• 2017.11.16

    レポート第81号「人を幸せにするロボット-人とロボットの共生社会をめざして第2回-」

    SGRAレポート第81号 SGRAレポート第81号(表紙)   第56回SGRAフォーラム 「人を幸せにするロボット-人とロボットの共生社会をめざして第2回-」 2017年11月20日刊行   <フォーラムの趣旨> 近年、ニュースや様々なイベントなどで人型ロボットを見かける機会も多くなってきた。私たちの日々の生活をサポートしてくれる「より人間らしいロボット“Humanoid”」の開発が、今、急ピッチに進んでいる。一方で、私たちの日常生活の中には、すでに多種多様なロボットが入り込んでいる、ともいわれている。例えば「お掃除ロボット」、「全自動洗濯機」、「自動運転自動車」などなど……、ロボット研究者によれば、これらもロボットなのだという。では、ロボットとは何なのだろうか?そして、未来に向けて「こころを持ったロボット」の開発がA.I.(Artificial Intelligence)の研究をベースに進められている。「こころを持ったロボット」は可能なのだろうか?「ロボットのこころ」とは何なのだろうか?この問題を突き詰めて行くと、「こころ」とは何か?という哲学の永遠の命題に行きあたる。今回のフォーラムでは、第一線で活躍中のロボット研究者と気鋭の哲学者が、それぞれの立場からロボット開発の現状をわかり易く紹介。人を幸せにするロボットとは何か?人とロボットが共生する社会とは?など、人々が抱く興味や疑問を手がかりに、さまざまな問いに答えていった。   <もくじ> 【基調講演】「夢を目指す若者が集う大学とロボット研究開発の取り組み」 稲葉雅幸(東京大学大学院情報理工学系研究科創造情報学専攻教授)   【プレゼンテーション1】「ロボットが描く未来」 李 周浩(立命館大学情報理工学部情報コミュニケーション学科教授)   【プレゼンテーション2】「ロボットの心、人間の心」 文 景楠(東京大学教養学部助教(哲学))   【プレゼンテーション3】「(絵でわかる)ロボットのしくみ」 瀬戸 文美(物書きエンジニア)   【フリーディスカッション】-フロアとの質疑応答- モデレーター:ナポレオン(SGRA) パネリスト:稲葉雅幸、李 周浩、文 景楠、瀬戸文美ほか    
  • 2017.11.10

    ジャクファル・イドルス「飯舘村復興の現状と課題ー第6回SGRAふくしまスタディツアー報告」

    2017年9月15日(金)の早朝、北海道の上空を北朝鮮から発射されたICBM(ミサイル)が通過することを知らせる不気味な警報音が日本列島に響きわたった。その直後、私たちSGRAのメンバー16名は東京駅から新幹線で福島の飯舘村に向けて出発した。渥美財団主催のSGRAふくしまスタディツアーは、2011年3月11日に発生した大震災による巨大な津波が日本の東北地方を襲い、福島原子力発電所事故に起因する放射能汚染など、世界史上稀に見る災害に対する復興状況を視察し学ぶことを目的に2012年にスタートした。とくに、放射能汚染で全域が避難を余儀なくされた飯舘村に焦点を当てて、毎年、村の復興の状況について現地に出向いて観察を行ってきた。今回を含めると6回目のツアーとなるが、私自身は3回目の参加である。   今回のツアーには、日本人だけではなく、インドネシア、韓国、中国、ガーナ、イタリア、スウェーデン、カナダ、ネパール、アメリカからのメンバーの参加があった。飯舘村はこの4月に住民の避難区域から解除されたため、村民の帰還が始まり、新しい村づくりが動き出した。私たちは飯舘村の変化の現状を直接目で見て、また村の人々と交流することによって、新しい村づくりの取り組みの状況とその困難な課題について理解を深めたいと願っていた。それが今回のツアーの重要な目的であった。   私が前回の2015年に訪れた時の飯舘村の光景を今でも鮮明に覚えている。当時、村はまだ避難区域に指定されており、そのため放射能汚染を除染する作業員以外は、ほとんど人を見かけることはなかった。あちらこちらに空き家として放置された家々は雨風に打たれてボロボロの状態で、どこを見ても悲惨な光景が広がっていた。今でも、多くの家々はいまだ空き家の状態であるし、家の周辺や田畑のあちこちに、除染土を詰めた黒い袋(フレコンバック)が山のように積み上げられている。   しかし、今回飯舘村に入ってみると、前回とは違う光景が私の目に飛び込んできた。ボロボロであった被災家屋のうち帰還を決意した人たちの家は、新しく建て替えられ、真新しい農業用のビニールハウスが点在していた。田んぼには緑の酒米が広がっている。この光景の変化は新しい村づくりが既に始まっていることを私に強く感じさせた。今までの被災地の暗いイメージは変わろうとしていた。   村民の一人であり、「ふくしま再生の会」の副理事長でもある菅野宗夫さんの話を聞き、新しい村づくりの問題はそんなに単純ではないことを私たちは知るようになる。菅野さんが語った「村は避難区域から解除され、村民の帰宅は可能となりましたが、村は様々な困難に直面しています。その様々な問題と困難とは何なのか、皆さんに実際にその目で見て、体で感じて欲しいのです」というお話こそ、私たちSGRAふくしまツアーの目的そのものであった。   飯舘村総務課長によれば被災前には約6000人であった村の住民の内、現在村に戻ってきたのはわずか400人に過ぎない。しかもそのほとんどは高齢者であり、大多数の村民は村外から昼間村に通っている状況にある。今後村が元の姿に戻るには、住民帰還に向けた環境の整備のための数多くの解決困難な問題を克服していかなければならない。   今回のツアーでは、数多くの施設を見学し、新しい村づくりに努力する人々からも話を聞くことができた。そのいくつかの状況について簡単に報告したい。   (1)老人ホーム 震災以前に建てられた立派な建物は、震災による被害はなかったため、現在も使用可能である。しかし、看護師や介護師の数が大幅に不足しているため、それを維持し、充実させるには困難な状況が続いている。   (2)メガソーラーパネル 村の西側地区に田や畑に代わって、東京の大企業の大規模なメガソーラーパネルが設置されている。これは新しい村づくりのひとつの試みとも考えられるが、私には村の美しい自然との調和という点で、率直に言って違和感を覚えた。飯舘村の人々の生活に新たな問題となることがないよう願っている。   (3)花作り 農家の高橋さんの花作りのビニールハウスを見学し、高橋さんの力強い話を聞いた。このような村に戻ってきた人たちの未来に向けた一人一人の努力が村の発展の基礎であることを強く感じさせられた。困難を克服しようという高橋さんのエネルギーには少なからず感動を覚えた。   (4)道の駅「までい館」 「までい館」は飯舘村の復興のシンボルとして、国の重点支援を受けて作られた施設である。村内には、まだ以前のような商店は無く、帰ってきた村民の生活環境の向上や交流の場として、コンビニ、農産物の直売、軽食コーナーなどの施設の充実が図られている。このような施設がさらに発展して、村外からの人々も集まるようになることを期待したい。   (5)マキバノハナゾノ 上述の高橋さんの花作りとは別に、「花の仙人」と呼ばれている大久保金一さん(76才)の花園を見学した。夢のある大きなプロジェクトで、放射能汚染の被害を受けた山の中腹や水田を利用して水仙や桜などを植えていく大規模な花園作りが試みられている。ボランティアの若者グループも協力しているそうで、とても76才とは思えないエネルギーには驚かされた。ここが近い将来、復興のシンボルとして飯舘村の名所になるに違いない。   (6)宗教施設 山津見神社を見学した。ここで偶然飯舘村の村長と出会い、村の現状について話を聞くことができた。 私は村の復興にとって宗教の存在は非常に大きいと思う。とくに日本の社会はその伝統的な習慣や祭りなど、神社や寺院と密接に結びついてきた。私はインドネシア人でイスラム教徒であるが、インドネシアでも被災の復興では宗教が重要な役割を担う。   今回のSGRAふくしまツアーでは、飯舘村の人々と心暖まる数多くの交流ができ、又多くのことを学ぶことができた。ご協力をいただいた皆さまに心から感謝申し上げます。避難区域から解除されたことは新しい出発点に立ったことであると思う。私も飯舘村の明るい未来を信じて、これからも強い関心を持ち続けていきたいと思う。   ツアーの写真   <M. ジャクファル・イドルス  M. Jakfar Idrus> 2014年度渥美奨学生。インドネシア出身。ガジャマダ大学文学部日本語学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科に在籍し「国民国家形成における博覧会とその役割ー西欧、日本、およびインドネシアを中心としてー」をテーマに博士論文執筆中。同大学21世紀アジア学部非常勤講師、アジア・日本研究センター客員研究員。研究領域はインドネシアを中心にアジア地域の政治と文化。     2017年11月10日配信
  • 2017.11.07

