SGRAスタディツアー

  • エッセイ616:金弘渊「ふくしま雑感」

    福島に行ったのは今回が初めてではなかった。   最初は2012年の夏のボランティアだった。東日本大震災直後、予定していた日本留学を迷っていた私は、偶然、中国浙江大学の電子掲示板で福島への大学生ボランティア募集を見つけた。電話をしてみたら、それは慶応大学からの日本人留学生が自ら福島県庁に連絡を取りながら、中国で大学生を募集して福島に行く民間交流活動だった。6泊7日の間、観光もしながら、仮設住宅で村民たちと話したり、農業施設を見学したりした。一番印象的に残ったのは、若者の多くが県外へ避難したけども、そこに残っているおじいさんたちが意外に意志が強くて元気なことだった。   「また来ます!」と別れる時に言ったが、再び福島を訪ねたのは7年後になった。 2019年9月、ふくしまスタディツアーで福島県の飯舘村へ行った。大学時代は農学部だったので、農業に関心を持っており、多少の知識はある。事前に福島県の経済状況を調べてみると、製造業がメインで、全体的に見れば農業の貢献は多くを占めてはいないが、いくつかの農産品が有名だということが分かった。例えば、全国有数の桃の産地として「あかつき」をはじめいくつかの品種がよく知られており、また、隣県の新潟、山形、宮城産の米に比べても負けない米のブランドもいくつもあり、さらに国産牛として福島牛も有名らしく、確かに「赤べこ」という郷土玩具をあちこちで見かけた。   だが、原発事故以後、福島産の農産物は急に全世界から着目されることになった。外国の輸入禁止などのニュースを頻繁に見かける。福島県内の原発事故の影響を受けていない地域で作った農産物も、すべて「福島産」として風評被害を受けていると知った。中国では「好事不出門、壊事伝千里」という諺がある。つまり、良いことが起こっても感心する人は少ないが、悪いことが起こったら事態が飛ぶように広がるということだ。買い叩かれる福島の農産物も同様だ。今年の農林水産省の報告では、6品目の農産品における値段の推移が調査され、ピーマン以外の米、牛肉、桃、ヒラメなどの値段は震災後、徐々に平均に近づいてはいるものの、依然全国平均を下回っている。福島における農業の復興が直面する最大のチャレンジは、物理的な放射能汚染ではなく、偏見の目だ。   飯舘村の話に戻る。偏見による二次被害が農家の利益に損害を与えていることは既に明らかであるが、放射能汚染から健康への潜在的影響はまだ分からない。今でも目に見えないに放射線が、半減期の長いセシウムから出ている。このような放射線物質は原発事故直後に風に乗ってやってきて、飯舘村の土に固定している。今回は、線量計を持って村の中を移動しながら自分で測定した。確かに、空中より地面に近い方、泥水が溜まる場所、防風林の中では原発の方からの風に当たる場所の放射線量がはるかに高いことが分かった。福島では、生活と生産を再開するため、物理的に表層の土を除去する除染作業を行なってきている。これに関して様々な報告があった。汚染土を深く地下に埋め込む提案があったが、結局は埋め立て選定地の大反対で実現しなかったという報告、あるいは、汚染土を再利用して道路の盛り土として新設道路に使う政府の計画などだ。しかしながら、汚染土の処理はいまだに良い解決方法がなさそうで、ただ丈夫なビニール袋に包んで、一時的にほぼ露天の状態で保存しているところが多い。   スタディツアーの2、3週間後、飯舘村も大きな台風19号に襲われ、大雨のために崖が崩れて汚染土の流失が問題になった。汚染水の流出のニュースを見たとき、心の中に非常に複雑な思いを抱いた。汚染水と汚染土は「熱すぎる芋のように、誰も触りたくない」と感じている。外国人の私は傍観者のように見ることしかできないという無力感が湧いてきた。   幸いなことに飯舘村の村民たちの顔を見た時に、その精神の強さ、心の強靭さにすごく感銘を受けた。もちろん多くの元村民たちが、7年の避難生活を経て帰らずに都市部に残ることは理解できる。だから避難指示を解除した後また帰ってきて生活し続ける村民たちを尊敬する。多くのNPOの方々が飯舘村の将来のために頑張る姿を見て、多種多様な生き方があると感心し、思い出に残る旅となった。   自然がいっぱいある飯舘村で、村民たちが飼い始めた子牛をたくさん見た。復興がさらに進んで、今度福島に行く時には、美味しい飯舘牛が味わえるようになっていることを祈る。   参考資料 「平成30年度福島県産農産物等流通実態調査」、農林水産省、平成31年3月   英語版はこちら   金撮影スタディツアーの写真   <金弘渊(きん・こうえん)Jin_Hongyuan> 渥美国際財団2019年度奨学生。中国杭州生まれ杭州育ち。中国浙江大学応用生物科学卒業、東京大学大学院新領域創成科学研究科先端生命科学専攻博士(生命科学)修了。現在、東京大学先端生命科学専攻特任研究員。専門は進化発生学、進化ゲノム学、遺伝学。特に、「昆虫の擬態現象」を着目し、アゲハチョウの色素合成と紋様形成の分子機構及び進化過程を中心に研究中。   ※参考 楊チュンティン「第8回ふくしまスタディツアー『ふるさとの再生』報告」 江永博「1年4ヶ月ぶりに、私は『ふくしま』に帰った」 謝蘇杭「繋がりの中で『創発』する新しい文化」     2019年12月28日配信  
  • エッセイ615:謝蘇杭「繋がりの中で『創発』する新しい文化」

    2019年9月23日、私は東北新幹線やまびこ50号でSGRAふくしまスタディツアーからの帰途につきました。これは私にとっての人生初の新幹線でもあり、同時に人生初の福島旅行でもありました。新幹線の座席でツアーの「栞」と先輩方の感想文を読みながら、私はこの3日間を過ごした飯舘村での様々な経験の一つ一つを思い返していました。   一番印象に残ったのは2日目の夜の「お国自慢料理パーティー」でした。私は同行した金弘渊さんとコンビを組み、中国代表チームを結成しました。料理上手の金さんがシェフ、私はその助手を務めました。助手ながらも、渥美財団の角田事務局長が道の駅で中国では鎮痛剤として広く使われている「雲南百薬」を発見したことをきっかけに、私も本草学研究者として、金さんの考えた献立に、この「雲南百薬」を素材とした料理を一品加えさせていただきました。料理自体は「ニラとたまごいため」の手順に「雲南百薬」を加えた簡単なものでしたが、料理の薬効を紹介し、金さんの作った献立のオマケとして提供すると、来場した方々が興味を持って下さり、「雲南百薬とたまご炒め」と名付けられて、好評を博し、かなり早い時期に皿が空となったので、本草学研究者として大変嬉しく思いました。   懇親会では、ツアー参加者が作った各国の自慢料理を一緒に食べながら、暖かい雰囲気の中で村の皆さんと歓談することができました。歓談の後、村の方々に教えてもらい、私達も一緒になって盆踊りを踊りました。その光景を見て、この村はまだまだ活気が溢れているとしみじみ感じました。ここに居合わせた人数は数十人に過ぎないかもしれませんが、ツアー参加者と村の方々が手を繋いで作った、リズムに合わせて回っていく「輪」は、やがてより大きな輪となって、飯舘村を再生していくのではないか、私の目にはそのような「輪」に見えていたのです。   私の研究分野は日本近世本草学です。日本の近世本草学は、東アジアの中だけではなく、同時期のヨーロッパの西洋博物学と比べてみても、ユニークな存在です。西洋博物学は、自然の中に存在する全ての動植物を、表象化し分節化していくプロセスを経て、最終的に一つの体系を持つ学問として成立しました。