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2017.04.06
ロドリゴ・ドゥテルテ氏は、2016年6月末、一部の現地マスコミの「期待」を裏切り、しかし、大方の予想通り、第16代フィリピン大統領に就任した。選挙における得票率は4割程度だったが、現在の支持率は80%を優に超える。私の周りでは、選挙時には、極貧層から富裕層まで、ドゥテルテ氏を嫌う者は少なくなかったが、その後、彼の統治によって、マニラでは凶悪犯罪や収賄は激減したとし、ドゥテルテ氏に対する評価を変えた者も少なくない。たしかに、その感覚は実感できる。
ドゥテルテ人気の理由の一つは、しばしば指摘される彼の家父長的力強さだけでなく、その来歴にもあるように思われる。彼は、東ビサヤ地方のレイテ島で生まれたが、マラナオ族系と中国系の血筋を引き、身をもってマイノリティの立場を理解している。子どもにはイスラム教徒と結婚しているものもおり、イスラム社会、華人社会との接点を有する。これらのマイノリティ社会の人々の多くは、大統領選でドゥテルテ氏を支持した。彼の地盤はイスラム問題を抱えるミンダナオ島のダバオ市だ。左翼思想に触れた大学時代を除き、首都マニラとは無縁であり、中央の経験がない。法科試験合格後は、ダバオ市において、検察官を10年、ダバオ市長を22年間務めた。さらに、父も弁護士だったとはいえ、旧エスタブリッシュメントとは接点はなく、その生活は質素である。70歳を超えた彼には、フィリピンを再建した英雄になるという名誉欲はあったとしても、歴代の大統領にありがちだった「物欲」は感じられない。彼は、大学時代の恩師である共産党設立者のホセ・マリア・シソンの支持を受け、複数の左派系の人材を閣僚に任命した。
しかし、このような高い国民的支持にもかかわらず、欧米における評価は芳しくない。彼の悪名を国際的に轟かせたのは、公約「麻薬撲滅戦争」における,いわゆる「超法規的殺害」(extrajudicial_killings)である。売買関与しているとされる公職者のリストを公表し、自首しなければ命はないものと思えと呼びかける。警察だけでなく、自警団までもが常習者のリストを用いて摘発に精を出し、投降しなければ売人を銃殺する。新聞報道によれば、十分な取り調べのないまま殺された者も少なくない。大統領就任後3ヵ月の間に、3千人を超える「麻薬犯罪者」が道端などで超法規的に処刑された。フィリピンでは死刑が廃止されているが、麻薬犯罪については大統領のお墨付きなのだ。こうした実態が欧米の非難を浴びた。タイム誌はドゥテルテ氏のことを「処刑人」と呼び、人権NGO団体だけでなく、アメリカもEU諸国も、その「非人道的行為」を厳しく批判した。しかし、ドゥテルテ氏は、全ての批判者に悪口雑言の限りを尽くし、決して政策を変えようとはしない。
たしかに、欧米の価値基準からすれば、このような振る舞いは、デュー・プロセスを踏まない非人道的で野蛮な行為としかうつらないであろう。だが、フィリピンには、現在推定400万人以上の麻薬中毒者がいると報道されている。そして、その売買で甘い汁を吸っている者は、ギャングやゴロツキだけではない。警察や政官界にも「闇の組織」は蔓延しており、そのネットワークは巨大である。超法規的手段を執らない限り、麻薬撲滅はありえないというのが彼の立場だ。
東アジアにおいては麻薬犯罪には死刑が適用される国が多い。中南米の例を引き合いに出すまでもなく、麻薬は現在も発展途上国において最も深刻な問題の一つだからである。しかし、歴史をひもとけば、麻薬を植民地インドで生産し、中国に持ち込み戦争を起こしたのは英国である。他方、フィリピン革命の後、米西戦争に勝利したアメリカは、フィリピンの独立を約束したにもかかわらず、多くのフィリピン人を虐殺し植民地とした。それは、ドゥテルテ氏の故郷レイテ島でも悲惨を極め、彼はその生き残りの子孫だと自認している。アメリカによって、発展途上国の罪のない市井の人々がどれほど殺害されてきたのか、彼の憤りはこうした歴史からも来ていることは間違いないであろう。
ドゥテルテ氏の外交を考えるとき、彼が独特な民族主義者であることを理解するのは重要である。彼は、相手が欧米の価値観で頭ごなしに批判しない限り、口汚く罵ることはない。忌むべきは未だに宗主国のように振る舞いたがる大国による内政干渉だからだ。彼は、これまでの麻薬政策を批判した、エスタブリッシュメントを基盤とする民主党オバマ政権を徹底的に嫌い、CIAによる暗殺の可能性にしばしば言及しアメリカを牽制してきた。その外交は一見すると、個人的感情丸出しの素人に見えるが、中国、日本への訪問からもわかるように、領土問題の先鋭化を巧みに抑え、中国とアメリカという2大大国から微妙な外交的距離を置きつつ、日中両国から大型援助を引き出すという成果を出した。麻薬中毒者の更生施設に加え、クラーク基地跡地の開発事業が喫緊の課題だからである。言いたい放題の後の後始末もそつなくこなしており、彼のスタンスはそれなりに計算されたものだ。ドゥテルテ氏は、共和党トランプ氏がアメリカ大統領に選ばれるや否や、いち早く祝福を送った。今後はアメリカとの関係にも新しい変化が起こるかもしれない。
*本稿の中国語版は台湾の自由時報(2016-12-12)に掲載された。
<中西徹(なかにし・とおる)Toru_Nakanishi>
東京大学・大学院総合文化研究科・教授(地域研究・開発経済)。1989年東京大学大学院修了(経済学博士)。国際大学助手。1991年北海道大学助教授。1993年東京大学助教授。2001年東京大学教授(現在に至る)。主要著書に『スラムの経済学』(単著:東京大学出版会、1991年)、『開発と貧困』(共著:アジア経済研究所1998年)、『人間の安全保障』(共著:東京大学出版会、2008年)、『現代社会と人間への問い』(共著:せりか書房、2016年)。