    Fukushima Study Tour 2017

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  • 2017.11.02

    エッセイ550:彭浩「東アジア『公共知』への接近」

      8月上旬、渥美国際交流財団の主催で、「国史たちの対話の可能性」というシリーズの第2回として、「蒙古襲来と13世紀モンゴル帝国のグローバル化」をテーマとしたフォーラムが北九州市で開かれた。日・中・韓、モンゴル4ヶ国の歴史家が集まり、さまざまな側面から、モンゴル帝国史とりわけ東アジアへのインパクトについて広く議論した。私は、ひとりの歴史研究者でありながら、本プロジェクトの企画にも携わったので、所感も多くそして多岐にわたる。この感想文の執筆を機会に、簡単に整理したい。   まず、この会議は、単なる「蒙古襲来」というキーワードの国際研究集会ではなく、1つの話題、または1素材の検討を通じて、国民国家の歴史叙述と異なる視角から人類の歴史を描き、それを通じて国民国家史観の影響で硬直化されつつある歴史認識の間違いを訂正し、政治手段化した歴史認識の問題によって阻害されている国家間の関係、および国民間の関係を改善していく、という大きな問題意識を抱えていることを再び強調したい。   会議中何人かの参加者が言及した通り、実は、日中韓3者、またはその中の2者間の歴史をめぐる「対話」が近年さまざまな形で展開されている。なかには、よく知られている政府主導型のものもあれば、個別の歴史テーマ・研究手法、または史料の利用方法などをめぐる専門性の高いものもある。それぞれの方向性と目的は、必ずしも一致しているとは限らない。また、三谷博先生が指摘された通り、参加者の間で、仲良くなったかそれとも悪くなったかという点を考えると、民間レベルの「対話」の方が進みやすいと言わざるを得ない。   一方、民間レベルの研究集会は、個別のテーマの議論や専門的知識の深まりという点では成果が出やすい反面、人文研究者の「癖」、または「惰性」でもあるためか、興味のあるテーマの話に夢中になり、その話の社会的意義をあまりよく考えず、専門的な議論がどのように共通の歴史認識の促進に活かせるかという大事な点を、結果的に疎かにする傾向がある。また、資金面の問題もあり、研究補助金を得ながら共同研究を長く継続することが困難で、中途半端の形で終わってしまった「対話」も少なくない。   この問題点と関わってくるのが、劉傑先生が起草されたフォーラムの趣旨文の「知の共有空間」「知のプラットフォーム」というキーワードである。この「知」の意味は広くて、少なくとも「知恵」「知識」両者の意味を包摂している。専門的な研究を通じて信頼性の高い歴史「知識」を創出し、それを広く理解してもらうことで、国民国家の限界や歴史認識の問題を解決する「知恵」をめぐらすという真意がある。これについては、具体的な研究レベルの議論を進めていく際に、やはり忘れがちなので、ここで敢えて加筆した。   次に、会議中のいくつかの論点を踏まえて所感を述べる。1つは「モンゴル・インパクト」の評価についてであるが、1本目の四日市康博氏の報告では、モンゴル帝国の東アジア進出の全体像が分かりやすく描かれていた。ほかの報告者の具体的な議論にも現れたように、そのインパクトには、モンゴル的要素が中国を含む東アジア世界に広がっていく面もあれば、中国を支配して周辺へ勢力を拡大することで、一部の地域に中国化をもたらした面もあった。「モンゴル・インパクト」が立体的に描かれていたことを、非常に面白く感じた。   最近、「新清史」の議論のなかでも、清の支配者は、中華の皇帝であると同時に、多様な顔を持ち、地域と民族に対しては異なる支配の仕組みと論理を築いていたという歴史像が提示されている。清史と比べると、モンゴル帝国史の場合、モンゴル語の史料が限られている中、東アジアに関わる側面は、主に漢文の史料で記録されていて、また現存されている史料は漢文で書かれたものが圧倒的に多い。それで、ひとつの中華王朝である「元朝」のイメージが定着しやすいが、モンゴル人の主体性、またはモンゴル帝国の多元性は表に出にくくなる。近年、杉山正明先生たちの仕事で、豊かなモンゴル帝国史の歴史像が浮き彫りになり、今回の発表者の報告を聞いて、ますます感銘を持つようになった。   これとの関係で、劉先生が全体議論の時にまとめた諸論点の1つでもあるが、今回のテーマにあたる時代は、中国史におけるモンゴル人の支配と、モンゴル帝国の一部である中国への支配との二重性があり、これを「公共知」として語る時、どう扱うべきかという課題がある。さまざまな意見があるなか、従来のように、中国史の一時代として「元史」を取り上げる一方、それを超えて東アジアの文脈、またはユーラシアの文脈でどう見るべきかに関しても加筆する、という重層的な叙述手法が、葛兆光先生の発言で提示された。国民国家がさまざまな問題を抱えるにもかかわらず、すぐ解消する気配もないため、国民国家の史観を完全に廃棄するのは現実的とはいえない。むしろ、こうした重層的な歴史叙述を通じて、いままで見えてこなかった多次元の歴史像を教科書に組み込むことが、長い目でみれば、「公共知」の構築に役立つと思われる。   また、一次史料が乏しい状況に対して、モンゴル帝国史の研究者はどのように過去と対話して史実を探求してきたかという関心もあった。各報告から、編纂物の史料批判、非文字史料からの接近、人類社会の「常識」と歴史背景を踏まえた推論などの創意工夫が講じられてきたことがよく分かった。扱う時代や地域の異なる歴史家の対話を通じて、方法論について互い刺激しあうこともあり、それはまた別の意味で「公共知」へのアプローチに繋がるのであろう。   中国語版はこちら 韓国語版はこちら 英訳版はこちら   <彭浩(ほう・こう)Peng_Hao> 大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。専攻は日本近世史、東アジア国際貿易史。2012年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了(文学博士)。日本学術振興会外国人特別研究員・東京大学史料編纂所特任研究員を経て現職。主な研究成果は、単著『近世日清通商関係史』(東京大学出版会、2015年)等。     2017年11月2日配信
  • 2017.10.27

