SGRAかわらばん

  • エッセイ449:謝 志海「日本の盲点: 冬の寒い住居」

    冬に日本へ一時帰国する海外在住の日本人の友人たちは、皆口を揃えて言う。「日本の冬は寒くて、過ごしにくい」と。彼らはみんな日本より寒い国や地域に住んでいるというのに、日本の家(主に彼らの実家)が寒いというのだ。私が勝手に抱いていたイメージは、日本の冬の「こたつでみかん」を楽しみにと思っていたのに、現実は違っていた。彼らが暮らしている国々は日本より冬が厳しいが、家中が暖かく保たれているそうで、日本の住居のように、暖房をつけた暖かい部屋を一歩出たら寒い廊下、そして寒いトイレに行くということが無いそうだ。思えば私が長年暮らしていた北京の冬は、日本より寒いが室内はどこも暑い程だった。家電製品は日々進化し、便利な生活を整えるため次から次へと新しい技術が産み出される日本で、何故日本の家は寒いままなのだろう。   ニューヨークから一時帰国してきた日本人の友人が教えてくれたのだが、ニューヨーク州の法律では、冬季(10月から5月)に外気温が10度を下回ったら、アパートの大家は室温を20度にしなければならないと定められているそうだ。しかもこの暖房費は家賃に含まれているとのこと。セントラルヒーティングで家中に暖房がいきわたり、家に帰れば家の中がすでに暖かいのはいいよと絶賛していた。このようなことが法律で定められていることに驚き、ニューヨークの近隣の寒い地域についても調べたら、米国東海岸の他の州はもちろん、カナダのトロントや、英国も同様に、住宅の最低室温に関して規制があった。そしてこれは健康への配慮からなる法規制であった。日本には住宅に対してこのような規制は無い。   インフラが整い、全てが完璧のような日本に落とし穴を見つけた気がした。日本のテレビでは毎日のように健康についての番組が放映され、現に国民の一人ひとりが健康への関心が高い。しかし日本の家の中は寒いままだ。そして冬のニュースでよく耳にするのが、高齢者のお風呂場、脱衣所で心臓発作による死。熱い湯船に浸かり、外気と同じくらい寒い脱衣所に出る。この急激な温度変化で体調が急変することを「ヒートショック」と言うそうだ。厚生労働省の報告書によると、入浴時の事故死だけで、年間1万9千人以上と推計されるそうだ。   このような事故死を防ぐため、日本の冬の住居環境を見直すべきだろう。欧米のように住宅の法規制として、断熱化を進めるべきではないだろうか。光熱費が高い日本では、家そのものの工夫が必要だろう。察するに、高齢の日本人は我慢強く、少しくらい寒くても我慢してしまうことが多い。暖房器具があっても使われなければ意味がないし、何よりも住居内での温度差が危険なのだ。家中の室温を一定に保つことが重要だ。北海道の家は冬も暖かいので、ヒートショックも少ないそうだ。身近な所から冬を過ごし易い住環境を取り込み、改善すべきだ。それは日本の高齢者を守り、人口減を緩やかにする。健康への関心が高い、先進国の日本人が、このように未然に防げそうな事故で毎冬あっけなく命を失うのは大変惜しい。     英語版エッセイはこちら   ----------------------------------------<謝 志海(しゃ しかい) Xie Zhihai>共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。---------------------------------------- 2015年2月18日配信
  • エッセイ448:アロツ=ラファエル アインゲル「国とアイデンティティ:自分の居場所はどこか」

    多くの人は、自分が何人であるかについて話す時、つまり「私は日本人です」、「私はスペイン人です」と言う時、おそらく何の違和感、疑問を感じないだろう。ただし、私たちが「私は日本人です」、「私はスペイン人です」と言う時、自らの客観的、正式的、パスポートに書いてある国籍を指しているだけではなく、自分がある国、あるコミュニティーへの帰属意識、いわば自分のアイデンティティの一側面を表現してもいると言えよう。   私は留学がきっかけで、自らの国・国籍とアイデンティティについてしばしば考えるようになった。そして、この課題についての私の考え方は留学によって大きく変わった。本稿では、私の考え方がどう変わったかを説明するために、まず私の背景について、次に10年以上前に初めて留学することによって私の観点がどう展開したかを、そして最後に国とアイデンティティについての現在の私がどのような立場であるかを述べたい。   