2017年4月6日配信
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2017.03.30
(『私の日本留学シリーズ#8』)
・きっかけ
学部時代に読んだ日本人学者の本が、私が日本留学に興味を持ったきっかけであった。ずっと「宗教」と「死」に興味を持っていて、学部卒業後はどこかの大学院に進学して本格的に研究をしてみたいと考えていた時に、日本の学者はこんなに面白いことを考えるんだと思い、留学先を日本に決めた。それから、日本語の勉強を始め、日本の大学についても調べた。
・弟とともに日本留学生活を始める
しかし日本留学の情報は十分ではなくアドバイスをもらえる人もいなかったため、留学準備をして日本に来るまでは本当に大変だった。日本語で書かれた本が少し読める日本語のレベルだったが、日常会話がままならなかった。それでも心強かったのは、弟も同時期に日本の大学に入学して、兄弟2人で助け合いながら留学生活を始められたことだ。また、日本人と結婚した親戚のおばさんにもいろいろ面倒を見てもらえたし、良い助言者の留学生先輩もいた。
・修士課程では
紆余曲折の研究生生活を経て修士課程に入り、決めた論文のテーマは『水子供養』だった。死、お墓、葬送儀礼などに漠然と興味を持っていると先生に話したら、「水子供養について研究してみると面白いかもしれない」という助言をもらった。偶然に決めた、あるいは決めさせられた(?)研究テーマを現在も続けていることは不思議に思える。
・アルバイト
奨学金が無かった修士課程では、研究とアルバイトを両立する日々を過ごした。今考えると修士の時が最も頑張った時期だった。無事修士論文を提出して博士課程に進学した1年目までは奨学金がなく、アルバイトに時間をたくさん使った。韓国語講師や通訳のアルバイトがほとんどで、韓国語講師の経験は、人前で上手くしゃべれないことを克服するのに少し役立った。また、通訳の仕事は、臓器移植や遺伝子研究など自分の研究と関わりがなくもない分野もあったけれども、貿易や起業、発電といった普段触れることもない分野もあって、楽しい経験ができたと思う。
・女子寮生活
修士に入ってから民間の女子寮に入寮し、ずっと住んでいた。寮は7割くらいが日本人の学部生で高校生も何人かいる。残り3割程度が留学生で、入寮当時は韓国人と中国人がほとんどであったが、ここ数年、インド、ベルギー、ノルウェイ、ウズベキスタン、アメリカ、インドネシア等々国籍が豊かになった。週末はみんなで一緒に料理を作って食べたりもするし、お互いの国の文化や言葉について話し合ったりもする。寮では朝食と夕食が提供されるが、豚肉を食べないイスラームの人たち、牛肉を食べないヒンドゥの人、そして肉食をしないベジタリアンもいるので、食事を用意する寮母さんは大変だろうが、宗教文化に興味のある私としては食事の時間も楽しかった。
・博士進学後と現在
博士2年目からやっと奨学金を受給することになり、以前のように朝から晩までアルバイトをしなくても生活ができるようになった。また、奨学金の関係で年に数回関西地方に行くことになったが、そのおかげで旅行もできて楽しい時間を過ごせた。経済的精神的に余裕はできたものの、研究に費やす時間をそれほど増やさなかったことを、いまだに後悔している。「理系の人は博士3年で大体卒業するが、文系は3年以内に博士論文を提出することはそれほど多くはない」と聞いてきたが、自分も博士5年目となってしまった。運よく渥美奨学金もいただくことになったが、途中で所属大学の研究員に採用されたことで奨学金を辞退することになってしまった。昨年9月ソウルで結婚式を挙げてから日本に戻って博士論文を執筆し続け今年3月に論文を提出した。そして8年間生活した日本を離れ、現在はソウルに住んでいる。
<金律里(キム・ユリ)Kim Yullee>
東京大学死生学・応用倫理センター特任研究員。渥美国際交流財団2015年度奨学生。韓国梨花女子大学を卒業してから来日、2015年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程を退学。
2017年3月30日配信
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2017.03.28
ラクーンのみなさん
渥美財団やSGRAのイベントの運営に当たっては、いつもご支援とご協力をありがとうございます。
SGRAではラクーンのみなさんにもっと参加していただくために、SGRAセッション/フォーラム/カフェの企画案と運営委員の募集を行います。企画が採用されれば、講師や討論者の旅費・滞在費などの経費の全額を、SGRAが負担します。特に、セッション企画の公募は、初めての試みです。奮って応募してください。
◇企画案は応募フォームを下記からダウンロードして記入、送付してください。
PDF版応募フォーム
Word版応募フォーム
◇運営委員をご希望の方は、下記へメールでご連絡ください。
◆申込み・お問い合わせ:
[email protected]
<募集内容>
1. 第2回東アジア日本研究者協議会国際学術大会(2017年10月27日~29日@中国天津市南開大学)のパネルに参加するSGRAチームを募集します。<応募締切:2017年6月30日>
詳細は下記リンクをご覧ください。
→EACJS#2SGRAパネル参加チーム募集要項
2. 第4回アジア未来会議(2018年8月24日~28日@韓国ソウル市Kホテル)の自主セッションに参加するSGRAチームを募集します。<応募締切:2017年7月31日>
詳細は下記リンクをご覧ください。
→AFC#4SGRAセッション参加チーム募集要項
3. SGRA運営委員(2017年4月から1年間)を募集します。<申込締切:2017年4月30日>
