SGRAエッセイ

  • 2020.03.05

    エッセイ622:武瀟瀟「行動力にまつわる長崎」

    長崎についたのは午後でした。雨が降ったり止んだりしていて、出島と大浦大聖堂を見学し、夕食を済ませてホテルについたころにはもう7時半をすぎていました。稲佐山へ夜景を見に行こうと思っていましたが、疲れと雨のせいか、心が揺れ始めました。長い時間をかけて、行き方を調べました。ネットでは色々アクセス方法が書かれていますが、結論から言えば「車がないと難しい」「公共交通機関よりツアーバスがオススメ」とのことでした。夜に市営バスの本数も少ないし、帰る道も心配だし、「明日行こう」、「夜景なんか見なくてもいい」、そう自分に言い聞かせて諦めさせようとしました。   いつの間に、やりたいこと、欲しいものがあっても、始まる前に自分を諦めさせる習慣を身につけたのでしょう。下調べをしすぎ、考えすぎてしまい、結局自分の足枷になります。あるいはやるべきことが山積みで、やらなければならないと知りつつも、先延ばしにしてしまいます。時間がたてばたつほど、行動に移すためのエネルギーが膨大になります。また、先延ばしによって、約束を守れないことになってしまい、そこから罪悪感と恐怖心が生じ、さらに金縛りのように身の動きが取れなくなります。まるで駝鳥のように、迫ってくる「敵」から目をそらして砂の中に逃げます。このように、行動力に欠けることによって、先延ばしにするストレスと自己嫌悪から、さらに行動力が消えていくといった悪循環に陥ります。ですから、「明日行こう」とすれば、百パーセント翌日に行かないことが分かっていました。   結局ネット上のルートに一切従わず、ただ携帯のマップを手にして、ホテルを出ました。   日本語では「方向音痴」という表現があります。方角と聴覚、空間と音、一見無関係ですが、「建築は凍れる音楽」の比喩を思い出せば、実に絶妙な表現だと感心しました。徒歩から路面電車、徒歩からバス、また徒歩からロープウェイ、時には真逆の方向へ行ってしまったり、駅が見つからなかったり、気が付いたら同じ場所を何回もぐるぐる回っていました。しかし、不思議なことに、ホテルから第一歩を歩き出したら、恐怖や不安はだんだん軽くなり、ストレスも消える一方でした。   ロープウェイから降りたとき、遠方から歓声が聞こえ、山麓に大勢の人が動いているのが見え、何かのコンサートが終わるところでした。展望台のエレベーターの扉が開くと、そこに広がるのは光輝く長崎港でした。横に長い港が山々に包まれ、海面に映り込む地上の光は一層際立ちます。さすが日本三大夜景だと思いながら展望台のテラスを一周回り、そろそろ帰ろうとエレベーターへ向かう途中、爆音が聞こえ、思わず後ろを振り返ると、巨大な花火が目の前に咲いていました。真下の海に浮かぶ船から、花火が打ち上げられていました。20分ほど続いていた海上花火大会は実に美しいものでした。何よりも、上から見下ろす花火は初めてでした。   最初の一歩を歩き出したら、身も心も軽くなる。一番近い道ではなくても、歩き続けば、無駄なことは一つもない。行動すれば、絶対に現状よりよい方向へ展開する。それなのに、なぜ最初から、速やかに行動しないのでしょう。行動力が欠ける理由は人それぞれですが、まだ行われていないことに対する過度の思考はその大きな要因だと帰り道にそう思いました。考えれば考えるほど、失敗を恐れ、ネガティブなイメージを未来に投影します。とくに大事なことや困難度が高いことに対して、よりプレッシャーを感じやすく、行動に踏み出すのは時間がかかります。その過度思考の原因は、「完璧主義」や「PCN(先延ばし)症候群」などと言われます。人間、多少そういう「症状」がありますが、「重症者」は、周囲に大変な迷惑をかけることになりがちで、仕事と生活に支障が出るのは当然です。なにより、自信が食い尽くされ、精神衛生上の悪影響は数え切れません。   では、これを改善、解決する方法があるでしょうか。   ホテルを出た時に、稲佐山の山頂から花火を見ることになるとは想像もしませんでした。ただ、ここで行動しないとだめだと急に思いたち、勢いで出発しました。そのあとも、道に迷うのに精一杯で、無事つくことができるかどうか思う余裕さえありませんでした。つまり、事前に自分に考える時間を与えないといいでしょう。第一歩だけでも分かったらすぐ行動します。締め切りがすでに過ぎた論文やエッセイを書くのに、ワードファイルを開くことは一番困難度が高いと思います。それから書きかけた自分の文章を読むことも、また拷問のように感じます。ただ、一旦、最初の心理的な障害をクリアできたら、タスク自体はそこまで人を苦しめるものではなく、むしろ、山頂の夜景や、花火のように、「来てよかった」と思わせ、(意外に)楽しめるものです。ちなみに翌日、九州全体は記録的な豪雨となり、長崎では電車も止まってしまいました。「明日行こう」と先延ばしたら、このような素晴らしい風景を見る機会を逃してしまうことさえ、知らなかったでしょう。   英語版はこちら   <武瀟瀟(ぶ・しょうしょう)Wu Xiaoxiao> 渥美国際交流財団2018年度奨学生。中国上海出身。上海外国語大学英文学科英語文学・言語学専攻卒業。2011年9月にフランスパリ・ディドロ(パリ第7)大学東洋言語文化学科日本学(日本美術史)コースにて修士号取得。同年10月からパリ国立高等研究実習院(EPHE)歴史学・文献学研究科博士後期課程に在籍。2018年京都繊維大学工芸科学研究科造形科学博士修了。2019年4月から東京国立博物館学芸企画課アソシエートフェローとして働きながら、室町時代の水墨画、中世中国の画題の日本での受容を中心に研究中。       2020年3月5日配信
  • 2020.02.27

