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  • エッセイ607:閔東曄「『歴史的な思考』との出会い」

    (私の日本留学シリーズ#34)   ふと気づくと、日本での留学生活も10年をすぎている。今では大学院で歴史の研究をしているが、10年前には想像もできなかったことだ。しかしよく考えてみれば、これまでの経験が積み重なって今の研究の原動力となっている。どうして私はここにいるのか。その発端は留学の2文字にはあまりにもふさわしくない出来事だった。   韓国で大学に入学し、経済学を専攻しようと思っていた私は、どこにでもいるような、海外とは縁のない普通の大学生だった。兵役のために大学を休学し、その後復学を望んでいた私は、韓国社会に敷かれているレールに乗ってそのままその後の人生を進めようとしていた。大学を卒業すれば安定した職場に就職し、結婚をして家庭を築き、幸せな生活を送る。それとは違う人生を思い描く余裕も、能力も、その頃の私にはなかった。しかしそれと同時に、なぜか漠然とした不安を覚えていた。このままでいいのだろうか。私はいったい何がしたいのだろうか。新しい刺激を求めて旅行に出ることを決心したのは、こうした不安に自分なりに答えようとしたからである。そして行くからには、韓国国内ではなく、まったく違う世界を経験してみたいと思った。中学生の時からJ-popやアニメ、漫画に接していて日本に関心を持っていた私が、はじめての海外旅行先として日本を選んだことはもしかすると自然なことだったのかもしれない。   こうして10日間のバックパック旅行がはじまった。関東地方と関西地方を夜行バスに乗って回った。はじめて訪れた「海外」は何もかもが新鮮で驚きの連続だった。しかし私が旅行中に感じたことは、「カルチャー・ショック」という言葉で簡単に片付けてしまうことのできないものだった。韓国で生まれ育った私にとって、日本で経験するすべてのことが、韓国人としての「自己」とは異なる「他者」を経験し、「自己」について省みるきっかけとなったのだ。またそれは、はじめて私に「国」というものを意識させてくれた。旅行から帰ってきた私は、日本での経験を忘れられず、再び日本行きを準備した。そして3ヶ月後、大きなスーツケースを持って、私は新宿駅西口に降り立った。   日本語学校で日本語を一から学びなおす、という生活がはじまった。今振り返ると、日本語の勉強だけが目的だったわけではない。旅行中に受けた衝撃を、それを経験させてくれた日本という国にしばらく滞在しながら自分なりに消化しようともがいていた。それまでの「私」を成り立たせてきた「韓国」から解き放たれた瞬間、「韓国」も相対化でき、「日本」について勉強することによって「国」とは何かについて真摯に向き合えるような気がしたのだ。そしてそうしているうちに、それまで自明だと思ってきたことが、自明ではなくなった。人は、「常識」を疑い、それがなぜ「常識」となったのかについて思考をめぐらす時、自然と歴史的な思考につながっていく。   韓国と日本の間には、長らく解決困難な歴史認識の溝が存在する。「国」を相対化しはじめた私は、それらを解決するためにはどのようなことが必要なのかを考えるようになった。大学でより専門的な勉強がしたいと思うようになり、そのためには大学の専攻を変える必要があった。日本でもう一度大学受験をし、日本の大学で様々な学問に触れることになった。大学では、リベラル・アーツを重視する風土のなかで、様々なディシプリンから韓国と日本の歴史問題についてアプローチすることができた。さらにそれだけでは満足できず、今度は歴史認識問題の解決のために必要な思考を、研究を通して自ら創り出したいと思い、卒業後に大学院の道を選んだ。そして現在、近現代朝鮮史と日朝関係、特に思想・文化を中心に研究を進めている。   歴史認識問題そのものは、どこにでもある普遍的な問題である。そうした問題を生み出す思考の構造について、そしてそれを乗り越える思考のあり方について、日韓の近現代史という具体的なフィールドを通して考えていくことがこれからの私の課題である。私が日本留学を通して勉強できたことは、私たちの思考の前提となるものを見つめなおすことであり、自明なものを相対化し、「常識」の背後にある構造を見抜く歴史的思考力にほかならない。   <閔東曄(ミン・ドンヨプ)Min Dongyup> 渥美国際財団2018年度奨学生。韓国ソウル生まれ。横浜国立大学教育人間科学部卒業。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士後期課程単位取得後退学。現在、東京大学大学院総合文化研究科研究生、横浜国立大学・武蔵大学・フェリス女学院大学・日本健康医療専門学校等非常勤講師。専門は、歴史学、近現代日朝思想史、日韓(朝)地域研究。特に、「近代の超克」をめぐる帝国/植民地の思想空間に関心を持って勉強中。     2019年8月23日配信
  • エッセイ606:羅仁淑「昨今の日韓関係と日韓親善活動への思い」

    先ず活動をする私たちが楽しく、結果として日韓友好・親善に役立つ活動をする、文化交流と知的交流の中間レベルの活動をする、政治や宗教とは距離を置く、をモットーに2009年12月より日韓友好の思いを抱いている方々と手書きの手紙交流から活動をはじめた「暖流」(2013年4月NPO法人格取得)を紹介させて頂きたい。韓流ブームに後押しされ、仲間も増え、小規模ながらも順調(?)な親善活動が続いている。   日本では、☆古代から現代までの朝鮮半島の歴史を学習する「歴史学習会」の開催。☆韓国に因んだ場所を歩きながら会員同士の親睦を図る「散策会」。☆各分野の韓国専門家による「講演会」の開催(17回)。☆キムチやポジャギーなど「韓国文化の講習会」。☆舞や楽器など民族文化とK-POPなど現代文化の「公演会」などを。韓国では、☆本部と韓国支部の会員の作品を展示する「日韓親善交流展覧会&文化交流会」。☆有田焼の創始者李参平さんの一生を描いた小説の翻訳出版(2015年の優秀図書に選定)。☆ソウル市施設公団との共催で暖流会員がモデルを演じた「和服ファッションショー」。さらに、幸運にも4年前から世田谷区の補助金事業や「せたがや国際メッセ」でも活動するようになった。ささやかな達成感(自己満足?)を感じているところにいきなり暴風が吹き荒れ、韓国離れが激しくなった。「日韓親善」という言葉が顔負けするほどに。   何が原因で、これから暖流はどうすべきか? 可視的な流れは、文在寅政府による慰安婦問題の日韓合意の破棄(2015年12月28日、慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決を確認した日韓政府間の合意)と韓国最高裁による被徴用者裁判の判決を受け、日本政府が国家間の条約を守らぬ国は信用ならないと韓国をホワイト国家から除外したことである。しかし、この問題は日韓両国間の問題としてアプローチすることは正しくなく、米・中の覇権争いを念頭に置きつつ考えなければならない。しかし、筆者の能力と紙幅上の制約から日韓間に、さらに被徴用者裁判に限定し、日韓問題と今後の暖流のことを考えてみたい。