SGRAかわらばん

  • エッセイ600:江永博「学問の方法について」

    葉文昌さんから私のエッセイにコメントをいただき、ありがとうございます。人名に対するご指摘について反論はありません。また、葉さんのエッセイの中で、メディアに対するご指摘もごもっともだと思います。さらに、立場によって、ある程度の偏見または無理解・無関心は誰にでもあることに対しても同意します。しかし、歴史研究者の自分にとって、その理論展開の仕方は理解し難いところがあります。   まず、現在台湾の中でも中国に対して「支那」と呼ぶ一部の人がいます。自分は「台湾人」だから「支那人」と区別しようとする意図があるからです。葉さんは「『シナ人』は現代ではなぜか差別用語となっておりますが、当時はシナ(ChiNa)が中国の名称で、差別用語ではなかったことから、そのままにしています」とおっしゃいますが、戦前、少なくともアヘン戦争以後、「支那」という言葉にマイナスな意味が含まれていると指摘した研究はたくさんあります。日本における1911年より前の中国の呼び方に対して、「清国」から「支那」への変化には意味があります。また、民国になってから、中華民国は日本政府に「支那」という用語に対して、何回か抗議したこともあります。もし、差別用語でなければ、中華民国は抗議しないでしょう。さらに、もし当時の人々が差別と思わずに使っていれば、現在の人々も使って大丈夫という考え方でしたら、当時の植民地政権は台湾人のことを普通に「土人」と呼んでいましたので、今、台湾人のことを「土人」と呼んでもいいことになってしまいます。   次に、男女それぞれ5人の中の1名に先住民族の血統を持つという例え話ですが、現在の学校でも一つのクラスに自分は先住民族だと主張できる人は1人いるかどうかというレベルだと思います。10%という前提がどこからきたかは最初の問題です。そして、その10%の割合から現在に85%に至るまでの計算方法=台湾2358万人の血統を説明しようとする方法に対しても、私には理解し難いです。私は文系なので、理系の研究方法については疎いですが、どこからきたかも分からない数字を何の根拠もなく、さらに恣意的に2358万人まで広げようとする印象を受けました。理論の展開はいずれも推論に過ぎず、ちゃんとした研究データが提示されていないです。   さらに、漢民族の台湾への移住は400年前まで遡れるとおっしゃいますが、漢民族の移民はオランダ領有時期(1624~62)の前まで遡れます。また、「清国」の女性移民禁止政策が取り上げられて、漢民族は先住民族と結婚するしかないと説明されています。確かに女性移民禁止政策があって、そのために一人で台湾に行ったが、仕事もせず経済能力もない漢民族男性は「羅漢=[月+卻]」(luohanjiao:ごろつきの独身男子)と呼ばれていましたが、これは清国領有前期の政策で、のちに緩和されました。さらに、歴史史料には、植民地統治前、先住民族が漢民族の首を狙い、漢民族が先住民族の肉を食べるような記述はたくさん見られます。先住民族と漢民族の婚姻が進んでいたとは考えにくいです。私のエッセイの中でも言及しましたが、確かに山の麓周辺では一部の漢民族は先住民族と結婚し、漢民族と先住民族の架け橋のような役割を果たしていました。しかし、それは極めて稀な例だったのです。   歴史研究者から見ると、葉さんの文章の中には、歴史の史料を見ずに、「科学的な手法」と大量の恣意的な解釈で構成されている部分があるように思われます。分野によって、研究方法の差もあると思いますが、文献を重視しながら史料批判の訓練を受けてきた私にとっては理解に苦しむところがあります。   <江永博(こう・えいはく)CHIANG_Yungpo> 渥美国際交流財団2018年度奨学生。台湾出身。東呉大学歴史学科・日本語学科卒業。2011年早稲田大学文学研究科日本史学コースにて修士号取得。2019年4月から一般企業で働きながら、研究生として早稲田大学文学研究科日本史学コースに在籍、「台湾総督府の文化政策と植民地台湾における歴史文化」を題目に博士論文の完成を目指す。早稲田大学東アジア法研究所RA。専門は日本近現代史、植民地時期台湾史。     2019年6月13日配信  
  • エッセイ599:葉文昌「学問の独立について」

    江永博さんのエッセイ「学問の独立と私」を拝読しました。その中で「自分の意見が異なるとしても、互いに尊重し合うのが民主国家である」とありました。これには私も賛同します。しかし現実には、人それぞれが持つ偏見や無理解によって、学問の独立が脅かされる例を、江さんのエッセイから指摘したいと思います。   江さんは「自分の思想を主張する為に…、研究の方法を工夫する研究者が現れた」一例に、台湾大学医学部教授の「林母利」氏が提出した「台湾人の85%は先住民族の血統を持っている」という主張を紹介されました。江さんは林氏が間違っている根拠に、法学者岡松参太郎が残した、「我臺灣ニ於テハ其人民ハ悉ク皆支那人種ニシテ然カモ未開ノ民ニ非ス特殊ノ文化ヲ有シ特別ノ性情ヲ具フ」(葉訳:わが台湾においては、その人民はすべてシナ人種にしてしかも未開の民と異なる特殊の文化を有し特別の性情を持つ」を挙げています。(「シナ人」は現代ではなぜか差別用語となっておりますが、当時はシナ(ChiNa)が中国の名称で、差別用語ではなかったことから、そのままにしています。)   「林母利」の発表(2000年代後半)は台湾で一大論争を起こしたので印象に残っています。改めて調べてみましたが、「林母利」は、「林媽利」氏の誤記であるという事がわかりました。この誤記はさておき、「台湾人の85%は先住民族の血統を持っている」は人々の関心をそそる表現ではありましたが、「血統」とはDNAを持つこととすれば、林媽利氏は自明な事を、DNA調査によって証明しただけ、と思いました。そこで簡単な統計的なシミュレーションをやってみました。   男女それぞれ5人いて、その中で男女どちらかの1名に原住民の血があるとします。すなわち人口の10%が混血者です。清国は女性の台湾への移民を禁止していた時期もあったので多少の混血はおかしいことではないと思います。そして全員結婚して次代には男女それぞれ1名が生まれ、且つ兄弟間は結婚できないとします。この仮定では人口は増加しませんが、当時は風土病などで人口自然増は極めて緩やかだったので、妥当かと思います。2代目では原住民の血を持つ人は男女各1名で、原住民の血を持つ人は全体の20%になります。3代目では、40%になります。そして4代目では、60%台になります。わずか、ひ孫の代で、混血者は60%台になるのです。漢民族が台湾へ最初にやってきたのは400年前です。1代20年とすると20代分もあります。戦後に中国から台湾へやってきた所謂「外省人」が10%で、且つ血統を重んじる名門家族も各地に居たことから、「85%は原住民の血統を持っている」という結果は至当極まりないことなのです。   更にもう一つ、最近科学界を揺るがした研究例を示します。ネアンデルタール人は人類と異なる種で(または亜種)、4万年前に絶滅しました。種が異なるので、従来では混血はほとんどなかったと考えられていました。しかし最近のDNA研究で、黒色人種以外の現生人類にはネアンデルタール人の遺伝子が1-4%混入していることがわかりました。