    エッセイ621:金ボラム「環境と科学技術」

    「科学は地球を救い、また地球を壊していく。」これは筆者が修士課程から博士課程まで5年間に渡って再生可能エネルギーの一種である太陽光発電について研究してきた間にずっと頭の中に浮かんだ思いである。この文言を通して、自分が感じた「環境と科学」の関係性について述べてみたい。   近年、石油や石炭などの資源の枯渇や大気汚染、そして地球温暖化などの環境問題が深刻化している。それに伴い、1997年の京都議定書、そして2015年のパリ協定を採択するなど世界の各国は地球環境を守るための政策を次々と出している。その政策の中で、エネルギーに関する内容だけに焦点を合わせてみると、主に地球温暖化ガス排出の低減に目標を定めている。もちろん再生可能エネルギーの使用を進めている国の目的は地球環境の問題だけではなく、エネルギーセキュリティを守るためでもあるが、ここではその話は触れないことにする。   科学技術分野において、二酸化炭素排出の低減のために一番力を入れているのが、クリーンなエネルギー源の開発である。その種類は筆者が取り組んだ太陽光発電以外にも、風力発電、地熱発電、バイオマス発電などの発電そのものについての技術もあれば、電気モーターで駆動するエンジンを入れた自動車の開発など今まで石油を使用していた製品の電気化に関する技術もある。また、火力発電などから大量に発生した二酸化炭素を捕まえて、炭素系の燃料に還元するなどの戦略も提案され、それについての研究も行われている。このようなことを見ると、科学は未来の地球を救うことが出来る学問であると考えられる。しかしながら、筆者が常に疑問として抱えていたのが、今の環境問題を起こしたのも科学技術の発展であることである。   科学は人の生活を潤沢にするために多様なものを発明してきた。現在、人の生活になくてはならない携帯電話やパソコンなどの電気製品及び自動車や飛行機などの乗り物は勿論、衣類の機能性素材などもすべて科学が発展したことでできた産物である。また、増えつつある人口に合わせた大量生産もやはり科学技術の発展があったからこそ可能になった。ここで述べたことだけでも、科学の発展により人間の生活は潤沢になり、それに比例しエネルギーや地球埋蔵資源(金属など)の使用量は増え続けていることが分かる。18世紀後半に起きた産業革命以降、発展し続けた世界の経済は、今後も開発途上国の大幅な発展などによって、成長し続けると見積もられている。しかしそれゆえに、資源の枯渇や環境問題は今後も深刻化していくと推測されている。   科学の発展により、ナノ単位までの未知の世界は段々明らかになっていき、つい最近ではブラックホールの写真まで撮ることまで成功している。これからも科学はまだはっきりしていない地球・宇宙の現象を明確にし、人の生活を豊かにしてくれると考えられる。ただ、筆者はその発展した科学知識が人だけではなく地球環境のために用いられてほしいと願っている。人の生活のため地球を壊したのも科学であるが、それを克服する鍵も科学にあると思う。実際、現在は再生可能エネルギーの開発や車用の電気モーター、すぐに溶けるプラスチックの開発など、その努力が始まっている。工学を専門にした筆者も今後、地球のために自分の知識が使われるように研究に挑みたい。   英語版はこちら   <金ボラム Kim_Boram> 日韓共同理工系学部留学奨学生(国費)として来日。千葉大学工学部電子機械工学科卒。東京大学の工学系研究科にて電気系工学専攻修士号、博士号を取得。研究分野は高効率の量子井戸型太陽電池。現在、SAMSUNG電子の総合技術院にて専門研究員としてパワーデバイスを研究中。     2020年2月27日配信    
  • 2020.02.20

    エッセイ620:大川真「民主主義とポピュリズムの狭間に―第4回「国史たちの対話」円卓会議を終えて―」

    「僕は永久革命というものは、けっして社会主義とか資本主義とか体制の内容について言われるべきものじゃないと思います。もし主義について永久革命というものがあるとすれば、民主主義だけが永久革命の名に値する。なぜかというと、民主主義、つまり人民の支配ということは、これは永遠のパラドックスなんです。ルソーの言いぐさじゃないけれど、どんな時代になっても「支配」は少数の多数にたいする関係であって、「人民の支配」ということは、それ自体が逆説的なものだ。だからこそそれはプロセスとして、運動としてだけ存在する。ギリシャの昔からあったし、資本主義になっても社会主義になっても、要求としての民主主義がなくなることはない。自発的選択によるか、「客観的」善を上から押しつけるかは不断に登場するディレンマです。」(丸山眞男インタビュー「丸山真男氏の思想と行動-5・19と知識人の「軌跡」-」(『週刊読書人』1960(昭和35)年9月19日号)   2020年1月9日、10日の両日にわたり、フィリピン・アラバン市ベルビューホテルで開催された第4回「国史たちの対話」円卓会議「『東アジア』の誕生-19世紀における国際秩序の転換-」に参加させて頂いた。フィリピンへの訪問、また「国史たちの対話」の参加自体が初めてであったが、その後の噴火による思わぬ滞在を含めて、たいへん印象深く意義深い国際シンポジウムであった。渥美国際交流財団の今西淳子常務理事をはじめ、関係各位のご厚情に心から感謝申し上げたい。   2日間にわたる個別発表、全体討論のすべてをトレースするのは紙数が許すところでは無い(※SGRAかわらばん806号において金キョンテ先生によるレポートが掲載されているので、概要を知りたい方はそちらも合わせてお読み頂きたい)。個人的には、1月12日にタール火山が噴火した後の、予期せぬ数日の滞在が今でも鮮明に心に残り、一緒に行動を共にしたメンバーの皆さんとの思い出を書くのも楽しいかと思ったが、会議中での三谷博先生と明石康先生からのご発言がその後も大きな宿題として重くのしかかっているので、そのことについて紹介し、私見を少し述べさせて頂く。以下の両先生の発言趣旨については、あくまで大川がまとめたものである。当日の発言を正確に再現できていないことをまずお詫びしたい。さて、「三谷博先生の発言」とは初日の基調講演で述べられた以下のような趣旨の発言である。   「日中韓の三国はそれぞれ政治体制も異なる。たとえば日韓は民主主義国家であるが、中国は共産主義国家である。この三国が政治体制の違いを乗り越えて、どのように共存共栄していくのかは大きな課題である。」   三谷先生は御著『愛国・革命・民主』(筑摩書房、2013年)などにおいて、近代化と公論空間との関係を分析しておられるが、一連のご研究の中で、「公論」と「暴力」の親和性を指摘されたことは非常に重要である。「公論」の名を借りて、権力者は自己の政治主張を正当化し、異論を唱える者への徹底的な排除を産み出すことが往々にしてあるからである。「公論」がthe_consensus (of_opinion)という面に偏ることなく、かつ陰惨な暴力に頼ることなく、多様性を伴ったpublic_opinionへと昇華することが19世紀以降の東アジア世界において共通した最重要課題であることは間違い無い。翻って現在はどうか。課題解決のために前進しているのか。むしろ近年は逆行しているのでないだろうか。明石康先生は円卓会議の総括のご挨拶において、次のような趣旨のご発言をされていた。   「「民主主義」は手放しに歓迎できるものではない。民主主義は多数決による決定とともに少数者の尊重も原理として成り立つ。現在のポピュリズムの蔓延は、前者ばかりが尊重され、後者が軽視されていることに起因する。」   ポピュリズム政治家の発言には、〈「真正な」(authentic)人民、民族〉対〈排除すべき人民、民族〉いう友敵論的構成が見られることを、ドイツの気鋭の政治学者ヤン=ヴェルナー・ミュラーは指摘している(『ポピュリズムとは何か』、日本語訳は岩波書店、2017年)。こうした流れに対抗するためにも市民社会におけるポリアーキー的な要素の高まりが求められるが、希望的な観測を持つのは難しくなっている。ポリアーキー的な要素が高まれば、現行の政治秩序が脅かされる可能性も高い。一定の高さの生活水準が実現された現代の東アジア世界においては、権力者の政権維持への固執だけではなく、「自由」ではなく「安定」を求めがちである民衆の心性からしても、「公論」がポリアーキー的な要素を強めて、ポピュリズム政治に対抗していくのは難しくなっている状況である。   しかし19世紀の東アジアの歴史を見ると、もう少し明るい可能性もあったことを強調したい。専制的、独裁的な政府に対抗する新聞・雑誌が誕生し、public_opinionとしての「公論」の持つ力は、その国の指導者にとっては最大の脅威となった。また前代とは比べものにならないほど活発となった国境を越えた移動や交流は、レイシズムがいかに浅はかで愚かであることを白日の下にさらし、国際的な共同体構想を東アジア世界で初めて意識させるに至った。   日本思想史の研究者である私は、18世紀の偉大な先人の言葉を引用して締めくくりたい。   「されば見聞広く事実に行きわたり候を学問と申す事に候故、学問は歴史に極まり候事に候。」(荻生徂徠『徂徠先生答問書』上)。   <大川真(おおかわ・まこと)OKAWA_Makoto> 1974年群馬県生まれ。東北大学文学部卒業。同大学院文学研究科文化科学専攻日本思想史専攻分野博士後期修了。博士(文学)。東北大学大学院文学研究科助教、吉野作造記念館館長を経て現在、中央大学文学部人文社会学科哲学専攻・准教授。専門は日本思想史、文化史、精神史。日本政治思想史。 主な著作:『近世王権論と「正名」の転回史』(御茶ノ水書房、2012年)。主要論文「サムライの国に持ち運ばれた「アメリカ」―日本のデモクラシーを考える―」(『淡江日本論叢』32号、淡江大学日本語文学系、2015年)、「吉野作造の中国論―対華二十一ヶ条からワシントン会議まで―」(『吉野作造研究』第14号、2018年)など     2020年2月20日配信  
  • 2020.02.13