また、日韓問題に関しては主観を挟まず事実のみ整理することに努めたい。   日本は「日韓併合条約」(韓日併合、朝鮮併合とも言う)が締結された1910年8月22日より朝鮮総督府が降伏文書に調印する1945年9月9日まで約35年間朝鮮半島を支配していたが、1965年6月22日、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」(以下基本条約という)とその付随協約として「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」(以下請求権協定という)が締結され、両国間の関係が正常化された。   基本条約と請求権協定の骨子は国交樹立と韓国に対する経済協力、そして両国間の請求権に関するものであり、請求権協定の主な内容は、☆朝鮮に投資した日本の資金及び日本人の全ての財産の放棄(当時の総督府や軍の財産を除いた民間の財産は約47億円、韓国の1年間国家予算は約3.5億ドル、日本の外貨準備金は約17億ドル)、☆無償3億ドル(1,080億円)、長期低利の貸付2億ドル(720億円)の供与(第1条)、☆請求権問題は完全かつ最終的な解決の確認(第2条)、☆協定の解釈や実施に関する紛争は先ず外交上の経路を通じて解決し、解決できない場合は両国政府が各1人ずつ任命した仲裁委員と、その2人の仲裁委員の合意あるいは第3国政府の指名する第3の仲裁委員で構成された仲裁委員会の決定に服すこと(第3条)である。   次に被徴用者への韓国政府の対応をみてみよう。朴正煕政府は請求権協定による無償3億ドルを産業の育成やインフラの整備に費やし、9年後の1974年に「対日民間人請求権補償に関する法律」を制定し、1975年から1977年まで被徴用死亡者8,552人に1人当たり30万ウォン、債券など74,963件に66億1,695万ウォン、合わせて91億8,252万ウォンを支給した(これは無償3億ドルの5.4%に該当)。しかし、2012年、盧武鉉政府は朴正煕政府による被害者補償が不十分であったと、再び6,334億ウォンを支給した(その内訳は、死亡者・行方不明者に1人当たり2,000万ウォン、負傷者に2,000万ウォンを上限に障害程度による慰労金、生存者に毎年80万ウォンの医療支援金)。   今度は韓国の「落星台経済研究所」李宇衍氏の研究を引用しながら徴用についてみよう。日本による炭鉱・鉱山・軍需企業勤労など戦時目的の労働動員は1939年9月から1945年2月まで約6年間、殆ど3南地方(慶尚道、全羅道、忠清道)を中心に、「募集」(1939年9月~1942年2月)からはじまり「官斡旋」、「徴用」(1944年9月~1945年3月)の順に為された。2年契約で、延べ72万4,000人が動員された(募集約20万、官斡旋約33万、徴用19万)。 募集は一般就業と同じ性格のもので、責任者は企業の労務管理者であったが、企業任せでは募集された人員が少なかったので、総督府が地域別に募集数を割当て、総督府の行政体系の末端である面(日本の町に相当)の面長を責任者とする官斡旋がはじまった。しかし来日費用がかからず安全に来られる官斡旋で来日した者の約40%が逃亡し一般就業をしてしまうことが発生した。令状を出す徴用は1944年9月から1945年3月まで約6カ月間行われた。拒否が可能だが受容すれば援護対象として優待され月給が募集や官斡旋より高かった。 労働動員が行われた1939年9月から1945年2月までのほぼ同期間の一般就業者数は、官斡旋や徴用からの逃亡者を除いても170万人に上った。このように新文明への憧れや高所得確保への期待で来日に憧れていた若者は多かったにもかかわらず、労働動員が必要であった炭鉱・鉱山・軍需企業では働きたがらなかったからである。   次に、朝鮮人労働者に対する未払い(未集金)について整理することにする。 朝鮮人労働者たちは賃料や公共料金の負担がなく、食事代が安く、韓国人が舎監である寄宿舎で生活し、給料はインフレ抑制のためいつでも使える少額の社内貯蓄を除いて郵逓局に強制貯蓄され、契約満了で帰国する時まで引出ができなかった。また、企業は朝鮮人労働者の人数、貯蓄額、送金額、支給額を毎月行政当局(市、警察など)に報告することになっていた。終戦時、残っていた労働者は32万人(逃亡者を含む)であったが、彼らの7月25日の給料日から8月15日までの給料、退職積立金(労使負担)、そして退職金などを清算しないで帰国した者の未払金(未集金)がある。日本政府は1946年、各企業に朝鮮人に対する未払金を文書に整理させ(項目別総計の資料はあるが、個人別資料は公開されていない)、全額を裁判所に供託させた。   最後に被徴用者裁判についてみよう。被徴用者訴訟に対する2018年10月30日韓国最高裁の判決の始まりは1997年に遡らなければならない。 1997年12月24日、ヨ・ウンテクさんとシン・チョンスさんの2人の原告が新日鉄を被告に強制徴用と奴隷労働に対する賠償請求を大阪地裁に提訴したが、敗訴する(2001年3月27日)。さらに大阪高裁と最高裁でもそれぞれ控訴や上告が棄却された(2002年11月19日、2003年10月9日)。 その後、2005年2月28日にイ・ジュンシクさんとキン・キュウスさんが加わり4人で、今度は韓国ソウル中央地裁に提訴するが、ここでも原告敗訴で終わり(2008年4月3日)、高裁でも控訴棄却になった(2009年7月16日)。しかし、最高裁では逆転して事件を高裁に破棄差戻すことになる(2012年5月24日)。高裁は最初の判決と異なり新日鉄住金に原告一人当たり1億ウォンの賠償を命じ(2013年7月10日)、それが最高裁で最終確定されたのである(2018年10月30日)。   韓国最高裁の判決を受けた日本政府は韓国に対する輸出規制を、さらにそれを受けた韓国は日本製品に対する不買運動を、と両国関係は悪化の度合いを高めている。こういう時こそ民間交流が大切なのではと考えている。曇ったり降ったりの後は必ず晴れると信じつつ日韓親善活動に邁進して行きたい。   <羅仁淑(ら・いんすく)La_Insook> 博士(経済学)。専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。SGRA会員。     2019年8月15日配信
  • エッセイ605:謝志海「福島原発事故から8年、日本のエネルギー保障を再考する」

