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2013.10.09
―今西淳子氏にモンゴル科学アカデミー栄誉学位を授与―
2013年9月5、6日の2日間、渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)とモンゴル科学アカデミー歴史研究所の共催、在モンゴル日本大使館、モンゴル・日本人材開発センター、モンゴルの歴史と文化研究会の後援、双日株式会社、鹿島建設の協賛で、第6回ウランバートル日モ国際シンポジウム「モンゴルにおける鉱山開発の歴史、現状と課題」がウランバートルで開催された。
近年、モンゴルは新たな資源大国として世界から熱い視線を集め、大きな変動期をむかえている。しかし、資源開発にともなう負の側面も問題化し始めた。インフレの進行、貧富の格差や環境汚染は日々深刻さを増し、社会インフラの整備の遅れも目立っており、大規模資源開発はモンゴルの地域生態システムへの影響をももたらしている。モンゴル政府は、鉱山開発、資源利用における関係諸国との友好関係を強調しながら、多くの葛藤に遭遇しており、対外関係は近時、複雑化してきている。このような現状のなか、今西SGRA代表と私は、モンゴル国の関係者と話し合って、今回のシンポジウムを企画した。
本シンポジウムでは、モンゴルにおける資源開発の歴史を振り返りつつ、同国の鉱山開発の現状、問題点をより多元的かつ総合的に把握し、さらに経験や教訓、問題への解決方法について、広い視野から検討することによって、モンゴルの持続可能な資源開発の発展のために意味のある議論を展開することを目指した。
9月4日午前、私がウランバートル国際空港に着くと、モンゴル科学アカデミー歴史研究所の職員が出迎えに来てくれたが、交通渋滞で、空港から歴史研究所に着くまでに、2時間余りもかかった。S.チョローン所長と会談した後、同研究所の職員と一緒に、プログラム、要旨集、会議でつかうパワーポイントなどを確認し、日本大使館の青山大介書記官とも連絡をとった。その後、ケンピンスキーホテルにて、6日夜のSGRAの招待宴会のメニューなどを確認して予約した。そして、今西さんと高橋甫氏を出迎えるため、空港に行った。
5日の昼、チョローン所長はスフバートル広場の隣にあるレストランに今西さん、高橋さんと私を招待した。モンゴルの鉱山開発や、日本と北朝鮮政府のモンゴルでの交渉などが話題になり、大変興味深かった。午後、私は歴史研究所の職員と一緒に会議の準備をし、夕方、モンゴル・日本人材開発センターにて、同時通訳設備のセッティングなどをした。日本からの参加者のほとんどはこの日の夜、ウランバートルについた。
6日午前、モンゴル・日本人材開発センター多目的室で開会式がおこなわれ、在モンゴル日本大使館の林伸一郎参事官、今西代表、モンゴル科学アカデミーのB. エンフトゥブシン総裁(E. プレブジャブ事務局長が代読)が挨拶をした。
今西さんはSGRA代表として、長年にわたって国際交流活動に貢献し、顕著な業績をあげ、とりわけモンゴルで国際理解に重要な意義を持つ国際学術シンポジウムをおこなってきて、日モ交流の促進とモンゴル研究の発展へ寄与した功績で、モンゴル科学アカデミーより同アカデミー最高栄誉賞――栄誉学位を授与された。モンゴル科学アカデミーはモンゴルの最高の科学学術機関であり、栄誉学位は同科学アカデミーの最高栄誉賞である。
開会式の後、前モンゴル工業大臣Ts. ホルツ氏が「モンゴル鉱業開発史」、名古屋大学客員教授、前在モンゴル日本大使 城所卓雄氏が「モンゴルにおける鉱山開発の歴史と問題点」をテーマとする基調報告をおこなった。
午前中の後半の会議では、モンゴル科学アカデミー歴史研究所のN. Ganbat副所長と埼玉大学の外岡豊教授が座長をつとめ、6本の論文が発表された。午後の会議では、高橋甫氏とモンゴル国立大学のJ. Urangua教授が座長をつとめ、7本の論文が発表された。その後おこなったディスカッションでは、チョローン氏と私が座長をつとめ、モンゴルの鉱山開発における問題点やモンゴルは戦後日本の経済発展の経験と教訓から何を学ぶべきかなどをめぐって、活発な議論が展開された。
同日夜ケンピンスキーホテルでSGRA主催の招待宴会がおこなわれ、50人ほどが参加し、モンゴルの国家殊勲歌手や馬頭琴奏者、柔軟演技者が素晴らしいミニコンサートを披露した。
7日午前の会議では、東京外国語大学の上村明氏とモンゴル科学アカデミー歴史研究所のS. Tsolmon教授が座長をつとめ、鉱山開発と環境保護をテーマとする11本の論文が報告された。日本からは上村明氏、外岡豊氏、特定非営利活動法人「地球緑化の会」の栁田耕一氏、千葉大学准教授児玉香菜子氏、SGRA会員で昭和女子大学准教授マイリーサ氏、首都大学東京非常勤講師包聯群氏、同大学教授落合守和氏(共同発表)が参加し発表した。N. Ganbat氏と一橋大学名誉教授田中克彦氏はその後のディスカッションの座長をつとめた。
午後は、ウランバートルから130キロほど離れたところにあるバガノール炭鉱を見学した。日本からの参加者にとって、この見学は非常に重要であった。その日の夜、バガノールの観光リゾートで歴史研究所主催の招待宴会がおこなわれた。星空のもと、宴会は続き、みなそれぞれの思いを語り、歌った。翌日の朝、今西さんの携帯から、2020年オリンピック開催地は東京に決定という朗報が入ってきて、みんなで喜びを分かち合った。
二日間の会議には、90人あまりが参加した。日本からは上記の報告者のほかに、双日株式会社の代表や「モンゴルの花」社の代表、名古屋大学の教員、東京外国語大学の留学生なども同シンポジウムに参加した。モンゴル国営通信社など22社が同シンポジウムについて報道した。
シンポジウムの写真
フスレ撮影
今西撮影
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<ボルジギン・フスレ Borjigin Husel>
昭和女子大学人間文化学部准教授。北京大学哲学部卒。内モンゴル大学芸術学院助手、講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。昭和女子大学非常勤講師、東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員をへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編『ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年――2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2010年)、『内モンゴル西部地域民間土地・寺院関係資料集』(風響社、2011年)、『20世紀におけるモンゴル諸族の歴史と文化――2011年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2012年)、『ハルハ河・ノモンハン戦争と国際関係』(三元社、2013年)他。
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2013年10月9日配信
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2013.06.12
2013年5月31日、国立台湾大学法律学院の国際会議場で第3回日台アジア未来フォーラム「近代日本政治思想の展開と東アジアのナショナリズム」が開催された。今回のフォーラムの趣旨は、ナショナリズムなど、近代西洋思想の受容によって展開された近代日本政治思想と諸概念、及びそれらの思想と諸概念が、中国と日本帝国の植民地において受容、変容されて、各地の政治情況と絡みながら展開されていた情況を検討することである。さらに、こうした近代政治思想の受容と交錯によって生じた現在の北東アジアのナショナル・アイデンティティに関わる諸問題に焦点を当てて検討した。
今回のフォーラムへの参加申込は187名であったが、会議当日、200席の会場は終日ほぼ満席であった。1つのセッションだけに参加した人もいたので、当日の参加者は基調講演と3つのセッションを合わせて計算すると、おそらく300名を超えたであろう。この意味で、今回のフォーラムのテーマの設定は成功だったと言えよう。