    エッセイ619:金キョンテ「第4回国史対話レポート」

    第4回「韓国・日本・中国における国史たちの対話の可能性」円卓会議は2020年1月9日と10日、フィリピン・アラバン市ベルビューホテルで開催された。今回のテーマは「『東アジア』の誕生―19世紀における国際秩序の転換―」だった。3国でそれぞれ活発な研究活動をしている研究者たちが3人ずつ発表した。   9日朝、円卓会議が始まった。冒頭の基調講演及び挨拶では、共通して「『アジア』とは何か」「共同の歴史のための研究者の役割」「歴史の大衆化の問題」などの問題が提起された。   続いて発表セッションが始まった。最初のテーマは「西洋の認識」で、大久保健晴先生(慶應義塾大学)の「19世紀東アジアの国際秩序と『万国公法』受容―日本の場合―」、韓承勳先生(高麗大学)の「19世紀後半、東アジア三国の不平等条約克服の可能性と限界」、孫靑先生(復旦大学)の「魔灯鏡影:18世紀から20世紀にかけての中国のマジックランタンの放映と製作と伝播」の発表があった。伝播と影響、変容という様相を扱った興味深いテーマだった。発表が終わった後は討論が続いた。『万国公法』受容の様相、西洋から伝播した新しい「思想」と「道具」の各国における受け入れ方の共通点と相違点、「不平等条約」という用語が果たして適切であるかについての悩みなどが論点として提示された。   2番目のテーマは「伝統への挑戦と創造」で、大川真先生(中央大学)の「18、19世紀における女性天皇・女系天皇論」、南基玄先生(成均館大学)の「日本民法の形成と植民地朝鮮での適用:制令第7号『朝鮮民事令』を中心に」、郭衛東先生(北京大学)の「伝統と制度の創造:19世紀後期の中国の洋務運動」の発表で、挑戦的な問題提起が目立った。このセッションでは女性論で見える当時と現在の共通点、植民地朝鮮における日本法の適用方式の特殊性、洋務運動の歴史的評価の変遷史などの論点があった。   3番目のテーマは「国境を越えた人の移動」だった。塩出浩之先生(京都大学)の「東アジア外交公共圏の誕生:19世紀後半の東アジア外交における英語新聞・中国語新聞・日本語新聞」、韓成敏先生(大田大学)の「金玉均の亡命に対する日本社会の認識と対応」、秦方先生(首都師範大学)の「近代中国女性のモビリティー経験と女性『解放』に関する再思考」の発表があった。人と人の繋がりによって転送される情報に着目した研究であった。移動を扱うと同時に、それぞれその伝送の媒体を設定するのが興味深かった。このセッションでは金玉均の活動と日本政界の関係、「女性解放」が必ずしも女性を自由にしなかったという指摘、新聞に入る情報を決定する主体が誰なのか、などをめぐる議論があった。   劉傑先生(早稲田大学)はこの日の対話について「国際秩序の転換を各国が受け入れた時期に注目すると、各国がどのように違っていたかが明らかになるだろう」と指摘した。さらに、「冊封・朝貢の概念が登場しなかったのは何故なのか、朝貢・冊封体制の終結と条約体制の始まりは果たして繋がりがあるのか」という問題を提起した。   10日の2セッションは討論だけで構成された。三谷博先生(跡見女子学園大学)は討論に先立ち、前日に提示された様々な論点を基に「今日はさらに進んだ討論が期待される」と述べ、さらに「研究者が互いに友達になり、今後、お互いを研究パートナーにしてもらいたい」という願いが伝えられた。   次は指定討論者からの質問だった。青山治世先生(亜細亜大学)はまず「東アジア」の相対化を提案した。平山昇先生(九州産業大学)は各国の研究の違いと共通点を共に認識するようになったと指摘した。共通点としては、前近代から近代に至る過渡期が共有されていること、そして国史専攻者の間で対話が可能だという発見であった。しかし研究者が自国に戻り、いかに自国民との対話が可能なのかについては反省することになると語った。朴漢珉先生(東国大学)は西欧から流入した近代の様々な要素の朝鮮における様相を詳しく紹介し、新たに「流入」したものとして疾病にも注目すべきものであるとした。孫衛国先生(南開大学)は「東アジア」誕生の意味について提言した。   次は司会者の論点だった。村和明先生(東京大学)は「3国の歴史を合わせたからといって『東アジア史』になるわけではない、日中韓の各国で同じような考え方を持っている人々がいたかもしれない」と述べた。彭浩先生(大阪市立大学)は歴史研究と大衆、政治の問題を指摘しながら、研究者同士は共通の認識を持つことができるが、教科書と大衆向けの媒体で反映されるとき、冷静に考えることができるかどうか悩んでいるとした。   発表者たちはこれらの質問に同意した。一方、ここまでの対話を通じて、分野史を超えて現代秩序の形成に対する問題まで考えるようになり、国境線と歴史的感情も乗り越えられるという期待を持ったという感想もあった。またこの対話を自国でどのように発信するのかを悩まなければならないという指摘も継続された。   発表者と討論者たちは次のような評価を残した。「19世紀後半は『アジア連帯』が模索されながらも、お互いの違いに違和感を抱いた時期だった。21世紀にこれをどう思うかは課題の一つである」「条約に対する対応の差異は、初期条件の差異にも注目する必要がある」「歴史の大衆化は、良い書物を出版するよりも、いかに伝えるかという媒体がより重要な時代になったということだ。研究者が変身を図る時だ」「研究者であり教育者としてこのような悩みを共有してほしい」等だった。   最後に三谷先生が「今回の対話では『アジア』という観点の妥当性の有無が論議された。19世紀は西洋をいかに受け入れていくかについて悩んだ一時期として、各国の対応方式の差を確認した」と総括し、続いて「研究者たちはこの成果を伝え、教育に反映できるように努力しなければならない」と指摘し、「この対話は続けられなければならず、十分に可能だという」期待を残した。最後に円卓会議にずっと参加してくださっていたアジア未来会議の明石康大会会長が、「豊かな議論がなされれば、議論が一致しなくても多くの教訓を受けていけるだろう」とし、「この対話を最後までよく続けてほしい」と話された。   第4回「国史たちの対話」では以前の3回までの会議に比べてはるかに活発な対話が行われたと思う。 参加者たちが以前に比べて非常に密接な交流が展開され始めた時代の19世紀後半を専門にしていたこと、したがって、歴史的事件や人物を共有すること、共通した問題意識を持っているということ、そしてフィリピンという第3の地域に来ていたということ、などがその理由だったと思われる。   今回の会議では言語の重要性を改めて感じるようになった。同時通訳者の苦労と活躍は言うまでもない。特に今回の対話では、相手国の言語駆使が可能な研究者が多く、休憩時間に互いに会話をする場面を目撃した。会議という形式を越え真の仲間になれるなら、国史たちの対話は半分以上成功したも同然だろう。やはり真の「対話」のためには実際の対話が必要だということだろう。   当日の写真   <金泰(キム・キョンテ)Kim_Kyongtae> 韓国浦項市生まれ。韓国史専攻。高麗大学校韓国史学科博士課程中の2010年~2011年、東京大学大学院日本文化研究専攻(日本史学)外国人研究生。2014年高麗大学校韓国史学科で博士号取得。韓国学中央研究院研究員、高麗大学校人文力量強化事業団研究教授を経て、全南大学校歴史敎育科助教授。戦争の破壊的な本性と戦争が導いた荒地で絶えず成長する平和の間に存在した歴史に関心を持っている。主な著作:壬辰戦争期講和交渉研究(博士論文)       2020年2月13日配信  
  • 2020.02.06

