Asia Cultural Dialogue

  • 2020.03.19

    エッセイ624:平川均「社会倫理とグローバル経済:円卓会議『東南アジア文化/宗教間の対話』に参加して」

    2020年1月、第5回アジア未来会議の円卓会議「東南アジア文化/宗教間の対話」がアラバン・ベルニューホテル(マニラ)とフィリピン大学ロスバニョス校を会場にして2日間にわたって行われた。テーマは「社会倫理とグローバル経済」。アジア経済が私の研究対象であり、発展途上経済、最近では新興経済と呼ばれる地域の経済発展に関心を持っていることもあり、円卓会議開催の趣旨説明を行った。そのため、特に円卓会議に参加する中で考えたこと、感じたことを述べることにしたい。   残念なことに私自身の語学力に加えて宗教や東南アジア社会に対する知識不足が加わり、その理解は限られている。そのため、会議の内容の紹介にはなっていない。これについては司会の労を取って下さった小川忠・跡見学園女子大学教授の報告で確認していただきたい。私自身も今後、記録が出された段階で、改めて経済学と宗教や社会倫理との関係について考えを深めたいと思う。   さて、本円卓会議を設けることの趣旨に関わって、私自身は、経済学が今日、発展途上社会に多大な影響を与えているにも拘らず、その社会への配慮が極めて不十分であると感じてきた。2001年のノーベル経済学賞の受賞者のジョセフ・スティグリッツ教授は、経済学を学ぶ学生の経済行動に関する公正の認識が一般の人々と掛け離れたものであることを、彼の同僚のシカゴ大学の経済学者リチャード・セーラー教授の経験を紹介する形で述べている。それによると、嵐の後に雪かき用シャベルの価格設定に関する調査で、値上げをアンフェアと考える回答が、一般の人々では82%であるのに対して、同大MBA受講生では24%に過ぎなかった。経済学の学生のフェアの認識は社会的なそれとは大きく異なっているのである。実際こうした事例は、現在進行中の新型コロナウイルス感染禍にあってマスクを高値販売する行為として身近で起こっている。スティグリッツ教授はまたアメリカ社会の所得格差の拡大で、富裕層と政治家の結託だけでなく経済学が一役買ってきたことを鋭く批判している。   経済学が社会問題に関心が薄い、あるいは利己的であるという問題提起に関しては、円卓会議の基調講演者であるバーナード・M・ヴィレガス・アジア太平洋大学副学長が言及した。ヴィレガス教授は経済学博士号を有する教育者として半世紀の経験に基づいて、経済学が過度の細分化と数量化を進めてきたこと、また経済学が経済現象の分析で数式の優雅さを競い、市場の自立性を強調し、正義や人間の社会的責任、そして国家の規制への配慮などを排除してきたことを客観的批判的に総括された。同時に、経済学は「社会科学」であるとして、フィリピンの貧困問題の解決のために諸科学の成果を採り入れて経済学教育を実践されてこられたことを説得的に述べられた。   フィリピンにおける貧困の女性化を扱われたフィリピンの聖スコラスティカ大学のシスター・メアリー・ジョン・マナンザン女史のご報告、タイにおける仏教の社会倫理認識とグローバリゼーションを報告された社会参画仏教ネットワークのソンブーン・チュンプランプリー氏の報告、そしてインドネシアにおけるイスラム運動の最新情報を報告されたシャリフ・ヒダヤツラ―州イスラム大学のジャムハリ・シスワント大学院長の報告は、いずれも東南アジアの宗教者の現在の課題を取り上げられた。   それらを聴きながら、私の知る経済学はそれらに真に応えられるのだろうかとの問いが浮かんでは消え、消えては浮かんだ。宗教者の社会活動は生身の人間を対象にしている。人々が様々な環境や条件の中で絶対的貧困や性差別を含む様々な差別と闘っていることに直接に関わっている。東南アジアの社会活動の多くが、貧困や性差別からの解放に向けられている。   考えてみるに、経済学は社会を明らかに異なる視点から捉えている。経済学は、複雑な社会関係を単純な抽象的市場のモデルで表し、その市場を通じて社会が「効率」を最大化できると捉える。ここでの市場は、理念と現実の区別を曖昧なままに社会を同一視している。