    東日本大震災における東京電力福島第一原子力発電所の惨事から、8年の歳月が過ぎた。以来ずっと、日本では原子力の在り方について物議を醸している。なにしろ2011年の震災以前の日本では、電力供給の10%以上を占めていたのは原子力だったからだ。日本のエネルギー保障は、今でも過酷な挑戦を強いられている。   まず、日本国内のほとんどの原発の停止により、国内のエネルギー自給率は2010年の20.2%から、2011年の11.5%に急落した。その後も自給率は10%を下回り続けている。これは他の国と比べると、驚くべき低い数値である。   すなわち、日本は莫大な量のエネルギー源を他国からの輸入に頼っている。これは国家財政を悪化させるだけでなく、政治リスクを伴う。日本の原油輸入の80%以上は中東からであり、政治的に不安定な地域から、まとまった量を確保し続けるのはたやすいことではない。   第2に、日本は他の先進国と比べ、化石エネルギーへの依存がかなり高い。1973年のオイルショック時には、化石エネルギーは日本のエネルギー・ミックスの94%まで占めていた。その後の日本はその偏りを改善すべく多大な努力に重ね、2010年には80%まで下がった。しかし、原発事故を経て2016年には、化石エネルギーへの依存は89%に逆戻りし、オイルショック時の値にかなり近くなってしまった。このリバウンドはひとえに、原子力発電中止の埋め合わせを意味している。原油がエネルギー源の40%以上を占める今の日本は、もし再びオイルショックが起きれば、より深刻なダメージを受けるだろう。   3つ目として、エネルギー費の急上昇により、電気料金の値上がりの激しさがあげられる。2010年と比べ、電気料金のピークだった2014年の電気料金は、家庭でおよそ24%、企業では38%もの上昇となった。近年、電気料金は下がりつつあるが、家庭、企業のどちらにとっても、2010年と比べると、いまでも10%高いままである。   この電気料金の価格上昇は、産業界にとっては、経費の増大を意味し、無論業績に悪影響を及ぼす。一般家庭においても、この価格上昇は生活を脅かし、消費への刺激は抑えられ、生活の質の低下にまでなりかねない。   4つ目に、再生可能エネルギーの発展は日本の次なるエネルギー需要に応え得るかということだが、現在時点では、再生可能エネルギーが原子力と化石エネルギーの代替となるには程遠い。経済産業省資源エネルギー庁のデータによると、再生可能エネルギーの割合は緩やかな上昇傾向にあり、2010年の4.3%から2016年には7%となっている。日本では太陽光パネルは設備費用が高くつくなどの理由によって、再生可能エネルギーの普及は長い時間を要している。   では日本はどのようにエネルギー保障に取り組むべきか? 新しい代替エネルギー源の獲得戦略に向けた舵取りに邁進すべきであろう。2010年のエネルギー自給率を取り戻す、もしくはそれ以上を目指すなら、天然資源の少ない日本では、再生可能エネルギーが唯一の解決策であろう。福島第一原発の廃炉作業は難航の一途から抜け出せず、近隣住民もいまだに震災前の暮らしに戻っていないなか、原発の再開は現実味に乏しい。   2018年7月日本政府は、エネルギー政策の基本的な方向性を示すために「(第5次)エネルギー基本計画」を策定した。この計画で、日本のエネルギー自給率を、2016年の8%から、2030年の年には24%へと上げることを目標として掲げている。一見非現実的だが、日本が再生可能エネルギーを発展させ、広げることに集中すれば、決して不可能なことではないだろう。   しかしながら、このエネルギー基本計画は、日本のエネルギー政策の未来を明確にすべきものであるはずなのに、いくつかの曖昧さが見られる。指摘すべき点の1つとしては、計画の中のエネルギー政策の優先順位が不明確なことである。政府は2030年までに、再生可能エネルギーを主力電源とすることを掲げているが、同時に原子力発電所の修復と、その後の原子力発電の割合を20~30%にあげる試みも計画している。   小泉元総理は東日本大震災後から、「原発ゼロ」提唱者として知られ、原発がなくても日本は生き残れることを繰り返し主張してきた。最近の講演では、日本政府が「原発は安全で環境にも優しくローコスト」と謳うエネルギー政策に疑問を呈している。   テレビに出演するコメンテーターたちは、日本は有事においても必要に応じてものの見方を根本から考え直すことと決断力が乏しいと指摘している。確かに、日本が原子力エネルギーをきっぱりと諦めなければならない時に、政府がしっかりと政治的判断を下せるのか疑問である。福島第一原発事故により、ドイツは原子力エネルギーから離れることを宣言した。しかし原発事故の被害者である日本が原子力発電と縁を切ることができないとは、なんたる皮肉であろう。   日本政府は今も原発ゼロにためらいを見せているが、多数の日本国民はすでに、原子力発電は廃れていくものととらえ、再生可能エネルギーこそが今後の日本のエネルギーを担うと信じている。現に、今では個人が太陽光パネルを設置し、電力を蓄え電力会社に売ることも知れ渡っている。   日本もそろそろ自信を持って再生エネルギーの可能性に賭けてみるべきだろう。例えば、2018年のゴールデンウィーク時、九州では使われた電力の93%が再生エネルギーで賄えたという。過去8年、日本はほぼ原子力発電に頼らずやってこられたのだから、今後も再生エネルギーの使用が拡大されれば、原発を持たない国になれるだろう。   最後に、日本のエネルギー問題の解決にはやはり、技術の革新の大改革が必要だろう。それをすでにやってのけているのが、トヨタであり、次世代の車として水素燃料電池で動く車「ミライ」を発表した。この「ミライ」はゼロ・エミッション(排出物ゼロ)だけでなく、水素で作られたエネルギーを貯めておき、非常時に使うこともできる。「ミライ」は日本のエネルギー政策の未来に一石を投じるかもしれない。同じような技術革新が他の産業界でも起きることを期待する。   ※原文は英語。オーストラリアのオンラインジャーナル『The Diplomat』(2019年3月21日)に掲載   <謝志海(しゃ・しかい)Xie_Zhihai> 共愛学園前橋国際大学准教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師を経て、2017年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2019年8月8日配信  
  • エッセイ604:木宮正史「日韓関係の危機をどう克服するのか」

    2019年6月末、G20大阪会議の開催直後、板門店で3回目の米朝首脳会談が行われた直後、その余韻も覚めやらぬ中、7月1日、日本政府は対韓輸出規制措置を発表した。当初は、そのタイミングからして、日本企業に対する元「徴用工」の損害賠償請求を認めた、2018年10月の韓国最高裁の判決に対して、有効な対策を提示できない韓国文在寅政権に対する「対抗措置」であるという見方が支配的であった。今後、日本企業に賠償を行わせるため在韓資産の現金化が強制執行され、日本企業に可視的な被害が及べば、韓国に対する「対抗措置」を日本政府が選択することは十分にありうることだと予想された。   救済を受けられなかった被害者の人権は回復されるべきだが、それは、1965年の日韓請求権協定という「国家間の約束」の枠内で行われるべきだろう。韓国最高裁は、協定の対象範囲を、協定の締結当事者の「立法者意思」よりも非常に狭く解釈することで、協定の「完全かつ最終的に解決」という文言による制約を乗り越えようとした。しかし、それは、韓国国内での支持は得られたかもしれないが、交渉当事者の一方である日本政府、社会の同意を得られたとは言い難かった。換言すれば、外交問題として取り組まざるを得ないものであった。