    エッセイ618:フェルディナンド・マキト「母国で開催したアジア未来会議」

    2018年8月、台風襲来の韓国ソウルで開催された第4回アジア未来会議のクロージングパーティーで、僕たちは一生懸命参加者を舞台に誘ってフィリピン版カンナムスタイルを一緒に踊って第5回アジア未来会議への参加を促した。実は、これは用意してきた企画では物足りないと言われたので、急遽YouTubeの投稿を参考にセッションの合間に慌てて練習したものだった。普段このようなことをしたことのない僕にとって大変だったが、現在所属しているフィリピン大学ロスバニョス校(UPLB)や渥美財団の関係者を含めた会場の皆さんが大いに盛り上がってくれたので手応えを感じた。練習用の動画のように、年齢や性別や職業や人種が違っていても、とにかく一緒に楽しくやろうということがアジア未来会議の目的に合致したのだろう。   1年半の準備期間には、さまざまなネットワークが動員された。日本側では渥美国際交流財団のネットワークから鹿島フィリピンとフィリピンプラザ・ホールディングスが応援してくださった。今西淳子常務理事(Tita Junko)は数回に渡ってマニラとロスバニョスを訪問して打合せを行った。角田英一事務局長(Kuya Eiichi)が率いるロジスティクスのサポートも力強かった。2004年からマニラで行っている共有型成長セミナーの支援者であるSGRAフィリピンの仲間たちも積極的に協力してくれた。そして、UPLB公共政策・開発大学院(CPAf)のローランド・ベリョー学院長からは大学院を挙げて全面的な支援・協力をいただいた。ソウルの突然の踊りから2020年1月12日の花火(火山噴火)まで、皆さんいろいろ大変なことがあったと思うが、いつも優しい言葉とポジティブな態度で対応してくださり心から感謝を申し上げたい。   実際、カンナムスタイルの踊りから始まって、この会議は、僕が普段したことのないことばかりだった。そして、母国フィリピンの発展を振り返る機会にもなった。   2020年1月9日、円卓会議A「日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性」で、唯一の東南アジア人として、しかも歴史が専門ではない僕が、大変光栄にも開会の挨拶をさせていただいた。三谷博先生と劉傑先生の暖かい歓迎を受けながら、19世紀初まで250年間も続いた「マニラ・アカプルコ間のガレオン貿易」について日本語で発表した。マニラは長期に渡って中継貿易のハブとして繁栄していたのに、なぜ今はそれが続いていないのか、AFC5のテーマを念頭に置きながら、母国の発展を振り返ってみる良い機会となった。(発表資料は下記リンクからご覧いただけます)   10日の開会式の前に記者会見が開かれた。僕が司会を務め、アジア未来会議の明石康大会会長、渥美財団の今西常務理事、UPLB CPAfのべリョー学院長がメディアの皆さんからの質問に答えた。今回はアジア未来会議の中でも、マスコミの参加が一番多かったのではないかと思う。1月5日には僕とべリョー先生がマニラで一番古いラジオ局の番組への出演依頼を受けたし、10日の記者会見の後でも熱心な記者たちが廊下や会場で参加者にインタビューしていた。基調講演をしたラウレル駐日フィリピン大使のインタビューが急遽手配され、5つのテレビ局が報道した。 UPLBの報道関係事務所からの報告   開会式に続くシンポジウムは僕が企画から担当し、当日は司会と問題提起を務めさせていただいた。そもそも第5回アジア未来会議のテーマである「共有型成長」は、僕がずっと追究し続けている研究課題で、マニラにおいてもSGRAフィリピンの事業として2004年から毎年セミナーを開催している。今回のシンポジウムでは、既に27回開催したマニラセミナーを振り返りながら、研究やアドボカシーに協力してくださっている先生方(UPLBのCPAfのべリョー学長、UPLBの大学院研究科のドング・カマチョ学長、UPLBのCPAfのジョーパイ・ディゾン教授、フィリピンのアジア・太平洋大学の経済学院のピター・ユ元学長、フィリピン大学ディリマン校の建築学部の都会設計ラボのマイク・トメルダン研究所長)と一緒に「持続的な共有型成長:みんなの故郷、みんなの幸福」を検討した。 問題提起として、僕は、なぜ持続可能共有型成長がフィリピンだけではなく世界に必要なのかを訴えた。これも母国の発展を振り返ってみる機会であった。(発表資料は下記リンクからご覧いただけます)   11日、UPLBの森林学部の森の中のキャンパスで行われた分科会で、僕は、フィリピン政府の要請で関わったR&D機関の研究について発表した。これはUPLB・CPAfの同僚であるジェング・レイエスとマイラ・ダビド先生との共同プロジェクトの結果であり、組織構築論を使って母国の発展についての問いかけである。長年共同研究を続けている平川均先生に招かれ、2019年12月に神奈川大学で日本語で発表したものの英語版である。実は、同じ時間帯に、ベスト・ペーパーを受賞した地域通貨についての共著論文と、地価税についての共著論文の発表もあったが、ジョン・ペレス先生とセサー・ルナ先生それそれに発表を任せた。   突然の日程変更があって、次のセッションの座長がダブル・ブッキングになってしまったが、ラクーン(元渥美奨学生)に救われた。狸(ラクーン)のパワーを今まで以上感じて心から感謝。日本、中国、韓国、台湾、モンゴル、ミャンマー、タイ、インドネシア、トルコ、イタリア、イギリス、ウクライナ、ナイジェリア、オーストラリア、コスタリカからわざわざフィリピンに集まってきてくださった仲間たちは、本当に心強かった。閉会式での「マ・キ・ト」コールは最高だった!   100年に1回の火山噴火に襲来されたマニラで開催した第5回アジア未来会議はとても大変だったと思うが、参加してくださった皆さんが少しでも楽しい思い出を作ってくださったのであれば幸いである。渥美財団の素早い対応は印象的で、ホテル延泊の一泊分を財団が負担したのは海外から一番早い災害援助であった。僕らもすごく安心した。   タール火山の祝福を受けたアジア未来会議の炎を台湾へお渡しします。   フィリピン大学ロスバニョス校(UPLB)撮影の写真   <フェルディナンド・マキト Ferdinand C. Maquito> SGRAフィリピン代表。SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学ロスバニョス校准教授。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師、アジア太平洋大学CRC研究顧問を経て現職。       2020年2月6日配信        
  • 2020.01.30