その上、現在主流の経済学では、数学的モデルを通じて現実の社会が捉えられ、それ以外の社会科学は排除されている。もちろん経済学は現在大きく発展し、現実に近づくために様々なモデルが作られている。原理的なモデルは修正されている。   だが、こうした経済学が発展途上世界に適用されるとき、果たしてどうだろうか。開発の処方箋を書き上げる経済学者は発展途上社会に関する知識をほとんど持っておらず、そうして作られた処方箋が先進国や国際開発機関を通じて政策とされている。結局、そうしたモデルは単純な市場モデル、つまり原理的なモデルに依拠する政策でしかなかったと言えるだろう。政策が失敗する場合は、その原因は発展途上社会それ自体の中に求められてきた。1997年のアジア通貨危機への対応が好例である。   経済学では、あえて言えば経済と社会の区別はないように私には思える。経済のグローバル化の中で経済学は発展途上地域の開発に関わり、発展途上諸国に自由化、民営化を強制してきた。そのことで起こる様々な矛盾は弱者に押し付けられてきた。   話が少し飛躍するが、2008年のアメリカのサブプライムローン危機に発する世界金融危機、そして2017年のアメリカのトランプ大統領の誕生は、新自由主義経済学が推し進めてきた政策の失敗の帰結の面があるように思われる。また、成功するはずがないと思われた共産党政権下の中国が、驚異的な発展・成長を達成したことは痛烈な皮肉である。それは主流派経済学への現実社会の反撃と捉えられるのではないか。あらゆる社会にはルールが必要である。だが、過去半世紀の経済学はそれを規制と捉えることで社会のルールを壊し所得格差を拡大させ、社会的分断を深め、経済と社会を劣化させてきた。その付けがアメリカの外と内の両方における民主主義の危機なのではないか。   円卓会議で、私が経済学は抽象的な「モデル」を前提として厚生を考えていると発言した時、シスター・マナンザン女史が辟易とした表情を見せた。そのように私には感じられ、鋭く心に突き刺さった。   「経済学は科学である」という言葉も頭に浮かぶ。だが、社会科学としての経済学は抽象的モデルの現実社会への適用に関しては、自制的でなければならないし、諸科学との協力・協調の中で政策が作りだされなければならないのではないか。経済学がどれだけ学問的な優位性を主張しても、それだけでは独断であり傲慢でしかない。国際開発、貧困開発では自制的態度が、今まで以上に切実なものとして求められているのではないか。   経済学は確かに部分的、局所的分析、政策では有効性を持つ。それは間違いない。しかし、発展途上社会に適用しようとする時には、とりわけ慎重さ、自制が求められる。アジア通貨危機の頃だったと思うが、経済学者が発展途上国の歴史や社会を学ぶことは政策決定で判断を曇らせると、かつてある著名なアメリカの経済学者が語ったとの逸話を思い出す。経済学は現在、発展途上経済の開発に大きな影響力を持つ。経済学を学ぶ者は社会や歴史について真剣に学ぶ必要がある。2日間の円卓会議の場に身を置いて、社会との関係について考えさせられた。今後も両者の関係と持続可能な共有型成長について考えていきたいと思う。   最後に、このような円卓会議の開催は、私には経済学と宗教を考える貴重な契機となった。基調講演をお引き受け下さったビリエガス教授はじめ、報告者と参加者の皆様、開催と運営にあたって司会の小川忠教授、ランジャナ・ムコパティヤヤ博士、プロジェクトコーディネーターのブレンダ・テネグラ博士、フェルデイナンド・C・マキト博士、そして私の通訳もしてくれたソンヤ・デール博士ほか関係者すべての皆様に感謝を申し上げたい。   英語版はこちら   <平川均(ひらかわひとし)HIRAKAWA_Hitoshi> 京都大学博士(経済学)。東京経済大学等を経て、名古屋大学大学院経済学研究科教授/同国際経済動態センター長を歴任。現在、名古屋大学名誉教授、浙江越秀外国語学院特任教授、国士舘大学客員教授。渥美国際交流財団理事。主要著書に、平川均・石川幸一ほか共編『一帯一路の政治経済学』文眞堂、2019年、「グローバリゼーションと後退する民主化―アジア新興国に注目して」山本博史編『アジアにおける民主主義と経済発展』文眞堂、2019年、ほか。   ※円卓会議『東南アジア文化/宗教間の対話』の報告は下記もご覧ください。 ◇小川忠「経済学と宗教実践―壁を乗り越える試み」   2020年3月19日配信
