SGRAイベントの報告

  • 2015.09.10

    第49回SGRAフォーラム「日本研究の新しいパラダイムを求めて」報告

    2015年7月18日(土)、第49回SGRAフォーラム「日本研究の新しいパラダイムを求めて」が、早稲田大学大隈会館で開催された。フォーラムでは、中国、韓国、台湾を代表する日本研究機関と日本研究の第一線で活躍する研究者20名が一堂に会して、新しい日本研究のあり方についての活発な議論が交わされた。今回のフォーラムはセミ・オープン形式であったにも関わらず、予想を上回る延べ100人の参加者があった。   冒頭に今西淳子_渥美国際交流財団常務理事・SGRA代表から、過去2回のアジア未来会議で開催した「日本研究円卓会議」において日本研究の現状を危惧し、その将来を憂慮する声が多数挙がったことをきっかけに、中国、韓国、台湾の代表的な日本研究所と日本の国際交流基金、国際日本文化研究センターに声をかけたこと、そして、このように各研究機関の所長や副所長を始め、第一線の研究者の皆さんが参加してくださったことに主催者としても驚き、改めてこのテーマの重要性を再認識している、との開会挨拶があり、フォーラムがスタートした。   【基調講演】   平野健一郎先生(早稲田大学名誉教授、東洋文庫理事)は「新しい、アジアの日本研究に求めるもの」と題する基調講演の中で下記の2点を強調した。   (1)今回のフォーラムが目指す、国境を超える「知の公共空間」を構想するにあたっては、文化の相互依存性、共通性(普遍性)を視野に入れて、個別理解から国際間の経験・文化の相関関係により織りなされる現象として理解する「相互関係理解」へ、更には日本研究を地域、アジア、グローバルという重層構造の中に位置づけて理解しようとする「重層的理解」へと進まなければならない。   (2)これからの日本研究のテーマとして、平和と安全保障の問題を付け加えたい。戦後日本の経験を平和の問題として取り上げることは、誤った歴史の反省というだけでなく、各国にとっても重要な示唆を与えるものであろう。平和は、意思の力で築き上げて行くものである。日本研究者のみならずアジアの研究者は知的共同体を形成して行くことにより、東アジア共同体の構築、即ち平和の構築に参画することができる。   正に、「新しいアジアの日本研究」の方向性を示唆する内容であった。   【報告】   基調講演に引き続き、中国(楊伯江_中国社会科学院日本研究所副所長)、台湾(徐興慶_台湾大学日本研究センター所長)、韓国(朴喆煕_ソウル大学日本研究所長)から各国の日本研究の現状と将来に関する報告があり、日本(茶野純一_国際交流基金日本研究・知的交流部長)からは日本研究支援の現状と展望についての報告があった。   【円卓会議】   午後からの円卓会議では講演者とパネリスト計20名と会場の若手研究者を交えた、オープンディスカッションが3時間にわたって行われた。   劉_傑先生(早稲田大学社会科学総合学術院教授)による総括は以下のとおりである。   (1)文化現象として日本への関心が高まり、これまでの伝統的な枠組みでの日本研究とは異なる次元、異なる領域、異なる人脈での日本研究が広がってきている。しかし、こうした関心の広がりと「日本研究の深化」とは直接に結びつくものではない。これを、どのようにアジアで共有できる日本研究に結び付けるかは、今後の「新しい日本研究」構築にあたっての課題であろう。   (2)今、この地域にとって「方法としての日本研究」が特別に重要な時期である。日本研究のあり方は、この地域の国や人々のあり方を映し出す鏡のような意味を持つものであり、自己認識の方法とも言える。このフォーラムを通じて「方法としての日本研究」の重要性を確認することができた。   (3)「方法としての日本研究」が東アジアの和解、即ち平和に繋がることは間違いない。和解を安定化させるための重要なツールが「知」である。日本研究を一つの方法として用いることにより、知の共同空間、知の共同体が生まれ、この地域の和解、即ち平和と安定に寄与する可能性を垣間見ることができる。   (4)少なくとも、今回のフォーラムでは「アジアで共有できる日本研究」、「アジアの公共知としての日本研究」の構築を目指すというコンセンサスが得られた。   今回形成されたネットワークをどのように生かして行くか、の議論の中で朴喆煕_ソウル大学日本研究所所長から「東アジア日本研究者協議会」開催の提案があり、具体的な作業をどのように進めるのかを議論するための環境を整備し、対外的にも発信して行くこととなった。   フォーラム終了後、渥美財団ホールで渥美奨学生、ラクーン(元奨学生)を交えた懇親会が開催され、若手研究者と講師、パネリストの交流と議論が夜遅くまで続いた。   東アジアの日本研究の第一線で活躍する講師、パネリスト20名を招いての駆け足のフォーラムであったが、円卓会議のモデレーターである南基正教授(ソウル大学日本研究所研究部長/SGRA会員)の見事な司会により、短時間であっても極めて実り多いフォーラムとなった。   ご参加いただいた講師、パネリストの先生方に心から感謝すると共に、このSGRAフォーラムを契機にして形成されたネットワークの今後の飛躍に期待したい。   当日のアンケートの集計結果   当日の写真   英語版はこちら    (文責:角田英一_渥美国際交流財団事務局長)
  • 2015.07.30