私はスペイン北部にあるバスク地方で生まれ育ち、22歳までバスク地方の最大の都市、ビルバオに住んでいた。バスク地方ではスペイン語と違う言語が話されており、また、その歴史・社会構造・経済構造の面からも他のスペインの地方との相違点が多く、バスク人の一部はスペインからの独立を願っている。このような複雑な地域では、「あなたは自分をバスク人と考えていますか、スペイン人と考えていますか」というような質問を問いかけられることがよくある。しかも、バスク地方では、自分をスペイン人かバスク人かと認識することは、自分の家系や母語とは直接関係なく、むしろ自身の政治的立場や感情と深くかかわっている。例えば、自分の家族がスペインの他の地方の出身であって、自分の母語がスペイン語であっても、自らをスペイン人でなくバスク人と考える人もいれば、家族がバスク地方出身であり、バスク語を母語とする人で自らをスペイン人と考える人もいる。   私自身は、バスク地方に住んでいた時、自信をもって「私はスペイン人ではなく、バスク人である」と言うことができた。それは、バスク地方以外の地域に対して何らかの抵抗を感じていたからではなくて、むしろバスク地方の独自性、いわばユニークさに一種の愛着を持っていたからであり、また、私の周りの人々、つまり家族や友だちが同様な観点を持っていたからであった。   しかし、私は22歳の時にイタリアのボローニャ大学に留学することになり、初めてバスク地方ではない国で生活し、また、バスク地方以外のスペインの各地方やヨーロッパの各国から来た友だちができることによって、私が、自分自身が、バスク人であるということの意味を深く考え直すことになった。バスク地方に住んでいた時の私はバスク地方の特殊性、スペインの他の地域との相違点などを重視していたのに対して、イタリアで生活を始めた当時の私にとっては、相違点というより、むしろスペインの他の地域やヨーロッパ各国との共通点の重要性がわかるようになった。したがって、私はイタリアで国籍を聞かれた時、だんだん違和感を持たずに「スペイン人です」と答えるようになり、かつ、自分をバスク人だけと考えていた以前の私の立場を排他的で度量の狭い立場のように見るようになった。そうして私は、「バスク人」「スペイン人」というような名称が自分の背景をある程度説明していることを理解すると同時に、自分にとって実際それらの言葉にたいした意味がなくて、自分のアイデンティティとしてはむしろヨーロッパ人としてのアイデンティティがもっと重要なのではないかと考えるようになった。なぜなら、ヨーロッパという概念からは、国境を超えた豊富な歴史を背景としながら、多様で充実した社会を目的とする民主主義的プロジェクトを構築していくことができると考えたからであった。   しかしながら、私は2007年に、ヨーロッパから離れて日本に留学することになり、自分の立場をあらためて考えることになった。イタリアに留学することによって私の視野が広くなったと同じく、はじめてヨーロッパ以外の国で生活し、日本およびアジア各国から来た友だちができ、実際に人間同士をつなげるものは共通の文化的背景などではなく、むしろ価値観、世界観であることがはっきり分った。   こうして、日本に留学することによって、私のバスク人、スペイン人、ヨーロッパ人としてのアイデンティティが、いったいいかなるものであるかをふたたび反省することになり、国とアイデンティティについて、より明確に考えるようになった。つまり、国とアイデンティティの間の関係において二つの側面を区別することができると思う。一方では、「私はスペイン人です」、「私は日本人です」などの表現によって、私たちがどこから来ているか、どこで育ったかを説明しているのであって、例えば私の個人的な場合に、やはり私がバスク人であること、スペイン人であること、ヨーロッパ人であることのそれぞれが、私の背景、いわば私の個人的な歴史を語っていると言えると思う。他方では、「私はスペイン人です」「私は日本人です」などの表現が、ある国、あるコミュニティーへの帰属意識を表しており、すなわち自らがどこから来たかだけを表すというより、むしろ自らがどこに帰属したいか、どこを自分の居場所にしたいかということを表していると思う。この二つ目の側面は、一つ目の側面より自由であり、個人が各々の人生において、様々な経験を重ねるにつれて、変わっていくことが可能であろう。   留学生として日本で7年間生活してきた私は、自分がバスク人、スペイン人、ヨーロッパ人であるということが、上述したように私のある重要な側面を捉えていると思う。