  • 2020.03.12

    エッセイ623:小川忠「経済学と宗教実践―壁を乗り越える試み:円卓討議『東南アジア文化/宗教間の対話』に参加して」

    第5回アジア未来会議の円卓討議B「東南アジア文化/宗教間の対話」の表題は「宗教は市場経済の暴虐を止められるか」というものだった。いささか粗削りなテーマ設定ではある。今日の世界が置かれている政治状況は、この一文で表現できるほど単純なものではない。それでも国際協調の精神が危機に瀕している今だからこそ、経済学、政治学、文化人類学、宗教学という専門の垣根を越えて集まり、世界が抱えている問題について議論することが必要である。そして行動が必要である。   まさに単刀直入に、会議冒頭で名古屋大学の平川均名誉教授が、そういう問題提起を行った。東南アジアは数十年わたり驚異的な経済発展を遂げ、貧困を削減し膨大な中間層を創出してきた。しかし強い光は、深い闇をも生む。こうした発展は、グローバル資本主義に一層組み込まれることを意味し、経済成長の果実を享受できる者と享受できない者との格差を拡げ、深刻な環境破壊をもたらした。   「グローバル資本主義が行き詰まりを見せるなか、明日を切り開くカギが過去に隠れているのではないか」「もう一度、アジア各地で息づいてきた宗教、伝統文化のなかに、新たな経済のかたちを考えるヒントがあるのではないか」「タコつぼ化した専門分野の壁を乗り越え、全体知の復権を構想しよう」と平川氏は参加者に呼びかけた。経済学の権威が、今日の経済学の限界をこれだけ率直に語るのは衝撃的であり、その誠実な問いかけは、各参加者の胸に深く届いたと確信する。   平川氏に続いて、基調講演を行ったのはフィリピン歴代大統領の経済顧問を務めてきたフィリピンを代表する経済学者、アジア太平洋大学のバーナード・ヴィレガス教授である。ヴィレガス氏は、国際間の貧富格差、そして一国内で広がる貧富格差、公職にあるものの汚職、ビジネスリーダーたちの社会貢献意識の低さを問題視した。政財界の指導者たちが、人々の公益をかえりみることなく、利潤を追求するのみでは社会的紐帯は成り立たないことを指摘した。他方、消費者も、自分の消費行動が地球環境にどのような影響を及ぼしているのかを考える想像力をもつべきと訴えた。   つまり健全な経済には社会倫理が不可欠であり、そうした社会倫理の土台となるのが、宗教や文化的価値観なのである。ヴィレガス氏の講演を聴いて思い浮かんだのは、渋沢栄一の道徳経済合一論である。   今から100年ほど前に、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は著書『論語と算盤』のなかで、利益は独占するものではなく、社会に還元すべきものであると説き、「富を為す根源は仁義道徳」と論じていた。あらためて『論語と算盤』をアジアの人々と一緒に読み直し、語り合いたいと感じた。   経済学の限界、新自由主義経済の閉塞状況に関する、平川・ヴィレガス両経済専門家の問題提起を受けるかたちで、世界の三大宗教(仏教、イスラム教、キリスト教)を基盤に社会的に行動し続けている知識人3人が、それぞれの立場からの発表を行った。   最初のプレゼンテーションは、フィリピンのシスター・メアリー・マナンザンである。彼女はマニラのベネディクト派女子修道院の院長にして、フェミニスト市民活動家でもある。シスターは「女性の貧困」に焦点をあて、フィリピンにおける女性の貧困の原因として、不平等な利益分配、土地と資本所有の不平等、外国資本の経済支配等をあげ、男性以上に女性のほうが、寿命・健康・教育・生活水準・政治参加等の面で抑圧的環境に置かれていることを指摘した。そのうえで、伝統的な教会の家父長的・西洋優越主義的イデオロギーが女性に屈従を強いてきた、と既存の教会のあり方を手厳しく批判した。