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2017.12.07
2017年9月15日~17日、SGRAふくしまスタディツアーに参加し、今年の3月に避難指示解除が下りたのちの飯舘村の様子を観察してきた。私にとって2度目の参加で、約1年半ぶりの訪問であった。天気がよく、コスモスやススキが風にたなびく美しい飯舘村の秋の景色は、復興の兆しを見せ始めていた。村中に車が走り、新しい小学校の工事が始まり、村の人々が元通りの暮らしに戻れるように一生懸命努力していた。村民は、復興の道を日々着実に歩んでいる。それでも、村は完全に復興したとは決して言えない。帰還者はわずかの400人(震災前の人口の約6~7%)だけで、そのほとんどが60歳以上で無職の高齢者である。昼間だと人口は約1000人まで増えると聞いたが、村が復興するのには、村に住み、村で働く人が必要なのだ。
最初の日は、高橋日出夫さんの温室を見せてもらった。高橋さんは最高級の花を育てている農家で、スタディツアーの時は色とりどりのトルコキキョウとアルストロメリアが満開だった。花の美しさに魅了された参加者が大いに盛り上がったことは一つの良い思い出となったが、一番印象深かったのは高橋さん自身の話であった。避難の6年間、高橋さんは福島市で農地を借りて野菜などを育てていた。「やっぱり農家は何かを育てていないと気が済まない」と気さくに話してくれた。避難指示解除が下りてから、高橋さんはいち早く飯舘村に帰ってきた。なぜなら、「自分の生まれた土地の景色がいい」と語った。ふるさとの空と星はまるで自分のもののようで、よその空にはどうしても馴染めない、ということだった。それだけ高橋さんはふるさとの飯舘村を愛し、自分の一部として認識している。人間と自然の共存と融合。それこそ農家の生き方、また世界観なのだろう。高橋さんは、マスコミが来るたびに村民たちから辛い話ばかり求めてくるが、「私は戻れてすごく楽しい」と明るく話していた。
高橋さんの話を聞いて安心した参加者は私だけではないだろう。でも、高橋さんのように思う人はそれほど多くないのもまた事実である。高橋さんは帰還した6~7%に含まれる1人だが、言うまでもなく高橋さんのような人は少数派のまた少数派だ。マジョリティーの93~94%は自分たちのふるさとについてどう思っているのか、その話を聞くことができないのでわからない。帰還する人と、帰還しない人の違いは何だろう。一つは年齢である。帰還しない村民の多くは若い人で、すでに都市部で新しい生活を始めている。スタディツアーの間、帰還者が何度も話したように、原発事故の一番大きな悲劇は放射能汚染よりも、家族がバラバラになってしまったことであろう。事故前からも飯舘村を脅かしていた少子高齢化と過疎化は、事故によってさらに拍車が掛かったのである。
日本の地方の過疎化は、ずいぶん前から懸念されている問題である。政府は過疎化を防止すべく、過疎地域の復興や雇用の増大に努めたり、大学生が都会に集まりすぎないように都市部の大学を規制したり、文化庁を京都に移転させたり、さまざまな対策を講じてきたが、ほとんど効果が見られない。人口はどんどん3大都市に集中する一方である。その意味では、高齢者ばかりになってしまった今の飯舘村は、日本の地方の行く末を暗示しているのかもしれない。
スタディツアーの2日目は明治時代に造られた校舎に集まり、村の長老である菅野永徳さんの話を聞いた。菅野さんの話によれば、飯舘村が直面している問題の中で、若い世代がいないことがもっとも深刻である。今、飯舘村が抱えている問題は科学技術や政治関連のことよりも、文化の問題だという。若い人たちは伝統的な生活を後にして、便利さを求めてどんどん都市部に流れていく。
上の世代、特に農家の人たちにとっては、こうした世代間の考え方のギャップには理解しがたいものがある。農家は先祖代々の土地を耕して守るのが生活基盤であり、また生きがいでもある。途切れずに続いてきた伝統の中に自分が位置づけられ、自分と家の存在意義がある。だから、代々守ってきた土地を耕す人がいなくなったら、それは土地が荒れるだけでなく、自分たちの存在意義が失われかねないことをも意味しているのだ。高橋さんのようにふるさとの空や星が自分のものだと思っている人たちにとって、何十年、何百年もの伝統と、ご先祖様が見守ってきたふるさとの山川が荒れていくことほど苦しいことはないだろう。そうした状況の中、村民は絶えず村の将来を考えて、心配している。次の世代に何を残すかが、今後の大きな課題らしい。
その古い校舎の中で、菅野さんは「これからどうすればいいのか」と訪問者に問いかけた。正直、私にはわからない。私は政治家でもアクティビストでもない。この問題はどうすれば止まるのか、そもそも止められる問題かどうかもわからない。私は日本人のふるさと観を研究する者でありながら、日本のふるさとの行き先が見えない。冷たい畳の上に立って、自分の無力さを痛感した。
それでも、私は来年も、その翌年も、そしてその次の年も、飯舘村に行きたいと思う。何もできないかもしれないが、村を見て、村民たちと話して、引き続き村人の声を自分のまわりに届けていきたい。1人でも多くの人が飯舘村の村民の思いに触れ、そこに足を運んでくれることを願って。
<リンジ―・レイ・モリソン Lindsay Ray Morrison>
2016年度渥美奨学生。2017年に国際基督教大学大学院アーツ・サイエンス研究科博士後期課程を修了し、現在は武蔵大学人文学部助教。専門は日本文化研究。日本人の「ふるさと」意識の系譜について研究している。
スタディツアーの報告
2017年12月7日配信
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2017.11.30
今回のSGRA福島スタディツアーは第6回であったが、私は5回も参加した(2回目は大学の講義と重なったため参加できなかった)。第1回は福島原発事故の翌年、2012年10月19~21日であった。
