-
2017.08.10
(私の日本留学シリーズ#11)
自分が忘れていた自分に気づかされたとき
大学で電子工学を専攻していた私は教養科目として受講した日本語の魅力に魅かれ、「言語学」という新しい道を歩むことになった。大学卒業後は、韓国外国語大学大学院日語日文学科の修士課程、(国費留学生として来日した後は)東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻の研究生・修士課程・博士後期課程で勉学を続けた。その間の私は「自分が数学や科学に興味があったこと」も、「理系学部生として勉強していたこと」も忘れ、文系院生としての自分だけに集中して生きてきた。
そんな私に渥美財団奨学生の面接審査で(当たり前のように)聞かれた「機械翻訳(Machine_Translation)や自然言語処理(NLP_[Natural_Language_Processing])」に関する質問は、ある意味私にとって衝撃的なものだった。不思議なことに私自身は「過去の自分と今の自分を結び付けよう」と考えたことがなかったからである。今は自分の専門分野である「日韓対照研究(文法論)」の他に、NLPなどの分野で、どのように自分の長所を生かせるかを模索している。「渥美財団との出会い」は私にとって忘れていた「過去の自分との再会」でもあったのだ。
福島で見たこと、感じたこと
2016年5月に、「SGRAふくしまスタディツアー」のメンバーとして訪れた福島は、私にとってまさに「見て、知って、考える」の旅だった。2011年3月に起きた「東日本大震災」から5年、私の中では忘れかけていた地震や原発のことが蘇る瞬間だった。被災地で出会った支援者の方からの言葉-「自分が見て体験した被災地のことを忘れず、今自分にできることを考えながら、(段々その関心が薄れていく)福島のことをなるべく大勢の人に伝えていきたい」-は今でも私の記憶に鮮明に残っている。今後リピーター(ラクーンメンバー※)として福島を訪ねる際は、以前の「不安や恐怖」が「希望や笑顔」に変わっていることを期待している。
SGRAのワークショップやフォーラムなどで学んだこと
蓼科でのワークショップやフォーラム(特に、「人を幸せにするロボット」)では、「普段自分が考えたことのない社会・国際問題」や「自分の研究分野からは離れた研究」などに触れることができた。研究分野や方法論は違っても研究に対する熱意や信念は変わらないという当たり前のことが実感でき、私の研究における愛情や心掛けを再確認するいい機会となった。
何と言っても渥美財団の奨学生として過ごした1年間で最も幸せだったのは、財団のプログラムを通じて知り合ったラクーンメンバー達との出会いである。私は2017年4月からいくつかの大学で非常勤講師として韓国語を教えながら博士論文を仕上げるつもりであるが、今後も財団の行事にはなるべく参加し、今まで以上にラクーンメンバーとの交流を深めていきたいと思っている。
※渥美奨学生の同窓会は、創設者渥美健夫氏が狸の絵を描いていたことに因んでラクーン会と名付けられた。
<全相律(ジョン・サンリュル)Jeon_Sangryul>
渥美国際交流財団2016年度奨学生。韓国外国語大学大学院で日本語学を専攻。2009年4月文部科学省研究留学生として来日。東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻修士課程を経て博士後期課程単位取得満期退学。専門は言語の普遍性と多様性に基づく日本語学・日韓対照言語学の研究。現在、神奈川大学、神田外語大学、帝京大学などで非常勤講師として勤務。
2017年8月10日配信
-
2017.08.03
(私の日本留学シリーズ#10)
本棚の最上段を見上げると、「ほぼ日手帳」が何冊か並んでいる。そこに私の日本留学の日々が書かれている。
私が東京に来たのは、2012年の春、6年前のことである。東日本大震災が起きた時は北京で留学申請の最中だった。母校北京外国語大学の自習室で、同級生たちとネットで流れている津波の映像を見て、皆唖然とした。CCTV(中国中央テレビ)はNHKの放送をほぼ同時に中継し、外国語大学の先生たちは同時通訳として夜遅くまでテレビ局で働いていた。学校の留学生棟の前にはいつの間にか長い列が出来、募金活動をしている日本人留学生は、貧乏学生の気前の良さに驚いた。こうした中で、周囲は心配し、私の日本留学を諦めるよう言ってきた。行くか行かないかで躊躇しなかったわけではないが、心のどこかで諦めきれなかった。
留学の最初の半年間は新生活に慣れつつ、心頭の憂いを払えなかった。留学の数ヶ月前に、父は交通事故で重傷を負い、母一人で看病していた。このことを契機に、私の心の中で、「守る」と「守られる」立場が逆転した。自分は急に大人になったと感じた。東京での生活に漸く慣れた頃、父もほぼ快復できた。夏のある日の午後、電話で久々に父の笑い声を聞いた。私は窓を開けてベランダで長い間日差しを眺めながら、時というものは妙な存在だなあと思った。あの事故は一秒遅くても起こらなかったし、一秒早くても起こらなかったはず。時の流れについては、聖人でも神様でも止めたり、逆戻りさせたりすることが出来ない。その一方で、時が経つにつれ、身体の傷も治るし、心の傷もすこしずつ忘れられる。勿論、新しい皮膚が出来ても、皮膚表層の下にその時の跡が残っているかもしれない。それでも、あの日の午後、私は庭に差し込んでいた日差しに安定感を感じ、生の喜びを味わった。