異種にもかかわらず1-4%の濃度はとても高いものです。これはすなわち、「黒色人種以外の現生人のほぼ100%はネアンデタール人の血統を持つ」とも言えます。漢族と台湾原住民族は同じ種で、400年も同じ土地に住んでいるのだから、混血は当然なのです。   台湾では林氏の発表は大変注目されました。台湾での親中国メディアは批判、反中国メディアは賛同、と世論は二分化しました。新しい情報が入った時、メディアまたは世論はまずは我側にとって都合良いか否か?が先にあって、それから都合良いように理論づけしているというのが、私が台湾のメディアまたは世論に持った感想でした。どちらにも真実はありません。林氏は研究成果を発表してから、一部世論の批判の嵐にさらされたようです。人々の偏見や無理解によって、誰もが学問の独立を脅かすことに加担する一例であります。私も含めて偏見や無理解は誰にでもあります。気をつけねばなりません。   最後に、私が林氏の擁護をしているからには、江さんが指摘した台湾の統一と独立のうちの後者と読者から思われているかも知れません。でも全く関係ありません。私は単純に林氏の発表が真っ当な研究結果であると思ったからです。   <葉文昌(よう・ぶんしょう)YEH_Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。     2019年6月13日配信  
  • エッセイ598:アメリ・コーベル「私の20代を振り返って」

    (私の日本留学シリーズ#32)   日本との縁が少ないフランスの田舎の環境で生まれ育った私が、「日本」と関わるようになったのは、15歳の時である。それまで第三外国語として学んでいたラテン語には実用性を見出せず、高校進学をきっかけに、思い切ってラテン語をやめ、新しい言語を学び始めることにした。4つの選択肢(ドイツ語、イタリア語、ブルターニュ語又は日本語)から日本語を選んだのは2つの理由がある。   1つ目は日本語講師の先生はフランス人でありながらもアフリカ生まれで、大学時代に日本語の他にスワヒリ語も学習していたという非常に奇妙な人物像に魅力を感じたこと。2つ目は「珍しい」言語への単なる好奇心であった。確かに、当時アニメを見たり、ポケモンのゲームで遊んだりすることもあったが、そういったポップカルチャー的なものを「日本」という国とあまり結び付けていなかった。単なる好奇心から始めた日本語の学習であったが、それがその後の私の人生を大きく左右することになる。   次の契機が訪れたのは、20歳の時だった。進学したパリ政治学院では、1年間の海外留学もしくは長期インターンシップが必須となっており、それをきっかけに初めて日本を訪れた。ちょうど10年前のことだ。留学先は慶応義塾大学の日本語・日本文化教育センターだった。1年間も日本語学習だけに費やすことを決断したのは、日本語を本格的にマスターできるのは、このチャンスしかないと思ったからである。この最初の留学を機に、日本語能力を上達させ、将来、日本研究の道に進みたいという意思も固めることができた。おまけに現在の夫となる人に出会った。   フランス帰国後、パリ政治学院の政治学研究科に進学し、比較政治・政治社会学・政策過程論を中心に学問に励んだ。詳しい往復歴は省略するが、その後更に3回も日本に留学している。2度目は一橋大学の社会学研究科(2011-12年)、3度目はお茶の水女子大学のジェンダー研究所(2015-16年)、4度目は再び一橋大学(2018年度)。それぞれの留学経験は学位取得に繋がるものではなく、日本語能力向上やデータ収集等を目的としていた。実は博士課程へ進学する際に、日本の大学も考えたが、法学研究科に属することが多い日本の政治学はある意味「古典的」で、フランスならではの社会学を交えた批判的な政治学の方が自分には合っていると思い、再び自国の大学の進学を決めた。   履歴の説明はこのぐらいにしたいと思う。残り少ない字数を使って、この10年間の日本での暮らしを振りかえってみたい。   初対面の人に必ず聞かれる質問は「日本の暮らしはどのぐらい長いですか?」。フランスと日本の間を行ったり来たりした私にとっては非常に答えにくい質問である。今回のエッセイをきっかけに、計算をしてみた。答えは6年と4か月半である。長いのか、短いのかよくわからないが、20代の大半は日本で過ごしたことになる。この地に住み始めてから変わったこと、変わっていないことを少し紹介したいと思う。   まず、変わらないことから述べると、私が外国人であり続けることには変わりがない。白人の顔のままでいる限り、日本語がどれだけ上達しても、生活基盤を日本に置いても、他人から好奇心の対象になることには変わりがないと思う。この事実を受け止めてから、私のいくつかの行動には変化が見られた。   簡単な事例から行くと、まずスーパーのレジ係や街ですれ違った子供に英語で話しかけられても、「英語が母国語じゃねーぞ」という怒りの気持ちを上手に収めるようになった。海外で日本人が中国語で話しかけられる面倒さを想像していただくと分かりやすいと思う。   2つ目の変化は、名前に関するこだわりだ。日本に初めて留学した時は、自分の名前をカタカタで書くのが好きだった。更に言うと、憧れていた漢字名まで夫に作ってもらった。それに対して、近年は正式な場面においても、可能な限りローマ字を使っている。外国人であるなら、生まれつきの名で生きようという思いが強くなった。   3つ目の変化は、友達に在日歴が長い外国の方が増えたことである。実のことを言うと、最初に来日した際に日本語学習の妨げになるのを恐れて、他の留学生とあまり関わらないように心掛けていた。日本人の友達を作るのに必死だった。当時の気持ちが徐々に薄くなってきた。現在の親しい友達をみると、日本人は少ない方で、いたとしても海外経験のある方がほとんどである。夫もその一人だ。そして、落ち込んだ時に支えになってくれる親友はフランスにいる友人(日々スカイプの存在に感謝している)か、日本にいるヨーロッパ人の友達である。その実態を20歳の私が見たら、「同化の失敗事例」として残念がるに違いない。30歳を迎える私の方がよりリアリスティックだ。それは日本社会で生きる上でのサバイバル作戦なのだ。   話が少し暗くなったとは言え、ここにいて不幸なわけではない。移民生活はこういうもんじゃないか。10年後、40歳を迎えた際にまだ日本にいるならば、どのような変化がありどういった気持ちでこの地に生活しているのか、とても楽しみだ。   <アメリ・コーベル Amelie_Corbel> 渥美国際交流財団2018年度奨学生。フランス出身。パリ政治学院政治学研究科博士課程在籍。「日本における国際結婚の諸規制」を題目に博士論文執筆中。専門は公共政策分析、政治社会学、ジェンダー研究。これまでの留学先は慶応義塾大学、一橋大学、お茶の水女子大学の3校。       2019年6月6日配信  
  • エッセイ597:江永博「『学問の独立』と私」