そのうえで、女性の置かれている状況を変えていくためには、経済的な支援のみならず、ジェンダー平等の観点から女性を精神的に解放し、自己肯定感を持たせていくことが大切で、そこに宗教が果たすべき役割があるという。   次に発表したのは、タイの仏教に根差した平和・人権市民活動家のソンブン・チュンプランプリー氏である。仏教NGO「関与する仏教(社会参加仏教)」国際ネットワークの専務理事を務め、タイ、ラオス、カンボジア、ミャンマーでの草の根市民運動を組織している。   21世紀に入ってタイの政治は、タクシン派と反タクシン派の対立が民主主義を機能不全に陥らせ、軍政支配の復活を招きいれてしまった。分断はタイ国民の多くが信仰する仏教にまで及んでいる。仏教は、本来は暴力を戒める平和な宗教とみられているが、仏敵を倒すためには暴力行使も是とする過激僧がアジアの仏教界に現れ、物議をかもしている。   ソンブン氏は、ブッダが説いた「中道」の教えに立ち返り、過激を排し、貪欲と憎悪を捨て去ることが、現代の仏教徒に求められていると述べた。市場経済の暴走をくいとめる知恵もブッダが説いた価値のなかにあり、それは自立、自分と社会との調和、小規模な自給生活、自然との共生、瞑想、我執の消滅といったものである。「関与する仏教(社会参加仏教)」とは、このような価値に基づいて、人権抑圧、経済搾取、自然破壊に異議を唱え、人間の苦の根本にある強欲、敵意、無知に向き合うことを目指す実践的な仏教のあり方を指す。   ソンブン氏らの「関与する仏教(社会参加仏教)」は、今日の世界が置かれている状況に照らした仏教教義の創造的解釈といえよう。   インドネシア国立イスラム大学ジャカルタ校のジャムハリ副学長は、世界最大のイスラム教徒人口を擁する多宗教国家インドネシアにおいて、多数派のイスラム教徒が次第に少数派への寛容性を失い、少数派へのハラスメントを増大させている状況に警鐘を鳴らす報告を行った。同大学付属機関「イスラムと社会研究センター」が2017年に全国2000人を超える高校生・大学生・教員を対象に行った調査によれば、回答者の34%が少数派宗教への差別を是とし、23%が自爆テロを聖戦(ジハード)として許容すると答えたという。   インドネシアは21世紀半ばから高い経済成長率を維持し、今や国民の半数以上が中間層となった。中間層の拡大とともに、学歴社会化、デジタル社会化も進んでいる。先のアンケートに答えた高校生、大学生はインドネシア経済の躍進が生んだ新中間層の申し子ともいうべき存在である。都市部の、高学歴の中間層の若者が、なぜ他者への寛容性を失い、一部過激化するのか。これは、インドネシアだけでなく先進国の民主主義も、同じ問題に直面している。   ジャムハリ氏は、その理由の一つとして、経済発展とグローバリゼーションの加速化による伝統的な地縁・血縁社会の弱体化、共同体から放り出され厳しい競争にさらされている個人のアイデンティティー不安の問題を挙げた。   翌日、私がモデレーターをつとめた分科会セッションでは、宗教・倫理と経済の調和を図る試み、ケーススタディー報告を参加者にお願いした。前述したタイのソンブン氏は、仏教内部の寛容派と非寛容派の亀裂が深刻化するなかで、仏教内部の対話の重要性を指摘し、非寛容派仏教リーダーとの対話例を紹介してくれた。   フィリピン大学ロス・バニョス校で農業・応用経済を教えるジーニィ・ラピナ助教授はリベリア、ブルンジ、スーダンでUNDPの農村開発プロジェクトに携わってきた実践経験をもつ。彼によれば、農村開発において、その土地の文化・宗教を考慮に入れる必要があり、部族ごとのアイデンティティーに細分化され、時にそれが反目しあうなかで、対峙する共同体が共に利益を分かちあう共通インフラを作ることが、敵対意識軽減に効果的であると説明した。   インドネシア国立イスラム大学ジャカルタ校教員で歴史研究者アムリア・ファウジアは、社会的弱者への短期的な救援・支援を指す慈善(チャリティー)と長期的な自立を促すフィランソロピーの違いを論じ、インドネシア・イスラームには慈善とフィランソロピー両方の伝統が存在することを説明した。