まず開会式では、台湾大学人文社会高等研究院の黄俊傑院長、台湾連合大学システムのカルチュラル・スタディーズ国際センターの劉紀蕙教授、公益財団法人交流協会台北事務所文化室の河野明子主任が開会のスピーチをしてくださった。基調講演を務めたのは法政大学法学部の渡辺浩教授(東京大学法学部名誉教授)であった。渡辺教授は「Nation・民主・自由ーー日本を例として」というテーマで講演を行ない、日本の歴史経験に関する考察に基づき、Nation、民主、自由との三者の複雑な関係と可能性について、鋭い見解を示した。たとえば、民主化がNationの形成を促進すると同時に、形成されたNationは対外戦争への協力・動員に積極的に応じた結果としてさらなる民主化をもたらした、という喜ばしくない因果連関が指摘された。
第1セッションは、「ナショナリズムをめぐる近代日本政治思想の展開と中国」というテーマで3名の学者が報告を行った。座長は台湾大学日本語学科の辻本雅史教授である。まず、立教大学政治学科の松田宏一郎教授は、「PatriotismとNationalism:「偏頗心」の設計」というテーマで発表した。松田教授はpatriotismとnationalismという概念に、明治期の日本の知識人がどのように日本語(そして、一応漢語でもある)の「愛国」「報国」などといった概念で関連づけたかを考察した。それを手がかりに、国家を統治機構としてではなく、大きな共同体と見なし、それに対する愛着や責任感情といった心理的な方向付けを要請する議論がどのように構成されていったのかを検討した。
次に、東京大学法学政治学研究科の平野聡教授は「大和魂、中国魂、西蔵魂?:中国民族問題における近代日本の陰影」というテーマで発表した。平野教授は中国とチベットとの関係に対する検討を通して、近代中国が近代日本から展開されたナショナリズムと帝国主義を内包することによって、今日に至る中国の国家統合問題が続いていると指摘している。さらに、その根本的な解決は中国自身が富国強兵・弱肉強食の帝国主義国家的手法を放棄することによるしかないと、その見解を提示した。
また、千葉大学人文社会科学研究科の蔡孟翰教授は「東アジアにおけるナショナリズムの再考:「国家」と「民族」の間」というテーマの論文を発表した。蔡教授は西洋近代の歴史経験にもとづいたナショナリズム論を基本的な参照軸にして、ナショナリズムをめぐる東アジア的文脈を、理論的に整理した。蔡教授によれば、近代日本において、東アジア共有の儒教や漢字文化によって「家族国家」論が発明されて、さらにそれを確立するために各国固有の始祖が作り出された。そして、こうしたことによって、近代東アジアのナショナリズムが創出されたのだと主張した。これは極めて大胆かつ新鮮な解釈とも評された。
第2セッションは、「ナショナリズムをめぐる近代日本政治思想の展開と台湾、韓国」というテーマで行われた。座長は台湾大学歴史学科の甘懐真教授である。まず、交通大学社会と文化研究所の藍弘岳教授は「〈明治知識〉と植民地台湾の政治:「国民性」言説と1920年代前の「同化政策」、ナショナル・アイデンティティ」というテーマの論文を発表した。藍教授は漢文脈において、「国民性」言説の展開過程を考察した上で、さらに「国民性」言説と植民地台湾に対する同化政策との関連を明らかにした。こうした検討を踏まえて、蔡培火などを例にして、1920年代台湾のナショナル・アイデンティティ問題を論じた。さらに、右の検討を通して、植民地期の台湾における〈近代西洋の知識〉と〈明治の知識〉、それに〈明治漢学〉と〈台湾漢学〉との類似と差異、及びこれらの知識形態が交錯していた複雑な知識情況の一端を明らかにしようとした。
次に、中央研究院台湾史研究所の陳培豊教授は「「同文」、「異文」、「台湾語文」:ナショナル・アイデンティティ及び表意 / 表音問題」というテーマの論文を発表した。陳教授は「植民地漢文」という概念を提起して、植民地台湾における漢文の「クレオール現象」を説明した。そして、日清戦争後、日本に支配された植民地台湾は様々な漢字漢文の坩堝となり、台湾人アイデンティティが形成していくことを論じた。さらに、台湾の植民地漢文の「同文」から「異文」への移行に伴い、植民地漢文は「同文同種」のプロパガンダの役割がなくなり、むしろメディアの検閲の障害となり、統治者にとっては文体上の他者、敵手となったと、複雑な展開過程を精彩に考察した。また、戦後の戦後台湾語文の発展とローマ字運動などをも検討した。
さらに、韓国延世大学政治外交学科の高煕卓教授は「韓国近代における「国民」意識形成とその隘路――東学(天道教)運動を中心に――」という論文を発表した。高教授の論文は、東学(天道教)の出現やその拡散に込められた政治思想的意味を「下」からの「国民」化への道とその隘路という視点から捉えなおしたものと言える。「君民一体」の夢を抱えていた東学との思想関連で、朝鮮人が日本統治時代において、「二等民族」として差別を受けたことによって「民族」を実感してから、自らの運命と国家の運命を一体化できる国家の建設と、国家・国民意識が生まれたと論じた。
第3セッションは、中央研究院近代史研究所の張啓雄研究員が座長を担当し、「ナショナル・アイデンティティを巡る現代東アジア」というテーマで3名の学者が報告を行った。まず、中央研究院近代史研究所の林泉忠研究員は、「ナショナル・アイデンティティにおける戦後初期沖縄住民の再模索:三大土着政党の政策を中心に」というテーマで論文を発表した。林研究員は戦後初期において、沖縄のいくつかの独自政党の「独立志向」像を明らかにし、その背景や特徴・性格の考察を通して、戦後初期の「独立」風潮から50年代以降の復帰運動への転換のダイナミズムを検討した。そして、当時の独立風潮の形成と消滅の背景をそれぞれ詳細に分析した。前者に関して、アメリカ軍の実効支配とこの時期の沖縄の法的地位の不明瞭、及び沖縄が「独立国」であったという歴史的郷愁などを検討した。後者に関しては、明白な民族アイデンティティの形成の失敗と大衆運動の欠如などの理由を挙げて分析した。最後に、その分析を踏まえて、結局、強い民族意識に支えられていない沖縄の民族独立運動は政治的影響を持続できなかったと結論付けた。
次に、香港中文大学の馬傑偉教授は「分と合の角力:香港アイデンティティの再ネーション化の過程における矛盾と変動」という論文を発表した。馬教授は1997年香港が中国に回帰した後の十数年間の香港人のナショナル・アイデンティティの変動を分析した。その分析によれば、香港人の、香港人および中国人としてのアイデンティティは変動しているが、純粋に中国人としてのアイデンティティは減少傾向なのに対して、香港人優先のアイデンティティは増加傾向だと見て取れる。また、香港人と中国人との間に存在するアイデンティティの境界について、中国大陸における資本主義の発展によって、香港人と中国人との間の経済価値観の差異は縮小しているのに対して、民主、自由などの政治価値観の差異は拡大していると指摘している。
次に、九州大学大学院の益尾知佐子教授は「中国政府の釣魚島主張の発展過程を論ずる:政府の宣伝とナショナリズムの高揚」というテーマの論文を発表した。まず、益尾教授は、中国政府の歴年の釣魚島主張を分析して、中国政府が1971年12月30日に、初めて釣魚台列島の領有を主張したのだと指摘している。さらに、こうした主張を踏まえて出てきた日中両方が「争いを棚上げにする」というコンセンサスが存在したという中国側の主張を検討した上で、日本の尖閣諸島の国有化に対して、コンセンサスを破る行動とした中国側の主張を批判している。さらに、益尾教授は1970から2011までの『人民日報』における「尖閣」という言葉を使用した回数を調べて、1996年は中国側の言論が急変した時点だと指摘している。さらに、『人民日報』における「愛国」「神聖」などの詞を調べて、政府の宣伝と中国ナショナリズムの高揚との関連を論じた。
最後に、渡辺教授と交通大学社会と文化研究所の劉教授と渥美財団の今西淳子常務理事が閉会スピーチを行い、フォーラムは成功裡に終わった。渡辺教授が指摘したように、今回の会議は多くの人が参加しただけではなく、発表した論文はお互いに関連しているし、その論文とコメントの質も高くて、多くの興味深い問題が提示された。例えば、近現代西洋のナショナリズム論で東アジアのナショナリズムを解釈することの有効性に対する疑問や、こうした敏感なアイデンティティ問題を論じる場としての台湾の意味などが論じられた。今回の会議は大変な成功であったと、多くの参加者からも評価された。
当日の写真は下記リンクよりご覧ください。