    近年中国は、驚くほどの飛躍的な経済発展を成し遂げた。しかし、学問の世界では必ずしも同じように進展したわけではなかった。お世話になっている先生の中に、近年中国側の学者と頻繁に交流する方がいらっしゃる。中国で公開される予定であった論文が検閲に引っかかって公開禁止となっていたところ、中国側の先生の努力によって、一部黒塗りという形で公開されることになった。   この話を別の先生にお話しすると、その先生は一部黒塗りされた論文はもはや自分の論文ではなくなるのではないかと指摘し、早稲田大学の「学問の独立」の精神についても話された。早稲田出身者として、「学問の独立」の立場から見ると、このような妥協しない精神はまさにその通りだと思う。ただし、自分の中では少し葛藤があった。検閲に引っかかる度に情報発信を断念したら、最終的に如何なる情報も発信できなくなる可能性もある。厳しい環境の中で、検閲に引っかかる部分があっても諦めず、発信しつづけるのも、「学問の独立」の異なる在り方ではないかと考えた。   筆者の出身地の台湾では、上述したような検閲はないが、近年では別の意味で「学問の独立」が問われている。海外で台湾の話をすると、よく独立と統一とどちらを支持するのかと尋ねられる。実際のところ、台湾内部では独立にも統一にもそれぞれに相当の支持者がいる。自分なりの思想を持っていれば、独立でも統一でも個人の自由であり、自分と意見が異なるとしても、互いに尊重し合うのが民主国家である。   しかし、近年台湾社会では政治的イデオロギーの対立が激化し、自分の思想を主張するための論理的な根拠を得るために、研究の方法を「工夫」する研究者も現れた。その代表的な例として取り上げられるのが台湾人の血統論争であり、そのきっかけは、台湾大学医学院教授の林母利氏が提出した台湾人の85%は先住民族の血統を持っているという説である。 近現代史を研究している筆者から見ると、それは理解に苦しむ学説である。なぜなら、まず台湾の植民地時期に「台湾私法」を作った著名な法学者岡松参太郎は以下のような記述を残した。「我臺灣ニ於テハ其人民ハ悉ク皆支那人種ニシテ然カモ未開ノ民ニ非ス特殊ノ文化ヲ有シ特別ノ性情ヲ具フ」。この史料の中には差別的な用語が見られるが、ここから戦前の帝国日本に支配された植民地台湾はほとんど特殊の文化と特別な性情を有する漢民族によって構成されていたことが分かる。次に、その大多数の漢民族と先住民族の関係について、山地の麓周辺では双方間の婚姻関係を持つ人々もいたが、その数は決して多いとは言えない。さらに、両者は清国領有時代のように敵対していたわけではないが、互いに関心がなく、それぞれ異なる「世界」で生活していた様子を様々な史料から見て取れるからである。   戦前、総督府の立場に近い物事に対して、「御用」の二文字が付けられ、「御用新聞」・「御用商人」・「御用学者」などの呼び方が見られる。しかし、近年の研究によると「御用新聞」と呼ばれていた新聞でさえ、総督府の政策を批判する記事がたくさんあり、筆者の研究によると「御用学者」と思われがちな旧台北帝大の教授たちも、総督府側に命じられた業務に従事しつつ、学者としての矜持・責任を持ち、厳しい環境の中である程度の「学問の独立」を実践した。例として取り上げられるのは、1930年代台湾総督府主導の「史跡名勝天然記念物保存」であり、その中には政治的な意図が含まれる帝国日本の台湾領有関連の「新しい」史跡が大量にある。一方で、オランダ時期・鄭氏時期・清国時期の指定保存も見られる。これら帝国日本領有前の指定保存は現在の台湾にとっても貴重かつ価値のあるものであり、台湾のアイデンティティにも繋がる存在となっている。   今回取り上げた3つの事例は時期も地域も異なるが、いずれも「学問の独立」の重要性を実感させられるものである。近年、歴史修正主義が問題になっているが、筆者は歴史研究者として、歴史を評価するのではなく、如何に歴史的事実を偏りなく大衆に伝えるかが自分の使命だと考えている。そして、早稲田出身者として、今後も「学問の独立」を常に念頭に置きながら研究を進めていくが、「学問の独立」は決して早稲田出身の人々が独占するものではない。寧ろ様々な分野・異なる国または大学の研究者と共有したいものであるからこそ、筆者はこの文書を綴ったのである。   〈江永博 CHIANG,  Yung_Po〉 渥美国際交流財団2018年度奨学生。台湾出身。東呉大学歴史学科・日本語学科卒業。2011年早稲田大学文学研究科日本史学コースにて修士号取得。2019年4月から一般企業で働きながら、研究生として早稲田大学文学研究科日本史学コースに在籍、「台湾総督府の文化政策と植民地台湾における歴史文化」を題目に博士論文の完成を目指す。早稲田大学東アジア法研究所リサーチアシスタント。専門は日本近現代史、植民地時期台湾史。       2019年5月30日配信
  • エッセイ596:楊淳婷「異文化交流を超えて」

    (私の日本留学シリーズ#31)   日本で幼少期を過ごしたことは、今思えば人生を左右した大きな出来事だった。台湾の大学で「日本文化」という科目を履修し、茶道や武士道などに関する知識を学んだのだが、正直、あまり共感できなかった。それより、『どんぐりころころ』のメロディー、紅白で対抗する運動会、ファミレスで食べるお子様ランチなど、日本の暮らしの中で触れた音、色や味など、身体感覚が伴った日常的な経験の方が私なりにしっくりくる「日本文化」である。大きな「国」という概念と、私的な経験の間に生じた「ズレ」を鮮明に意識するようになったきっかけは、博士後期課程に入って在日外国人と関連した芸術活動についての調査を始めたことである。   1990年代から日本は多くの出稼ぎ労働者を受け入れており、彼らは日本での生活基盤を整えて子どもたちを海外から呼び寄せている。両親または片方の親が外国人である子どもが日本に多数いる。これら「外国にルーツを持つ子ども」たちの多くは文化や言語のギャップに悩まされ、家族や同級生とのコミュニケーションに困難を感じている。私は彼らの境遇を知らずに、自身の研究を容易く「アートによる異文化交流」と最初は考えていた。   「アートによる異文化交流」といえば、自国の芸術・文化を他国に紹介し、他国から芸術・文化について紹介してもらうというショーケース的なイベントが想像されるだろう。実際私もそのような平行的な異文化交流に多数参加してきた。そこでよくある会話は、「日本ではこうだけど、台湾ではこうだ」というように、国や民族を基準とした文化比較である。しかし現実に、国を跨って日本で生活している人々は文化の狭間に生きており、出自の文化から遠ざかって(または知らないまま)日本社会にどんどん馴染んでいくのだが、日本で生まれ育ち、外国にルーツを持たないいわゆる「日本人」にはなりきれないところがあるのではないだろうか。また、アイデンティティの揺らぎを日々感じているのではないだろうか。   研究を通して、国や民族の枠組みでは捉えきれない外国にルーツを持つ子どもたちの現状を知っていくプロセスは、いつしか、日本と台湾を長年行き来してきた末、常に宙ぶらりんになったように感じる私自身を再認識する旅へとなっていた。そして、自身の過去と重ねて考えることによって、彼らの気持や課題に寄り添えるようになった。例えばある日、小学生の兄と歩いていたら、急に数名の男の子に追いかけられたことがあった。「走れ!」と兄の叫び声に驚いた私は、小さな体を必死に動かして兄の後ろについて行き、近くの草むらに隠れた。