SGRAかわらばん

  • 2008.03.04

    エッセイ117:梁 蘊嫻 「Happy People」

    *写真入りのエッセイは下記のURLからご覧いただけます。http://d.hatena.ne.jp/tamasato/     昨年の夏、アジア21奨学財団「日本の基層文化を学ぶ」熊野ワークショップツアーで奥田彰人という写真家に出会った。   「写真家の奥田さんです。彼はもっぱら人物写真を撮っていて、『世界』という雑誌に作品が掲載されていますよ。大阪の人で冗談ばっかり言うから、一日中一緒にいると疲れちゃうんだよ」と奨学財団事務局長の角田さんは冗談を混じえながら、奥田さんを私たちに紹介してくださった。   奥田さんは運転手を勤める一方、我々の活動を写真で記録していた。確かに彼はいつも「俺は他人に厳しく自分に優しいんだ」と戯けた口調で話しているが、その裏には真面目な性格が隠されていることを私は感じ取った。我々の活動が無事に行われるように配慮し、彼は必ず行列の最後尾にいる人に目配りする。また、日本や熊野の風土について知っている限りのことを留学生に教えてくれようとする優しい一面も見せてくれた。   旅行中一つ印象的なことがあった。旅の最後の晩、私たち一行は那智の滝がよく見える山頂に聳えたお寺「青岸渡寺尊勝院」に泊めていただき、住持の高木英亮さんの法話を拝聴した。翌日早朝、荷物を背負って青岸渡寺尊勝院に別れを告げたときの出来事であった。私たちはのんびりとおみくじを引きに行ったり、寺院の周辺を散歩したりしていた。奥田さんは散漫としている私たちに怒り出した。全員が集まって、お世話になった「青岸渡寺尊勝院」の方々にきちんとお礼を申し上げなければならないと彼は考えていたからだ。奥田さんは人に対して「感謝の気持ち」を強く持っている方なのだ。   旅行から戻ると、参加者全員がレポートを提出し、財団の便り「結」(ゆい)に載せてもらったが、奥田さんは以下の言葉を文章に綴った。 「このツアーは自分にとって線香花火のようだ。人生の一夏にいつも残るのは写真と、消えそうで消えない思い出と、日焼けのあとだけ。それらは大きく打ち上げられたものではなく、それぞれ小さな光がちりちりと重なり合う火玉、線香花火。出会いと別れを繰り返した暑い夏が去り、爽やか秋のそよかぜにこの身が包まれる頃、火玉は静かに落ちてゆく。火玉の残像はありふれた生活の中で自分の「笑顔」に変わっていく。自分にかけがえのない輝きを放つのである」。   最後に彼は「感謝を込めて」という言葉を皆に贈ってくれた。奥田さんは人との出会いを大切にし、それを写真によって記憶して、さらにそれが自分の笑顔に変わっていく。そして彼は自分と「ご縁」を結んだ人々に対して感謝している。こんな彼が「人」を撮りたいというのはよく理解できる。人間好きな奥田さんは一体どんな写真を撮っているだろうかと気になった。角田さんの言葉を思い出して、私は図書館で『世界』という雑誌を見つけ出した。   雑誌をめくると、目に映ったのは一図一図幸せが溢れている笑顔であった。 労働を終えた休憩時間で、白い歯を見せながら天真爛漫に笑っているおばさんたち。顔を見合わせ「スローライフで楽しくいこう」とにっこりする銀髪夫婦。花柄のシャツにカウボーイ風の帽子、その上タバコを口に銜えている、気ままに生きる男のように見えるが、そのイメージと対照的に写真の説明では「いつもサイフに親の写真……入れてるんだよ」というセリフが付けられ、何とも言えない微笑ましい光景だ。私はなぜかほっとして、しばらくこれらの写真に見入っていた。   ところが、雑誌のページをめくって奥田さんの説明を読んだら、私の心は激しく打たれた。撮影場所が水俣市であることを知ったからだ。あの「水俣病」に襲われた悲劇的な歴史を背負った町ではないか。