なぜ、私は5回も参加したのか?それも東京と違って500キロ以上離れた金沢から。まだ金沢―東京の北陸新幹線(2年前に開通)もない時から、5、6時間以上をかけて福島へ行ったのか。
第1回目はSGRA「構想アジア」研究チーム代表として責任を感じて参加したこと、そして自分の目で初めて見て体験した、日本で一番美しい村のひとつに指定された飯舘村の「原発被害」の惨状と、村民が如何にそれと戦うのかを確認し、その「までい精神」に学ぶために毎年福島へ行くのだと言ったら、読者に納得してもらえるのだろうか?そして、ふくしま再生の会の田尾陽一さんや飯舘村の菅野宗男さんとの出会いがあり、回を重ねてお会いして一緒に活動するうちに、なんか再生の会や飯舘村のみなさんが「親戚」みたいに感じられ(私は「情」に弱い人間である<笑>)、お会いすると嬉しくなり、里帰りした感覚になり、ツイツイ行きたくなるのである。5年前に私が書いたレポートの最後に、「福島よ、忘れさせない!」と誓ったからかも知れない。
今回のツアーは前4回と違って、今年3月の政府の「避難指示の解除」により、避難していた人々の一部が自分の家(先祖代々生きてきたふるさと)に帰ることができたので、その帰還実態をこの目で見て確認したかった。そして帰還した人々の喜びや残っている悲しさも感じ取りたかった。帰還事業の実態についてはほかの参加者も取り上げるだろうから、ここでは日本国民や日本国政府がこの震災被害とは違う「原発被害」にどう対応しているのかについて、私見を述べたい。
みなさん覚えているだろうか?東日本大震災が起こった年の流行語は「絆」だった。しかし、日本国民の中に「絆」は本当に生まれたのだろうか?いまでも福島の震災、原発被害を真剣に考えている人、それをもとに国の政治(選挙)にかかわる人々はどれぐらいいるのだろうか?「原発反対」運動で国会周辺デモが続いたことを覚えているだろうか?運動疲れで今はデモどころか、原発反対運動も下火になっているのではないか?今度の国政選挙でも2年前の国政選挙でも、原発を推進する自民党が圧勝する現象をどのように見るべきなのであろうか?もちろん、義捐金を贈った人、ボランティア活動に参加した人々は大勢いた。しかし、福島に行ったら危ない、福島産のコメや野菜、果物は避けておいた方がいいと、風評被害のために農産物があまり売れない状況は改善しているようには思えない。私は今度も福島産の梨を3箱買って東京や金沢の友人にお土産で渡し、もっと福島に関心を持つよう呼びかけた。しかし、日本全国でみれば、福島との「絆」は切れているのではないかと感じる。
一転政府の対策に目を向けると、2020年の東京オリンピックを念頭に、政府と政策批判能力に欠けているマスコミは一所懸命に「原発被害」を打ち消そうとしているのではないか?今の政権は国内で原発を推進する姿勢を保持するだけでなく、ベトナムやインドなどで原発建設を推進するという、時代に逆行する政策を実行しているのではないか?もちろん名目はアベノミクスの推進である。日本の技術をもってアジアの市場で金儲けをしたい、そして日本の強い経済を取り戻したいという理由だろう。これに対するマスコミの批判もあまり見られないのが現状である。また、政府復興庁が今年の3月に作成した『復興6年間の現状と課題』というレポートに、「2020年東京オリンピック・パラリンピックで、復興を成し遂げつつある姿を世界に発信できるよう〔復興五輪〕を推進」と書かれており、如何に復興が終息に近づいているかだけを強調している。そこには「原発被害」は一言も書かれていない。国民の目を逸らすのが目的であろう。
復興政策について、山下祐介・首都大学東京准教授は「誰も語ろうとしない東日本大震災〔復興政策〕の大失敗」という論評(講談社『現代ビジネス』インターネット版で次のように「復興の失敗」を厳しく批判している。
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しかもそこに、色々な体面や面子さえ働いている。とくに原発事故についてはその傾向が強いようだ。東京オリンピックの誘致にあたって、安倍首相が福島第一原発についてとくに触れたことはまだ多くの人の記憶に残っているはずだ。
「原発事故の日本」というイメージを早く払拭したいという海外に向けた体面が、帰還政策の根源にはありそうである。そこには、原発事故をいつまでも抱えていてはこの国の経済に悪影響が及びかねないという経済界の懸念もあるようだ。
また、海外に向けた体面とともに、国内における被災自治体の立場にも触れておくべきかもしれない。事故から5年が経ち、被災地ではこの復興を失敗だということは、面子としても難しい。とくに福島県が「福島の安全」をことさら強調し、例えば風評被害の阻止に専心するのも、どこかで「安全だ」と言わねばならない難しい立場があるからだ。そこに現に暮らしがある以上、「今は心配ない」「不安に考える必要はない」と強調するのはおかしなことではない。だがこの被害は実害であり、そのこともまた認識しているから、「イチエフは止まってはいない」「フクシマは終わっていない」「福島の現実を知ってくれ」という主張も同時に行われている。
しかしこれに対して暮らしの安全性を強調し、福島の生産物への風評被害撲滅をことさら運動することは、結果として被災地の安全性までも肯定することにつながり、政府の帰還政策を正当化して、帰還しない人々はその安全宣言に逆らっているのだという論理にまで行き着いてしまう。福島県や県民自身が、政府や東京電力の責任逃れを助長している面が否めない。
結局、復興と称して多額の金をつぎ込みながら、現地復興には何ら寄与せず、被害者を守ることにさえ失敗し、大規模な土木事業を再開して、公共事業国家に先祖返りしてしまった。
さらには、まさに原発事故が起きたことによって長らくの懸案であった放射性廃棄物の収容地が登場し、原発政策を整合的に動かしていく道筋がついに見えてきた――。原発事故が原発政策を肯定し、完結させる。そういう形にまで事態は展開しそうである。
