SGRAエッセイ

  • 2008.01.15

    エッセイ107:玄 承洙「教室雑感」

    私が東京大学大学院で留学を始めた頃の話である。専攻上の必要からアラビア語を勉強しなければならなかったため、基本文法を教える学部生向けのアラビア語教養講座の授業に出ることにした。しかし、初めて目にした日本の大学授業の風景はそれこそ衝撃の連続であった。教室ではまったく講義らしきものが行われていなかった。学生たちの大半は居眠りをしていたり平気で雑談をしていた。授業中にいきなり携帯の着信音が鳴ったかと思いきや、学生は「ちょっと待ってな〜」と言いながら、先生の前を横切って教室から出て行った。もっとショックだったのは教師の態度であった。おそらく他大学から教えに来ていたと思しきあの男性講師は、困った顔でこういっていたからである。「皆さん、あと15分で終わるから我慢してくださいね。あと15分ですよ。」   9年間の日本留学も無事に終わり、待望の博士号を取得して帰国した。韓国の大学を取り巻く厳しいニュースは日本にいた頃から聞いてはいた。だが、帰国して本格的に学術活動を開始してみると、研究者の就職活動や研究環境が想像以上に厳しいことがつくづく感じられた。少子化現象もあって学生数は毎年減っているのに、修士や博士号をもっている人の数は増える一方である。要するに、需要より供給が過剰なわけである。政府は10年前から「高等失業者」を救済するという目標の下、学術振興財団を通していろんな研究プロジェクトを設けて研究者を公募している。今の韓国の博士号所持者の大半はこの「学進課題」に大いに頼っているといっても過言ではない。逆にいうと、研究者個人であれ、集団であれ、毎年行われる数個の「学進課題」に採用されなければ、食べていけないのである。週にいくつかの授業を担当しても、それだけでは生計を立てることはできない。   それで、この大学授業についてである。冬学期が始まり、本格的に授業を担当することになった。ありがたいことに周囲の先生たちや知人の配慮もあって、4つの授業を担うことになったが、そのうち1つはいま住んでいるソウルからかなり離れた地方大学での講義である。週に1回、高速バスに乗って片道4時間の長道である。たったの3時間の授業をおこなうために路上で8時間も過ごさなければいけない。だが、私を悩ませるのは、決してその長い通勤時間ではない。学生たちの態度である。いや、より正確に言うならば、どうやって学生たちに接すればいいかという問題なのである。   私は基本的に子供が好きである。若い人たちに(自分もまだ若いとは思っているが)接することも楽しい。彼らと考え方を共有し、彼らの質問に答え、彼らの将来についていっしょに考えるのが好きである。しかし、こうした私の期待は時間がたつにつれ少しずつ失望に変わっている。学生全員ではないが、多くの大学生たちがなぜか学問にたいしてあまり意欲を見せない。学問的な好奇心もあまり感じられない。教壇にたっている教師をだる〜い視線で眺めている。彼らから少し視線をそらすと、すぐ携帯で何かを操作している。冗談とかで彼らの注意を喚起しても、長くて10分ももたない。授業のために何日もかけてビジュアル資料を用意して使うが、すぐ飽きた顔をしてアクビをしたりする。   こうした私の悩みを先輩の講師たちに話した。私の教授法にどこか大きな間違いでもあるのではないかという不安を吐露した。すると、講師歴15年のベテラン先輩はこう言った。「どこの授業も大抵そのようなものさ。いくら面白い動画を見せ、繰り返し冗談を連発したって学生からはすぐ飽きられるんだよ。大学で教えるべきものは、興味を誘発するだけでは続けられないような内容なんだ。講義はテレビのお笑い番組ではないんだよ。」先輩はこうも言った。「最初は学生たち全員を公平に扱わなければならないと考え、ついて来られないやつらを見ていらいらするかも知らない。けれど、どうせ全員向けの授業なんてできやしない。寝ているやつらは放っとけばいいんだ。大きな声で雑談をして周りに迷惑をかけない限り、彼らをいちいち注意することなんて無理さ。慣れてくれば何でもないんだよ。」   しかし、講師歴たったの4ヶ月に過ぎない私にとっては、とうていそうはいかない。先日の授業ではロシアの歴史を紹介する水準の高いドキュメンタリー映画を見せながら授業を続けていた。だが、映画が始まって20分もたたない時点でビデオを止めてしまった。150人を超える学生のうち3分の2以上が寝ていたからである。不快感を顔に浮かべつつ拍手を打って学生たちの目を覚ました。そして彼らを叱った。