    エッセイ549:ナヒヤ「国史たちの対話の可能性」

    近年になって、民族主義的歴史観とそれによる歴史教育の弊害についての議論が激しくなっており、その代案として、地域史研究の視点からその歴史的流れを把握することが強調されつつある。言い換えれば、ネーションと民族単位ではなく、共通の文化的同質性をもつ一定の地域を一つの単位としてまとめることによって、これまで意識されてこなかった新たな歴史像があるのではないかと期待されている。   ここで浮かび上がる主要カテゴリーの一つが東アジアである。これに該当する地域はモンゴルを含む、中国、朝鮮半島の韓国・北朝鮮、日本などである。モンゴルを除けば、該当する国々は伝統的には海路を通じて結びついている地域であり、漢字文化圏という呼称が示すように、数千年にわたって文化的交流が活発であろ、文化的同質性を帯びている地域である。また、これらの地域の多くは13世紀から14世紀後半にかけて、モンゴルによって政治的に統合されたことがある。この期間の東アジア文化圏の文化的交流と融合は最も盛んで、その文化的影響は現在も引き続き残っていると考えるべきだろう。   高麗とモンゴルの出会いは、13世紀の初めころ、高麗側がモンゴルに貢物を献上することを約束したため、モンゴルからの使者が高麗を頻繁に訪れ、極めて横柄に法外な量の貢物を要求するようになった。そのような使者の代表格が、1221年から毎年のように貢物を受け取っては持ち帰る著古與という者であった。その著古與が1231年に貢物を受け取った帰路、鴨緑江を超えたところで死んでしまった。当時モンゴルでは、チンギス・カーンの後を継いだウゲデイが即位していたが、ウゲデイ・カーンはこの著古與の死の責任を高麗に問うて6回に亘って軍を送り込み、1259年、高麗はモンゴルに全面降伏する。   その後、済州(チェジュ)がモンゴルと出会う。済州は古くは耽羅国が成立していたが、高麗により合併。朝鮮半島と中国大陸や日本列島などをつなぐ中間的地点であり、好むと好まざるとにかかわらず、周辺地域との交流が盛んになる地政学的位置にある。一方、国際情勢が揺れ動く時には激しい変化を経験することもあった。   これまで、済州とモンゴルの最初の交流については、対立と葛藤の関係と見て、それが済州社会に与えた影響は無視するか、極小化しようとする立場を取ってきたと言える。これには、民族主義的立場を揚げる歴史観と共に、モンゴル帝国没落以後の長い歳月の間、漢族を中国支配の正統と見なし、他の種族は夷であると見る華夷論が広く深く受け継がれてきた影響が大きく作用している。しかし、最近になって、「翻って、国家と民族単位ではなく、済州の対外関係と済州の人々の生活と文化という観点から眺めてみた時、済州とモンゴルの最初の交流は済州地域のアイデンティティ形成に大きな影響を与えたのであり、これは今日でも見いだすことができる」という提案もある。例えば、済州にモンゴルから馬が持ち込まれて国営牧場が営まれていた。現在、韓国が国を挙げて保護に努めている「済州馬」は、済州島の在来種「果下馬」と北方から将来された外来種「胡馬」との混血種であり、モンゴル支配時代にモンゴル馬や西域馬とさらに混血し多品種化して残ったものだといわれている。   1265年、モンゴルのクビライ・カーンは、ある高麗人に、日本がかつては中国に使者を送って通好していたことを告げられ、翌1266年に高麗の元宗の所に使者を遣わした。その使者は2通の書簡を携えていた。1通は「日本国王」に通好を呼びかけるもの、もう1通はその使者を日本まで送り届けるよう元宗に命じるものであった。これに始まるクビライの数度の呼びかけに日本側が一切応じず、結果として日本遠征、日本で言うところの元寇あるいは蒙古襲来を引き起こすことになった。   2017年8月7日~9日に、歴史家は東アジアにおける「歴史和解」にどのような貢献ができるのかという趣旨で、「第2回日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性:蒙古襲来と13世紀モンゴル帝国のグローバル化」円卓会議が北九州市で開催された。東アジア全体の視野で、モンゴルの高麗・日本侵略は、文化的には各国の自我認識を喚起し、政治的には中国中心の華夷秩序の変調を象徴するため、立場によってさまざまな歴史があることと、「国史」と東アジア国際関係史の接点に今まで意識されてこなかった新たな歴史像の確認が期待され、4か国の学者による議論も一段と熱が入った。   翌日、「蒙古襲来」遺跡見学コースで元寇資料館、箱崎宮、松原元寇防塁跡などを見学したが、ここで得られたものも大きかった。NPO法人志賀島歴史研究会の岡本顕実さんや筥崎宮宮司田村克喜さんの歴史的感覚の豊かさに驚かざるを得ない。箱崎宮の楼門には、元寇の折亀山上皇が書かれた「敵国降伏」の額が掲げられている。この4文字は、一般的には日本に攻め寄せてくる敵国を降伏させようというお祈りのように考えられる。ところが、「敵国降伏」というのは、敵国が我が国のすぐれた徳の力によって、おのずからに靡き、統一されるという「徳による王者の業なり」という。   自国史と他国史との関係をより構造的に理解するために、さまざまな歴史があることをまず確認する必要があろう。しかし、それではいつまでもばらばらであるから、その上で、異なる立場の研究者同士が対話を進めて共有できるものを模索する知的な空間の創造が求められている。   中国語版はこちら 韓国語版はこちら   <娜荷芽(ナヒヤ)Naheya> 内蒙古大学・蒙古学学院蒙古歴史学学部助研究員。専攻は東アジア近現代史、モンゴル史。2012年東京大学大学院修了(歴史学博士)。武蔵大学、和光大学講師を経て現在に至る。主な著作:「近代内モンゴルにおける教育・文化政策研究」(博士論文、2012年)、「満洲国におけるモンゴル人中等教育――興安学院を事例に――」(『日本モンゴル学会紀要』第42号、2012年、3‐21頁)、「1930~40年代の内モンゴル東部におけるモンゴル人の活動」(『日本とモンゴル』第49巻第2号(130号)、2015年3月、108-119頁)等。       2017年10月27日配信
  • 2017.10.19

