも多くの人が飯舘村の村民の思いに触れ、そこに足を運んでくれることを願って。   <リンジ―・レイ・モリソン Lindsay Ray Morrison> 2016年度渥美奨学生。2017年に国際基督教大学大学院アーツ・サイエンス研究科博士後期課程を修了し、現在は武蔵大学人文学部助教。専門は日本文化研究。日本人の「ふるさと」意識の系譜について研究している。   スタディツアーの報告     2017年12月7日配信  
  • エッセイ553:李鋼哲「決して忘れてはならない福島の『原発被害』」

    今回のSGRA福島スタディツアーは第6回であったが、私は5回も参加した(2回目は大学の講義と重なったため参加できなかった)。第1回は福島原発事故の翌年、2012年10月19~21日であった。   なぜ、私は5回も参加したのか?それも東京と違って500キロ以上離れた金沢から。まだ金沢―東京の北陸新幹線(2年前に開通)もない時から、5、6時間以上をかけて福島へ行ったのか。   第1回目はSGRA「構想アジア」研究チーム代表として責任を感じて参加したこと、そして自分の目で初めて見て体験した、日本で一番美しい村のひとつに指定された飯舘村の「原発被害」の惨状と、村民が如何にそれと戦うのかを確認し、その「までい精神」に学ぶために毎年福島へ行くのだと言ったら、読者に納得してもらえるのだろうか?そして、ふくしま再生の会の田尾陽一さんや飯舘村の菅野宗男さんとの出会いがあり、回を重ねてお会いして一緒に活動するうちに、なんか再生の会や飯舘村のみなさんが「親戚」みたいに感じられ(私は「情」に弱い人間である<笑>)、お会いすると嬉しくなり、里帰りした感覚になり、ツイツイ行きたくなるのである。5年前に私が書いたレポートの最後に、「福島よ、忘れさせない!」と誓ったからかも知れない。   今回のツアーは前4回と違って、今年3月の政府の「避難指示の解除」により、避難していた人々の一部が自分の家(先祖代々生きてきたふるさと)に帰ることができたので、その帰還実態をこの目で見て確認したかった。そして帰還した人々の喜びや残っている悲しさも感じ取りたかった。帰還事業の実態についてはほかの参加者も取り上げるだろうから、ここでは日本国民や日本国政府がこの震災被害とは違う「原発被害」にどう対応しているのかについて、私見を述べたい。   みなさん覚えているだろうか?東日本大震災が起こった年の流行語は「絆」だった。しかし、日本国民の中に「絆」は本当に生まれたのだろうか?いまでも福島の震災、原発被害を真剣に考えている人、それをもとに国の政治(選挙)にかかわる人々はどれぐらいいるのだろうか?「原発反対」運動で国会周辺デモが続いたことを覚えているだろうか?運動疲れで今はデモどころか、原発反対運動も下火になっているのではないか?今度の国政選挙でも2年前の国政選挙でも、原発を推進する自民党が圧勝する現象をどのように見るべきなのであろうか?もちろん、義捐金を贈った人、ボランティア活動に参加した人々は大勢いた。しかし、福島に行ったら危ない、福島産のコメや野菜、果物は避けておいた方がいいと、風評被害のために農産物があまり売れない状況は改善しているようには思えない。私は今度も福島産の梨を3箱買って東京や金沢の友人にお土産で渡し、もっと福島に関心を持つよう呼びかけた。しかし、日本全国でみれば、福島との「絆」は切れているのではないかと感じる。   一転政府の対策に目を向けると、2020年の東京オリンピックを念頭に、政府と政策批判能力に欠けているマスコミは一所懸命に「原発被害」を打ち消そうとしているのではないか?今の政権は国内で原発を推進する姿勢を保持するだけでなく、ベトナムやインドなどで原発建設を推進するという、時代に逆行する政策を実行しているのではないか?もちろん名目はアベノミクスの推進である。日本の技術をもってアジアの市場で金儲けをしたい、そして日本の強い経済を取り戻したいという理由だろう。これに対するマスコミの批判もあまり見られないのが現状である。また、政府復興庁が今年の3月に作成した『復興6年間の現状と課題』というレポートに、「2020年東京オリンピック・パラリンピックで、復興を成し遂げつつある姿を世界に発信できるよう〔復興五輪〕を推進」と書かれており、如何に復興が終息に近づいているかだけを強調している。