SGRAイベントの報告

  • 2025.12.25

    林泉忠「第9回東アジア日本研究者協議会パネル『戦後東アジア分断国家における祖国観』報告」

      2025年11月1日から2日にかけて韓国の翰林大学で開催された「第9回東アジア日本研究者協議会」のSGRAパネルに参加した。「戦後東アジア分断国家における『祖国観』」をテーマとし、冷戦が東アジアにもたらした地政学的な断裂と、そこから派生した多層的なアイデンティティの問題を掘り下げた。核心的な関心は、「分断国家」という特殊な状況下で、「祖国」の概念がいかに形成され、変遷し、現在まで流動し続けているのかという点にある。   東アジアにおいては台湾海峡を挟む中台、軍事境界線で隔てられた朝鮮半島、本土復帰前の米国統治下にあった沖縄と日本本土の関係など、多岐にわたる分断が存在した。国家の分断は民族の統合を求める強固なナショナリズムの運動を生み出した一方で、分断された地域が独自の歴史的・文化的文脈を形成し、ナショナルとは異なる地域的・ローカルなアイデンティティを確立する契機ともなった。本パネルでは沖縄、台湾、韓国の3つの事例を取り上げ、各々が「民族や国家の動向に翻弄され」、アイデンティティが絶えず流動化してきた共通の課題を抱えていることを確認しつつ、それぞれの特殊な状況を詳細に検討した。   最初に琉球大学の鳥山淳教授が「戦後沖縄社会の祖国像」と題し、米国の統治政策の変遷を軸に、戦後沖繩における祖国観のダイナミズムを時系列で分析した。鳥山教授は、近代日本国家へ強制的に編入され同化政策を受けながらも、太平洋戦争の末期に地上戦の最大の犠牲地となった沖縄の過酷な経験が、1940年代後半において、日本という「祖国」に対する根源的な懐疑を生み出したと指摘する。この時期には、「独立共和国」や「人民自治政府」の樹立といった、日本からの分離独立を求める主張すら生じ、国家意識が大きく動揺した。しかし、1950年代の米軍統治下に入ると、日本への帰属が歴史的な必然として捉え直され、「沖縄解放」の願望は「祖国意識」へ強力に接続されるに至る。すなわち、「祖国」は占領支配から解放されるための「希求される対象」として認識され、この強い願望は「復帰運動」として結実する。   しかしながら、1972年の本土復帰は分断時代に築かれた米軍基地の固定化という、看過し得ない「軋轢」を内包していた。基地の大幅削減や全面撤去を求めた復帰運動の敗北は、復帰の喜びの裏側で「祖国」という概念に対する複雑な感情を醸成させる。鳥山教授は1970年代以降、沖縄の課題は「祖国」たる日本本土に対し、戦争責任や基地問題という「過去の清算」を求める段階へと移行したと論じ、祖国観の多義的な性格を浮き彫りにした。   台湾中央警察大学の李明俊教授は、「戦後台湾社会の『祖国像』」に焦点を当て、台湾の祖国観が歴史的・地理的にいかに漂移性を伴ってきたかを論じた。報告ではオランダ・スペイン時代、清国統治時代、そして日本植民地支配といった多層的な支配構造を経る中で、台湾のアイデンティティは常に流動的であったことが強調された。特に日本統治時代、台湾人は日本国籍を持ちながらも「内地人」と差別され、自らを「アジアの孤児」と表現するなど、既存のナショナルな枠組みに収まらない独自の意識を形成していった。このアイデンティティの流動性は戦後初期に極点に達する。1945年、台湾人には「祖国(中華民国)回帰」への強い憧憬が存在したが、国民党政権による略奪的統治と1947年の「二二八大虐殺事件」により、この「中国祖国観」は幻滅へと転じた。さらに戒厳時期(1949-1987年)を通じて、政治的な力によって「中国祖国観」の強化が図られたが、この高圧的な統治は、かえって台湾住民と中国との文化的な疎外感を増幅させ、本省人・外省人の対立を深めた。   この反動は1980年代以降の民主化運動のなかで、国民党政権を「外来政権」と見なし、台湾人自身の政権へと転換を図る「台湾本土化(naturalization)」の原動力となる。報告では李登輝元総統の言葉を引用し、台湾における祖国観が政治的な独立性の確立と民主化のプロセスを経て、完全に再構築された様相が分析された。   国立釜慶大学の金崇培教授は、「戦後韓国社会の『祖国像』」について報告し、朝鮮半島における「戦後」概念が1945年の日本からの「解放」と、1953年の朝鮮戦争「休戦」という二つの重要な時点を内包する「複数の戦後」として捉えるべきだと強調した。教授は自身が在日韓国人3世という立場から、在日コリアンのアイデンティティ変遷(名称との関連)も視野に入れつつ、韓国社会における祖国像を考察した。近代韓国は1897年の大韓帝国成立とともに、朝鮮半島全体を一つの管轄権の下におく「朝鮮民族の国」としての祖国概念を確立したが、戦後はイデオロギーの衝突による分断体制へと突入する。韓国社会像は、「祖国の光復」と「祖国統一」という民族的な大義に強く規定されながらも、親日派や共産主義勢力を排斥・浄化しようとする複雑な過程をたどった。   特筆すべきは1991年の南北同時国連加盟が、逆説的に朝鮮半島に「二つのコリア」が存在することを国際的に承認し、統一への道のりにおける一つの大きなパラドックスとなった点である。しかし、統一への希求は止むことなく、2000年の「6.15南北共同宣言」では南側の連合制案と北側の緩やかな連邦制案が「相互に共通性がある」と認められ、漸進的な統一を志向していくことで合意が形成された。金教授は韓国の祖国像が民族の全体性という理念と、固定化された分断の現実との間で、絶え間ない緊張を強いられている現状を結論付けた。   パネルの総括と討論を担当した南基正教授(ソウル大学日本研究所)は「分断国家の祖国は何か、それは何を意味するか?」という根本的な問いを提示し、3地域が共有する構造的な課題を浮き彫りにした。沖縄、台湾、韓国が日本による植民地支配あるいは宗主国関係という「共通の歴史経験」を持ちながら、戦後においては米国との関係や政治的地位の差異から「異なる戦後経験」を辿った点を指摘した。その分析は現在の東アジアが抱える構造的な問題、すなわち、「時間軸と空間軸のズレ」へと集約される。韓国有事、台湾有事、沖縄の米軍基地問題といった安全保障上の危機が地政学的に分断状態を固定化しようとする一方で、各地域の内部では固定化に抵抗する「逆転の想像力」が生まれている。それは敵対的な「二国家」としての相互承認、あるいは台湾独立、琉球独立といった既存の国家フレームを乗り越える試みとして発現している。これらは単なる地方政治の現象にとどまらず、東アジア全体が抱える「国民国家体制の動揺と再構成」という、より大きな歴史的変動の一部であると結論付けた。   このフォーラムは、複雑化する東アジアの国際情勢と国内政治が密接に連動している現状を、マクロな視点からミクロなアイデンティティの問題まで重層的に捉え直す機会となり、過去を真摯に検証し、未来志向の平和な地域関係をいかに構築すべきか、学術的な基盤を提供する有意義な場となった。   <林泉忠(りん・せんちゅう) LIM John Chuan-Tiong> 東京大学博士(法学)。国際政治学専攻、主に東アジアの国際関係、日中台関係、台湾研究、沖縄研究。琉球大学法文学部准教授、台湾中央研究院近代史研究所副研究員、ハーバード大学フルブライト客員研究員、国立台湾大学歴史学科兼任副教授、中国武漢大学国際問題研究院教授、同日本研究センター執行主任、香港中文大学兼任教授、東京大学東洋文化研究所特任研究員、香港「明報」(筆陣)主筆などを歴任。著書に『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス:沖縄・台湾・香港』(明石書店、2005年)、『日中国力消長と東アジア秩序の再構築』(台湾五南図書、2020年)、『世界の岐路をよみとく基礎概念~比較政治学と国際政治学への誘い~』(共著、岩波書店、2024年)など。       2025年12月25日配信
  • 2025.12.25