    エッセイ617:陳姿菁「フィリピンの一番美しい風景」

    フィリピンと言ったら、皆さんはどんなイメージでしょうか。マンゴ?パイナップル?英語は公用語?それとも出稼ぎの労働者でしょうか。今の私にとって、フィリピンと言ったら「優しい」という言葉が真っ先に頭に浮かびます。それは2020年1月12日のある出来事の実体験からの感想です。   2020年1月9日―13日にマニラで第5回アジア未来会議が開催されました。閉会の翌日に、恒例のスタディツアーが行われました。今回、私は5つのツアーの中でCツアーを選びました。   Cツアーを選んだのは、このコースは一人では行きにくいからこの機会を利用して、という単純な理由でした。   アジア未来会議の会場に着いて知り合いとおしゃべりをしていると、まだ迷っている人たちから何度も私のツアーの選択を聞かれました。そして、その後、何人もCツアーを選んでくれました。後で分かったのは、予定していたツアーを変えた人までいるほどでした。結局、Cツアーの3分の1から2分の1の参加者が私の影響で参加したようです。責任の重大さを感じました。   出発当日の朝「面白くないツアーだったら、あなたを火山に置いていくよ」と皆に冗談を言われましたが、その時は誰一人その後起きる事態を予想だにしていませんでした。   いざ出発し、目的地のタガイタイに向かいました。馴染みのない地名かもしれませんが、先日フィリピンで起きた自然災害のニュースの主役で、世界で一番小さい活火山と言われるタール火山の所在地です。   はい、その通り、Cツアーは火山を見学するツアーです。 1911年に噴火してから休眠している火山を見学しようとする私達でした。   Cツアーでは、まず火山を眺めるレストランでゆっくり昼食をとり、昼食後、火山を眺める展望台に向かい、写真撮影を楽しむというスケジュール。昼食の時には穏やかに見えた火山ですが、私たちが展望台に移動してから少しずつ変化を見せ始めました。   【展望台での会話】   私:ほらみて、あそこから煙が出始めましたよ! 参加者1:いや、あれは雲だよ 私:雲は下から出ないじゃないの、煙だよ! 参加者1:....   続いて、他の参加者に   私:ねえねえ、あそこから煙が出ているのが見える? 参加者2:あれは水蒸気だよ 私:...   さらに   私:徐先生、煙が大きくなっているわ、記念写真を撮りましょう。 徐先生:まあ、いいか、撮りましょう。   ベンチに腰を下ろして休んでいる徐先生が無理矢理私にひっぱられ、記念写真を撮りました(汗)。   その時には、私たちはまだその煙は日常茶飯事の出来事としか思っていません。   その次の観光スポット(お土産買うための場所)ではトイレ休憩だけにして、節約できた時間を使って火山の真正面から見えるスターバックスに寄りたいと皆が路線変更を要求しました。コーヒーがほしい人とグッドフォトを撮りたいという参加者の一致した要望です。   その時です!私は人生初の火山灰に降られました。 腕や服に、ぽつりぽつりと降ってきた雨らしきの跡がくっきり残っています。写真を撮っていたので携帯電話を指でなぞったら砂だらけ。しかし、当時はただ雨が汚いと思い、火山灰の意識はありませんでした。   次から次へと参加者たちが汚い格好で帰ってきて、皆は初めて火山灰だと気づきました。   しかし、まだ、日常茶飯事と思っている我々ツアーの参加者です。   そこからです。   バスの窓越しに見える煙は壮大な大きさになり、火山灰もひどく降ってきます。   その時はまだ予定変更通りに10ー15分ほどスターバックスに寄ると思っていました。   しかし、ガイドさんが「会社から早く戻るようにという指示があった」ということで帰ることになりました。面白い経験をシェアしたいので、火山から立ち上がった煙の写真を今西さんに送った直後のことです。   スターバックスを渋々断念し、帰ることにした私達の車の中に突然携帯電話の警報が鳴り始めました。3級から4級に警報のレベルが上がるにつれ、皆がやっと事の重大さに気づきました。これは冗談ではないと気づいた私たちは急いで帰ることにしました。   しかしながら、結局大渋滞に遭い、立ち往生状態に陥り、やむを得ず遠回りして、脇道から帰ることになりました。   そのときの出来事です。不思議な行動を目の当たりにしたのです。 近くの住民が集まり始め、何か情報交換している姿が見えました。晩ご飯後の世間話かなと思いきや、集まっていた人たちが一気にばらばらになって、通りかかる車にあるポーズをし始めます。   突然、私たちが乗っていたバスもスピードダウンしてその中の一人の前に止まりました。住民はバケツをもって水をフロントガラスに向けて撒いてくれ始めます。必死に掃除しても掃除しきれないほど火山灰が厚く積もったフロントガラスがやっと辛うじて前が見えるようになりました。   お金をどれぐらい取るかなと私は思っていましたが、なんとそのまま車は動き出し、走り続けました。   帰る途中、このような光景を何度も見ました。   あまりにも不思議なので、私は思わずフィリピン人のガイドさんにその行動の理由を聞きました。 お金でもなく、何かお返しをほしいということもない、フィリピン人が優しいからだそうです。   自分が逃げるのを後にして、通りかかる車を掃除してくれる住民の行動はフィリピンの最も暖かく、美しい風景だと思わせるワンシーン、第5回アジア未来会議で、一番私の心に刻み込む出来事でした。   <陳姿菁(ちん・しせい)Chen Tzu-Ching> SGRA会員。お茶の水女子大学人文科学博士。台湾教育部中国語教師資格、ACTFL(The American Council on the Teaching of Foreign Languages)のOPI ( Oral  Proficiency Interview)試験官(日本語)。台湾新学習指導要領(第二外国語)委員。開南大学副教授。専門は談話分析、日本語教育、中国語教育など。   ※フィリピンの火山噴火に関する他の参加者の報告を下記リンクよりご覧ください。   ランジャナさんの報告(フェイスブックより転載)   于暁飛さんの報告   陳エンさんの報告(フェイスブックより転載)       2020年1月30日配信
  • 2019.12.28