したがって、交渉を通して日本政府や社会の合意を取り付けるのか、それとも、判決と協定の双方に違背しない何らかの妙案を提示するのか、ともかく韓国文在寅政権が取り組まなければならない課題であった。   しかし、判決以後の文在寅政権の対応は鈍かった。大統領自身が類似訴訟の弁護人の経験があり「日本企業が賠償すべき」との信念を持っていたのかもしれない。もしくは、それを大統領周辺が「忖度」したのかもしれない。日本の一部には、この判決の責任を文在寅政権に帰着させようとする見解も存在する。しかし、当該最高裁判決の「原判決」とも言える2012年5月の最高裁小法廷判決は、李明博政権末期に出されたものであった。朴槿恵政権は、その判決が確定することが日韓関係に及ぼす「破壊的影響」を考慮して種々の対応を模索したが、朴槿恵大統領の弾劾・罷免に起因して挫折を余儀なくされた。さらに、そこで試みられた行政と司法との調整が、文在寅政権下において違法な「司法壟断」とみなされ、最高裁長官の逮捕にまで及んだ。   韓国内では判決を日本政府に受け入れさせるように交渉するべきであり、日本政府や企業もそれに従うべきだという見方が強い。日本企業がその判決に従うのかどうかは企業自身の判断に委ねるべきだとは思うが、日本政府としては、やはり請求権協定における「完全かつ最終的に解決」という合意に反すると判断せざるを得ない。したがって、韓国内の司法手続きがこのまま進むと、それに対する何らかの「対抗措置」に踏み切らざるを得なくなる。   ただ、そうした日本企業の可視的な被害が生じる前に、今回、日本政府が「対抗措置」を採ったことはどのように正当化されるか。しかも、日本政府は、「対抗措置」であることを示唆しながらも、それを理由とすることは国際的な支持を得られないと考えたのだろう、表向きは重要な戦略物資やそれに伴う技術などが韓国を通して第三国(おそらく具体的には、北朝鮮や中国ということが念頭に置かれているのだろう)に違法に流出しているかもしれないと、安全保障上の理由を掲げて対韓輸出規制措置に踏み切ったと説明する。   日本政府の説明はともかく、日本企業の在韓資産の現金化に対する「予防的対抗措置」という側面は否定できない。この措置が韓国では「大騒動」を巻き起こしている。しかし、韓国から譲歩を引き出すのに効果的であるどころか、むしろ対日強硬論で韓国を「団結」させる結果をもたらしている。確かに、直後は、保守野党を含めて文在寅政権の対日「無策」が批判されたが、その後の推移を見ると政権批判は対日批判に掻き消された格好である。ある意味では、この一連の「騒動」の原因となった「徴用工」判決の問題がどこかに吹っ飛んでしまい、「日本が意地悪な脅しを加えて韓国を屈伏させようとしている」と韓国社会では受け止められている。韓国における日本製品の「不買・不売運動」の背景には、日韓の歴史的経験に起因する「反日感情」というよりも「弱い者いじめは許さない」という「素朴な正義感」が存在するようだ。   さらに、単なる「便法」ではなく、本気で韓国を安全保障上の「問題国家」とするのであれば、それは日本の外交や安全保障にとって、従来の立場とは異なる相当に大きな転換である。確かに、安倍政権は、「韓国とは市場経済と民主主義という基本的価値観を共有する」という表現を政府文書からわざわざ削除したり、日本外交における韓国の優先順位を下げるような表現を使ったりして、日本の外交や安全保障における韓国の位置づけを再考する、換言すれば「日韓関係の『再定義』」とでも呼ぶべき政策指向を見せてきたことは否定できない。そして、その証左として、韓国が同盟国との関係維持よりも対北朝鮮政策に前のめりになっていること、さらに米中対立の構図の中で曖昧な立場を示していることなどを示唆してきた。しかし、もしそうであれば、韓国に対してはもちろん、日韓が同盟を共有する米国、さらには日本国内にも、そして国際社会に対しても、納得のいく説明が必要だろう。   しかし、現状は、安全保障の問題だから明確にはできないという一点張りで、なぜ、このタイミングで韓国への対応を大きく変更する必要があったのかについて、納得いく説明が聞かれない。今回の「対抗措置」は、その意味で非常に不可解な部分が大きく、とても正当なものだと評価することはできない。ただ、一旦採った措置を何の明確な変更理由がないにもかかわらず撤回することもまた難しいのも事実だ。   まずは、この一連の「騒動」の原因となった「徴用工」判決に関して、韓国政府が当該判決と請求権協定とを両立しうる妙案を日本政府に提示して交渉を始めることが必要だと、私は考える。その際、判決の核心は日本企業が賠償することではなく被害者が救済されるべきだという点を優先したことだと解釈し、韓国政府が主導して、そこに韓国企業と日本企業との「自発的な参加」を呼びかけて補償に取り組むことが基本となるべきである。そして、その交渉と並行して、日本政府は安全保障上の問題に関して韓国政府と協議し、懸念が晴れるのであれば措置を果敢に撤回する姿勢を示すことが必要である。   日韓関係は、それまでの非対称的で相互補完的な関係が、対称的で相互競争的な関係に変容する中、双方ともそれぞれの「正義」を掲げて競争するようになっている。したがって、どちらかが正しいのかというゼロサム的な競争で問題が解決されることは困難な状況である。そうした競争を続ける限りは、相手が譲歩しない限りは「共滅」してもやむを得ないという、まさに「チキンゲーム」の様相を呈するしかない。歴史問題を直接的な契機として始まった対立が、経済領域、さらには安全保障領域にまで戦線を拡大することで、そうした様相を呈するようになりつつある。   では、どうしたらいいのか。日韓両政府は、相互に、相手の意図を読み取り、自らにとってより優先順位の高い重要なものは何なのか、それを獲得するためにはどうしたらいいのか、その代わり何を犠牲にしてもいいのか、こうした戦略的思考に基づいて交渉するという姿勢以外には、対立を緩和し解消するということは難しい。そのうえで、お互いの外交、安全保障、そして社会にとって、相手国はどのように位置付けられるのか、そうした知的な作業を自覚的に進める必要がある。日韓関係はそうした状況になっていることを、日韓両国の政治指導者はもちろん、市民も含めて肝に銘ずるべきだろう。   その意味で、最後に、韓国の民間団体や地方自治体から提起されている日韓交流の中断の動きに対して、韓国文在寅政権は「そうする必要はない」「そうするべきではない」という明確な姿勢を示してもらいたいと考える。   <木宮正史(きみや・ただし)Kimiya Tadashi) 1960年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。東京大学法学部卒、同大学院博士課程単位取得退学。韓国高麗大学大学院博士課程修了、政治学博士。著書に『韓国-民主化と経済発展のダイナミズム』『朴正熙政府の選択:1960年代輸出志向型工業化と冷戦体制(韓国語)』『国際政治のなかの韓国現代史』『ナショナリズムから見た韓国・北朝鮮近現代史』など。     2019年8月1日配信
  • エッセイ603:ダリヤグル・ショリナ「自分との出会い」