有機水銀に中毒した患者の写真を多く見てきただけに、写真に映った人々の笑顔がこの上なく輝かしいものに思えた。   海で遊ぶ四人家族。お腹の中に小さな命が育まれているお母さんは、娘を愛しそうに見ながら小さな手を繋いでいる。お父さんも幸せそうに娘を見守っている。この幸せに満ちた海は水俣病をもたらす祟りの不知火海だろうか。「水銀の被害に遭い失われた生命の魂の再生を願って、こけしを作っている」建具職人は手に握った作品を凝視して淡々とする表情だが、深い想いに沈んでいるように見える。後ろの海を振り返りながら、岸頭に佇むおばさん。「水俣に始まり、水俣で終わる」彼女の平凡な人生には物語がたくさん詰まっているということをこの写真は語っている。   奥田さんはそれまで注目されてきた「水俣病」とは異なった視点から写真を撮っていた。それについて彼は「この作品を制作するにあたって一つの決め事がありました。それは水俣病について勉強しないことでした」と述べた。なぜならば、「水俣病という括りだけではなく、それも含めてそこにある全てを『人』を通じて拾い集めていきたかったから」だ。   奥田さんは一年と四ヶ月に渡って撮っていた自分の作品を “Happy People”と名付けた。その理由は「撮影させて下さった方々、また目に見えない形でご賛同いただいた方々、そしてこの作品を見ていただいた方々に、我々の往く道に『幸、多かれ』と祈る気持ちを込めつけました」と奥田さんは注記している。また『涙の数だけ笑いもある』との彼の言葉は私の心の深い所まで届けられた。そうだね。工業発展がもたらした水俣病という途轍もない悲劇を我々は教訓として背負って行かなければならないけど、しかし地元の人々の笑顔から救われることができたような気がする。人々は大きな悲しみの中で自分のささやかな幸せを所有している。いや、大きな不幸の外側により大きな幸福が囲んでいるはずだ。奥田さんの写真をみてそう思った。   「感謝」「恩返し」「人間」「笑顔」は奥田さんの人生にとって一番大事なことではないかと思う。この四つの主題を生々しく表現している彼の作品が私の琴線にふれる。蠍座の性格かもしれないが、私も人によく感謝する性格なので、ここで改めて奥田さんに「ありがとう」と言っておきたい。   彼とはあまり話さなかったが、写真を通じて心の交流ができたような気がする。「一期一会」。私はこれから奥田さんに会う機会があるかどうかがわからないが、2007年夏の出会い、そして写真がくれた感動を心の中に大切に留めてゆきたいと思う。   ★注記 以上の写真は『世界』(岩波書店、2007年4月)に掲載されているものであるが、奥田彰人氏の承認を得てこちらに転載した。無断掲載や転送を固く禁止する。なお、メールで送信できるように解像度を低くしたので画質が少々落ちており、彩度や明度などは若干原作品と異なった箇所がある。原作と異なった部分があれば、原作品に準ずることを断っておきたい。ご興味がある方はぜひ原作をご覧ください。   追伸:奥田氏の作品「HAPPY PEOPLE」が「第14回土門拳文化賞」大賞を受賞されたという最新情報があった。   ------------------------------- <梁 蘊嫻(りょう・うんけん)☆ Liang Yunhsien> 台湾花蓮県玉里鎮出身。淡江大学日本語学科卒業後来日。現在東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化研究室博士課程に在籍。博士論文は「江戸時代における『三国志演義』の受容」をテーマとしており、今年度提出予定。母語を忘れてはいけないと思っているので、現在勉強の合間を縫って、母語の客家語を教えている。学生には、日本人、台湾人、二世客家人、ニュージランド人、マレーシア人などがいる。 -------------------------------
  • 2008.02.29