    エッセイ特別号:「『蒙古襲来』という言葉をめぐって:国史たちの対話のための対話(葉文昌⇄三谷博)」

    SGRAエッセイ547(三谷博「東アジアにおける歴史対話の再開-北九州での『蒙古襲来』会議」)に関して、著者と読者の葉文昌さんとの興味深い「対話」がありましたのでご紹介します。   【葉→三谷】   エッセイを拝見しました。 大変クリアで科学的なアプローチで面白いと思いました。アナクロニズムも困ったものです。 また「国際会議に出て質問せえへんかったら、罰金やでー」も大変良いと思いました。 会議によっては現場からの質問がない、または受け付けないのもあり、澱んだ雰囲気になってしまうので。   一方で一つ気になった所があります。 タイトルが「蒙古襲来...」なのですが、「襲来」とは主観的な言葉であります。 宇宙人にでもなった第三者的な立場で歴史を表現するのが理想なので、「蒙古出兵」「蒙古進出」「蒙古侵略」(侵略は恨みの感情が入るので好ましくないが)にするべきではないでしょうか? なにか先生なりのお考えがあるのでしたら教えてください。 よろしくお願いいたします。   【三谷→葉】   はい。「蒙古襲来」は、日本の日本史教科書や学界で慣用される言葉です。「襲来」とは、ある土地から見て外部から別の集団が襲ってくるという意味です。歴史用語は、どの位置から見ても、どの主体から見ても「等価」というものは少なく、多少なりとも、特定の観点を内在させています。   代替用語としてご指摘の言葉にも、それぞれの観点が内在しています。 「蒙古出兵」・「蒙古進出」は、「出兵」や「進出」する蒙古の側からの視点で用いられ、それを受け止める側への想像力が欠けがちです。かつて世界史教科書の近代の部分で、「日本の進出」という用語が使われて、隣国から非難されたことがありますが、それはこのためです。 「蒙古侵略」は、侵略する蒙古と侵略される日本の両方を意識させ、後者の観点からの「侵略」への非難も含意します。「日本の中国侵略」という場合も同様です。   というわけで、人間社会を記述するときは、単一の観点から全体を表現することは難しく、理想的には複数の観点を同時に使うしかありません。   この度の「蒙古襲来」は専ら日本人の関心を引くために使ったもののようです。 タイトルの中でこれに続いている「グローバル化」は、まさに地球の外から見下ろす用語なので、主動者と被動者という関係への関心は薄くなります。   いかかでしょうか?   【葉→三谷】   ご回答大変ありがとうございました。 私の言葉に対する誤解かも知れませんが、私は「出兵」は「軍隊を出す」なので、事象の記述と思っております。(一方で「進出」は兵隊を送ったことをオブラートに包みすぎと思っています) 仮に「出兵」自体が片側の視点であるとしても、これをやめて、他の事象を表現する形容詞を使ったらいいのではと思っております。 歴史に、「特定の観点を内在させているもの」が許されるのであれば、歴史は二面性を持っているということになります。これは非科学的と思います。また、他国に対する主観的な表現も許されることになります。これはご指摘されたアナクロニズム(時代錯誤)とはそう変わらないです。 かたや自分の位置で物事を表す、かたや自分の時間で過去を表わす、だけの違いですので。 また「特定の観点を内在させている」こと自体が、アジアでの共通な歴史認識を不可能にしていると思います。 歴史教科書では、欧米の歴史や、本国の王道と外れた歴史に関しては、第三者的な表現となっています。 本国の歴史も、特定の観点を排除した、事象の表現に徹した、誰がどこで読んでも一様な、歴史教科書が良いのではないかと思っております。   以上、私の歴史記述に持つ理想でした。   【三谷→葉】   話が込み入ってきたので、一からやり直します。 社会を表現する言葉は、そのコンテキストが分かるように表現するのが「科学的」なのです。 自然科学では、一つのモノ、一つの現象に、一つの用語を対応させる慣行がありますが、それは何のためでしょう。それは、個々のモノ、個々の現象が、均質なものの一部で、かつ互いに干渉しないと仮定し、その間の関係を方程式で厳密に記述するためです。   翻って、社会の単位はそれぞれに異質で、かつ他との関係でのみ成り立っています。ここでは単純な方程式は成り立ちません。 人は自然科学的にはヒトの一部ですが、人Aと人Bを均質なもので互いに置き換え可能と考えることはできません。同じ条件下でも彼らは別の行動を取ることがしばしばです。 かつ、彼らは孤立した原子ではありません。生まれたときから家族に育てられ、生計も別の個人との関係なくしては成り立ちません。社会関係の中にあって初めて、生き続けられるのです。   鉄の粒が磁性を帯びて、互いに引きつけ合ったり、反発し合ったりすることがありますが、その振る舞いを理解するために個々の粒を調べる必要はありません。社会は違います。 社会を構成する個人は、そのため複数の名を与えられ、それぞれの名は特定の文脈のなかで使われます。 例えば、私の呼び名はいくつもあって、公的書類には「三谷 博」と記されますが、両親からは「ひろし」、幼友達には「ひろっちゃん」と呼ばれて育ち、学校の先生と同級生には「三谷君」、下の学年からは「三谷さん」と呼ばれ、社会に出てからはもっぱら「三谷さん」と呼ばれてきました。アメリカ人と友達になると「ヒロシ」と呼ばれるようになりましたが、今でもこれにはなじめません。日本の社会関係にあるべき、上下の関係と親しさの距離による使い分けの慣行からはみ出す用語法だからです。 つまり名前は社会関係を表現するためにあるのであって、これを「三谷博」の一つに固定されたら、どれほど居心地が悪いことでしょう。   これは日本に限られた現象ではないはずです。しかし、人類の近代には政府が税負担者を特定し、学校と試験の制度を管理するために、どの国でも名の一義性を強制してきました。このため、歴史教育の世界でも、一つの事象に正しい名は一つしかないという、現実に反する思い込みが広がっています。 日本の江戸時代には、人は複数の名を活用して生きていました。政府との関係では公式の名を名乗らされましたが、それ以外は管理の対象外で、世襲身分でがんじがらめの社会にあっても、お茶席に入り、茶名を名乗れば、互いの上下関係は消滅しました。俳句の俳名もそうです。学問の場合でも、学者たちは号を使い、身分差を越えた対話を楽しみました。つまり、名を使い分けることによって、当時の人々は場面ごとに異なる社会関係を生きていたのです。   国と国との関係も同じことで、名は当事者の関係を表現するために用いられます。社会関係を正確に、科学的に表現するには、当事者すべてを包み込みながら、それぞれの立場を表現できる言葉が必要で、ときには複数の言葉を併用せざるを得なくなるのです。   グローバル化のような、宇宙から見下ろしたような表現が可能になったのはスプートニク以後のことで、これを使った場合でも、地上にいる人間同士の関係を十分に表現できるわけではありません。無論、個々の町村、個々の府県、個々の国を超えた視野を人類が持てるようになったのは、人類始まって以来の画期的なことではありますが。   【葉→三谷】   詳しいご説明ありがとうございました。 人は均質ではなく、それぞれ複雑な考えを持つことから、 一つの事象に対して違った表現は可能であるとのことについて、先生のお考えはわかりました。 それだとアジアでそれぞれ独自の歴史記述が存在してまとまらないので、 シンプルで一様な表現にしましょうというのが私の考えでした。 お互い理解できない溝があるように感じています。 それはアジアの歴史の対話の難しさを物語っているようです。   私はグローバル化を今始まったことではなく、原始時代から絶えず続いていることと捉えています。 互いに独自文化を持っていた村落などの集合体が拡大によって他の集合体との接点を持ち(出兵もあり)、 より複雑な多様性を持ったまとまった集落を形成して行く過程がグローバル化と考えております。 直近の日本では、廃藩置県により地域の隔てがなくなり、かつテクノロジーによって文化などの伝達速度が速まった明治維新の頃と思います。 このため、私は今起こっているグローバル化を画期的とはとらえておりません。 国内の歴史でも、王道から外れた部分の歴史記述は、宇宙から地球を見下ろす表現となっております。 そのような記述を今のアジアに求めているのです。   昔攻めあっていたヨーロッパ各国の歴史は、今やEUという統一ユニットを形成しているので、 それぞれの国の歴史記述は、アジアにとって多いに参考できるのではないかと思います。 英仏の百年戦争はそれぞれどういう記述がなされているか、興味を持つ所です。 あるいは英国はEUと陸続きではないので、英国よりもEU大陸内が良いかも知れません。 今西さんの持つネットワークで、お願いしたいものです。   【三谷→葉】   返信が遅くなり、失礼いたしました。私も基本的には先生と同じ事実認識と理想を持っています。日本史をグローバルな視点から見直すことが私のライフワークです。   各国内部の視点を越える俯瞰視点が一つ見つかれば、それはありがたいことです。 しかし、私の知る限り、EUでのポーランドードイツ、フランス-ドイツが作製した共通教科書は、内容が表面的なものに留まったため、結局、使われなくなったようです。まして、東アジアでは、国の規模やそれぞれの直近の経験が大きく異なるため、一つの視点で書くのは無理があると思います。稀な例として、日中韓三国共通教材『新しい東アジアの近現代史』上・下、日本評論社、2012年がありますが、三国を同じ枠で書こうとしたために、一部にはかなりの無理が生じています。   というわけで、私は、いま可能なことは、各国それぞれに、同じ歴史事象を、国の内部からと第三者に分かるような視点(審級と哲学者は呼んでいます)と、二層を意識しつつ書くことくらいでないかと考えています。東アジアの外部の人が聴いても理解できるような言葉で語ると、自らが生まれながらに抱いている偏見に気づき、反省ができるようになり、歴史を距離を取って眺め、隣国の人とも冷静に語れるような態度が生まれるのではないかと期待しています。   【葉→三谷】   私の歴史に関する素人質問に時間をかけて真摯に向き合っていただき大変ありがとうございました。私も今週になって、ヨーロッパの歴史記述について調べた所、独仏共通歴史書があることがわかりました。両国はEUになってもなお、共通歴史書の作成には結局は失敗に終わったようで、難しさを感じます。       2017年10月ア19日配信    
  • 2017.10.19