交通大学ホームページ
SGRAホームページ
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<藍弘岳(らん・こうがく)☆Lan Hong Yueh>
台湾国立交通大学社会と文化研究所副教授。
近著に:〈近現代東亞思想史與「武士道」—傳統的發明與越境—〉《台灣社會研究季刊》第85期,2011年。〈「武國」的儒學—「文」在江戸前期的形象變化與其出版、研究—」 《漢學研究》第30巻第1期,2012年。〈面向海洋,成為西洋—「海國」想像與日本的亞洲論述—〉,《文化研究》第14期,2012年。
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2013年6月12日配信
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2013.06.05
2013年5月22日、第7回チャイナ・フォーラムが、ついに、北京外国語大学日本学研究センター3階多機能ホールにて開催された。
「ついに」という言葉を用いたのは、昨年9月に北京で開催できず、今回まで延期となってしまったので、夢がやっと叶えられたという気持ちが込められているからだ。昨年、開催できなかった理由は周知のとおりだが、5月の開催が急に決まったために、今回のフォーラムの特徴のひとつは短い準備期間であった。ポスターの印刷と掲示が開催一週間前、レジュメの完成が三日前、横断幕の製作が二日前、アンケートの作成が当日の朝、という慌しいスケジュールだった。それでも、フォーラムは無事に終了した。そういう意味で、今までで一番やりがいと満足感を味わったのは今回かもしれない。
個人的な感想はさておき、本題に入ろう。
東京YMCA同盟の宮崎幸雄名誉主事が今回の講師を務めてくださった。講演のテーマは「ボランティア概論」だ。テーマが幾度か変更されたが、レポートではポスターの通りにする。YMCAといえば、西城秀樹のあの名曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を想起させるが、宮崎先生は日本キリスト青年会(Young Men's Christian Association)同盟の名誉主事なのだ。しかし、その健やかな姿は、一目見れば、今の西城秀樹でも匹敵できない、と思ってしまうほどだ。
講演は、ベトナム戦時下、宮崎先生のボランティア原体験に始まり、養鶏、養豚などの逸話が盛り込まれると、早くも会場にいる人々を釘付けにした。話が近年の災害救援活動とボランティア活動に進むと、より身近に感じられ、阪神淡路大震災、四川大地震、東日本大震災の際、あれだけ多くのボランティアが力を注いだことに、思わず脱帽した。また、四川大地震の後、心のケアに関するマニュアルの日中翻訳作業に取り込んだSGRAも事例として挙げられ、私はその翻訳者の一員として、当時よりも誇らしく思った。
阪神淡路大震災以来、また四川大地震以来、ボランティア精神は、徐々に両国で広がり、より多くの若者がボランティア活動に身を投じるようになった。そんな中、宮崎先生は、若者の意識の変化に注目している。阪神淡路大震災のボランティアたちが期待していたのは、非日常的体験、被災者とのふれあい、居場所の発見であったのに対し、東日本大震災の場合、家族の絆、死生観や共生観に関する思考、異文化交流と近代史の学習など、高い次元の精神的ニーズが求められているという。
最後に、宮崎先生は、開催地の中国に焦点を絞り、そのボランティア活動の限界と新たな展望について述べた。政府の力が大きい中国では、ボランティア活動もその監督部門の指導を受け、組織的に行われている。それは、全体的に見れば効率がよいというメリットがある一方、一人ひとりの参加者が、自主的に参加するわけではなく、言われたからやっているに過ぎない、言ってみれば、ボランティア活動から得た満足感と達成感が希薄で、一人一人の力も最大限に発揮できないというのも無視できない。
しかし一方、八十年代生まれ、いわゆる八零後世代の人々は、自由で、独立の意志を持ち、自主的に地域社会の一員として権利を行使し、責任を果たす活動を展開している。そういう意味で、近い将来、中国で自主的にボランティア活動やチャリティ事業に従事する若者がどんどん増えていく、と宮崎先生は楽観視している。
質疑応答の段階で、ロータリー米山中国学友会の方や北京外国語大学の学生より、コメントと質問を頂戴した。ボランティア活動に止まらず、宮崎先生は、フォーラム終了後もしばらく学生の人生相談相手をつとめられた。
来年から、チャイナ・フォーラムは研究者交流へ方向転換する可能性が大きいが、中日外交の行方が不明瞭の中で開催された第7回チャイナ・フォーラムは、きっとわれわれの記憶に焼き付き、忘れられない一回となるだろう。
(文責:宋剛[北京外国語大学日本語学部専任講師])
当日の資料は下記リンクよりご覧ください。
発表用パワーポイント
配布資料(レジュメ)
アンケート集計
当日の写真を下記リンクよりご覧ください。
宮崎撮影
今西撮影
今回のフォーラムの講演録はSGRAレポート第68号として、今年の秋に発行する予定です。
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2013年6月5日配信
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2013.03.13
2013年3月8日(金)~3月10日(日)、タイ国バンコク市ラップラオのセンタラグランドホテルにて、第1回アジア未来会議が、20か国から332名の参加者を得て開催されました。総合テーマは「世界の中のアジア:地域協力の可能性」で、このテーマに関する自然科学、社会科学、人文科学の研究論文が発表され、国際的かつ学際的な議論が繰り広げられました。
本会議は、SGRAの新事業として2年以上をかけて準備されたもので、日本留学経験者や日本に関心のある若手中堅の研究者が一堂に集まり、アジアの未来について語り合う場を提供することを目的としています。
3月8日(金)午前10時から、厳かな雰囲気の中で開会式が執り行われました。明石康 大会会長の開会宣言の後、主催の渥美国際交流財団と共催の北九州市立大学、タマサート大学を代表してSomkt Lertpaithoon学長から歓迎の挨拶、佐藤重和在タイ日本大使から祝辞をいただきました。
引き続き、午前10時半から、本会議の公開基調講演として、日本だけでなく世界的な建築家の隈研吾氏が「場所の時代」というテーマで、徹底的に場所にこだわって設計する建築――その場所でしか手に入らない材料を使い、場所を熟知した職人の手を使い、その地の気候、環境と調和し、人々が本当に必要としている建築について、素晴らしい建築作品を映像で見せながらお話しくださり、1200人の聴衆を魅了しました。
その日の午後と翌日は、8つの招待講演に並行して8つの分科会が同時進行で開催され、219本の論文が55セッションに分かれて発表されました。招待講演の講師と演題は次の通りです。
招待講演(社会科学)
明石康(元国連事務次官)「The Fragile Nature of Peace」
Larry Maramis(ASEAN事務局部門間協力局長)「International Cooperation in Natural Disasters」
楊棟梁(南開大学教授)「中日関係の構造的転換と当面の課題」
李元徳(国民大学教授)「東アジア共同体の現状と日韓関係」
招待講演(人文科学)
葛兆光(復旦大学教授)「なぜ東アジアなのか、東亜のアイデンティティーを如何に構築するか」
山室信一(京都大学教授)「空間アジアを生み出す力――境界を跨ぐ人々の交流」
招待講演(自然科学)
中上英俊(住環境計画研究所所長)「Promotions of energy efficient appliances by using a Utility-Bill-Payback Scheme in Vietnam」
譚洪衛(同済大学教授)「From Green Campus to City Sustainable Development」
(タイトルが英語のものは英語で、日本語のものは日本語で講演。ただし、葛教授は中国語で日本語への通訳付き。)