被災地・被災者のために始まったはずの復興政策が、全く別の人々に恩恵を与える形で、当初の向きとはまったく違う方向へと早い時期に舵を切ってしまっている。
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以上、復興政策の失敗に対する批判を長文で引用したが、上記の復興庁のレポートを見てみると、復興政策の成果をアピールするのに一所懸命で、そこには「原発被害」については一言も触れていないことは真実を曲げることであり、国民を欺瞞しているとしか思えない。政府(中央政府と地方自治体)も国民も「原発被害」の教訓から何も学びとっていないのは情けないことである。このままでは「美しい日本」を目指すことができないであろう。
最後に、改めて「福島よ!忘れさせない!」という言葉で結びたい。(2017年10月30日)
<李鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu>
1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学大学院経済学研究科博士課程中退。東北アジア地域協力を専門に政策研究に従事し、2001年より東京財団研究員、名古屋大学研究員、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、06年現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を中心に国際舞台で精力的に研究・交流活動に尽力している。SGRA研究員および「構想アジア」チーム代表。近著に『アジア共同体の創成プロセス』(編著、2015年4月、日本僑報社)、その他論文やコラム多数。
※スタディツアーの報告
2017年11月30日配信
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2017.11.25
SGRAレポート第84号(本文)
SGRAレポート第84号(表紙)
第11回SGRAチャイナ・フォーラム論文集
「東アジアからみた中国美術史学」
2019年5月17日発行
<フォーラムの趣旨>
作品の持つ芸術性を編述し、それを取り巻く社会や歴史そして作品の「場」やコンテキストを明らかにすることによって作品の価値づけを行う美術史学は、近代的社会制度の中で歴史学と美学、文化財保存・保護に裏打ちされた学問体系として確立した。
とりわけ中国美術史学の成立過程においては、前時代までに形成された古物の造形世界を、日本や欧米にて先立って成立した近代的「美術」観とその歴史叙述を継承しながらいかに近代的学問として体系化するか、そして大学と博物館という近代的制度のなかにいかに再編するかというジレンマに直面した。この歴史的転換と密接に連動しながら形成されたのが、中国美術研究をめぐる中国・日本・アメリカの「美術史家」たちと、それぞれの地域に形成された中国美術コレクションである。
このような中国美術あるいは中国美術史が内包する時代と地域を越えた文化的多様性を検証することによって、大局的な東アジア広域文化史を理解する一助としたい。
<もくじ>
【講演1】塚本麿充(東京大学東洋文化研究所)
「江戸時代の中国絵画コレクション ―近代・中国学への懸け橋―」
【講演2】呉 孟晋(京都国立博物館)
「漢学と中国学のはざまで―長尾雨山と近代日本の中国書画コレクション―」
【総合討論】
司会/進行:王 志松(北京師範大学)
討論:趙 京華(北京第二外国語学院)、王 中忱(清華大学)、劉 暁峰(清華大学)
総括:董 炳月(中国社会科学院文学研究所)
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2017.11.20
SGRAレポート第83号
SGRAレポート第83号(表紙)
第58回SGRAフォーラム講演録
「アジアを結ぶ?『一帯一路』の地政学」
2018年11月16日発行
<フォーラムの趣旨>
中国政府は2013年9月から、シルクロード経済ベルトと 海上シルクロードをベースにしてヨーロッパとアジアを連結させる「一帯一路」政策を実行している。「一帯一路」政策の内容の中心には、中国から東南アジア、中央アジア、中東とアフリカを陸上と海上の双方で繋げて、アジアからヨーロッパまでの経済通路を活性化するという、習近平(シーチンピン)中国国家主席の意欲的な考えがある。しかし、国際政治の秩序の視点から観れば、「一帯一路」政策が単純な経済目的のみを追求するものではないという構造を垣間見ることができる。
「一帯一路」政策は、表面的にはアジアインフラ投資銀行(AIIB)を通じた新興国の支援、融資、そしてインフラ建設などの政策が含まれており、経済発展の共有を一番の目的にしているが、実際には、貿易ルートとエネルギー資源の確保、そして東南アジア、中央アジア、中東とアフリカにまで及ぶ広範な地域での中国の政治的な影響力を高めることによって、これまで西洋中心で動いて来た国際秩序に挑戦する中国の動きが浮かび上がってくる。
本フォーラムでは、中国の外交・経済戦略でもある「一帯一路」政策の発展を、国際政治の観点から地政学の論理で読み解く。「一帯一路」政策の背景と歴史的な意味を中国の視点から考える基調講演の後、日本、韓国、東南アジア、中東における「一帯一路」政策の意味を検討し、最後に、4つの報告に関する議論を通じて「一帯一路」政策に対する日本の政策と立ち位置を考える。
<もくじ>
【基調講演】
「一帯一路構想は関係諸国がともに追いかけるロマン」
朱建栄(Prof. Jianrong ZHU)東洋学園大学教授
【研究発表1】
「戦後日本の対外経済戦略と『一帯一路』に対する示唆」
李彦銘(Dr. Yanming LI)東京大学教養学部特任講師
【研究発表2】
「米中の戦略的競争と一帯一路:韓国からの視座」