    張桂娥「第9回東アジア日本研究者協議会パネル『現代児童文学に見る戦争の記憶と継承』報告」

      2025年10月31日から11月2日に韓国・翰林大学で開催された「第9回東アジア日本研究者協議会国際学術大会(EACJS9)」において、SGRA企画パネル「現代児童文学に見る戦争の記憶と継承」を行った。未来の子どもたちに過去の戦争体験をどのように伝承していくべきか、児童文学ができることを東アジアおよび国際的視点から再考することを目的として実施された。   第1部では、日本・中国・台湾における戦争児童文学の歴史的変遷と特徴が分析された。成實朋子氏は、前川康男『ヤン』と中国の薛濤『満山打鬼子』の日中比較を通じて日本の戦争児童文学が十五年戦争に限定されがちであること、戦地・中国を舞台にした作品が海外での受容に困難を伴う構造的な課題を指摘し、日中それぞれの受け止め方の違いを論じた。齋木喜美子氏は、沖縄戦を題材とした児童文学を取り上げ、沖縄という地で物語化が遅延した歴史的経緯を踏まえつつ、1960年代半ば以降の作品が「命(ヌチ)どぅ宝」の精神に基づき、愛国美談ではない真実の語りを追求する使命感を担ってきたことを強調し、戦後80年を迎える中での今後の語り継ぎの方向性を提示した。張桂娥氏は、陳玉金の『夢想中的陀螺』と楊雲萍の詩絵本『冷不防』の2作品を取り上げて、台湾における戦争児童文学の語りが、歴史的記録から個人的・情緒的な共感を重視する潮流へと変化していることを指摘し、子どもの想像力を通じて未来世代へ提供される価値を探求した。   第2部では、イタリア、コロンビア、ウクライナの児童文学を対象に、暴力や戦争、災害の記憶がどのように語られているかが検討された。マリアエレナ・ティシ氏は、朽木祥『パンに書かれた言葉』と、福島や広島の原爆をテーマとしたイタリア人作家の作品との比較を通じて、東日本大震災後の日本の児童文学が、第2次世界大戦の記憶を物語に組み込むことで共感を喚起する手法に着目した。フリアナ・ブリティカ・アルサテ氏は、コロンビアの武力衝突を背景とする絵本を通して、子どものトラウマの視点が「語られざる戦争」であると捉え平和教育の重要性を論じた。オリガ・ホメンコ氏は、ウクライナにおける児童文学において、ソビエト時代の英雄的な物語から、2014年および2022年の侵攻後に「身近な現実」としての戦争を描く文学が急増した経緯を説明。近年の作品は、戦争が「日常」として認識される中で、子どもの心理的な苦痛に寄り添い、現在を生き抜くための支えとなる機能を果たしている点を強調した。   戦争児童文学は過去の事実を伝えるだけでなく、感情への共鳴を通じてレジリエンス(回復力)を育む「生きたナラティブ」として機能していることを再認識できたことが今回の最大の成果である。また、児童文学研究が平和学、トラウマ理論、教育学といった学際領域と深く結びつく可能性を示せたことも今後の研究の広がりに寄与すると考える。登壇者からは、戦争を「現在進行形の問題」として子どもたちに語り継ぐ責任、被害者の視点に寄り添う平和教育の重要性、そして児童文学が持つ希望の力への確信が語られた。   登壇者およびコメンテーターの先生方から、セッションを終えての深い洞察と貴重なメッセージを頂戴したので一部ご紹介し、最後の総括とする。   成實先生:今回のパネルでは、普段聞くことのできないような話をたくさん聞くことが出来、いずれの話も大変興味深く、自分としても大変勉強になった。戦争が過去のものではなく、現在進行形で進んでいるという不幸な状況の下、児童文学の形で子どもたちに語り継がねばならないということを各地域の大人が痛感し活動していることが実感できた。   齋木先生:悲惨であればあるほど戦争の話は遠ざけてしまいがちだが、戦争を遠い過去にせず「私たちの問題」として次代の子どもたちに語り続けねばならないと痛感した。各国の作品事例から、戦争の物語が現在進行する戦争にも歴史的想像力を喚起させうることを学んだ。また抑圧や差別がいずれ大きな戦争につながることについても考えさせられた。沖縄は歴史的に「周縁」として取り扱われてきた地域だが、今後も周縁にこだわり、「どうして戦争が起きるのか」「私たちに何ができるのか」、児童文学を通して問い続けていきたい。   マリアエレナ先生:私はいっとき自分の仕事の意義、そして戦争と児童文学の関係を考察することの有用性に疑問を抱いた。しかし、私たちの研究を共有してくださった方々からのフィードバック、異なる文化圏の児童文学作品にも共通点があるのだという確信、そして何よりもオリガ先生の実体験を伺ったことによって、児童文学を研究する価値への信頼を取り戻し、今回の発表で紹介した小説の主人公たちのように、私の中にも希望が再生した。これからも、特に児童文学の価値をまだ知らない人たちに、その重要性を伝え続けていきたいと思っている。   張桂娥:今回のパネルを通じて、戦争における加害と被害の歴史を学ぶ上で、加害者側の国民が主体的に平和について学び続ける機会を確保することの重要性を改めて認識した。また同時に、被害を受けた人々が抱えてきた苦しみや経験を、児童文学という媒体を通じて国際社会へ継続的に伝えていくことの意義を強く実感した。   本パネルの実現のために世界各地からお集まりいただき、たくさんのお力添えをいただいた登壇者の先生方に、御礼申し上げます。ありがとうございました。   張桂娥報告完全版:   当日の写真:   <張 桂娥(ちょう・けいが)CHANG, Kuei-E> 台湾花蓮出身、台北在住。2008年に東京学芸大学連合学校教育学研究科より博士号(教育学)取得。専門分野は児童文学、日本語教育、翻訳論。現在、東呉大学日本語学科副教授。授業と研究の傍ら、日台児童文学作品の翻訳出版にも取り組んでいる。SGRA会員。       2025年12月25日配信    
  • 2025.12.18

    李趙雪「第19回SGRAチャイナ・フォーラム『琳派の創造』報告」

      2025年11月22日(土)午後3時(日本時間4時)より第19回SGRAチャイナ・フォーラム「琳派の創造」が北京大学外国語学院(日本文化研究所)で開催された。突然緊張が高まった日中関係のなか、参加者の温かい支えを受け、会場・オンラインのハイブリッド形式で日中両国の視聴者に同時配信した。   暖かく穏やかな天候に恵まれ、北京大学構内の未名湖や博雅塔周辺は観光客で賑わい、活気に満ちていた。キャンパスで記念写真を撮影した後、フォーラムは始まった。孫建軍先生(北京大学外国語学院)が司会を務め、主催者代表の李淑静書記(北京大学外国語学院)、今西淳子常務理事(渥美国際交流財団)、後援の野田昭彦所長(北京日本文化センター)が挨拶した。講師として日本近代美術史の研究者・古田亮先生(東京藝術大学大学美術館)、討論者には戦曉梅先生(国際日本文化研究センター)、中村麗子先生(東京国立近代美術館)、董麗慧先生(北京大学芸術学院)をお迎えした。   講演では、日本美術史において「琳派を一つの流派」と捉える言説が近代にどのように構築されたかが議論された。琳派は1615年に起源を持ち、400年の歴史があるとされている。しかし、流派の開祖である俵屋宗達や本阿弥光悦、さらには継承者とされる尾形光琳や酒井抱一は、自らを「琳派」画家と称することはなく、狩野派のような伝承関係も存在しない。明治時代の19世紀後半、海外におけるジャポニスムの中で尾形光琳が最初に注目された。その後、大正時代には個性を重視するモダンニズムの中で俵屋宗達が評価された。昭和時代の20世紀中期には、美術史学の展開や江戸絵画の再評価の中で酒井抱一の文学性が評価された。近代の異なる背景や文脈の積み重ねで「琳派」が成立した。今回の講演内容は美術史だけでなく、古田先生がこれまでに企画した琳派展の紹介も含まれており、近年では「琳派」が中国で初めて詳細に紹介されるイベントになった。   日中近代美術史・比較文学の研究者である戦曉梅先生は、日中がまだ国交を結んでいない1958年に中国で開催された尾形光琳展について紹介した。「琳派」に対する異なる視点が生み出すさまざまな評価の可能性を提起し、「琳派」がつくられた歴史の中で、「イメージの背後にある文学的想像力」が無視されている理由は、近代日本美術史の選択によるものであると指摘した。かつて古田先生の琳派展覧会を手伝った中村麗子先生は、近代の日本画家の光琳についての言説を分析し、明治中期の日本画の制作過程において、日本画家が自らの制作に正統性を求める中で、光琳が「日本」を象徴する存在となったことを指摘した。近年、若手研究者として大活躍する董麗慧先生は過去の「歴史記述」、時空を越える対話としての「芸術的伝承」、今日の「文化的生成」という3つの内容から古田先生の講演の意義について述べた。   自由討論は前回と同様にモデレーターの名手、澳門大学の林少陽先生によって進められた。林先生は E・ホブズボウムと T・レンジャー編集の英語論文集『The Invention of Tradition』(和訳:創られた伝統)を想起し、近代における一連の「創られた伝統」がナショナリズムの下で、想像上の共同体の結束力を高めるために行われたことを述べた。琳派も例外ではない。フォーラムの日本語の題名は「『琳派』の創造」であるが、それが「琳派的発明」と中国語に翻訳される理由は、The Invention of Traditionの中国語翻訳が「伝統的発明」とされるためである。その後、戦先生は「裝飾性」をはじめとする美術用語の使用、董先生は琳派の海外伝播の問題について問いかけた。中村先生は近代の美術学校が設立された後、流派が解体された状況において、画家たちが前近代の画家に私淑した問題について言及。古田先生はそれぞれの質問に丁寧に回答し、内容を深めた。   最後に清華東亜文化講座を代表して、王中忱先生より閉会の挨拶があった。王先生は自身の琳派に対する理解を述べ、グローバル化が進む今日において、芸術の流動性が実際に創造性に満ちていること、琳派の流転の中で中国に影響を与えた可能性について議論した。王先生は、毎年チャイナ・フォーラムが新しいテーマを提起することは非常に意義深いと考えており、企画・支援してきた渥美国際交流財団関口グローバル研究会に感謝の意を表し、次回への期待を寄せた。   本フォーラムは、「ラクーン(元渥美奨学生)」や陳言教授をはじめとする過去の参加者たちの熱心な呼びかけにより、参加申請者は200名を超えた。同じ日に多くのシンポジウムが開催される中、会場とオンラインで約150名の参加者が集まった。テーマの選定や質疑応答については、特に若い世代からのアンケートでも多くの好評を得た。フォーラム終了後、参加者たちは国際交流基金北京日本文化センターの野田昭彦所長や中国在住の「ラクーン」の方々と共に、大学近くのレストランで懇親会に集まった。穏やかな雰囲気の中で交流が進み、孫建軍先生の提案を受けて、皆が最近の活動や過去の興味深いエピソードを共有した。   当日の写真   <李 趙雪(り・ちょうせつ)LI_Zhao-xue> 中央美術学院人文学院美術史専攻(中国・北京)学士、京都市立芸術大学美術研究科芸術学専攻修士、東京藝術大学美術研究科日本・東洋美術史研究室博士。現在南京大学芸術学院の副研究員。専門は日中近代美術史・中国美術史学史。     2025 年12月18日配信  
  • 2025.12.11