彼女によれば、インドネシア・イスラームにおいて活発なフィランソロピー活動が行われており、それが社会のセーフティ・ネットになっているという。一例として、私有財産を放棄し公益に資するためにモスク等に寄進し基金とする「ワクフ」と呼ばれる、欧米の財団制度に似たイスラム公益制度がある。アムリア氏は、インドネシアのワクフの全体像を描いた優れた論文を発表している。   最後に印象に残ったコメントを書きとめておきたい。冷戦時代、半世紀に渡り共産主義と戦ってきた、資本主義の牙城アメリカにおいて、近年共産主義・社会主義になびく若者が増えているという。「共産主義は死んだのか」とベレガス教授に聞いてみた。彼の答えは、「経済理論としての共産主義の命脈は尽きた。しかし社会的弱者への視線、公平・公正な利益分配というイデオロギーとしての共産主義は、依然として顧みる価値がある。」   共産主義は宗教を否定するといわれるが、階級のない平等な世界というユートピアを設定する共産主義は、それ自体が宗教的でもある。「人はパンのみにて生きるにあらず。」極度に数式化、理論化した経済学が行き詰まりを見せるなかで、宗教の復権現象が世界中で起きているのは、別個の現象に見えて、地下水脈のようにつながっているような気がする。   円卓会議の写真   <小川 忠(おがわ・ただし)OGAWA_Tadashi> 2012年早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士。1982年から2017年まで35年間、国際交流基金に勤務し、ニューデリー事務所長、東南アジア総局長(ジャカルタ)、企画部長などを歴任。2017年4月から跡見学園女子大学文学部教授。専門は国際文化交流論、アジア地域研究。 主な著作に『ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭 軋むインド』(NTT出版)2000、『原理主義とは何か 米国、中東から日本まで』(講談社現代新書)2003、『テロと救済の原理主義』(新潮選書)2007、『インドネシア・イスラーム大国の変貌』(新潮選書)2016等。     2020年3月12日配信
  • 2019.09.05

    金弘渊「第12回SGRAカフェ『「混血」と「日本人」:ハーフ・ダブル・ミックスの社会史』報告」

    2019年7月27日、第12回SGRAカフェが開催された。午後の蒸し暑い坂道を登り、たどり着いた鹿島新館には、予想以上に多くの人が集まっていた。今回のテーマは『「混血」と「日本人」:ハーフ・ダブル・ミックスの社会史』であり、発表者は上智大学の下地ローレンス吉孝先生だ。私は大学時代からずっと生物についてばかり勉強してきたので、文系世界は門外漢であり、こんな真面目な社会学セミナーの参加は初めてで正直なところ最初は不安だった。   でもその不安はすぐに解けた。皆さん普通に私服でお越しになっていたし(日本で参加した生物学会ではスーツがメジャーな格好だ)、私が着いた頃にはまだ時間に余裕があったため、多くの人たちはコーヒーを飲みながら談笑していて、そんなリラックスな雰囲気がよかった。   講演は午後2時からスタートした。はじめに司会の立命館大学言語教育センターのファスベンダー・イザベル先生より、パネリストの紹介と今回のSGRAカフェのテーマについて説明があった。その後、下地先生の発表が始まり、最初はご自分の家族について語られ、続いて「混血」の歴史についての発表があった。日本の戦後から今までの数十年の期間に着目し、日本人と外国人の間で生まれたいわゆる「混血」の人々が、日本社会においてどのように位置付けされてきたかを歴史的、政治的、文化的な角度から分析された。後半は、「混血」の生活史について掘り下げた内容で、その中で下地先生が6年をかけて、日本国内の50人以上の「ハーフ」の方々にインタビューされた調査結果が報告された。   私が一番好きだったトピックは、この実際に聞き取りした一人一人の物語だ。私は理工学出身のため、物事を観察する時、他人の気持ちを考えず論理的な視点からしか見ないことがよくある。