    趙 国 「第4回SGRAワークショップ『知の空間を創ろう』報告」

    第4回SGRAワークショップが、「『知の空間』を創ろう」というテーマで、7月3日から3日間行われた。蓼科への「旅行」なのか、「ワークショップ」(しかも、かなり重いテーマである)なのか、少し不安を抱きながら参加した。以下は、極めて個人的な感想を込めた参加レポートである。   7月3日(金)   朝から激しい雨が降り続いていた。新宿を午前9時の出発予定だったが、激しい雨と思わぬ事情により、1時間程度遅れていよいよ出発。幸い目的地への道は渋滞もなく、諏訪に着くころには雨もほぼ止んだ。   お昼はSUWAガラスの里のレストラン。諏訪湖を眺めながら食事をし、食後SUWAガラスの里の美術館・ショップを見るのが定番のコースらしい。美術館で印象深かったのは、金箔の漆器箱をガラスで表現した作品だった。見た目は六角の漆器箱そっくりだが、ガラスの表面に金箔を張り付けたそうだ。わざわざガラスで造る必要があるのかとの思いもなくはなかったが(隣には、ガラスで作ったキャベツもあった!)、とにかく美しい。   次の目的地は諏訪大社。雨は降ったり止んだりしていたが、雨霧に囲まれた古社は神秘感を増した。たまたまあった茅の輪で夏越しの大祓もやってみた。くぐり方だけに気をとられて、その時は何も祈ることが出来なかったが、同期の皆さんが無事に博論を出せるように祈ったらよかったと思う。   予定より少し遅れて最終目的地、チェルトの森へ到着した。夕食後、アイスブレーキングタイムがあった。「私の強みは_______である」「私の弱みは_______である」などなど、親しい人ともなかなか話さない話題について、小グループごとに話し合う時間だった。これでアイスブレーキングができるかよく分からないが、個人的には話すうちにどんどん盛り上がってきた。また周りを見ると、積極的に、真面目に話す人や、ボンヤリのんびりとする人など、個々の個性が浮かび上がるのも面白い。続く懇親会では、聞くだけでも非常に楽しい話が長く続いた。   7月4日(土)   2日目から本格的なワークショップが始まった。午前中は劉傑先生、茶野純一先生のトークショーがあった。まずは両先生より知・空間の概念定義から始まり、知と政治との関係など、深度の深いお話を伺った。茶野先生はアメリカのthink tankと政治政策について、劉先生は中国における日本学(者)の状況などを例として取り上げ、知の問題が現実の政治権力と微妙な緊張関係にあることを鋭く指摘した。   そもそも蓼科ワークショップは、蓼科旅行とも言われているように、博論執筆に疲れている今年度の奨学生にリフレッシュの時間を与えようとの財団の配慮で、気軽に楽しむという趣旨もあるようだが、今回のテーマはなかなか重い。それゆえ参加者皆が真面目に、真摯にテーマを受け入れた様子であった。講演の後に続く質疑応答時間でも「知の空間」における東アジア共同体の可能性、知と権力との関係、「専門性」と「知」との関係設定、アカデミックの「知」と地域の「知」との結びつきなどなど、様々な側面・観点から議論が行われた。   確かに、日本史、しかも日本近現代史という狭いといえば狭い領域で暮らしていた私にとって、刺激になる、それなりに楽しめる時間だったが、他方、これからのワークショップの分科会、翌日のプレゼンテーションなどへのプレッシャーも次第に高くなった。   しかしながら、これは私の杞憂にすぎなかった。午後から始まった小グループの活動は、ワークショップ本来の趣旨の通り、気軽で、楽しめる時間だった。5つに分けられた各チームは、蓼科の自然を満喫しながら、宝探しを兼ねて知の空間をイメージする色・形や、知の空間に必要なもの、禁止すべきものなどの課題を見つけ、それについて自由に話し合う時間を持った。   その後、話し合った結果を元に、各チームは明日のプレゼンテーションに向けて準備にはいった。私のチームでは、知の空間を象徴する各種のイメージをコラージュすることにした。最初は、どういう形になるか分からずに始めたが、皆が少しずつアイデアを出して、ふさわしいイメージを探し出すことによって、作業はどんどん具体化された。よいチームワークの結果、夕食前に、明日の発表準備をほぼ終わらせることができた。これで一安心。外は少しずつ雨が降り出したが、おいしい夕食と、続く懇親会も思う存分、楽しめた。   7月5日(日)   最後の3日目。ワークショップの結果をチーム毎に発表する時間となった。各チームいずれも発表内容や形式において、個性溢れる、面白い発表であった。私のチームのコラージュは知の空間のイメージから、宇宙と秩序を背景とした人間の形状を作り出した。他の発表の面々を見ると、知の空間とその誕生を、卵の形で立派な照明効果も活用しながら表現したもの、とても面白い料理番組で知の空間へのチョコ(直行)焼きを造ったもの、知の空間のつながり・拡散を真面目な説明と分かりやすい紙工作で表現したものなどがあった。最後のチームは、発表順まで緻密に計算して、会場の全員の手をつなぎ合わせ、知の空間における人と人との結びつきを表現した。実に今回のワークショップのテーマにふさわしい最後の発表であったと思う。また、議論、まとめ、発表全体を通して、新入奨学生に任せきりではなく、奨学生のOBやOG、財団の方々、それに講師の先生方までも皆が積極的に参加してくださって、本当にありがたいと思った。   発表が終わってみんなが満足できる授賞式もあった。それからお昼を食べて、バスで東京へ向かった。短い時間であったが、自然を楽しめる(しかも鹿を二度も見ることが出来た)、皆とより一層親しくなった、貴重なリフレッシュの時間だった。   蓼科ワークショップの写真   英語版はこちら   -------------------------------------------- <趙 国(チョ・グック) Guk CHO> 歴史学専攻。早稲田大学大学院文学研究科博士課程在学中。研究分野は日本近現代史で、現在は日本の居留地における清国人管理問題について博士論文を執筆している。 --------------------------------------------   2015年7月30日配信  
  • 2015.07.23

    文 景楠「第7回SGRAカフェ『中国台頭時代の台湾・香港の若者のアイデンティティ』報告」

    2015年7月11日、東京九段下にある寺島文庫みねるばの森にて、台湾中央研究院近代史研究所の林泉忠先生をスピーカーに迎え、第7回SGRAカフェが開催された。SGRA運営委員のデール・ソンヤさんの司会のもと、まずSGRA代表の今西淳子さんによる開催の挨拶があり、続いて林先生による講演が始まった。以下、その様子を簡略に伝えたい。   今回の講演は、2014年に中国語圏で起こった政治的な出来事のなかでも特に印象的であった、台湾のひまわり学生運動と香港の雨傘運動を取り上げたものであった。現在の台湾と香港の状況を象徴するようなこれら二つの運動は、学生たちが立法院や道路を占有する映像とともにメディアによって大きく取り上げられ、海外の人々にも非常に強いインパクトを与えた。これらの運動が現代の中国語圏を理解する上でどのような意味をもつのかを整理し、それをもとにして、運動の主体となった台湾と香港の若者のアイデンティティの問題に進んだ。   林先生によれば、二つの運動は以下のような特徴をもつ。まず、それらはともに学生主体の運動であり、政権や社会格差への関心が主な動機として始まっている。また両者は、方法としては非暴力を、理念としては民主主義を掲げたものであり、その展開においてインターネットが重要な役割を果たしていたという点でも類似している。さらに、ひまわり学生運動と雨傘運動の中心となった若者たちが、深い関心をもって互いの活動を積極的に支援したという点も特徴的である。   すでに『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス:沖縄・台湾・香港』というタイトルの著書を上梓されていることからも窺えるように、林先生が、これらの運動を理解する際にキーワードとしたのは、「中心と辺境との距離」である。上で取り上げた二つの運動は、民主化運動といった点を重視すれば、中国語圏で行われてきた従来の政治運動と一見同様に見えるかも知れない。しかし、今回の二つの運動には大きな違いがあり、それには、近年の中国語圏における最も重大な変化、すなわち「中国の台頭」という現象が関係している。   現在の中国語圏において、中国本土と台湾、香港の力関係は従来のそれから大きく変化している。香港は以前もっていた経済的求心力を失い始め、台湾もまた爆発的な成長を見せる中国との関係をどのように保つかに苦慮している。このような関係の変化は、特に雨傘運動に対する中国政府の対応から垣間見ることができる。林先生の理解によれば、中国政府の雨傘運動への対応は予想以上に強硬なものだった。これは、香港がもっていた経済的重要性が弱まってきたことによって、現在の中国政府がある意味では香港(に住む人々)に対して優位に立つようになったという事情を反映しているといえる。   このような現実に直面している香港の学生たちが今回の運動で問わなければならなかったのは、おそらく民主主義やそのための手続きの問題だけではなく、激変する社会情勢における自分たちの立ち位置でもあったのだろう。同様の指摘は、台湾の事例にも当てはまる。中国政府の反応は香港の場合とは違って比較的おだやかなものではあったが、ひまわり学生運動がそもそも中国本土と台湾の経済的な協定が火種となったものであるという点を考えれば、台湾の若者が苦心していたものもまた、単なる政治的意思決定のプロセスの妥当性だけではなく、中国台頭時代における自らの立ち位置への不安でもあったと思われる。   このように、今回の二つの運動は、ますます中心化していく中国本土とますます辺境化する台湾・香港の関係がもつ不安定さを反映したものであり、若者による民主化運動という理解だけではこれらの内実を正確に把握することは、もはやできないのである。   中心と辺境の距離感は、講演の主題となったアイデンティティの問題に直結している。林先生の調査によれば、香港・台湾の住民のかなりが、自らを香港人・台湾人と考えている。香港人や台湾人という自己認識が何を意味するのか、さらに、この自己認識が中国語圏の今後に対して何を示唆するのかに関しては、まだ判定を下すことができない。しかし、社会情勢の変化が、中国語圏が従来から抱えていた問題の位相を変えていることは恐らく事実であり、今後このような傾向はさらに加速されるだろう。   現状の整理は上記のとおりであるが、これから中国語圏の人々が何を目指すべきかを示すことは簡単ではない。これに関して林先生は、中心となっていく中国政府が、どのように辺境の人々からの信頼を回復できるのかが鍵となるだろうと述べた。その具体的な方法は事案に応じて個別的に論じられなければならないが、その指摘は方向性としては全面的に正しいと思われる。   中国語圏の若者のアイデンティティの問題は、その地域の現実を直に反映したものである。今回の講演は、このようなアクチュアルな現象に着目することで今後の中国語圏全体のあり方を考えるという、非常に刺激的な内容であった。   当日の写真   英語版エッセイはこちら    -------------------------------------- <文 景楠(ムン・キョンナミ) Kyungnam MOON> 哲学専攻。東京大学大学院博士課程在学中。研究分野はギリシア哲学で、現在はアリストテレスの質料形相論について博士論文を執筆している。  --------------------------------------   2015年7月23日配信    
  • 2015.06.04