「若々しい20代の君たちがなぜにこうも、うとうとしているのか、先生はどうしても理解できないんだ。一学期300万ウォンもする学費がもったいなくないのか。適当に時間を費やし、適当に満足できそうな成績をあげ、適当な人生を過ごそうと思っていいのか。授業の内容が気に食わなかったら、素直に言いなさい。質問をさせても閉口で一貫し、機会さえあれば寝ることばかりにしか興味のないような君たちがかわいそうでしかたないんだ」と。   私はまだ教師としての経験が浅い。学生たちの興味を誘発するのに精一杯で、進度もなかなか進まない。学生たちにアクビさせないほどのテクニックなんて持っていない。しかし、いま私たちの教育現場に充溢した危機感を、ただ教師や学生の資質だけに求めるべきではない。激しい民主化の流れにより社会はいろんなところで肯定的な変化を遂げたが、同時に社会全体において拝金主義と権威の喪失を深めた。なくすべきは権威主義であって権威そのものではないのに、権威というものはもうどこにもない。子供たちの前で父兄が教師を暴行したというニュースもたびたび聞こえる。体罰をする教師を携帯で撮影し、インターネットに流布する学生も増えている。こうした社会的風潮のなかで教師は師としての権威を喪失し、単純な知識の商売者に転落してしまったのではないか。   10年前に日本の大学で目撃した教室風景は、いま韓国でそのまま再現されている。もちろん韓国が日本を真似しているわけではない。何もかもがビジネスになってしまった時世のせいでもあるのだ。教育の価値を経済的な価値に換算して評価しがちな時勢のためであろう。教育の中心を教師ではなく学生が占め始めてから、教師は学生に教育を「サービス」しなければならず、教師と学生の区別が曖昧になり、一切の権威が崩壊した教室は知識を売る市場に化してしまったのではないか、と私は考えている。   ---------------------------------- <玄承洙(ヒョン・スンス)☆ Seungsoo HYUN> 2007年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『チェチェン紛争とイスラーム』)。専門はロシア及び中央ユーラシアのイスラーム主義過激派問題。現在は韓国外国語大学の中央アジア研究所で研究員として務めている。SGRA会員。 ----------------------------------
  • 2008.01.11

    エッセイ106:高 煕卓「2007年韓国大統領選挙を見て(その2)」

    韓国の2007年大統領選挙(大選)では10年ぶりに与野党の政権交代が起こった。その直後、多くのマスメディアでは投票行動における一定の世代や理念の影響力低下といった傾向を主要な特徴として取り挙げていた。長く続いた保守系政党の長期執権に終止符が打たれ政権交代が実現した前々回(1997年、金大中氏)、そして前回(2002年、慮武鉉氏)の大選においては、彼らの「民族」や「民主」、あるいは「平等」などの理念的志向に共感する3、40代を含む多くの若い世代の人びとの存在が大きかった。が、今回の大選ではそうならなかったわけだ。   それは大選後の世論調査でも表われている。1980年代の民主化運動の流れのなかで市民の力によって創立された、いわば進歩系新聞の代表格のハンギョレ新聞の世論調査によると、2002年の大選で慮武鉉氏に投票した人びとのなかで今回李明博氏の支持へと変えた人が約41%に至るという。   ところで、その記事で印象的だったのは、「民心読み」という新年初の連続企画記事のタイトルであった。この世論調査はじつは昨年末に行われたものだった。が、まさにそのタイトルに象徴されているように、今回の大選結果もさることながら、集団転向と呼ばれそうな上記の世論調査結果がいかにも衝撃的だったようだ。そのタイトルは「民心を読み誤り、そこから離れていた」といった自覚の裏返しであったといえる。   では、こうした一方の「民心離反」と他方の「民心の読み誤り」はいかに生じ、またその間隔は何を意味するものだろうか。   そこには、単純化を恐れずにいえば、現政権の5年間だけでなく、この10余年間に進行した韓国社会における一種の中産層の解体とそれに伴う政治意識の変動といった構造的問題が横たわっているのではないだろうか。   その理解のために、とくにバブル崩壊とIMF事態を経て政権交代に至った1997年前後に遡って振り返ってみる必要があると思う。