「なんで隠れるの」という疑問を抱えたまま忘れ去った一瞬の出来事は、数十年経った近頃になって記憶が喚起された。   外国にルーツを持つ子どもは、見た目や名前など些細な「違い」で目立ってしまい、排除の対象となる可能性が高いのである。当時の兄もそのような一人だった。小学生になった私は台湾に戻っていたため、二度と心臓をバクバクさせる体験に見舞われずに済んだのだが、研究の中でインタビューした複数の子どもたちの話から同じような悩みを抱えていることが分かった。このような小さな「異質性への排除」の積み重なりは、彼らの自信や希望を奪うことになり兼ねないのではないだろうか。   2018年末、外国人労働者の受け入れ拡大は大きな注目を集めた。外国人支援者たちは技能実習生の人権侵害の早期解決や、外国人の日本語教育を受ける権利を保障する法律の成立などを呼びかけた。特に、一部の自治体を除いてほとんどの学習支援の現場では助成金や人材が少なく、外国にルーツを持つ子どもたちの学習権が守られていないことが強調された。将来を見据えて外国人の子どもを日本社会に包摂するベクトルは、まだ十分に働いていないのである。   アートマネジメント・文化政策分野で学んでいる私にできることはとても限られている。しかし、少なくとも研究のテーマを然るべき方向へと修正することはできた。それは、表層的な異文化交流ではなく、在日外国人が直面している社会的排除の課題に向けて、アートを活用することの可能性を探ることであった。研究事例の一つ、「演劇ワークショップ」という実践では、外国にルーツを持つ子どもたちが自己表現の意欲に芽生えて生き生きとした姿を取り戻すことができており、その可能性が示されたように思えた。   「在日外国人の課題は、外国人だけの課題ではなくて日本人の課題でもある」と演劇人のすずきこーたが私に語ったように、この地に根を下ろす外国にルーツを持つ人々を「異邦人」ではなく、身近にいる「お隣さん」として捉えることを提案したい。日本で日常を送る「お隣さん」たちは、案外青椒肉絲(チンジャオロース)より納豆が好きで、花粉症に悩んでいて、様々な側面で「日本的」なのかもしれない。このような認識が広がることによって、異なる出自を持つ人々のふれあいは、異質なものがぶつかり合ってギクシャクする「異文化交流」から、多彩な糸が交差して織りなす色鮮やかな「多文化交流」へと、より積極的なイメージを持つようになるのではないだろうか。   <楊淳婷(ヤン・チュンティン)Yang Chun-ting> 東京藝術大学大学院音楽研究科・音楽専攻芸術環境創造領域・博士課程在籍中(2019年9月修了予定)。幼少期を4年間日本で過ごし、台湾国立政治大学で日本語を専攻。福岡教育大学の修士課程(美術教育)を修了後、(株)サンリオ台湾企画制作部の仕事を経て、博士課程に入学。2019年度現在はNPO法人音まち計画の主催事業「イミグレーション・ミュージアム・東京」(略称IMM)の企画統括を務める。主な論文は「アートによる多文化の包摂-日本人の外国人住民に対する『寛容な意識づくり』に着目して-」(『文化政策研究』第10号、2016年)がある。     2019年5月23日配信    
  • エッセイ595:ハリタイパン・ラリター「博士学生の私が体験したこと」

    (私の日本留学シリーズ#30)   博士課程の学生2人に1人は心理的苦痛を経験し、3人に1人は精神病のリスクがある。これは3000人以上の博士学生を対象とした調査の結果である。この調査によると、よくある症状としては、持続的な過労、憂鬱、心配による不眠などが挙げられる。この事実から、博士学生が抱えている問題を軽視してはいけないと言えるだろう。それで、私は生き残った1人の博士学生として、自分の3年間の経験を述べたい。決して全ての博士学生に同じような問題があるわけではないが、共感できる部分は少なからずあると思う。   私は子供の頃から勉強の面では成功していた学生だったが、博士課程の途中で気づいたら自信をどこかに失っていた。立場はまだ学生のままでも、勉強のプロセス・責任感が前と全く異なっていた。修士までは、試験でも研究でも与えられた問題を解決することに過ぎなかった。しかし、博士の研究は問題を見つける段階から全て自分の責任になった。また、その実績の判断手法も変わった。過去問があればできる試験問題のような学部生活はもうなかった。研究で何とか結果を出せば修了できる修士の生活ももう終わった。私の大学では、互いに面識のないレビュアーに論文を読ませて、納得させることができたら、論文を投稿できる。この論文数が修了要件である。つまり、勉強などの自分がコントロールできるものだけではなく、論文審査時間・レビュアー個人の意見などの自分でコントロールできないものもある。私のストレスの原因は主に自分でコントロールできないものだった。   論文を投稿するためには、提出先のジャーナルを選択することがとても大事だと体験した。私の分野では、ある程度有名なジャーナルだと、審査期間が短くて3ヶ月、長い時は6ヶ月以上もかかるのが普通である。審査期間の長いジャーナルに出してしまったら、博士課程の修了期間内に間に合わない。しかし、平均審査期間の情報は公開されないことが多い。しかも、私の論文をジャーナルに提出する前に、元指導教員による確認期間が9ヶ月以上もかかったので、最終的に提出できたのは、去年のはじめ頃だった。この確認期間を待っていたことが、私にとってストレスだった。元指導教員に何回聞いても「確認している」という返事ばかりだった。それでもなお私は先生の言葉を信じ続けていたが、ある日、突然海外に異動することを伝えてきた。その時、やっと自分が修了したいならもう自分でやるしかないと気付いた。   結局、私は指導教員を途中で変えることになった。しかし、この転機こそが修了できた理由だと考えている。自分でできることはやるしかないと考えを改めた私は、その後、自分でコントロールできないものはもう運に任せて、自分のコントロールできるものだけに集中し、投稿できる論文数の確率を稼ぐために、何本も論文を書き出した。審査中の論文を待ちながら、別の論文を書くか別の実験をするようにした。新指導教員の専門は、私の以前の研究と分野が同じではなかったものの、ありがたいことに論文の理論的な相談や面倒を見て頂いた。また、私が置かれていた状況についても理解してくださって、国際会議の出席許可と予算も出して頂いた。初めはめちゃくちゃだった博士論文も最終的には全体の筋が通るようになった。   この期間、私は全ての時間を研究や論文に使ったわけではなく、休みや遊ぶ時間もあった。しかし、気持ち(心情)的にはずっと疲れていた。遊んでいる時も、心から楽しめなかった。休んでも、まだ研究についての不安が頭の中のどこかにずっとあった。自分のやりたいことを始めようとしたら、罪悪感を感じてしまう。結局、携帯をいじって、時間を無駄に過ごし、スッキリした休みも取れず、罪悪感も感じる。このような悪循環の繰り返しだった。このような経験で、途中で諦めようという考えも数回よぎったが、私は期間内にもし自分の出来ること全てやったとしても、それでも修了できないなら自分のせいではないと心を決めてから、自分にかける圧力を減らすことができた。   博士修了と言っても単なる博士号だけなので、人によっては博士修了証明書がただの使わない紙になるかもしれない。