    林 泉忠「第5回日台アジア未来フォーラム報告:日本研究から見た日台交流120年」報告

    2015年5月8日、第5回日台アジア未来フォーラム「日本研究から見た日台交流120年」が国立台湾大学で開催された。過去120年間の日台関係を振り返り、戦前の経験はいかなる遺産としていかに再認識すべきか、戦後東アジアが新たな秩序を模索するなか、台湾と日本との関係は様々な困難を乗り越えて再構築されたが、そのプロセスは如何なる特徴を有しているのか、そして、次の120年の日台関係を展望するには如何なるキーワードを念頭にいれる必要があるのか、という問題意識に基づき13の講演・論文発表と活発な議論が展開された。李嘉進亜東関係協会会長と沼田幹夫日本交流協会代表にご挨拶をいただき、200名の参加者を得て大盛会であった。   フォーラムは、「国際関係」、「語学と文学」そして「社会変容」という3つのセッションから構成され、台湾、日本、韓国、中国から第一線で活躍する学者を招き、斬新な視点から鋭い議論が展開された。   基調講演は、東京大学東洋文化研究所教授の松田康博氏が「日本と台湾の120年:『二重構造』の特徴と変遷」という演題で行った。松田教授は、冒頭で、最初の50年は宗主国と植民地の関係であり、後の70年は外国同士の関係であることに触れ、台湾の主体性の顕現という観点から見ると、日本と台湾との関係はほぼ一貫して「二重性」という特徴を有していたと指摘した。植民地期の日本と台湾の関係は、「中央政府と総督府」および「日本社会と台湾社会」という二重性であり、数年の過渡期を経て、1952年以降のそれはいわば「政府当局間の日華関係」と「社会間の日台関係」になったと力説した。最後に、今後、中国の台頭は日台関係にどのような影響を及ぼすであろうか、またそれは、台湾住民が台湾の主体性をどのようにとらえるかが鍵となるだろうと語り、基調講演を終えた。   第1セッションは、国立台湾大学歷史学系兼任教授の呉密察氏を座長に迎え、「政治環境・国際関係の変容から見た日台関係」というテーマで、台湾、日本、そして中国という3つの視点から「日台関係120年」を議論した。発表された3本の論文は、国立成功大学台湾文学科の李承機副教授による「『植民母国』から『国際関係』へ―台湾の文化主体論の変容と日台関係―」、東京大学総合文化研究科の川島真教授による「戦後初期台湾の日本研究/日本の台湾研究 」、そして中国社会科学院近代史研究所の王鍵研究員による「中国の視点から見た台日関係120年」(代読) という、いずれも刺激的な内容ばかりであったし、日中台の学者が一堂に会して「日台関係」を語ることも画期的であった。   第2セッションは、「日本研究の回顧と展望―言語と文学―」というテーマであったが、A「文学・文化」、B「言語・語学」に分けられ、前者の座長を務めたのは、国立台湾大学日本語文学科長の范淑文教授、また発表された3本の論文は、黃翠娥・輔仁大学外語学部副部長による「台湾における日本近代文学研究」、曹景惠・国立台湾大学日本語文学科副教授による「台湾における日本古典文学研究の過去、現在と未来」、藍弘岳・国立交通大学社会与文化科学研究所副教授による「台湾における日本研究―思想、文化、歴史をめぐって― 」であった。「時間軸」で台湾の日本文学を古代から近代まで検討すると同時に、「分野軸」で 台湾の日本研究を纏めるという実に多彩な内容だった。   Bは、林立萍・国立台湾大学日本語文学科教授が座長を務め、「言語・語学」というテーマで賴錦雀・東呉大学日本語文学科教授、外国語文学部長による「データから見た台湾における日本語学研究」、葉淑華・国立高雄第一科技大学外語学部長よる「台湾における日本語教育研究の現状と展望 ―国際シンポジウムを中心に― 」(データ、シンポジウムをキーワードとして日本語学および日本語教育の現状を考察)、申忠均・韓国全北大学日語日文学科教授による「韓国における日本語教育の歴史 ―朝鮮時代の倭学、そして現在― 」という興味深い報告が行われた。   第3セッションの「日台社会の変容と交流の諸相」では、文字通り、日台交流史における「社会の変容」と「交流の諸相」に焦点をあてた。張啓雄・中央研究院近代史研究所研究員が座長を務め、3本の論文が発表された。まず経済の視点からの佐藤幸人教授による「日台企業間の信頼と協力の再生産」では、日台企業間の協力関係について、複数の事例からアプローチし、その再生産のダイナミズムを明らかにした。また鍾淑敏・中央研究院台湾史研究所副研究員がアイデンティティの視点より、「根を下ろせし異郷、故郷となれり」という興味深いタイトルで、台湾生まれの日本人と台湾社会との交流を再検討した。そして、中央研究院台湾史研究所副研究員の呉叡人氏は歴史社会学の視点から、現実主義者の歴史的イデオロギーの操作による日台右翼民族主義者の結合現象を分析した。   最後の総合討論では、「21世紀の日台関係を展望する」というテーマで、座長の徐興慶・国立台湾大学日本語文学系教授兼日本研究中心主任のもとで、各分野を代表する6人の学者、すなわち范淑文、辻本雅史、 松田康博、川島真、呉叡人、そして筆者が、これまで120年の日台関係および日本研究のあり方や特徴をそれぞれ語り、今後の方向性を提示した。   今回のフォーラムを「ハイレベルだった」と評してくださった基調講演の松田康博教授をはじめ、多くの参加者が高く評価してくださった。今回の議論を通して新たな「日台関係論」の構築に資したいと思う。   アンケート集計結果 当日の写真   英語版はこちら   ---------------------------------- <林 泉忠(リム チュアンティオン) John Chuan-Tiong Lim> 国際政治専攻。2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員、2014年より国立台湾大学兼任副教授。 ----------------------------------
  • 2015.03.04

