ウランバートル国際シンポジウム

  • 2010.06.24

    新刊紹介:ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年 2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集

    今西淳子、ボルジギン・フスレ(呼斯勒)編  2009年、ウランバートル市で行われた国際シンポジウムの報告書。いまだ謎の多い事件を、ようやくイデオロギーや国家意識を乗り越えて論議した、画期的内容を紹介。日・英・蒙の多言語論集。 B5判・並製カバー・本体12000円  2010年3月20日発行  ISBN978-4-89489-602-4 風響社 ℡ 03-3828-9249 もくじ ちらし 関連のエッセイは下記よりお読みいただけます。 国際シンポジウム『世界史のなかのノモンハン事件(ハルハ河会戦)』報告 田中克彦「2009年ウランバートル・シンポジウムを終えて
  • 2008.07.15

    エッセイ145:ボルジギン・フスレ「ウランバートルレポート:2008年夏(その1)」

      2008年6月24、25日の2日間、モンゴル国家文書管理局、関口グローバル研究会(SGRA)、モンゴル科学アカデミー歴史研究所、モンゴル・日本センターが共同主催、在モンゴル日本大使館、モンゴル国立大学、モンゴル国際研究所、東京外国語大学が後援、渥美国際交流奨学財団、守屋留学生交流協会、高澤三次郎国際奨学財団、三菱商事、三井住友銀行、鹿島建設が協賛の国際シンポジウム「歴史・文学・メディア・アーカイブズからみたグローバル秩序――北東アジア社会を中心に」が、モンゴル国の首都ウランバートルで開催された。SGRAが初めてモンゴルでおこなったプロジェクトであるが、盛大な国際シンポジウムとなった。    開会の準備のために、6月19日、私は一足先にウランバートルに到着した。空港からウランバートル市内まで、30分ほどの距離だったが、二つのことにびっくりした。一つ目はポスターと宣伝カーである。外資企業の看板を除いて、ほとんどのポスターと看板が、国民大会議員選挙のポスターになっていた。そして、各政党の宣伝カーのほか、たくさんの車が各自の支持する政党の旗あるいは宣伝ポスターを掲げていた。至るところにポスターと旗が掲げられていた。モンゴル国で4年に一度の国民大会議(国会、定数76)の議員の選挙が6月29日におこなわれることについては去年同シンポジウムを企画した際すでに知っていたが、これほど熱くなっているとは思っていなかった。 二つ目は旱魃である。空港から市内まで、土ばかりで、草がなく、緑色はまったくなかった。環境問題の厳しさを再び痛感した。    ホテルに到着すると、モンゴル国家文書管理局の総務課長チンバト(Ts. Chinbat)氏と外事課のボヤンヘシグ(Buyankhishig)氏が待っていた。荷物を置いてすぐ文書管理局に行った。 昼食の後、文書管理局のパソコンでメールをチェックしようとしたが、日本語のサイトはまったく開けなかった。隣の建物にある国家文書館に行って、ある役人が買ったばかりのTOSHIBAのノートパソコンを使ってみても、日本語のソフト、フォントを入れていないため、日本語のサイトはやはり開けなかった。ダウンロードもなかなかできなかった。TOSHIBAなのに、なぜ日本語のソフトが入っていないのか不思議に思った。外観は立派だが、ソフトなどをチェックしてみたら、2001年、1999年版のものばかりで、どうみても贋物っぽかった。メールをチェックすることをあきらめて、管理局に戻って、職員たちと一緒にシンポジウムの準備の仕事をした。   夕方、ホテルにもどって、ホテルのパソコンを開けてみても、日本語のサイトは開けなかった。そして、ホテル周辺のインターネット・カフェ、国家郵便局のインターネットコーナーにも行ってみたが、日本語サイトはやはり開けなかった。この事情を知った総務課長のチンバト氏が、夕食の後、自宅のApple Mac Bookを持ってきてくれたので、やっと日本語のサイトに入ることができた。    翌朝、目を覚ますと、雨が降っていた。まさに干天の慈雨だと思った。   文書管理局に行くと、ウルズィバータル(Ulziibaatar. Demberel)局長がスケジュールなどを遂一確認して、直接準備作業を指揮していた。私は外事課、総務課などの方々と一緒に仕事をした。仕事はスムーズに進んだが、あまりに熱心だったので、やっと昼食を取ることができたのは3時すぎてからであった。    土曜日、雨が続いていた。シンポジウムの準備のため、午後4時まで、チンバト氏等と一緒に働いていた。その後、空港で、今西さんを出迎えた。東京から直行のモンゴル航空OM502便はほぼ予定通りに到着した。新潟大学の広川佐保準教授も同じ便だった。   大雨のなかのウランバートル空港(チンギス・ハーン空港)は、初めてモンゴルに来た今西さんにどんなイメージを与えたのか分からなかったが、車のなかで、今西さんは「この空気がいい」と言った。モンゴルでは、「雨を持ってきた人」という言葉は相手を誉める言葉なので、チンバト氏の挨拶もこの言葉から始まった。意外にも、「雨」「雨を持ってきた人」という話題は会議修了まで終始続いた。   