朴 栄濬 (Prof. Young June PARK) 韓国国防大学校安全保障大学院教授
【研究発表3】
「『一帯一路』の東南アジアにおける政治的影響:ASEAN中心性と一体性の持続可能性」
古賀慶 (Prof.Kei KOGA)シンガポール南洋理工大学助教
【研究発表4】
「『一帯一路』を元に中東で膨張する中国:パワーの空白の中で続く介入と競争」
朴 准儀(Dr.June PARK)アジアソサエティ
【フリーディスカッション】「アジアを結ぶ?『一帯一路』の地政学」
-討論者を交えたディスカッションとフロアとの質疑応答-
モデレーター:平川均(Hitoshi Hirakawa)国士舘大学21世紀アジア学部教授
討論者:西村豪太 (Gouta NISHIMURA) 『週刊東洋経済』編集長
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2017.11.18
SGRAレポート第82号 中国語版 韓国語版
SGRAレポート第82号(表紙) 中国語版 韓国語版
第57回SGRAフォーラム講演録
「第2回日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性─蒙古襲来と13 世紀モンゴル帝国のグローバル化」
2018年5月10日発行
<フォーラムの趣旨>
東アジアにおいては「歴史和解」の問題は依然大きな課題として残されている。講和条約や共同声明によって国家間の和解が法的に成立しても、国民レベルの和解が進まないため、真の国家間の和解は覚束ない。歴史家は歴史和解にどのような貢献ができるのだろうか。
渥美国際交流財団は2015 年7月に第49 回SGRA(関口グローバル研究会)フォーラムを開催し、「東アジアの公共財」及び「東アジア市民社会」の可能性について議論した。そのなかで、先ず東アジアに「知の共有空間」あるいは「知のプラットフォーム」を構築し、そこから和解につながる智恵を東アジアに供給することの意義を確認した。このプラットフォームに「国史たちの対話」のコーナーを設置したのは2016 年9月のアジア未来会議の機会に開催された第1回「国史たちの対話」であった。いままで3カ国の研究者の間ではさまざまな対話が行われてきたが、各国の歴史認識を左右する「国史研究者」同士の対話はまだ深められていない、という意識から、先ず東アジアにおける歴史対話を可能にする条件を探った。具体的には、三谷博先生(東京大学名誉教授/跡見学園女子大学教授)、葛兆光先生(復旦大学教授)、趙珖先生(高麗大学名誉教授/韓国国史編纂委員長)の講演により、3カ国のそれぞれの「国史」の中でアジアの出来事がどのように扱われているかを検討した。
第2回対話は自国史と他国史との関係をより構造的に理解するために、「蒙古襲来と13 世紀モンゴル帝国のグローバル化」というテーマを設定した。13 世紀前半の「蒙古襲来」を各国の「国史」の中で議論する場合、日本では日本文化の独立の視点が強調され、中国では蒙古(元朝)を「自国史」と見なしながら、蒙古襲来は、蒙古と日本と高麗という中国の外部で起こった出来事として扱われる。しかし、東アジア全体の視野で見れば、蒙元の高麗・日本の侵略は、文化的には各国の自我意識を喚起し、政治的には中国中心の華夷秩序の変調を象徴する出来事であった。「国史」と東アジア国際関係史の接点に今まで意識されてこなかった新たな歴史像があるのではないかと期待される。
もちろん、本会議は立場によってさまざまな歴史があることを確認することが目的であり、「対話」によって何等かの合意を得ることが目的ではない。
なお、円滑な対話を進めるため、日本語⇔中国語、日本語⇔韓国語、中国語⇔韓国語の同時通訳をつけた。
<もくじ>
◆開会セッション [司会:李 恩民(桜美林大学)]
【基調講演】 「ポストモンゴル時代」?─14~15世紀の東アジア史を見直す
葛 兆光(復旦大学)
◆第1セッション [座長:村 和明(三井文庫)、彭 浩(大阪市立大学)]
【発表論文1】 モンゴル・インパクトの一環としての「モンゴル襲来」
四日市康博(昭和女子大学)
【発表論文2】 アミール・アルグンと彼がホラーサーンなどの地域において行った2回の人口調査について
チョグト(内蒙古大学)
【発表論文3】 蒙古襲来絵詞を読みとく─二つの奥書の検討を中心に
橋本 雄(北海道大学)
◆第2セッション [座長:徐 静波(復旦大学)、ナヒヤ(内蒙古大学)]
【発表論文4】 モンゴル帝国時代のモンゴル人の命名習慣に関する一考察
エルデニバートル(内蒙古大学)
【発表論文5】 モンゴル帝国と火薬兵器─明治と現代の「元寇」イメージ
向 正樹(同志社大学)
【発表論文6】 朝鮮王朝が編纂した高麗史書にみえる元の日本侵攻に関する叙述
孫 衛国(南開大学)
◆第3セッション [座長:韓 承勲(高麗大学)、金キョンテ(高麗大学)]
【発表論文7】 日本遠征をめぐる高麗忠烈王の政治的意図
金 甫桄(嘉泉大学)
【発表論文8】 対蒙戦争・講和の過程と高麗の政権を取り巻く環境の変化
李 命美(ソウル大学)
【発表論文9】 北元と高麗との関係に関する考察─禑王時代の関係を中心に
ツェレンドルジ(モンゴル国科学院 歴史研究所)
◆第4セッション [座長:金 範洙(東京学芸大学)、李 恩民(桜美林大学)]
【発表論文10】 モンゴル帝国の飲食文化の高麗流入と変化
趙 阮(漢陽大学)
【発表論文11】 「深簷胡帽」考─蒙元時代における女真族の帽子の盛衰史
張 佳(復旦大学)
◆全体討議セッション
司会/まとめ:劉 傑(早稲田大学)、論点整理/趙 珖(韓国国史編纂委員会)、
総括/三谷 博(跡見学園女子大学)
◆あとがきにかえて
金キョンテ(高麗大学)、 三谷 博(跡見学園女子大学)、 孫 軍悦(東京大学)、 ナヒヤ(内蒙古大学)、 彭 浩(大阪市立大学)
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2017.11.16