一方、日本の近世本草学は、社会の動態的枠組みの中で、文化的・経済的・政治的な諸要素と関わりながら発展した「関係と変化の学問」です。学問を媒介にして、多様な要素が相互作用することによって、社会全体が変化し、新たな社会の特質を産み出すことがあり、それは「創発現象」と呼ばれています。近世日本の本草学は「関係のネットワーク」の中で、人と自然・社会の繋がりの媒介として、さまざまな文化的現象を「創発」したのです。   今回のスタディツアーで、折にふれて私が飯舘村で感じた人と人、人と自然の「繋がり」は、まさに近世日本における本草学の基底に存在した、人と自然・社会の繋がりそのもののように思いました。例えば、東京の大学と連携して行われた飯舘村における芸術文化の復興活動は、しっかりと飯舘村の地形・風土などの特色を考慮に入れた上で展開されています。また、村の方々が開発した除染方法も、環境省が組織した政府の除染作業と異なり、現地の生態環境と農地状況を把握した上で、みんなが連携をとって、細やかに土地の実情に即して作業を行っているように見受けられました。このように「繋がり」を大切にしている地域では、きっとまた「創発現象」が起きるに違いなく、かつて原発事故によって大きな損害を被った飯舘村の文化的・社会的・経済的秩序基盤は、それらの繋がりによって形成された「関係のネットワーク」を通して、地域社会の様々な関係性の新しいバランスを構築しつつ、再生されていくことでしょう。   このツアーの終了後、程なくして、思いもかけず「ふくしま再生の会」の田尾陽一理事長からメールをいただきました。田尾さんは、飯舘村の山津見神社の庭先で、たまたまセンブリやオトギリソウなどの薬草が生えているのを見て、それらの薬効や、人工栽培法、経済的価値などについての情報を私に尋ねてきたのでした。私は、すぐに、栽培法に関する論文や中国の農村での栽培例などの情報を収集して、田尾さんに返事をしました。そして同時に、田尾さんの飯舘村復興に対する情熱に改めて感心しました。田尾さんと村の方々のように、常に人と人、人と自然の繋がりを念頭において、村の再生を図る方々がいらっしゃるなら、飯舘村の再生は、それほど遠い未来を待つまでもなく実現するように思えました。私の本草学に対する研究も、飯舘村の再生のためにほんのわずかでもお役に立てるものになればとの思いを新たにしました。   <謝蘇杭(しゃ・そこう)Xie_Suhang> 渥美国際交流財団2019年度奨学生。中国浙江省杭州市出身。2014年江西科技師範大学薬学部製薬工程専攻卒業。2017年浙江工商大学東方語言文化学院・日本語言語文学専攻日本歴史文化コースにて修士号取得。現在千葉大学人文公共学府歴史学コース博士後期課程在籍中。研究分野は日本近世史、特に日本近世における本草学およびそれと関連した近世社会の文化的、経済的現象に注目している。「実学視点下の近世本草学の系譜学的研究」を題目に博士論文の完成を目指す。   楊チュンティンさんのふくしまツアー報告 江永博さんのふくしまツアー感想     2019年12月19日配信  
  • エッセイ614:江永博「1年4ヶ月ぶりに、私は『ふくしま』に帰った」

    2018年5月に私はふくしまスタディツアーの参加者として、初めて「ふくしま」を訪ねた。そして、2019年9月21日に1年4ヶ月ぶりに「ふくしま」に帰った。なぜ、台湾出身の私は再び「ふくしま」の土を踏んだか。「ふくしま」の豊かな自然・素晴らしい景色と「復興」のために頑張っている人々とまた会いたい気持ちが1番の理由と言えるであろう。次に、原発問題と再生エネルギー資源に如何に立ち向かうべきかという課題を抱えている点も共感できる。台湾も同じ課題を抱えているため、「ふくしま」のことを他人事とは思えず、今年も「ふくしま」に帰った。今年のツアーの詳細については、楊淳婷さんが報告されたので、私は今回のツアーで感じた1年4ヶ月の変化について述べてみたい。   最初は今回初めて訪ねた東京電力廃炉資料館。私は大学院在学中、学芸員の資格を取り、博物館などの展示に携わった経験がある。今まで見てきた展示と比べて、廃炉資料館は最新の技術を導入し、そのデジタル展示が非常に印象的であった。例えば、シアターホールで上映された地震発生当時の映像、現在のロボットによる原子炉建屋内での作業状況の映像などがあり、とても分かりやすい展示である。   また、解説の中で、謝罪の言葉が繰り返され、「事故の記憶と記録を残し、二度とこのような事故を起こさないための反省と教訓を社内外に伝承すること」が「果たすべき責任の一つ」と主張されている。事故の原因として安全対策を過信したと説明したが、責任の所在については言及されなかった。あの時どのように対応すれば悲劇を回避できたか、同じような状況が発生したら如何に対応すべきかなど、具体的な内容には触れなかった。そのため、謝罪の言葉も果たすべき責任も公式的な立場からの形式的な発言のように聞こえたことは否めないが、全ての起源である原発事故について、勉強できたことに意味があると思う。そして、資料館を後にしてからの飯舘村での3日間で、私は前回のツアーと異なる飯舘村を感じ取ることができた。   まず、取り上げなければならないのは「風と土の家」(以下「家」と略す)である。前回のツアーの宿泊施設と懇親会会場は、パートナーの「ふくしま再生の会」(以下「再生の会」と略す)が借りていた霊山センター(元霊山トレーニングセンター)であり、オリエンテーションと語り合いなどは「再生の会」の事務所で行われたが、今回は今年3月に竣工された「家」が中心であり、「家」は飯舘村に訪ねてきた人々に宿泊やオリエンテーションの場所を提供し、村民と来訪者との交流の場であり、普段は村民同士の憩いの場でもある。昭和生まれの私にとって、昭和的な雰囲気がある霊山センターの施設もとても良かったが、「再生の会」にとって、「家」の完成は、仮設住宅から新しい「マイホーム」を作り上げたような画期的な意味を持ち、非常に大きな一歩であった。   実際、「家」で「再生の会」の田尾理事長・東京大学農学生命科学研究科の教授であり、副理事長でもある溝口先生・東京芸術大学学生チームの矢野さんのオリエンテーショを受けてから、現地に向かって、自分の目と体で確かめるという流れは非常に効果があり、「ハードウェア」の設備の完成に伴い、「ソフトウェア」いわゆる様々なプロジェクトへの取り組みもより一層深めることができるようになったと見受けた。各ブロジェクトについては、楊さんの『報告』を参照されたい。   次に、街の風景について、簡単に触れておきたい。昨年の『報告』で取り上げたメガソーラーは、変わらず秩序正しく、綺麗に並んでいて、まるで田んぼの上に海ができたような壮観な景色ではあるが、日本でもっとも美しい村の一つとして選ばれた飯舘村にとって、果たしてプラスになる存在であろうか。政府による電力の固定価格買い取り制度の抜本的見直しに伴って、改めて考える必要があるのではないであろうか。そして、メガソーラーと同じように壮観だった黒いピラミッド=フレコンバッグの山は中間処理場か長泥地区に撤去されたため、少しずつではあるが、景観は回復しつつある。とても喜ばしいことのはずであるが、実はその背後にあるジレンマが潜んでいる。それは、フレコンバッグが撤去されたため、置き場として今まで支払われてきた補助金が支給されなくなったということであった。   生活するために、経済的なことを考えなければならないのはある意味で当たり前のことであり、誰でも異論がないだろう。然るに、経済を少し犠牲にしても、守る価値があることがたくさんあると思う。