半年が過ぎ、忙しい日々が始まった。入試準備で、漢文訓読・崩し字・候文など、古典研究の基本を懸命に学んだ。入学するや否や、指導教官に学会発表を命じられた。本番の前に、3回ほどゼミで予行発表を行い、先生の指導を受けた。ゼミが終わってから、ゼミ生一同はサイゼリヤに転じて、検討会を行ってくれた。そこで先輩達にボロボロに批判された。何事も初めが難しい。あれほど指導や批判を受けたからこそ、私は初めての学会発表を無事に終え、それ以後の学会をも畏れなくなった。
普段、ゼミや読書会で中国・日本の古典を読み、夏休みや春休みに論文を書いたり、学会発表を準備したりするのが、私の基本的な生活スタイルであった。博士課程の最初の3年間は東京大学のゼミにも出席し、江戸時代の思想家の文献をひたすら読んだ。東京という文化都市にいる以上、時間を作って、能や歌舞伎を見に行ったり、コンサートを聴きに行ったり、博物館・美術館を訪れたりした。だが、基本的に研究三昧の日々であった。専門の本を読んで、疲れたら、文学や絵画など違うジャンルのものを読んだり、家事をしたり、散歩したりする。研究者は一人の時間が多い職種である。留学の間、時間との付き合い方を模索し続けた。
留学の後半に結婚した。相手(以下、W氏と称す)も研究者で、新居を探す時に、巻き尺で家々の各部屋の壁面積を測った。私はともかく、W氏は本が多く、本棚を置くスペースがほしかった。こんなに本が多くなかったら、同じ家賃でもっと優雅に暮らせる家があった。自分自身の引越より、本の引越なのだ。その時に、初めて覚悟ができた。引越してから、私はやや広くて日差しの多い部屋を書斎にし、W氏はやや狭くて緑の多い部屋を書斎とした。それぞれ中国思想と日本思想を研究しているが、儒学、特に朱子学などが二人にとって基礎教養であるため、蔵書のかなりの部分が共用できた。新居での生活が半年間過ぎ、W氏が仕事で北京に赴任した。
私は相変わらず西武新宿線の急行で通学する日々である。その頃から、博士論文に本格的に取組まなければと思った。ストレスが溜まった時、普段飲まない炭酸飲料を飲んだり、小説を読んだりして発散した。電車で本を読むのが、東京に来てから始まった習慣である。
昔から中島敦の作品が好きだったが、この時になってその明晰で、無駄が無く、味わいがある文体に一層惹かれ、書簡を含む全集を片っ端から読んだ。『弟子』に表われている師への視線、『斗南先生』における自己への洞察は、この時期の私とある程度問題意識が重なっていた。『わが西遊記』を読んで、彼の哲学的思考の幅に嘆服し、刺激を受けた。中島敦はパラオに単身赴任した時、家族に大量の書簡を送った。彼は病弱な身体に深い無力感を覚えながら、ほぼ毎日、南洋での見聞――花・食べ物・海・土着民――を文字にして、妻に手紙を寄せた。『山月記』や『李陵』などの小説における感情の発し方には美学がある。一方、妻への手紙における、心が激しく揺れたり、崩れたり、コンプレックスを抱いたりする飾り気なしの彼の感性も魅力的である。こうした中島敦の文学に触れ、知らず知らずに私は焦燥感がすこしずつ消え去り、自らの世界に安んじた。
暫くしたらこの町を離れるかもしれないが、今も庭前の桜吹雪を心静かに待っている。(2017年3月記)
<蒋建偉(ショウ・ケンイ)Jiang_Jianwei>
2016年度渥美奨学生。2013年4月に早稲田大学文学研究科東洋哲学コースに入学、現在は博士論文を提出し就職活動中。専門は日本近世思想史、特に水戸学を中心に研究している。
2017年8月3日配信
-
2017.07.27
「対象をその現前がなくても直観の中で表象する能力」
「多様を一つの形象(Bild)へ持って来る能力」
哲学者イマヌエル・カントは想像力について上記のように語った。この想像力は感性と知性の中間的能力であり、感性と知性の概念を少しずつ含んでいる。感性と知性は知覚から始まる能力であるため、想像力も知覚から始まる能力と考えられている。
私達は日常生活の中でさまざまなものや環境を感性と知性を用いて知覚し、対象を理解している。そして、そこから得られた情報と想像力を用いていろいろなことを思考している。人類は、同様のプロセスによって現在の社会システムを知覚し、想像力を用いて未来の社会システムを予測し、社会システムを発展させてきた。つまり、想像力は社会システムの発展において欠かせない要素である。
一方、想像力は映画やアニメなどの芸術とよく結合する。映画やアニメは制作された当時の時代状況に想像力を加えて人間の未来像を描く。そのため、映画やアニメの仮想現実で描かれた社会システムが後で現実の社会システムに実現される場合もある。例えば、『ブレードランナー』(1982年作)、『ターミネーター』(1984年作)、『攻殼機動隊』(1995年作)、『ガタカ』(1998年作)などで見られた科学技術およびそれが適用された社会システムは、20~30年経った今の社会を構成している。
このように私達は想像力を基盤に生きて、想像力を基盤に社会システムを構築していく。想像力はとても大切な能力であり、人間の存在意義に影響を与える重要な要素であると言えるだろう。