まだ記憶に新しいが、今から10年前頃は、アジア金融危機が広がるなか、韓国経済がバブル崩壊とともに国家的破綻の危機に直面し、国際金融機構IMFからの金融支援を受けざるをえなくなっていた。が、他方では、そのような状況のなかで進歩系野党候補の金大中氏が大選で当選し、政権交代が現実した時期でもあった。   1997年の大選で金大中氏が選ばれたのは、それまで経済成長を主導してきた勢力の経済政策の失敗や判断錯誤への責任を、より公共的な位置から問う意味合いが大きかった。それまでの経済成長の戦略的・制度的修正だけでなく、そのなかで後回しにされていた疎外や格差といったいわば開発独裁の影の部分の是正を通じて、名実相応の「国民国家」の完成を図るといった、金大中氏の国家戦略が効いたのだ。「国民の政府」と自称していた金大中政権において地域間、階層間、さらには南北間の「均衡」が盛んに謳われたのはそのためであったと思う。   そして2002年の大選で慮武鉉氏が選ばれたのも、大きくいって、その延長線上のものといってよい。さらには「人」の斬新さも一役買われたこともあって、前政権の「均衡」政策だけでなく、いわば権威主義や排他主義に集約される韓国社会の古い体質を変えて、より対話的な探求を可能にするといった意味での「民主」を押し通したのが効いたような気がする。現政権は自らを「参与政府」と自称していたし、今は別名に変わったが、当時の政党名が「開かれたウリ(我々)党」だったのもその象徴であった。「均衡と参与」によって、あらゆる国民が自らの政府の主人となり、官民ともに国家の未来を開いていくといった現政権出帆当時の鳥瞰図は、ある意味では鮮やかな絵を見るかのようだった。   だが、政権交代の機会を提供した経済危機が執権後には大きな負担であるといったジレンマを十分に認識していたとは思えない。バブル崩壊とIMF事態がそれまで高度経済成長を持続させてきた韓国経済の根幹を大きく揺るがしたことの政治的意味を重く受け止めていなかったような気がする。   その一つ、大量失業の事態と生活上の危機。多くの大小企業の倒産が相次ぎ、また生き残った企業や金融機関の構造調整のために合併や整理解雇などが行われた。それまでの60代停年といった雇用安定の構造が壊れ、私の周りでも50代さらには40代に職場から追い出される人が続出したし、また若い人々にとっての就職は前例のないほどの厳しいものになっていった。   その二つ、両極化の深化と無限競争の一般化。IMFによる金融支援は体質的問題とされた韓国経済の不透明で閉鎖的な構造を改革することが義務付けられたものであった。それに則って金大中政権の初期から経済構造改革が進められるなかで、いわばグローバル・スタンダードは急激に一般化していった。が、被雇用者側からみれば、それは国内外の境界が無くなった状況での勝ち組と負け組みとの鮮明な区分けを意味し、またその勝敗をめぐる競争の激化を体感させるものでもあった。   その三つ、急転直下による心理的恐慌。バブル崩壊直前まで多くの人びとは、ある意味では膨張する欲望のまま振りまわっていた。「シャンパンを抜くのが早すぎたのではないか」といった憂慮が国外から指摘されてもいたが、むしろOECDの仲間入りに国家的に歓呼していたほどだった。それだけに、その急転直下の辛酸を直接に嘗めた人々の過酷な現実はいうに及ばず、間接に体験した人びとの不安や恐怖の大きさも計り知ることができないかもしれない。バブルの酔いからまだ目覚めないうちにまさに上記の二つの事態に見舞われただけに、階層や地域によって速度差はあったものの、韓国社会の全般に危機感を高めていったのだ。   その意味で現政権の5年間は、こうした危機感の漸増とともにそれまでの精神的余裕が蝕まれていった状況のなかで、その事態の意味の「読み誤り」と「民心離反」が繰り返された時期でもあった。経済的・社会的弱者を保護するために構想された不動産政策や教育政策などの現政権の代表的な政策が、かえって逆効果となり、人々から典型的な失政として反発を買っていたというアイロニーは、まさにこうした状況のなかから生み出されていた。   それにしても、今回の圧倒的票差による李明博氏の当選を単に「保守化」と断定してよいとは思わない。アマチュアリズムや「口先だけの政治」といった批判に象徴されているように、いわば保守か進歩かといった「理念」の問題としてではなく、むしろそれ以前の問題として捉えられていたと思う。状況認識に長けた李氏の当選はこの意味では当然だった。   だが、その分、新政権も現政権と同様の負担から自由ではない。まして、曲がりなりにもこの10年間における「国民の政府」や「参与政府」の経験をもつ人びとを前にして、単なる後戻りが許されるとは思わない。