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(中略)南相馬に転居した、もうひとつの動機は、「共苦」です。
東日本大震災以降、「絆」「がんばろう」「寄り添う」という言葉があふれ返りました。どれも同情や善意に根差した言葉ですが、同情や善意というのは、外側から差し伸べられるものなんですね。
苦しんでいる人の苦しみは、その人自身のもので、他者であるわたしに同じ苦しみを苦しむなんてできっこない。
けれど、その苦しみに向かって自分を開くことはできます。
(柳美里『人生にはやらなくていいことがある』より)
・・・・・・
東日本大震災を契機に様々な意味で日本文学が動いたといえるでしょう。3・11以降、「震災後文学」というカテゴリーが誕生し、原発問題、政権への批判、放射線による生物の変容、復旧や復興などのテーマに焦点を当てる作品が次々に現れました。「震災後文学」を論じる著書やその翻訳の数もまたおびただしいです。東日本大震災以降、日本現代文学が新たな方向へと動いたと言っても過言ではないでしょう。
また、その「動き」は、文学と様々な行動や運動の繋がりにおいても見ることができます。ここで3つの例をあげてみましょう。2012年4月に、早稲田文学をベースとしたチャリティ・プログラムのために書きおろされた短篇やそれに付随して行われた座談・対談などが収められている『早稲田文学 記録増刊 震災とフィクションの“距離”』が出版されました。その著書が英語をはじめ、中国語、韓国語、イタリア語などに訳され、世界中から東日本大震災のための寄付が集まりました。また、2012年10月に、文学者が発表する場を利用し、原発問題を伝え続ける必要性を強調する「脱原発社会をめざす文学者の会」が発足しました。さらに、2015年に日本外国特派員協会で「原発がない世界を実現するほかない。声を発し続けることが、自分にやれるかもしれない最後の仕事だ」と語ったノーベル賞作家の大江健三郎の言葉は海外でも大きな反響を呼びました。
東日本大震災をもって、もうひとつの意味においても日本文学が動いたと思われます。つまり、作家たちが移動したのです。福島第一原発の事故を機に避難をめぐる問題は福島県だけではなく、あらゆる地域で起こっていました。芥川賞作家金原ひとみをはじめ、放射能汚染を心配しているが故に東京から関西へ避難した作家たちも少なくありませんでした。柳美里もその一人でした。
インタビューで語っているように、柳美里は「子どもの安全を確保するためにできるだけ遠くへ避難させたい」という母親としての気持ちに動かされ、2011年3月16日に鎌倉から大阪へ向かいました。しかし一方、「今すぐ福島に行きたい」という物書きとしての気持ちもあったとか。同年の4月に鎌倉に戻った柳美里は、そこから地元の人々の話を聴くために福島県に通い始めました。そして、2015年4月に南相馬市へ移住することにしたのです。いったい何故その決心に至ったのでしょうか?
「住みたいけれど住めない」「住みたくないけど住むしかない」…原発事故とそれに伴う放射能汚染の問題が「住む」という問題に密接な関係を持っているのです。人によって故郷との絆が様々であり、その苦しみを理解するためにはそれぞれの人の声に耳を傾けるべきだ、と柳美里は主張しています。しかし、よそに住みながらその苦しみを聴いているうちに柳美里は違和感を覚え、地元の人々の痛苦を共感するためには、同じ土地を踏み同じ空気を吸わなければならないと覚りました。作者の言葉を借りると、「共苦」が必要だったのです。
では、その共苦から何が生まれるのでしょうか? 今まで書かれてきた「震災後文学」は、「書けない自分」あるいは「無力な自分」にフォーカスを当てた作品が多いです。しかし、柳美里はまた違う形で物語を作ろうとしていると思われます。2016年12月まで、臨時災害放送局・南相馬ひばりエフエム(南相馬災害エフエム)の「ふたりとひとり」というラジオ番組において、柳美里は450人の地元の人々を取材してきました。それらの物語については作者が以下のように語っています。
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外から聴いた声ではあるけれど、いったん身体に取り入れて何日か経つと、いきなり内から声を聴くことがあります。そして、彼、彼女の痛苦が身体のそこから湧き上がり、彼、彼女が体験した光景が自分の記憶であるかのように広がる―
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柳美里はエッセイやインタビューにおいて南相馬市における生活を語っているものの、フィクションという形で福島県の人々の物語はまだ綴っていません。が、「同情」や「善意」、つまり外側から差し伸べられるものを捨て、共に苦しむ道を選んだ作者は、地元の苦痛とともにその希望や笑顔をいつか物語化し世界へ伝えてくれることを大いに期待しています。
〇参照文献
柳美里『人生にはやらなくていいことがある』ベストセラーズ(2016年)
「福島県南相馬市に移住した柳美里さんインタビュー」『通販生活』https://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/150908/ (参照2017-10-23)
英訳版はこちら
<レティツィア・グアリーニ Letizia GUARINI>
2017年度渥美奨学生。イタリア出身。ナポリ東洋大学東洋言語文化科(修士)、お茶の水女子大学人間文化創成科学研究科(修士)修了。現在お茶の水女子大学人間文化創成科学研究科に在学し、「日本現代文学における父娘関係」をテーマに博士論文を執筆中。主な研究領域は戦後女性文学。
2017年11月16日配信
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2017.11.16
SGRAレポート第81号
SGRAレポート第81号(表紙)