学位よりも有意義なのは、学位を取得するための道の途中での経験である。研究で発見した知識より、新しい知識を発見するための方法の方が大事だ。人生において最も困難な経験かもしれないが、一生懸命に頑張って、障害を乗り越えたことは、教科書を超えた貴重なレッスンだと信じている。   最初に紹介した調査は以下からご覧になれます。 Levecque, K., Anseel, F., De Beuckelaer, A., Van der Heyden, J., & Gisle, L. (2017). Work organization and mental health problems in PhD students. Research Policy, 46(4), 868-879.   <ハリタイパン・ラリター Lalita_ Haritaipan> 2009年母国タイの高校卒業直後来日、1年間日本語勉強して、2014年東京工業大学制御システム工学科を卒業。2016年同大学大学院機械物理工学専攻修士課程修了。2019年同大学工学院機械系エンジニアリングデザインコース博士課程修了(工学)。現在、株式会社リブ・コンサルティング勤務。将来タイの現地法人に異動予定。     2019年5月16日配信  
  • エッセイ594:趙秀一「日本での留学と結婚から学んだこと」

    (私の日本留学シリーズ#29)   人間とは他者の生者/死者との記憶や出会いが形象化されている小説や映画などの物語から様々な間接的な経験をし、その一方で、現実においても様々な個々人との出会いという直接的な経験をすることで、知識や知恵を得ている存在であると言える。この一文は表題をめぐる私個人の認識を一般化したものである。   私は2011年4月4日、東京大学へ留学するために、3・11東日本大震災後の混乱期にあった日本に着いた。留学の目的は、韓国の修士課程から取り組んでいた金石範(キム・ソクボム、1925~ )という在日朝鮮人作家の日本(語)文学を読解するための方法論を、夏目漱石の研究者であり、文体論や語り論の理論家である小森陽一先生から学ぶことであった。   しかし、自分が思うようには小森先生のご指導を消化することはできなかった。自分の力不足を切実に覚えたのだが、何より金石範が小説のことばとして用いている「日本語」が上手く読み取れなかったので、東京大学での研究生1年と修士課程2年間は挫折ばかりで、なかなか立ち直ることができなかった。何とか締め切りに間に合わせて修士論文を提出し、修士号を取得したが、韓国での修士論文も納得できるものではなかった上に、やり直した東京大学での修士論文も自分に憤りだけを残したものに留まってしまった。今振り返ってみれば、情けないことだが、自分に対して怒りがおさまらなかったので、博士課程への出願を諦めた。   そういうわけで、1年間学校から離れた生活をして2015年度から再び東京大学に戻り今に至っている。ただ、その1年間は決して無駄な時間ではなかった。それまで自分が行なって来た研究を冷静に見つめ直すことも、金石範の大長篇小説『火山島』(『文學界』に1976年から1995年までの15年間、2回の長期連載後、文藝春秋より全7巻で刊行された。1984年度大佛次郎賞、1997年度毎日芸術賞に選ばれた作品である)をじっくり読み直すこともできた。   ところで、その1年間の最も大きな変化であり、私個人の人生におけるターニングポイントとなったのは、結婚であった。修士論文を書いていた時期、日本の友人に呼ばれて顔を出した食事会で一人の女性と偶然知り合って以来、交際に発展し、結婚を考えるようになった。彼女は、しきりに自分を追い詰める私を癒してくれたのみならず、何でも難しく考え込む私に色々なソリューションをいとも簡単に提示してくれた。悩みや喜びを分かち合えるという感情のおかげだったのか、考え方が前向きに変り始めた。   彼女と結婚するために、両家の両親に挨拶に行った。私の実家はソウル、彼女の実家は愛媛県松山。お互いの両親に挨拶するためには飛行機で移動せねばならなかった。反対はされなかったが、近い国同士とはいえ、婚姻をめぐる礼儀作法や婚姻届の提出、それから戸籍変更など、細かいところで文化が異なるので、理解し合うのに苦労した思いがある。それでも一所懸命説明し納得してもらった上で、韓国の家族に松山に来てもらって両家が顔合わせをし、その後、松山の家族や親族をソウルに招待して式をあげた。何とかコミュニケーションするために通訳アプリをダウンロードし話し合う母と義母の姿が印象的であった。そして何より嬉しかったのは、私たち夫婦の婚姻のため、ソウルと松山の家族が自然と海外旅行をすることになり、一生残る記憶をみんなで共有できたことである。個人的には、瀬戸内海の島々や石鎚山などに囲まれている松山の自然に触れることができたのと、新しい家族との出会いによって人間として一回り成長できたと思う。もちろん、学問も重要だが、どのように生きていくかという自分の生き方を考え直すきっかけとなった。   また、振り返ってみれば、様々な出会いがあった。金石範文学の研究において触れなければならないのが、1948年4月3日、済州島で起こった4・3抗争である。その真実究明に向けた市民運動として1988年組織されたのが「済州島4・3事件を考える会・東京」であるが、私も4年前からその会に実行委員として参加し、毎年4月に開かれる集会の運営にかかわっている。その実行委員の半分以上が日本人である。彼ら/彼女らの大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に対する真摯な姿勢には大変感銘を受け続けているし、彼ら/彼女らの観点に寄り添って物事を観ることも意識するようになった。   最後になるが、渥美国際交流財団の2018年度奨学生に選ばれて1年間様々な行事などを通じて一人では味わうことのできない価値ある経験ができたことも、今後の研究に大切な糧になるに違いない。何より、選考面接や今西常務理事との個人面談での質疑応答の記憶も大事にしたい。自己満足のための研究ではなく、それを越えて、研究成果を幅広く分有できるように自分の研究を分かりやすく説明できるスキルを一層身につけていきたい。   <趙秀一(チョウ・スイル)Cho_Suil> 東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程在籍中。「済州島4・3事件を考える会・東京」実行委員。2008年、韓国ソウルの建国大学校師範大学日語教育科卒業。2011年来日。2016年度日本学術振興会特別研究員(DC2)。主要論文としては、「金石範「看守朴書房」論―歴史を現前させる物語」(『朝鮮学報』第244輯、朝鮮学会、2017年)や「金石範『火山島』論―重層する語りの相互作用を中心に」(『社会文学』第47号、日本社会文学会、2018年)などがある。       2019年5月9日配信    
  • 金雄熙「第18回日韓アジア未来フォーラム『日韓関係の現在地と改善案』報告」