モンゴル国家文書管理局長、文書館長などが仕事で地方の県に視察に行っていたため、ウランバートルホテルで、チンバト氏が文書管理局を代表して、今西さんとわたしを招待してくれた。外交辞令のやりとりもあったが、話はもちろんシンポジウムと同文書管理局の仕事のことが中心であって、わりに気軽だった。   今西さんがモンゴル料理になれるかどうか心配していたチンバト氏は、今西さんに好きなものを注文させた。料理はモンゴル+西洋式のものであった。今西さんはウラバートルのモンゴル料理はこんなにヨーロッパ的なものだと思っていなかったそうだ。    日曜日、雨がやむ様子がなく、むしろ激しくなってしまった。天気予報では、「25日まで雨」ということで、私たちは心配し始めた。   文書管理局外事課の方は日曜日もシンポジウムの準備の仕事をしていた。わたしは少し手伝ってから、午前10時40分に空港に行って、北京大学の陳崗竜教授を迎えた。   空港から戻って、大雨のなか、私と今西さんは国家百貨店の7階のレストランで「中華料理」を注文した。野菜の前菜だが、牛乳(ヨーグルト?)がいっぱい入っていた。値段は東京に負けないほど高かった。物価の高騰を実感した。    午後、SGRA研究員のマイリーサさん、ブレンサインさん、ヤロスラブさん、包聯群さんと昭和女子大学のフフバートル准教授等が中国国際航空CA421便で来る予定で、私は文書管理局の職員と再び空港に行った。16時30分に到着予定だったが、空港で2時間も待った。中国国際航空の遅延はこれだけではなく、それ以降も遅延し続け、会議の参加者に多大な不便を与えた。   19時、モンゴル出身のSGRA会員マンダフ・アリウンサイハンさんが手配したアイリッシュ・パブ(Grand Khaan Irish Pub)で、今西さんが在モンゴル日本大使館参事官小林弘之氏、モンゴル日本センター所長中村光夫氏、同大使館小山勲三等書記官、深井啓専門調査員等を招待した。昭和女子大学のフフバートル準教授、SGRA研究員のブレンサインさん(滋賀県立大学準教授)、マイリーサさん、アリウンサイハンさん、ヤロスコフさん、包聯群さんと私も参加した。   快適な雰囲気のなか、みな食事をしながら、自己紹介をし、今回の会議、SGRAの事業、モンゴルの総選挙、資源などについて歓談した。   小林参事官は有名なモンゴル通で、モンゴル国に進出した日本の企業、日本大使館の事業、モンゴル人留学生に対する支援、モンゴル国の現状、鉱山開発問題などについて紹介してくれた。また、今回の選挙についても詳細に分析した。結局、のちの選挙の結果は、ほぼその通りであった。氏はまた、自分の経歴を紹介しながら、研究者の道を選んだ私たちに貴重なアドバイスをした。    中村光夫所長は、JICAの仕事で、長い間トルコやアフリカの国で滞在経験があり、去年5月にモンゴル・日本センター所長に赴任。モンゴル・日本センターはモンゴルと日本両国間の理解を促進するために2002年6月に日本政府の無償資金協力で建設された。中村所長は、自分が経験したJICAの仕事や同センターがおこなってきた人材育成などの事業について語った。   今回のシンポジウムの開催にあたって、同センター主任ボロルサイハン(Bolorsaikhan. B)氏にたいへんお世話になった。本来ボロルサイハン氏もこの招待会に参加予定だったが、都合によって欠席になったことは、とても残念だった。   今西さんから、これからのモンゴルにおけるSGRAの事業に対して、日本大使館とモンゴル・日本センターからご支持とご協力を要請し、小林参事官と中村所長両氏は快諾し、わたしたちにいろいろアドバイスをしてくれた。   月曜日、雨がやんだり、降ったりしていた。   夕方、ウランバートルに戻ってきたモンゴル国家文書管理局長ウルズィバータル氏がレストラン・ソウルで今西さんを招待した。韓国系の料理店と言われているが、モンゴル・ヨーロッパ風の料理にした。モンゴル科学アカデミー歴史研究所の所員で、日本の東北大学で博士号を取得したオユンジャルガル(Oyunjargal. Ochir)さんが上手に通訳した。   ウルズィバータル局長は「モンゴルでこのように雨が降るのは珍しい。雨を持ってきた日本の今西代表に感謝したい」と語り、今西さんは「持ってきた雨が多すぎたかもしれない」と言って、選挙というたいへん忙しいところで、積極的に協力してくれたモンゴル国家文書管理局に感謝の意を述べた。冗談も混じえながら、今回のシンポジウム、そしてこれからもお互いに協力していくことについてまじめに話し合った。最後は記念品を交換した。   この日、モンゴル航空、大韓航空の便に乗った3名の日本人の研究者は、夜ウランバートルに到着した。その後、14時間以上も遅延した中国国際航空CA901便に乗った数名の研究者は、夜中になってやっとホテルに到着した。(続く)   写真による報告(その1)はここからご覧ください。   ------------------------------- <ボルジギン・フスレ☆ BORJIGIN Husel> 博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「1945年の内モンゴル人民革命党の復活とその歴史的意義」など論文多数発表。  
  • 2004.10.25