そこには「原発被害」は一言も書かれていない。国民の目を逸らすのが目的であろう。   復興政策について、山下祐介・首都大学東京准教授は「誰も語ろうとしない東日本大震災〔復興政策〕の大失敗」という論評(講談社『現代ビジネス』インターネット版で次のように「復興の失敗」を厳しく批判している。   ・・・・・・・・・・・・・   しかもそこに、色々な体面や面子さえ働いている。とくに原発事故についてはその傾向が強いようだ。東京オリンピックの誘致にあたって、安倍首相が福島第一原発についてとくに触れたことはまだ多くの人の記憶に残っているはずだ。   「原発事故の日本」というイメージを早く払拭したいという海外に向けた体面が、帰還政策の根源にはありそうである。そこには、原発事故をいつまでも抱えていてはこの国の経済に悪影響が及びかねないという経済界の懸念もあるようだ。   また、海外に向けた体面とともに、国内における被災自治体の立場にも触れておくべきかもしれない。事故から5年が経ち、被災地ではこの復興を失敗だということは、面子としても難しい。とくに福島県が「福島の安全」をことさら強調し、例えば風評被害の阻止に専心するのも、どこかで「安全だ」と言わねばならない難しい立場があるからだ。そこに現に暮らしがある以上、「今は心配ない」「不安に考える必要はない」と強調するのはおかしなことではない。だがこの被害は実害であり、そのこともまた認識しているから、「イチエフは止まってはいない」「フクシマは終わっていない」「福島の現実を知ってくれ」という主張も同時に行われている。   しかしこれに対して暮らしの安全性を強調し、福島の生産物への風評被害撲滅をことさら運動することは、結果として被災地の安全性までも肯定することにつながり、政府の帰還政策を正当化して、帰還しない人々はその安全宣言に逆らっているのだという論理にまで行き着いてしまう。福島県や県民自身が、政府や東京電力の責任逃れを助長している面が否めない。   結局、復興と称して多額の金をつぎ込みながら、現地復興には何ら寄与せず、被害者を守ることにさえ失敗し、大規模な土木事業を再開して、公共事業国家に先祖返りしてしまった。   さらには、まさに原発事故が起きたことによって長らくの懸案であった放射性廃棄物の収容地が登場し、原発政策を整合的に動かしていく道筋がついに見えてきた――。原発事故が原発政策を肯定し、完結させる。そういう形にまで事態は展開しそうである。   被災地・被災者のために始まったはずの復興政策が、全く別の人々に恩恵を与える形で、当初の向きとはまったく違う方向へと早い時期に舵を切ってしまっている。   ・・・・・・・・・・・   以上、復興政策の失敗に対する批判を長文で引用したが、上記の復興庁のレポートを見てみると、復興政策の成果をアピールするのに一所懸命で、そこには「原発被害」については一言も触れていないことは真実を曲げることであり、国民を欺瞞しているとしか思えない。政府(中央政府と地方自治体)も国民も「原発被害」の教訓から何も学びとっていないのは情けないことである。このままでは「美しい日本」を目指すことができないであろう。   最後に、改めて「福島よ!忘れさせない!」という言葉で結びたい。(2017年10月30日)   <李鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学大学院経済学研究科博士課程中退。東北アジア地域協力を専門に政策研究に従事し、2001年より東京財団研究員、名古屋大学研究員、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、06年現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を中心に国際舞台で精力的に研究・交流活動に尽力している。SGRA研究員および「構想アジア」チーム代表。近著に『アジア共同体の創成プロセス』(編著、2015年4月、日本僑報社)、その他論文やコラム多数。   ※スタディツアーの報告     2017年11月30日配信