第56回SGRAフォーラム
「人を幸せにするロボット-人とロボットの共生社会をめざして第2回-」
2017年11月20日刊行
<フォーラムの趣旨>
近年、ニュースや様々なイベントなどで人型ロボットを見かける機会も多くなってきた。私たちの日々の生活をサポートしてくれる「より人間らしいロボット“Humanoid”」の開発が、今、急ピッチに進んでいる。一方で、私たちの日常生活の中には、すでに多種多様なロボットが入り込んでいる、ともいわれている。例えば「お掃除ロボット」、「全自動洗濯機」、「自動運転自動車」などなど……、ロボット研究者によれば、これらもロボットなのだという。では、ロボットとは何なのだろうか?そして、未来に向けて「こころを持ったロボット」の開発がA.I.(Artificial Intelligence)の研究をベースに進められている。「こころを持ったロボット」は可能なのだろうか?「ロボットのこころ」とは何なのだろうか?この問題を突き詰めて行くと、「こころ」とは何か?という哲学の永遠の命題に行きあたる。今回のフォーラムでは、第一線で活躍中のロボット研究者と気鋭の哲学者が、それぞれの立場からロボット開発の現状をわかり易く紹介。人を幸せにするロボットとは何か?人とロボットが共生する社会とは?など、人々が抱く興味や疑問を手がかりに、さまざまな問いに答えていった。
<もくじ>
【基調講演】「夢を目指す若者が集う大学とロボット研究開発の取り組み」
稲葉雅幸(東京大学大学院情報理工学系研究科創造情報学専攻教授)
【プレゼンテーション1】「ロボットが描く未来」
李 周浩(立命館大学情報理工学部情報コミュニケーション学科教授)
【プレゼンテーション2】「ロボットの心、人間の心」
文 景楠(東京大学教養学部助教(哲学))
【プレゼンテーション3】「(絵でわかる)ロボットのしくみ」
瀬戸 文美(物書きエンジニア)
【フリーディスカッション】-フロアとの質疑応答-
モデレーター:ナポレオン(SGRA)
パネリスト:稲葉雅幸、李 周浩、文 景楠、瀬戸文美ほか
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2017.11.10
2017年9月15日(金)の早朝、北海道の上空を北朝鮮から発射されたICBM(ミサイル)が通過することを知らせる不気味な警報音が日本列島に響きわたった。その直後、私たちSGRAのメンバー16名は東京駅から新幹線で福島の飯舘村に向けて出発した。渥美財団主催のSGRAふくしまスタディツアーは、2011年3月11日に発生した大震災による巨大な津波が日本の東北地方を襲い、福島原子力発電所事故に起因する放射能汚染など、世界史上稀に見る災害に対する復興状況を視察し学ぶことを目的に2012年にスタートした。とくに、放射能汚染で全域が避難を余儀なくされた飯舘村に焦点を当てて、毎年、村の復興の状況について現地に出向いて観察を行ってきた。今回を含めると6回目のツアーとなるが、私自身は3回目の参加である。
今回のツアーには、日本人だけではなく、インドネシア、韓国、中国、ガーナ、イタリア、スウェーデン、カナダ、ネパール、アメリカからのメンバーの参加があった。飯舘村はこの4月に住民の避難区域から解除されたため、村民の帰還が始まり、新しい村づくりが動き出した。私たちは飯舘村の変化の現状を直接目で見て、また村の人々と交流することによって、新しい村づくりの取り組みの状況とその困難な課題について理解を深めたいと願っていた。それが今回のツアーの重要な目的であった。
私が前回の2015年に訪れた時の飯舘村の光景を今でも鮮明に覚えている。当時、村はまだ避難区域に指定されており、そのため放射能汚染を除染する作業員以外は、ほとんど人を見かけることはなかった。あちらこちらに空き家として放置された家々は雨風に打たれてボロボロの状態で、どこを見ても悲惨な光景が広がっていた。今でも、多くの家々はいまだ空き家の状態であるし、家の周辺や田畑のあちこちに、除染土を詰めた黒い袋(フレコンバック)が山のように積み上げられている。
しかし、今回飯舘村に入ってみると、前回とは違う光景が私の目に飛び込んできた。ボロボロであった被災家屋のうち帰還を決意した人たちの家は、新しく建て替えられ、真新しい農業用のビニールハウスが点在していた。田んぼには緑の酒米が広がっている。この光景の変化は新しい村づくりが既に始まっていることを私に強く感じさせた。今までの被災地の暗いイメージは変わろうとしていた。
村民の一人であり、「ふくしま再生の会」の副理事長でもある菅野宗夫さんの話を聞き、新しい村づくりの問題はそんなに単純ではないことを私たちは知るようになる。菅野さんが語った「村は避難区域から解除され、村民の帰宅は可能となりましたが、村は様々な困難に直面しています。その様々な問題と困難とは何なのか、皆さんに実際にその目で見て、体で感じて欲しいのです」というお話こそ、私たちSGRAふくしまツアーの目的そのものであった。
飯舘村総務課長によれば被災前には約6000人であった村の住民の内、現在村に戻ってきたのはわずか400人に過ぎない。しかもそのほとんどは高齢者であり、大多数の村民は村外から昼間村に通っている状況にある。今後村が元の姿に戻るには、住民帰還に向けた環境の整備のための数多くの解決困難な問題を克服していかなければならない。
今回のツアーでは、数多くの施設を見学し、新しい村づくりに努力する人々からも話を聞くことができた。そのいくつかの状況について簡単に報告したい。
(1)老人ホーム
震災以前に建てられた立派な建物は、震災による被害はなかったため、現在も使用可能である。しかし、看護師や介護師の数が大幅に不足しているため、それを維持し、充実させるには困難な状況が続いている。
(2)メガソーラーパネル
村の西側地区に田や畑に代わって、東京の大企業の大規模なメガソーラーパネルが設置されている。これは新しい村づくりのひとつの試みとも考えられるが、私には村の美しい自然との調和という点で、率直に言って違和感を覚えた。飯舘村の人々の生活に新たな問題となることがないよう願っている。