    エッセイ116:趙 長祥「独対寂寞、静観吾心」

    ●「庄子心得」シリーズ(その1)   はじめに   中国では、2005年にエンターテメントの世界から全国に波及した「超級女生(スーパーガール)」が大きな話題になったが、翌2006年には「学術超男と学術超女」の話題がメディアに取り上げられ、国中に宣伝された。中国の中央テレビ(CCTV)で放映されたのは、有名大学の教授達が、これまで非常に難しいとされていた国学(中国古典文学)を易しく大衆に解説し、啓蒙する番組である。なかでも、「三国誌」を解説したアモイ(厦門)大学教授の易中天氏(男性)と、中国古典書のひとつである「庄子」を解説した北京師範大学教授の于丹氏(女性)は、それぞれの的確な理解と簡潔明瞭な解説を以って、中国で一躍有名になった。テレビ番組は本に纏められ、それぞれ「品三国」「庄子心得」と名づけられてベストセラーとなった。これまで中国の大学の先生たちは、黙々と研究や教学に努め、マスメディアにでることなく、スーパースターとは全く無縁だった。しかし、今や、学者も国学解説によって学術超男と学術超女となったわけである。   国学が復興したといわれる現在の中国であるが、その原因を分析すると、改革開放30年近くの歳月を経て、徐々に豊かになっている国民は、物質生活だけでなく、精神的な支えも求めるようになったといえるだろう。豊かな中国の古典文学を、現在起きている身近な事象に引き寄せ、易しい説明を加えることによって、金儲けと出世をめざして常に競争に晒され、負組みに陥ることへの恐怖心から常に頑張って緊張している大多数の国民の心を癒すものとなったである。   私は、昨年の9月に上海の企業での仕事を辞めて学界に戻ってから、時間的に多少余裕が出てきたので、上述の「品三国」と「庄子心得」を読むようになった。特に、于丹氏によって解説された「庄子心得」における、彼女の独自のロジックからたくさんのヒントを得、少しずつ感想として書き出し、ブログ(blog.sina.com.cn/xiangchangzhao)に載せるようになった。そのいくつかを、SGRAかわらばんの場をお借りして、皆様とシェアさせていただきたい。このシリーズが皆様の癒しとなり、テンポの速い生活のなかでも、ときどき空気に漂うスローライフの淡い……淡い香を感じていただければと思う。   ●「独対寂寞、静観吾心」 ~ひとりで自分に適切な時間を定め、わが心を見つめて、更なるふさわしい道を歩む~   「庄子心得」之三で、于丹氏は、レバノンの著名な詩人であるKahlil Gibran氏の言葉「我々は、遠くへ、遠くまで来ている、源となる出発の目的を忘れるほど」を引用し、その章を展開している。私もこの言葉から始めることにしたい。   人間の一生は、長かろう、短かろう、人それぞれ独自のユニークな経歴である。それぞれの人生の旅には、目の前に聳え立っている高山を登り越えなければいけない場合もあり、彼方へ流れていく浅い渓流や谷を渡る場合もある。一人で茨に覆われている狭い山道を切り開く時もあり、平坦な大道を淡々と歩く時もある。成功の喜びを体験する時もあり、挫折や失敗の悲しみを味わう時もある。   いずれにしても、生涯を終える時ではなく、旅をしながら歩いてきた道を常に振り返って修正する人は、成功する確率が高いと考えられる。しかし、大多数の人間は、旅路で出会った様々な体験を、捨てるべきものも、キープすべきものも、すべて両肩に背負い、自分にとって大きな負担となっていることに気づかない。いくたびの年月が人生に深く刻まれても、ある場所とある状況から離れることができず、更なる広い大道へ進んでいく境地に廻りあわない。   時代の変化が強く感じられる現代社会に生活している人々は、リズムの速い生活に追われ、足音と心臓のビートを常にテンポの速い時代感覚に合わせて、前へ前へ向かって走らなければならない。記憶のなかでは、中学のテキストにある朱自清氏によって書かれた著名なエッセイ「背影―姿」(興味のある方は、是非一読ください)を、現代の感覚で味わうことができたとしても、あの時代の気配は全く感じられなくなり、いくたびか生活のリズムが塗り替えられた感慨だけは残っている。ペースを変えてもさらに速くなるだけ。それぞれの人生の目標のために・・・、高山を乗り越え、川をわたり、ハードルを一つ一つ潰して、目標も一つ一つクリアしたにもかかわらず、大きな目標はいつまでも遠い 遠い 前方の彼方にあり、遥かに届かないところで疲れ果てた人々を待ち侘びている。その目標のために、今まで歩いてきた道を振り返る時間さえ作り出せない状態なのである。   人間の成長段階も同様で、多くの人は、生まれてから一人旅ができるまでの期間は家族にケアされながら、長い成長の旅に必要な養分を蓄積していく。大きくなるにつれて、憧れた夢を追い求め、ふるさとを離れ異郷で追い求めた生活を営み、生まれ育ったふるさとの光景は徐々に脳裏から薄らいでいく。しかしながら、年をとってみると、長年住んでいた生活の地には根を下ろせず、静かな夜に心の底から湧いてくるのは、相変わらず生まれ育ったその土地、夢のなかに浮き彫りにされるのは、相変わらず故郷の山水・人々・・・   したがって、人生の旅のそれぞれの節目に、ときどき自分に「寂寞の光陰」を与え、出発地からの旅程のひとつひとつを味わい、自分の心路を整理する必要がある。歩んできた道は、正しい道かどうか、曲がったり歪んだりした道ではないかをじっくり考え、更なる自分の心路(I have to follow my heart)に基づき、自分にふさわしい道を選び出して切り開いていく必要がある。すなわち、このような期間は、「独対寂寞、静観吾心」、つまり、歩んできた人生の振り返りであり、自分へのまとめでもある。寂寞の光陰によって、生活の五味をじっくり味わい、心と体に落ち着きをとりもどして、新たな生活へ向かっていく。たとえ不公平な状況に直面しても、過ぎ去った歳月に幾多の侘しさと憂いがあっても、自分には励ましのチャンスを与えなければならない。   旅路で辿り着いたところどころに立ててきた旗が強風に吹き倒されていないかどうか、後ろを顧み反省しながら、旅人は更なる高い峰を目指して、風とともに青空へ舞い上がる。長旅につれて両肩に掛かる負荷は徐々に重くなる。背負っている荷物を取捨選択し、捨てるべき負担をどんどん身の後ろに放り出さなければ、足取りは重くなる一方で、ついには歩けなくなってしまうだろう。したがって、旅路の途中で、時々ひとりで自分に適切な時間を定め、わが心を見つめて、自分にふさわしい更なる道を歩んでいくことが必要になってくる。   ------------------------------------------- <趙 長祥(チョウ・チョウショウ) ☆ Andy Zhao> 2006年一橋大学大学院商学研究科より商学博士号を取得。現在、中国青島の海洋大学法政学院で講師を務める。専門分野は企業戦略、地域産業開発、産業組織。SGRA研究員。 -------------------------------------------
  • 2008.02.23