    尹在彦「第9回東アジア日本研究者協議会パネル『宗教と漢字の視点から見る日本文化の深層』報告」

      2025年10月31日から3日間、韓国・翰林大学にて「東アジア日本研究者協議会第9回国際学術大会」が開催された。私たちのセッション「宗教と漢字の視点から見る日本文化の深層」は、大会2日目の午前9時より1時間半にわたり行われた。   セッションは日本文化の深層を形成する宗教、特に仏教の現状と、日中における漢字観の比較が主要なテーマで、私は企画および司会を担当、宗教については磯部美紀氏(親鸞仏教センター)が、漢字については陳希氏(中央大学)が研究報告を行った。各報告に対しては、松本悠和氏(京都府立大学)および賈海涛氏(神奈川大学)がコメントを担当した。なお、陳氏は大会直前に急遽参加が難しくなったものの、動画配信によって支障なく報告できた。   磯部氏は「現代日本における宗教者とナラティブ」というタイトルで現代日本の葬儀における浄土真宗の僧侶による「法話」に焦点を当て、そのナラティブ(語り)が「死者と生者」の関係にどのような影響をもたらすかを、千葉県A市の「R寺」での事例を通して分析した。   家族構造の変化や檀家制度の弱体化により僧侶の役割が見直される中、R寺の住職は、通夜の場などで遺族との相互行為(傾聴と法話)を通じて故人の生涯を多面的に再構成する。法話の内容は、死者を単に「失われた存在」としてではなく、「教えを届ける仏弟子」「これからの生を導く存在」として、新たな文脈に位置づけ直す機能を持つ。これにより、死別を「関係の断絶」ではなく「関係の変化」として捉え直し、死者をも含めたアクター間の関係性を更新すると指摘した。   このナラティブによる再構築は、死者と生者間のコミュニケーションを拡張するもので、日本文化における死生観の一端を示唆する。欧米の「自律性」重視の死生観とは異なり、死者は関係の網の目から排除されることなく、「継続する絆」として相互依存の関係を保持し続ける。 陳氏は「方法としての漢字―1950年代の日中漢字論―」で、中国の歴史学者・唐蘭と日本の言語学者・河野六郎を取り上げ、両国における漢字観の比較検討を行った。1950年代を中心に、近代的言語観への疑問からどのような認識変化が生じたのかを探ることが主眼だ。   報告によると、唐と河野は西洋言語学が前提とする音声中心主義に対して、文字を思考形式・文化表現として再評価し、「言語の下位概念としての文字」ではなく、文字そのものを独立した学問として位置づける「文字学」の確立を志向していた。ただ、焦点は異なり、唐が漢字における音と義の調和を強調したのに対し、河野は視覚的思考の媒体としての文字の役割を重視した。   また、唐が実践的改革者として活動したのに対し、河野は理論構築者としての側面が際立っていた。これらの相違は、両国の社会や時代背景の影響によるものと考えられる。このように、漢字文化圏に属する両国の学者たちは、日常的な文字体系としての漢字の可能性を改めて見出し、文化の深化に寄与しようと模索していたことが浮き彫りになった。   続いて討論が行われた。松岡氏は、磯部氏の研究における「法話」の機能の再定義、すなわち、死者と生者の関係を結びなおす共同的営みとしての意義を評価しつつ、研究アプローチの妥当性や「法話」のナラティブとしての射程(宗派固有性と日本文化に共通する要素)、さらに「法話」が本来的には教化(教導)である点から、相互行為として捉える際の限界や検討の余地があることを指摘した。賈氏は陳氏の報告に対し、1950年代の議論にとどまらず、現代における漢字観の変容やデジタル環境下での文字の役割といった観点を踏まえて再検討する必要性を提示した。   会場参加者は多くはなかったものの、最後まで熱心に耳を傾けていた。両研究報告を通じ、日本文化の主要要素としての宗教や漢字について改めて考える貴重な機会になった。テーマの専門性が高いながらも、報告者と討論者の的確な議論の展開により、参加者が理解を深めやすい構成となっていた点も本セッションの成果として挙げられる。最後までスムーズなパネル進行にご協力いただいた報告者および討論者の皆様に、心より御礼申し上げたい。   当日の写真   <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jaeun> 東洋大学社会学部メディア・コミュニケーション学科准教授。延世大学(韓国)社会学科を卒業後、経済新聞社で記者として勤務。2021年、一橋大学大学院法学研究科にて博士号(法学)を取得。同大学特任講師、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所非常勤講師などを経て2025年、現職。渥美国際交流財団2020年度奨学生。専門は国際関係論およびメディア・ジャーナリズム研究(政治社会学)。
  • 2025.12.11