    (私の日本留学シリーズ#33)   日本に来てからの5年間を振り返ってみると、自分の人生において最も重要な経験になっていると思います。様々な刺激を受けて、学んだことが非常に多いです。以下に、私にとって最も重要な変化について紹介します。   来日後新しい生活に慣れるのに少し時間がかかりました。しかし、慣れてきたら、ある日、私の毎日が同じことの繰り返しになっているのではないかと気づきました。それは生活がある程度安定してきたということですが、自分の中で新しいことが何もなくて、人生を十分に味わっていないという非常に強い違和感がありました。   最初は、毎日しなければならない同じことが決まっているので、今は少し我慢するしかないと思っていました。それが終われば、少し時間の余裕ができて新しいことも増えるだろうと理想的な状況を待っていました。しかし、忙しい毎日は続いていましたが、待っていても、変わったのは仕事の内容だけです。いろいろ考えてみた結果、何かをしている時に私が注目するのは「今のこと」ではなく、ほとんどが「これからのこと」に移っており、「今」がただ流れてしまっているためだと気づきました。   このようにして、「今」をよりよく意識するために、自分に「今は何をしているか」という質問をするようになりました。細かいところまで注意を払って、自分の周りを見てみます。例えば、料理を作っているとき、切った野菜の色や形などを見て、楽しむようにします。食べているとき、お皿の色と料理の色を意識して味わいます。外に出るときには、街路樹、花、建物を眺めながら、周りの美しさに感動します。そうすると、毎日通っている同じ道でも、新しい発見がたくさんありました。特に、季節によって変わる自然の美しさを楽しむ趣味ができました。   正直に言うと、このように「今」を生きることが、いつもできているわけではありません。例えば、発表がある時には、どうしても思考は緊張感から「これからのこと」に移ってしまいがちです。しかしながら、それを意識的にするときと、以前のように無意識だったときとは、違いがとても大きいと思います。   できるだけ毎日、どんな小さなことでも何か新しいことをするようにチャレンジしています。いつも研究室にいるのではなく、大学の図書館あるいは都内の図書館に行くなど、日常的にできるちょっとしたこともあれば、思い切って非日常的なこと、たとえば竜安寺に行くなど、計画を立てることもあります。環境を変えることで、当然ながら景色も変わりますが、新たな出会いと発見にも繋がります。自分だけの小さい世界を作るのではなく、周りをよく見れば、目の前にある広い世界に触れることができます。理想的な時間を待たなくても、「今」を生きるという生き方によって、忙しい毎日でも楽しむことができます。   さらに、ちょっと離れて物事を見ることを通して、今まで見えていなかったことがより明確になると思います。今は家族から遠く離れて、日本にひとりで住んでいますが、その距離のおかげで、改めて分かったことが多くあります。その1つが両親に対する気持ちです。自分の両親に対して、考えが時代遅れとか、もっとこうすればいいじゃないか…等々、上から目線で捉えていた時期がありました。しかし、こうして少し距離を置いてみると、自分のそのような態度がとても子供っぽいものだったということが分かりました。   今では、かつてのように父と母を責めるのではなく、大切な命をくれた2人だという強い存在感があります。そして、お父さんとお母さんに対して感謝する気持ちを持つと、自分の両親にはすごいところがたくさんあると初めて気づいて感動しています。それは私の力にもなっており、2つの羽ができたような感じがします。また、そういう自分の気持ちを両親に言葉にして伝えるのがとても大事だと考え、自分の誕生日に感謝の気持ちを必ず伝えるようになりました。あまり話すことがなかった以前に比べて、電話をかけて、両親とおしゃべりすることが増えました。   最後に、人生の見方に関する変化について紹介します。それは、どんな出来事があっても、それを経験として捉えるという見方の変化です。以前は、何かの出来事を「よかった=成功した」あるいは「よくなかった=失敗した」という観点のみで評価していました。このように評価することも重要ですが、感情的側面のみに焦点が当てられて、その出来事から学ぶことがあまりできないと考えました。しかし、観察者として、ひとつの経験として出来事をみてみると、失敗した原因と成功を促した要因も発見することができます。その結果、自分の課題も明確に見えてきます。課題があると分かれば、次はその課題を解決するための具体的な行動を決めて、その行動を実行することが重要です。このように経験として捉えるという見方を通して、多くの新たな発見ができるようになり、それによって人生の質も変わってきたと実感しています。   今まで、日本に来たのは2回になります。最初は、日本の文化や日本語に関わる知識を中心にした「日本との出会い」だったと思います。今回は、日本滞在を通して自分のことをより深く理解する、「自分と出会う」経験となりました。   <ダリヤグル・ショリナ Dariyagul_Shorina> カザフ国立大学東洋学部日本学科学士、政策研究大学院大学政策研究科修士、筑波大学人文社会科学研究科国際日本研究専攻後期過程在籍中。カザフ国立大学東洋学部日本学科専任講師、カザフスタン日本人材開発センター非常勤教師、筑波大学国際室中央アジアオフィス非常勤職員を経て、現在、明渓日本語学校(つくば市)開校準備室専任教師。研究分野は日本語教育。現在の研究テーマは海外の日本語教育における日本語教師のライフストーリー。     2019年7月25日配信  
  • エッセイ602:解放「黄色い私の日本」

    私は中国の東北部に生まれ、所謂「純粋」な「北方人」である。中国の東北部は、非常に乾燥して、春や秋という「温暖な」季節を持たない特殊な場所である。夏の昼間は30度を超え、逆に夜は冷え込み、温度差が激しいのである。冬はマイナス30度の日々が1ヶ月も続くことがよくあった。赤外線と乾燥の影響で、この大地で生活すること自体が、人間の知恵に挑戦するほど困難であった。こうした環境のお陰で、私は深刻な「東北訛り」に悩みながら、典型的な黄色い皮膚の持ち主となったのである。   しかし、自分の皮膚の色に気づいたのは、ずっと後のことであった。ある日、両親と一緒に首都・北京へ行った。私が小さな売店でスポーツ新聞を買おうとしたら、店員さんに上から目線で「あんた、東北の出身やろ、その皮膚の色で分かるよ」と言われ、私はその場から逃げ出したのだ。またある日、上海の地下鉄で電車を待っている時、駅員さんに「そこの、変な皮膚の色をしている人、そうだ、お前だ、お前東北から来ただろう、上海のような地下鉄は東北にはないだろう。下がれ、下がれ。」と言われた。私はその日、地下鉄に乗らずに、歩いて帰った。それ以降、私はこの2つの都市には、極力行かないようにしている。ただ、なぜ、私の「黄色い皮膚」という記号表現が、必ず「東北」という記号内容に象徴されている被差別部落につながるのか、ずっと理解できなかった。   小学2年生の時、父の仕事の関係で、私は日本で生活することになった。