一方、人間に大切な能力である想像力の向上のために努力することは大切であるが、想像力の方向性も重要である。上記で挙げた映画やアニメでは科学技術は進歩しているが、人間性は低下している傾向がみられる。また、人間に対する信頼が低下し、個人個人が孤独に生きているように見える。どうして私達の未来はこのように描かれるのだろう。科学技術の進歩は人間に利便性を与えるが、その代わりに人間性を奪うのか。
私はそうではないと思う。時代の変化によって人間性の概念は変容すると考えられるかもしれないが、人間性の根本的な概念は変わらないはずだ。また、科学技術の進歩は時代の変化によって変容した人間性の概念を、人間が身につけやすくするように助ける役割を担うと思う。このように私が持っている人間の未来像は、映画やアニメーションで描かれている人間の未来像と異なる。その理由は上記で述べた想像力の方向性にあると考えられる。
人間の明るい未来像を期待するためには、まず自分が持っている想像力の方向性を見直す必要がある。しかし、スマートフォンのゲームアプリケーションや仮想現実の実現などに想像力の方向を合わせている今の社会を見ると、人間の明るい未来像を期待することが可能かという懸念が生じる。もちろん、このような科学技術の発達によって人間は幸せを感じると思うが、そのほとんどは表面的な刺激による一時的な幸せではないのか。スマートフォンのゲームアプリケーションや仮想現実などはSociety5.0(超スマート社会)の主力産業であるIoT・ビッグデータ・人工知能・ロボットに符合する分野であり、その技術を発展させる必要がある。
しかし、ここ数年間の社会の変動や人間性の変化を見る限り、方向性についてもう一度考えてみる必要があると思う。私達は明るい未来像を期待して、科学技術を進歩させている。そのため、科学技術の進歩にかかわる人々の想像力の方向性を検討すべきであると思う。
<李 志炯(イ・ジヒョン)Lee Ji-Hyeong>
2007年啓明大学(韓国)産業デザイン科卒業。2007年6月来日、千葉大学大学院工学研究科デザイン科学専攻修士課程終了。2011年~2013年、千葉大学発ベンチャー企業BBStoneデザイン心理学研究所で研究員として勤め、現在は千葉大学大学院工学研究科デザイン科学専攻博士課程在学。韓国室内建築技士・日本ユニバーサルデザイン検定の資格を保有。
2017年7月17日配信
-
2017.07.22
SGRAレポート80号
SGRAレポート80号(表紙)
第16回日韓アジア未来フォーラム
「日中韓の国際開発協力-新たなアジア型モデルの模索-」
2017年5月16日刊行
<もくじ>
はじめに:金 雄煕(キム・ウンヒ、仁荷大学国際通商学科教授)
【報 告1】「中国的ODAの展開:レシピエントの視点」
李 恩民(桜美林大学グローバル・コミュニケーション学群教授)
【報 告2】「開発協力に対するアジア的モデルの可能性の模索:北東アジア供与国間の収れんと分化」
孫 赫相(慶熙大学公共大学院院長・韓国国際開発協力研究センター所長)
【ミニ報告及び討論1】「国際開発協力におけるアジア・モデル構築に向けて」
李 鋼哲(北陸大学未来創造学部教授)
【討論2】金 泰均(ソウル大学国際大学院教授兼副院長)
【自由討論】上記報告者、渥美財団SGRA及び未来人力研究院の関連研究者
-
2017.07.20
私はジャワ島中部の北部海岸に面したジュパラという小さな港町で、高校まで平穏に育った。しかし、2000年に入った頃、政府が突然ジュパラ近郊にインドネシアで最初の原子力発電所の建設計画を発表したため、この静かな町はその賛否を巡って住民の間で激しい対立が生じることとなった。私も自然な流れで原発問題に関心を抱くようになっていた。その結果、私の日本留学の当初の目的は、原発が立地された地域住民の意識について調査を行うことにあった。
私が来日を果して間もなく、新潟中越沖地震が発生し、柏崎刈羽原子力発電所にかなり大きな被害がもたらされたと聞いた。私は自らの貧乏な生活を無視して妻を説得し、柏崎刈羽原発とその周辺地域の現地調査に向かった。
現地調査で出した私の結論は大きくまとめると次の2点であった。
第1に、さすが日本の原子力発電所は、世界一といわれる高い技術と安全性に守られて、これだけ大きな地震が起きてもその危険性は制御でき、深刻な被害には至らなかったということである。説明役の技術者は全く原発についての知識がないインドネシア人留学生に解り易い日本語で、驚く程親切な対応をしてくれた。そのため、今迄以上に「さすが日本だ」と日本の科学技術への信頼が高まったのである。
第2は、柏崎という小さな町の風景に驚かされたことである。柏崎は小さな地方の町にもかかわらず、あちらこちらに立派な学校、病院、市民会館、ホテル等が立ち並び、道路等インフラも整っていた。立派なスーパーマーケットに陳列された商品の値段が、当時私が住んでいた東京の町田よりもかなり安いのに驚かされた。これは、「電源三法交付金」という原発の立地に伴う仕組みによって実現したものである。ジュパラ住民がこの現実を知れば、私の故郷での原発を巡る激しい対立は一挙に解決するように私には思えた。もちろん、交付金のかなりの額は賄賂となって消えていくのであるが。