    第11回SGRAチャイナ・フォーラム「東アジアからみた中国美術史学」へのお誘い

    下記の通りSGRAチャイナ・フォーラムを開催いたします。参加ご希望の方は、事前にお名前・ご所属・緊急連絡先をSGRA事務局宛ご連絡ください。 ※お問い合わせ・参加申込み:SGRA事務局([email protected], 03-3943-7612)   テーマ: 「東アジアからみた中国美術史学」 日 時:  2017年11月25日(土)午後2時~5時 会 場:  北京師範大学後主楼914 主 催:  渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA) 共 催:  北京師範大学外国語学院、清華東亜文化講座 助 成:  国際交流基金北京日本文化センター、鹿島美術財団     ◇フォーラムの趣旨   作品の持つ芸術性を編述し、それを取り巻く社会や歴史そして作品の「場」やコンテキストを明らかにすることによって作品の価値づけを行う美術史学は、近代的社会制度の中で歴史学と美学、文化財保存・保護に裏打ちされた学問体系として確立した。とりわけ中国美術史学の成立過程においては、前時代までに形成された古物の造形世界を、日本や欧米にて先立って成立した近代的「美術」観とその歴史叙述を継承しながらいかに近代的学問として体系化するか、そして大学と博物館という近代的制度のなかにいかに再編するかというジレンマに直面した。この歴史的転換と密接に連動しながら形成されたのが、中国美術研究をめぐる中国・日本・アメリカの「美術史家」たちと、それぞれの地域に形成された中国美術コレクションである。このような中国美術あるいは中国美術史が内包する時代と地域を越えた文化的多様性を検証することによって、大局的な東アジア広域文化史を理解する一助としたい。     ◇プログラム 総合司会:孫 建軍(北京大学日本言語文化学部)   【問題提起】林 少陽(東京大学大学院総合文化研究科)   【発表1】塚本麿充(東京大学東洋文化研究所) 「江戸時代の中国絵画コレクション ―近代・中国学への架け橋―」   【発表2】呉 孟晋(京都国立博物館) 「漢学と中国学のはざまで―長尾雨山と近代日本の中国書画コレクション―」   【円卓会議】 進 行: 王 志松(北京師範大学) 討 論: 趙 京華(北京第二外国語学院文学院) 王 中忱(清華大学中国文学科) 劉 暁峰(清華大学歴史学科) 総 括: 董 炳月(中国社会科学院文学研究所)   同時通訳(日本語⇔中国語):丁莉(北京大学)、宋剛(北京外国語大学)   ※詳細は、下記をご参照ください。 プログラム(日本語) プログラム(中国語)     ◇開催経緯と過去3回のチャイナ・フォーラム   公益財団法人渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)は、清華東亜文化講座のご協力を得て、2014年から毎年1回、計3回のSGRAチャイナ・フォーラムを北京等で開催し、日中韓を中心とした東北アジア地域の歴史を「文化と越境」をキーワードとして検討してきた。   2014年の会議では、19世紀以降の華夷秩序の崩壊と東アジア世界の分裂という歴史的背景のもとでつくられた近代の東アジア美術史が、歴史的な美術の交流と実態を反映していない「一国美術史」として語られてきたという問題を提起し、この一国史観を脱却した真の「東アジア美術史」の構築こそ、同時に東アジアにおける近代の超克への一つの重要な試金石となることを指摘した。(佐藤道信:「近代の超克―東アジア美術史は可能か」)   一方、「工芸」は用語の誕生から制度としての「美術」の成立と深い関係にある。アジアにおいては、陶磁器や青銅器や漆器などを賞玩してきた歴史があり、工芸にはアジアの人々が共感しうる近代化以前の生活文化に根差した価値観が含まれているが、近代では「美術」の一部とみなされる。「美術」と「工芸」は、漢字圏文化と西洋文化との関係および葛藤を表していると同時に、日中両国のナショナリズム、国民国家の展開や葛藤とも深い関係にあることが確認された。(木田拓也「工芸家が夢みたアジア:<東洋>と<日本>のはざまで」)   2015年の会議では、古代の交流史と対比して「抗争史」の側面が強調される従来の近代東アジア史観に対して、実際の近代日中韓三国間において、「他者」である西洋文化受容と理解という目的のもと、互いの成果・経験・教訓を共有する多彩多様な文化的交流が展開し古代にも劣らぬ文化圏を形成していたことを踏まえ、改めて交流史を結節点とした見直しの重要性を確認した。(劉建輝:「日中二百年-文化史からの再検討」)   2016年の会議では、近代に成立した国民国家の文化的同一性のもとに収斂された「一国文化史」という言説の虚構性や恣意性を明らかにした。いわゆる中間領域に存在する作品が内包する文脈から、「モノ」の移動にともなって生まれた多様な価値観と重層的な歴史と社会の有様が認識でき、文物が国家に属するという従来の既成概念を取り去り改めて文物の交流を起点に大局的な文化(受容)史観を構築することの重要性を指摘した。(塚本麿充:「境界と国籍-“美術”作品をめぐる社会との対話―」)   次いで文学史からは、近代の日中外交文書における漢字語彙の使用状況とりわけ同形語の変遷をたどり、日本語から新漢字を輸入することによって古い漢字語彙から近代語へと変容していく現代中国語の形成過程から、ひとつの言語が存立するにあたり、実際の語彙の移動と交流に依拠する多層性と雑種性を持ちうることを明らかにした。(孫建軍:「日中外交文書にみられる漢字語彙の近代」)   それぞれの報告から、「国境」や「境界」というフレームに捉われない多様な歴史事象の存在を認識し、改めて「広域文化史」構築の可能性とその課題を浮き彫りにした。
  • 2017.10.07