会議開催に先立って、12月31日までにオンライン投稿された146本の論文を対象に、76名の審査員による選考が行われ、優秀論文賞22本が選ばれました。優秀論文は、2013年度内にアジア未来会議優秀論文集として出版されます。また、48のセッションより1名ずつ選ばれた48名が優秀発表賞、15のポスターの中から選ばれた3つが優秀ポスター賞を受賞しました。これらの賞の授賞式は、Farewell Partyでにぎやかに執り行われました。
受賞者のリスト
3月10日(日)午前9時、懇談会「グローバル時代の日本研究の現状と課題」が開催されました。王敏法政大学教授の問題提起の後、タイ(ワリントン タマサート大学准教授)、ベトナム(グエン ビック ハー ハノイ貿易大学教授)、インド(ムコパディヤーヤ デリー大学准教授)、韓国(南基正ソウル大学日本研究所副教授)、台湾(徐興慶 台湾大学教授)、中国(徐一平 北京日本学研究センター所長)の日本研究の現状と課題についての報告がありました。休憩を挟んで、山室信一 京都大学教授と、4名の指定討論者(王雲 浙江工商大学教授、王中忱 清華大学教授、董炳月、趙京華 中国社会科学院文学研究所研究員、李元徳 国民大学日本研究所所長)から大変興味深いコメントがありました。
会議のプログラム
以上の学術的なプログラムの他に、参加者は、ホテルのプールサイドでおこなわれた歓迎懇親会や、アユタヤ、グランドパレス、水上市場等への遠足を楽しみました。
第1回アジア未来会議は、渥美国際交流財団主催、タマサート大学と北九州市立大学の共催で、文部科学省、在タイ日本大使館他3機関の後援、国際交流基金と東京倶楽部の助成、本庄国際奨学財団、かめのり財団他3団体の協力、全日空、三井住友銀行、中外製薬他14社の協賛をいただきました。なかでも、本庄国際奨学財団は40名の参加者を派遣してくださり、また、タイ鹿島にはバンコクにおいて全面的なご協力をいただきました。
協力・賛助機関・企業リスト
300名を超える参加者のみなさま、開催のためにご支援くださったみなさま、さまざまな面でボランティアでご協力くださったみなさまのおかげで、初めてのアジア未来会議を成功裡に実施することができましたことを、心より感謝申し上げます。
第1回アジア未来会議の写真
アジア未来会議は渥美国際交流財団が公益財団法人へ移行するのをきっかけに企画された新プロジェクトですが、アジア21世紀奨学財団からのご寄附のおかげで、10年間で5回の開催をめざす大きな事業になりました。
第2回アジア未来会議は、2014年8月22日(金)~24日(日)、インドネシアのバリ島で開催されます。皆様のご参加をお待ちしています。
(今西淳子 渥美国際交流財団常務理事/SGRA代表)
2013年3月13日配信
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2012.12.20
未曾有の東日本大震災から1年9ヶ月が経ちました。時の流れは早く、世間から311のことはもう忘れられているかのようにも見える今も、福島の問題は続いており、そこには奮闘している人々がいます。2回目を迎えたSGRAカフェは、『福島をもっと知ろう』というタイトルで、飯舘村の菅野宗夫さんをお招きし、飯舘村の話を直接聞いて福島の問題を考える<場>として企画され、12月6日に東京九段下の寺島文庫ミネルヴァの森で開催されました。
カフェでは、まず、10月に「飯舘村スタディツアー」に参加したシムさんをはじめとする参加者の話を聞きました。映像や話には、スタディツアーで飯舘村を訪ねた時に見た「現実」があり、実際に行かなかった人々にとっても心を打つ「何か」がありました。そこに人が居ることを忘れずに、直接その人たちと話して知ろうとする心が大切だという参加者の話によって、マスコミからの福島情報とはまた違う一面を知ることができました。
飯舘村スタディツアー報告の後、3階の講義室に移って菅野さんの話を聞きました。飯舘村は、東京のJR山手線の内側の3.5倍の面積があり、その内の75%が山という、緑の豊かな土地です。事故前の飯舘村は日本で最も美しい村のひとつに選ばれるほど自然環境に恵まれ、自然を土台にしながら、人間対人間の見つめ合いや対話、ふれあいを大事にする村でした。
しかし、大事にしていた自然との生活は、母なる地球の運動である地震や津波ではなく、それに続く原発事故という人災によって奪われてしまいました。原発から遠く、原発から何の利益も受けず、原発の影響など考えもしなかった飯舘村は、今では高い放射線量が測定され、計画的避難区域に指定されており、昼間は入ることができますが、泊まることは許されません。
震災の翌日の3月12日、原発に隣接する浪江町や南相馬市から1500人もの人たちが避難してきたので、何が何だかよく分からないまま、村中総出でお手伝いをしました。ヘリや車の往来が激しく、国道周辺に白い作業服がポイ捨てされている異常な様子がみられ、ものすごく恐ろしいことが起こっているという噂が広がったといいます。安全に対する無責任な発言が飛び交う中、3月18日から自主避難がはじまり、3月30日には「飯舘村は放射性ヨウ素131が避難基準の2倍」というIAEA(国際原子力機関)の発表がありました。それでも「人体には影響がない」という説明がされたりしていましたが、4月22日になって突然、公式に避難区域に指定されました。データに基づいて人間の健康を第一にしないといけないのに、早めの対応がなかったことは非常に残念に思っている点です。避難したといっても、生活の基盤になっていた畑や家畜は避難できない状態であり、まるで人生を奪われたようなものでした。
原発問題の最も恐ろしいことは、気持ちが一つになれないことだと菅野さんはいいます。福島においても溢れる情報の中、どの情報を信じればよいか判断するのが非常に難しいので、同じ村の中でも、様々な意見がでてきてしまうのです。その上、福島というだけで物が売れず、差別まで受ける状況は、問題の解決を遅らせる大きな要因になっています。
このような深刻な状況にも関わらず、今の飯舘村では「自分の村は自分たちで見守りたい」と、夜は無人になってしまう村の治安を自ら守る活動や、生き甲斐のために避難先でも農業を始めるなど、自分のところでできる努力をしているそうです。
今回のカフェには、40人を超える参加者がありました。特に日本大学、日本女子大学や専修大学からの20代前半の学生が多く参加したことが特徴で、活発な質疑応答も行われました。「これからの要望」、「福島を忘れないための試み」、「福島の人々におけるきれいなキャッチコピーに対する印象」、「選挙に対する考え」、「環境に対する意識」など、様々な側面からの質問や意見が出ました。このような質問に対して、菅野さんや「ふくしま再生の会」の田尾さんは、今日のような話し合いの場があることがとても大事であり、元気な姿で復興に取り組むのが表面だけにならないように、まずは現場を知ってから考えてほしいと話しました。2時間におよぶの熱い話において、菅野さんは最も大事なこととしてチャレンジ精神を強調しました。そして、「忘れ去られることとの戦い」に言及し、現場の声を聞かないと分からないようなことに接する努力をしてほしいと語りました。
「豊かな暮らし」というものは、環境や文化、人々の価値観よって違うでしょうが、飯舘村は自然との豊かな暮らしが美しく調和されていた村という印象を受けました。いつ元の生活に戻れるのか分かりません。戻れないかもしれません。しかし、時は過ぎていきますが、今も飯舘村の問題、福島の問題は進行中です。今私たちにできることは、福島を忘れることなく、常に意識をおいて知ろうとすることからはじめ、皆で考えることから変化の風が起こると考えます。菅野さんは「皆との出会いが幸せだ」と何回も言いました。 菅野さんに出会えたことを私たちも幸せに感じられたのは、今でも元気で前向きに人々との出会いを大事にする菅野さんのエネルギーに刺激を受けたからではないでしょうか。人とのふれあいを大事にし、豊かな自然と暮らした飯舘村の美しさを忘れないことが、まず私たちにできることであると、しみじみと感じました。
尹飛龍さんが撮影した当日の写真
飯館村スタディツアー報告
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<朴炫貞(パク・ヒョンジョン)☆PARK Hyunjung>
韓国芸術総合大学芸術士、武蔵野美術大学修士。映像作品制作とともに映像を用いたワークショップ・展示を企画・実施している。
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2012年12月20日配信