  • エッセイ551:レティツィア・グアリーニ「『共苦』から新たな震災後文学が生まれる?―福島県南相馬市に移住した柳美里を中心にー」

      ・・・・・・ (中略)南相馬に転居した、もうひとつの動機は、「共苦」です。 東日本大震災以降、「絆」「がんばろう」「寄り添う」という言葉があふれ返りました。どれも同情や善意に根差した言葉ですが、同情や善意というのは、外側から差し伸べられるものなんですね。 苦しんでいる人の苦しみは、その人自身のもので、他者であるわたしに同じ苦しみを苦しむなんてできっこない。 けれど、その苦しみに向かって自分を開くことはできます。 (柳美里『人生にはやらなくていいことがある』より) ・・・・・・   東日本大震災を契機に様々な意味で日本文学が動いたといえるでしょう。3・11以降、「震災後文学」というカテゴリーが誕生し、原発問題、政権への批判、放射線による生物の変容、復旧や復興などのテーマに焦点を当てる作品が次々に現れました。「震災後文学」を論じる著書やその翻訳の数もまたおびただしいです。東日本大震災以降、日本現代文学が新たな方向へと動いたと言っても過言ではないでしょう。   また、その「動き」は、文学と様々な行動や運動の繋がりにおいても見ることができます。ここで3つの例をあげてみましょう。2012年4月に、早稲田文学をベースとしたチャリティ・プログラムのために書きおろされた短篇やそれに付随して行われた座談・対談などが収められている『早稲田文学 記録増刊 震災とフィクションの“距離”』が出版されました。その著書が英語をはじめ、中国語、韓国語、イタリア語などに訳され、世界中から東日本大震災のための寄付が集まりました。また、2012年10月に、文学者が発表する場を利用し、原発問題を伝え続ける必要性を強調する「脱原発社会をめざす文学者の会」が発足しました。さらに、2015年に日本外国特派員協会で「原発がない世界を実現するほかない。声を発し続けることが、自分にやれるかもしれない最後の仕事だ」と語ったノーベル賞作家の大江健三郎の言葉は海外でも大きな反響を呼びました。   東日本大震災をもって、もうひとつの意味においても日本文学が動いたと思われます。つまり、作家たちが移動したのです。福島第一原発の事故を機に避難をめぐる問題は福島県だけではなく、あらゆる地域で起こっていました。芥川賞作家金原ひとみをはじめ、放射能汚染を心配しているが故に東京から関西へ避難した作家たちも少なくありませんでした。柳美里もその一人でした。   インタビューで語っているように、柳美里は「子どもの安全を確保するためにできるだけ遠くへ避難させたい」という母親としての気持ちに動かされ、2011年3月16日に鎌倉から大阪へ向かいました。しかし一方、「今すぐ福島に行きたい」という物書きとしての気持ちもあったとか。同年の4月に鎌倉に戻った柳美里は、そこから地元の人々の話を聴くために福島県に通い始めました。そして、2015年4月に南相馬市へ移住することにしたのです。いったい何故その決心に至ったのでしょうか?   「住みたいけれど住めない」「住みたくないけど住むしかない」…原発事故とそれに伴う放射能汚染の問題が「住む」という問題に密接な関係を持っているのです。人によって故郷との絆が様々であり、その苦しみを理解するためにはそれぞれの人の声に耳を傾けるべきだ、と柳美里は主張しています。しかし、よそに住みながらその苦しみを聴いているうちに柳美里は違和感を覚え、地元の人々の痛苦を共感するためには、同じ土地を踏み同じ空気を吸わなければならないと覚りました。作者の言葉を借りると、「共苦」が必要だったのです。   では、その共苦から何が生まれるのでしょうか? 今まで書かれてきた「震災後文学」は、「書けない自分」あるいは「無力な自分」にフォーカスを当てた作品が多いです。しかし、柳美里はまた違う形で物語を作ろうとしていると思われます。2016年12月まで、臨時災害放送局・南相馬ひばりエフエム(南相馬災害エフエム)の「ふたりとひとり」というラジオ番組において、柳美里は450人の地元の人々を取材してきました。