    レポート第24号「1945年のモンゴル人民共和国の中国に対する援助―その評価の歴史―」

    SGRAレポート第24号   投稿レポート 「1945年のモンゴル人民共和国の中国に対する援助―その評価の歴史―」 フスレ(東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程・昭和女子大学非常勤講師) 日本語版 2004年10月25日発行   ---はじめに-----------------    20世紀、モンゴル国は2回にわたって大規模に軍隊を派遣して内モンゴルに進出した。第1回目は1913年 、第2回目は1945年のことである。ソ連が日本に宣戦を布告した翌日の8月10日、モンゴル人民共和国も日本に宣戦布告したことを発表し、チョイバルサン元帥がモンゴル軍を率いてソ連軍と一緒に中国に進入した。その間、1920年代、30年代の初期にもモンゴル人民共和国は内モンゴル、ひいては中国の革命を援助したことがある。内モンゴル人民革命党はモンゴル人民革命党の援助のもとで設立され、しかも終始同党の援助を受けていた。内モンゴル人民革命党は数度にわたって学生や幹部をモンゴル人民革命党中央党校へ留学させた。同党の執行委員会は1927年からウランバートルに移転した。同時に、コミンテルンとソ連の了解のもとで、モンゴル人民共和国は政治・経済・軍事面から馮玉祥の国民軍を援助し、ウランバートルは中国共産党、内モンゴル人民革命党とコミンテルン、ソ連共産党の中継地の一つとなった。  1920年代のモンゴル人民共和国の内モンゴルに対する援助やその性格などについては、二木博史氏、郝維民氏、ザヤータイ氏、及び拙稿などがすでに論述したことがあるので、ここでは繰り返さない。本稿ではモンゴル国、中国共産党・国民党などの史料を利用し、1945年のモンゴル人民共和国の内モンゴルへの出兵に焦点をあて、モンゴル国、中国共産党・国民党、そして内モンゴルの学者がどのようにこの出兵をみてきたのか、その評価の歴史をさぐってみたい。この研究は1945年の東アジアの歴史の一側面の理解にとどまらず、世界で民主化が進む中、中国が国家統合を強調し、「中華民族多元一体論」をうたっている今日、どのように歴史をみるのか、どのように国と国の関係、民族問題を認識するのかを考える上でも有益であると思われる。