    エッセイ616:金弘渊「ふくしま雑感」

    福島に行ったのは今回が初めてではなかった。   最初は2012年の夏のボランティアだった。東日本大震災直後、予定していた日本留学を迷っていた私は、偶然、中国浙江大学の電子掲示板で福島への大学生ボランティア募集を見つけた。電話をしてみたら、それは慶応大学からの日本人留学生が自ら福島県庁に連絡を取りながら、中国で大学生を募集して福島に行く民間交流活動だった。6泊7日の間、観光もしながら、仮設住宅で村民たちと話したり、農業施設を見学したりした。一番印象的に残ったのは、若者の多くが県外へ避難したけども、そこに残っているおじいさんたちが意外に意志が強くて元気なことだった。   「また来ます!」と別れる時に言ったが、再び福島を訪ねたのは7年後になった。 2019年9月、ふくしまスタディツアーで福島県の飯舘村へ行った。大学時代は農学部だったので、農業に関心を持っており、多少の知識はある。事前に福島県の経済状況を調べてみると、製造業がメインで、全体的に見れば農業の貢献は多くを占めてはいないが、いくつかの農産品が有名だということが分かった。例えば、全国有数の桃の産地として「あかつき」をはじめいくつかの品種がよく知られており、また、隣県の新潟、山形、宮城産の米に比べても負けない米のブランドもいくつもあり、さらに国産牛として福島牛も有名らしく、確かに「赤べこ」という郷土玩具をあちこちで見かけた。   だが、原発事故以後、福島産の農産物は急に全世界から着目されることになった。外国の輸入禁止などのニュースを頻繁に見かける。福島県内の原発事故の影響を受けていない地域で作った農産物も、すべて「福島産」として風評被害を受けていると知った。中国では「好事不出門、壊事伝千里」という諺がある。つまり、良いことが起こっても感心する人は少ないが、悪いことが起こったら事態が飛ぶように広がるということだ。買い叩かれる福島の農産物も同様だ。今年の農林水産省の報告では、6品目の農産品における値段の推移が調査され、ピーマン以外の米、牛肉、桃、ヒラメなどの値段は震災後、徐々に平均に近づいてはいるものの、依然全国平均を下回っている。福島における農業の復興が直面する最大のチャレンジは、物理的な放射能汚染ではなく、偏見の目だ。   飯舘村の話に戻る。偏見による二次被害が農家の利益に損害を与えていることは既に明らかであるが、放射能汚染から健康への潜在的影響はまだ分からない。今でも目に見えないに放射線が、半減期の長いセシウムから出ている。このような放射線物質は原発事故直後に風に乗ってやってきて、飯舘村の土に固定している。今回は、線量計を持って村の中を移動しながら自分で測定した。確かに、空中より地面に近い方、泥水が溜まる場所、防風林の中では原発の方からの風に当たる場所の放射線量がはるかに高いことが分かった。福島では、生活と生産を再開するため、物理的に表層の土を除去する除染作業を行なってきている。これに関して様々な報告があった。汚染土を深く地下に埋め込む提案があったが、結局は埋め立て選定地の大反対で実現しなかったという報告、あるいは、汚染土を再利用して道路の盛り土として新設道路に使う政府の計画などだ。しかしながら、汚染土の処理はいまだに良い解決方法がなさそうで、ただ丈夫なビニール袋に包んで、一時的にほぼ露天の状態で保存しているところが多い。   スタディツアーの2、3週間後、飯舘村も大きな台風19号に襲われ、大雨のために崖が崩れて汚染土の流失が問題になった。汚染水の流出のニュースを見たとき、心の中に非常に複雑な思いを抱いた。汚染水と汚染土は「熱すぎる芋のように、誰も触りたくない」と感じている。外国人の私は傍観者のように見ることしかできないという無力感が湧いてきた。   幸いなことに飯舘村の村民たちの顔を見た時に、その精神の強さ、心の強靭さにすごく感銘を受けた。もちろん多くの元村民たちが、7年の避難生活を経て帰らずに都市部に残ることは理解できる。だから避難指示を解除した後また帰ってきて生活し続ける村民たちを尊敬する。多くのNPOの方々が飯舘村の将来のために頑張る姿を見て、多種多様な生き方があると感心し、思い出に残る旅となった。   自然がいっぱいある飯舘村で、村民たちが飼い始めた子牛をたくさん見た。復興がさらに進んで、今度福島に行く時には、美味しい飯舘牛が味わえるようになっていることを祈る。   参考資料 「平成30年度福島県産農産物等流通実態調査」、農林水産省、平成31年3月   英語版はこちら   金撮影スタディツアーの写真   <金弘渊(きん・こうえん)Jin_Hongyuan> 渥美国際財団2019年度奨学生。中国杭州生まれ杭州育ち。中国浙江大学応用生物科学卒業、東京大学大学院新領域創成科学研究科先端生命科学専攻博士(生命科学)修了。現在、東京大学先端生命科学専攻特任研究員。専門は進化発生学、進化ゲノム学、遺伝学。特に、「昆虫の擬態現象」を着目し、アゲハチョウの色素合成と紋様形成の分子機構及び進化過程を中心に研究中。   ※参考 楊チュンティン「第8回ふくしまスタディツアー『ふるさとの再生』報告」 江永博「1年4ヶ月ぶりに、私は『ふくしま』に帰った」 謝蘇杭「繋がりの中で『創発』する新しい文化」     2019年12月28日配信  
  • 2019.12.19