上述した自然景観はその一つであるが、私は歴史研究者の端くれとして、是非守っていただきたいのは旧佐須小学校・体育館である。現在史跡として大切に保存されているものは、全て最初から価値があると認識されていたわけではなかった。どのような時代でも保存に携わる活動は、「そんなものを残す価値がない」と「そんなものに回す経費がない」との戦いである。国の文化財として指定されなくても、地域にとって、その歴史と文化を代表できるような存在であれば、守る必要が、否守らなければならないと思う。   最後に11月4日に「再生の会」の田尾理事長がフェイスブックにあげた2枚の写真を紹介したい。1枚目は現在の飯舘村佐須峠であり、2枚目は電力会社に協力して数年後に建設する送電線の想定合成写真である。飯舘村と地権者はすでに送電線の受け入れを決めたという。楊さんの『報告』でも言及されたように、現在村民たちは必ずしも一枚岩ではない。田尾さんのように新しく移住した人は「外部の人」扱いされているということもある。しかし、2枚の写真を見て、私は受け入れを決めた「内部の人」の方々に、飯舘村のために一番守るべきものは何であろうか、子孫に残すべきものは何であろうと問いかけたい。これからも、「ふくしま」に帰る時に、豊かな自然と素晴らしい景色が見られるよう、心より祈っている。   <江永博(こう・えいはく) CHINAG_Yung_Po> 渥美国際交流財団2018年度奨学生。台湾出身。東呉大学歴史学科・日本語学科卒業。2011年早稲田大学文学研究科日本史学コースにて修士号取得。2019年4月から一般企業で働きながら、研究生として早稲田大学文学研究科日本史学コースに在籍、「台湾総督府の文化政策と植民地台湾における歴史文化」を題目に博士論文の完成を目指す。早稲田大学東アジア法研究所RA。専門は日本近現代史、植民地時期台湾史。   英語版はこちら   2019年12月12日配信
  • 楊淳婷「第8回ふくしまスタディツアー『ふるさとの再生』報告」

    2019年9月21日から23日までの3日間、福島県飯館村の訪問を軸としたスタディツアーの一参加者として、非常に充実した時間を過ごした。震災/復興という漠然とした言葉で括られている、福島で起きた/起きている出来事、すなわち2011年福島第一原子力発電所事故による放射能汚染と住民の避難、そして近年、その除染作業の進行に伴う土地利用や住民の帰還について見聞きしたことを少しお伝えしたい。   原発事故の経過を回顧し、廃炉作業の現状や予定について紹介する「東京電力廃炉資料館」から我々のツアーが始まった。東電の旧経営陣の3人に無罪判決が下された数日後だった。当該資料館の解説員や映像紹介によって、「自然現象など外的事象が引きおこす過酷事故のリスクを軽視し、安全対策を継続的に強化してこなかった、申し訳ない」という弁解が繰り返された。しかし、福島県沖を震源と設定した場合、津波水位の最大値は15.7メートルという計算結果が東電に報告された2008年から震災の発生まで、特に対策を講じてこなかったという事実説明の方がむしろ印象深かった。   その後、原発災害による避難で日常を中断されていた飯館村に向かった。震災から6年後、2017年3月31日に、一行政区を除き、避難指示がようやく解除された村である。今年9月の統計によると、約6500名の登録人口の内、1200名未満の村民しか帰還していない。噂通り、美しい山に囲まれた村内には汚染土などを保管するフレコンバッグが大量に積み上げられており、農地の一角にはソーラーパネルが一面に広がっていた。   仮設住宅の木造建材を再利用し、飯館村内外の交流を図る宿泊施設「風と土の家」に我々は滞在しながら、「ふくしま再生の会」理事長の田尾陽一さんや、副理事長であり東京大学大学院農学生命科学研究科教授でもある溝口勝さんなどによるレクチャーを受け、農林畜産業を生業としてきた飯館村の現在を見学した。トルコキキョウなどお花のハウス栽培農家、遠隔監視装置が装備された牛舎、放射線セシウムの除染工事の跡が窺える「松塚土壌博物館」や、経済作物として見込まれて栽培実験中の漆(うるし)の畑などを見学した。さらに、桜やバラなど様々な花を谷一杯に栽培し、桃源郷のような花園を作ることに取り組んでいる大久保金一さんにご指導いただきながら花植え体験をした。また、我々が手作りした多国籍料理が並べられ、村民が即興で披露してくれた歌や踊りで賑わった佐須公民館(旧佐須小学校校舎)での交流晩餐会も思い出深い。   実は、飯館村の村民と数えられる人の中には、田尾さん一家などここ2年間新たに転入した移住者100人以上が含まれる。それゆえ、飯館村の再生をめぐって「外部の人」の見解に反感を抱く村民も見受けられるのだという。村中の人々が足並みを揃えている訳ではないが、「ふくしま再生の会」は村全体に影響を及ぼしかねない新しい取り組みに着手している。「大地の芸術祭」や「瀬戸内国際芸術祭」のアートディレクターとして知られている北川フラムさんを迎えて、地域文化を掘り起こし、村に訪問者を呼び込む「アートプロジェクト」の構想がスタートしたのである。   なぜ震災後の農村の再建に「アート」を取り入れるのか、疑問を抱く方は少なくないだろう。けれども、アート分野で学ぶ筆者にとってこの考えは理に叶っている。アートは、普段人々が見えていない物事を「見える化」したり、既成概念を問い直したりして、あらゆる事象に独自の価値を付与する傾向がある。鑑賞者はアート作品によって思考が刺激され、さまざまな発見や再認識が促される。このような特性から、アーティストが持ち込む新しい視点によって地域の魅力が見出され、発信されるという期待のもと、既に日本各地で地域創生の手段の一つとしてアートプロジェクトが多く実践されている。   飯館村の再生は、田尾さんに言わせれば、決して「元のまま」に戻すことではない。放射能汚染ばかりが問題視されているが、原発事故が破壊したのは自然と人間の関係性であり、その関係性が断ち切られた人々の精神であると田尾さんは主張する。この意味において、アートプロジェクトは少なくとも人と人、人と土地の新しい関係性や愛着感を醸成する糸口となるかもしれない。   再生に向かう飯館村の取り組みは、農林畜産業から芸術活動まで広がっている。「内部の人」であろうとなかろうと、地についた研究・調査力から飛躍的な想像力を持つ多分野の協力者が重層的に展開している活動の数々は、市民の豊かな創造性が芽吹き始めていることを物語っているのではないだろうか。   英語版はこちら   スタディツアーの写真   <楊淳婷(ヤン・チュンティン)Yang_Chun-ting> 2018年度渥美奨学生。アートマネジメント/文化政策分野で研究・活動をしている。博士(学術/東京藝術大学)。修士(美術教育/福岡教育大学)。学士(日本語/台湾国立政治大学)。2019年度現在はNPO法人「音まち計画」の主催事業「イミグレーション・ミュージアム・東京」(略称IMM)の企画統括を務める。主な論文は「アートによる多文化の包摂-日本人の外国人住民に対する『寛容な意識づくり』に着目して-」(『文化政策研究』第10号、2016年)がある。(IMMのホームページ:http://aaa-senju.com/imi)     2019年10月31日配信  
  • エッセイ610:シュテファン・ヴューラー「やっぱり『被災者とはだれ?』『被災地とはどこ?』に還ってくる」