    2019年3月23日(土)、韓国ソウル市の未来人力研究院オフィスで第18回日韓アジア未来フォーラムが開催された。今回のフォーラムは、2018年8月にソウルで開催した第4回アジア未来会議の後、しばらく間をおいてこれまでの成果と課題を踏まえ、フォーラムの進め方などを整備して再スタートしようと思っていたところ、今西さんの緊急提案により、急きょ開かれるようになった。政治レベルにおける日韓関係の「軌道離脱」とも読み取れる異常な展開がその背景にあった。   日韓関係はどうしてここまで悪化してしまったのか。日韓の専門家たちは今の状況をどう診断し、どのような解法を提示するか。現状を打開するためには何をすべきか。今回のフォーラムでは日韓関係の専門家を日韓それぞれ5名ずつ招き、「日韓関係の現在地と改善案」について忌憚のない意見交換を試みた。   フォーラムでは、渥美国際交流財団関口グローバル研究会の今西淳子(いまにし・じゅんこ)代表による開会の挨拶に続き、日本と韓国から2名の専門家による基調報告が行われた。まず、木宮正史(きみや・ただし)東京大学大学院総合文化研究科教授は、「日韓関係をどう「科学」し、「実践」するのか」という題で、日韓関係の現状は、従来の相互対立を政策選好の共通性でカバーしてきた状況から、相互対立と政策選好の違いが増幅し、対立を管理せず、むしろ放置している状況であるとした。政策選好を接近させてそのために協力するということは難しいとしても、少なくとも各自の政策選好を妨害しないようなミニマムな合意を形成することは不可能ではないし、そうした政府による管理を可能にするような市民社会間関係は成立していると主張した。また、むやみに市民社会間関係の対立を刺激することで、そうしたことさえも困難にしてしまうような選択は控える必要があると強調した。   李元徳(リ・ウォンドク)国民大学教授は、「韓日関係の現在と改善の見通し」について報告した。1965年の国交正常化以来、外交的に冷え込み、好感度も急速に低下し、最悪の局面を迎えているが、人の往来、韓流は依然として健在である奇異な現象に触れた。日本国内の嫌韓、韓国内の反日の勢いは次第に強化されつつあり、日韓関係は攻守転換し、加害者・被害者関係の逆転現象が目立つようになったと診断した。そして最近の韓日関係の悪化要因の中で、「徴用工問題」が最も核心的な悪材料であるとしたうえで、3つのシナリオを提示した。シナリオ1は放置、シナリオ2は基金(財団設立)による解決、シナリオ3は司法的な解決(仲裁委員会または国際司法裁判所)で、そのうち、シナリオ3が選択可能な適切な道ではないかとの意見を示した。   コーヒーブレイクを挟んだ自由討論では、それぞれの立場や専門領域を踏まえた、内容の濃い議論が展開された。黄永植(ファン・ヨンシキ)元韓国日報主筆は韓国における言論の自由は委縮しており、日韓関係についても知識社会は沈黙していると批判した。徴用工問題については、その重要性を過大評価してはならないと強調した。堀山明子(ほりやま・あきこ)毎日新聞ソウル支局長は今こそ韓国政府が答えを出さないといけないと促した。木村幹(きむら・かん)神戸大学教授は1990年代半ば日本でみられたような「ガバナンスの崩壊」がいま韓国の対日政策で現れており、その回復こそが重要であるとした。また徴用工問題についてはICJ提訴で確定したほうが望ましいとした。朴栄濬(パク・ヨンジュン)国防大学教授は韓国の外交的孤立を憂慮しつつ、非核化・平和プロセスにおいて「日本軸」を活用する必要があるとした。 豊浦潤一(とようら・じゅんいち)読売新聞ソウル支局長は5か月以上放置されている徴用工問題をICJに提訴するのは日韓外交の敗北を認めることであり、基金(財団)方式以外の方法はないと指摘した。春名展生(はるな・のぶお)東京外国語大学准教授は「韓国被害・日本加害」という枠組みに嵌まらない事例もみつめるべく、国家対国家の図式を相対化する必要があるとした。木宮教授は徴用工問題より、北朝鮮の非核化問題の方がもっと重要でないかとコメントをした。南基正(ナム・キジョン)ソウル大学日本研究所教授は、日韓の間では、賠償を明記し日本の役割と努力の経緯をも認める「歴史宣言」が必要であるとした。また、ICJ提訴はレトリックであり、基金方式で日韓が積極的に解決すべきであるとした。金崇培(キム・スンベ)忠南大学助教授は、いまは韓国に分が悪い状況であり、日韓の差を認めたうえで話し合いを進めるべきであるとした。   最後は、李鎮奎(リ・ジンギュ)未来人力研究院理事長により、時宜にかなったテーマの選定に触れるコメントと閉会の辞で締めくくられた。閉会の辞が終わった午後5時半ごろからは、ケータリングスタイルで懇親会が始まった。まもなく会議場のオフィスはワインバーの雰囲気に一変し、案の定未来人力研究院のワインセラーは空っぽになり、日韓アジア未来フォーラムならではの「狂乱の夜」を再現した。   一般に「忌憚のない話し合いができた」とか「胸襟を開いて議論した」ということは、合意なしで終わったことを意味する場合が多い。今回のフォーラムでは、日韓の間で突っ込んだ話し合いを試みたわけだったが、結果は必ずしもそうだったとは言えないかもしれない。専門家グループによる国際会議ではそれぞれ自国の立場や国益を背負って議論する場合が大いにあるが、今回のフォーラムでは、国籍から離れ、理念的指向によって議論が分かれる場面がしばしば見られた。文在寅政府の「親日清算」や「対日ガバナンスの崩壊」については概ね冷ややかな評価で一致しているような感じもした。   いうまでもなく、良好な日韓関係は朝鮮半島の非核化、平和体制の構築、北東アジアの平和と繁栄において欠かせないものである。日韓関係において正面の「理」のぶつけ合いだけでは互いに魅力を感じないし、側面の「情」だけを強調するのも根本的な問題解決にはならないはずである。昨今のように「理」や「情」が働く余地が狭くなり、背面の「恐怖」だけを振りかざしてマネジメントしようとすると、日韓関係は破綻してしまうはずである。これからはやはりこの3つの要素でバランスをとることが大切であろう。   最後に第18回目のフォーラムが休むことなく成功裏に終わるようご支援を惜しまなかった今西代表と李先生、そして遠くから「春鹿」と宴会に必要な物品などを空輸してくれた石井さんのご尽力に感謝の意を表したい。   当日の写真   <金雄煕(キム・ウンヒ)Kim_Woonghee> 89年ソウル大学外交学科卒業。94年筑波大学大学院国際政治経済学研究科修士、98年博士。博士論文「同意調達の浸透性ネットワークとしての政府諮問機関に関する研究」。99年より韓国電子通信研究員専任研究員。00年より韓国仁荷大学国際通商学部専任講師、06年より副教授、11年より教授。SGRA研究員。代表著作に、『東アジアにおける政策の移転と拡散』共著、社会評論、2012年;『現代日本政治の理解』共著、韓国放送通信大学出版部、2013年;「新しい東アジア物流ルート開発のための日本の国家戦略」『日本研究論叢』第34号、2011年。最近は国際開発協力に興味をもっており、東アジアにおいて日韓が協力していかに国際公共財を提供するかについて研究を進めている。     2019年5月2日配信    
  • エッセイ593:李鋼哲「『脱貧困』と『ユートピア』の実践-山東省南山集団訪問記-」