    閻志翔「第9回東アジア日本研究者協議会パネル『東アジアからみた日本美術―外来文化輸入の再検討―』報告」

      「東アジア日本研究者協議会第9回学術大会」は、2025年10月31日から11月2日にかけて、韓国春川市の翰林大学で開催された。発表者4人、司会者1人、討論者1人の構成で「東アジアからみた日本美術―外来文化輸入の再検討―」をテーマにパネル発表を行った。   古くから日本文化は外来文化の影響を受けてきた。特に近世までは、中国を中心とした大陸からの影響が強く認められる。しかしその受容は外部から日本へ、という一方的なものではなく、常に重層的な様相を示している。日本における外来文化の移植と変容の考察は、東アジアの中に日本を再定位することに繋がる。本パネルでは、主に飛鳥時代から平安時代までの日本の美術が外来の影響を受け入れる独自の姿勢に焦点を絞った。発表する4人は中国、台湾、日本の若手研究者で、それぞれ彫刻、絵画、書法、染織の作例を取り上げ、東アジアという広域の視点から、外来文化の輸入における日本の主体性を議論した。   本パネルは2日目の最初のセッション(9:00〜10:30)で、司会は武瀟瀟(東京文化財研究所)が担当し、討論者には王雲教授(中央美術学院人文学院)を迎えた。発表は時代順に決めた。馬歌陽(復旦大学):「5~7世紀弥勒菩薩像の坐勢についての再考―東アジアの半跏倚坐像を中心に―」。廣谷妃夏(東京国立博物館):「日本製緯錦の特質に関する一試論」。閻志翔(京都大学):「神変からみた東大寺大仏蓮弁線刻画」。陳雪溱(東京大学):「桓武・嵯峨朝における王羲之受容論再考―入唐僧の請来書跡との関わりから―」。   馬歌陽氏は5〜7世紀東アジアにおける半跏倚坐の弥勒菩薩像を取り上げ、思惟相と施無畏印という2つの主要な表現型の成立を検討した。日本・朝鮮半島・中国およびインドの造像例を考察した結果、思惟相の弥勒像は、インドのガンダーラやマトゥーラ地域から伝わるもので、当初「弥勒」と直接的に関連するものではなかったが、後に東アジアにおいて弥勒菩薩としての意味を帯びるようになった一方、施無畏印の弥勒像は、中国において初めて弥勒菩薩と結びついた形態である可能性が高く、6世紀半ば頃現われるようなったと指摘した。いずれも弥勒菩薩の成道への道程や、内面的な修行、または衆生を救う誓願を示しており、これらは、単に一つの固定的なイメージではなく、複数の側面を持つ多義的な存在としての弥勒を反映していると述べた。   廣谷妃夏氏は7世紀以降、東西ユーラシア大陸全体に広まった緯錦(複様綾組織緯錦)に着目し、特に日本製緯錦の特質を検討した。奈良時代、錦綾などの高級織物生産は律令制に組み込まれた。法隆寺や東大寺正倉院に伝わった染織品の中には、中国からの輸入品のほか、この日本製の緯錦が多く含まれているとみられ、先行研究では、主に紋様表現や類例の多寡から判別されてきた。廣谷氏は日本古代の錦類を調査した成果をもとに、ユーラシア大陸の東西の出土品との比較を行い、紡織技術の地域的差異により、同じ複様綾組織緯錦であっても糸質や表現の細部は異なると新たに指摘した上で、日本製緯錦の特徴を明らかにした。   私(閻志翔)は東大寺大仏台座蓮弁の請花に刻まれた線刻画(天平勝宝8歳〔756〕8月から翌年正月までの間に制作)を取り上げ、図様の典拠を考察した。蓮弁線刻画の図様が『梵網経』に説かれる世界観とよく一致しており、鑑真来朝に伴う『梵網経』重視の影響が及んでいると早くに指摘されたが、本発表は、蓮弁線刻画の独特な図様を『華厳経』「十地品」に説かれる第十地に至った菩薩の神変によって新たに解釈し、第十地の菩薩の神変と『梵網経』の世界観が蓮弁線刻画に重層的に表現されていると述べた。そして、このような日本における『梵網経』受容の独特な様相は、東大寺の華厳思想の底流とされる「十地思想」を背景としたものであると指摘した。   陳雪溱氏は平安前期における王羲之書風の受容と変貌について再考した。平安時代の桓武・嵯峨朝における入唐僧の請来品や正倉院の出蔵記録といった史料に基づき、現存する尺牘、銘文、勅額、仏教関連文書などを照合・分析することによって、空海と最澄が請来した書跡や拓本は初唐期に規範化された様式に関連しており、特に王羲之様式については、唐代宮廷において集積された王羲之遺墨を基盤に再編集された「集王行書」様式の作品が請来品に含まれていたと推察した。一方で、東アジア全域を視野に入れ、平安前期における天皇権威と文化的受容の関連性について多角的に分析し、唐代から伝来した書風の展開や王権形成の過程における規範の在り方を明確に示した。   発表後、王雲先生がそれぞれにコメント・質問した。馬氏に対しては、発表で取り上げた弥勒像の坐勢は一般的に「半跏坐」と呼ばれているが、今回の発表で弥勒像の坐勢を「半跏倚坐」と呼ぶ理由について説明を求めた。私には「神変」に関する仏教思想史の研究成果をそのまま援用するのではなく、今後は仏教原典に基づき、美術史の視点から「神変」に対する全面的な考察を進めてほしいとコメントした。廣谷氏には、日本製の錦の糸質が異なることは理解したが、地域ごとに糸や技術に傾向が見られる点にはどのような背景が考えられるか、地域により異なる根拠は何であるか説明を求めた。最後の陳氏に対しては、正倉院所蔵の光明皇后「臨楽毅論」は、一般に知られている王羲之拓本の典型的な書風とはやや異なっており、両者の関連性が分かりにくいように思われるが、それらの異同について、具体的な説明を求めた。後半は王雲先生からのコメント・質問に対して、発表者がそれぞれ答える形で自由討論が行われた。   最後にフロアからのコメントも受けた。当日、会場には東北大学特任教授の長岡龍作先生がいらっしゃった。長岡先生からは、各発表では「作品と人との関係性」が見えないとの指摘があり、今後、「この作品は私に何をしてくれるか」という視点から、研究を進めてほしいとのご助言をいただいた。   本パネルは古代の日本美術を中心に、彫刻、絵画、書法、染織という多様な研究領域から日本美術にみられる外来文化の輸入を再検討した。若手研究者らは新たな成果を提示し、有意義な発表会となった。終了後、王先生、長岡先生を囲んで参加者全員が会場内に設けられたカフェで議論をさらに深めることができた。また、午後に全員で国立春川博物館を見学できたことも有意義な時間となった。   当日の写真   <閻志翔(えん・ししょう)YAN Zhixiang> 中央美術学院人文学院美術史専攻学士、東京藝術大学大学院美術研究科芸術学専攻日本・東洋美術史研究分野修士、同大学院美術研究科美術専攻芸術学研究領域(日本・東洋美術史)博士。2021年4月〜2023年9月、日本学術振興会特別研究員(DC2)。2024年度渥美奨学生。現在、京都大学人文科学研究所外国人特別研究員。
  • 2025.11.26

    洪玧伸「第78回SGRAフォーラム『沖縄から<アジアのジェンダーと暴力>につながる可能性を探るということ―戦前、戦後の時間軸では問えない日常から問いかけを中心に-』報告」