    金 雄熙「第14回日韓アジア未来フォーラム『アジア経済のダイナミズム』報告」

      2015年2月7日(土)、国立オリンピック記念青少年総合センターで第14回日韓アジア未来フォーラム(第48回SGRAフォーラム)が開催された。今回は「アジア経済のダイナミズム-物流を中心に」というテーマだったが、2013年度から5年間のプロジェクトの第2年目として、日韓の交通・物流システムにおける先駆的な経験が、アジアの持続可能な成長と域内協力にどのように貢献できるのかという問題意識に立ち、アジア地域で物流ネットワークが形成されつつある実態を探り出し、その意味合いを社会的にアピールすることを目的とした。   フォーラムでは、未来人力研究院理事長の李鎮奎(リ・ジンギュ)教授による開会の挨拶に続き、基調講演と2人の研究者による発表が行われた。基調講演では、「ミスター円」と呼ばれた榊原英資(さかきばら・えいすけ)さんが、中国やインドが19世紀初めまでは世界の2大経済大国であったことを考えると、昨今の高い経済成長は「リオリエント」現象とも呼ばれるべきものであると力説した。また、インドネシアなど東南アジア諸国も高い成長を続けており、次第に成長センターは西に移っているとした。おそらく20年後にはインドの成長率が中国のそれを越え、2050年のGDPでは中国がアメリカを抜いてナンバーワン、インドはナンバーツーに近いナンバースリーになると予測されているとした。ちょうど15年前(渥美国際交流財団設立5周年)に榊原さんがこの同じ場所で中国の浮上を熱く語ったことがあったのだが、いまや「G2」論が話題になるようになった。これから15年後インドがグローバル経済という大舞台でどういう役を演じるようになるのか、またどの国・地域が新しく浮上し、東アジア共同体の成功への期待を膨らませるか興味はつきない。   安秉民(アン・ビョンミン)韓国交通研究院ユーラシア・北朝鮮インフラセンター所長は、北東アジアにおいて活発に行われている国境を越えた多国間開発事業、特に北朝鮮、中国、ロシア、モンゴルなどの国々による交通・物流インフラなどをめぐる新しい協力方式を中心に、北東アジアの交通・物流協力の実状と今後の展望について発表した。   ド・マン・ホーン桜美林大学経済経営学系准教授は、GMS(大メコン圏)経済協力プログラムの中で、最も積極的に進められてきたプロジェクトである輸送インフラ整備を中心に、同地域での物流ネットワークの現状を分析し、ソフト(制度など)とハード(インフラシステム)の両面に関わる課題について発表した。   休憩を挟んで、ラウンドテーブルでは、まず第48回SGRAフォーラムの仕掛け人でもある北陸大学未来創造学部の李鋼哲(り・こうてつ)教授が「アジアハイウェイの現状と課題について」報告を行った。討論のたたき台としてのミニ報告を予定していたが、「アジア人」として長年にかけての「ロマンチックな」夢が熱く語られ、会場を大いに盛り上げた。その後、畑村洋太郎(はたむら・ようたろう)東京大学名誉教授、沼田貞昭(ぬまた・さだあき)鹿島建設顧問、韓国未来人力研究院の徐載鎭(ソ・ジェジン)院長、滋賀県立大学のブレンサインさん、SMBC日興証券のナポレオンさんらによるコメントが続いた。著しく成長しつつある物流ネットワークの域内協力をキーとし、アジア経済のダイナミズムについてそれぞれの立場や専門領域を踏まえた、そして夢が込められた素晴らしい議論であった。   今回は渥美財団20周年祝賀会と日韓アジア未来フォーラムが立て続けに開催され、準備が本当に大変だったに違いないが、スタッフの皆さんは勿論のこと、家族的なラクーン・ネットワークに支えられ、成功裏に終えることができ、改めて顔の見えるネットワークのパワーを実感した。交通の便が悪かったにもかかわらず、100名を超える参加者が集まるというすごい反響は、これからのフォーラム運営により一層の活力とやりがいを与えてくれた。なお、第2回アジア未来会議に続き、大学や研究機関の研究者のみならず若い学生たちにも参加いただき、次世代への期待をフォーラム運営の在り方につなげるものとなった。慌ただしい日程のなか、高麗大学の学生たちを青少年総合センターまで案内してくれた今西勇人さん夫妻にこの場を借りて感謝したい。残念ながら、公式乾杯酒の「春鹿」、そして入り混じったラブショットはみられなかったものの、日本ならではの節度ある良いフォーラムであったと思う。   前回のフォーラム報告でも言及したが、これから「ポスト成長時代における日韓の課題と東アジア地域協力」について、実りのある日韓アジア未来フォーラムを進めていくためには、総論的な検討にとどまらず、今回のように各論において掘り下げた検討を重ねていかなければならない。次回のフォーラムの開催に当たっても、このような点に重点を置きつつ、着実に進めていきたい。最後に第14回のフォーラムが成功裏に終わるようご支援を惜しまなかった今西代表と李先生、そしてスタッフの皆さんに感謝の意を表したい。李先生、今西さん、そしてラクーンのみなさん、日韓アジア未来フォーラムも20周年祝賀会やりましょう!   フォーラムの写真   フィードバック集計   -------------------------------- <金雄煕(キム・ウンヒ)☆ Kim Woonghee> 89年ソウル大学外交学科卒業。94年筑波大学大学院国際政治経済学研究科修士、98年博士。博士論文「同意調達の浸透性ネットワークとしての政府諮問機関に関する研究」。99年より韓国電子通信研究員専任研究員。00年より韓国仁荷大学国際通商学部専任講師、06年より副教授、11年より教授。SGRA研究員。代表著作に、『東アジアにおける政策の移転と拡散』共著、社会評論、2012;『現代日本政治の理解』共著、韓国放送通信大学出版部、2013;「新しい東アジア物流ルート開発のための日本の国家戦略」『日本研究論叢』第34号、2011。最近は国際開発協力に興味をもっており、東アジアにおいて日韓が協力していかに国際公共財を提供するかについて研究を進めている。 -------------------------------- 2015年3月4日配信  
  • 2015.01.21

    M. ジャクファル・イドルス「第6回SGRAカフェ 『アラブ・イスラムをもっと知ろう:シリア、スーダンそしてイスラム国』報告」

    近年、イスラムを中心とした中東やアラブ世界で進行した「アラブの春」という民主化運動をきっかけに、不安定な政治的社会的な状況が生み出されたのと同時に、イスラムを名乗った暴力的な行為によって、イスラムに対する不当な偏見が強まり、拡大している。その根底には、イスラム過激派の暴力的なニュースばかりが報道される一方で、特に日本では、イスラム教やイスラム諸国に対する根本的な知識や情報や理解をうながす「場」が乏しく、人々に多くの誤解を与えているという状況がある。   そのような背景の中で「アラブ・イスラムをもっと知ろう:シリア、スーダンそしてイスラム国を中心として」というテーマの下で、メディアには現れないイスラム教やイスラム諸国の実情について学ぶことを目的に第6回SGRAカフェが開催された。   今回、シリア出身のダルウィッシュ・ホサム氏(Housam Darwisheh:アジア経済研究所中東研究グループ研究員)と、スーダン出身のアブディン・モハメド・オマル氏(Mohamed Omer Abdin:東京外国語大学特任助教)に講演をお願いした。両名ともSGRAの会員である。   ホサム氏は「変貌するシリア危機と翻弄される人々」というタイトルの講演を行った。2011年に中東地域で拡大してきた民主化要求運動をきっかけに、シリアは現在、未曾有の危機に直面している。アサド体制と反体制派の多様なグループによる戦闘が各地で続くなか、シリア北部で誕生した「イスラム国」が侵攻し、3年におよぶ戦闘により、死者は20万人を超え、難民は400万人、国内避難民は1,100万人にのぼり、近隣諸国はシリア難民の受け入れに対応できない状況にある。アメリカを中心とする有志連合の干渉もあって、シリア危機はますます複雑な様相を呈し、日ごとに悪化する状況から脱する道は見出せないままである。このようにシリア危機の経過と現状を紹介した上で、壊滅的な内戦に陥った原因を、歴史的、宗教的、民族的、地政学的など多様な側面から解説し、シリア及び近隣アラブ諸国における内戦の今後の厳しい見通しについて語った。   アブディン氏は「なぜハルツームに春がこないか?:バシール政権の政治戦略分析を通して」というタイトルで、異なるアプローチからスーダンにおける「アラブの春」の影響について講演した。民主化を求めるアラブの春の運動は、長い間続いてきた独裁体制を崩壊させる一方で、内戦を勃発させ、中央政権の弱体化など様々な結果をもたらした。国によって、この運動がなぜこのように個別の結果をもたらしたかは、近年の国際政治学者の大きな関心事となっている。一方では、アラブの春の影響をほぼ受けなかった地域も存在する。アブディン氏は、中東の周辺地域に位置するスーダン共和国を事例に、現政権が、アラブの春の同国への波及を防止するためにどのような戦略をとってきたかを、スーダンを取り巻く内部的、外部的情勢をもとに講演した。特に印象的だったのは、「スーダンは過去に民主化とその挫折の経験を持っているため、民主化に対する幻想を持っていない」との指摘だった。   2時間程の講演に続き、座談会と質疑応答が行われ、30人を超える参加者のなかからたくさんの質問があった。「イスラム国における法の思考とその正当性はどのようなものなのか?」「イスラム国の裁判はだれに対しての裁判であり、非イスラム教徒はどのように扱われるのか?」「イスラム国はいったい何を目指し、今後どのように展開すると予測されるのか?」などイスラム国に対する質問が多く、関心の高さを感じさせられた。その他、「なぜ一般の人が巻き込まれるのか?」「どのような教えに基づいてその行動が取られるのか?」などとイスラムの本質に迫る質問も多数あった。   限られた時間のなかで、これらの質問に対して問題を掘り下げた議論を展開することはできなかったが、この3時間に亘った講演と座談会で共通認識として共有することができたのは「現代世界で起きているイスラム世界あるいはイスラムと関連する様々な問題は単なる宗教的な問題ではなく、政治、経済、国際関係など様々な要素の絡み合いの中から生じた複雑な問題」というものである。   今後とも、特に日本では、より正しく妥当な理解を得るために、SGRAカフェのような客観的な情報発信の場が必要とされている。   当日の写真   ------------------------------------- <M. ジャクファル・イドルス  M. Jakfar Idrus> 2014年度渥美国際交流財団奨学生。インドネシア出身。ガジャマダ大学文学部日本語学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科アジア地域研究専攻博士課程後期に在学中。研究領域はインドネシアを中心にアジア地域の政治と文化。「国民国家形成における博覧会とその役割—西欧、日本、およびインドネシアを中心として−」をテーマに博士論文執筆中。 ------------------------------------- 2015年1月21日配信
  • 2014.12.24