(3)花作り
農家の高橋さんの花作りのビニールハウスを見学し、高橋さんの力強い話を聞いた。このような村に戻ってきた人たちの未来に向けた一人一人の努力が村の発展の基礎であることを強く感じさせられた。困難を克服しようという高橋さんのエネルギーには少なからず感動を覚えた。
(4)道の駅「までい館」
「までい館」は飯舘村の復興のシンボルとして、国の重点支援を受けて作られた施設である。村内には、まだ以前のような商店は無く、帰ってきた村民の生活環境の向上や交流の場として、コンビニ、農産物の直売、軽食コーナーなどの施設の充実が図られている。このような施設がさらに発展して、村外からの人々も集まるようになることを期待したい。
(5)マキバノハナゾノ
上述の高橋さんの花作りとは別に、「花の仙人」と呼ばれている大久保金一さん(76才)の花園を見学した。夢のある大きなプロジェクトで、放射能汚染の被害を受けた山の中腹や水田を利用して水仙や桜などを植えていく大規模な花園作りが試みられている。ボランティアの若者グループも協力しているそうで、とても76才とは思えないエネルギーには驚かされた。ここが近い将来、復興のシンボルとして飯舘村の名所になるに違いない。
(6)宗教施設
山津見神社を見学した。ここで偶然飯舘村の村長と出会い、村の現状について話を聞くことができた。
私は村の復興にとって宗教の存在は非常に大きいと思う。とくに日本の社会はその伝統的な習慣や祭りなど、神社や寺院と密接に結びついてきた。私はインドネシア人でイスラム教徒であるが、インドネシアでも被災の復興では宗教が重要な役割を担う。
今回のSGRAふくしまツアーでは、飯舘村の人々と心暖まる数多くの交流ができ、又多くのことを学ぶことができた。ご協力をいただいた皆さまに心から感謝申し上げます。避難区域から解除されたことは新しい出発点に立ったことであると思う。私も飯舘村の明るい未来を信じて、これからも強い関心を持ち続けていきたいと思う。
ツアーの写真
<M. ジャクファル・イドルス M. Jakfar Idrus>
2014年度渥美奨学生。インドネシア出身。ガジャマダ大学文学部日本語学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科に在籍し「国民国家形成における博覧会とその役割ー西欧、日本、およびインドネシアを中心としてー」をテーマに博士論文執筆中。同大学21世紀アジア学部非常勤講師、アジア・日本研究センター客員研究員。研究領域はインドネシアを中心にアジア地域の政治と文化。
2017年11月10日配信
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2017.10.19
下記の通りSGRAチャイナ・フォーラムを開催いたします。参加ご希望の方は、事前にお名前・ご所属・緊急連絡先をSGRA事務局宛ご連絡ください。
※お問い合わせ・参加申込み:SGRA事務局(
[email protected], 03-3943-7612)
テーマ: 「東アジアからみた中国美術史学」
日 時: 2017年11月25日(土)午後2時~5時
会 場: 北京師範大学後主楼914
主 催: 渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)
共 催: 北京師範大学外国語学院、清華東亜文化講座
助 成: 国際交流基金北京日本文化センター、鹿島美術財団
◇フォーラムの趣旨
作品の持つ芸術性を編述し、それを取り巻く社会や歴史そして作品の「場」やコンテキストを明らかにすることによって作品の価値づけを行う美術史学は、近代的社会制度の中で歴史学と美学、文化財保存・保護に裏打ちされた学問体系として確立した。とりわけ中国美術史学の成立過程においては、前時代までに形成された古物の造形世界を、日本や欧米にて先立って成立した近代的「美術」観とその歴史叙述を継承しながらいかに近代的学問として体系化するか、そして大学と博物館という近代的制度のなかにいかに再編するかというジレンマに直面した。この歴史的転換と密接に連動しながら形成されたのが、中国美術研究をめぐる中国・日本・アメリカの「美術史家」たちと、それぞれの地域に形成された中国美術コレクションである。このような中国美術あるいは中国美術史が内包する時代と地域を越えた文化的多様性を検証することによって、大局的な東アジア広域文化史を理解する一助としたい。
◇プログラム
総合司会:孫 建軍(北京大学日本言語文化学部)
【問題提起】林 少陽(東京大学大学院総合文化研究科)
【発表1】塚本麿充(東京大学東洋文化研究所)
「江戸時代の中国絵画コレクション ―近代・中国学への架け橋―」
【発表2】呉 孟晋(京都国立博物館)
「漢学と中国学のはざまで―長尾雨山と近代日本の中国書画コレクション―」
【円卓会議】
進 行: 王 志松(北京師範大学)
討 論:
趙 京華(北京第二外国語学院文学院)
王 中忱(清華大学中国文学科)
劉 暁峰(清華大学歴史学科)
総 括: 董 炳月(中国社会科学院文学研究所)
同時通訳(日本語⇔中国語):丁莉(北京大学)、宋剛(北京外国語大学)
※詳細は、下記をご参照ください。
プログラム(日本語)
プログラム(中国語)
◇開催経緯と過去3回のチャイナ・フォーラム
公益財団法人渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)は、清華東亜文化講座のご協力を得て、2014年から毎年1回、計3回のSGRAチャイナ・フォーラムを北京等で開催し、日中韓を中心とした東北アジア地域の歴史を「文化と越境」をキーワードとして検討してきた。