それらの物語については作者が以下のように語っています。   ・・・・・・ 外から聴いた声ではあるけれど、いったん身体に取り入れて何日か経つと、いきなり内から声を聴くことがあります。そして、彼、彼女の痛苦が身体のそこから湧き上がり、彼、彼女が体験した光景が自分の記憶であるかのように広がる― ・・・・・・   柳美里はエッセイやインタビューにおいて南相馬市における生活を語っているものの、フィクションという形で福島県の人々の物語はまだ綴っていません。が、「同情」や「善意」、つまり外側から差し伸べられるものを捨て、共に苦しむ道を選んだ作者は、地元の苦痛とともにその希望や笑顔をいつか物語化し世界へ伝えてくれることを大いに期待しています。   〇参照文献 柳美里『人生にはやらなくていいことがある』ベストセラーズ(2016年) 「福島県南相馬市に移住した柳美里さんインタビュー」『通販生活』https://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/150908/ (参照2017-10-23)   英訳版はこちら   <レティツィア・グアリーニ Letizia GUARINI> 2017年度渥美奨学生。イタリア出身。ナポリ東洋大学東洋言語文化科(修士)、お茶の水女子大学人間文化創成科学研究科(修士)修了。現在お茶の水女子大学人間文化創成科学研究科に在学し、「日本現代文学における父娘関係」をテーマに博士論文を執筆中。主な研究領域は戦後女性文学。     2017年11月16日配信  
  • ジャクファル・イドルス「飯舘村復興の現状と課題ー第6回SGRAふくしまスタディツアー報告」

    2017年9月15日(金)の早朝、北海道の上空を北朝鮮から発射されたICBM(ミサイル)が通過することを知らせる不気味な警報音が日本列島に響きわたった。その直後、私たちSGRAのメンバー16名は東京駅から新幹線で福島の飯舘村に向けて出発した。渥美財団主催のSGRAふくしまスタディツアーは、2011年3月11日に発生した大震災による巨大な津波が日本の東北地方を襲い、福島原子力発電所事故に起因する放射能汚染など、世界史上稀に見る災害に対する復興状況を視察し学ぶことを目的に2012年にスタートした。とくに、放射能汚染で全域が避難を余儀なくされた飯舘村に焦点を当てて、毎年、村の復興の状況について現地に出向いて観察を行ってきた。今回を含めると6回目のツアーとなるが、私自身は3回目の参加である。   今回のツアーには、日本人だけではなく、インドネシア、韓国、中国、ガーナ、イタリア、スウェーデン、カナダ、ネパール、アメリカからのメンバーの参加があった。飯舘村はこの4月に住民の避難区域から解除されたため、村民の帰還が始まり、新しい村づくりが動き出した。私たちは飯舘村の変化の現状を直接目で見て、また村の人々と交流することによって、新しい村づくりの取り組みの状況とその困難な課題について理解を深めたいと願っていた。それが今回のツアーの重要な目的であった。   私が前回の2015年に訪れた時の飯舘村の光景を今でも鮮明に覚えている。当時、村はまだ避難区域に指定されており、そのため放射能汚染を除染する作業員以外は、ほとんど人を見かけることはなかった。あちらこちらに空き家として放置された家々は雨風に打たれてボロボロの状態で、どこを見ても悲惨な光景が広がっていた。今でも、多くの家々はいまだ空き家の状態であるし、家の周辺や田畑のあちこちに、除染土を詰めた黒い袋(フレコンバック)が山のように積み上げられている。   しかし、今回飯舘村に入ってみると、前回とは違う光景が私の目に飛び込んできた。ボロボロであった被災家屋のうち帰還を決意した人たちの家は、新しく建て替えられ、真新しい農業用のビニールハウスが点在していた。田んぼには緑の酒米が広がっている。この光景の変化は新しい村づくりが既に始まっていることを私に強く感じさせた。今までの被災地の暗いイメージは変わろうとしていた。   村民の一人であり、「ふくしま再生の会」の副理事長でもある菅野宗夫さんの話を聞き、新しい村づくりの問題はそんなに単純ではないことを私たちは知るようになる。