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2012.11.07
今回のSGRAフォーラムは、スタディツアー(福島被災地訪問)という特別プログラムとして、2012年10月19日~21日(2泊3日)に行われました。東京から貸切のマイクロバス1台で約4時間かけてJR福島駅に着き、そこで東京からの田尾陽一さんと金沢から来た私(李鋼哲)が合流し、車内で弁当を食べながら、さらに2時間近くかけて相馬市に行きました。
参加者はSGRAらしく、韓国からわざわざ来日した2名、シンガポール、ノルウェイ、台湾、中国出身の会員、渥美財団関係者など総勢14名でした。「構想アジア」研究チーム(チーフ:李、顧問:平川均名古屋大学教授)が形式的にではあるものの本企画を担当することになりました。
今回のスタディ・ツアーは、「ふくしま再生の会」理事長の田尾さんのご協力を得て、福島県相馬市と飯館村を主な訪問地としました。同会は東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故によって破壊されてしまった被災地域の生活と産業の再生を目指すボランティア団体として、昨年6月の設立以来、飯舘村に活動の拠点を設け、被災者とともに知恵を出し合いながら再生へ向けた各種のプロジェクトを推進しています。
「ようこそ!福島へ」とは言われても、原発事故で放射能被害が深刻な福島に足を運ぶのはなかなか勇気が要るものです。私も「参加する」と答えたものの、「放射能は大丈夫だろうか」と不安を感じました。妻は「遺言書でも残していってらっしゃい」と冗談半分で言いました。
福島駅のバス停留場で、田尾さんより放射線量計測器(自己開発制作したもの)を配っていただき、駅周辺の放射線量を測ったら、0.28マイクロ・シーベルトでしたが、この線量がどの程度のものであるのかさっぱり分からないのでドキドキしました。田尾さんは物理学が専門であり、かつて広島で被爆した経験があるだけに、理論的にも実践的にも放射線の人体に対する影響などに非常に詳しい方なので、彼が案内するところだったら大丈夫だろうと思いました。
福島駅から相馬市に向かってバスで走行する途中、休憩所で地元名物のアイスクリームをみんなで食べながら、草の生えているところで放射線量を測ったら、なんと最高は(福島駅に比べると10倍以上も高い)3.2マイクロ・シーベルトまで上昇し、みんな一瞬緊張が高まりました。ちなみに、国際基準では、「事故などによる一般公衆の1人の年間被曝量は1ミリ・シーベルト=1000マイクロ・シーベルトを超えないように」となっており、実はほとんど影響がないそうです。
バスは引き続き走り、相馬市に着きました。相馬市は海岸地域であるために地震と津波の被害を受けましたが、福島原発からは約50キロ離れており、放射線の影響はそれほどなく、原発避難指定地域から大勢の避難者を受け入れていました。
相馬市で我々を迎えてくれたのは、「おひさまプロジェクト」代表を務める大石ゆい子さんでした。元気ハツラツな方で、被災者達を支援する活動をしている小さなアパートの事務所に我々一行を案内してくれました。そこは被災者達に元気になってもらうための教室で、様々な活動をしているということでした。
そこで橋本経子さん(ホリスティック・アドバイザー)が、自分の病弱体験を踏まえて避難生活者達に行っている心理的なケア活動について紹介してくれました。橋本さん自身が、被災者達の辛い立場を十分理解し、命の危険を冒してまで、避難地域の被災者の自宅まで一緒に立ち入り、必要な家財の整理や墓参りなどを手伝ったとの、感動的な物語を聞かせてくれました。そこは放射線量が80マイクロ・シーベルトの危険地域だったとのことでした。避難した人たちは家族がばらばらになって県内や県外で避難生活を送っているケースが多く、「一日も早く復興して帰郷したい」という気持ちだということがよく分かりました。この教室で約1時間半、地元の人々のお話を聞き、質疑応答もしました。
その後、またバスに乗って海岸地域の被災地を見学しました。地震や津波被害で多くの建物は破壊され、流されたその惨状は目を覆いたくなるひどいものでした。テレビで見るのとは違い生々しい光景で、それを見ていた参加者の心情を想像していただけるでしょう。
夕方まで見学した後、バスに乗って隣の伊達(だて)市霊山(りょうぜん)の山中にある「福島ふるさと体験スクール」に向かいました。この施設は子供達に自然と農業、伝統的な生活体験をさせる目的で、2年前に東京の高校の校長をしていた酒井徳行さんが私財を投げ打って作ったのですが、原発事故で子供達が来られなくなり、我々「大きな子供」達が泊まることができたのです。
心をこめて用意された美味しい夕食を食べながら交流会が行われました。大石ゆい子さんと河北新報編集委員の寺島秀弥氏さん駆けつけて夕食懇親会に参加しました。自己紹介の後、大石さんが「おひさまプロジェクト」について紹介してくれました。
このプロジェクトは、「健康や癒し」をキーワードに食事や運動とグリーン・ツーリズム、エコ・ツーリズムを取り入れた体験滞在型の「までい流ヘルス・ツーリズム」構築を目指し、新しいライフスタイルの振興を行うことで、QOL(生活の質)の向上を図ることを目的としています。健康、食、環境が共存できる広域的で新鮮な地域活性化事業に取組み、地域が自立できる<場>を構築し、活力ある地域社会を実現するために、同じ志を持った仲間で立ち上げたものです。
飯舘村の人々は原発事故の被害に立ち向かって一所懸命闘っています。彼らは「までいの力」(「までい」とはこの地方の方言で、「両手を動かして頑張れば、いかなる困難も乗り越えられる」との意味)を発揮し、「までいの精神」でふるさとの再建に立ち向かっています。その精神に感銘を受けました。
翌朝、宿泊施設を後にして飯舘村に向かいました。途中で飯舘村農業委員会会長の菅野宗夫さんが乗車し、我々を案内してくれました。最初に被災者の仮設住宅(福島市松川工業団地敷地内)を訪問しました。仮設住宅に住んでいるのは、ほとんどシルバーの方々で、老人村のようでした。避難した人々はここで一応安定した生活を送っているようですが、精神的・心理的にはますます不安な状況とのこと。これからどうなるのか?ふるさとに戻れるのか?など心配する毎日を送っているとのことでした。
そこで数名の方から避難生活に関するお話を聞きました。「いいたてカーネーションの会」というNGOの代表佐野ハツノさんは地元で被災者支援活動、心理的なケア活動を精力的に行っている様子を聞かせてくれました。住民のおばあさんたちが、寄附してもらった着物の生地を使って、洋服や様々なグッズを作って販売しています。この事業によって、おばあさんたちの目が輝くようになったとのことでした。
しかしながら、地元の皆さんの訴えの多くは、「国や政府が充分な対応をしてくれない」、「世間はもう自分達のことを忘れている、報道にも出ない」、「早くふるさとに戻って平常の生活をしたいのに、何も起こらない」などでした。政治家、官僚やマスコミに対する怒りがかなり貯まっている様子でした。
気持ちが重くなる言葉を心に刻みながら、我々はバスで全村計画的避難区域の飯館村に向かいました。この地域は、住民は昼は入ることができますが、泊まることはできません。線量計の放射線量は徐々に上がりました。飯館村の南にある立ち入り禁止区域の前のゲートまで行き、そこで全員バスから降りました。周辺の放射線量を測ったら最高31マイクロ・シーベルトまで上がりました。皆さん少し緊張した表情をしながらも、写真を撮ったり、警備員に話しかけたり、平静な雰囲気を演出していましたが、バスに戻ってそこから離れると皆ほっとした表情で、「ここまで来たのだからもう怖くない」という感じでした。現場を体験すると勇気も倍増するようでした。
引き続き飯舘村役場近くにある特別養護老人ホーム「いいたてホーム」に行きました。そこの休憩室で弁当を食べ、施設長の三瓶政美さんのお話を聞いた後、施設見学と隣接している役場見学をしました。80名あまりの老人が介護施設に入っており、避難指定地域ではあるが、地元の行政の判断と国の許可を得て全員避難せずにいるとのこと。従業員は施設や近くに住むことができず、全員が避難地域外から車で長時間をかけて毎日出勤せざるを得ない、という厳しい状況でした。