SGRAフォーラムやアジア未来会議の準備や実施運営のお手伝いをしていただける方。年3~4回準備会議があります。首都圏在住の方にお願いします。
4. SGRAフォーラムの企画案を募集します。<応募締切:2017年7月31日>
日本国内で年2回くらい開催予定。週末の午後1時から5時くらいまで。基調講演1名、研究報告2~3名。講師、討論者、司会者にラクーンが3名以上入ること。50名~100名の参加者を集めたい。有楽町の東京国際フォーラムで開催することが多いが、ここに限らない(大学施設等での開催も可能)。
5. SGRAカフェの企画案を募集します。<応募締切:2017 年7月31日>
週末の午後に、渥美財団ホールで開催することが多いが、このパターンに限らない(大学施設等での開催も可能)。講師、討論者、司会者にラクーンが2名以上入ること。講演と質疑応答で2時間程度。30名以上の参加者を集めたい。
<その他>
◎第4回アジア未来会議への参加もお忘れなく。前回と同様、今回も、論文またはポスター発表をするか、会議運営のお手伝いをしてくださるラクーンのみなさんは全員、登録費、滞在費、旅費を補助します。5月1日から登録を受け付けますので、奮って応募(オンライン登録)してください。
皆さんの積極的なご応募をお待ちしています。
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2017.03.28
SGRAレポート78号
SGRAレポート78号(表紙)
第51回SGRAフォーラム
「『今、再び平和について』― 平和のための東アジア知識人連帯を考える」
2017年3月27日発行
<もくじ>
はじめに:南 基正(ソウル大学日本研究所副教授)
【問題提起1】
「平和問題談話会と東アジア:日本の経験は東アジアの公共財となり得るか」
南 基正(ソウル大学日本研究所副教授)
【問題提起2】
「東アジアにおけるパワーシフトと知識人の役割」
木宮正史(東京大学大学院総合文化研究科教授)
【報告1】
「韓国平和論議の展開と課題:民族分断と東アジア対立を越えて」
朴 栄濬(韓国国防大学校安全保障大学院教授)
【報告2】
「中国知識人の平和認識」
宋 均営(中国国際問題研究院アジア太平洋研究所副所長)
【報告3】
「台湾社会における『平和論』の特徴と中台関係」
林 泉忠(台湾中央研究院近代史研究所副研究員)
【報告4】
「日本の知識人と平和の問題」
都築 勉(信州大学経済学部教授)
パネルディスカッション
討論者:劉傑(早稲田大学社会科学総合学術院教授)他、上記発表者
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2017.03.26
SGRA Sustainable Shared Growth Seminar No. 22"Decentralization and Sustainable Shared Growth: Federalism, Local Governance, and the Agricultural Sector in the Philippines"Feb. 13, 2017College of Public Affairs and Development, University of the Philippines, Los Banos (UPLB)Seminar ReportPresentation 1 SlidesPresentation 2 SlidesPresentation 3 Slides
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2017.03.25
Sustainable Shared Growth Seminar No. 21"Sustaining the Growth and Gains of Research Development ExtensionJan. 6-7, 2017Benguet (Strawberry Capital of the Philippines) Seminar ReportPresentation 1 SlidesPresentation 2 SlidesPresentation 3 SlidesPresentation 4 Slides
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2017.03.23
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という文章で始まる川端康成の『雪国』は日本海にある。毎年冬になると白雪に沈む地方をごくポエティックに表現している。しかしながら、私にとっては、日本といえば雪国ではなく「花国」だ。私には日本人より「日本は四季がある」という大ニュースがよく伝わってくるのではないかと思う。言うまでもなく、四季はドイツ、アメリカ、北半球の大半にもあるが、日本の四季は特別で不思議だ。もちろん花は世界のどこにでもあるが、花国の日本では、花が驚くほど大きな役割を果たしていると気づいた。まず、どんな季節でも花が咲いている。どんな時でも自然の美しさが溢れる。冬は梅、春は桜、夏は桔梗、秋は菊、など。
出身のドイツや、学校のあるアメリカと比べたら、日本では季節の変わり目はあまりなく、温度の差もあまり激しくない。高校生の頃にしばらく住んでいたカナダでは、本当に季節の違いが感じられた。感じてしまったと言ってもよい。カナダでは、冬が終わって雪が溶けると、熊が冬眠から目覚めたごとく、みんなが家から出て、目を擦る。「あったかい〜!!」と叫びたいぐらいの嬉しさが溢れる時期だ。