    第58回SGRAフォーラム「アジアを結ぶ?『一帯一路』の地政学」へのお誘い

    下記の通りSGRAフォーラムを開催いたします。参加ご希望の方は、事前にお名前・ご所属・緊急連絡先をSGRA事務局宛ご連絡ください。   テーマ:「アジアを結ぶ?『一帯一路』の地政学」 日時:2017年11月18日(土)午後1時30分~4時30分 その後懇親会 会場:東京国際フォーラム ガラス棟 G610 号室 参加費:フォーラムは無料 懇親会は賛助会員・学生1000円、メール会員・一般2000円 お問い合わせ・参加申込み:SGRA事務局([email protected], 03-3943-7612)     ◇フォーラムの趣旨   中国政府は2013年9月から、シルクロード経済ベルトと 海上シルクロードをベースにしてヨーロッパとアジアを連結させる「一帯一路」政策を実行している。「一帯一路」政策の内容の中心には、中国から東南アジア、中央アジア、中東とアフリカを陸上と海上の双方で繋げて、アジアからヨーロッパまでの経済通路を活性化するという、習近平(シーチンピン)中国国家主席の意欲的な考えがある。しかし、国際政治の秩序の視点から観れば、「一帯一路」政策が単純な経済目的のみを追求するものではないという構造を垣間見ることができる。   「一帯一路」政策は、表面的にはアジアインフラ投資銀行(AIIB)を通じた新興国の支援、融資、そしてインフラ建設などの政策が含まれており、経済発展の共有を一番の目的にしているが、実際には、貿易ルートとエネルギー資源の確保、そして東南アジア、中央アジア、中東とアフリカにまで及ぶ広範な地域での中国の政治的な影響力を高めることによって、これまで西洋中心で動いて来た国際秩序に挑戦する中国の動きが浮かび上がってくる。   本フォーラムでは、中国の外交・経済戦略でもある「一帯一路」政策の発展を、国際政治の観点から地政学の論理で読み解く。「一帯一路」政策の背景と歴史的な意味を中国の視点から考える基調講演の後、日本、韓国、東南アジア、中東における「一帯一路」政策の意味を検討し、最後に、4つの報告に関する議論を通じて「一帯一路」政策に対する日本の政策と立ち位置を考える。   ◇プログラム 詳細はこちらをご覧ください。   【基調講演】 「一帯一路構想は関係諸国がともに追いかけるロマン」 朱建栄(Prof. Jianrong ZHU)東洋学園大学教授   【研究発表1】 「戦後日本の対外経済戦略と『一帯一路』に対する示唆」 李彦銘(Dr. Yanming LI)東京大学教養学部特任講師   【研究発表2】 「米中の戦略的競争と一帯一路:韓国からの視座」 朴 栄濬 (Prof. Young June PARK) 韓国国防大学校安全保障大学院教授   【研究発表3】 「『一帯一路』の東南アジアにおける政治的影響:ASEAN中心性と一体性の持続可能性」 古賀慶 (Prof.Kei KOGA)シンガポール南洋理工大学助教   【研究発表4】 「『一帯一路』を元に中東で膨張する中国:パワーの空白の中で続く介入と競争」 朴 准儀(Dr.June PARK)アジアソサエティ   【フリーディスカッション】「アジアを結ぶ?『一帯一路』の地政学」 -討論者を交えたディスカッションとフロアとの質疑応答- モデレーター:平川均(Hitoshi Hirakawa)国士舘大学21世紀アジア学部教授 討論者:西村豪太 (Gouta NISHIMURA) 『週刊東洋経済』編集長  
  • 2017.09.28

    エッセイ548:孫軍悦「歴史家の立脚点」(改訂版)