    初めて福島に行ったのは、去年の5月だった。渥美財団のふくしまツアーに参加し、福島県・飯館村に2泊3日滞在した。行った先でもっとも印象に残って、ずっと気になって、そして今回もまた、CISV日本協会関東支部主催の「International_People’s_Project(IPP)ふくしま」に、SGRAのヴォランティア通訳者として参加し再び飯館村を訪れようと思った動機の一つとなったのは、責任の不平等な「分配」、負担の不平等な「分配」、「こっち」と「そっち」という線引きの恣意性を意識させる、もっと簡単に言ってしまえば、福島の再生とは誰の問題なのかという問いを投げかけてきた声だった。   いうまでもなく、印象に残ったことはその他にも様々にある。オーストリア東北部にある父の故郷を連想させた美しい森と畑の間に広がる、周りに溶け込むような深緑色、あるいは派手に目立つ不気味な黒のシートでカバーされている汚染土の山々の無視しようもない存在。その山々が現政府にとって「オリンピックで手がいっぱい」なゆえ、ずっと農業地を占領している問題。放射能汚染で農地として使えなくなった畑の一部に広がるソーラーパネルの何十パーセントかが大企業のもので、現地に届くのが借地料のみである問題。 そしてそんな状況の中で、原発事故と津波による被害が良くも悪くも若い世代にとって故郷を後にして別の場所で根を下ろす契機となった一方、年配の人が、自分が生まれ育って何十年間も生きてきた地域を再生させようと踏ん張っているという、ローカル・コミュニティを走る亀裂―ずっと東京に住んでいると、新聞やテレビでは3.11、福島第一原発事故、放射能汚染の問題はとっくに終わった話らしく、これらの問題について知る機会が少ない。だから、被災地、「現場」に身を置いてみてその場を生きている人たちの話を聞くことは、このようにもう少し具体的な問題意識を持たせてくれる貴重な経験だ。   去年そう思って感想をまとめたところ、一つの疑問が浮上してきた。「現場」とはおかしな表現なのではないかと。「現場」、被災地とはどこだ。放射能汚染で避難指示区域となった場所?帰還困難区域?復興作業、除染作業が行われている市町村?福島原発?それじゃ東京は?日本は?太平洋は?―「現場」はどこだ。今回もまた、実は飯館村に行く前に、まだ荷造りもしていない出発の数日前から、去年の飯館村での経験を思い出し、去年のこの疑問が浮かんできた。そのきっかけとなったのは、IPPふくしまの外国人参加者2人と一緒に、日本語が話せないこの2人の通訳者、コミュニケーションのサポートとして、1泊2日ホームステイすることとなったホストの星野さんがあらかじめ送って下さった、飯館中学校のある生徒による英語弁論大会のスピーチである。   CISVは平和で公正な世界の実現に貢献する地球市民を育成することを目標に、世界69カ国の国々で、11歳以上全ての年齢の人々を対象にした国際教育プログラムと地域プロジェクトを実施している民間非営利団体である。その教育プログラムの一つであるIPPは、19歳以上の参加者が地域の課題にその土地の人々、関係する団体と協力して取り組む2~3週間のプログラムで、今年の8月11日から24日まで福島県飯館村で開催された。前半は滞在している地域・飯館村について知ってインプット、後半は地域に貢献してアウトプットという2部構成のこのプロジェクトのちょうど真ん中の週末は、飯樋地区・佐須地区の有志のご家庭での1泊の村内ホームステイと、その次の日に、廃炉資料館と福島第一原発廃炉工事現場の視察があった。   他の渥美財団の元奨学生4人と一緒にこの3日間のプログラムに通訳サポートとして参加した。ホームステイは、小宮地区の山中にある、百数十頭飼っている牛舎を見学し、震災後の福島での農業について知ったり、真野湖へドライブして綺麗な景色に圧倒されながら真野ダムの歴史について学んだり、ホストが家の庭で、人が集まって交流できるもう一つの場所として作った石窯でピザを焼いて星空の下で食事したり、ホストの家にあった様々な楽器でジャムセッションもやったり、また飯樋町コミュニティーの協働草刈りを手伝ったりと、盛りだくさんの2日間だった。飯館村周辺のやはり今でも問題の多い現状を、しかし、この地域の自然の豊かさとこの地域の人たちの心の広さとともに、いくつか新しい視点から経験できた。それを可能にしてくれたホストの星野さんに感謝の気持ちしかありません。   その新しい視点の一つとなったのは、飯館村地域包括支援センターに保健師として勤めており、飯館村周辺のとりわけ年寄りの人のケアに携わっているホストが、「対話のきっかけとして」あらかじめシェアしてくれた、上述の飯館中学校の生徒による英語弁論大会のスピーチである。学生の名前は佐藤安美、スピーチのタイトルは「Don’t_Call_Us_Victims」(被災者と呼ばないで)。その中で、佐藤さんは次のように書く。   「私には口にしたくない言葉があります。それは『被災者』という言葉です。災害による被害を被った人のことを意味します。私はもう被災者ではありません。そう呼ばれることにうんざりしています。〔・・・〕多くの人はメディアから情報を得て、それを真実だと信じています。実際に私は震災についてテレビ番組をたくさん見ましたし、インタビューもたくさんされました。だから、私たちは一生懸命がんばっているという事実を皆さんに伝えようとしてきました。しかし〔・・・〕映像やインタビューは誇張した話で作られていました。私たちをただの被災者に仕立て上げるのです。彼らの望む通り、私たちは永遠に被災者であり続けなければいけないのでしょうか。確かに、被災者はみじめなものとして受け取られがちです。でも私はそうは思いません。被災者は必ずしもかわいそうではないのです。」(村の広報誌「いいたて」2017年12月号、8頁)   このスピーチを読んで、去年の疑問―被災地、「現場」とはどこだ―を思い出し、考え込んだ。「被災者」とは誰だ。というか誰かを「かわいそうに」と「被災者に仕立て上げる」こととはどういうことかと。思うに、それは「こっち」を「そっち」から分断するための恣意的な線引き、「そっち」の無責任な放置だったりするのではないか。ならば、「じゃ線引きやめよう」という訳にもいかない。他でもない「わたし」であろうとする人間である以上、いずれ線引きはするから。「こっち」と「そっち」と。線引きのない夢の世界へと浪漫飛行するより有意義なのは、だから、なぜ線引きがなされるのか、線引きのその機能について考えることである。そしてそれは、佐藤さんの「うんざり」、「現場」とはどこ?「被災者」とは誰?という私の疑問、福島の再生が誰の問題、誰の責任なのかという問いとも無関係ではない。   「現場」あるいは「被災地」という語は、特定可能な「そっち」に対しての「現場」、「被災地」でないどこかが存在しているという観念を前提に意味を持つのである。だから、東日本大震災や福島第一原発の事故などが話題になったとき、特定の地域や地区を指して「被災地」という言葉を―あるいはその地域に住んでいる人に対して「被災者」という言葉を―使ってしまえば、それと無関係な「非・被災地」「非・被災者」があるという線引きが想像上、含意として再生産される。「非・被災地」としての「こっち」、「非・被災者」としての「私」という幻想が抱けるわけである。 「~してあげる」とか「支援」とか、あるいはまた「かわいそうに」という「福島」とよくセットになっている表現と同じである。「~してあげる」は、借りと貸しの世界において、「そっち」の事情だけど「そっち」のために「こっち」は境界線を越えて―一時的に「現場に入って」―手を貸そうという「善意」を言葉にしたものである。えらい、えらい。だが、「してあげた」後は?やっぱり「こっち」は「こっち」、「そっち」は「そっち」?