季節の差が激しくない日本でも、同じような気持ちを感じる。日本在住の4年間、毎年春分になると、信じられないぐらいの嬉しさが体を包んでわくわくする。何故だろうと自問してきた。今年初めて、その答えがわかった。花だ。温度や日差しではなく、花で嬉しさを感じるのだと。今年の最も重要な発見だった。気温に関係なく、周りに花が咲くと、より気分が良く幸せに溢れるようになる。花国の日本は、暖かくなる間もなく花が咲き始める。枯れた枝に我慢して待っていた蕾は、春の最初の日差しで出てきて挨拶する。暖かい季節の到着を現す若葉よりも、花が祝われている。日本の春は緑ではなくピンクだ。
冬と春の境に梅の花が咲く。梅もまた不思議な花だ。何百年もそのままであったような、節くれだつ枝から咲いている梅の花は奇妙な美しさがある。梅の花といえば、初めて日本に留学した時に行った京都の北野天満宮をいつも思い出す。ただ、見るよりも匂うことで思い出す。2007年2月にふらっと北野天満宮に行ったら、天国に生まれ変わったような香りに飲み込まれた。「うめのはな、こすゑをなへて、ふくかせに、そらさへにほふ、はるのあけほの」という藤原定家が詠んだ和歌と同じように、風が運んだ香りが鼻に潜り込んだ。この経験から、私にとって日本は梅の香りの花国となった。今年の2月、駅のホームで電車を待っていた。突然、梅の親しい香りが飛び込んできた。梅の木はどこにも見当たらなかったが、贈り物としてその香りをもらったような気がした。
春は桜、という感覚が一般的かもしれないが、私には冬と春を結びつけている梅が季節の魅力を形にしている。日本の代表である桜は梅と違う。梅が春を開くのに対して、桜の、軽く、細雪のように渦を巻いて散る花は、雪国の冬を春にひっくり返し、季節を取り替える。桜吹雪で春と冬をスイッチする日本は、やはり不思議な四季の感覚だ。
花国のもう1つの不思議さは季節のタイミングだ。毎年春は定期的にやってくるが、この頃に桜が咲くぞという予報は、確かにその通りになる。梅はこのように注目されず、一人で頑張って、綺麗なものを産み出してくれる。梅こそ日本の本当の代表ではないだろうかと私は思う。ただ、日本は桜が優先されてしまうため、それぞれの季節の貴重さがたまに失われてしまう。平安時代から「花」といえば「桜」のことを指していたそうだが、各季節に違う花々に彩られているのが、日本という花国の最もアピールするところではなかろうか。地球温暖化のため、日本の季節も変わってくるかもしれないが、日本の心にはずっと花があることは変わらないだろう。
<フランク・フェルテンズ☆Frank_Feltens>
米国フリーア美術館特別研究員。ドイツのフンボルト大学で日本文学を学んだ後、米国コロンビア大学大学院で日本美術を学び、尾形光琳と江戸中期の美術をテーマにして2016年博士号を取得。学習院大学に文部科学省国費留学生として留学し、その後、客員研究員、立教大学非常勤講師等を務める。2016年夏より現職。
2017年3月23日配信
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2017.03.16
(『私の日本留学』シリーズ#7)
このエッセイでは、「私の日本」について考えてみたい。広い課題だが、「私の日本」というのは、日本における私の個人的な経験になるだろう。日本で生活することによって、どのように自分自身の人生が変わってきたかを考えてみたい。特に、「娘として来て、母になった」という個人的な道のりについて書いてみよう。そのことによって、私の視点から「日本」を見られるのではないかと思う。
日本に来てからそろそろ7年になる。日本に来る前の私はコロンビアのボゴタで両親と一緒に住んでいた。ロス・アンデス大学で言語哲学および社会文化研究を主専攻、哲学を副専攻として学士号を取得した。大学生のときには、6つのレベルの日本語クラスを終了し、文化、歴史、現代思想、文学、映画、アジアのルーツや地域研究など、開講されている日本に関するすべてのクラスを受講した。また、大学の文化祭の企画に積極的に関わり、生け花や折り紙のワークショップや日本からコロンビアへの移民に関する会議なども企画した。時には、家に持ち帰ってお寿司を作ったり、書道をしたり、日本映画を見たりもした。私はとても楽しかったのだが、母から見るとそれはおかしな行為だったようだ。「大学も時代が変わってきたよね」、「これは何のため?どういう仕事ができる?」「卒業したらどうするの?」とよく言われた。
日本に来る前から日本のイメージを持っていた。日本のことや日本語を知っていると思ってはいたが、さらに自分の知識を広め深めようと日本の大学院に行くことを決めた。夢が今や現実のものとなり興奮していた私だったが、成田空港に到着した時は、電車のチケットを買おうとしてもどうしたらいいか分からなかった。それで最初の会話は英語になってしまった。意外ではないかもしれないが、私に日本語で話してくれる人は少なかった。7年経った今でも、まだ最初から日本語で話してくれる人と会うのは珍しい。外国人が日本語を話せるということを期待している人は少ないようだ。日本に来てから「外国人の大学院生」としてさらに日本語の勉強を進め、日本文学を研究しながら夢中に過ごしたが、それによってどのように人生が変わるかを想像するのは難しかった。
私は22歳から東京で生活しているので、日本で「大人」になっている。母が初めて来日した時、私が2年間で様々なことを乗り越え、十分に成長したという印象を持ったそうだ。2回目は私が日本に来てから5年目、結婚式のために来た。その時は「もう大人になった」と言われた。私は自立し、新しい家族を作った。3回目は孫の世話をするために来た。私は「娘として来て、母になった」のだ。これは大きな人生の変化だ。