    林 少陽「第8回SGRAチャイナ・フォーラム『近代日本美術史と近代中国』報告」

    2014年11月22日~23日、第8回SGRAチャイナ・フォーラムが北京で開催されました。今回のテーマは日本美術史です。22日の講演会は中国社会科学院文学研究所と、23日の講演会は清華大学東亜文化講座との共催でした。清華大学は北京大学のライバルであり日本でも知られていると思いますが、中国社会科学院は「知る人ぞ知る」かもしれません。中国社会科学院は、国家に所属する人文学及び社会科学研究の最高学術機構であり、総合的な研究センターです。中国社会科学院文学研究所の前身は北京大学文学研究所であり、1953年の創立です。1955年に中国社会科学院の前身である中国科学院哲学社会科学学部に合併されました。現在115人の研究員がいて、そのうち上級研究員は79名ということです。   今回、日本から参加してくださった2名の講師は、佐藤道信氏(東京藝術大学芸術学科教授)と、木田拓也氏(国立近代美術館工芸館主任研究員)です。佐藤氏は日本美術史学の代表的な研究者の一人であり、木田氏は日本の工芸史の研究者として活躍していらっしゃいます。木田氏が2012年に実施した「越境する日本人――工芸家が夢見たアジア1910s~1945」という展覧会が、今回の北京でのフォーラム開催のきっかけとなりました。   まず、11月22日の講演会についてご紹介します。佐藤氏の講演題目は「近代の超克-東アジア美術史は可能か」、木田氏は「工芸家が夢みたアジア:<東洋>と<日本>のはざまで」でした。   佐藤氏は、「美術」「美術史」「美術史学」をめぐる制度的な研究をしてきた研究者です。その目的は、美術の今がなぜこうあるのか、現在の史的位置を考えることにありました。最初は、「日本美術(史)観」をめぐる日本と欧米でのイメージギャップについて研究し、大きな影響を与えた研究者ですが、この十数年は、欧米と東アジアにおける「美術史」展示の比較から、その地理的枠組の違いと、それを支えるアイデンティーの違いについて考えてきました。欧米の国立レベルの大規模な美術館では、実質「ヨーロッパ美術史」を展示しているのに対して、東アジアでは中国・台湾、韓国、日本、いずれの国立レベルの博物館でも、基本的に自国美術史を中心に展示していることを指摘しました。   つまり、実際の歴史では、仏教、儒教、道教の美術や水墨画が、広く共有されていたにもかかわらず、東アジアの美術史ではそれが反映されていません。広域美術史を共有するヨーロッパと、一国美術史を中心とする東アジアという違いがあります。その枠組を支えるアイデンティティーとして、大きく言えば、キリスト教美術を中軸とする「ヨーロッパ美術史」は、キリスト教という宗教、一方の東アジア各国の自国美術史は、国家という政治体制に、それぞれ依拠していることを佐藤氏は問題としています。   佐藤氏は1990年代以来、近代日本の「美術」「美術史」「美術史学」が、西洋から移植された「美術」概念の制度化の諸局面だったという前提で、「日本美術史」が、近代概念としての「日本」「美術」「歴史」概念の過去への投射であり、同様に日本での「東洋美術史」も(あくまで日本での、です)、じつは近代日本の論理を「東洋」の過去に投射したことを、いままでの著書で明らかにしてきました。 本講演において、佐藤氏は、19世紀の華夷秩序の崩壊後、ナショナリズムを基軸に自国の歴史観を構築してきた経緯を指摘しつつ、分裂した東アジアの近代が、歴史とその実態をも分断してきたのだとすれば、実態を反映した「東アジア美術史」の構築は、東アジアが近代を超克できるかどうかの、一つの重要な課題であると提起しました。そして、広域の東アジア美術史を実現するために、「自国美術史」の相互刊行、広い視野と交流史的、比較論的な視点、知識の樹立、さらには、イデオロギー(東西体制の両方)、大国意識、覇権主義、民族主義、汎アジア主義的視点などによる解釈の回避、国際間でのコミュニケーションと他者理解のしくみの確立、などを提言しました。   木田氏は、講演「工芸家が夢みたアジア:<東洋>と<日本>のはざまで」において、まず自分自身がこれまでに関心を持って取り組んできた工芸史、デザイン史という領域において、19世紀後半のジャポニスム、アール・ヌーヴォー、アール・デコ、モダニズムという流れにおける日本と西欧との文化交流に関する研究は盛んに行われているのに対して、それとは対照的にこの時代の日本と中国との関係については、あまり関心が払われていないことを反省しつつ、日本人の工芸家と中国との関連を紹介しました。木田氏はまず、日本の20世紀を代表する、国民的洋画家といえる梅原龍三郎の、1939年から43年までの計6回の中国訪問を紹介しました。戦争中にも関わらず、梅原は北京が最高であると記述しており、この時代の美術史の再評価の必要性を指摘しました。   そして、京都の陶芸家の2代真清水蔵六が、1889年(明治22)に上海と南京の間にある宜興窯に渡って、そこにおよそ1年間滞在して作陶を行ったことや、1891年(明治24)年に景徳鎮を訪問したこと、建築家で、建築史家でもあった伊東忠太が、1902年から1905年まで、約3年かけて中国、ビルマ、インド、トルコを経て、ヨーロッパへとユーラシア大陸を横断したこと、また1910年の日韓併合前から建築史家の関野貞が朝鮮半島で楽浪遺跡の発掘に関わっていたことなどを紹介しました。そして木田氏は、中国からの古美術品の流出と、日本におけるコレクションの形成との関係について紹介し、日本に請来された中国や朝鮮半島の美術品が日本の工芸家の作風に影響を与えたことを報告しました。   講演会には、社会科学院の研究員だけでなく、他の大学の研究者や大学院生も含む約50名の参加者が集まりました。中国社会科学院文学研究所の陸建徳所長が開会挨拶をしてくださいました。講演の後、とても密度の高い質疑と討論で盛り上がり、初日の講演会は大成功でした。   翌11月23日の講演会はさらに盛況でした。清華大学の会場は40名しか座れない会議室でしたが、実際80名を越す参加者があり、一部は立ったままで講演会を聴講していました。講演会を助成支援してくれた国際交流基金北京日本文化センターの吉川竹二所長や、中国社会科学院日本研究所の李薇所長も出席してくださいました。 佐藤氏の今回の講演題目は「脱亜入欧のハイブリッド:『日本画』『西洋画』、過去・現在」であり、木田氏の講演題目は「近代日本における<工芸>ジャンルの成立:工芸家がめざしたもの」でした。   佐藤氏の講演に対しては筆者が、木田氏の講演に対しては清華大学美術学院准教授の陳岸瑛氏が中国美術史研究者の立場からコメントし、また清華大学歴史学科の教授である劉暁峯氏がたいへん興味深い総括をしました。   紙幅の関係上2回目の両氏の講演についてご紹介できないですが、今回の出席者の積極的な参加ぶりは感動的でした。また会場からの討論の熱さも忘れがたいものです。参加者は美術史関係の研究者と大学院生のほか、文学研究者、歴史研究者も多いという印象を受けました。その意味において高度に学際的な会議でもあったと思います。   今回のふたつの講演会は高度な専門性を持つが故に大成功したと思いますが、日本研究と中国研究が対話する重要な機会でもあることを実感しました。   フォーラムの写真   フィードバックアンケートの集計結果   ----------------------------- <林 少陽(りん しょうよう)Lin Shaoyang> 1963年10月中国広東省生まれ。1983年7月厦門大学卒業。吉林大学修士課程修了。会社勤務を経て1999年春留学で来日。東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程、東大助手、東大教養学部特任准教授、香港城市大学准教授を経て、東京大学大学院総合文化科超域文化科学専攻准教授。学術博士。著書に『「修辞」という思想:章炳麟と漢字圏の言語論的批評理論』(東京:白澤社、2009年)、『「文」與日本学術思想——漢字圈・1700-1990』(北京:中央編訳出版社、2012年)、ほかに近代日本・近代中国の思想と文学ついての論文多数。 -----------------------------   2014年12月24日配信
  • 2014.10.15