      はじめに:戦後80周年という時間軸への「違和」   戦後80周年の2025年は、皮肉にも現在進行中の戦争報道に最も頻繁に接した年となった。この「時間軸」への「違和」がまさに、SGRA主催の第5回アジア文化対話が沖縄で開かれた第一の理由であろう。沖縄大学との共催で、「アジアにおけるジェンダーと暴力の関係性」をメインテーマとし、専門家や活動家のパネリストで構成された4つのセッションが設けられた。会場には沖縄市民を含む100人以上、Zoomでは200人余りが参加した。   問いの始まりとしてー基調講演「暴力に抗する『他者』の眼差し」   基調講演は『戦場の記憶』(2006年)で著名な冨山一郎(同志社大学教授)によるものであった。冨山は沖縄で繰り返される性暴力問題に抗して活動する高里鈴代が「何度東京に来て同じ話をすればいいのか」というつぶやきに出会った時を振り返る。3人の米兵による少女レイプ事件(1995年)に対する怒りで8万5千人の県民大会が行われた沖縄からの声を、高里は「東京」に届けようと奮闘していた。冨山が述べる「戦場」が、高里の「何度言えばいいのか」というつぶやきや、語っても、語っても言葉が届かない状況から始まることは大切である。   「何を言っても無駄」という状況にかかわる「暴力」そのものへの富山の洞察は「毎日の陳腐な営み」から「往復運動」として戦場を発見する眼差し、つまり平時/戦場、戦中/戦後、の二分法を超える眼差しであり、自身の身体感覚から始まっている。二分法を超えるためには、他者との関係の中に設定されている「実践」の領域が前提に置かれているのは言うまでもない。   交差する差別とジェンダー   第2セッションでは、沖縄とインドネシアからの活動家や研究者が戦争、紛争下の暴力「後」にどのような差別が温存され、それに抗する言葉を探るために女性たちはどのような「実践」連帯や活動を展開できるのかを議論した。   まず、高里によって沖縄戦や戦後の米軍基地化の現状、復帰後も続く基地拡散の状況が、いかに女性の生き方に影響していたのかが語られた。「近代への道」の中で「琉球人」から「沖縄人」にならなければならず、差別を温存したまま進めた沖縄の歩みが、沖縄戦を経て、さらに「日米政府」による27年間の占領期にどのように構造的な差別へ繋がっていったのか。特に、「日本人」対「琉球人」の潜在する対立を利用しようと、米軍が作成した「民事ハンドブック」や、繰り返し行われていた米兵による性犯罪やそれを可視化できなかった歴史を語った。   復帰以前の沖縄では、ベトナム戦争や冷戦構造の激化を背後に、土地の強制接収や性犯罪、人権蹂躙が繰り返された。同時期、インドネシアでは約50万人から300万人とされる民間人が警察や国家暴力の犠牲となった。1965年以降続いた「赤狩り」を掲げた大量虐殺には、多くの女性と子どもが含まれている。2人目の発表者、作家のIntan Paramaditha(マッコーリー大学)は組織的に標的とされ、強制的に解散された「Gerwani(ゲルワニ)インドネシア女性運動」以降、どのように女性たちが、歴史から抹消・排除された女性たちの存在を記憶し、継承していこうとしているのかを報告した。興味深いのは、インドネシア群島の横断的なフェミニスト集団「女性思想学校」が、男性中心、家父長制中心の言葉概念を転覆して再定義し、「ワリス(相続)」は、家父長制的な財産移転の概念から、植民地主義と資本主義の相続論理に異議を唱える言葉となった。   本セッションでは、人種に基づく「他者化」や、それを利用した植民地主義・帝国主義・軍事主義の暴力構図の連鎖を、沖縄やインドネシアの歴史的文脈によって語り、それに立ち向かう言葉をどのように模索してきたのかを検討した。それは具体的な「活動の現場」の声をも含んだものだった。   戦争とジェンダー   第3セッションを一言でいうならば、「無化された存在」から問う「戦争とジェンダー」といえる。山城紀子(フリージャーナリスト)は「沖縄戦・米軍統治下の福祉と女性」と題して、沖縄戦後日本と分類され米軍占領下の沖縄で行われた福祉政策の影を語った後、Jose Jowel Canuday(アテネオ大学)が「平和の最後の数マイル:ミンダナオ島ザンサモロ地域のジェンダー化された最前線における長期戦争の後に何が起こるのか」という発表を行った。   山城が注目したのは、圧倒的な「恐怖」によって身内を殺してしまった痛みを「語る」ことの苦しみである。「我が子」を助けることが出来なかった「母親」たちの体験を含む沖縄戦の語りが公式の場に浮上したのは、沖縄で死者が神様になると言われる33回忌、つまり1977年以降だった。「法」によって守られない人々も「福祉」の面においては「本土並み」を掲げられるようになり、無国籍児男性のように、何処にも属さずにブラックボックスの中で生きているような人々を生み出す。こうした「戦争」の足跡は、依然として現在進行形であることが示された。   Canudayは、ミンダナオ島で半世紀も続く「戦争」状況における「ジェンダー化」された日常に焦点を当てる。銃後を支える役割を女性に任された村社会は、避難や紛争により自然災害に備えることが出来ず、洪水や干ばつ被害を余儀なくされる。農業中心の生産構図を保つ事が出来ず、子どもの栄養失調の高さに影響を及ぼす。1970年代には、バンサナモ地域は分離主義勢力の拠点および東南アジアで活動するテログループの潜伏地と報告され、アメリカのグローバルな対テロ戦争の警戒地域に設定された。   本セッションのポイントは、「戦争とジェンダー」が2025年現在、私たちのすぐ近くに存在している点である。無国籍児にしてもバンサナモの状況にしても、目に見えない形となっている人々への暴力は現在進行形で、特定の人々の移動する権利を奪い、教育を受け、就職し、住まいを構える当たり前の「日常」を制限している。   多様性からなる提言、一枚岩ではないアクションを探って   最後のセッションは活動と未来に焦点を当てたパネルで、20代の大学生、活動家が中心となって議論する場として設定された。沖縄で繰り返される米軍による性犯罪、その基地暴力の問題を国連の女性の地位委員会に訴えた沖縄キリスト教学院大学の在学生(徳田彩)・卒業生(松田明)が経験から学んだものを中心に報告した。沖縄大学の在学生(中塚静樹)は、沖縄戦体験者とのかかわりの中で学んだもの、沖縄に住む大学生として日々の学びのなかで感じた問題認識を発表した。さらに、同年代のタイの学生活動家Memee Nitchakarnが、軍事クーデターや戒厳令が繰り返し行われ、民主化運動のさなかにあるタイの状況を報告した。   若者たちの発表の後、第1、第2セッションで発表した沖縄の活動家たちから、30年前に国際の現場で沖縄戦から米軍基地に連なる暴力の現状を訴えた経験などのコメントが相次いだ。登壇者の大学生たちからは「戦争の記憶が薄れていく中で、若者たちへ寄せられる『頑張ってね』という言葉は時には励みではなく重荷に感じる」との本音が発せられた。この涙ぐんだ若い大学生のつぶやきが、まさに、「暴力に抗する他者の眼差し」と題した基調講演での冨山の問題提起に戻り、私たちへ省察を促したような気がする。私たちが語っている言葉が、実は暴力にさらされている人々を黙らせ、「言葉が後方に退き暴力がせりあがってくる状況」を容認しているかも知れない。   今回のシンポジウム自体が、時間軸では取り上げられない<戦後>という提起、それをジェンダー視点で議論していくという多少無謀に近い挑戦であったが、沖縄という<場の力>によって一つの言霊ははっきり共有されていったのではないか。登壇者が提起する「暴力」から、身の回りに起きている様々な状況に思いをめぐらし、「暴力」が表れる際の類似性に驚きながら、一定の緊張感を保ちながら聞いて、感じて、考えさせられる場となった。   当日の写真   報告文のフルバージョン 洪玧伸「沖縄から『アジアのジェンダーと暴力』につながる可能性を探るということ」   <洪玧伸 (ほん ゆんしん) HONG Yun-shin> 韓国ソウル生まれ。早稲田大学で博士号(国際関係学)を取得。現在、沖縄大学人文学部国際コミュニケーション学准教授。著書に、『沖縄戦場の記憶と「慰安所」』(インパクト出版会、改訂版2022年)Comfort Stations as Remembered by Okinawans during World War II (Brill、2020)、共著に『戦後・暴力・ジェンダーⅠ:戦後思想のポリティクス』大越愛子・井桁碧編(青弓社、2005年)『戦後・暴力・ジェンダーⅢ:現代フェミニズムのエシックス』大越愛子・井桁碧編(青弓社、2010年)『現代沖縄の歴史経験』森宣雄・冨山一郎編(青弓社、2010年)編著に『戦場の宮古島と「慰安所」-12のことばが刻む「女たちへ」』(なんよう文庫、2009年)、などがある。沖縄の歴史とジェンダー、日本軍「慰安婦」問題、戦時性暴力などを専門とし、多角的な視点から研究を進めている。
  • 2025.11.20