なお、上記の二つ目の側面については、つまり私がどこに帰属したいか、どこを私の居場所にしたいか、「何人でありたいか」と聞かれるとしたら、バスク地方はもちろん、スペインやヨーロッパももはや狭すぎて、ありふれたひびきのある言い方であろうが、おそらく私の居場所が世界、地球であり、私が帰属したいコミュニティーは各国の狭い国境を超えた世界の市民のコミュニティーであると答えるしかないであろう。   -------------------------------------------------------------- <アロツ=ラファエル アインゲル Aingeru Aroz-Rafael> 2005年Deusto大学文学部歴史学科卒業(ビルバオ、スペイン)。2008年マドリード自治大学学部東アジア学科卒業。2008年同大学マドリード自治大学大学院哲学研究科比較文学専攻修士課程修了。2003年ボローニャ大学留学(イタリア)。2007年上智大学留学。2007年平和中島財団奨学生。2008年〜2012年国費留学生。2013年渥美財団奨学生。研究関心は近代日本哲学史、近代日本言語学史・国語学史・人文科学史、言語哲学。現在、東京大学大学院学際情報学府博士後期課程。 --------------------------------------------------------------   2015年2月11日配信   
  • エッセイ447:謝 志海「日本の人口減少問題」

    昨年末の日本経済新聞で、厚生労働省による2014年の人口動態統計の推計が発表されていた。それによると、死亡数は、戦後最多の126万9千人、出生数は100万1千人で出生数が死亡数を下回る人口の自然減は26万8千人で過去最大となった。2011年以降この自然減は毎年20万人を超えているという。出生数が増えないことには人口の自然減は食い止められないということだ。今は元気な団塊の世代が減りはじめたら、日本はどうなってしまうのだろう。政府として何か策は練っているのか? 政府の中位人口推計では、このままだと2020年代初めには、60万人減、40年代は年に100万人と減少速度が加速、2050年を前に総人口が1億人を割る見通しだそうだ。私の母国である中国の人口13億人を思うと、国際社会において政治、経済のいずれの面からも見ても大国である日本は人口が1億人を下回る国になるのは想像し難い。このまま人口が減って行くと、日本の国力と国際発信力にも大きな影響を及ぼすのだろう。日本政府はどうにか人口1億人を維持したいようだが、実現性は不透明という気がする。内閣府に設置された、「選択する未来」委員会が2014年に中間報告として示した「人口減少数の将来推計」によると、2030年に出生率2.07となれば、2060年以降も1億人程度の人口を維持できるとの推計を示した。しかし2013年の出生率(合計特殊出生率)は1.43人であり、1975年以来ずっと出生率2人を割っている。この現状を見ると、内閣府の将来推計は現実味に欠ける。 減りゆく人口に嘆いてもしょうがないので、始まったばかりの2015年が人口減少問題の解決に大きく1歩踏み出す年になると良いなあと思う。幸い日本は民間企業が社会問題に向き合い、福祉を考慮しながら従業員を守っているので、改善の余地はあるはずだ。そして、日本が官民一体で立ち向かう人口減少問題は、今後追随するであろうアジア全体の高齢化の手本になるはずだと期待している。例えば、ソフトバンクは社員に子どもが産まれる度に出産祝い金なるものを支給していて、第二子、第三子と増えるにつれて、祝い金の額が上がる。たくさん産めばたくさんもらえる仕組みだ。また、大和ハウス工業では、子供1人の出生につき100万円を支給する制度(次世代育成一時金)がある。このように、日本では政府の対策を待たずに、企業が知恵を絞り、国の問題解決に積極的に関わる様はとても美しいし、大きな意味がある。 しかしながら、民間企業にばかり頼っていても、日本の人口減少は歯止めが利かないであろう。何しろ毎年20万人以上もの自然減が起きている国だ。地方自治体も自分の街から人が減るのを食い止め、かつ積極的に呼び込むことに早急に対処した方がいい。地方創生に関しては、頑張っている自治体とそうでないところの差がとても大きい。東京から遠い市町村の方が、移住者の呼び込みや、地元の活性化が盛んで、実は東京へのアクセスが良い市町村から若者がどんどん減っていたりする。