    孫 建軍「第2回アジア未来会議円卓会議『これからの日本研究:学術共同体の夢に向かって』実施報告書 」

    本円卓会議は、漢字圏を中心としたアジア各地の日本研究機関に所属する研究者が集まり、グローバル時代における日本研究のあり方について議論する場として、第1回に引き続き、第2回アジア未来会議の二日目に開催された。会議は日本語で行われ、円卓を囲んだ10名の発表者と討論者、および各地から駆けつけた多くのオブザーバーが参加した。   円卓会議は2部からなり、前半は提案の代読及び指定発表者の報告であった。提案者である早稲田大学劉傑教授は都合で来場できなかったが、提案は文章として寄せられ、司会者の桜美林大学李恩民教授によって代読された。内容は主に四つの部分からなり、(1)未来に向けての「東アジア学術共同体」の意味、(2)「東アジア学術共同体」の実験として、「日本研究」を設定することの意味、(3)アジアないし世界が共有できる「日本研究」とはどのようなものなのか、そして(4)東アジアの日本研究の仕組みをどのように構築していくのか、というものだった。   続いて、4人の指定報告者による報告が行なわれ、日本を除く東アジア地域の代表的な日本研究所の歴史や活動などの最新情報が紹介された。ソウル大学日本研究所の南基正副教授は、当研究所で展開中のHK企画研究の紹介を通じた企業との連携の実績や、次世代研究者の養成に力を入れていることを紹介した。復旦大学日本研究所の徐静波教授は、日本の総領事館や企業の支援を受けることは、レベルの高い日本研究を維持していく重要な前提であると語った。中国社会科学院日本研究所の張建立副研究員からは、中国一を誇る研究陣営、政府のシンクタンクの役割を十分果たす国家レベルの研究所の紹介があった。台湾大学の辻本雅史教授は、発足したばかりの台湾大学文学院日本研究センターを紹介し諸機関との連携を呼びかけた。   後半は北京大学准教授で早稲田大学孔子学院長を兼任している私の司会で始まり、6名の指定討論者からコメントがあった。中国社会科学院文学研究所の趙京華研究員は日本研究の厳しい現状を報告した上で、学術共同体という言葉遣いに疑問を投げかけた。学術共同体を目指すのではなく、東アジア各国の間における軽蔑感情を取り除くべく、問題意識の共有を提案した。また、他者を意識させかねないことを防ぐため、他分野の学者も討論に呼ぶべきだと提案した。北京大学外国語学院の王京副教授も、学術共同体は外部が必要なため派閥が生まれやすいと指摘した。また、統合されていない北京大学における日本研究の現状を例に挙げ、情報共有の大切さを訴えた。   韓国国民大学日本研究所の李元徳教授は学術共同体を目指す提案者の意見に賛同する一方、日中韓の間における独自の問題を指摘した。また衰退しつつある韓国の日本研究は、魅力をなくしつつある日本に起因することを慨嘆した。ジャーナリストの川崎剛氏は東アジアの概論の必要性を訴えた。SGRA今西淳子代表は、関口グローバル研究会として組織ではなく人の繋がりを心がけ、小さいながらも大きな組織の間を繋ぐ触媒的な存在でありたいと説明した。「学術共同体」については、中国大陸の学者の反対的意見を尊重し、使用を控えたほうがよいと語った。一方で、提案者劉傑教授の意図は既にある情報インフラをもっと活用できないかという観点からであると補足説明し、相互情報交換に力を入れる意向を明らかにした。また日本は魅力をなくしたとは言い切れないと指摘した。中国社会科学院文学研究所の董炳月研究員は、学術から出発して国家概念を超えた協力関係の構築を提案した。最後に台湾中央研究院の林泉忠副研究員は日本研究の厳しい現状の再確認を促し、一刻も早く苦境の脱出を図らなければならないと指摘した。   円卓会議にはアジアのほかの地域の学者も参加し、タイ、インドなどからの学者の発言もあった。話題は日本研究のみではなく、各大学の教育現場における新しい動向や悩みにまで及び、予定時刻を若干オーバーして有意義な意見交換を行った。今までの2回の議論を踏まえて、多くの参加者は、第3回アジア未来会議の場においても、引き続きこのようなセッションを設けてほしいと望んでいる。   ------------------------------- <孫建軍 Sun Jianjun> 1969年生まれ。1990年北京国際関係学院卒業、1993年北京日本学研究センター修士課程修了、2003年国際基督教大学にてPh.D.取得。北京語言大学講師、国際日本文化研究センター講師を経て、北京大学外国語学院日本言語文化系副教授。現在早稲田大学社会科学学術院客員准教授、早稲田大学孔子学院中国側院長を兼任中。専門は日本語学、近代日中語彙交流史。 -------------------------------   2014年10月15日配信
  • 2014.10.10