最後の訪問地は菅野宗夫さんの自宅がある山村でした。宗夫さんの自宅は「ふくしま再生の会」の現地事務所になっています。近くの田圃や畑には田尾さん達が作った飯舘村再生モデル事業の「イネ栽培実験田」があり、実験用で栽培した稲が田圃に干されていました。この稲は放射線量がたくさん含まれているので、「一粒とも残さず国に納めよ」という国の指示があるそうです。サツマイモの実験畑も見学しました。このモデル事業は、田圃や畑などの放射線量を常時計測しながら除染作業を進めていき、何年かかるかは分かりませんが、村人達が戻って来て自分の家と土地でかつての平穏な生活と農業ができることを目指しているとのことでした。
宗夫さんの自宅は、事務所としてだけではなく、線量計設備(田尾さん達が手作りした)が配置され、簡素な設備ではあるが立派な実験室のようでした。そこで色々なデータを計測し、データ分析する大学や、国内外に向けてインターネットメディアを通じて発信しています。そこで我々はこたつを囲んでお茶を飲みながら宗夫さんのお話を聞きました。理路整然と被災地の現状、国の対応、地元の対応などについて説明してくれました。「原発事故は福島だけのことではない、日本のことであり、アジアのことであり、全世界のことである」、「この事故で世界が教訓を汲むべき」と強調しました。だからこそ、地元の現状を常に世界に向けて発信することが必要なのです。
「我々SGRAのメンバーとして、福島被災地のために何ができるのか」、参加者は皆、見学しながら常に考えていましたが、「世界に向けて日本に向けて発信して原発事故を忘れさせない」、「原発事故の被害について考える」ことが我々の役割ではないか、と考えるようになりました。
飯舘村を後にして、バスは宿泊地の霊山紅彩館に向かいました。立派なリゾート宿泊施設で、霊の宿る山の中にありました。入浴後、2回目の夕食と懇親会がありました。菅野宗夫さんも後を追って参加してくれました。ここでも宗夫さんと田尾さんのお話を聞き、参加者全員が感想発表をしました。2日間、参加者は貴重な体験をしながら、地元の人々や支援者達のお話を聞き、強く胸を打たれました。「福島を永遠に忘れることはできない」というのが参加者共通の思いでした。
翌朝は宿泊地を後にして、伊達市保原歴史文化資料館を見学しました。東北の藩主伊達家の歴史について勉強するよい機会でした。養蚕で財をなした旧亀岡家住宅も大変素晴らしく、東日本大震災でもほとんど無傷だったという明治時代の洋風建築に見とれました。1時間ほどの見学後、バスは福島を後にして東京に向かいました。
「福島よ、忘れさせない!」
スタディ・ツアーの写真
(執筆および文責:李鋼哲 [SGRA構想アジア研究チームチーフ、北陸大学教授] )
2012年11月7日配信
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2012.10.24
日中韓台の領土問題で多くの動きがあり、報道を見ている側の頭にも多くの「?」「!」が生まれたと思われる。できるだけ多くの情報に接するように心掛けても悲しいかな、言語、自国内の報道の枠や立場から逃れるのはなかなか難しい。SGRAかわらばんの投稿では「日本からの見方」だけではない考えに接することができた。経済力の急激な高まりやデモの規模の大きさから日中関係に意見は集中しがちだったが、ここで韓国との関係も知りたいところだ。
2012年10月18日(木)、そうした中、第1回SGRAカフェは、「最近の日韓外交摩擦をどうみるか」とのテーマで、東京九段下の寺島文庫みねるばの森で行われた。いつものフォーラムとは異なり、20人程度の小規模、場所も文庫カフェという、知的かつお洒落な雰囲気で参加者もくつろいだ表情を見せていた。
寺島文庫は日本総合研究所理事長の寺島実郎氏が「4万冊の世界の地歴に関わる書物を集積し、知の交流と発信の場」とすべく設立した研究施設で、驚いたことにここの書庫には寺島氏が高校生の頃、渥美国際交流財団の渥美理事長のご父君の鹿島守之助氏へ宛てた手紙が残されている。また渥美理事長が寄贈された書籍もあり、不思議なご縁を感じながらの開催となった。
韓国国民大学日本研究所所長の李元徳教授による講演は、「日韓関係の在り方を規定する構造変化」、「最近の日韓外交の葛藤:観戦ポイント」、「領土、歴史摩擦の悪循環からの脱皮」、「日韓関係の未来ビジョン」の4部から構成されており、まずは2国間だけではなく、冷戦下での米ソ関係が元となっていた日中韓の力関係が、その後再編過程(Power Transition)の進行、力の均衡(Balance of Power)の流動化過程の進行を経て次第に米中両強構図に再編されているとし、東アジア全体の国際秩序の地殻変動の観点から見るべきと指摘した。そしてかつての植民地関係(従属、依存関係)にあった日韓の力関係と市民社会は、現在では相対的に均等化し、競争・競合関係となっている珍しいケースであるものの、一方で対外認識における温度差があり、日本と韓国とでは中国と北朝鮮に対してのとらえ方に悲観的と楽観的な違いがあることを示した。
第二の「最近の日韓外交の葛藤:観戦ポイント」において、日本人には納得しづらいであろう李明博大統領の言動を、心理面から考えればわかるのではないかと島訪問の背景にあったであろう慰安婦問題解決や打開への期待について、島訪問から1か月後に大統領に会った李教授ならではの考えを述べた。しかしその訪問が結果として日本側の激しい反発を招いたことへの大統領の驚き、そしてこれまで韓国がどんなに過激な反応や報道をしてもそれを冷静に受け止めていた(成熟した)日本が、今回は冷静に受け止められないことを変化としている。
その後のウラジオストックでの日韓首脳の動静や米国の憂慮表明、さらには日本知識人宣言や村上春樹の朝日新聞論説、河野元官房長官の読売新聞のインタビューなどが韓国内の反日ムードを和らげたとし、こうした知識人による声明は日本のみならず中国や韓国でも起きており、普遍的な視点を持った動き、そして歴史を知ることの重要性を訴えた。
第三の「領土、歴史摩擦の悪循環からの脱皮」で、今後も日韓摩擦は頻度も深度も深まるとの考えを示し、その動きが法的局面にも移行しているとし、一例に韓国の憲法裁判所、大法院判決を挙げたが、それは日韓の歴史を知らない判事達の判決と批判し、今後ウルトラナショナリストの政治家登場を危惧、歴史摩擦の管理(Management)を次善の策とし、予防外交として戦略的な考慮の重要性を指摘、中長期的及び戦略的観点をもって日韓両国が協力することが双方の利益とまとめた。そして日韓の懸念となっている慰安婦問題については①立法解決、②財団設立による解決、③仲裁、④外交的解決の4つのシナリオを挙げ、その中の④の外交的解決として総理大臣の謝罪を「談話」の形で表明し、対する韓国は補償を求めないという形が100点満点でないにせよ、60~70点の解決ではないかとしている。
第四の「日韓関係の未来ビジョン」では、ヨーロッパにおける独仏関係をモデルとし、日韓関係も応用できないかと、市場統合や共同規範を提示した。(クーデンホーフ・カレルギーの「汎ヨーロッパ主義」を日本語に訳したのが鹿島守之助氏だったと、講演直前に寺島文庫の書庫で知り驚いたとのこと)また2国関係だけでなく、世界の中での日韓関係として考えることを挙げ、日韓が未来東アジア共同体形成の共同主役になるべきとして講演を締めくくった。
会場からは中国人のSGRA会員から「これまで機能していた棚上げ論が機能しなくなったのはなぜか」等の質問があり、日韓からだけではない見方も出された。講演後の懇親会には寺島氏から日本酒が、渥美理事長からはSGRAのシンボルマークでもある、たぬきの形をしたせんべいの差し入れがあり、フォーラムとはまた違うアットホームな雰囲気で和やかに行われた。
当日の写真
(文責:太田美行 [渥美財団プログラムオフィサー] )
2012年10月24日配信
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2012.09.19
2012年は、ユーラシア大陸をまたぐ世界史上で最大のモンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンの生誕850周年である。関口グローバル研究会(SGRA)がモンゴル科学アカデミー国際研究所、歴史研究所と共催した第5回ウランバートル国際シンポジウム「チンギス・ハーンとモンゴル帝国――歴史・文化・遺産」は7月24、25日にウランバートル市のモンゴル日本人材開発センターで開催された。本シンポジウムは在モンゴル日本大使館、モンゴル・日本人材開発センター、モンゴル科学アカデミー、モンゴルの歴史と文化研究会、モンゴル・ニューステレビ局(MNCTV)の後援をえた。