2011年3月11日、東北地方に発生した大地震により、福島第1原子力発電所で発生したメルトダウンによる原発事故が発生した。この事故から4年が経って、ようやく私に計画避難区域に指定された飯舘村の状況を視察する機会が訪れた。この村は福島原発から30キロメートル離れたところに位置しており、避難区域とされた20キロメートルの圏外にあった。この村の人口は約6000人で、日本でもっとも美しい100村のひとつであった。しかし、現在(注)、この村は「帰宅は許されるが、宿泊は禁止される」という村全体が絶滅状態に置かれている。
(注)2015年当時。飯舘村に対する「避難指示」は、2017年3月31日に解除され、4月から村民の帰還が始まっている。)
私自身、飯舘村の現状を直接眼で見て大きなショックを受けた。原発事故の恐ろしさを実感させられた。一体この問題の解決に今後何十年必要とするのか。誰もその見通しをつけることができない。先祖伝来の土地を奪われ、家族は離れ離れになり、村の人々にどんな新しい人生が待っているのだろうか。それは決して補償金で償えるものではない。原発に対する私の甘い考えは飯舘村の見学によって根底から吹き飛んだのである。
実は、原発ではないが、インドネシアでも似たような悲惨な出来事があった。
それはジャワ島最東部東ジャワ州にある第二の大都会スラバヤ市から南に25キロメートル離れているシドアルジョ県で起きた泥火山による熱泥などの噴出事故、いわゆるシドアルジョ泥噴出事故である。この事故の発端は、2006年5月29日、東ジャワ州シドアルジョ県ポロン郡レノクノゴ村でラピンド社が運営するブランタス鉱区のバンジャル・パンジ天然ガス田の掘削の失敗によって水蒸気噴出が起きたことだった。当初は、バンジャル・パンジ田近くの沼地から水蒸気が吹き出ただけだったが、突然、水蒸気とともに摂氏50度にも及ぶ熱い泥が噴出し、巨大な噴水のような泥は高さ8メートルにまで達した。その後噴出した泥の量は増え続け、毎日およそ1億2,600万平方メートルに上り、あっという間に広い範囲の地域に拡大していった。
発生から9年たった2015年現在、泥噴出は止まる気配さえない。具体的な被害状況は、3つの郡にまたがる12の村が壊滅的状態にある。この事故によりシドアルジョ県ポロン郡にあった10,426戸の住宅が全壊し、住居を失い、失業し、避難生活を続けている住民は
6万人に達している。
このような状況の下、インドネシア政府の避難住民に対する対応政策が何も行われないことに対して、故郷を奪われた村民たちは「自分たちは見捨てられた」と感じている。そして政府に対して強い批判と反発を生んでいるが補償は今なお困難である。
このような現状があったにもかかわらず、近年インドネシアでは原子力発電所の建設に関わる動きが再び活発になってきた。しかし、原子力に関する知識の不足、公共施設に対する管理能力の無さ、国家責任に対する無自覚などなど、インドネシアでは技術的な視点だけでなく、社会的・政治的な視点からも原子力発電所を建設するための環境条件は全く整っていない。万一事故が起こったら、政府は「国民を守れる」と自信を持って言えるのか、これらの問に答えを出せる者はインドネシアには誰もいない。
高度な安全性で、優秀な原子力の専門家や技術者が多い日本においてでさえ、福島原発事故を終わらせる道が未だ見えていない。「インドネシアの国民の発展のため」と考えるなら、原子力発電建設の計画は見直すべきところか、むしろ原子力発電所は不要であり、建設すべきではないといえる。
<M.ジャクファル・イドルス M. Jakfar Idrus>
2014年度渥美奨学生。インドネシア出身。ガジャマダ大学文学部日本語学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科に在籍し「国民国家形成における博覧会とその役割:西欧、日本、およびインドネシアを中心として」をテーマに博士論文執筆中。同大学21世紀アジア学部非常勤講師、アジア・日本研究センター客員研究員。研究領域はインドネシアを中心にアジア地域の政治と文化
2017年7月20日配信
-
2017.07.19
関口グローバル研究会(SGRA)では昨年に引き続き、福島県飯舘(いいたて)村スタディツアーを下記の通り行います。 参加ご希望の方は、SGRA事務局へご連絡ください。
SGRAでは2012年から毎年、福島第一原発事故の被災地である福島県飯舘村でのスタディツアーを行ってきました。
そのスタディツアーでの体験や考察をもとにしてSGRAワークショップ、SGRAフォーラム、SGRAカフェなど、さまざまな催しを展開してきました。今年も第6回目の「SGRAふくしまスタディツアー」を行います。ぜひ、ご参加ください。
日 程: 2017年9月15日(金)、16日(土)、17日(日)
人 数: 10人程度
宿 泊: 「ふくしま再生の会-霊山(りょうぜん)センター」
参加費: 一般参加者は新幹線往復費用+1万2千円
(ラクーン会会員には補助が出ます)
申込み締切: 8月31日(木)
申込み・問合せ: SGRA事務局 角田
E-mail:
[email protected] Tel: 03-3943-7612
プログラム・詳細
-
2017.07.19
[ngg src="galleries" ids="39" display="basic_thumbnail"]
-