    第3回SGRAふくしまスタディツアー報告

    渥美国際交流財団/SGRAでは2012年から毎年、福島第一原発事故の被災地である福島県飯舘(いいたて)村でのスタディツアーを行ってきました。そのスタディツアーでの体験や考察をもとにしてSGRAワークショップ、SGRAフォーラム、SGRAカフェ、そしてバリ島で開催された「アジア未来会議」でのExhibition & Talk Session“Fukushima and its aftermath-Lesson from Man-made Disaster”などを開催してきました。今年も、10月17日から19日の3日間、SGRAふくしまスタディツアー《飯舘村、あれから3年》を実施しました。このレポートはツアーの記録報告です。 「SGRAふくしまスタディツアー」は、今年で3回目。参加者は渥美財団のラクーンメンバー、呼びかけに応えて参加した留学生、日本人学生、大学教授や社会人など16名。国籍も中国、台湾、グルジア、インドネシア、モンゴル、日本、年齢層も18歳から70歳代まで、まさに多様性を絵にかいたような多彩なメンバーであった。 17日(金)朝8時、メンバーたちのチョットした不安も乗せながら、バスは秋晴れの中を福島に向けて出発した。途中、福島駅で、今回の受入れをお願いしている「ふくしま再生の会」のメンバーと合流。「NPO法人ふくしま再生の会」(理事長田尾陽一さん)は、地元の農民とヴォランティア、科学者により構成されたNPO団体。2011年秋から、飯舘村の再生プロジェクトとして、住民自身による効率的な除染方法の研究開発や飯舘村に伝わる「マデイ(真手)」の考え方をもとにしたサステイナブル/エコロジカルな地域産業とコミュニティーの再生に取り組んでいる。 最初の訪問先は、福島市内の松川仮設住宅。ここでは飯舘村で被災した100名を超えるお年寄りが、未だに避難生活を続けている。入口付近には、簡単なスーパーやラーメン屋、集会所などが設けられ、それなりの生活環境は整えられているが、鋼板一枚の仮説のプレハブ住宅では冬の寒さはお年寄りにとっては厳しかろうと想像される。集会所で、8名の被災者のお話をうかがった。被災当時の状況や家族と離散して暮らさなければならない辛さなどが語られた一方で、被災から3年半を経た今では、この仮設住宅群の中での助け合いの生活は、それなりの心の安定と平和をもたらしてくれている、との話もあった。被災以前は大家族で子や孫に囲まれて暮らしてきたお年寄りが離散生活を強いられることは辛いだろうが、以前から孤立して生活していたお年寄りにとっては、集合住宅での助け合いの生活は、それなりの心の安定と平和をもたらしてくれているのかも知れない。 松川仮設住宅を後にして、バスは阿武隈高原飯舘村に向かった。一年ぶりに訪れた飯舘村は、昨年までとは一変した村になっていた。道路沿いに、農家の庭に、荒れ果てた田畑のあちこちに1トンもある黒いプラスティックの袋が山積みにされている。ああ、これが農家の周辺や田畑の土をはぎ取った「汚染土」の山なのだ。この「汚染土」はいつになったら撤去されるのだろうか。これからも増え続ける大量の「汚染土」の行き場は、まだ決まっていない。村役場や政府からの明確な答えもない。 飯舘村内を見学した後、ふくしま再生の会の活動拠点である霊山センターに到着した。このセンターで農民やヴォランティアの方々との2日間の短い共同生活が始まる。夕食は、私たちと地元の方々、ヴォランティアの方々との協働自炊である。地元の方から「この食材は全部スーパーで買ったもの。以前だったら、この時期は自分の田んぼでできた新米や、山で採れたキノコや栗、そしてイノシシまで使ったふるさとの料理を食べてもらえるのだけど、今は何もおもてなしができない。ごめんね…。」と言われた。返す言葉もない。辛いのは、我々ではなく、地元の方々なのだから。手作りの夕食を食べながら、飲みながらの語らいは、深夜まで続いた。 2日目。この日も、雲一つない快晴だった。黄や紅に色づき始めた山々が美しい。午前中、大久保地区のAさんの畑を訪問した。春に桜が咲き、花々に覆われたならば、まさに桃源郷になるであろう、と思わせるような山間の地だ。再生の会は、ここに住むAさんと共に花を中心とした栽培実験を行っている。「えっ、ここに住む住民?? 人が住んでいるのだろうか?」。Aさんは90歳を超える母親と共に、この大久保地区に住んでいる。以前Aさんは母親と共に、仮設住宅での避難生活をしていた。だが、ある夜、母親が「もうイヤだ。家に帰りたい」と叫び始めたことを切っ掛けにして、家に帰り「今までどおりの生活」に戻ることを決めたそうだ。むろん、帰還は禁じられていることを承知の上で…。これも、一つの選択なのだろう。 午後は、再生の会のさまざまな実験の拠点となっている、飯舘村佐須地区の菅野宗夫さんの田んぼでの、稲刈り作業である。稲刈り作業を始める前に、緊張が走った。あるメンバーから「この稲刈りは安全なのか?」「若者に危険な作業を強いることになるのではないか?」との質問が出されたのだ。田んぼは丁寧に除染され、昨年の収穫米や、今年の隣の田んぼでの収穫米でも、放射線濃度は基準値以下であった。このことから考えても、安全と言えるものの、刈り取りしようとしている稲は、実験段階の稲であることは間違いない。「安全との思い込み」や「安全に対する説明無し」では、他の人々の「安心」は得られない。この質問を受けた菅野宗夫さんの説明に納得したメンバーは穂先だけの稲刈りを行ったのだが、十分な説明をせずに稲刈りを行おうとしたことは、明らかにツアーのオーガナイザーである私たちの落ち度であった。当事者と他の人が感じる「安全」と「安心」の違い、これはこれからも飯舘村の再生の過程につきまとう大きな課題となるのだろう。 夕刻、河北新報の寺島英弥さんをお招きして、多くのスライド写真を見ながら、福島第一原発事故から今日までの被災地全体の状況の説明をうかがった。飯舘村とは異なり、津波と放射能被害のダブル被害を受けた沿岸部の状況、帰還に向けた地域ごと、ジェネレーションごとの「想い」の違い、3年半を経て住民の中に高まる疑心や生活に対する不安などが寺島さんの話から浮き彫りにされていった。 夜、宿舎の霊山センターに戻ると、仲間である大石ユイ子さんと農家の方々から大量のおでんと地元の野菜の差し入れが届いていた。だが、「チョッと待てよ。地元の野菜は大丈夫なの?」かすかな不安が心をよぎる。ちょうど再生の会の夕食の当番の方々が地域の農産品や植物の放射線量測定の専門家チームだったので、「この野菜は大丈夫なの?」と聞いてみた。「大丈夫ですよ。この野菜は飯舘村の野菜ではなく、相馬市の野菜で定期的に放射線量を計り、出荷しているもの。それに地元の人々は、私たち以上に放射能には敏感なので安全でないものは、絶対に食べませんし、持ってもきませんよ。」「でも、地元の人たちは、これからずっと、こうした不安や風評被害と向き合って行かなければならないのよね…。」稲刈りと同じ、「安全」と「安心」の問題には、これからもずっと、この地域が向き合って行かなければならないのだろう。 夕食の後、地元の若者の佐藤健太さんが訪れてくれた。佐藤健太さんは32歳。今は、福島市内に住みながら、飯舘村の若者の声を代弁しようと各地を飛び回っている。故郷への想いをふっきって、都会で生活を始めた20代、30代。いつかは帰りたいとの想いを持ちながら、京都の肉屋で修行を始めた若者、あるいは北海道の奥地で酪農を始めた若者のことなどなど、彼の話は印象的だった。 「当たり前のことだが、生まれ育ったふるさとへの想いは捨てることはできないし、オヤジの世代の苦しみも十分にわかっている。一方で、若者は多かれ少なかれ都会の生活を経験しているので、都会の生活には馴染みやすい」「帰るか、帰らないかを考えるには、自分たちの子供世代の20年先、30年先のことまでを見通さなければならない。そんなことができるだろうか?」「世間もお役所も(帰るか、帰らないかの判断を)急がさないでほしい。自分たちも悩んでいる、苦しんでいる。今は、仮の生活とは言いながらも、新しい生活を営むことに精いっぱいなのだから」。こうした彼との語らいの中で、今まで、私たちが話をうかがってきた50代、60代の方々、お年寄りとは異なる若い世代の苦悩を聞くことができた。 3日目。最終日の朝、私たちは菅野宗夫さんの牛舎の畑で始まった政府の除染作業を見に行った。自分たちでできる除染方法を開発し、昨年までは「除染は自分の手でやりたい」と言っていた宗夫さんは除染作業を見守りながらも、私たちに多くを語ろうとしなかった。宗夫さんの心の中では、言葉にならない想いが去来していたのかもしれない。 このツアーを終えた後、渥美財団とも関係の深い畑村洋太郎先生の「除染のゆくえ-畑村洋太郎と飯舘村の人々-」というドキュメンタリー番組がNHKで放映された。畑村先生と飯舘村の農民による「除染を早く、現実的に進めるための実証実験」を追ったドキュメンタリーである。この番組の中で畑村先生は、3年、30年、100年というタームを語り、3年が「コミュニティーが離散しないで元に戻れる限度」と述べている。 3年の限度が過ぎ、除染が終了し帰還できるまでにはさらに2~3年は必要だろうと言われている今日、「皆で一緒に」という言葉は力を失いつつある。これから先には、年寄りも、若者も、子供も、一人一人が置かれている状況を踏まえながら、現実を「見て」「感じて」「考えて」さらには「一人一人が、自分で判断しなければならない」という道のりが待ち受けている。これからの道のりの中で、被害者の心が萎えないことを祈るだけでなく、私たちが記憶を萎えさせないことこそが求められているのではないだろうか。 ふくしまツアーの写真 (文責:渥美財団理事 角田英一)
  • 2014.09.03