しかし今回の発表では「ハーフ」の方々から直接聴取されたごく日常的な差別の経験が紹介され、その内容に思いのほか心を動かされた。自分は外国人として日本留学しており、中国人のため外見だけでは「外国人」とは判断されないけれど、自分のボロボロな日本語を日本人に聞かせると、大体初対面の方から「日本語お上手ね」のように褒められるケースが多い。自分の日本語があまり上手じゃないのを知っているから、そうは言われても相手に悪意があるのではないかと思ってしまう。どうしてこのような反応が返ってくるのか、ずっと考えてきたが、それはおそらく相手が私に対して抱く予測(顔からの判断して日本人だろうと思うこと)が外れ、実は外国人だと分かった時のごく一般的な反応だと自分に説得してきた。   でも、一時的な留学生の身分とは異なり、数十年にわたる人生の中で、毎日そのような定番の質問と返事が繰り返されるとしたら、日本人としての「ハーフ」の方々には相当なストレスが溜まるだろう。   私は比喩が好きではないけれど、「ハーフ」の生活史に関することは生物の免疫になんとなく相似すると感じた。人間は生まれた時点では免疫システムがか弱い。その理由は、免疫システムが、自分自身の認識がまだできていないからだ。子どもから大人になる時期に、免疫システムは自分自身の細胞を認識できるようになり、病気との戦いを経験することで鍛えられ、病原体に対するバリアを作るための境界線も自ら引けるようになる。要は、生物の成長にとって大事なことは、免疫システムの成長の過程における自分自身の「アイデンティティ」の確立なのである。   しかし、いったん確立した「アイデンティティ」が何らかの要因(例えば薬やアレルギーなど)でバランスを失ったり、本来の自分とミスマッチを繰り返したりするようになると、免疫システムは自分自身の細胞まで攻撃してしまうようになる。難病として多く認識されている自己免疫疾患はその例だ。似たような感じで、同じ日本人の母集団にいるのに、「ハーフ」の人たちが日本人としての所属意識を失ったり、幼少期から人格の確立に悩んだり、大人になっても「アイデンティティ」を他人から疑われ続けたりすると、いくら精神力があってもとても深く傷付けられることは容易に想像できた。   もちろん、ここでは誰かが病気になっているというわけではない。「ハーフ」たちが経験した差別は、アイデンティティを認識するときに生じる「情報不均衡」に加え、ほぼ単一民族から構成される日本の社会の中でさらに拡大されると考える。私は生物をやっているので、様々な可能性を生む「多様性」という言葉が好きだ。熱帯雨林のような著しい多様性が存在する生態システムには、さまざまな珍奇な生物が見られ、その包容力があるからこそ熱帯雨林は成り立っている。だが、人間社会はやはり自然より複雑だ。仮に国家の歴史と地理的な条件から独自の民族的性格が捉えられたとしても、その唯一の標準だけをもってその民族全体を測ることはできない。元々多民族の国、または複数の移民から構成される国では、「ハーフ」たちへの差別はどうなのだろうと考えると、結構興味深くなるテーマだった。   下地先生の素晴らしい講演は来場者からの拍手の中、終了した。その後、今回のセミナーにいらっしゃった「ハーフ」の方々も自分の経験談を皆さんにシェアし、貴重なご意見と有意義なコメントが集まった。とても勉強になった2時間だった。   SGRAカフェの後は、渥美国際財団が主催した真夏のBBQ。今回も神奈川県・小田原からの新鮮な「海の幸」がメインディッシュになり、ラクーン会の先輩たちによる美味しい料理もいただいた。ご来場の方々も増え、2時間ほど歓談とご馳走を楽しんだ。   当日の写真     <金弘渊(キン・コウエン)Jin_Hongyuan> 渥美国際財団2019年度奨学生。中国杭州生まれ杭州育ち。中国浙江大学応用生物科学卒業、東京大学大学院新領域創成科学研究科先端生命科学専攻博士(生命科学)修了。現在、東京大学先端生命科学専攻特任研究員。専門は進化発生学、進化ゲノム学、遺伝学。特に、「昆虫の擬態現象」を着目し、アゲハチョウの色素合成と紋様形成の分子機構及び進化過程を中心に研究中。     2019年9月5日配信  