2017.07.13
(原文は『明報月刊』(2017年7月号付)に掲載。平井新訳)
香港返還後の政治体制の行方は、『香港基本法』にすでに関連規定が存在している。1997年に香港返還が行われてから現在に至るまで、特別行政区政府は基本法の規定に則り円滑に統治が進められるはずであった。しかし、香港が返還20周年を迎えた今年、香港の政治体制はいったい「行政主導」なのか、はたまた「三権分立」なのかという激しい論争が巻き起こっている。
皮肉なのは、この論争に巻き込まれている当事者は、すべて中国の『憲法』及び香港『基本法』に定義されている為政者であり、返還20年来の中国と香港の政治エリートの間に、将来の香港政治の進展の方向性に関し、著しい思想的な隔たりを示していることである。両者は未だコンセンサスには至っておらず、現在及び将来の香港政治体制の発展には多くの不確定要素が横たわっている。
一方、2014年6月に北京が「一国二制度白書」を発行して以来、中央政府は中連弁(中国中央政府駐香港連絡弁公室)も含め、香港政治に積極的に介入しており、香港特別行政区の政治運営を改めて規定し直す動きが日増しに明らかになっている。このことは、香港の政治制度改革が「権威主義化」の方向に進んでいるのではないかという疑いも招いている。
〇「行政主導」か、それとも「三権分立」か?
この論争に火をつけたのは、中共中央港澳工作協調小組組長(中国共産党中央香港・マカオ工作協調チーム・リーダー)を兼務する中国共産党7常務委員(チャイナセブン)序列第3位の人民代表大会委員長、張徳江が、今年の5月27日に「香港基本法施行20周年座談会」に出席した際に発表した談話で、「香港基本法が規定している特別行政区における政治体制は三権分立ではなく、特別行政区長官を中心とした行政主導である」との指摘だった。この一言は大きな波紋と香港の民主派の強い反発を招くことになり、「大律師公會」(Hong_Kong_Bar_Association:香港法廷弁護士会)主席の林定国も「『基本法』には香港が独立した司法権を有していると明記してあり、返還20年来、そのことは一度も変わっていない」と反論した。
6月10日に至り、後任の特別行政長官林鄭月娥がテレビのインタビューで「『基本法』には、立法機関が政府を監督する権利を有すると明記してある」と語ったことで、ようやくこの論争に一段落がついた。
それでは『香港基本法』はいったい「行政主導」を強調しているのか、それとも「三権分立」なのだろうか?基本法の条文を見ると、「政治体制」の部分では、第一節で述べられているのは、行政長官の職能であり、その後に行政機関、立法機関、司法機関について規定されている。しかし、『基本法』の全文には「行政主導」に対する言及も、「三権分立」という語句も記載されていない。すなわち、張徳江が「行政主導論」を提起したのは、「香港が中央直轄の下で高度な自治権を有する行政区画としての法律的地位を享有することに符合する」と考えているためであり、その後の議論が示しているのは、その目的が「中央と香港は授権・被授権関係にあること」及び「高度な自治の名の下に中央の権力に対抗することを認めない」という主張にあることは明白である。
民主派陣営は、張徳江に対して『基本法』の中に「行政主導」が規定されていないことを強調することで速やかに反論し、張の「行政主導論」は基本法が有する「三權分立」の精神を破壊するものだと批判したのである。しかし『基本法』の「政治体制」に対する規定全体をみわたせば、「行政主導」の含意も、行政・立法の相互のチェックアンドバランス及び司法機関が独立した裁判権を行使するという「三権分立」の精神も、どちらも『基本法』において解釈の余地があり、ただ中央政府及び建制派と民主派の間で自らの利益によって各々の解釈の重点が異なるだけである。
〇2047年の「行政主導」の思想を超えて
筆者の意見では、張徳江の「行政主導論」は、中連弁主任の張曉明が2015年9月12日に提起した長官が三権を凌駕するという「特首超然論」と合致しており、加えて2014年の「オキュパイ・セントラル」以来、北京が政治改革を始動する時に何度も保守的な立場を表明するなか、中南海が香港政治体制の発展の方向性を再度位置づけし直す意図があることが見てとれる。言い換えれば、北京はすでに行政長官の香港憲政における立法、司法に優越する特殊な地位を維持ないし強化する傾向にあるということである。また、中国と香港の関係において行政長官及び特別行政区政府が「被授権」の相対的に弱い地位にあることを強調し、こうした位置づけを通じ行政長官をコントロールすることで香港を掌握するという目的を達成しようということであろう。
実際のところ、北京の頭の中にあるのは現在の「香港問題」への対応のことのみならず、「50年間変わらない」と言われた香港の現在の統治体制が終了を迎える2047年以降までを、すでに思考の視野に入れていると思われる。ここ数年、香港憲政体制及び中国香港関係についての議論で高い注目を集めている北京航空航太大学高等研究院法学院副教授で一国二制度法律研究センター執行主任の田飛龍が最近執筆した『行政主導はもう時代遅れか?──香港憲制モデルの再思考』という論考の中で、「2047 年は、『一国二制度』と『香港基本法』の存廃を決める年ではなく、(香港統治の)生まれかわりの年、行政主導と香港行政長官が生まれかわる年であり、現在の論争はすべてそれまでの間に(統治の)理念及び条件を整える準備であるのだ」と指摘している。