その意味で新政権は、従来の保守と進歩がごちゃ混ぜになったような国政運営をせざるをえなくなるのではないか、というのがこの頃の私の感想である。   ------------------------------------ <高 煕卓(こう ひたく)☆ KO HEE-TAK> 2000年度渥美奨学生、2004年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『近世日本思想における公共探求』)。専門は近世近代日本思想史。最近の関心分野は東アジア比較思想文化、グローバル時代における文化交流の理論と実際など。国際NGO=WCO(World Culture Open、本部はニューヨーク)調査研究機関の一つとしてのGlocal Culture Research Institute(ソウル所在)のディレクターを務める。2007年11月より高麗大学日本学研究センター研究教授。SGRA地球市民研究チームのチーフ。
  • 2008.01.09

    エッセイ105:マックス・マキト「マニラ・レポート2007年12月」

    今回のフィリピンへ帰省中、僕としては初めてのスタディーツアーを行った。僕の日本の大学の学生たち7人(性別的にいえば女性5人、男性2人、出身国的にいえば日本人5人、ポーランド人1人、インドネシア人1人)と先生2人(SGRA顧問で名古屋大学教授の平川均先生と僕)の参加で、12月5日から14日までの合宿旅行を、フィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)のユウ先生とマニラにいる家族の協力を得ながら実施した。幸いに今回のプロジェクトの一部は、平川先生の名古屋大学の産業集積の研究助成金から支援していただいた。   12月5日に、名古屋発の平川先生と東京発の僕がマニラ国際空港で合流した。学生さんたちは期末試験のため、マニラ到着(台湾経由)を一日遅らせた。参加者は9日まで、マニラ市内のホテルをベース・キャンプとした。師走という時期だったので、残念ながら、平川先生は9日に日本にお帰りになった。   ツアー前半の主な目的は、昨年から続いている経済特区におけるフィリピンの自動車産業の研究調査を行うことである。昨年、平川先生とユウ先生と一緒にフィリピン・トヨタの工場を見学し、僕は特区に関する研究を発表した。その後の交流の結果として、自動車産業を中心とした研究方向が固まってきた。12月6日(木)に、僕らの研究を支援してくれているフィリピン・トヨタの方の手配で、トヨタの下請け企業であるPhilippine Automotive Components、Fujitsu Ten、Toyota Boshoku Philippinesを見学させていただいた。さらに、8日(土)には、週末にも関わらず、Yazaki-Torres Mfg. Inc.という合弁会社を見学できた。この場を借りての幹部社員の皆様の暖かい歓待に感謝を申し上げたい。以上の見学によって僕達が行っている研究の分析結果を現場で確認することができ、今後の研究に役立てるヒントを得た気がする。   7日(金)の午後1時半から5時半まで、UA&P・SGRA日本研究ネットワークの第6回目の共有型成長セミナーがUA&Pの会議室で開催された。最初に平川先生がフィリピンの自動車産業を他の東南アジア諸国と比較した。日本のダルマに例えて、フィリピンの自動車産業は7回転んでも8回立ち直す。東南アジアからみても遅れているということがわかるが、部品調達先としての役割を深めているということだった。次に僕が経済特区の比較分析の結果を発表した。この分析はこれから特区を超える産業ネットワークにも適用できるので、そのための研究支援を訴えた。休憩を挟んでユウ先生がフィリピンの半導体産業と自動車産業の比較分析の結果を発表した。この観点からみてもフィリピンの自動車産業は遅れていることがわかる。ただ、世界の観点からみれば、自動車産業は部品などの調達で中小企業に大きく頼っているので、共有型成長の潜在力が非常に高いという。最後に、フィリピン自動車産業協会のホマー・マラナンさんがフィリピン自動車産業の現状について報告した。輸入車の量が現地生産高とほぼ同じことが現地自動車産業に大きいな打撃を与えていることがわかる。最近、フィリピン国産車の啓蒙活動が進められ、法律も作られているというが、輸入車がビジネスとして成り立っている限り、今後の展望はまだまだ難しいようである。