    2019年3月12日、中国山東省煙台市にある魯東大学における招待講演の翌日に、南山集団という中国有数の企業を訪問した。この企業に対して私は予備知識がなかったが、講演に同行した東京大学社会科学研究所のM教授から、「20数年前に訪れたことがあったが、改めて見学したい」との要望があったので、私も一緒に参加した。 南山集団は煙台市中心から60キロほど離れており、車で1時間半弱で着いた。煙台市傘下の海浜都市龍口市に拠点を構え、アルミ金属素材を主軸とし、紡績繊維、ワイン等の製造をしているが、その他にも教育や不動産、金融、旅行、健康など多岐にわたる産業を抱える複合企業グループに成長した。従来、貧しい村落であった広大な敷地を開発し、無数の生産工場や観光施設、従業員用の住宅施設などが建てられている。大半の村民をこの南山集団内で雇用しており、「村企合一」(村と企業が一体化)の民間企業として飛躍的に成長し、中国巨大企業ランキング500社のなかで170番目、中国製造業ランキング500社の中の71番目(いずれも2018年)とされ、傘下には100社ほどの子会社をもつ。南山集団が作ったアルミ製品は米国のボーイング社にも納品しているという。 ここではある企業を紹介するのが目的ではない。この企業を訪問してびっくりしたことを紹介したい。それはこの企業はユートピア(理想郷)的な生活環境を村民たちに提供していることである。企業理念は「故郷に造福し、社会に還元する」(「造福郷梓,回報社会」)こと。中国の改革開放政策の唱道者であった鄧小平氏が、かつて唱えた「先富論」(一部の人が先に豊かになり、豊かになった人が皆さんを引っ張って一緒に豊かになる)の実践者と言えるのではないか、と思った。 世界でも中国でも成功した大企業はいくらでもある。しかし、企業で作り上げた富を使って、周りの貧しい人々に豊かさをもたらす「共同富裕」を自ずと実践し、ユートピア的な楽園のような村を造った起業家はそんなに多くはない。もちろん、中国には他にも類似な事例があり、世界でもビル・ゲーツのように一代で富を築き上げ、その富で慈善基金団体を発足し、世界中の貧困撲滅のために頑張る方も大勢いる。 南山集団のユニークなのは、改革開放政策を実施して40年間、世界が注目する経済大国になった中国で、成長の歪として貧富格差の拡大が指摘される中で、村民全体を豊かにする実践者、宋作文・南山集団総裁の成功物語である。宋氏は、改革開放政策を実施する1978年に山村の生産隊長(村長)(私もその頃には生産隊の一農民であった)の身分で、村民数人と手を組んで村で起業し、ある程度成功した後は58世帯の村民全員を企業の一員とし、さらに規模を拡大して、周辺42村を吸収合併し、従業員が4万人、村民は14万人規模の巨大企業、そして企業を中心に一つの都市圏を作り挙げた。それだけではない。創業当時の村民全員には別荘のような高級住宅(面積178平米の一戸建て)を提供し、後に合併した村民たちには全員に138平米の住宅を支給したという。企業の敷地とその周辺の綺麗な環境、そして60万人規模の龍口市全体が、ガーデン・シティとして整備されている。 ガイドは我々を老人ホームに案内したが、そこはリゾート・ホテルを彷彿させる立派なもので、老人たちは安心してゆったりした生活を送っている様子が見えてきた。この村では60歳以上で希望さえすれば誰でも安い寮費または無料で入所できるという。したがって、この村14万人の中では1990年代末にすでに脱貧困が実現されたという。 南山集団には幼稚園から小、中学校、そして大学まで完璧な教育施設がそろっており、幼稚園からハイレベルの教育を行い、英語教師は米国から招いたという。煙台南山学院大学は私立大学であるが、在学生2万人以上、工学院、商学院、人文学院、航空学院など4つの学院があり、22学部と78学科を設けている。全国から学生を募集し、卒業生は希望さえすれば優先的に南山集団の社員になれるという。社員の約8割はこの大学の卒業生で大半は村の外部から来ているという。 旅行産業として、南山旅游景区は国家5A級(中国では最高級)観光地に評価され、敷地の丘の上には荘厳な大仏を建設し、仏教、道教、儒教の文化を取り入れた周遊観光施設を整備している。また、279ホールという巨大な規模のゴルフ場もある。その他リゾート・ホテル、住宅地、商業施設などが整備され、そこには外部の人でも住みたい場合には誰でも住宅を購入するか、賃貸して住むことができるという。筆者も老後生活地候補の一つにしたいと考えるようになった。 山村から企業を起こし、企業の成長だけではなく、村民たちが共同で富裕を実現し、40年の歳月で、貧困村からユートピア的理想郷を作り挙げた南山集団を見学しながら、筆者は感動せずにはいられなかった。 貧困撲滅のために、中国政府は今も必死に取り組んでおり、奇跡的な成果を上げていることは、かつて中国の貧困農村で生まれ育ち、必死の努力で農村の貧困から脱出した筆者にとっては、大いに称賛に値することである。現在の体制について、そして貧富格差などについては批判的な目を向けている筆者であっても、成果は成果として評価せざるを得ない。世界銀行のジム・ヨン・キム総裁も、中国が1990年以降に8億人を貧困から脱却させた功績は「人類史における素晴らしいストーリーの1つだ」と語った。 世界銀行は、世界における貧困率は1990年の36%(18億9,600万人)から2015年の10%(7億3,550万人)に減少し、2030年までに極度の貧困を世界全体で3%まで減らす、また、全ての途上国で所得下位40%の人々の所得拡大を促進する、という2つの目標を掲げている。世界の貧困撲滅に対する中国の貢献度は最も大きい。 中国政府は2020年に貧困人口をゼロにするという目標を掲げて一所懸命に取り組んでいる。政府の貧困ラインは年間所得2300元(約4万円、世界銀行の貧困ライン基準1日1.9ドルに比べると約半分程度と低いが、購買力平価計算では約3分の2程度))だが、2016年末時点でなお4335万人がそれを下回っている。毎年約1000万人を貧困から脱却させるのが政府目標であり、そのペースで行けば少なくとも公式に2020年までに深刻な貧困は解消されるはずであるという。財政部によると、2019年は貧困緩和策に昨年比30%増の860億元(約1兆3千億円)を充て、資金はインフラ整備のほか、教育や医療、地方農村部への補助金に充てられる。財政的な支援のみならず、人的支援・知的支援も上から下まで各級政府の優先課題の一つとし、貧困脱出難関攻略戦を実施して以来、各級政府や共産党組織の第1書記が、貧困村に駐在しながら農民と一緒に脱貧困作戦に取り組んでいるという。 今度の煙台市出張に先立って、筆者は海南島(中国の最南端にある中国のハワイと言われるリゾート)三亜学院大学でも講演を行った。少数民族が多い海南島の中でも貧困県がいくつかあり、保亭県(貧困県)党幹部をしている大学時代クラス・メイトは、事前に再会の約束をしたのが、県内の脱貧困鑑定の仕事が突如入って夜遅くまで取り掛かるので、それを優先せざるを得ないということで、予定を週末に変更してお会いした。脱貧困最前線での戦いの厳しさ、そして中国政府の本気度を実感した。 最後に個人的な体験話になるが、筆者は2回の脱貧困を体験した。1回目は、生まれ育った貧困山村での貧困農民で農業をしながら、必死の思いで独学し大学受験を4年間も続けた末、1981年に首都北京で大学生になり脱貧困を達成した。