はっきりしているのは、田飛龍は「存廃の存在しない」という「一国二制度」と「香港基本法」がいったい2047年以降いかに「生まれかわる」のかについて、決して説明しない。田がその部分について多くの含みを持たせているのは、明らかに30年後の中国の変化が香港の制度に及ぼす影響を予測するのは難しいことを考慮してのことであり、同時に中国共産党が「行政主導」を土台とした権力思考を放棄していないばかりか、将来の長期間にわたってそれを構築し続けるだろうという予測を導き出しているということだ。
こうした権力思考のコンテクストにおいて、香港特別行政区政府がたとえ将来に政治改革を始動したとしても、少なくとも行政長官の「普通選挙」に関しては必ず「完全に支配可能」という北京の要求の基盤に沿ったものでなければならないということが判断できる。言い換えれば、予見可能な将来に渡って、中国政府が2014年に規定した行政長官「普通選挙」の全人代「八三一枠組み」(民主派の立候補を排除する)を放棄するなどという見立ては恐らく幻想に過ぎないということである。そしてこうした「支配可能」な選挙モデルは、通常、政治学における政治体制の分類における権威主義体制の特徴と図らずも一致するのである。
〇「権威主義体制」下の「支配可能な選挙」
政治学において「権威主義体制」とは、「全体主義体制」と「民主体制」の中間に位置する政治体制である。たしかに民主主義の観点からいえば、権威主義体制も専制独裁体制に分類される体制である。ただ国家もしくはその権力者があらゆる社会的リソースをコントロールする「全体主義」とくらべれば、「権威主義」は、比較的に強い支配イデオロギーを欠いており、また、国家権力は人民に宗教活動を含めた自由な活動空間を許さないほどまでに強大ではない。このほかに、権威主義体制のもう一つの特徴として、ある程度までの選挙は許容されるものの、選挙結果は必ず支配可能なものだという点である。戦後、発展が比較的早かった中南米や東アジアの多くの新興工業国、特に「四小龍」と呼ばれた韓国、台湾、シンガポールを含め、多くの東南アジアの国家が形成した政治体制は、ほとんどが「権威主義体制」の範疇に属するものである。
しかし、これまで香港は決して典型的な権威主義政体ではなかった。というのも、香港は1990年代以前には、確かに完全な選挙ではないものの、それでも一般の権威主義政体がそれを欠いている所の言論の自由や報道の自由、学問の自由など相当程度まで保障されていた。イギリス時代末期にクリストファーパッテン総督による政治改革が返還後の逆コースで頓挫して以降、香港は進むべきもう一つの道として、『基本法』に基づき、それが提示する「普通選挙」の方向に向かって、まさに一歩一歩と新しい選挙制度を再建してきた。
しかし、07、08年の「ダブル普通選挙」の延期後、さらに2017年行政長官選挙を規定する「八三一決定」がお目見えとなるに至って、もはや北京の理解においては、行政長官及び立法会を選ぶ「ダブル普選」を含む香港における高度な選挙は、必ずすべて「支配可能」な条件の下で実施されなければならないというものであることは明白である。 この点から言って、北京の支配下にある返還後の香港の政治体制の発展趨勢は、すでに権威主義体制にますます近づきつつあるといえるだろう。
〇香港政治の「権威主義」化
中国共産党が1949年に大陸において政権を掌握して以降に構築したのは、ソ連を模倣した社会主義制度で、政治体制論から言えば「全体主義体制」に分類されるものだった。この制度の下では党と国の一体化が進み、党の意志がそのまま国家政策を形成する中で、政府は人民に思想統制を敷き、あらゆる市民社会の社会活動空間を掌握していた。
毛沢東の死去に至って、鄧小平による改革開放の推進の時代を迎え、鄧による「思想解放」のスローガンの下で、1980年代は中国大陸において、これまでで思想が最も自由闊達な時代となった。北京が香港返還後に実施した「一国二制度」、「港人治港(香港人による香港統治)」という思想もまた、こうした比較的に緩やかな政治的雰囲気の中で生じたものであった。趙紫陽の時期に入ると、中国共産党は部分的に政治体制改革を開始し、村民委員会選挙も導入することができた。一方、1980年代後期の香港は区議会選挙のみを開放するばかりだった。この時期は、台湾では李登輝が憲政改革を推進する以前のことであり、国会は依然として全面改選にまでは至らず、未だ地方選挙のレベルに止まっていた。言い換えれば、1980年代末までの両岸三地は民主改革の進展度合いに大きな差はなかったのである。
1989年の民主化運動及び「天安門事件」を経て、中国共産党は政治体制改革を中止し、権威主義政体から民主政体への移行の契機は消失した。この後は、「中国の台頭」、日増しに強大化する経済的パワー、「政権の安定維持」が中国共産党にとってますます強固となる基本的な思想となった。こうした思想のもとで、中国共産党は自ずと香港に対するそれまでの「寬容」な態度から徐々に引き締めに向かい、「国民教育科」の推進や「銅鑼灣書店事件」、さらに近年は直接的に香港の教育制度に手を伸ばすような手段を採るなどした。これらの動向は、どれも中国共産党が中国大陸をコントロールする際の手法を使用することで香港社会の反発に対処しようという傾向にあることを示している。