    郭立夫「戦後80年に咲く花:宮古島スタディツアー活動報告」

      2025年9月11日から16日にかけて、沖縄の地で「第78回SGRAフォーラム/第5回アジア文化対話/第611回沖縄大学土曜教養講座」が、「アジアにおけるジェンダーと暴力の関係性」のテーマで開催されました。今回のエッセイでは、印象に残った14日からの宮古島スタディツアーの報告をします。   今回のスタディツアーは、SGRAによる「第5回アジア文化対話」の一環として、戦後80周年という歴史的な節目に実施されました。世界各地から集まった研究者や活動家たちが、二度と戦争と暴力を繰り返さない未来を希求しながら、沖縄という地で対話と学びを深めるかけがえのない機会です。舞台となった宮古島は、沖縄本島から南西に約300km離れた位置にある離島で、太平洋戦争末期には地上戦こそ免れたものの、日本軍による飛行場建設や住民の強制疎開が行われ、朝鮮人労務者や「慰安婦」とされた女性たちが多数送り込まれた場所でもあります。戦後は米軍統治を経て、現在では自衛隊の基地が次々に建設されるなど、南西諸島防衛の最前線として軍事的要所となっています。   ツアーを企画した沖縄大学の洪玧伸(ホン・ユンシン)先生は、長年にわたり宮古島をフィールドとして慰安婦の記憶を丹念に辿ってきた研究者です。その洪先生の案内のもと、慰安婦たちが日常的に歌っていた「アリラン」の歌声をたどりながら、草むらの奥に眠る小さな井戸や忘れ去られた碑を一つひとつ訪ね、80年前の歴史と静かに向き合う旅となりました。島内をバスで移動する際にはいくつもの自衛隊施設の前を通り、その急速な軍事化の進行を肌で感じました。その景色からは、島の人々が日常的に戦争や暴力の影と隣り合わせに生き、必要とあらば国家に見捨てられ、いわば「disposable(廃棄されうる存在)」としての不安を抱えている現実が浮かび上がりました。80年前に終わったはずの戦争、あるいは冷戦という過去のはずの出来事が、ここ宮古島ではいまだに現在進行形の問題として存在している、そんな実感を胸に刻む体験となったのです。   参加者はまず宮古島市平良の公民館で開催されたシンポジウムに出席しました。オランダから参加した近代東アジア史の研究者K・W・ラドケ氏と韓国で長年慰安婦問題に取り組んできた梁絃娥(ヤン・ヒョナ)氏が講演し、戦時中宮古島に連行された女性たちの証言調査や、現在の東アジアにおける軍事化とジェンダー問題について報告がありました。地元の聴講者も交え、活発な意見交換が行われ、宮古島でこのような国際対話の機会が持たれた意義を実感しました。   シンポジウムの後、宮古島の「アリランの碑」の前で、地元の定例行事となっている「慰霊と平和を祈念するつどい」に参加しました。この「アリランの碑」は、かつて宮古島に連れてこられた朝鮮人「慰安婦」たちの記憶を刻むものであり、碑文には日本語や韓国語、英語を含む12か国語で平和への祈りが綴られています。当時、故郷を想いながら日々「アリラン」を口ずさんでいた女性たちの歌声は、やがて島民の耳にも親しまれ、宮古島独自の旋律や歌詞をもつ「アリラン」として受け継がれるようになったと伝えられています。慰安所など実際の「歴史的証拠」がない今では、この宮古島のアリランの歌は慰安婦の存在を証明する「文化的証拠」となったのです。世界各地から集まった参加者たちは、碑の前で静かに手を取り合い、「アリラン」を歌い、平和への祈願を言葉にして交わしました。歌声は時を超え、国境を越えて共鳴し、参加者の胸に深く刻まれる時間となりました。このような記憶の共有と祈りの場は、戦争の傷跡を風化させず、アジアの平和と共生を目指す実践のひとつとして、強く心に残るものでした。   その後、バスは島内を巡りながら、現在の宮古島における自衛隊配備の状況についても案内がありました。近年、陸上自衛隊のミサイル部隊が新設され、島の一角にはミサイル庫やレーダー施設が築かれています。緑豊かなサトウキビ畑の中に突如現れる軍事施設のフェンスを目にし、遠い戦争の記憶が現在の軍事化につながっている様子が肌で感じられました。   15日には、島内各地に残る戦争遺跡をさらに訪問しました。朝鮮人軍夫(従軍労務者)たちが過酷な労働の末に掘り抜いたというピンプ嶺の地下壕跡や、「慰安婦」たちが水汲みに使ったという井戸跡、通称「ツガガー」などを見学しました。雑草に覆われた小高い丘にひっそりと口を開ける井戸を覗き込み、戦時中ここで喉の渇きを癒やされた名も知らぬ女性たちの姿に思いを馳せました。宮古島と隣接する伊良部島を結ぶ全長3.5kmの伊良部大橋を渡り、下地島空港の西側に広がる海岸にも立ち寄りました。沖縄県が管理する同空港は元々パイロット訓練用に建設された滑走路ですが、地政学的に、また近年の国際情勢を受けて、一部軍事利用の可能性も取り沙汰されています。2019年に新ターミナルが開業して定期便が就航してからは利用者が急増していますが、地元では環境保護と観光振興の観点から慎重な議論が続いているとのことで、私たちは透き通る青い海を眺めつつ、平和な島の暮らしを守ることの難しさについて考えさせられました。   一連のフォーラムとフィールドワークを通じて、参加者たちはジェンダーと暴力という問題を多面的に捉え直す貴重な体験を得ました。沖縄という土地で直面した過去と現在、戦争の被害、基地による犠牲、環境破壊への懸念など、それらを実際に見聞きしたことで、机上の議論では得られないリアルな実感が伴いました。戦場の暴力は今も続くグローバルな課題であり、ジェンダー視点が欠かせないとの問題意識が、肌感覚をもって腑に落ちたと言えるでしょう。各国から集った参加者同士の対話を通じ、文化や立場の違いを越えて共感し学び合うことで、暴力の連鎖を断ち切るヒントが見えてきました。とりわけ、宮古島の「アリランの碑」で皆が手を取り合い歌ったひとときは、過去の犠牲を無駄にせず未来の平和を築くために連帯することの大切さを象徴していたように思います。   終わりに、私が心に深く残している小さなエピソードを一つご紹介したいと思います。2025年5月、下見のために宮古島を訪れた際、私はアリランの碑のすぐ隣に、美しく鮮やかな赤い花を咲かせる木を見つけました。地元ガイドの清美さんによれば、この木は今から20年前、アリランの碑が建立されたときに地元の人々によって植えられました。ところが、それ以来一度も花を咲かせたことがなかったといいます。その木が、まさに戦後80周年という節目、そしてSGRAの参加者たちがこの地を訪れる直前のタイミングで初めて花を咲かせていたのです。その姿は、宮古島の土に静かに眠る記憶が、大地を通して鮮烈な色彩となり、私たちに語りかけているかのようでした。「忘れてはいけない」という声なき声が、自然の中に確かに息づいているように思えました。風に揺れるその花に向けて、戦後80年を越えても、この記憶と願いが咲き続けるように。   当日の写真   <郭立夫(グオ・リフ)GUO Lifu> 2012年から北京LGBTセンターや北京クィア映画祭などの活動に参加。2024年東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻で博士号を取得。現在筑波大学ヒューマンエンパワーメント推進局助教。専門領域はフェミニズム・クィアスタディーズ、地域研究。研究論文に、「中国における包括的性教育の推進と反動:『珍愛生命:小学生性健康教育読本』を事例に」小浜正子、板橋暁子編『東アジアの家族とセクシュアリティ:規範と逸脱』(2022年)、「終わるエイズ、健康な中国:China_AIDS_Walkを事例に中国におけるゲイ・エイズ運動を再考する」『女性学』vol.28, 12-33(2020 年)など。
  • 2025.11.13

    張桂娥「第12回日台アジア未来フォーラム/2025年東呉大学東アジア地域発展研究センターUSR国際シンポジウム~大学と地域社会の未来をめぐる日・台・欧の対話~報告」