「支援」だって、する側と受ける側に世界が分かれる。その場合、「現場」はどっち?支援をする「こっち」?それとも受ける「そっち」? その上、「支援してあげよう」と言うとき、そもそも支援できるための資源や余裕が「そっち」ではなく「こっち」に属するものだという―線引きを通じてこそ可能な―自己肥大的な「優しい私」の演出も無意識に遂行されることにならない?   誤解しないでほしい。支援などやめようなんて言いたいわけではない。「かわいそうに」と「そっち」側を作っておいて、たまに「やってあげよう」と「優しい私」に陶酔しつつ責任逃れするのをやめようと言いたい。共振、共感、協働を。自分なりに、お互いの違いを尊重しつつ。というのも、3.11に起きた地震と津波による大規模な自然災害と福島第一原発事故による放射能汚染とそれらの後遺症は、間違いなく特定のニーズのある地域を生み出したが、それはわれわれの問題、われわれの責任だから。この国のどこに住んでいようが、原発でつくられたエネルギーを3.11以前から、そして3.11以後も使っている「わたし」。原発の建設と再稼働に賛成する政党に票を入れた「わたし」と入れなかった「わたし」。福島の再生よりオリンピックを重視する政府を支持する「わたし」と支持しない「わたし」。 これから海外に移住するかもしれない「わたし」でも、ずっと日本国内にいるだろう「わたし」でも、程度の差はあれど福島の再生は、これらすべての「わたし」、「われわれ」の問題と「われわれ」の責任である。「かわいそうに」と、勝手に「こっち」を基準にして「そっち」に憐れみに見せかけた無関心で対応するのではなく、「支援」の一時的な善意パフォーマンスでもない。被災地が奪われてきたあらゆる資源へのアクセスを再び可能にする。「こっち」でもなければ「そっち」でもなく、一人称複数の「われわれ」で。環境汚染と自然災害が国境や県境を跨ぐ問題であるためだけではない。原発が建てられた時点ですでに、建てられた地域に負担とリスクが一方的に押し付けられたためでもある。   去年、受け入れて案内してくださったふくしま再生の会のチラシに「共感」と「協働」という言葉が大きく載っていて、去年も今年も、飯館村で実際に聞いた話も、「共感」「協働」「共有」の必要性を訴える声が少なくなかった。互いのニーズや立場の違いを無視することなく、いかに「共感」「協働」「共有」が「わたし」にとって可能なのか―この問いに対する答えを模索していくことが、私が去年、そして今年再び、飯館村から持って帰った最大の課題であり、これからも取り組んでいきたい課題である。   英語版はこちら   <シュテファン・ヴューラー Stefan Wuerrer> 渥美国際財団2018年度奨学生。オーストリア出身。ウィーン大学の東アジア研究科と比較文学科卒業。在オーストリア日本国大使館推薦で国費留学生として、2015年東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コースで修士学位を取得。現在同大学の博士後期課程に在学中。武蔵大学人文学部グローバル・スタディーズコース非常勤講師。専門は戦後日本文学、女性文学、ジェンダー・スタディーズ、カルチュラル・スタディーズ。     2019年10月3日配信
  • 第8回SGRAふくしまスタディツアーへのお誘い

    ~行って、見て、感じて、考える~   関口グローバル研究会(SGRA)では2012年から毎年、福島第一原発事故の被災地である福島県飯舘(いいたて)村でのスタディツアーを行ってきました。そして、スタディツアーでの体験や考察をもとにしてAFCワークショップ、SGRAフォーラム、SGRAカフェなど、さまざまな催しを展開してきました。 2017年に7年間の避難生活が解除され、住民も徐々に「ふるさと」に帰り始めていますが、昔のままの生活を取り戻すことはできません。飯舘村の住民たちは、新しいふるさと作りに向けて進み始めています。今回のツアーでは、新しいふるさとつくりのシンボルとしての「佐須の地域再生可能エネルギー事業」と北川フラム氏を中心に計画されている「飯舘村アートプロジェクト」に焦点を当てて、新しいふるさとつくりのヴィジョンと計画を共に考えます。   《「ふるさと」の再生》 日 程: 2019年9月21日(土)、22日(日)、23日(祝) 人 数: 10~15人程度 宿 泊: ふくしま再生の会体験宿泊施設 「風と土の家」 参加費: 一般参加者は新幹線往復料金+12000円 _______渥美奨学生・元奨学生(ラクーンメンバー)は参加費無料 申込み締切:9月10日(火) 申込み・問合せ:渥美財団 SGRA事務局 角田 E-mail: tsunodaaisf@gmail.com  Tel: 03-3943-7612   ちらし(PDF)  
  • 角田英一「第62回SGRAフォーラム・APYLP+SGRAジョイントセッション「再生可能エネルギーが世界を変える時…?-不都合な真実を超えて」報告」

    2019年2月2日、東京・六本木の国際文化会館で、第62回SGRAフォーラム・APYLP+SGRAジョイントセッション「再生可能エネルギーが世界を変える時…?-不都合な真実を超えて」が開催された。このフォーラムは、国際文化会館がアジア太平洋地域の若手リーダー達を繋ぐことを目的として組織し、SGRAも参加する、「アジア太平洋ヤングリーダーズ・プログラム(APYLP)」とのジョイントセッションとして開催された。   今回のフォーラムは、2015年のCOP21・パリ協定以降、急速に発展しつつある「再生可能エネルギー」をテーマとして、その急速な拡大の要因や将来の予測を踏まえて「再生可能エネルギー社会実現の可能性」を国際政治・経済、環境・技術(イノベーション)、エネルギーとコミュニティの視点から、多元的に考察することを目的とした。   フォーラムで行われた、研究発表と基調講演を概観してみよう。 午前中のセッションは、120名の会場が満杯となる盛況の中、デール・ソンヤ氏(一橋大学講師)の司会、今西淳子氏(渥美国際交流財団常務理事・SGRA代表)の挨拶で始まった。 第1セッションでは、3名のラクーン(元渥美奨学生)の研究発表が行われた。トップバッターの韓国の朴准儀さん(ジョージ・メイソン大学兼任教授)は、「再生可能エネルギーの貿易戦争:韓国のエネルギーミックスと保護主義」の発表を行い、専門の国際通商政策の視点から文在寅政権の野心的すぎる環境政策、中国の国策の大量生産による市場独占、アメリカの保護主義政策などを分析しながら、韓国の太陽電池生産の衰退を取り上げ、再生可能エネルギービジネスが大きく歪められている現状に警鐘を鳴らし、政策転換の必要性を力説した。 第2の発表は、高偉俊氏(北九州市立大学教授)による「中国の再生可能エネルギー政策と環境」。中国の環境問題を概観した上で、深刻な環境汚染を克服するために「再生可能エネルギーへの転換が必要だ」と訴え、政府主導で中国国内や外国で展開される中国製大規模プロジェクトを紹介したが、一方で、中国は大規模プロジェクトに傾斜せず、きめ細かな環境政策が必要であると強調した。第3の発表は、葉文昌氏(島根大学准教授)の「太陽電池発電コストはどこまで安くなるか?課題は何か?」で、PVの独自のコスト計算を披露しながら、太陽光発電コストを削減するための様々なイノベーションの可能性を示した。その上で、発電と同時に蓄電のイノベーションの必要性を訴えた。   春を思わせる陽光の下、庭園で行われたコーヒーブレイク後の第2セッションでは、原発被害からの復興と地域の自立のために「再生可能エネルギー発電」を新しい地域産業に育てようと試みる福島県飯舘村の事業が紹介された。