当時通うことになった某小学校の担任の先生は、中年のおじさんで、かなり怖い顔をしていた。私は真っ先に自分の皮膚が黄色であることを先生に言われるのではないかと心配した。しかし、先生は「今日から転校してきた解放くんだ、彼はとっても健康な皮膚の色をしているから、君たちも仲良く外で遊んで同じ色になろうね」と、みんなの前で私を紹介した。もちろん、当時の私は日本語が全く分からなかったので、先生の言うことを理解できたわけではなく、私が段々日本語を話せるようになった時に、同級生から聞かされたのだ。担任の先生には言葉では表せないほどの感謝の気持ちでいっぱいだ。   この事を境に、私は自分の皮膚の色を気にしなくなり、他人と同じであると思うようになった。日本で過ごした数年間は私にとって生涯この上なく幸せな時となった。この日本での楽しい記憶はいつになっても消えることがなかった。大学の専攻を日本語にしたのもこの実体験に影響されていると言ってよい。そして大学卒業後、日本の大学院に進学することを決めた。   大人になってから、黄色い皮膚が何を意味するか十分わかるようになった。黄色い皮膚が「被抑圧者」の表象であることを、この身で実感したことによって、人種差別がどれほど人間を傷付けるかも理解した。幸運なことに、私が在学している東京外国語大学は、海外からの留学生が非常に多く、私の黄色い皮膚は、多様な皮膚の色の中の一種にしか過ぎず、何も気にせずに学校で生活できている。日本に留学しているこの数年間、私は一度も、自分の皮膚のことや、訛りのある発音などを笑われたことはなかった。   もちろん、どこでも差別が存在することは否定できない。ただし、教育水準が高ければ高いほど、差別の発生確率が低いことが既に実証されている。一定の知識が共有されることによって、差別を完全に無くせないにしても、かなり抑制することは可能であると言える。日本が私を魅了したのは、和食でもなく、金閣寺でもなく、もちろんAKBでもない。私は、この教育と未来に投資する姿勢に惹かれたのである。これから、祖国も段々と発展していくと思うが、日本と同じように、未来に投資してほしいと願っている。   <解放(かい・ほう)Xie_Fang> 渥美国際財団2018年度奨学生。中国(大陸)出身。現在東京外国語大学博士後期課程在学中。研究分野は日本近代文学と比較文学。研究対象は引揚げ文学と震災後文学。     2019年7月11日配信  
  • エッセイ601:フーリエ・アキバリ「日本にまだいる自分たち」

    今から30年前の1980年代後半、父の留学にともない、私が3歳の時に、イランから日本に初めて来た。当時はイランから日本への留学生は珍しく、父はイラン人留学生の最初の世代だった。   その頃は日本のバブル景気が始まり、経済も絶好調を迎え、その噂はイラン国内にも広がっていた。なぜなら、イラン革命後に多くのイラン人が仕事を探していたから。1974年、イランと日本の間で「ビザ相互免除協定」が結ばれ、イランからビザなしで日本へ入国できることになったという条件が重なり、仕事を求めて多くのイラン人の若者が日本に滞在し始めた。一番ピークの1992年には4万人いたともいわれている。したがって、過去最高に多くのイラン人が日本にいたころ、私たちも日本に住んでいたというわけである。   そして、イラン人が多く集まる場所がなぜか東京の上野公園であった。日曜日の公園は、イランの食べ物や情報交換の場でミニペルシアタウンとなっていた。時にはイランの有名な歌手やアーティストも来日し、コンサートを開いていた。私も小さい時は家族と一緒に、イランの食材や音楽、映画を目指して上野まで行った記憶がある。   当時を振り返ると、父について不思議な思い出が残っている。 私が小学校3年生のころ、博士論文の執筆で忙しくしていた父が、夜の11時頃になると週に何回か高級車が迎えに来て、そして朝方に帰ってくる。昼間は大学で忙しいから、夜にバイトでもしているのかと気になった私は、ある日母に理由を尋ねた。すると母は、「今、不法滞在などで多くのイラン人が刑務所に入っているため、ペルシア語と日本語ができる通訳者が不足している。警察が父のような留学生にも通訳の依頼をしている」と教えてくれた。   父の留学が終わり、1995年に私たちはイランへ帰国した。同時に日本に労働に来ていたイラン人も帰国し始めていた。   イランに帰国後も、私は時々街で日本で働いていたイラン人と出会うことがあった。私はたまに、母と日本語で会話をすることがある。まさかイランで、イラン人には分からないだろうと思い、人が多くいる場所でも気楽に何でもおしゃべりしてしまう。しかし、タクシーやスーパーで日本語で会話をしていると、「わたし、日本語分かるよ!」とか「日本語上手だね!」とか、イラン人のドライバーなどに声を掛けられびっくりしたことが何度もある。   また、学生時代にテヘラン大学で一般市民を対象に日本語を教えていた時も、日本に住んでいたことのあるイラン人が多く勉強をしにきていて、日本人の生真面目さや礼儀正しさ、日本での80年代の思い出を話してくれた。   初めての来日から18年後の2013年、今度は自分が留学生として来日した。博士課程では、社会言語学という分野で、5年以上日本に滞在しているイラン人を対象に調査を始めた。私の研究は、彼らの日本語使用の実態を明らかにすることを目標としていた。日本語を習得し、話せるようになるまで、それぞれの日本での生活経験や職業もかかわってくることから、私は決まって被験者から「ライフストーリー」を聞くようにした。   対象者の中には学生もいるが、80年代後半に労働者として日本に渡ってきた人も多くいた。現在、日本で結婚し、家庭を持ち、そして立派なペルシア料理のレストラン、スーパーマーケットや会社を経営しているイラン人もいる。   私は彼らの前に座り、「自分のライフストーリーを話して下さい」と調査を始めるとき、いつも不思議な気持ちになる。20代に来た彼らは、今40代、50代になり、いつの間にか、小学生だった私も大人の女性になっていた。そして、今、研究者として彼らの前に座っている。歩んでいる道は違うかもしれないが、私は何か彼らと共通点があるような気がする。それは、日本にまだいる自分たちである。日本を愛し、楽しい思い出もつらい思い出もこの地にもっていること。日本という国が自分たちを成長させてくれ、たくさんの経験を学ばせてくれたことである。私たちは、日本という大きな共通点をもっている。   これからも、私は、日本に住んでいるイラン人コミュ二ティを見ていきたい。さまざまな背景や理由で日本に住んでいる私たちであるが、今後も日本でたくさん成長しそれぞれの道を歩んでいくことだろう。この小さなコミュ二ティの話をもっと日本人に伝えたいと思っている。   <フーリエ・アキバリ Hourieh_Akbari> 渥美国際財団2017年度奨学生。イラン出身。テヘラン大学日本語教育学科修士課程卒業後、来日。2018年千葉大学人文社会科学研究科にて博士号取得。現在千葉大学人文公共学府特別研究員。白百合女子大学の非常勤講師。研究分野は、社会言語学および日本語教育。研究対象は、日本在住のペルシア語母語話者の言語使用問題。       2019年6月20日配信