    2025年10月17日、台湾・台北市の東呉大学外雙溪キャンパスにて、同大学東アジア地域発展研究センターとの共催で「第12回日台アジア未来フォーラム/2025年東呉大学東アジア地域発展研究センターUSR国際シンポジウム」が開催された。   「大学と地域社会の未来」をテーマに、グローバルな潮流のなかで再定義される大学の社会的責任(University Social Responsibility, USR)を、台湾、日本、そして欧州の知見から、教育・研究・地域連携の多角的な視点で再考することを目的とした。オンライン併用で実施され、各地から多様な研究者・教育関係者が登壇。北海道ニセコ町教育委員会や地域コミュニティ訪問団をはじめ、東呉大学教職員・学生ら延べ100名を超える聴衆が参加し、活発な質疑応答が交わされた。 開会式では、東呉大学の王世和副学長が歓迎の辞を述べ、大学が地域社会に積極的に関わる意義を強調した。続いて、SGRA代表の今西淳子氏が2011年以来のフォーラムの歩みを振り返りながら、台湾側との長年の協働と友情に深く謝意を表した。最後に東呉大学外国語学部長であり東アジア地域発展研究センター長を務める羅濟立教授が、学術と地域実践をつなぐ新たな連携モデルへの期待を語った。   基調講演   午前のセッションでは、麗澤大学大学院の山川和彦教授が「地域社会の持続と観光学2.0 ― 共創するまちづくりに向けて」と題して基調講演を行った。座長は徐興慶講座教授(東呉大学)が務めた。 山川教授は、観光を単なる経済振興の手段としてではなく、文化・環境・教育を結ぶ「共創的学習の場」として再構築する「観光学2.0」の視点を提示した。現代社会が抱える環境問題や地域格差、文化継承といった複合的課題に対して、大学は知識の提供者にとどまらず、地域と共に学び、共に課題解決を探る「共創的学習のプラットフォーム」としての役割を果たすべきであると力説した。特に、地域住民・行政・大学が対等な立場で地域価値を創り出す「学びの循環モデル」の意義を、千葉県や北海道などでの実践事例を交えて紹介。地域資源の再発見と住民主体の物語づくりを支援する大学の新たな関与の形を提案した。   徐教授は「山川教授の議論は、観光を『学問』としてだけでなく、『地域の人々と共に未来を構想する実践の知』として捉える重要性を示した」と総括。台湾各地で展開されている大学のUSR活動との親和性を指摘し、「日本と台湾がそれぞれの地域で積み重ねてきた実践を往還させることが、アジアにおける共創型地域学の新たな可能性を開く」とコメントした。   招待講演   午後は二つの招待講演が行われ、大学の地域貢献および国際的な社会連携の実践について多面的な報告を行った。   国立台湾海洋大学・楊名豪助理教授   楊助理教授は「国境を越える関係人口の創出―日台大学協働の試み」と題し、日台の大学が連携して地域社会と関わる実践例を紹介。特に北海道ニセコ町と台湾北部地域を結ぶ地域創生プロジェクトを中心に、学生が現地調査・交流・共同企画に主体的に参加する「体験型USR教育」の具体的な成果が報告された。 大学の教育機能と地域貢献を融合させたカリキュラム設計が、学生の主体性をいかに引き出し、地域に新たな視点を提供したかを詳細に解説。自治体・企業・市民団体との円滑な協働プロセスも具体的に示された。楊助理教授は、大学が越境的な「関係人口」形成の媒介として、文化や経済の交流促進において重要な役割を担うことを強調し、継続的な国際協働の意義を提示した。   オックスフォード大学・オリガ・ホメンコ博士( Olga Khomenko)   続いて行われたオンライン講演では、オリガ・ホメンコ博士(オックスフォード大学グローバル地域研究学科)が「Universities as Civic Actors: Lessons from Ukraine and Europe for Taiwan」と題した発表で、ウクライナおよび欧州各国における大学の「シビック・エンゲージメント(市民的参画)」の事例を比較分析し、大学が社会の信頼と民主的価値を支える「市民的主体」として機能している現状を示した。 特に戦争下のウクライナでは、大学が人道支援や避難者支援の拠点となり、知識の場であると同時に「生存と連帯の拠点」として地域を支えているという特異な事例を紹介。また、英国やベルギー、フランス、ドイツ、スウェーデンなど各国の大学が、市民参加型の教育、地域開発、SDGs推進といった多様なモデルで社会的役割を拡大している事例分析を踏まえ、「大学はもはや中立的存在ではなく、社会に根ざした公共的機関である」と結論づけた。その上で、台湾の大学がこれらの欧州における「市民的主体」としての国際的経験を活かし、長期的かつ体系的な市民連携モデルを構築する可能性に言及した。   パネルディスカッションと実践的交流   パネルディスカッションでは、東呉大学王世和副学長を座長に、同大学汪曼穎教授(心理学科)、張綺容副教授(英文学科)、李泓瑋助理教授(日本語文学科)、施富盛助理教授(社会学科)が登壇。「USRの現況と展望―マクロからミクロへ」をテーマに、東呉大学が士林・北投地域で展開している多様な地域連携活動を題材に議論が進められた。登壇者からは、心理学的支援、社会調査、言語文化交流など、各専門分野における分野横断的な実践が具体的に報告された。学生の主体的参加を促す教育方法や、地域パートナーシップの持続性を確保するための財源・組織運営モデルなどが詳細に検討され、大学と地域社会のより強固な連携に向けて活発な意見交換が行われた。 フォーラムには、北海道ニセコ町教育委員会および地域代表団のメンバーも会場で参加し、教育現場や地域活性化に関する具体的な意見交換や助言がなされた。質疑応答では、参加者から大学と地域社会の協働の在り方や行政との連携枠組み、次世代育成への波及効果など、多角的な質問が寄せられ、終始熱気に包まれた議論が展開された。   総括と展望   閉会式には中央研究院の藍弘岳研究員(渥美国際交流財団台湾同窓会会長)および本フォーラムの企画・運営を担った張桂娥副教授(東呉大学日本語文学科・東アジア地域発展研究センター諮問委員)が登壇。渥美財団台湾奨学生のこれまでの社会貢献の歩みを紹介するとともに、それぞれの所属機構が地域社会の信頼と連携の要として果たしてきた努力と成果を温かく振り返った。 また、学術研究と社会実践を結びつけることの現代的意義を改めて共有し、台日双方の参加者・関係者への深い感謝を込めつつ、今後も国際的ネットワークを通じて学び合い、共に成長していくことを呼びかけた。   今回のフォーラムは、台湾、日本、欧州という異なる地域を結びつけながら、大学の社会的責任を「共創」「市民的主体」「越境的連携」という新たな視点から再定義し、地域創生・市民連携・国際協働の新たな地平を開いた点で極めて大きな意義を有する。渥美国際交流財団は今後も、大学・地域・市民社会のあいだに生まれる知の循環と実践の連携を力強く支え、アジアにおける持続可能な学術文化の発展に寄与していくつもりだ。   当日の写真   <張 桂娥(ちょう・けいが)Chang_Kuei-E> 台湾花蓮出身、台北在住。2008年に東京学芸大学連合学校教育学研究科より博士号(教育学)取得。専門分野は児童文学、日本語教育、翻訳論。現在、東呉大学日本語文学科副教授。授業と研究の傍ら、日台児童文学作品の翻訳出版にも取り組んでいる。SGRA会員。
  • 2025.10.10

    イドジーエヴァ「沖縄スタディツアー報告―普天間から辺野古・大浦湾へ―」

    第78回SGRAフォーラムの一環として実施されたスタディツアー「普天間から辺野古・大浦湾へ」に参加した。沖縄が抱える歴史的背景と米軍基地問題、そして環境や人権をめぐる課題を実地に学ぶことを目的として企画されたものである。限られた日程ではあったが、現地での視察と講義を通じて、沖縄の人々が直面する現実を多角的に観察し、理解する機会となった。     15世紀に成立した琉球王国は、中国や日本との間で外交と貿易を展開し、独自の文化を育んできた。しかし1609年の薩摩侵攻以降、二重支配の下で苦難の歴史を歩み、明治期には琉球処分により日本へ併合された。その後、言語や風俗の抑圧、土地の国有化、軍事化が進められたことは、現在の沖縄が抱える負担の原点でもある。   第二次世界大戦末期の沖縄戦は、県民約22万人が犠牲となった苛烈な地上戦であり、民間人の犠牲の大きさは他に例を見ない。戦後は米軍による接収が進み、住民の土地は銃剣とブルドーザーで奪われ、冷戦構造の中で沖縄は巨大な軍事拠点と化した。1972年の本土復帰以降も、在日米軍専用施設の約70%が沖縄に集中し、過重な負担が続いている。   私たちは宜野湾市に位置する嘉数高台公園を訪れ、そこから米海兵隊普天間飛行場を視察した。市街地の真ん中に位置するこの飛行場は学校や住宅に隣接し、騒音・落下物・環境汚染など、多くの危険を地域社会にもたらしている。最近では有機フッ素化合物(PFAS)などの有害物質による地下水汚染が健康被害への懸念を強めている。加えて、航空機事故や米兵による事件や事故は住民の不安を高めていることを実感した。   1995年の米兵による12歳の少女暴行事件を機に、普天間飛行場の返還が日米間で合意された。しかし危険性除去の代替策として浮上したのが、名護市辺野古への移設計画である。   続いて訪れた辺野古は現在、新たな滑走路と港湾機能を備えた基地建設が進行している。辺野古や大浦湾の152ヘクタールが埋め立て対象となり、世界的にも稀少な生態系が破壊の危機にさらされているという。特にジュゴンやアオサンゴなど絶滅危惧種262種を含む約5,300種の生物が生息するこの海域は、国際的NGO「ミッション・ブルー」により日本初の「Hope Spot」に認定されている。にもかかわらず、政府は環境影響評価を軽視し、建設を進めている実態を知り、深い憂慮を覚えた。   2014年の着工後に建設予定地の海底は軟弱地盤であることが判明し、71,000本の杭打ちによる補強が必要とされる。巨額の費用と長期化が予想され、米国からも実効性への疑念が投げかけられている。完成時期は早くとも2037年以降とされ、現時点では普天間返還の見通しすら曖昧なままである。   こうした状況に対し、沖縄の市民は長年にわたり粘り強く抗議活動を続けてきた。辺野古の浜辺やゲート前での座り込み、カヌーによる海上抗議、署名や住民投票、さらには国際自然保護連合(IUCN)との協力など、多様な手段が展開されている。2003年に提訴された「沖縄ジュゴン訴訟」は、米国の国家歴史保存法を適用させた画期的な事例であり、沖縄の声を国際的に可視化する機会となった。   近年では国連人種差別撤廃委員会へ働きかけ、同委員会が日本政府に対し、辺野古建設が琉球・沖縄の先住民族の権利を侵害していないか説明を求めるなど、国連を巻き込んだ動きも生まれている。現地で出会った人々の言葉には、生活を守り、未来世代に豊かな自然を残したいという切実な願いが込められていた。   今回痛感したのは、沖縄の基地問題が単なる地方の課題ではなく、日本の安全保障政策や環境保護、人権、そして暴力からの開放に直結する問題だという点である。辺野古を「唯一の選択肢」と繰り返してきた日米両政府の姿勢は、市民参加や自治の尊重を欠き、対話の不在を浮き彫りにした。さらに、軟弱地盤問題や環境破壊のリスクを前にしても計画を見直さないかたくなさは、政策決定の硬直性を象徴している。   求められるのは、沖縄の人々の声に耳を傾けるとともに、この問題を自分ごととして捉える視点である。環境、人権、平和という普遍的な価値のために、何ができるのかを考え、社会的対話を広げていくことが必要だろう。   ツアーで得た経験は、沖縄の歴史と現在を直視する重要な機会となった。普天間と辺野古の現実を前に、私たち一人一人が問われているのは、どのような未来を選び取るのかという根源的な問いである。沖縄が背負わされてきた過重な負担を減じ、豊かな自然と文化を守り抜くために学び続け、行動することの必要性を強く心に刻んだ。   当日の写真   <イドジーエヴァ・ジアーナ IDZIEVA Diana> ダゲスタン共和国出身。2024年度渥美財団奨学生。東京外国語大学大学院総合国際学研究科より2021年修士号(文学)、2025年9月博士号(学術)を取得。主に日本の現代文学の研究を行っており、博士論文のテーマは今村夏子の作品における暴力性。現在、東京外国語大学、慶應義塾大学、津田塾大学で非常勤講師。
  • 2025.09.25