  • 2018.10.04

    第4回アジア未来会議 東南アジア宗教間の対話円卓会議「寛容と和解-紛争解決と平和構築に向けた宗教の役割」報告

    2016年秋の第3回アジア未来会議での円卓会議「東南アジア宗教間」の対話では、グローバリゼーションに翻弄される東南アジア各国の諸課題への宗教の対応が議論された。 この時に、重要なトピックの一つとして提示されたのが、宗教間の「対立と和解」であった。今回、2018 年8月24日から28日までソウルで行われた第4回アジア未来会議では、「寛容と和解」をテーマとして円卓会議「東南アジア宗教間の対話『寛容と和解-紛争解決と平和構築に向けた宗教の役割』」を開催した。   対立や紛争では、その原因が政治経済的な課題であるにもかかわらず宗教の対立としての様相を帯びることが多い。宗教が民族や集団の基層文化のなかに深く根ざしているからにほかならないからである。民族、宗教のモザイクといわれる東南アジアにおいても、その傾向が顕著に表れ、対立が暴力的な宗教間の紛争に至ることも少なくない。   しかし、その一方で東南アジアでは、平和的な手段により対立や紛争を解決した事例も多く、和解に至るプロセスの経験も蓄積され始めている。今回の円卓会議では、東南アジア及び日本在住の宗教者、宗教研究者が集い、タイ、ミャンマー、インドネシア、ベトナム、フィリピンにおける紛争解決、平和構築の経験、事例をベースとして和解、平和構築に向けた宗教および宗教者の役割を探った。   【各国からの事例発表】(円卓会議は英語で行われた)   発表1:タイ Vichak_Panich(Vajrasiddha_Institute_of_Contemplative_Learning) “Buddhism_of_the_Oppressed:_Restoring_Humanity_in_Thai_Buddhist_Society” 「虐げられし者達の仏教へ−タイ仏教に人間性の回復を」   発表2:ミャンマー Carine_Jaquet(The_Research_Institute_on_Contemporary_Southeast_Asia) “Brief_Report_on_the_Situation_of_Rohingya_People” 「報告−ロヒンギャの人々の現状」   発表3:インドネシア Kamaruzzaman_Bustamam-Ahmad(Ar-Raniry_State_Islamic_University) “The_Dynamics_of_Muslim_Society_in_Aceh_after_Tsunami” 「津波災害後のアチェのイスラム社会のダイナミズム」   発表4:ベトナム Emmi_Okada(The_University_of_Sydney) "Reaching_Beyond_the_Religious_Divide_for_Peace: The_Experience_of_South_Vietnam_in_the_1960s" 「平和と宗教の分断を超えて−1960年代の南ベトナムの経験から」   発表5:フィリピン Jose_Jowe_Canuday(Ateneo_de_Manila_University) "Muslim_and_Christian_Dialogues_in_the_Southern_Philippines: Enduring_Grassroots_Inter-religious_Actions_in_a_Troubled_Region” 「南部フィリピンのイスラム教とキリスト教の対話−試練に耐える紛争地域におけるグラスルーツの宗教間対話の試み」   (文責:角田英一)     ◆小川忠「第4回アジア未来会議円卓会議『東南アジア宗教間の対話』に出席して」   会議テーマは「異なる宗教間」の対話であったが、「同じ宗教内」での対話こそ必要とされている。これが、今回の会議に出席して強く感じたことだ。   監修者の島薗進先生が会議冒頭で述べられた通り、世界中で宗教復興ともいうべき現象が顕著になっている。多様な宗教が混在する東南アジアも例外ではない。