菅野さんが語った「村は避難区域から解除され、村民の帰宅は可能となりましたが、村は様々な困難に直面しています。その様々な問題と困難とは何なのか、皆さんに実際にその目で見て、体で感じて欲しいのです」というお話こそ、私たちSGRAふくしまツアーの目的そのものであった。   飯舘村総務課長によれば被災前には約6000人であった村の住民の内、現在村に戻ってきたのはわずか400人に過ぎない。しかもそのほとんどは高齢者であり、大多数の村民は村外から昼間村に通っている状況にある。今後村が元の姿に戻るには、住民帰還に向けた環境の整備のための数多くの解決困難な問題を克服していかなければならない。   今回のツアーでは、数多くの施設を見学し、新しい村づくりに努力する人々からも話を聞くことができた。そのいくつかの状況について簡単に報告したい。   (1)老人ホーム 震災以前に建てられた立派な建物は、震災による被害はなかったため、現在も使用可能である。しかし、看護師や介護師の数が大幅に不足しているため、それを維持し、充実させるには困難な状況が続いている。   (2)メガソーラーパネル 村の西側地区に田や畑に代わって、東京の大企業の大規模なメガソーラーパネルが設置されている。これは新しい村づくりのひとつの試みとも考えられるが、私には村の美しい自然との調和という点で、率直に言って違和感を覚えた。飯舘村の人々の生活に新たな問題となることがないよう願っている。   (3)花作り 農家の高橋さんの花作りのビニールハウスを見学し、高橋さんの力強い話を聞いた。このような村に戻ってきた人たちの未来に向けた一人一人の努力が村の発展の基礎であることを強く感じさせられた。困難を克服しようという高橋さんのエネルギーには少なからず感動を覚えた。   (4)道の駅「までい館」 「までい館」は飯舘村の復興のシンボルとして、国の重点支援を受けて作られた施設である。村内には、まだ以前のような商店は無く、帰ってきた村民の生活環境の向上や交流の場として、コンビニ、農産物の直売、軽食コーナーなどの施設の充実が図られている。このような施設がさらに発展して、村外からの人々も集まるようになることを期待したい。   (5)マキバノハナゾノ 上述の高橋さんの花作りとは別に、「花の仙人」と呼ばれている大久保金一さん(76才)の花園を見学した。夢のある大きなプロジェクトで、放射能汚染の被害を受けた山の中腹や水田を利用して水仙や桜などを植えていく大規模な花園作りが試みられている。ボランティアの若者グループも協力しているそうで、とても76才とは思えないエネルギーには驚かされた。ここが近い将来、復興のシンボルとして飯舘村の名所になるに違いない。   (6)宗教施設 山津見神社を見学した。ここで偶然飯舘村の村長と出会い、村の現状について話を聞くことができた。 私は村の復興にとって宗教の存在は非常に大きいと思う。とくに日本の社会はその伝統的な習慣や祭りなど、神社や寺院と密接に結びついてきた。私はインドネシア人でイスラム教徒であるが、インドネシアでも被災の復興では宗教が重要な役割を担う。   今回のSGRAふくしまツアーでは、飯舘村の人々と心暖まる数多くの交流ができ、又多くのことを学ぶことができた。ご協力をいただいた皆さまに心から感謝申し上げます。避難区域から解除されたことは新しい出発点に立ったことであると思う。私も飯舘村の明るい未来を信じて、これからも強い関心を持ち続けていきたいと思う。   ツアーの写真   <M. ジャクファル・イドルス  M. Jakfar Idrus> 2014年度渥美奨学生。インドネシア出身。ガジャマダ大学文学部日本語学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科に在籍し「国民国家形成における博覧会とその役割ー西欧、日本、およびインドネシアを中心としてー」をテーマに博士論文執筆中。同大学21世紀アジア学部非常勤講師、アジア・日本研究センター客員研究員。研究領域はインドネシアを中心にアジア地域の政治と文化。     2017年11月10日配信
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