2014年の会議では、19世紀以降の華夷秩序の崩壊と東アジア世界の分裂という歴史的背景のもとでつくられた近代の東アジア美術史が、歴史的な美術の交流と実態を反映していない「一国美術史」として語られてきたという問題を提起し、この一国史観を脱却した真の「東アジア美術史」の構築こそ、同時に東アジアにおける近代の超克への一つの重要な試金石となることを指摘した。(佐藤道信:「近代の超克―東アジア美術史は可能か」)
一方、「工芸」は用語の誕生から制度としての「美術」の成立と深い関係にある。アジアにおいては、陶磁器や青銅器や漆器などを賞玩してきた歴史があり、工芸にはアジアの人々が共感しうる近代化以前の生活文化に根差した価値観が含まれているが、近代では「美術」の一部とみなされる。「美術」と「工芸」は、漢字圏文化と西洋文化との関係および葛藤を表していると同時に、日中両国のナショナリズム、国民国家の展開や葛藤とも深い関係にあることが確認された。(木田拓也「工芸家が夢みたアジア:<東洋>と<日本>のはざまで」)
2015年の会議では、古代の交流史と対比して「抗争史」の側面が強調される従来の近代東アジア史観に対して、実際の近代日中韓三国間において、「他者」である西洋文化受容と理解という目的のもと、互いの成果・経験・教訓を共有する多彩多様な文化的交流が展開し古代にも劣らぬ文化圏を形成していたことを踏まえ、改めて交流史を結節点とした見直しの重要性を確認した。(劉建輝:「日中二百年-文化史からの再検討」)
2016年の会議では、近代に成立した国民国家の文化的同一性のもとに収斂された「一国文化史」という言説の虚構性や恣意性を明らかにした。いわゆる中間領域に存在する作品が内包する文脈から、「モノ」の移動にともなって生まれた多様な価値観と重層的な歴史と社会の有様が認識でき、文物が国家に属するという従来の既成概念を取り去り改めて文物の交流を起点に大局的な文化(受容)史観を構築することの重要性を指摘した。(塚本麿充:「境界と国籍-“美術”作品をめぐる社会との対話―」)
次いで文学史からは、近代の日中外交文書における漢字語彙の使用状況とりわけ同形語の変遷をたどり、日本語から新漢字を輸入することによって古い漢字語彙から近代語へと変容していく現代中国語の形成過程から、ひとつの言語が存立するにあたり、実際の語彙の移動と交流に依拠する多層性と雑種性を持ちうることを明らかにした。(孫建軍:「日中外交文書にみられる漢字語彙の近代」)
それぞれの報告から、「国境」や「境界」というフレームに捉われない多様な歴史事象の存在を認識し、改めて「広域文化史」構築の可能性とその課題を浮き彫りにした。
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2017.10.07
下記の通りSGRAフォーラムを開催いたします。参加ご希望の方は、事前にお名前・ご所属・緊急連絡先をSGRA事務局宛ご連絡ください。
テーマ:「アジアを結ぶ?『一帯一路』の地政学」
日時:2017年11月18日(土)午後1時30分~4時30分 その後懇親会
会場:東京国際フォーラム ガラス棟 G610 号室
参加費:フォーラムは無料 懇親会は賛助会員・学生1000円、メール会員・一般2000円
お問い合わせ・参加申込み:SGRA事務局(
[email protected], 03-3943-7612)
◇フォーラムの趣旨
中国政府は2013年9月から、シルクロード経済ベルトと 海上シルクロードをベースにしてヨーロッパとアジアを連結させる「一帯一路」政策を実行している。「一帯一路」政策の内容の中心には、中国から東南アジア、中央アジア、中東とアフリカを陸上と海上の双方で繋げて、アジアからヨーロッパまでの経済通路を活性化するという、習近平(シーチンピン)中国国家主席の意欲的な考えがある。しかし、国際政治の秩序の視点から観れば、「一帯一路」政策が単純な経済目的のみを追求するものではないという構造を垣間見ることができる。
「一帯一路」政策は、表面的にはアジアインフラ投資銀行(AIIB)を通じた新興国の支援、融資、そしてインフラ建設などの政策が含まれており、経済発展の共有を一番の目的にしているが、実際には、貿易ルートとエネルギー資源の確保、そして東南アジア、中央アジア、中東とアフリカにまで及ぶ広範な地域での中国の政治的な影響力を高めることによって、これまで西洋中心で動いて来た国際秩序に挑戦する中国の動きが浮かび上がってくる。
本フォーラムでは、中国の外交・経済戦略でもある「一帯一路」政策の発展を、国際政治の観点から地政学の論理で読み解く。「一帯一路」政策の背景と歴史的な意味を中国の視点から考える基調講演の後、日本、韓国、東南アジア、中東における「一帯一路」政策の意味を検討し、最後に、4つの報告に関する議論を通じて「一帯一路」政策に対する日本の政策と立ち位置を考える。
◇プログラム
詳細はこちらをご覧ください。
【基調講演】
「一帯一路構想は関係諸国がともに追いかけるロマン」
朱建栄(Prof. Jianrong ZHU)東洋学園大学教授
【研究発表1】
「戦後日本の対外経済戦略と『一帯一路』に対する示唆」
李彦銘(Dr. Yanming LI)東京大学教養学部特任講師
【研究発表2】
「米中の戦略的競争と一帯一路:韓国からの視座」
朴 栄濬 (Prof. Young June PARK) 韓国国防大学校安全保障大学院教授
【研究発表3】
「『一帯一路』の東南アジアにおける政治的影響:ASEAN中心性と一体性の持続可能性」
古賀慶 (Prof.Kei KOGA)シンガポール南洋理工大学助教
【研究発表4】
「『一帯一路』を元に中東で膨張する中国:パワーの空白の中で続く介入と競争」
朴 准儀(Dr.June PARK)アジアソサエティ
【フリーディスカッション】「アジアを結ぶ?『一帯一路』の地政学」
-討論者を交えたディスカッションとフロアとの質疑応答-
モデレーター:平川均(Hitoshi Hirakawa)国士舘大学21世紀アジア学部教授
討論者:西村豪太 (Gouta NISHIMURA) 『週刊東洋経済』編集長