  • エッセイ600:江永博「学問の方法について」

    葉文昌さんから私のエッセイにコメントをいただき、ありがとうございます。人名に対するご指摘について反論はありません。また、葉さんのエッセイの中で、メディアに対するご指摘もごもっともだと思います。さらに、立場によって、ある程度の偏見または無理解・無関心は誰にでもあることに対しても同意します。しかし、歴史研究者の自分にとって、その理論展開の仕方は理解し難いところがあります。   まず、現在台湾の中でも中国に対して「支那」と呼ぶ一部の人がいます。自分は「台湾人」だから「支那人」と区別しようとする意図があるからです。葉さんは「『シナ人』は現代ではなぜか差別用語となっておりますが、当時はシナ(ChiNa)が中国の名称で、差別用語ではなかったことから、そのままにしています」とおっしゃいますが、戦前、少なくともアヘン戦争以後、「支那」という言葉にマイナスな意味が含まれていると指摘した研究はたくさんあります。日本における1911年より前の中国の呼び方に対して、「清国」から「支那」への変化には意味があります。また、民国になってから、中華民国は日本政府に「支那」という用語に対して、何回か抗議したこともあります。もし、差別用語でなければ、中華民国は抗議しないでしょう。さらに、もし当時の人々が差別と思わずに使っていれば、現在の人々も使って大丈夫という考え方でしたら、当時の植民地政権は台湾人のことを普通に「土人」と呼んでいましたので、今、台湾人のことを「土人」と呼んでもいいことになってしまいます。   次に、男女それぞれ5人の中の1名に先住民族の血統を持つという例え話ですが、現在の学校でも一つのクラスに自分は先住民族だと主張できる人は1人いるかどうかというレベルだと思います。10%という前提がどこからきたかは最初の問題です。そして、その10%の割合から現在に85%に至るまでの計算方法=台湾2358万人の血統を説明しようとする方法に対しても、私には理解し難いです。私は文系なので、理系の研究方法については疎いですが、どこからきたかも分からない数字を何の根拠もなく、さらに恣意的に2358万人まで広げようとする印象を受けました。理論の展開はいずれも推論に過ぎず、ちゃんとした研究データが提示されていないです。   さらに、漢民族の台湾への移住は400年前まで遡れるとおっしゃいますが、漢民族の移民はオランダ領有時期(1624~62)の前まで遡れます。また、「清国」の女性移民禁止政策が取り上げられて、漢民族は先住民族と結婚するしかないと説明されています。確かに女性移民禁止政策があって、そのために一人で台湾に行ったが、仕事もせず経済能力もない漢民族男性は「羅漢=[月+卻]」(luohanjiao:ごろつきの独身男子)と呼ばれていましたが、これは清国領有前期の政策で、のちに緩和されました。さらに、歴史史料には、植民地統治前、先住民族が漢民族の首を狙い、漢民族が先住民族の肉を食べるような記述はたくさん見られます。先住民族と漢民族の婚姻が進んでいたとは考えにくいです。私のエッセイの中でも言及しましたが、確かに山の麓周辺では一部の漢民族は先住民族と結婚し、漢民族と先住民族の架け橋のような役割を果たしていました。しかし、それは極めて稀な例だったのです。   歴史研究者から見ると、葉さんの文章の中には、歴史の史料を見ずに、「科学的な手法」と大量の恣意的な解釈で構成されている部分があるように思われます。分野によって、研究方法の差もあると思いますが、文献を重視しながら史料批判の訓練を受けてきた私にとっては理解に苦しむところがあります。   <江永博(こう・えいはく)CHIANG_Yungpo> 渥美国際交流財団2018年度奨学生。台湾出身。東呉大学歴史学科・日本語学科卒業。2011年早稲田大学文学研究科日本史学コースにて修士号取得。2019年4月から一般企業で働きながら、研究生として早稲田大学文学研究科日本史学コースに在籍、「台湾総督府の文化政策と植民地台湾における歴史文化」を題目に博士論文の完成を目指す。早稲田大学東アジア法研究所RA。専門は日本近現代史、植民地時期台湾史。     2019年6月13日配信  
  • エッセイ599:葉文昌「学問の独立について」

    江永博さんのエッセイ「学問の独立と私」を拝読しました。その中で「自分の意見が異なるとしても、互いに尊重し合うのが民主国家である」とありました。これには私も賛同します。しかし現実には、人それぞれが持つ偏見や無理解によって、学問の独立が脅かされる例を、江さんのエッセイから指摘したいと思います。   江さんは「自分の思想を主張する為に…、研究の方法を工夫する研究者が現れた」一例に、台湾大学医学部教授の「林母利」氏が提出した「台湾人の85%は先住民族の血統を持っている」という主張を紹介されました。江さんは林氏が間違っている根拠に、法学者岡松参太郎が残した、「我臺灣ニ於テハ其人民ハ悉ク皆支那人種ニシテ然カモ未開ノ民ニ非ス特殊ノ文化ヲ有シ特別ノ性情ヲ具フ」(葉訳:わが台湾においては、その人民はすべてシナ人種にしてしかも未開の民と異なる特殊の文化を有し特別の性情を持つ」を挙げています。(「シナ人」は現代ではなぜか差別用語となっておりますが、当時はシナ(ChiNa)が中国の名称で、差別用語ではなかったことから、そのままにしています。)   「林母利」の発表(2000年代後半)は台湾で一大論争を起こしたので印象に残っています。改めて調べてみましたが、「林母利」は、「林媽利」氏の誤記であるという事がわかりました。この誤記はさておき、「台湾人の85%は先住民族の血統を持っている」は人々の関心をそそる表現ではありましたが、「血統」とはDNAを持つこととすれば、林媽利氏は自明な事を、DNA調査によって証明しただけ、と思いました。そこで簡単な統計的なシミュレーションをやってみました。   男女それぞれ5人いて、その中で男女どちらかの1名に原住民の血があるとします。すなわち人口の10%が混血者です。清国は女性の台湾への移民を禁止していた時期もあったので多少の混血はおかしいことではないと思います。そして全員結婚して次代には男女それぞれ1名が生まれ、且つ兄弟間は結婚できないとします。この仮定では人口は増加しませんが、当時は風土病などで人口自然増は極めて緩やかだったので、妥当かと思います。2代目では原住民の血を持つ人は男女各1名で、原住民の血を持つ人は全体の20%になります。3代目では、40%になります。そして4代目では、60%台になります。わずか、ひ孫の代で、混血者は60%台になるのです。漢民族が台湾へ最初にやってきたのは400年前です。1代20年とすると20代分もあります。戦後に中国から台湾へやってきた所謂「外省人」が10%で、且つ血統を重んじる名門家族も各地に居たことから、「85%は原住民の血統を持っている」という結果は至当極まりないことなのです。   更にもう一つ、最近科学界を揺るがした研究例を示します。ネアンデルタール人は人類と異なる種で(または亜種)、4万年前に絶滅しました。種が異なるので、従来では混血はほとんどなかったと考えられていました。