切れ目の無い地方創生が実現すれば、日本全体が活気づいて、人口減少によりさびれる街も減り、人口の底上げにもつながるのではないだろうか?客観的な意見だが、日本は面積の狭い国ではあるが、砂漠のような住めない場所というのはそれほど無いのだから、人口減少と地方創生を一緒に解決出来るポテンシャルがあると思う。事実、日本のどんなに小さな町でも意外と外国人が住んでいたりするものなのだ。その辺りをヒントに住みやすい日本で人口維持に向けて全国的に取組んだ方が良い。 --------------------------------------------------------- <謝 志海(しゃ しかい)Xie Zhihai>共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。 --------------------------------------------------------- 2015年2月4日配信
  • エッセイ446:葉 文昌「遂客令」

    歴史は繰り返すとよく言われます。なかにはスケール等を変えて繰り返されることもあります。グローバル化は、同質(なかま)の中に異質(よそ者)を取り込んで、より進化して多様化された新たな同質を作る過程だと思いますが、それはつい最近始まったものではなく、どの国でも内部で多くの邦に分れていた時期に幾度か経験しているはずです。   これから紹介するのは、2250年前の中国で、秦がまだ中国を統一していなかった戦国時代の出来事です。当時の中国は多くの国がひしめき合っていました。一部の国では技術や政治戦略の専門家を外国から招へいしていました。ある人材が持つ技術が高度であるほど、代替性はなくなり、一部の人材は国境を跨いで仕事していたことは想像に難しくありません。   ある日、灌漑工事の技術指導で秦に招へいされていた韓国人の鄭氏が、秦の財政を疲弊させるような工事をしている疑いをかけられました。それから秦の政界で「外国人を追い出そう (逐客令)」という運動が始まりました。現代のネオナチ又はヘイトスピーチのようなものでしょう。そこへ出てきたのが、李斯でした。彼も外国人で、このまま「外国人出て行け」運動が発展すれば自分も追い出されることになります。そこで彼は「諌逐客書」という有名な諌言書を秦王に出しました。内容は今見てもとても斬新なもので、これが2250年前に書かれたことには驚かされます。今回はこの書を翻訳して皆さんに紹介することにします。    *   *   *   *   「外国人を駆逐すると聞いておりますが、私が思うにそれは過ちであります。   その昔、秦の穆公(ぼくこう)は人材を得るために、西からは戎国の由余を求め、東からは宛国から百里奚を求め、宋国から蹇叔(けんしゅく)を迎え、邳豹(ひひょう)や公孫支を招き入れました。この5名は秦の出身ではないものの、穆公は重用し、それで二十の国を併合し、西戎を支配しました。   また孝公は外国の商鞅(しょうおう)の法制を取り入れたことにより、社会気風と習わしを変え、国民は栄え、国は豊かになり、民は自ら進んで国に仕え、諸侯は感服し、楚と魏の兵を下して千里の領土を得て現在に至っております。   惠王は張儀の謀略を使って三川を攻略し、西に巴と蜀(しょく)を併合し、北に上郡を収め、南に漢中を取りました。更に九夷(きゅうい)の地を併合し、鄢(えん)、郢(いん)を取り、東に成皋(せいこう)の要塞を占拠し、肥沃な土地を収め、六国連合を瓦解させ、秦国に臣服させて利益は今日まで続いています。   秦昭王は范睢(はんしょ)を得て、穣侯(じょうこう)を罷免して華陽君を駆逐し、中央統治者の権力を増強させ、その他即得権益者や彊土を蚕食する諸侯を途絶させ、秦の帝業を成就させました。   この4名の君主の成功は、外来人材の貢献に依る所が大きかったのです。従って外来人材は秦に対して負い目はありません。もしこの4名の君主が外来人材を排除していたならば、秦はここまで豊かな実益も強大な威名もなかったはずです。   今日陛下は昆山の玉石、隨侯(ずいこう)の明珠、卞和(べんか)の宝玉を得て、差すのは太阿(たいあ)の名剣、乗るのは繊離の駿馬、掲げるのは翠鳳(すいほう)の旗、使うのは鰐(わに)の太鼓です。これらの中で秦に産するものは一つもありませんが、なぜに陛下はこれらを好むのでしょうか?秦のものしか使わないとするならば、夜光の玉壁は朝廷には飾らず、犀角(さいかく)象牙の器は使わず、鄭や衛の美女は後宮にせず、駿馬は馬屋におかず、江南の金錫は使わず、西蜀の顔料は使わずとなりましょう。   