      「国史たちの対話の可能性―蒙古襲来と13世紀モンゴル帝国のグローバル化―」と題するフォーラムが3日目を迎えると、議論も一段と熱が入った。専門的な応酬が飛び交うなか、本来、日、中、韓、モンゴルから一堂に会した歴史家たちの自由闊達な討論に喜ぶはずであったが、素人の私はなぜかある不安に駆られた。果たして、先生方が、このフォーラムが専門的な歴史学の国際シンポジウムとどこで、どのように違うとお考えなのか、そして「歴史家は歴史和解にどのような貢献ができるか」というフォーラムの趣旨と、ご自身の専門的な研究が、いかに内在的に結びついていると思われるのか、この2つの疑問を歴史家たち、とりわけ日本の研究者たちにぶつけたいと、率直に思った。   不安の理由は2つある。1つは、他国の史料を自由に駆使する歴史家たちの終始和やかな交流を、そのまま「国史的立場」の超越として捉えてよいのか、それとも単に現在についての歴史認識の問われない700年も前の出来事が話題の中心であったからか、という私の疑念が消えていないこと。もう1つは、蒙古襲来に関して全く無知であった私でさえも、2日間の会議でその大体の輪郭をつかむことができたぐらい、研究者たちの論文が実に素晴らしいものであっただけ、その優れた歴史研究に、<いま・ここ>に生きる歴史家自身の歴史性があまり感じられないことに、困惑を覚えたことである。   むろん、口頭での発表と討論に、さまざまな制限があり、発表者が必ずしも自らの考え方を語り尽くすことができない。論文を仔細に読むと、歴史と現実との関連性がまったく触れられていないわけではない。例えば、ある論文は、日清戦争後に起こった元寇記念碑建設運動の背景について、次のように指摘している。「その背景には、日露戦争を控え、欧米列強に対抗しつつ国家の生存戦略を立てなくてはならなかった明治の日本が置かれた状況が色濃く反映されている。これはまた今日われわれが置かれている状況ともどこか似かよう。」また、2015年に刊行された元寇を題材としたマンガに描かれた火薬兵器について、「およそ730年ぶりに先進的な軍事大国として海上に台頭する隣国への畏怖のシンボルなのであり、人々の不安な心理を代弁している、というのは考えすぎだろうか」という。これらの言葉から、論者の現在に対する認識と、過去と現在との関連性を捉える角度を、ある程度窺うことができよう。一方、同じく明治時代と今日、再び元寇の歴史に焦点を当てることの意味に触れるが、元寇資料館を案内してくれたNPO法人志賀島歴史研究会の岡本顕実さんの解説は、もう一つの視点を提示していると言える。   岡本さんは、明治37年に建てられた元寇記念館を、日清戦争から敗戦までまっしぐらに突き進んだ日本軍国主義の起点に位置づけ、長崎原爆の被害者をこの記念館の犠牲者だと言い切った上で、改めてこの史料館の建てられた当初における役割と今日における歴史的意義の差異に注意を喚起する。明治37年の元寇記念館と戦後の元寇史料館だけでなく、8月9日にこの話をする自らの言説行為の歴史性をもはっきりと自覚しておられるその歴史的感覚の鋭敏さに、私は驚かざるを得なかった。   おそらく、歴史家は、国家の角度から歴史を把握する習慣が身につき歴史事実や史料としての展示品自体の真偽により関心を持つのだが、それに対し、一般市民の歴史に対する持続的な関心は、往々にして現在における強い問題意識によって支えられていて、国家の運命よりも個人の運命により注目し、歴史を語る際、なぜ、いま、ここで、このように、ほかでもなくこの歴史を選んで語るのかという理由を、まず自問せねばならないのだろう。   むろん、歴史家が自己の現在における政治的立場や価値判断の基準を歴史研究に持ち込んではならないことはもはや常識である。ただ、それと、歴史を語る際に歴史家が自らの主体性乃至個性を没却すべきか否かとは、おのずと別問題だと私は思う。   丸山真男が思想史を書く難しさについて、このように述べている。「思想史を書く場合にはどんなに肌の合わない立場なり考え方でも、超越的に一刀両断するというわけに行かず、一度はその思想の内側に身を置いてそこからの展望をできるだけ忠実に観察し体得しなければならない。……その上思想史の叙述で大事なことは、さまざまの思想を内在的に把えながらしかもそこにおのずから自己の立脚点が浸透していなければならない事で、そうでないとすべてを「理解」しっぱなしの相対主義に陥って、本当の歴史的な位置づけが出来なくなってしまう。」   「自己の立脚点」がなくても歴史研究ができるのは、おそらく、学問の自律性と独立性をとりわけ強調しなければならない日本の近代史のなかで形成された、堅実な実証主義的学風を尊ぶ近代史学の一つの特質かもしれない。しかし、史学史における優れた研究業績が現実の歴史において案外みじめな役割しか果たせないこと、また、学問の世界に大きな足跡を残した歴史家の現実についての把握が意外に貧弱であることも、また歴史の教えるところであった。だからこそ、戦後、中世史家の石母田正が史料批判の実証的技術のレベルに留まるいわゆる「実証主義歴史学」の無目的、無思想、無性格を厳しく批判し、日清、日露戦争の時代に成立した東洋史学の西欧を凌駕する業績と、「その古代文化には同情と尊敬を、現在と将来にたいしては軽蔑と絶望を。この老大国の骨と肉をさまざまに刻み、解剖してみせた客観的で冷厳な『学問的』態度」との矛盾を鋭く衝いたのである。   いうまでもなく、丸山が主張しているのは、一旦自らの立場や考え方を棚上げして歴史の内部に沈潜し、徹底した実証的な研究によって甦らせた歴史像に、改めて自らの立場なり考え方にしたがって歴史的に位置付ける、ということではない。もし、歴史家の「立脚点」がその外部にあって、歴史を把握する際に棚上げできるものならば、その歴史叙述に意識的に反映させることができても、「おのずと浸透する」ことはないのではないか。私は、やはり、歴史家の確固たる「立脚点」は、歴史家の自ら生きる現実において、その人間の内部に形成されるものではないかと思う。専門的な学術的訓練のみならず、現在という歴史的な場において日々練磨していく、あらゆる事象をその内側に寄り添って歴史的に把握する方法と能力と感覚こそ、確固たる立脚点として、歴史家の個性と化して、過去の歴史への把握におのずと浸透していくのではないだろうか。   素人の考えではあるが、過去の出来事に埋没することなく、現実との緊張感のなかでしかと生きる歴史家だけが、ただ単に、苦労の多い学問的営為で獲得した歴史的知識を我々に手渡すのでなく、過去と現在との内在的連関の見える歴史の脈動をも伝えてくれるのではないか。ほとぼりの冷めた過去をあくまでも一つの研究対象として冷徹に解剖するよりも、なお現実の体温が感じられる、歴史への主体的認識のほうが、少なくとも、私には、はるかに信用できるのである。   1997年に「新しい歴史教科書をつくる会」が登場してから7年後の2004年に、かつてすべての中学の歴史教科書にあった「慰安婦」問題をめぐる記述が、ものの見事にすべての教科書から消えてしまった。それが2016年に「極左反日」教育のレッテルを張られ、批判の嵐に晒されながら、再び教科書に現れるまで、実に12年の歳月を要した。関東大震災における朝鮮人虐殺でさえも、政治家に「いろいろな歴史の書の中で述べられている」「さまざまな見方」の一つとされてしまう時代、もはや、歴史的事実を事実として認めさせるだけでも多大なエネルギーを費やさなければならなくなっている。歴史家は、一人の専門家として、日々過去と格闘しなければならないだけでなく、また<いま・ここ>に生きる、未来に責任を負う一人の市民として、この厳しい現実に直面しなければならない。だからこそ、自らの専門的な研究と、現実における政府の政策動向と、民衆の歴史意識との間における緊張、また、歴史認識と歴史叙述、現実と未来との複雑な関連性に対して、どれほど自覚を持っているか、非常に重要だと、私は思う。なぜならば、<いま・ここ>に生きる歴史家の歴史叙述から、未来の歴史がすでに始まっているからである。   中国語版はこちら 韓国語版はこちら   <孫軍悦(そん・ぐんえつ)☆Sun_Junyue> 2007年東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。学術博士。現在、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部専任講師。専門分野は日本近現代文学、日中比較文学、翻訳論。       2018年2月22日改訂版を掲載 2017年9月28日配信  
  • 2017.09.28