    ボルジギン・フスレ「ウランバートルレポート:2025年秋」

      近年、モンゴルにおける匈奴、鮮卑、モンゴル帝国等の発掘調査が世界的に注目されている。コロナ禍を除いて、ほぼ毎年、10数か国の考古学調査隊が調査をおこなっている。私もこの分野に足を踏み入れ、2020年にはプロジェクト「“チンギス・ハーンの長城”に関する国際共同研究基盤の創成」、2022年「匈奴帝国の単于庭と龍城に関する国際共同研究」、2024年「モンゴルのシルクロード遺跡に関する学際的研究――ドグシヒーン・バルガスを中心に」等を立ち上げた。発掘プロジェクトの中心メンバーの二木博史先生(東京外国語大学名誉教授・国際モンゴル学会副会長)とJ.オランゴア(J.Urangua)先生(モンゴル国立大学終身教授)は、以前よりウランバートル国際シンポジウムに協力していただいている。   シルクロードは古くから東アジアと中央アジア、西アジア、さらにヨーロッパ、北アフリカとを結んできた道だ。従来、「シルクロード」というと、人々は「東西交通」の道に注目しがちだが、「南北交通」の道も存在する。近年、モンゴル高原と中国の中原とを結ぶ道についても注目されるようになった。いわゆる「草原の道」は西安から北上してカラホト、カラコルムにわたり、モンゴル高原とつなぐルート、あるいはアルタイ山脈沿いをとおり、カザフスタンの草原、ユーラシア・ステップをへて、東ヨーロッパとを結ぶ道をさしている。道沿いには交易の町が多数存在していた。匈奴時代、匈奴と漢の間で結ばれた盟約は、「漢の皇帝は公主を匈奴の単于(匈奴の皇帝)に嫁がせ、一定の量の絹や綿、食物などを送り、匈奴は辺境をかき乱すことをしない」、というものだった。また、「関市(交易の市場)」を開いて互いに交易もおこなっていた。草原の道を通して、農耕民族は匈奴や鮮卑、突厥などの騎馬民族に絹や綿、食物などを輸出し、騎馬民族から馬をはじめとする家畜、毛皮、馬具、騎射技術、「胡床」(折り畳みのベッド)及びその製造技術などを輸入した。   今年のシンポジウムのテーマは、近年の考古学や歴史学、文献学等諸分野における新発見、研究の歩みをふりかえり、匈奴やモンゴルをはじめ、北方歴代の遊牧民族の諸帝国が築いた、多様な要素によって構成されたモンゴル高原における草原のシルクロードの遺跡、交易等を考察し、その歴史的・社会的・文化的空間の解明と再構築とを目指すものだ。   第18回ウランバートル国際シンポジウム「21世紀のシルクロード研究――モンゴルからのアプローチ」は、2025年9月1日、モンゴル国立大学図書館502会議室で対面とオンライン併用の形で開催され、100 名ほどの研究者と学生等が参加した。渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)と昭和女子大学国際学部国際学科、モンゴル国立大学科学カレッジ歴史学科の共同主催、在モンゴル日本大使館、昭和女子大学、公益財団法人渥美国際交流財団、モンゴルの歴史と文化研究会の後援、日本私立学校振興・共済事業団学術研究振興資金、公益財団法人守屋留学生交流協会の助成をいただいた。   開会式では、モンゴル国立大学学長B.オチルホヤグ(B. Ochirkhuyag)とモンゴル国駐箚日本国特命全権大使井川原賢が祝辞を述べた。在モンゴル日本大使館伊藤頼子書記官は大使の通訳を担当した。その後、一日にわたり、東京外国語大学名誉教授・国際モンゴル学会副会長二木博史、モンゴル国立大学科学カレッジ人類学考古学科長・教授U.エルデネバト(U.Erdenebat)、筆者、モンゴル国立大学終身教授J.オランゴア、内モンゴル大学モンゴル学院モンゴル歴史学科長・准教授李哲、内モンゴル師範大学地理科学学院教授烏敦、モンゴル国立大学科学カレッジ人類学考古学科准教授T. イデルハンガイ(T.Iderkhangai)、高知大学教授湊邦生、モンゴル国立大学科学カレッジ歴史学科准教授B.バトスレン(B.Batsüren)、東京外国語大学研究員上村明、軍事史・地図研究者大堀和利、モンゴル国立教育大学教授L.アルタンザヤー(L.Altanzaya)等、日本、モンゴル、中国の研究者22名(共同発表も含む)により12本の報告があった。   5本は私が研究代表をつとめるプロジェクトの成果報告だ。ドグシヒーン・バルガスとは、これまで知られていない、モンゴル帝国時代とそれにつづく時代におけるシルクロードの町の一つだ。ほかの7本は、モンゴル高原のシルクロードにおける考古学、歴史学、民俗学、人文地理学、芸術学、社会学などの分野のものだった。オープンディスカッションは二木博史先生とJ.オランゴア先生がつとめた。フロアーからさまざまな質問がだされ、議論が展開された。   今回のシンポジウムは、モンゴルの『ソヨンボ』『オラーン・オドホン』紙、TV9、Zogii.mn等により報道された。日本では、『日本モンゴル学会紀要』第55号などが紹介する予定で、本シンポジウムの成果をまとめた論文集は2026年3月に日本で刊行される。   8月2日、シンポジウムに先立ってモンゴルを訪れて資料を収集したほか、セレンゲ県ユルー郡カルニコフ匈奴・鮮卑墓群では現地調査にも参加した。この遺跡は匈奴と鮮卑の墓群が混在しており、研究する価値は非常に大きいだけではなく、そのなかを建設中の道路が貫通しており、早期に保護しなければならない。そのため、2024年度には研究プロジェクト「モンゴル国セレンゲ県ユルー郡カルニコフ匈奴・鮮卑墓群の発掘と保存」を立ち上げた。8月21日にはモンゴル国防省等主催の国際シンポジウム「第二次世界大戦の終結:解放戦争の歴史的研究」に参加し、研究発表をおこなった。元渥美奨学生で、内モンゴル大学ナヒヤ教授も論文を発表した。ウランバートルに滞在していた間、モンゴルの各テレビ局は、社会主義時代にモンゴルや旧ソ連で製作されたソ連・モンゴル連合軍の対日戦、或いは独ソ戦の映画を放映していた。これは毎年この「季節」になると繰り返し放映されてきたことだが、今年はなんと、中国のテレビ局が作った抗日のテレビドラマもモンゴル語に翻訳され、放映されていることに驚いた。   会議と発掘の写真   <ボルジギン・フスレ Borjigin Husel> 昭和女子大学大学院生活機構研究科教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、ケンブリッジ大学モンゴル・内陸アジア研究所招聘研究者、昭和女子大学人間文化学部准教授、教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、『モンゴル・ロシア・中国の新史料から読み解くハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2020年)、『日本人のモンゴル抑留の新研究』(三元社、2024年)、編著『ユーラシア草原を生きるモンゴル英雄叙事詩』(三元社、2019年)、『国際的視野のなかの溥儀とその時代』(風響社、2021年)、『21世紀のグローバリズムからみたチンギス・ハーン』(風響社、2022年)、『遊牧帝国の文明――考古学と歴史学からのアプローチ』(三元社、2023年)他。       2025年9月25日配信