そして「イスラム過激派テロ」「ロヒンギャ問題」「ミンダナオ紛争」等日々接する東南アジア報道から、冷戦終結直後に政治学者ハンティントンが提起した通り、宗教を基盤とする文明が互いに対立し、流血を生んでいるかの如き印象をもってしまう。特にイスラム教については、その狂信性、好戦性ゆえに対立、暴力を拡散させているというイメージが、世界中に拡がっている。   しかし、イスラム教、仏教、キリスト教と様々な宗教的背景をもつ本会議出席者たちは、「宗教紛争」とされるものの多くは、植民地支配の負の遺産、国民国家建設の失敗、政治権力の宗教動員等によるものであって宗教が根本原因ではない、と指摘した。さらにイスラム教のみならず、平和的な宗教とされる仏教においても、排外的ナショナリズムと結合し他宗教に対する敵意を煽る強硬派が次第に勢力を拡大している。   そしてイスラム教、仏教内部において、政教分離を拒否し宗教とナショナリズムの結合を目指す動きが強まっている一方、これに抗し、宗教を政治から切り離し一定の距離を置き人権、民主主義を育てていこうというリベラル派が存在することも浮き彫りにされた。両者の亀裂が深まっているのが昨今の状況だ。それゆえに同一宗教内の対話が重要なのである。   対話の鍵を握るのは、宗教教義を「解釈する力」である、という指摘もあった。同じ宗教のなかにも相反する教義が存在する。宗教の有する多面性を理解した上で、今日の世界にあう創造的な解釈力が、それぞれの宗教において求められている。   グローバリゼーションが宗教にもたらしている衝撃も議論となった。グローバリゼーションとは、欧米発の情報、文化、価値観が世界中に拡がり、世界の画一化が進行するというイメージがあるが、ことはそれほど単純ではない。グローバリゼーションには様々な潮流が存在する。中東発のワッハーブ主義、サラフィー主義という厳格化、原理主義的イスラム思想が、インドネシアのアチェ他東南アジアで影響を強めている状況が報告された。   そしてグローバリゼーション時代に発達したソーシャル・メディアが、国境を越える大量の情報流入を東南アジア地域にもたらしている。それは国際的な対話と相互理解を育む機会を増大させるとともに、テロを煽る過激組織プロパガンダの影響力拡大にもつながっている。またグローバリゼーションに反発する排外感情の高まりという副作用も看過できない。ソーシャル・メディアは世界の平和にとって諸刃の刃のような存在、という見方が参加者のあいだで共有された。   各報告を聞くにつけ、東南アジア各国において宗教と社会の関係は多様かつ複雑であり、それを一般化して語るのがいかに危険であるかを再認識した。また対立から和解への道のりが容易ではない、とも感じた。しかし、ミンダナオの事例報告で述べられた通り、平和的手段により紛争を解決しようという模索がこれまで何度も試みられ、そのなかで和解に至る経験も蓄積され始めている。今できることを一歩一歩進めていくしかない。   多様な宗教的背景をもった東南アジアと日本の知識人が虚心坦懐に議論する場はありそうで実はさほど多くない。そうした貴重な機会を提供してくれた主催者の渥美国際交流財団関口グローバル研究会の見識に敬意を表し、感謝したい。   <小川 忠(おがわ・ただし)OGAWA_Tadashi> 2012年早稲田大学大学院アジア太平洋研究科 博士。 1982年から2017年まで35年間、国際交流基金に勤務し、ニューデリー事務所長、東南アジア総局長(ジャカルタ)、企画部長などを歴任。2017年4月から跡見学園女子大学文学部教授。専門は国際文化交流論、アジア地域研究。 主な著作に『ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭 軋むインド』(NTT出版)2000、『原理主義とは何か 米国、中東から日本まで』(講談社現代新書)2003、『テロと救済の原理主義』(新潮選書)2007、『インドネシア イスラーム大国の変貌』(新潮選書)2016等。   英文の報告書(English Version)   円卓会議の写真       2018年10月14日配信