こうした鄧小平の「馬照ホウ(足包)、舞照跳(返還後も香港人の暮らしは今までと変わらない)」という考え方に反する思想は、「雨傘運動」後に更に顕在化しており、香港の「権威主義政体」への移行路線は今にも現実のものとなろうとしている。台湾はかつて権威主義時代を経験したものの、最終的には民主化の方向に向かっていった。一方、香港はこのまま「権威主義化」の方向に進むにせよ、将来的に「脱権威主義化」の方向に向かうにせよ、その将来の行方は完全に北京の手に握られていることは全く疑問の余地はない。これこそが香港と台湾の最大の相違点と言えるだろう。
<林 泉忠(リン・センチュウ)John_Chuan-Tiong_Lim>
国際政治専攻。2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員。2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員、2014年より国立台湾大学兼任副教授。
2017年7月13日配信
-
2017.07.06
下記の通りSGRAフォーラムを北九州市で開催いたします。参加ご希望の方は、事前にお名前・ご所属・緊急連絡先をSGRA事務局宛ご連絡ください。
テーマ:第2回日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性
「蒙古襲来と13世紀モンゴル帝国のグローバル化」
会 期: 2017 年 8 月 7 日(月)~9 日(水)
8月7日(月)16:00~17:00 基調講演
8月8日(火)9:00~12:40 14:00~18:00 論文発表
8月9日(水)9:00~12:00 全体討議・総括
会 場: 北九州国際会議場国際会議室
主 催:(公財)渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)
助 成:(公財)鹿島学術振興財団
協 賛:北九州市/(公財)北九州観光コンベンション協会
参加費:無料(一般参加者の食事と宿泊は自己手配)
使用言語:日・中・韓同時通訳付き
お問い合わせ・参加申込み:SGRA事務局(
[email protected], Tel:03-3943-7612)
◇フォーラムの趣旨
東アジアにおいては「歴史和解」の問題は依然大きな課題として残されている。講和条約や共同声明によって国家間の和解が法的に成立しても、国民レベルの和解が進まないため、真の国家間の和解は覚束ない。歴史家は歴史和解にどのような貢献ができるのだろうか。
渥美国際交流財団は2015 年7月に第 49 回 SGRA(関口グローバル研究会)フォーラムを開催し、「東アジアの公共財」及び「東アジア市民社会」の可能性について議論した。そのなかで、先ず東アジアに「知の共有空間」あるいは「知のプラットフォーム」を構築し、そこから和解につながる智恵を東アジアに供給することの意義を確認した。このプラットフォームに「国史たちの対話」のコーナーを設置したのは2016年9月のアジア未来会議の機会に開催された第1回「国史たちの対話」であった。いままで3カ国の研究者の間ではさまざまな対話が行われてきたが、各国の歴史認識を左右する「国史研究者」同士の対話はまだ深められていない、という意識から、先ず東アジアにおける歴史対話を可能にする条件を探った。具体的には、三谷博先生(東京大学名誉教授)、葛兆光先生(復旦大学教授)、趙珖先生(高麗大学名誉教授)の講演により、3カ国のそれぞれの「国史」の中でアジアの出来事がどのように扱われているかを検討した。
第2回対話は自国史と他国史との関係をより構造的に理解するために、「蒙古襲来と13世紀モンゴル帝国のグローバル化」というテーマを設定した。13世紀前半の「蒙古襲来」を各国の「国史」の中で議論する場合、日本では日本文化の独立の視点が強調され、中国では蒙古(元朝)を「自国史」と見なしながら、蒙古襲来は、蒙古と日本と高麗という中国の外部で起こった出来事として扱われる。しかし、東アジア全体の視野で見れば、蒙元の高麗・日本の侵略は、文化的には各国の自我意識を喚起し、政治的には中国中心の華夷秩序の変調を象徴する出来事であった。「国史」と東アジア国際関係史の接点に今まで意識されてこなかった新たな歴史像があるのではないかと期待される。
もちろん、本会議は立場によってさまざまな歴史があることを確認することが目的であり、「対話」によって何等かの合意を得ることが目的ではない。
なお、円滑な対話を進めるため、日本語⇔中国語、日本語⇔韓国語、中国語⇔韓国語の同時通訳をつける。円卓会議の講演録は、SGRAレポートして3カ国語で発行する。
◇プログラム
〇8月7日(月)16:00~17:00 開会と基調講演
【趣旨説明】三谷博(跡見大学)
【基調講演】葛兆光(復旦大学)「『ポストモンゴル時代』?―14~15世紀の東アジア史を見直す」
〇8月8日(火)全日円卓会議(9:00~12:40 14:00~18:00)
【問題提起】劉傑(早稲田大学)
【研究発表】
(1)四日市康博(昭和女子大学)「モンゴル・インパクトの一環としての『モンゴル襲来』」