シンポジウムの準備のため、私は7月22日にウランバートルについたが、予約したホテルはすでに満室になっているため、隣のホテルに泊まることになった。その日についた他の方も、同じホテルに泊まった。
翌23日の午前、新聞社の取材を受けた後に、実行委員会のモンゴル側のメンバーと打ち合わせをし、在モンゴル日本大使館の書記官青山大輔氏と連絡をとった。午後にはモンゴル・日本人材開発センターのKh. ガルマーバザル総括主任、神谷克彦チーフアドバイザー、佐藤信吾業務主任に挨拶した。そして、国際研究所の職員と一緒に、会場、同時通訳設備のセッティング、名札の印刷などを確認した。その後、空港にて、今西淳子代表、愛知淑徳大学准教授藤井真湖氏をむかえた。
24日の午前、快適な雰囲気のなかで、今西代表が内モンゴル歴史文化研究院長孟松林氏と会談をおこない、私は通訳をつとめた。
シンポジウムは同日午後から始まった。開会式は午後1時からの予定だったが、私達が会場についたところ、新聞社やテレビ局の記者がおおぜい押し寄せてきて取材をしたため、開会式は少し遅れて始まった。
開会式では、モンゴル科学アカデミー国際研究所所長のL. ハイサンダイ(L. Khaisandai)教授が司会をつとめ、在モンゴル日本大使館林伸一郎参事官、モンゴル科学アカデミーT. ドルジ(T. Dorj)副総裁、と今西淳子SGRA代表が挨拶と祝辞を述べた。続いて、モンゴル科学アカデミー会員、国際モンゴル学会(IAMS)名誉会長Sh. ビラ(Sh.Bira)教授、一橋大学田中克彦名誉教授(代読)、内モンゴル歴史文化研究院長孟松林教授が基調報告をおこなった。その後、5人の発表者が歴史や軍事の視点から、チンギス・ハーンとモンゴル帝国について発表をおこなった。その日の夜、ケンピンスキーホテルで、モンゴル科学アカデミー国際研究所と歴史研究所主催の招待宴会がおこなわれた。
翌25日の発表は、政治、文化、民族、遺産などの視点から、チンギス・ハーンとモンゴル帝国について議論を展開したものであった。SGRA会員、フィリピン大学講師フェルディナンド・マキト(Ferdinand C. Maquito)氏は大学の仕事の都合でシンポジウムに参加できなかったが、その論文「チンギス・ハーンとフィリピンの黄金時代」は代読され、たいへん注目された。SGRAのモンゴル・プロジェクトは、2007年に企画され、2008年に正式にはじまり、これまで5回シンポジウムをおこなってきた。マキト氏はウランバートルには一度も訪れたことがないが、実際、裏でこれらのシンポジウムの準備活動に携わってきたことをここで特記し、感謝申し上げたい。
その日の夕方、ウランバートルホテルで、SGRA主催の招待宴会がおこなわれた。今西代表が挨拶を述べた後、モンゴル科学アカデミー歴史研究所事務局長のヒイゲト(N. Khishigt)氏、愛知大学教授ジョン・ハミルトン(John Hamilton)先生、愛知淑徳大学准教授藤井真湖先生、東京外国語大学の上村明先生等がユーモアのあふれる挨拶を述べ、宴会はたいへん盛り上がった。
一日半の会議で、オブザーバーをふくめて、モンゴル、日本、中国、韓国、フィリピン、イギリス、ロシア、アメリカ、タイ、台湾などの国や地域から百名近くの研究者が会議に参加した。そして共同発表も含む、20本の論文が発表された。(発表の詳細は別稿にゆずりたい)。『国民郵政』や『首都・タイムズ』、『モンゴル通信』、モンゴル国営テレビ局、MNCTV、UBSなどモンゴルの新聞、テレビ局十数社が同シンポジウムについて報道した。
26日、海外からの参加者は、ツォンジン・ボルドグのチンギス・ハーン騎馬像、13世紀モンゴル帝国のテーマパークなどを見学した。写真撮影が好きな、SGRA会員の林泉忠さんは、大草原を見渡して、「これほど美しいひろい草原があるなんて、今ここで死んでもかまわない」とおもわず言った。それを聞いて、みんな微笑んだ。参加者からは「モンゴルの大草原、国全体を世界遺産に登録すべき」という提案もあった。昼食の後、興奮したみなさんは、いわゆる「モンゴル帝国時代の服」を着て、記念写真をとったが、後でチェックしてみたら、妙な感じだった。今西さんはすでにモンゴルの馬になれたようで、馬に乗って、自由に草原をかけ走った。ほかの人たちも馬に乗ったり、らくだに乗ったりした。このテーマパークは、13世紀モンゴル帝国の宗教、民家、学校などのテーマで、特色のある6つのキャンプより構成されているが、各キャンプにつくたびに、みな去るに忍びなかったが、5番目のキャンプ「学問の塾」に到着したところで、すでに帰らなければならない時間になった。結局、6番目のキャンプに行くのを断念し、後ろ髪を引かれる思いで帰りの車に乗った。
シンポジウムの写真
モンゴル国際研究所撮影
フスレ撮影
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ボルジギン・フスレ(Husel Borjigin):東京大学大学院総合文化研究科学術研究員、昭和女子大学非常勤講師。中国・内モンゴル自治区出身。北京大学哲学部卒。内モンゴル大学講師をへて、1998年に来日。東京外国語大学大学院地域文化研究科博士前期課程修士。2006年同研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学・日本学術振興会外国人特別研究員をへて現職。著書『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編『ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年――2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2010年)、『内モンゴル西部地域民間土地・寺院関係資料集』(風響社、2011年)他。
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会議の報道
Sonin.MN
『こんにち』日報社
振興社
科学アカデミー歴史研究所
在モンゴル日本大使館
Zindaa
モンゴル科学アカデミー歴史研究所の発表者に対するインタビュー
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2012.06.13
2012年5月19日、国立台湾大学法律学院の国際会議場で第2回日台フォーラム「東アジアにおける企業法制の継受およびグローバル化の影響」が開催された。今回のフォーラムの趣旨は法制史の観点から、19世紀末に東アジア各国の企業法制がどのように西洋法制を継受したか、そして20世紀を通して現在に至るまで、これらの企業法制がグローバル化の影響を受けながら、どのように変容してきたかということを明らかにするもので、当日の参加者は約150名であった。
開幕式では、国立台湾大学法律学院・蔡明誠院長、渥美国際交流財団・渥美伊都子理事長、台湾法学会・王泰升理事長が開幕のスピーチをしてくださった。次に、慶応義塾大学法学部・宮島司教授が「会社法はどこへ」という題名で基調講演を行った。宮島教授は日本会社法について、明治期の商法典から2006年実施した新会社法までを4つの時期に分けてそれぞれの変遷を丁寧に説明し、各時期の改正では大陸法系、あるいは英米法系の影響をどのように受けたかということをも紹介した。また、近時、日本会社法における株式会社の機関設計ないし企業統治の規範内容に対して鋭い見解を示した。その後、元台湾司法院院長・中原大学講座教授・頼英照教授が「社外取締役制度から見た外国法の移植」という題名で基調講演を行った。頼英照教授は最初に台湾会社法の沿革を詳細に紹介し、2006年、台湾証券取引法がアメリカ法を模倣して導入してきた社外取締役制度を例として、外国法制の移植の善し悪しに言及した。