そして、母からは「あなたはだんだん日本人になっている」と何回も言われた。どういう意味かを考えてみたい。それは日本文化、価値観や態度を自分の性格の一部として受け入れるようになってきたということだと思う。例えば、約束の時間に間に合うように頑張ることで「日本人みたい」と評価してくれる。確かに私は時間を守る人になったが、私にとってそれは「日本人になっている」より、「日本で(大)人になっている」の方が、自分の人生にとってより大きな意味があると思う。言い換えれば、人生を変えるような出来事が日本で起こったのだ。そして自分の職業や人間関係、考え方は日本が背景になっているのだと思う。
日本で初めて自立した生活をし、修士号を取得し、結婚し、母になった。そして、今は博士号の取得に向けて取組んでいる。東京では保育園が不足しているという社会問題があるのに、ラッキーなことに子どもを保育園に入れて、これからは子育てをしながら研究者として活動しようとしている。本当にありがたいことである。
博士論文では日本の現代女性作家の作品における女性の身体表象について研究している。自尊心や自己受容に基づき、自分の体とポジティブな関係を築く手段として文学を用いたい。私が選んだのは川上未映子の『乳と卵』、桐野夏生の『東京島』、伊藤比呂美の「カノ子殺し」である。この研究が私の生活にも繋がっている。とりわけ、この研究は間違いなく、私が母親になるという個人的な道のりを助け、導いてくれていると感じる。これらの作家たちは妊娠、出産、授乳、子育てをする体について新しい見方を与えてくれた。まず、人生の変化は身体の変化であるということを理解できた。私が研究している日本文学に出てくる子育ては、皆あいまいで、矛盾し、もろく、完璧な、あるいは理想の母親は存在しないということを示している。
最後に、私にとって日本は、つまり「私の日本」は、母親になるために素晴らしい国だと思う。日本で「娘として来て、母になった」という個人的な道のりによって成長できる機会が与えられていることに日々感謝している。
<フリアナ・ブリティカ・アルサテ☆Juliana_Buritica_Alzate>
渥美国際交流財団2015年度奨学生。2010年4月に来日。国際基督教大学大学院アーツ・サイエンス研究科比較文化専攻で修士号を取得。現在、同研究科博士後期課程在学中。専門は比較文学およびジェンダー研究。
2017年3月16日配信
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2017.03.13
Many people in Japan understand World War II ended on August 15, 1945. This is because Emperor Hirohito (posthumously known as Showa) announced on radio on this date that the Japanese Government had accepted the Potsdam Declaration by the Allied Powers that demanded unconditional surrender, saying that “we have resolved to pave the way for a grand peace for all the generations to come by enduring the unendurable and suffering what is insufferable…” In the colonies like Korea, people are said to have given cheers for the Japanese defeat. However, it was on the previous day, the August 14 that Japan had conveyed to the Allied Nations its acceptance of the Potsdam Declaration. In fact it was on August 10, four days before, that Japan conveyed its intention to accept the Declaration through Japanese ministers in Switzerland and Sweden, both neutral nations. Victory over Japan Day in the United States is September 2. It was the day that Mamoru Shigemitsu, fully empowered foreign minister, had signed the instrument of surrender onboard the USS Missouri. The counterpart was Douglas MacArthur, Supreme Commander for the Allied Powers.The New York Times on September 2 wrote by just three big headlines; “JAPAN SURRENDERS TO ALLIES,SIGNS RIGID TERMS ON WARSHIP;TRUMAN SETS TODAY AS V-J DAY” In China, V-J Day is September 3, next day of the signing on the USS Missouri, although the Japanese Army had signed the instrument of surrender in Nanjing on September 9. The Soviet Union followed suit and made its V-J Day