(2)チョグト(内蒙古大学)「アミルアルホンと彼がホラーサーンなどの地域において行った2回の戸籍調査について」
(3)橋本雄(北海道大学)「蒙古襲来絵詞を読みとく」
(4)エルデニバートル(内蒙古大学)「モンゴル帝国時代のモンゴル人の命名習慣に関する一考察」
(5)向正樹(同志社大学)「モンゴル帝国と火薬兵器」
(6)孫衛国(南開大学)「朝鮮王朝が編纂した高麗史書にみえる元の日本侵攻に関する叙述」
(7)金甫桄(嘉泉大学)「日本遠征をめぐる高麗忠烈王の政治的狙い」
(8)李命美(ソウル大学)「対蒙戦争-講和の過程と高麗の政権をめぐる環境の変化」
(9)チェリンドルジ(モンゴル社会科学院歴史研究所)「北元と高麗との関係に対する考察―禑王時代の関係を中心に」
(10)趙阮(漢陽大学)「14世紀におけるモンゴル帝国の食文化の高麗への流入と変化」
(11)張佳(復旦大学)「『深簷胡帽』考:蒙元とその後の時代における女真族帽子の盛衰史」
〇8月9日(水) 午前:総合セッション(総括と自由討論)
司会進行:劉傑(早稲田大学)
【論点整理】趙珖(韓国国史編纂委員会)
【討論】(日中韓モから各1名が発問、その後自由討論)
【総括】三谷博(跡見大学)
関係資料はここからご覧いただけます。
-
2017.07.03
ここのところいろいろな事件によって、忖度という言葉が注目されている。既に今年の流行語大賞の有力候補であろう。そして、ニュースで、日本外国特派員協会において「忖度」の英訳に困って「Sontaku」というローマ字が使われたと報道されたように、忖度とは日本の特性と認識されている節がある。
しかし、そもそも「忖度」が初めて出現したのは少なくとも2700年前の詩経である。意味も「他人の心を読む」とある。中国から日本へ伝わったものであるから、日本人にはあって中国人にはないとは考えにくい。私の経験からしても忖度は中国や台湾でも日本以上にまかり通っている手法であり、私が台湾で初めて社会経験をした義務兵役でも、忖度することはとても大事だと先輩から教わり、実際に軍隊の中で忖度できる人は常にいい思いをしていたものだ。正門の衛兵が、夜中に直属ではない見知らぬ上官が外で飲んだくれて身分証明も見せずに入って来た時、あるいは上官が夜中に外部の女性を連れて入って来た時、銃を向けて「これ以上入ると銃を撃つぞ!」と言った日には、反省として一週間牢屋にぶち込まれ、先輩や直属上官からは「察しが利かないやつだ」、と笑われるに違いない。
ここまで察しや忖度などの力学で組織が動くようになると組織は危うくなるものだ。法治ではなくて人治になるからである。私は除隊後4か月で東京の大学へ入学した時の、人間関係の忖度や察しから解放された自由でクリアな気分を覚えている。このように、忖度の文化は、当時は日本よりも人治国家であった台湾の方が強かったというのが私の認識である。もっともこれは私の主観なので客観的にどこまで正しいかは断定できないが、少なくとも忖度は日本特有のものではないのである。
「日本人は以心伝心ができる」「日本人は味覚が鋭い」「日本人は繊細」とか「日本人はXX」という言い方をよく聞くが、私はあまり好きではない。裏を返せば「外国人は他人の心情領域にまで踏み込んでデリカシーがない」「外国人は味覚が鈍感」「外国人は粗削り」ということになり、差別意識を埋め込んでしまうことになるからだ。島根の中海では赤貝(実際はサルボウ貝)の養殖が盛んで、煮物が地元の味として食べられている。私は「蛤の美味しさは理解できるが、赤貝の美味しさがまだ理解できていない。」と人に言ったことがある。どういうところに旨味を感じるのかを教えてもらえば私もそこに注意してみたいと思ったのだが、「日本人の繊細な舌にしか理解できない」で片付けられるのが大抵のオチなのである。
なんとも歯がゆい。味覚については、どこの国でも自国メディアは国内のめでたいことしか報道しないから、自国民は秀でていると勘違いしがちなだけである。人口が日本の1/5の台湾が豊かになってからは、パン職人は欧米のコンクールで優勝しているし、地元のウィスキーが日本のウィスキー会社以上の賞を取ったこともある。従って台湾人の味覚が劣っているとは言えない。これからは豊かになった中国人が賞を取る時代が来るだろう。味覚は人間である以上人種によってそう変わるものではない。
「日本人は何事もオブラートに包む、空気を読む、相手の『察し』に期待して断片的にしか言葉にしない」と聞く。しかし京都人の「お茶漬けでもいかがどす?」に対して日本人にもいろいろな考えがあるように、私は日本人すべてが一様な考えとは思わない。私は20年近く前に「中国人はXX」と蔑んだことがあるが、私が未熟だったために偏見に満ちていたと今は気付いて反省している。人種や国籍による差異は、経済状況などのバイアスを受けるものの根本的な部分は小さく、それよりも内部の多様性による差異の方が大きいものである。何もかも人種の違いに解釈を見出すことは偏見を助長しかねないので不安を感じる。
<葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchang>
SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。
2017年6月29日配信