    第2回アジア未来会議報告

    2014年8月22日(金)~8月24日(日)、インドネシアのバリ島にて、第2回アジア未来会議が、17か国から380名の登録参加者を得て開催されました。総合テーマは「多様性と調和」。このテーマのもと、自然科学、社会科学、人文科学各分野のフォーラムが開催され、また、多くの研究論文の発表が行われ、国際的かつ学際的な議論が繰り広げられました。   アジア未来会議は、日本留学経験者や日本に関心のある若手・中堅の研究者が一堂に集まり、アジアの未来について語り合う場を提供することを目的としています。   8月22日(金)、バリ島サヌールのイナ・グランド・バリ・ビーチホテルの大会議場の前室には、午後のフォーラムで講演する戸津正勝先生(国士舘大学名誉教授)のコレクションから70点のバティック(インドネシアの伝統的なろうけつ染)、島田文雄先生(東京藝術大学)他による20点の染付陶器、そしてバロン(バリ島獅子舞の獅子)が展示され、会場が彩られました。   午前10時、開会式は4人の女性ダンサーによる華やかなバリの歓迎の踊りで始まり、明石康大会会長の開会宣言の後、バリ州副知事から歓迎の挨拶、鹿取克章在インドネシア日本大使から祝辞をいただきました。   引き続き、午前11時から、シンガポールのビラハリ・コーシカン無任所大使(元シンガポール外務次官)による「多様性と調和:グローバル構造変革期のASEANと東アジア」という基調講演がありました。「世界は大きな転換期を経験している。近代の国際システムは西欧によって形作られたが、この時代は終わろうとしている。誰にも未来は分らないし、何が西欧が支配したシステムに取って代わるのか分からない。」と始まった講演は、ほとんどがアジアの国からの参加者にとって大変示唆に富むものでした。   基調講演の後、奈良県宇陀郡曽爾村から招待した獅子舞の小演目が披露されました。その後、参加者はビーチを見渡すテラスで昼食をとり、午後2時から、招待講師による3つのフォーラムが開催されました。   社会科学フォーラム「中国台頭時代の東アジアの新秩序」では、中国、日本、台湾、韓国、フィリピン、ベトナム、タイ、インドネシアの研究者が、中国の台頭がそれぞれの国にどのように影響を及ぼしているか発表し、活発な議論を呼び起こしました。   人文科学フォーラム「アジアを繋ぐアート」では、日本の獅子舞とバリ島のバロンダンス、日本と中国を中心とした東アジアの陶磁器の技術、そしてインドネシアの服飾(バティック)を題材に、アジアに共通する基層文化とその現代的意義を考察しました。   自然科学フォーラム「環境リモートセンシング」は、第2回リモートセンシング用マイクロ衛星学会(SOMIRES 20)と同時開催で、アメリカ、インドネシア、マレーシア、台湾、韓国、日本からの研究者による報告が行われました。 フォーラムの講演一覧   午後6時からビーチに続くホテルの庭で開催された歓迎パーティーでは、夕食の後、今回の目玉イベントである日本の獅子舞とバリ島のバロンダンスの画期的な競演が実現し、400名の参加者を魅了しました。   8月23日(土)、参加者は全員、ウダヤナ大学に移動し、41の分科会セッションに分かれて178本の論文が発表されました。アジア未来会議は国際的かつ学際的なアプローチを目指しているので、各セッションは、発表者が投稿時に選んだサブテーマに基づいて調整され、必ずしも専門分野の集まりではありません。学術学会とは違った、多角的かつ活発な議論が展開されました。   各セッションでは、2名の座長の推薦により優秀発表賞が選ばれました。 優秀発表賞受賞者リスト   また、11本のポスターが掲示され、AFC学術委員会により3本の優秀ポスター賞が決定しました。 優秀ポスター賞の受賞者リスト   さらに、アジア未来会議では投稿された各分野の学術論文の中から優秀論文を選考して表彰します。優秀論文の審査・選考は会議開催に先立って行われ、2014年2月28日までに投稿された71本のフルペーパーが、延べ42名の審査員によって審査されました。査読者は、(1)論文のテーマが会議のテーマ「多様性と調和」と合っているか、(2)論旨に説得力があるか、(3) 従来の説の受け売りではなく、独自の新しいものがあるか、(4) 学際的かつ国際的なアプローチがあるか、という基準に基づき、9~10本の査読論文から2本を推薦しました。集計の結果、2人以上の審査員から推薦を受けた18本を優秀論文と決定しました。 優秀論文リスト   41分科会セッションと並行して、3つの特別セッションが開催されました。   円卓会議「これからの日本研究:東アジア学術共同体の夢に向かって」は、東京倶楽部の助成を受けて中国を中心に台湾や韓国の日本研究者を招待し、各国における日本研究の現状を確認した後、これから日本研究をどのように進めるべきかを検討しました。   CFHRSセミナー「ダイナミックな東アジアの未来のための韓国の先導的役割」は、韓国未来人力研究院が主催し、講義と学部生による研究発表が行われました。   SGRAカフェ「フクシマとその後:人災からの教訓」では、SGRAスタディツアーの参加者が撮影した写真展示及びドキュメンタリフィルムの上映と、談話セッションを行いました。   午後5時半にセッションが終了すると、参加者は全員バスでレストラン「香港ガーデン」に移動し、フェアウェルパーティーが開催されました。今西淳子AFC実行委員長の会議報告のあと、ケトゥ・スアスティカ ウダヤナ大学長による乾杯、2名の日本人舞踏家によるジャワのダンス、優秀賞の授賞式が行われました。授賞式では、優秀論文の著者18名が壇上に上がり、明石康大会委員長から賞状が授与されました。優秀発表賞41名と、優秀ポスター賞3名には、渥美伊都子渥美財団理事長が賞状を授与しました。最後に、北九州市立大学の漆原朗子副学長より、第3回アジア未来会議の発表がありました。   8月24日(日)参加者は、それぞれ、世界文化遺産ジャティルイの棚田観光、ウブドでの観光と買い物、ウルワツ寺院でのケチャックダンスとシーフードディナー、などを楽しみました。   第2 回アジア未来会議「多様性と調和」は、渥美国際交流財団(関口グローバル研究会(SGRA))主催、ウダヤナ大学(Post Graduate Program)共催で、文部科学省、在インドネシア日本大使館、東アジアASEAN経済研究センター(ERIA)の後援、韓国未来人力研究院、世界平和研究所、JAFSA、Global Voices from Japanの協力、国際交流基金アジアセンター、東芝国際交流財団、東京倶楽部からの助成、ガルーダ・インドネシア航空、東京海上インドネシア、インドネシア三菱商事、Airmas Asri、Hermitage、Taiyo Sinar、ISS、Securindo Packatama、大和証券、中外製薬、コクヨ、伊藤園、鹿島建設からの協賛をいただきました。とりわけ、鹿島現地法人のみなさんからは全面的なサポートをいただき、華やかな会議にすることができました。   運営にあたっては、元渥美奨学生を中心に実行委員会、学術委員会が組織され、SGRA運営委員も加わって、フォーラムの企画から、ホームページの維持管理、優秀賞の選考、当日の受付まであらゆる業務をお手伝いいただきました。また、招待講師を含む延べ82名の方に多様性に富んだセッションの座長をご快諾いただきました。   400名を超える参加者のみなさん、開催のためにご支援くださったみなさん、さまざまな面でボランティアでご協力くださったみなさんのおかげで、第2回アジア未来会議を成功裡に実施することができましたことを、心より感謝申し上げます。   アジア未来会議は2013年から始めた新しいプロジェクトで、10年間で5回の開催をめざしています。第3回アジア未来会議は、2016年9月29日から10月3日まで、北九州市で開催します。   皆様のご支援、ご協力、そして何よりもご参加をお待ちしています。   <関連資料>   第2回アジア未来会議写真   第2回アジア未来会議新聞記事(ジャカルタ新聞)   第2回アジア未来会議和文報告書(写真付き)   Asia Future Conference #2 Report (in English) with photos   第3回アジア未来会議チラシ   (文責:SGRA代表 今西淳子)