    エッセイ615:謝蘇杭「繋がりの中で『創発』する新しい文化」

    2019年9月23日、私は東北新幹線やまびこ50号でSGRAふくしまスタディツアーからの帰途につきました。これは私にとっての人生初の新幹線でもあり、同時に人生初の福島旅行でもありました。新幹線の座席でツアーの「栞」と先輩方の感想文を読みながら、私はこの3日間を過ごした飯舘村での様々な経験の一つ一つを思い返していました。   一番印象に残ったのは2日目の夜の「お国自慢料理パーティー」でした。私は同行した金弘渊さんとコンビを組み、中国代表チームを結成しました。料理上手の金さんがシェフ、私はその助手を務めました。助手ながらも、渥美財団の角田事務局長が道の駅で中国では鎮痛剤として広く使われている「雲南百薬」を発見したことをきっかけに、私も本草学研究者として、金さんの考えた献立に、この「雲南百薬」を素材とした料理を一品加えさせていただきました。料理自体は「ニラとたまごいため」の手順に「雲南百薬」を加えた簡単なものでしたが、料理の薬効を紹介し、金さんの作った献立のオマケとして提供すると、来場した方々が興味を持って下さり、「雲南百薬とたまご炒め」と名付けられて、好評を博し、かなり早い時期に皿が空となったので、本草学研究者として大変嬉しく思いました。   懇親会では、ツアー参加者が作った各国の自慢料理を一緒に食べながら、暖かい雰囲気の中で村の皆さんと歓談することができました。歓談の後、村の方々に教えてもらい、私達も一緒になって盆踊りを踊りました。その光景を見て、この村はまだまだ活気が溢れているとしみじみ感じました。ここに居合わせた人数は数十人に過ぎないかもしれませんが、ツアー参加者と村の方々が手を繋いで作った、リズムに合わせて回っていく「輪」は、やがてより大きな輪となって、飯舘村を再生していくのではないか、私の目にはそのような「輪」に見えていたのです。   私の研究分野は日本近世本草学です。日本の近世本草学は、東アジアの中だけではなく、同時期のヨーロッパの西洋博物学と比べてみても、ユニークな存在です。西洋博物学は、自然の中に存在する全ての動植物を、表象化し分節化していくプロセスを経て、最終的に一つの体系を持つ学問として成立しました。一方、日本の近世本草学は、社会の動態的枠組みの中で、文化的・経済的・政治的な諸要素と関わりながら発展した「関係と変化の学問」です。学問を媒介にして、多様な要素が相互作用することによって、社会全体が変化し、新たな社会の特質を産み出すことがあり、それは「創発現象」と呼ばれています。近世日本の本草学は「関係のネットワーク」の中で、人と自然・社会の繋がりの媒介として、さまざまな文化的現象を「創発」したのです。   今回のスタディツアーで、折にふれて私が飯舘村で感じた人と人、人と自然の「繋がり」は、まさに近世日本における本草学の基底に存在した、人と自然・社会の繋がりそのもののように思いました。例えば、東京の大学と連携して行われた飯舘村における芸術文化の復興活動は、しっかりと飯舘村の地形・風土などの特色を考慮に入れた上で展開されています。また、村の方々が開発した除染方法も、環境省が組織した政府の除染作業と異なり、現地の生態環境と農地状況を把握した上で、みんなが連携をとって、細やかに土地の実情に即して作業を行っているように見受けられました。このように「繋がり」を大切にしている地域では、きっとまた「創発現象」が起きるに違いなく、かつて原発事故によって大きな損害を被った飯舘村の文化的・社会的・経済的秩序基盤は、それらの繋がりによって形成された「関係のネットワーク」を通して、地域社会の様々な関係性の新しいバランスを構築しつつ、再生されていくことでしょう。   このツアーの終了後、程なくして、思いもかけず「ふくしま再生の会」の田尾陽一理事長からメールをいただきました。田尾さんは、飯舘村の山津見神社の庭先で、たまたまセンブリやオトギリソウなどの薬草が生えているのを見て、それらの薬効や、人工栽培法、経済的価値などについての情報を私に尋ねてきたのでした。私は、すぐに、栽培法に関する論文や中国の農村での栽培例などの情報を収集して、田尾さんに返事をしました。そして同時に、田尾さんの飯舘村復興に対する情熱に改めて感心しました。田尾さんと村の方々のように、常に人と人、人と自然の繋がりを念頭において、村の再生を図る方々がいらっしゃるなら、飯舘村の再生は、それほど遠い未来を待つまでもなく実現するように思えました。私の本草学に対する研究も、飯舘村の再生のためにほんのわずかでもお役に立てるものになればとの思いを新たにしました。   <謝蘇杭(しゃ・そこう)Xie_Suhang> 渥美国際交流財団2019年度奨学生。中国浙江省杭州市出身。2014年江西科技師範大学薬学部製薬工程専攻卒業。2017年浙江工商大学東方語言文化学院・日本語言語文学専攻日本歴史文化コースにて修士号取得。現在千葉大学人文公共学府歴史学コース博士後期課程在籍中。研究分野は日本近世史、特に日本近世における本草学およびそれと関連した近世社会の文化的、経済的現象に注目している。「実学視点下の近世本草学の系譜学的研究」を題目に博士論文の完成を目指す。   楊チュンティンさんのふくしまツアー報告 江永博さんのふくしまツアー感想     2019年12月19日配信  
  • 2019.12.12

    エッセイ614:江永博「1年4ヶ月ぶりに、私は『ふくしま』に帰った」

    2018年5月に私はふくしまスタディツアーの参加者として、初めて「ふくしま」を訪ねた。そして、2019年9月21日に1年4ヶ月ぶりに「ふくしま」に帰った。なぜ、台湾出身の私は再び「ふくしま」の土を踏んだか。「ふくしま」の豊かな自然・素晴らしい景色と「復興」のために頑張っている人々とまた会いたい気持ちが1番の理由と言えるであろう。次に、原発問題と再生エネルギー資源に如何に立ち向かうべきかという課題を抱えている点も共感できる。台湾も同じ課題を抱えているため、「ふくしま」のことを他人事とは思えず、今年も「ふくしま」に帰った。今年のツアーの詳細については、楊淳婷さんが報告されたので、私は今回のツアーで感じた1年4ヶ月の変化について述べてみたい。   最初は今回初めて訪ねた東京電力廃炉資料館。私は大学院在学中、学芸員の資格を取り、博物館などの展示に携わった経験がある。今まで見てきた展示と比べて、廃炉資料館は最新の技術を導入し、そのデジタル展示が非常に印象的であった。例えば、シアターホールで上映された地震発生当時の映像、現在のロボットによる原子炉建屋内での作業状況の映像などがあり、とても分かりやすい展示である。   また、解説の中で、謝罪の言葉が繰り返され、「事故の記憶と記録を残し、二度とこのような事故を起こさないための反省と教訓を社内外に伝承すること」が「果たすべき責任の一つ」と主張されている。事故の原因として安全対策を過信したと説明したが、責任の所在については言及されなかった。あの時どのように対応すれば悲劇を回避できたか、同じような状況が発生したら如何に対応すべきかなど、具体的な内容には触れなかった。そのため、謝罪の言葉も果たすべき責任も公式的な立場からの形式的な発言のように聞こえたことは否めないが、全ての起源である原発事故について、勉強できたことに意味があると思う。そして、資料館を後にしてからの飯舘村での3日間で、私は前回のツアーと異なる飯舘村を感じ取ることができた。   まず、取り上げなければならないのは「風と土の家」(以下「家」と略す)である。前回のツアーの宿泊施設と懇親会会場は、パートナーの「ふくしま再生の会」(以下「再生の会」と略す)が借りていた霊山センター(元霊山トレーニングセンター)であり、オリエンテーションと語り合いなどは「再生の会」の事務所で行われたが、今回は今年3月に竣工された「家」が中心であり、「家」は飯舘村に訪ねてきた人々に宿泊やオリエンテーションの場所を提供し、村民と来訪者との交流の場であり、普段は村民同士の憩いの場でもある。昭和生まれの私にとって、昭和的な雰囲気がある霊山センターの施設もとても良かったが、「再生の会」にとって、「家」の完成は、仮設住宅から新しい「マイホーム」を作り上げたような画期的な意味を持ち、非常に大きな一歩であった。   実際、「家」で「再生の会」の田尾理事長・東京大学農学生命科学研究科の教授であり、副理事長でもある溝口先生・東京芸術大学学生チームの矢野さんのオリエンテーショを受けてから、現地に向かって、自分の目と体で確かめるという流れは非常に効果があり、「ハードウェア」の設備の完成に伴い、「ソフトウェア」いわゆる様々なプロジェクトへの取り組みもより一層深めることができるようになったと見受けた。各ブロジェクトについては、楊さんの『報告』を参照されたい。   次に、街の風景について、簡単に触れておきたい。昨年の『報告』で取り上げたメガソーラーは、変わらず秩序正しく、綺麗に並んでいて、まるで田んぼの上に海ができたような壮観な景色ではあるが、日本でもっとも美しい村の一つとして選ばれた飯舘村にとって、果たしてプラスになる存在であろうか。政府による電力の固定価格買い取り制度の抜本的見直しに伴って、改めて考える必要があるのではないであろうか。そして、メガソーラーと同じように壮観だった黒いピラミッド=フレコンバッグの山は中間処理場か長泥地区に撤去されたため、少しずつではあるが、景観は回復しつつある。とても喜ばしいことのはずであるが、実はその背後にあるジレンマが潜んでいる。それは、フレコンバッグが撤去されたため、置き場として今まで支払われてきた補助金が支給されなくなったということであった。   生活するために、経済的なことを考えなければならないのはある意味で当たり前のことであり、誰でも異論がないだろう。然るに、経済を少し犠牲にしても、守る価値があることがたくさんあると思う。上述した自然景観はその一つであるが、私は歴史研究者の端くれとして、是非守っていただきたいのは旧佐須小学校・体育館である。現在史跡として大切に保存されているものは、全て最初から価値があると認識されていたわけではなかった。どのような時代でも保存に携わる活動は、「そんなものを残す価値がない」と「そんなものに回す経費がない」との戦いである。国の文化財として指定されなくても、地域にとって、その歴史と文化を代表できるような存在であれば、守る必要が、否守らなければならないと思う。   最後に11月4日に「再生の会」の田尾理事長がフェイスブックにあげた2枚の写真を紹介したい。1枚目は現在の飯舘村佐須峠であり、2枚目は電力会社に協力して数年後に建設する送電線の想定合成写真である。飯舘村と地権者はすでに送電線の受け入れを決めたという。楊さんの『報告』でも言及されたように、現在村民たちは必ずしも一枚岩ではない。田尾さんのように新しく移住した人は「外部の人」扱いされているということもある。しかし、2枚の写真を見て、私は受け入れを決めた「内部の人」の方々に、飯舘村のために一番守るべきものは何であろうか、子孫に残すべきものは何であろうと問いかけたい。これからも、「ふくしま」に帰る時に、豊かな自然と素晴らしい景色が見られるよう、心より祈っている。   <江永博(こう・えいはく) CHINAG_Yung_Po> 渥美国際交流財団2018年度奨学生。台湾出身。東呉大学歴史学科・日本語学科卒業。2011年早稲田大学文学研究科日本史学コースにて修士号取得。2019年4月から一般企業で働きながら、研究生として早稲田大学文学研究科日本史学コースに在籍、「台湾総督府の文化政策と植民地台湾における歴史文化」を題目に博士論文の完成を目指す。早稲田大学東アジア法研究所RA。専門は日本近現代史、植民地時期台湾史。   英語版はこちら   2019年12月12日配信
  • 2019.12.05