まず、飯舘村の村会議員佐藤健太氏が、2011年3月11日の福島第一原発事故による被害と昨年まで7年間の避難生活を振り返りながら、飯舘村の再生、新しい地域づくりの核に「再生可能エネルギー発電」を取り上げる意義と将来のヴィジョンを語った。次に登壇した飯舘電力の近藤恵氏は、既に飯舘村内で実施中のコミュニティレベルの小規模太陽光発電プロジェクトなどの取組を紹介すると共に、現在の日本国内の規制、制度の下での地域レベルの発電システム拡大の難しさを語った。   午後のセッションは、2本の基調講演と分科会でのディスカッションが行われた。 1本目の基調講演はルウェリン・ヒューズ氏 (オーストラリア国立大学准教授)の「低炭素エネルギー世界への転換と日本の立ち位置」。この講演の中でヒューズ氏は、低炭素エネルギーへの転換の世界的な流れを概観し、気候変動対策等を重要な政策とかかげ、低炭素エネルギーの振興を語りながらも、明確な指針が定まらない日本のエネルギー政策を多様なデータを用いながら解説した。 これに対して2本目の基調講演者ハンス=ジョセフ・フェル氏(グローバルウォッチグループ代表、元ドイツ緑の党連邦議員)は「ドイツと世界のエネルギー転換とコミュニティ発電」の中で、1994年に世界初の太陽光発電事業者コミュニティを設立し、ドイツ連邦議会の一員として再生可能エネルギー法(EEG)の法案作成に参画、その後世界の再生可能エネルギーの振興に取り組んできた経験を紹介しながら、「Renewable_Energy_100」のスローガンの下に、再生可能エネルギー社会の実現を訴えた。   午前中の5本の発表、午後の2本の基調講演の後、講演者、参加者が「国際政治経済の視点から」、「環境・イノベーションの視点から」、「コミュニティの視点から」の3分科会に別れて、熱い議論が展開された。   今回のフォーラムは、一日で「再生可能エネルギー社会実現のための課題と可能性」を探ろうという試みであり、さまざまな分野の多くのトピックスが取り上げられ、また様々な疑問、問題点も提起された。これらの議論を消化することは、容易ではないことを改めて感じさせられた。 フォーラム全体を通じて私が感じたのは、まず、「世界の脱炭素化、再生可能エネルギー社会に向かう傾向は後戻りできない現実、あるいは必然であろう」という認識が講演者だけでなく会場全体で共有されていたことである。 しかし、すべてが楽観的に進行して行くとは思えないことも、発表の中で明らかになった。また、分科会でも、各国、各分野がさまざまな課題を抱えていることが指摘されたし、このフォーラムで必ずしも疑問点が解消されたと言うこともできない。 例えば、地球温暖化の影響で顕在化する気候変動、資源の枯渇などを考えれば再生可能エネルギー社会(脱炭素エネルギー社会)への転換は、地球社会が避けて通ることができない喫緊の課題である。しかしながら、グローバルなレベルで大資本が参入し、化石燃料エネルギーから自然エネルギーに転換したとしても、地球環境問題は改善されるであろうが、大量消費文明を支える大規模エネルギーの電源が変わるだけで、大量生産大量消費の文明の本質は変わらないのではなかろうか、という疑問に対しての答えは得られなかった。 また、分科会では、巨大化するメガソーラが景観や環境を破壊するとして、日本でもヨーロッパでも反対運動が生まれていること、太陽光パネルの製造過程で排出される環境汚染物質などの問題も提起された。 FIT((売電の)固定価格買い取り制度)がもたらす、買い取り価格の低下による後発参入が不可能となる問題、財政が圧迫する(ドイツの事例による)などの問題点。蓄電システムなど技術的なイノベーションの必要性なども議論された。 当然のことながら、こうした地球社会の未来にもかかわる大きなテーマに簡単な解や道が容易に導き出されるとは思えないし、安易な解答、急いで解答を求める姿勢こそ「要注意」だと思える。   様々な課題や困難があろうが、再生可能エネルギー社会が世界に普及、拡大して行く傾向は、ますます大きな流れとなることは、間違いのない現実だろう。 ここで思い起こされるのが、このフォーラムのサブタイトルである「『不都合な真実』を超えて」というフレーズである。これは、アメリカ元副大統領アル・ゴアが地球環境問題への警鐘として書いた本のタイトルである。 大きな力強い流れがおこっている中では、流れに逆らう「不都合な真実」はともすれば語られず、秘匿される。 「再生可能エネルギー」の議論の中でも、福島第一原発事故においても、さまざまな「不都合な真実」が語られず、秘匿されてきたことが明らかになっている。 再生可能エネルギーの普及に向けた市民のコンセンサスのために、そして科学技術信仰のあやまちを繰り返さないためにも、さまざまな「不都合な真実」を隠すことなく、軽視することなく、オープンにして市民レベルでの議論を繰り返して行くことが求められる。   フォーラムの写真   《角田英一(つのだ・えいいち)TSUNODA Eiichi》 公益財団法人渥美国際交流財団理事・事務局長。INODEP-パリ研修員、国連食料農業機関(バンコク)アクション・フォー・デヴェロプメント、アジア21世紀奨学財団を経て現職     2019年3月14日配信
  • エッセイ583:野田百合子「飯舘村を訪れて」

    今までに経験したことのない類の、広くて深い学びだった。   忘れないようにとせっせとメモをとって、でもそれは気軽には読み返せなくて、心の奥の引き出しにそっとしまっておきたくなるような。 私にとってはある意味とても非日常な旅だった。東日本大震災の被災地には何度も足を運んだけれど、原発事故で全村避難していた村に来るのは初めてだ。線量計をつけて歩くのも、原発事故や放射線被害について学者の先生から生で話を聴くのも、村の農家の人の暮らしを見せていただいて本音がポロリとこぼれる瞬間に立ち会うのも初めてで。頭も心もたくさん揺さぶられた3日間だった。 しかし飯舘村に暮らす人々にとってそれは日常だ。変わらない、そして日々変わりゆく日常。福島では今も毎日震災や原発関連のニュースをテレビや新聞で取り扱っているのだろうか。少なくとも2年前はそうで、それは東京に住む私にとって一つの驚きだった。   東京から飯舘村に行くには、福島駅で新幹線を降りて1時間ほど東へ車を走らせる。9月半ば、ちょうど稲穂が黄金色に光ってとても美しい風景だった。いいなぁ、こんな季節に来られて幸せだなぁと思ったのも束の間、境を越えて飯舘村に入った瞬間に景色が一変する。黄金色の稲穂はない。稲を育てるのが禁止されているからだ。そして見えるのは除染されてはげ山のようになった田んぼの跡地と黒と緑の巨大な除染袋の山ばかり。これが飯舘村の現実かとショックを受けた。そして境って何だろうと思った。放射性物質には境はない。村の中と村の外、境界線近くの線量は同じくらいのはずなのに地図上に引いた境が運命を分ける。村の一部は未だ帰還困難区域でバリケードで封鎖されている。その境目も難しい。バリケードの中は人が住めなくて荒れ放題で、でも中に家がある人には補償金がたくさん出るという。どちらがいいのか、いやどちらも嫌だな。村の人はこの美しい村で黄金色の稲や花を育てたり、牛を飼ったりして、昔ながらの暮らしを続けたいだけだっただろうに。   2017年3月31日に村の多くの地域で避難指示が解除になって、元の人口6,000人のうち約400人が帰村した。村に住む人、通う人、家族は別に暮らす人。人によって状況は様々だ。