    エッセイ547:三谷博「東アジアにおける歴史対話の再開-北九州での『蒙古襲来』会議」

      「国史たちの対話」が始まった。第2回目だが、昨年は準備会だったので実質的には第1回である。東アジアには、国ごとに「国史」があり、その間には一見越えがたいほどの溝がある。これを架橋し、さらには何かを共有できるまで持って行けないか。これが「国史たちの対話」の意味である。渥美財団の元締め、今西淳子さんが命名してくださった。   今年から4回、東アジアの国際関係をめぐる歴史的事件を取り上げて、関係国の歴史家たちを招き、議論してゆく。今年のテーマはいわゆる元冦で、ここから次第に時代を下ってゆく計画である。   東アジアの各国すべてに関係する事件を取り上げるので、集まるのは主に国際関係の専門家である。しかし、我々はここに国内史の専門家も日本と韓国から招いた。普段は国際関係史やその背後の政治的意味に無関心な人々が、このワークショップの中でどう反応するか。こうした会議に意味を認めてくれるか否か。今回の「国史たちの対話」では、こうした点も大事な課題として設定した。そのためもあって、同時通訳を日-中、日-韓、さらに中-韓の間で用意した。遠い過去に関する専門用語が飛び交う通訳は大変だったはずであるが、概ねよく分かる通訳をしてくださった。深く感謝したい。   「蒙古襲来と13世紀モンゴル帝国のグローバル化」というテーマは、東アジアの諸国民をとにかく対話のテーブルに着かせるために設定された。今世紀の初頭には数々の歴史共同研究が試みられたが、当時のように近代の問題を取り上げると、日本人が自動的に被告席に着くことになる。対等な対話が不可能になるだけでなく、領土問題が先鋭化している現在、テーブルに着こうとする日本人はほとんどいなくなっている。   これに対し、蒙古襲来という遠い過去は現在から心理的な距離をとりやすい。とくに東アジア3国の国民は、いま流行の表現をすればみな被害者である。高麗は厳しい統治下に置かれ、中国にはモンゴル王朝が生れ、日本は征服を免れたものの、防御にかなりの犠牲を払った。被害者同士だから対等な立場で冷静に議論ができる。ただし、この会議にはモンゴル人の歴史家を3人お招きした。しかし、彼らは加害者の子孫として扱われたわけではない。日本人はモンゴル人の横綱を当然のように受け入れていて、彼らと元冦を結びつけることはないし、今回の会議では韓国の研究者も何ら非難がましい言葉を語らなかった。   だからといって、この歴史対話が政治的磁場の外にあったわけではない。元朝は果たして大モンゴル・ウルスの一つなのか、中国王朝の一つなのか。モンゴル人民共和国と中国の内蒙古自治区から来たモンゴル民族、および漢民族、3つの出自を持つ歴史家たちの間で議論が行われたようである。筆者は十分に聞き取れなかったが、葛兆光さんは中国の専門家の中には二つの解釈が同時に成立すると考える人がいると指摘した。世界の歴史学界では、現在の国家的枠組みをそのまま過去に持ち込むアナクロニズム(時代の取違え)は厳しく批判されるが、東アジアの政府や世論は当然のようにそう行動することが多い。世界からの嘲りを自ら誘うのは賢明なことだろうか。   発表と議論の中には筆者にとって特に印象的なものが二三あった。一つは四日市康博さんの指摘で、クビライが日本に3度目の侵攻を準備しており、彼の死がその実行を妨げたこと、およびベトナムやジャワ(そんなに遠くまで!)が防戦に成功した後、直ちに元朝に朝貢を始めた事実である。モンゴルを撃退した後の日本は、交易は再開したが、外交的な配慮はしなかった。国際関係への不慣れとその背後にある日本の孤立性が思われたことであった。   他方、モンゴルに服属させられた後の高麗の姿も印象的であった。仮に日本も攻略されたとして、何が起きただろうか。天皇家が断絶した可能性もあるが、その一部が元朝に従属し、李命美さんが高麗について紹介したように、元朝の王女を妃に迎えるということもありえたかもしれない。この思考実験は日本史上の難問の一つである天皇制の理解にかなり寄与してくれるのではないかと感じた。   高麗については、趙阮さんの取上げた食文化の変化も興味深かった。高麗王朝の奉じていた仏教は肉食を禁じていたが、モンゴルの支配下でそれが定着したという。政治的支配が終っても、一旦変化した生活文化は持続する。歴史を長期的に見る場合、政治史以上に生活文化史は重要となると感じた。家族の構造や男女間の関係も社会構造の柱の一つであるが、これも征服を通じて変わることがあるのだろうか。朝鮮王朝の場合、19世紀初頭に至るまで子供は母の家で育てられた。では、モンゴルからの公女が産んだ子はどこで育てられたのだろうか。宮中か、外か、そもそもモンゴルでは夫と妻のどちらの家で子供を育てたのだろうか。こんな問いが次々に浮んできたことであった。   このように、この会議の諸発表は、東アジア全体の動きに注目すると、国際関係だけでなく、個別の国と社会をより深く理解する手掛りも示してくれた。会場に招いた日本と韓国の国内史の専門家はどう感じ取っただろうか。注意深く耳を傾けてくださったのは間違いないが、さらに進み、機を見て遠慮なく質問をしてくれたら、会議はもっとエクサイティングになったのではないかと思う。筆者は総括討論の最後になって、「国際会議に出て質問せえへんかったら、罰金やでー」というある先生の言葉を引用し、発言を促した。会議冒頭の挨拶の中で用意していたのだが、うっかり言及を忘れてしまったのが悔やまれてならない。招待者は、一旦口を開くとみな的確で興味深い指摘をした。次回からは、ぜひ最初から発言してほしいものである。   会議は全体で三日。二日目は朝から夕方までびっしりと発表が続き、筆者は総括討論の朝はかなりへばっていた。しかし、司会の劉傑さんは見事な交通整理の枠組を提示し、とりわけ韓国側の責任者趙珖先生は発表の一つ一つについて簡潔かつ的確にまとめ、討論の出発点を提供してくださった。お忙しい公務の時間を割いて駆けつけてくださってのことである。次回のソウルでの会議は、きっともっと楽しく、有意義なものになるに違いない。そう確信した。   <三谷博(みたに・ひろし)MITANI_Hiroshi> 1978年東京大学大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程を単位取得退学。東京大学文学部助手、学習院女子短期大学専任講師・助教授を経て、1988年東京大学教養学部助教授、その後東京大学大学院総合文化研究科教授などを歴任。現在、跡見学園女子大学教授、東京大学名誉教授。文学博士(東京大学)。専門分野は19世紀日本の政治外交史、東アジア地域史、ナショナリズム・民主化・革命の比較史、歴史学方法論。主な著作:『明治維新とナショナリズム-幕末の外交と政治変動』(山川出版社、1997年)、『明治維新を考える』(岩波書店、2012年)、『愛国・革命・民主』(筑摩書房、2013年)など。共著に『国境を越える歴史認識-日中対話の試み』(東京大学出版会、2006年)(劉傑・楊大慶と)など多数。   中国語版   韓国語版   英語版       2017年9月21日配信