September 3. Only Japan set August 15 as the day for the end of the war. In Europe, the memorial day of victory in this war is May 8, eight days after Adolf Hitler committed suicide. All the countries which fought in this War have their own memorial day. The names of this war are also different among the countries involved, while recognition of the war is common ---Second World War, World War II, Seconde Guerre mondiale, and ZweiterWeltkrieg. But in the United States, “Pacific War (against Japan)” and “European War (against Germany and Italy)” are well-known. In the Soviet Union, the war was called the “Great Patriotic War”. The name was given because it war was more furious than the war against Napoleon (1812) which has been called the “Patriotic War,” and that “Great” was added to distinguish one from the other. In China, they call the War “Anti-Japanese Revolution” and “World Anti-Fascism.” Each country and people perceives the war in different ways. In Japan, the Cabinet of Hideki Tojo officially named the war the Great East Asia War on December 12, four days after the declaration of war against allied nations. Including this one, each name contains various sentiments. The Pacific War connotes that it was fought against America but feels like ignoring the battle line in China. The Fifteen Years War, which means the War’s duration of fifteen years, is reasonable considering that the War started from the Manchurian incident in 1931. Other names include “The Second Sino-Japanese War” and “The Asia-Pacific War.” The reason I am thinking over the name of war and the day when the war ended, although I am not a specialist, is that I was listening at the back row of the forum “Possibilities of Dialogues among National Histories.” What kind of works will be necessary to talk about history among not only specialists or intellectuals but among ordinary people? The round table discussion was meaningful in that specialists from Japan, China and South Korea searched for the present state of “intellectual community” in this region and groped where to go from there. Professor Liu Jie of Waseda University, raised a question that dialogue on history has been stagnant, emphasizing necessity of finding an agenda that would come after studying each other’s academic research situations. He also said, “The intellectual community in East Asia is the last frontier in the region. I am worried that dialogue among intellectuals might collapse.” “That is why we got together to exchange