しかし最近のDNA研究で、黒色人種以外の現生人類にはネアンデルタール人の遺伝子が1-4%混入していることがわかりました。異種にもかかわらず1-4%の濃度はとても高いものです。これはすなわち、「黒色人種以外の現生人のほぼ100%はネアンデタール人の血統を持つ」とも言えます。漢族と台湾原住民族は同じ種で、400年も同じ土地に住んでいるのだから、混血は当然なのです。   台湾では林氏の発表は大変注目されました。台湾での親中国メディアは批判、反中国メディアは賛同、と世論は二分化しました。新しい情報が入った時、メディアまたは世論はまずは我側にとって都合良いか否か?が先にあって、それから都合良いように理論づけしているというのが、私が台湾のメディアまたは世論に持った感想でした。どちらにも真実はありません。林氏は研究成果を発表してから、一部世論の批判の嵐にさらされたようです。人々の偏見や無理解によって、誰もが学問の独立を脅かすことに加担する一例であります。私も含めて偏見や無理解は誰にでもあります。気をつけねばなりません。   最後に、私が林氏の擁護をしているからには、江さんが指摘した台湾の統一と独立のうちの後者と読者から思われているかも知れません。でも全く関係ありません。私は単純に林氏の発表が真っ当な研究結果であると思ったからです。   <葉文昌(よう・ぶんしょう)YEH_Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。     2019年6月13日配信  
  • エッセイ598:アメリ・コーベル「私の20代を振り返って」

    (私の日本留学シリーズ#32)   日本との縁が少ないフランスの田舎の環境で生まれ育った私が、「日本」と関わるようになったのは、15歳の時である。それまで第三外国語として学んでいたラテン語には実用性を見出せず、高校進学をきっかけに、思い切ってラテン語をやめ、新しい言語を学び始めることにした。4つの選択肢(ドイツ語、イタリア語、ブルターニュ語又は日本語)から日本語を選んだのは2つの理由がある。   1つ目は日本語講師の先生はフランス人でありながらもアフリカ生まれで、大学時代に日本語の他にスワヒリ語も学習していたという非常に奇妙な人物像に魅力を感じたこと。2つ目は「珍しい」言語への単なる好奇心であった。確かに、当時アニメを見たり、ポケモンのゲームで遊んだりすることもあったが、そういったポップカルチャー的なものを「日本」という国とあまり結び付けていなかった。単なる好奇心から始めた日本語の学習であったが、それがその後の私の人生を大きく左右することになる。   次の契機が訪れたのは、20歳の時だった。進学したパリ政治学院では、1年間の海外留学もしくは長期インターンシップが必須となっており、それをきっかけに初めて日本を訪れた。ちょうど10年前のことだ。留学先は慶応義塾大学の日本語・日本文化教育センターだった。1年間も日本語学習だけに費やすことを決断したのは、日本語を本格的にマスターできるのは、このチャンスしかないと思ったからである。この最初の留学を機に、日本語能力を上達させ、将来、日本研究の道に進みたいという意思も固めることができた。おまけに現在の夫となる人に出会った。   フランス帰国後、パリ政治学院の政治学研究科に進学し、比較政治・政治社会学・政策過程論を中心に学問に励んだ。詳しい往復歴は省略するが、その後更に3回も日本に留学している。2度目は一橋大学の社会学研究科(2011-12年)、3度目はお茶の水女子大学のジェンダー研究所(2015-16年)、4度目は再び一橋大学(2018年度)。それぞれの留学経験は学位取得に繋がるものではなく、日本語能力向上やデータ収集等を目的としていた。実は博士課程へ進学する際に、日本の大学も考えたが、法学研究科に属することが多い日本の政治学はある意味「古典的」で、フランスならではの社会学を交えた批判的な政治学の方が自分には合っていると思い、再び自国の大学の進学を決めた。   履歴の説明はこのぐらいにしたいと思う。残り少ない字数を使って、この10年間の日本での暮らしを振りかえってみたい。   初対面の人に必ず聞かれる質問は「日本の暮らしはどのぐらい長いですか?」。フランスと日本の間を行ったり来たりした私にとっては非常に答えにくい質問である。今回のエッセイをきっかけに、計算をしてみた。答えは6年と4か月半である。長いのか、短いのかよくわからないが、20代の大半は日本で過ごしたことになる。この地に住み始めてから変わったこと、変わっていないことを少し紹介したいと思う。   まず、変わらないことから述べると、私が外国人であり続けることには変わりがない。白人の顔のままでいる限り、日本語がどれだけ上達しても、生活基盤を日本に置いても、他人から好奇心の対象になることには変わりがないと思う。この事実を受け止めてから、私のいくつかの行動には変化が見られた。   簡単な事例から行くと、まずスーパーのレジ係や街ですれ違った子供に英語で話しかけられても、「英語が母国語じゃねーぞ」という怒りの気持ちを上手に収めるようになった。海外で日本人が中国語で話しかけられる面倒さを想像していただくと分かりやすいと思う。   2つ目の変化は、名前に関するこだわりだ。日本に初めて留学した時は、自分の名前をカタカタで書くのが好きだった。更に言うと、憧れていた漢字名まで夫に作ってもらった。それに対して、近年は正式な場面においても、可能な限りローマ字を使っている。外国人であるなら、生まれつきの名で生きようという思いが強くなった。   3つ目の変化は、友達に在日歴が長い外国の方が増えたことである。実のことを言うと、最初に来日した際に日本語学習の妨げになるのを恐れて、他の留学生とあまり関わらないように心掛けていた。日本人の友達を作るのに必死だった。当時の気持ちが徐々に薄くなってきた。現在の親しい友達をみると、日本人は少ない方で、いたとしても海外経験のある方がほとんどである。夫もその一人だ。そして、落ち込んだ時に支えになってくれる親友はフランスにいる友人(日々スカイプの存在に感謝している)か、日本にいるヨーロッパ人の友達である。その実態を20歳の私が見たら、「同化の失敗事例」として残念がるに違いない。30歳を迎える私の方がよりリアリスティックだ。それは日本社会で生きる上でのサバイバル作戦なのだ。   話が少し暗くなったとは言え、ここにいて不幸なわけではない。移民生活はこういうもんじゃないか。10年後、40歳を迎えた際にまだ日本にいるならば、どのような変化がありどういった気持ちでこの地に生活しているのか、とても楽しみだ。   <アメリ・コーベル Amelie_Corbel> 渥美国際交流財団2018年度奨学生。フランス出身。パリ政治学院政治学研究科博士課程在籍。「日本における国際結婚の諸規制」を題目に博士論文執筆中。専門は公共政策分析、政治社会学、ジェンダー研究。これまでの留学先は慶応義塾大学、一橋大学、お茶の水女子大学の3校。       2019年6月6日配信  
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