    エッセイ613:謝志海「海外で見た公の場での喧嘩」

    この夏休みは仕事で2回海外に行って来た。今回は空港とホテルの間を除き、全ての移動は現地の公共交通手段を利用した。そのおかげで、ずいぶん色々と現地の風習や社会事情を観察することができた。その1つに、私にとっては久しぶりに、公の場で喧嘩を見ることになった。   まずは9月上旬、勤務先の大学の学生を連れハワイに行った先でのこと。学生たちとバスに乗りハワイ大学へ向かっている時、バスで若い女性と年輩の女性の口喧嘩を見る。年輩の女性は杖をついていて見るからに体が弱そうだった。バスの中でずっと運転席の傍らに立ち、心配そうに自分の降りる停留所を確認していたようだ。途中でちょっとやんちゃそうな若い女性が乗って来て、奥に入ろうとした時に、そのおばあちゃんとぶつかったようだ。おばあちゃんは怒りだし、若い女性と口論になった。喧嘩はすぐにエスカレートし、お互いに汚いことばで罵倒し合う状態となった。若い女性の方もだんだん激しくヤジを飛ばし、とうとうおばあちゃんをかばう乗客との間とでも喧嘩を始める始末。おばあちゃんが降車しても、若い女性がついて降り喧嘩を続けるようだった。それを見た運転手はバスを停め、電話で警察に通報した。日本人の学生たちもみな驚きながら見ていたのは言うまでもない。   所変わって私の母国中国の広州、9月下旬に研究出張に行った時のこと。地下鉄内で若い女性と年輩の女性の喧嘩を見た。中国の風物詩とも言える。地下鉄マナーの悪さはすでに広く知られたことだが、ドアが開いたとたんに、降りる人より乗る人が先に乗車したり、その勢いで座席を取り合ったりすることが普通に起こっている。今回も例に漏れず、席取りにまつわる喧嘩であった。若い女性は旦那さんと小さな子どもの3人家族で、年輩の女性は老夫婦で電車に乗ってきた。その若い母親と年輩の女性の間で座席の奪い合いが起きたようだった。年輩の女性は、若い女性に噛みつき、今時の若い人は年輩者を尊敬しないとしつこく罵倒していた。若い母親の旦那さんが何度もお詫びをしても、叱責はなかなか終わらず、その母親は一人で車両内の少し離れた場所へ行った。近くに立っていた私を含め、多くの乗客が仲裁しようとしても、年輩の女性の怒りは収まらず。最終的に、地下鉄の警備員が来て、やっと事態が収まった。   実は私も2009年の夏に日本での2年間の留学を終え、久しぶりに中国に帰国した際、人と喧嘩しそうになった経験がある。当時の私は、歩行者優先の日本にすっかり慣れており、歩いている時に突然発進してきた車に驚き、大声で苦情を言ったら、その車は突然停まって、窓から「お前を殴るぞ!」と暴言を吐かれた。私は怖くて逃げた。   思えば、これらの喧嘩のきっかけはほとんど空間についての争いである。動物がなわばりをめぐって争うように、人間は空間をめぐり争う。そして、国レベルでは、領土や領海という空間をめぐって紛争が起きる。これもまた国際政治においては、普遍の現象である。動物同士、人間同士や国同士の間の喧嘩にはこのような空間をめぐっての共通点がある。   私が常に不思議に思うのは、こういった公の場での喧嘩は、日本国内ではあまり見られない。しかし実際は日本の方が空間が狭く、喧嘩になりやすいはずだが、実際は違い、喧嘩どころか、日本では人とぶつかることすら少ない。電車やバスに乗る時、いつも周りの空間に気を配りながら座る。隣の人と少しでもぶつかったらすぐさま「すみません」と言い合う。たとえ満員電車でも押し合うことはほとんどない。これほどマナー良く空間をシェアするから喧嘩にならないのであろうか。   日本では当たり前のことだが、ひとたび海外へ出てみると、そうとも限らない。これも私の学生たちがハワイで学んだことの1つであろう。   <謝志海(しゃ・しかい)Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学准教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師を経て、2017年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2019年12月5日配信