opinions and each other’s knowledge so that we can make national histories in East Asia that can be shared among us. This forum is important in that we can nurture talented international students, a special group of resources who can understand fellow countries’ material, for the future.” Cho Kwang, professor emeritus at Korea University in South Korea, said experience of the colonial period can be a factor for providing a country’s national history. He said, “One cannot discuss world peace if his political perspective is right.” I thought it is true, not only for Japan. I thought it is true, not only for Japan. He said “Gokuryeo (高句麗)” hold an important position in Korean history but added that it was also part of the regional history of China. “Things look different depending on perspective -- personal-based or location-based,” Kwang said. One solution to overcome different views and misunderstanding can be to compile a history on Japan-China Korea relations Ming dynasty and Joseon missions to Japan (朝鮮通信使)show in which histories of Japan, of Korea and China intersect. Professor Ge Zaoguang of Fudan University, China, suggested possibilities of compiling diplomatic history of Japan, China and Korea, taking as examples of Mongol invasions of Japan (1271, 1281), Oei Invasion (1419, known as the Gihae Eastern Expedition in Korea) and Japanese invasions of Korea (1592.) Hirosi Mitani, professor emeritus at the University of Tokyo, criticized a new high school subject introduced by the Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology, called “comprehensive histories.” The frame work of the new subject dealing with Japanese modern history is taught in the order of (1) modernization, (2) popularization, and (3) globalization. He said, however, “The order is reverse. Globalization was the start of Japanese modern history.” He added that the most important thing for the young generation is “to look at their own country from the outside and learn from each other the histories of neighboring countries. If they do not do this, they will miss a chance to know the histories of East Asia forever”. He urged the participants: “we cannot possibly advance only by dialogue. Let’s collaborate. Let’s create a reference about neighboring countries which can be read in their own countries”. I was told this type of forum will continue for at least five times hereafter. If young researchers would join, this type of works will become more active, even though political, economic