放射性物質は目に見えないし、この先の状況もわからない。だから一つひとつの判断に家族は揺れ、意見が分かれる。「これは放射能の問題というより生活や人間関係の問題、精神の分断だ。夫婦ゲンカ、親子ゲンカ、こういう問題はお金で解決できない。」ふくしま再生の会の田尾さんの言葉が胸に突き刺さった。   村に帰ってきて生活を再建しようとしている人にも何人かお会いした。 高橋日出夫さんは、国に建ててもらったというビニールハウスでアルストロメリア、トルコキキョウやカスミソウを育てて大田市場に出荷している。花について活き活きと語るときの日出夫さんの笑顔と、「生まれ育ったところでは見える景色全部が自分のもの。月も星も、飛行機までもうちのものと思う。避難先では月も星もよそのものって思ってたからなぁ」という一言が印象に残った。今67歳。あと20年は花を育て続けたいそうだ。   大久保金一さんは76歳。小宮地区にほぼ一人で住んでいる花の仙人だ。物心ついたときから花に興味を持っていて、花は食べられないからと親に叱られながらも花を植え育ててきた。震災の前の年に思い切って水を引いて花園を拡大しようとするも原発事故で中断。今も除染作業の最中だが、除染を終えたところには17種類の桜を始めボランティアの力も借りながら様々な花を育てている。金一さんは「原発事故があって涙を流さない日は一日もないといっても過言ではない」と言いながらも、花のことになると活き活きと語ってくれた。毎日一人であれをしよう、これをしよう、こうしたらどうかなとあれこれ考えて身体を動かす。生きる喜びとはこういうことなのかもしれない。事情の違う一人ひとりの生活の再建を支えるというのは気の遠くなるような道のりだと思う一方で、この喜びや尊厳を奪う権利は誰にもないのではと金一さんの姿を見ていて感じたのだった。   今回の旅を案内してくださったふくしま再生の会はシニア世代を中心とするNPO法人で、ほぼ毎週末東京などから飯舘村に通って村の人と一緒に様々な活動をしている。いま村の人は何を求めていてどんなデータや仕組みがあったらいいかを考え試行錯誤をしながら、ボランティアがそれぞれの関心や専門性を活かして活動しているのが特徴的だ。理事長の田尾さんは、「僕らは支援者じゃない。対等に協働している。ありがとうはいらない。村の人のためというよりか自分のためにやっている。」「ここは本物のフロンティア。まだわからないことがたくさんある。役に立てることがたくさんある」という。そして、なぜそこまでするのですかという質問には、「リタイアした人は都会でさみしいんだ。ここに来ると元気になる。人生100年、それをどう過ごすかだ。自分はここではりきっている。課題やわからないこともたくさんある。」と答えてくれた。   今回の旅で一番印象に残ったのは、あれをしよう、これをしようと自分で考えて身体を動かし、自分らしく生きる人の活き活きと輝く姿だった。それは被災した村の人も、再生の会の人も、たぶん私たちも同じ。人生とは、自分らしくクリエイティブに生きること。   では、私らしくクリエイティブに生きるって何だろう。私にとっては通訳の仕事を含めて、人と人との間に橋をかけることなのかなと思う。私はこの旅で村の人や再生の会の方たちにたくさんのものをもらった気がする。だから私らしく橋をかけることで何かお返しできたらと思った。具体的には今後、飯舘村に来たことのない日本の人、外国の人をもっとここに連れてきて橋をかけることで、お互いがもっと豊かになるような体験が提供できたらいいなと考えている。   今回お世話になった一人ひとりに感謝したい。SGRAの皆さんとのおしゃべりもとても楽しかった。 飯舘村、また来ます。 (2017年12月記)   <野田百合子(のだ・ゆりこ)NODA Yuriko> 英語通訳、ファシリテーター、ミディエーター。公益社団法人CISV日本協会理事。国際基督教大学卒業、現在は明治大学専門職大学院ガバナンス研究科に在学中(ミディエーション研究)。人と人との間に橋をかけ、お互いがより深く理解し合えるようにサポートするというのをライフワークに、日々活動している。       2018年12月20日配信
  • エッセイ582:リンジー・モリソン「ふるさとは、土でできている」

    SGRAふくしまスタディツアーで、5月25日から27日の間、初夏の飯舘村を訪れた。私にとって3度目のツアーであったということもあり、今回は比較的のんびりできた。真剣な勉強ツアーというよりも、飯舘の自然に癒やされて東京に帰ってきたという感じだった。   飯舘村に行くたびに、自分の恐怖心が和らいで気持ちが楽になってきているように思うが、今回は特に楽しいツアーだった。のんびりできたのもあるが、もう一つの原因は線量計を持ち歩かなかったからだと思う。不思議にも線量計を持っていると急に意識が変わり、まわりに危険性が潜んでいるように感じる。飯舘村に到着した当初は気分が弾んでいたが、線量計を手にした途端、気持ちが引き締まっていくのを感じたことを思い出す。   前回の訪問に比べて、飯舘村の様子はだいぶ変わっていた。あちこちに新築の建物ができたり、新しい高速道路が通ったりと、工事作業で村中が騒がしかった。どうやら村の復興予算を使い切るための事業のようである。こうした工事が村民のためになっているのであればいいのだが、建設会社ばかりの利益となっていたら、真の復興といえるか疑問が残った。   現時点で飯舘村に帰還しているのはまだ700人しかいない。さらに、その大半は昼間だけ帰って、夜は他の村で生活している。菅野宗男さんによると、国の復興対策の不足が原因で、「大方の人が戻りたいと思うような解除がよかったのに」と悔やんでいた。飯舘村を村民が帰れるような形にしないと、復興に使われている国民の血税が無駄になってしまうと宗男さんは懸念を示した。   しかし、そもそも若い人が村へ帰りたいと思っているのか疑問に思った。避難先や別の村で落ち着いてしまって飯舘に戻りたくない人が少なからずいる上に、菅野永徳さんが話してくれたように、「村に道路が一本通ると、地域が衰えていく」。つまり、村に出口ができると、若い人はより便利な生活を求めてどんどん流れ出ていく。永徳さんはこうした価値観の差がわからない。永徳さんからすれば、都会はお金がないと住めないところなので、お金に縛られる窮屈な生活になってしまう。一方、農家は水と空気と土だけで暮らせる。「どうして若い人はお金にすがり付かなければ生きていけない生活を求めるのか、理解ができない」と語っていた。永徳さんは自分自身にも責任を感じて、村の文化をちゃんと継承できなかった、歴史の重要性をちゃんと伝えられなかったから若い人が出ていってしまったのではないかと後悔していた。   永徳さんの話を聞いて、SGRAのメンバーで飯舘村を復興させるためにはどうすればいいかという話になった。そこで、何か文化的なイベントがあれば村の活性化につながるのではないかという提案が出た。永徳さんは、「昔は山津見神社に3万人も集まる大きなお祭りがあった。山津見神社は約970年前からある飯舘村の中心的な神社である。神社の由緒書によれば、源頼義の夢の中に、山の神の使者である白狼が現れたため、山津見神社は数少ない狼信仰のお社になった。明治以前、太平洋側には狼信仰の神社が多かったが、明治以降はそれが良くないという風潮になり、次第に消えていった。山津見神社のお祭りは獅子舞があったが、ある年が凶作だったためやめることになった」と教えてくれた。   土曜日の宴会で飯舘村議会議員の佐藤健太さんと会った。彼は飯舘村のお神楽(かぐら)を復活したいと話していた。