といっても、大学生の時は必ずしも食事が十分できたわけではなく、半貧困、栄養不良であったが。2回目は、北京で大学教員を辞職し、一文無しで渡航費などを借金して1991年に日本留学を決行した後、東京でアルバイトをして生計を立て、子育てをしながら10年間勉強した末に、何とか職を得たことで脱貧困した。 今度の中国訪問で強く感じたのは、自分は個人的には脱貧困できたのだが、故郷中国の脱貧困、さらには世界の脱貧困に何の貢献もできず、関心が欠如していたことに対して自分の心に葛藤が起きたことで、これまでの人生を見直すきっかけにもなった。「良き地球市民」と言いながら、現実の世界貧困から目をそらしてきたことで空しさを感じ、今後はそのような貧困問題を含めた社会問題にもっと目を向けて活動しなければならないと、自分なりに決意した。先進国の日本でさえ近年貧困問題が取りざたされ、特に子供の貧困率が上昇していると報道されているが、我々は決してこのような問題から目をそらすべきではない、と改めて考えるようになった。 南山集団の写真 <李鋼哲(り・こうてつ)Li_Kotetsu> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学大学院経済学研究科博士課程中退。東北アジア地域協力を専門に政策研究に従事し、2001年より東京財団研究員、名古屋大学研究員、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、06年現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を中心に国際舞台で精力的に研究・交流活動に尽力している。SGRA研究員および「構想アジア」チーム代表。近著に『アジア共同体の創成プロセス』(編著、2015年4月、日本僑報社)、その他論文やコラム多数。 2019年4月18日配信
  • ボルジギン・フスレ「第11回ウランバートル国際シンポジウム『キャフタとフレー:ユーラシアからの眼差し』報告」

    昨今、安倍首相とプーチン大統領による日露会談や北方領土をめぐる交渉が日本のマスコミに限らず、関係諸国のマスコミにもよく報道され注目を浴びている。実は、2018年は「ロシアにおける日本年」、「日本におけるロシア年」であり、また「シベリア出兵」百周年でもあった。この記念すべき年を迎えるにあたって、私どもは第11回ウランバートル国際シンポジウムのテーマを「キャフタとフレー:ユーラシアからの眼差し」に決めた。   歴史上、キャフタは単なる交易地ではなく、政治的あるいは軍事的な都市でもあり、北東アジアの秩序の形成に影響をあたえた重要な国際会議が何度も行われ、条約が結ばれた。また、19世紀半ば以降、多くのユダヤ人やタタール人などがキャフタを避難所とした。他方、明治以降、朝鮮半島、清朝を越えて、キャフタをはじめ、シベリアは、日本が深い関心をもった地域であった。19世紀後半から20世紀初期にかけて、榎本武揚や黒田清隆、福島安正など日本の多くの政治家や外交官、諜報将校、商人、唐行さんなどがキャフタを訪れ、日本商店や病院なども設けられていた。戦後の日本の経済成長が神話のように言われるが、その基礎は20世紀前半ではなく、19世紀にすでに築かれていたのである。あらたに地域研究、国際関係研究の視点からキャフタ、フレー(ウランバートルの前身)における歴史的空間を、ロシアと清だけではなく、日本とのかかわりをもふくめて検討することには、重要な意義がある。   シンポジウムの前日、すなわち2018年8月30日の夜、在モンゴル日本大使高岡正人閣下は、昭和女子大学学長金子朝子先生や東京外国語大学名誉教授二木博史先生、同大学講師上村明先生、高知大学湊邦生先生と私を大使館公邸に招いた。皆で食事をしながら、政治、鉱山開発、国際記憶オリンピック大会(この数年の大会でモンゴル国がトップに立ち注目されいる)、大相撲、そして日モ関係などについて歓談した。   第11回ウランバートル国際シンポジウム「キャフタとフレー:ユーラシアからの眼差し」は公益財団法人渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)と昭和女子大学国際文化研究所、モンゴル国立大学アジア研究学科の共同主催で、在モンゴル日本大使館、昭和女子大学、モンゴル科学アカデミー国際研究所、公益財団法人三菱財団、モンゴルの歴史と文化研究会の後援で、同年8月31日にモンゴル国立大学2号館学術会議室で実施され、モンゴル、日本、ロシア、中国、ドイツなどの国からの80名余りの研究者や大学院生、学生が参加した。   当日午前中の開会式では、在モンゴル日本大使高岡正人閣下、昭和女子大学学長金子朝子教授、モンゴル科学アカデミー副総裁G.チョローンバータル氏が挨拶と祝辞を述べた。その後、研究報告がおこなわれた。会議の公用語はモンゴル語・日本語であるが、モンゴル語の報告が主流を占め、日本語の報告にはモンゴル語通訳がつけられた。シンポジウムの質を高めるために、実行委員会は、招待研究者と応募者計22名の内、15本の報告を選んだが、ポーランドの若手研究者1名が旅費を得られなかったためか欠席し、実際には14本の論文が報告された。   本シンポジウムは、近年の研究の歩みをふりかえり、新たに発見された歴史記録に基づいて、ユーラシアの眼差しからキャフタとフレーにおける多様な歴史・政治・経済・文化的空間を考察し、その遺産を再評価しながら、今後、いかにその栄光を再興していくかなどをめぐって、創造的な議論を展開することを目的とした。   シンポジウム当日の夜の招待宴会では、馬頭琴やオルティンドー(長い歌)、ダンスなどが披露された。   本シンポジウムの成果を、以下の3項目にまとめたい。 第1に、従来、研究者が利用し得なかった、キャフタ、外モンゴルとかかわる地図を中心に検討する報告が多かったことは注目すべきである。 第2に、キャフタとかかわる国際条約についての研究が進展を見せた。 第3に、新資料を用いて、キャフタとフレーの近現代について検討した新説が提示された。   その詳細は2019年3月に刊行予定の『モンゴルと東北アジア研究』第4号と『日本モンゴル学会紀要』第49号にまとめたのでご参照ください。   また、同シンポジウムについては、モンゴル国の新聞『ソヨンボ』や『オラーン・オドホン』、モンゴルテレビなどにより報道された。   当日の写真   <ボルジギン・フスレ Borjigin_Husel> 昭和女子大学国際学部教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、ケンブリッジ大学モンゴル・内陸アジア研究所招聘研究者、昭和女子大学人間文化学部准教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編著『国際的視野のなかのハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2016年)、『日本人のモンゴル抑留とその背景』(三元社、2017年)他。     2019年4月12日配信
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