第1セッションは、国立政治大学法学院・頼源河教授が座長を担当し、「西洋法の継受期のアジア各国における企業法制」というテーマで3名の学者が報告を行った。東洋大学法学部第一部・後藤武秀教授は「台湾における西洋近代法の受容と慣習法の調整:台湾の伝統的会社組織である合股を例として」という題名で報告を行った。後藤教授は日本統治時代の台湾においては、西洋法の継受国である日本が統治しているとしても、最も盛んだった企業形態は家族経営からなる合股であったことを紹介した。合股は現代法の観点から言うと、組合という概念に類似している。このような特殊の組織形態は台湾独自の慣習法として樹立している。韓国国立忠南大学法学専門大学院・李孝慶准教授は「韓国における企業法制の継受と改革」という題名で報告を行った。李准教授は日本統治時代の韓国において、1912年朝鮮民事令により日本商法が適用され、1948年韓国政府樹立以降、1962年までこの商法が引き続き適用されてきたことを紹介した。これに加えて、韓国の商法はその後も何度も改正されたにもかかわらず、内容的には日本法をモデルにしたものが依然として多く、日本法から強い影響を受けたと言えよう。国立台湾大学法律学院・蔡英欣助理教授は「法律移植と既存規範との衝突、調和:日本商法及び20世紀初期の中国会社法制を中心として」という題名で報告を行った。蔡助理教授は日本商法と中国会社法制が制定された際に、両者が同じ課題、すなわち慣習法を無視し専ら西洋法を継受したことに対して経済界が猛反発したという課題に直面したことに言及し、国が外国法を継受する場合には自らの慣習を重視する必要性を強調した。
第2セッションは、常在国際法律事務所・林秋琴パートナーが座長を担当し、「第二次世界大戦後のアジア各国における企業法制」というテーマで3名の学者が報告を行った。慶應義塾大学法務研究科・高田晴仁教授は「第二次大戦後の日本の企業法制:1950年商法改正を中心として」という題名で報告を行った。第二次大戦後、敗戦後の日本はGHQの指示を受けて、法制度を大幅に改革した。日本商法もその中の一つであった。1950年商法改正により、アメリカ法をモデルとして、授権資本制度や株式会社の機関権限の新たな配分といった改正が行われ、今日の日本会社法の基礎になったといえよう。ただ、このような改正内容は日本の風土に合わないものが少なくないと強調した。国立台湾大学法律学院・黄銘傑教授は「東アジア各国における競争法の継受」という題名で報告を行った。黄教授は日本、台湾、韓国と中国など東アジア各国が現代競争法をいつ、またどのように制定したかを紹介した。周知のように現代の競争法の原型は1890年アメリカのシャーマ法である。東アジア各国は競争文化を欠いたが故に、アメリカの競争法を継受した際に異なった規範モデルを制定したということを指摘した。香港大学法学院・呉世学教授は「第二次世界大戦後の香港会社法の展開」という題名で報告を行った。呉教授は香港の会社法について、従来イギリス法の影響を受けた一方、近時、自らのモデルを模索していると指摘した。また、香港の行政機関の統計データにより、近時、香港で会社設立の数は飛躍的に増加していることを紹介した。
第3セッションは、萬國法律事務所・顧立雄パートナーが座長を担当し、「グローバル化時代のアジア各国における企業法制」というテーマで3名の学者が報告を行った。まず、中国人民大学法学院・楊東准教授は「全球化時代中国会社法の改革と整備」という題名で、中国会社法の形成ないし変遷を紹介した。中国は、1993年に国有企業を改革するために初めて会社法を公布してから、近時、国有企業ではなく一般企業を視野に入れ、企業の株主保護を重視してさまざまな改革を行ったと説明した。明治学院大学法学院・来住野究教授は「日本における近時の会社法改正と企業統治のあり方」という題名で、近時、日本の会社法において企業統治のあり方を検討した。2002年日本商法改正により、アメリカ型の委員会設置会社が導入されたが、現在に至っても、かかる新制度を利用した企業の数はほんのわずかである。このような改正結果をいかに評価するか、と問題を投げかけた。国立台湾大学法律学院・邵慶平准教授は「根本的な会社民主観念:グローバリゼーションの下での台湾会社法の堅持と示唆」という題名で、台湾会社法は長年、何度も改正されてきたが、アメリカ法のように取締役会優位主義を採用するようになった。取締役会優位主義を採用しているといっても、いくつかの近時の判決から、今の時代でも株主権は依然として相当に重視されているという動向が見えると強調した。
オープンフォーラムは、国立台湾大学法律学院・王文宇教授が座長を担当し、第3セッションで報告した楊東准教授(中国)、来住野究教授(日本)、邵慶平准教授(台湾)及び呉世学教授(香港)がパネリストとして参加者からの質問を受け、活発な議論を行った。最後に、今西淳子常務理事および王文宇教授が閉幕スピーチを行い、フォーラムは成功裡に終了した。
(文責:蔡英欣)
フォーラムの写真(1)
フォーラムの写真(2)
アンケート集計
(基調講演)頼英照「社外取締役制度から見た外国法の移植」日本語訳
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2012.03.07
金 雄煕 「第11回日韓アジア未来フォーラムを終えて」
2012年2月25日、高麗大学校経営館で「東アジアにおける原子力安全とエネルギー問題」というテーマで第11回日韓アジア未来フォーラムが開催された。昨年3月の福島原発事故後、ほぼ1年が過ぎようとする時点で、「本場」では真正面から取り上げにくいということと、東アジア(協力)という視点も必要という判断から、先ずはソウルで議論してみることになった。 今回のフォーラムの講師の顔ぶれは「大物」が多く、また全く違う立場から原発問題を考えているという特徴があった。
基調講演者の金栄枰(キム・ヨンピョン)先生は長年韓国で原子力問題を研究され、原子力政策フォーラム理事長を務める方である。役職からも予想されるように、明らかに原子力の必要性と安全性を強調する「教科書的」な議論を展開した。 これに対し、多彩な経験をお持ちの田尾陽一さんは、「福島再生」という観点から、除染作業など現場での再生努力の一部を紹介した。田尾さんとはフォーラムの一週間ほど前、東京でお会いする機会があったが、その時、孫正義さんを「孫くん」と呼んでいたことと、美味しい「福島産放射能マツタケ」の話に驚いた。田尾さんの議論がちょっと浮いてしまうかもしれないという心配もあったが、とても「新鮮な」議論であり、オーディエンスからの受けもよく、見事に当った結果となった。
全鎮浩(チョン・ジンホ)さんは福島原発事故以来、韓国で最も忙しくなった国際政治学者の一人で、中立的観点から東アジアにおける原子力安全協力の重要性を強調した。 最後のスピカーの薬師寺泰蔵先生は「科学技術と国家の勢い」という文明史的観点から「坂の上の雲」としての原発の必要性について力説した。田尾さんとは長いお付き合いのようで酒席などでは議論がよく噛み合うような感じだったが、原子力問題となると、目には見えないものの、相当隔たりがあるような気がした。
このフォーラムの創立メンバーの李元徳(イ・ウォンドク)さんの司会で行われたパネル討論では、ウクライナのオリガ・ホメンコさんによる貴重なチェルノブイリ体験談や経済学者の洪鍾豪(ホン・ジョンホ)さんのコンパクトな提案を聞くことができた。時間が限られていたせいか、案外激論もなく閉会した。
食事会では、奈良の今西酒造「春鹿」で「一気飲みラブショット乾杯」があったといわれている。しかし、残念なことにその場に遅れて到着したため直接確認することはできなかった。「春鹿」は2009年度の第9回慶州フォーラムで奈良から空輸してきた一升瓶が目の前で割れて消えてしまう大事件があって以来、日韓アジア未来フォーラムの公式乾杯酒となっている。未来人力研究院の李鎮奎(リ・ジンギュ)先生が法事で早く帰られた関係で飲みが足りなかったせいか、場所を変え宿泊先の有名なドイツビール屋でもう一杯をしたあと、第11回フォーラムは終了した。
韓国側主催の時にいつも感じることだが、私の予想からしては「満員御礼」に近いレベルの(李先生に動員されたかもしれない)聴衆の数に驚いた。終了まで席を外すことなく真摯に講演や議論を一生懸命聞いてくれた学生諸君にこの場を借りて感謝したい。当たり前のことだが、このフォーラムを形にしてくれた今西さん、石井さん、金キョンテさん、そして忙しいところ参加してくれた韓国SGRAの皆さんにも感謝しなければならない。とくに素敵な食堂に案内してくれた幹事の韓京子(ハン・ギョンジャ)さん、本当にお疲れ様でした。
最後にちょっとした心残りと次回フォーラムのご案内。異なる立場からの素晴らしい講演のわりには立ち入った議論に踏み込めなかった限界は残したものの、いつものように、本当に、形式、内容、そして番外の三拍子が揃った素晴らしいフォーラムであったと思う。次回フォーラムは今回のフォーラムのセカンド・ラウンドとして福島でという動きがあるということにご注目!ぜひふるって参加してください。
(仁荷大学国際通商学部教授)
当日の写真(金範洙撮影)
2012年3月7日配信