後宮の妾からすべての装飾や楽しませてくれるものは秦のものでないと駄目ならば、宛珠(わんしゅ)の簪(かんざし)、傅璣(ふき)の耳飾り、阿縞(あこう)の衣、錦繍の飾り等は陛下には献上できません。今風で雅、艶めかしく窈窕な趙の女も傍にはいないでしょう。甕缶を叩き、竹箏を弾き、太ももを敲いてリズムを取ってわいわい騒いで楽しむ、それこそが秦の本来の音楽であります。鄭・衛・桑間や、韶虞(しょうぐ)・武象などは、異国の音楽です。甕缶叩きをやめて鄭衛の音楽にし、竹箏弾きをやめて韶虞にしたのはなぜでしょう?それが面白いからです。   しかし陛下の任官はそうではなく、能力を問わず、実直かも問わず、秦出身でなければ追い出す。これは即ち重んじる所は色気音楽珠玉、軽んじる所は人民になります。これは海内を跨いで諸侯を制する術ではありません。   土地が広がれば育つ粟(あわ)は多くなり、国が大きければ人も多くなり、軍が強ければ兵士も勇ましくなると聞きます。太山はあらゆる土壌を受け入れたからこそ、いまある大きさになり得ました。海はあらゆる細流を選ばないからこそ、その深さになり得ました。王たるものは衆人を退けないからこそ、仁徳は広まります。土地は東南西北を隔てない、人民は本国他国を区別しない、そうすれば一年四季は充実し、鬼神も降臨して福をもたらすでしょう。これこそが五帝三王が無敵である所以であります。   今日陛下は庶民を棄てて敵国に資させ、賓客を駆逐して他国に尽くさせており、その為天下の人材の秦への入国を憚らせております。これは糧食を強盗に与えて武器を敵に貸し出すことと同じではないでしょうか。物は秦の産出ではないが宝となるものは多いです。人材も秦の産出ではないが秦に忠心を尽くす者も多いです。外国人を駆逐して敵国に資し、人口を減らして敵国の実力を増長し、この結果自国は弱体化される上に外国人の恨みを買って敵国に尽くす人を増やす、これで国が危険にさらされない訳がないでしょう。」   これを以って秦王は外国人駆逐命令を廃除し、李斯の官位を回復させました。   ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう)   Yeh Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。 -----------------------------------------
  • エッセイ445:太田美行「選ぶ-第8回SGRAチャイナ・フォーラム-に参加して-」

    これだけ近い国だというのに中国へ行くのは初めてである。そういう訳で空港からのタクシーの中では念願の中国をよく見ようと、ひたすら車窓に張り付いていた。大陸の広さを感じた。何よりも建物の一つひとつが大きく、隣の建物との間が広い。そして道路はひたすら真っすぐだ。東京に生まれ育った身としてまず感じたのがこの空間感覚の違いである。ここから中国の人たちとの間に何となく感じる感覚の違いの背景に納得する。フォーラム会場の中国社会科学院文学研究所から天安門まで官公庁が並ぶ、中国で最も広いであろう通りを歩いた時は都を訪れる遣隋使はたまた遣唐使の気分で、「威容」が与える心理的効果についてしばし考えた。こうして私の中国訪問とチャイナ・フォーラムは幕を開けた。   第8回チャイナ・フォーラム初日の中国社会科学院では佐藤道信先生が「近代の超克-東アジア美術史は可能か-」で「ヨーロッパ美術史」が存在するのに対して日本、中国・台湾、韓国に同様の広域美術史がなく、一国美術史が中心となっている現状と課題について、木田卓也先生は「工芸家が夢みたアジア:<東洋>と<日本>のはざまで」の講演で中国へ渡った近代日本の工芸家について講演をされ、2日目の清華大学では「脱亜入欧のハイブリッド:『日本画』『西洋画』、過去・現在」を佐藤先生が、「近代日本における<工芸>ジャンルの成立:工芸家がめざしたもの」で木田先生が近代日本と中国の美術・工芸のあり様について講演をされた。フォーラムの詳細は林少陽氏の報告書でご覧戴いたと思うので、ここでは私がフォーラム及び参加者との交流で感じたことを、広域史を中心にご紹介したい。   フォーラムは近代日本と中国、東アジアの美術・工芸のあり様と関わりを丁寧に、そして学術的に掘り起こし、整理していくものだった。