セミナーの最後に僕が司会をして、会場のみなさんを混じえてパネル・ディスかションを行った。色々なことが議論され、フィリピン自動車産業の研究の将来性を感じた。   トヨタの役員の方に誘っていただいたセミナー終了後の食事会でも、同じように前向きな印象を受けた。フィリピン自動車産業のこれからの戦略立案において大学やNGOという中立的な立場が必要とされている。そこでUA&P・SGRA・名古屋大学のネットワークが活躍できると思う。東京に帰る前に研究助成を含む話し合いが予定されている。また、できるだけ早く戦略政策案を提出するよう要請されている。   スタディーツアーの後半(9~12日)は主に地方で過ごした。マニラの東南、車で約4~5時間の太平洋に面するビーチ・リゾートがベース・キャンプである。リゾートといっても主な客層は地元の人々で、決して一流の観光地ではない。一行は、僕と学生7人、父と妹とその長男、運転手の総勢12人だった。初めての試みだったので不安がたくさんあったが、その心配は無用だったように、みんなが明るく、フィリピンの地方での3日間を過ごしてくれた。   地方の視察は共有型成長をテーマとする僕の研究の一貫である。都会から地方への発展をいかに進めるかということをが、僕の研究の基本的な目的である。ツアー前半の経済特区はまさにその一つの有効な手段である。製造業の経済特区は大体地方に位置しているからである。引き続き、地方における農林水産業部門やサービス部門においても、僕の研究を展開しようと試みたわけである。今回は農林水産業部門では養魚場を一ヶ所視察し、サービス部門では、今後の研究の可能性を探るため、ベース・キャンプにしたリゾートを中心とした観光施設を訪問した。   未開発の海や豊かな雨量に恵まれているこの地方は、養殖業の可能性が十分あると思われるが、商業ベースで営んでいる養魚場はどうも少ないようである。観光地としても理想的なところであるが、地元の人たちは、この地方の住民か、たまたまやってきた観光客しか狙わない。立地は良いのに、どうもこれ以上発展したいという住民の熱意が感じられなかったというのが率直な印象である。確かにフィリピンの地方では、ノンビリというのは当たり前だとよく聞く。しかし、地方でも機会があれば発展したい気持ちはあると思う。隣の県と比べると、今回の視察先では遊んでいる土地が多いようであるし、観光の観点からみてもさまざまな点で遅れている。   このビーチ・リゾートは、妹の友人に紹介してもらったものだが、合宿中も色々と親切にしていただいた。彼らにとって精一杯のもてなしをしてくださったと思う。同時に、このプロジェクトを手伝ってくれた僕の家族にも感謝している。日本から行った学生さんたちから事前に了解を得て、今回の合宿旅行の余剰金は、妹の3人の子どもたちへの奨学金とさせてもらった。他のパック旅行と比べても低予算という制約の下で組んだスタディーツアーであるが、家族のボランティアと全力をあげての経費節減により、いくばくかの支援金を得ることができた。実は今までのSGRAでの僕の研究成果は、殆ど妹(と父)が手伝ってくれたデータ収集が基本になっている。妹の明るい性格は、参加した学生さんたちに非常に受けて、みんなに親切に付き合ってくれた。   嬉しいことに、今回参加してくれた学生さんたちは、地方から帰ってきた後、マニラでの滞在期間を2泊延長した。そして、日本に帰ってからも優しい言葉を一杯くれて、このような合宿を近いうちにもう一回やろうという自信を芽生えさせてくれた。いうまでもなく今回の合宿には問題点も多くあって、いわゆるトヨタの「カイゼン(改善)」を習って、東京へ帰ったら反省会を行うと同時に第2回目のツアーの企画も始めたい。今回の訪問先と比較するため、次回はまた家族のネットワークに頼ってマニラから北西のほうを調査してみたい。   このスタディーツアーを企画している間に、フィリピンではモールの爆発や、クーデターなど、いくつかの事件が報道されたために、何人かが参加を中止した。そんな状況でも、暖かく支援してくださった企業はもちろん、それでも参加してくれた7人の学生さんたちと平川先生に心から感謝している。色々大変だったと思うが、僕まで驚かせたこのグループの前向きな姿勢によって、一人残らずフィリピンの訪問が勉強になり、良い思い出ができたそうである。   SGRAのみなさんからも、東海の真珠と呼ばれるフィリピンへの冒険旅行はいかがでしょうか。   -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------