and national security influences of each country would affect the outcome of the researches. Let me express my hope as a non-specialist. I want to know national histories of Japan, China, and Korea. Also, I want to know history of country-to-country relations, not limited to the three countries. For example, the Vietnam War was fought between the United States and North Vietnam. Vietnam had been fighting against France for their independence. It was Japan that ruled Vietnam before France. Historical revisionism, which tends to rewrite its own beautiful version of history, is now spreading over Japan. I do not think such atmosphere is temporary and even feel some energy in it. The forum on “dialogue among national histories” supported by a development of intellectual community of Japan, China and Korea will become more important and urgent. SGRA Kawaraban 507 in Japanese (Original) (Lecturer at Tsuda College, Former staff writer at The Asahi Shimbun) Translated by Kazuo KawamuraEnglish checked by Mac Maquito
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2017.03.09
スマートフォンが世にでる前から、私は歩きながら携帯電話を操作しないようにしている。私の友人の友人が、仕事帰りに最寄り駅から自宅までの夜道で携帯電話を見ながら歩いていて、たまたま工事中でロープが張られていたことに気付かず、それに引っかかり転倒し、膝を大きく切り11針を縫うことになったという。翌日から沖縄旅行を控えていたが、医者に海に入るどころか飛行機に乗ることも禁じられ、旅行はキャンセル。当日のキャンセルで代金は全額戻らず。私はこの惨事を被った方とは全く面識はないが、話を聞いた時「この出来事は私へのメッセージ、明日は我が身、今後携帯電話を見ながら歩かない」と決心した。それ以来、私はスマホを見ながらずんずん向こうから突進してくる人々にもなぜか寛容になれた。私が気をつけていれば大丈夫だと。しかしスマートフォンの急速な普及、そして様々な使われ方で、歩きスマホは社会問題、いや世界の課題のようだ。
ある日の日本経済新聞の見出しに「歩きスマホ万国共通」とあり、この記事には様々な国の歩きスマホ対策が紹介されていた。どの国でも事故があり問題視されているが、これといった解決策は見出されていないことまで共通している。中国湖南省で、母親の歩きスマホが原因でその子どもが交通事故死となった例が冒頭に紹介されていたが、中国の歩きスマホは深刻だ。死亡事故まで多発している。
例えば、2013年10月北京市で、17歳の女子高生が深い溝があることに気付かずに転落死。2016年8月には浙江省の男性が信号のない横断歩道をスマホを見ながら横断中に車に跳ねられ死亡。2015年11月、江蘇省の男性が階段に気付かず転落死。このように、歩きスマホの事故はキリがないほど出てくる。死に至るケースも多い。一方で歩きスマホに対する対策や危険の周知に関しては、これといって出てこないこともまた驚きだ。中国のスマートフォンユーザーは9.2億人と言われている。そのうち歩きスマホをする人は何億人いるのだろう?想像するだけでゾッとする。
歩きスマホが怖いのは中国だけではない。日本にもたくさんの歩きスマホ者がいる。日本で生活していて、歩きスマホに関して特に怖いと感じるのは、都心の混み合った駅のプラットホームで歩きスマホをする人たちと遭遇する時だ。スマホを凝視しながら足早に向かって来る人に何度もぶつかりそうになり、また歩きスマホ同士が接触している様も何度も目撃した。プラットホームで彼らにぶつかって、線路に落ちたらと思うととても怖い。最近私はホームの端っこに近づかないようにしている。日本のような先進国でもホームドアの設置が遅れている。
前述の新聞記事の結論は「結局は一人一人の意識改革が必要になる」であった。私がいつもしていることは、「混雑している場所でのスマホの操作は、道の端、柱の陰に速やかに移動して立ち止まって行う」である。迷惑にならないようにということと、衝突などから我が身を守るためである。実は私は歩きながら携帯を操作するというマルチタスクが苦手という自認もあるのだが。当分の間はこのように、自分で歩きスマホの人々から身を守るしかなさそうだ、どの国にいても。
<謝志海(しゃ・しかい)Xie_Zhihai>
共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。
2017年3月9日配信