私たちが当たり前にとらえている美術史が当時の時代背景と(恐らく)必要性や気運によってどのように「作られていった」のかを佐藤先生は「自律と他律の自画像」という言葉を用いながら、木田先生は工芸家の足跡をたどりながら、それぞれ明らかにした。   歴史というものは事実、起きたことの単なる集合体ではなく、どの「事実の集合体」を掘り起こして、どの角度から光を当てるか、それをどのように取り扱っていくのかの意図によって異なる意味をもってくる。その観点からすると今回のフォーラムでは、多くの事柄から「東アジア美術史」、「広域史」、「影響し合う」を選び、未来に対して前向きな意欲が感じられる発表と議論の場だった。一方で佐藤先生は「新しい基軸を作ることは新しい誤解を作ることになるのかと思う(こうした研究をするのは)自分がどこに立っているのか知りたい、それだけ」と語る。佐藤先生の指す「新しい誤解」への懸念はよくわかるものの、ある基軸を知ることで自分を取り巻く世界の構成が、成立の過程が、見えてくる。ひとつの基軸を知ることは他の基軸を感じ取る手がかりとなる。だから私はこの新しい基軸を積極的にとらえたい。   10年以上も前に「ワールド・ミュージック」が流行していた頃、確か音楽家の坂本龍一が雑誌の対談か何かで「今のワールド・ミュージックを語ると沖縄民謡のような民族音楽を語ることになってしまい、ワールドではなくなってしまう」という趣旨のことを言っていたのを思い出した。確かに当時彼が発表した音楽は沖縄民謡のアレンジ曲だった。同じように広域史を論じると自国史や「個」はどうなるのだろう。実際その点への心配の声が会場にはあった。しかし広域史を語ることは個や独自性を否定するものではないはずだ。独自性とは何か。人で考えた場合、個人の性質や能力、教育、経験の積み重ね、取り巻く環境とその歴史(国家だけでなく家族、友人、民族も含む)などから育まれ、磨かれたものではないか。ならば他との関わり(広域史)の中にある自己(自国史)を見出し、自己(自国史)の中に他(広域史)を見出すことはごく当たり前のことだ。自分の立っている場所を検証し続け、考えることこそが必要である。   もし自分の頭で考え物事を選ぶことをやめたら、すべてが曖昧なまま流されてしまいかねない。私たちは考え、掘り出し、そして選ぶ。その先にあるのが未来だ。何かを選ぶ時点で既に自らの態度を表明しているともいえないか。「東アジア美術史」、「広域史」、「影響し合う」を選ぶのは「影響し合う」未来を前向きなものにしたいからである。一見すると今回の講演は学術的で地味なものだろう。しかし、とかく考証の怪しげな歴史小説やドラマが溢れ、熱気を帯びた雰囲気や流れに足元をすくわれかねないような昨今、一つひとつを丁寧に掘り起こし、検証しつつ事実を浮かび上がらせることには大きな意味がある。   講演後の質問では少なからず論点から外れたというか、一足飛びのものがあったり、若い日本研究の学生と話していて意外にも現代日本の作家が読まれていないことに驚いたこともあった。(中国にも多数いるという村上春樹ファンはどこにいるのだろう?) それも事実なら、会場に大勢の学生が来てくれたこともまた事実だ。彼らの中に今回のフォーラムが種となり、芽吹く日が来ることを願っている。   木田先生は1920~30年代の「新古典派」を「懐古趣味的な保守反動勢力でなく、新しく東洋趣味的な工芸を作り出そうということを目指していた」、「『日本の近代』は、いかにあるべきか?、さらには『アジアの近代』はいかにあるべきかという問いが含まれていたと思われます」と語る。その頃の日本が発信する「東洋」と今の日本や他国がいう「東アジア(あるいは東洋)」では異なる点は多いだろう。だからこそ日本からだけでなく、その他の国から、人からの「東アジア広域史」を論じる声を聞き、共に今と未来とを選びたい。   --------------------------------------- <太田美行(おおた・みゆき)>東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究科修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通などを経て2012年より渥美国際交流財団に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。 ---------------------------------------   2015年1月15日配信
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