健太さんもちょうどSGRAのメンバーと同じように、新しいお祭りやお神楽があれば村は活性化するのではないかと考えている。村の伝説や歴史と結びつけて新しい舞やお祭りが作れたらいいね、と話し合った。神社というのは村の年中行事の拠点だけではなく、血縁と地縁を示すものであり、郷土愛の象徴でもあるため、山津見神社を中心に据えて飯舘村の新しい行事を起こすのは、最適のプランだと思う。   今回の訪問でもっとも印象深かったのは、田植えの体験だった。来日して11年も経つが、田植えは初めてだった。田んぼの土が想像以上にどろどろしていて、歩くのに一苦労したが、その柔らかく栄養に満ちた土に触れることで、なんとも言えない快感を覚えた。いつも悩まされている手のアトピーは土を触れても炎症せず、むしろ少し改善したように思えた。体を動かし、外の空気を吸い、土に触れるのがこんなに気持ちいいものかと、自然の治癒力を改めて実感した。   田植えが終わったら、早苗饗(さなぶり)という、一種の直会(なおらい)が行われた。直会とは、お祭りが終了した後に神に捧げた供え物を参加者で頂戴する行事のことであるが、早苗饗も同じように田植えの作業が無事終了した後、田の神に供物を捧げて豊作を祈願し、皆でご馳走を食べてお酒を交わす宴のことである。   日曜日の夕方に東京へ帰ってきて自宅で横になっていたら、不思議な感覚に浸った。田植えをしていた時の感触がまだ足のまわりに残っていた。硬い地面と小石の上に立って、柔らかいどろどろした土の中を歩き回るあの感触がまだ身体から抜けていなかったのだ。泳いだ日の夜にまだ自分が泳いでいると感じるように、私の体はまだ田植えの感覚を忘れていなかった。人間の動き方、労働の形がいかに体に滲み付いていくのかを考えさせられるきっかけとなった。   田植えで皮膚に付いた土がなかなか落ちず、石鹸で一所懸命こすっても、まだ爪の裏などに残っていた。それを見て、普段からまったく土に触れていない自分が少しおかしく思えた。そして昔言われたことを思い出した。数年前に一軒家でルームシェアしていたが、借りていた家の前に小さなお庭があった。不動産屋はその家の前のお庭をいずれはコンクリートで埋める予定だと話したが、その時、「家の前を綺麗にする」という表現を使った。土を見えないようにすることが本当に「綺麗にする」ことなのかと、その時に強い反感を覚えた。でも、都会に住んでいる現代人には、珍しくない考え方なのかもしれない。   人はどんどん土に触れる環境から離れていく。現代社会では、確かに、多くの人には土に触れる必要がないだろう。しかし、その経験を失った我々は、それだけを失っているのだろうか。土の感触以外にも、忘れていることはないのだろうか。   長年大都会に住んで、私の体もきっと都会の生活のために形成されてきているのだろう。歩き方や振る舞いには、都会の匂いが滲みているに違いない。仕方ないことではあるが、永徳さんが言っていたようなお金のために働き、消費するばかりの生活が、どうしても後ろめたく感じてしまう。   今回まったくの素人が植えた早苗がちゃんと育つか、心配半分、楽しみ半分だ。また来年、よろしくお願いします。   英訳版はこちら   <リンジ―・レイ・モリソン Lindsay Ray Morrison> 2016年度渥美奨学生。2017年に国際基督教大学大学院アーツ・サイエンス研究科博士後期課程を修了し、現在は武蔵大学人文学部助教。専門は日本文化研究。日本人の「ふるさと」意識の系譜について研究している。       2018年12月6日配信  
  • エッセイ580:マイリーサ「繋げて育む協働の輪―ふくしまスタディツアーに参加して」

      2018年5月25日、私は初めてSGRAふくしまスタディツアーに参加させていただきました。渥美国際交流財団SGRAでは2012年から毎年、原発事故の被災地である飯舘村を訪れています。出発の前、私はSGRAスタディツアーに参加した先輩方の感想文を読み、飯舘村の状況について少し事前勉強をさせていただきましたが、現場では、飯舘村がおかれている厳しい状況を改めて感じることができました。   「ふくしま再生の会」理事長の田尾さんのご案内で、私たちは住民の帰還開始から1年となる飯舘村を見学しました。正直、この美しい里山が消滅の危機に直面していると思いました。そして、「ふくしま再生の会」が非常に困難な課題の解決に挑んでいるというのも初日の感想でした。日本の農山村は元々人口減少や高齢化の進行に苦しんでいますが、原発事故災害という特殊な環境において、その傾向はいっそう拍車をかけられています。   しかし、このスタディツアーで、私は次第にある現象に気づき、ここは交流人口がとても多いことに驚きました。というのは、ツアー中に私たちは他地域からの訪問者をよく見かけました。土曜日になると、何世帯かの高齢者しかいない限界集落に奇跡が起きていました。田植えを翌日に控え、佐須地区の「再生の会」の拠点に様々な分野の幅広い世代の人々が訪れていました。   やはり、人と人が集う場所には明日への活力が生まれると、私はその時強く感じました。原発事故が発生した3ヶ月後から、ここ佐須地区を舞台に、村民・専門家・ボランティアの協働による除染法の開発や農作物の栽培試験の取り組みが始まっていましたが、種まき、田植え、稲刈りなど1年を通して村民は多くの参加者の方々と一緒に米を育ててきました。現在は人々の繋がりによる協働の輪が広がりつつあります。   話によると、ほぼ毎週末(土日)、「ふくしま再生の会」の活動拠点に人びとが集まり、各種の活動を行っています。埼玉県立鴻巣高校のボランティアや東京大学のサークルのツアーなど若者たちが来ていました。そうした中で、大学と結ぶ活動の創造的展開も生み出されています。東京大学や明治大学などとの協働により、住民の目線による農地再生の取り組みと新しい地域づくりも可能になっているのではないかと感じました。   人々のつながりの「輪」は、環境保全に限らず、歴史と文化の継承という可能性も生み出しています。山津見神社拝殿の天井絵(オオカミ絵)の復元プロジェクトへの協力、明治時代に造られた校舎の保全と活用、味噌づくり継承プロジェクトなどはその好例です。こうした持続的な交流と協働こそが、「ふるさと再生」の仕組みを作り上げることができるのではないかと感じました。外国人の私は、日本のこのような多様な主体を持つ社会活動の展開とそれによる社会的価値創造にとても励まされました。   飯舘村は、日本の最も美しい村の一つとして知られていますが、飯舘村に行ってさらに、信じられないほど美しい光景に出会いました。それは「繋げて育む協働の輪」です。私は人々のつながりに非常に感動しました。またこの美しい村に行きたいです。   ※SGRAスタディツアーの報告(2018年5月に実施)   英訳版はこちら   <マイリーサ Mailisha> 昭和女子大学国際学部教授。2000年一橋大学社会学研究科博士課程修了、博士(社会学)。専門分野は教育社会学、農山村の地域づくり。近年、日本の里山保全と中国の少数民族地域での環境問題を研究対象としている。日本学術振興会外国人特別研究員、立教大学非常勤講師、昭和女子大学人間文化学部特命教授などをへて、現職。主な著書に『内発的村づくりにおける人間形成をめぐって』(一橋大学大学院社会学研究科博士学位論文、2000年)「流域の生態問題と社会的要因――」中尾正義等編『中国辺境地域の50年史』(東方書店、2007年)他。     2018年11月8日配信    
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