    エッセイ115:範 建亭「上海における人の国際化」

    上海は中国の最大都市として、国際化が急速に進んでいる。それは外資系企業の進出、国際ビジネスまたは外国人の数などに限らず、街の景観、ファッションや食べ物、娯楽などの日常生活、そして人間そのものにも反映されている。前回は上海に住む日本人の状況を紹介したが、今回は現地人の国際化について話したい。   上海が国内で最も国際的な都会となったのは今だけの話ではない。1930年代、上海はすでに近代的国際都市となり、「東方のパリ」とも呼ばれた。だが、50年代以降は計画経済体制の下で、内向きの都市に変身した。70年代末からの改革開放によって、再び国際化の道を歩み始めたが、活発化したのは近年のことである。   しかし、海外留学や移民といった人の外向き国際化においては、上海はほかの地域に及ばないところがある。中国では、広東省や福建省は人の海外移住が伝統的な地域として知られており、世界各地で暮らす華人の殆どがこれらの地域出身である。上海ではかつて海外に出るという風潮は根付いていなかったが、80年代以降は海外留学がブームとなり、沢山の若者が夢を胸に出国した(私もその中の一人)。「せっかく海外に出たので、故郷に帰ることを考えるな」と家族や友達に言われるばかりではなく、心の中でそう決心して留学した人も非常に多かったに違いない。   ところが、近年では事情が一変し、留学先から帰国して仕事に就く人数がますます増えている。新聞報道によると、1978年以降出国した留学生は昨年末で約100万人、そのうち帰国して就業している人は全体の三分の一に達しているが、大半はここ数年帰国したのである。そして、これらの留学生が帰国するときに、上海を選ぶ傾向が強いと見られるという。その理由は様々であろうが、沢山の元留学生(私もその中の一人)がまた夢をみて上海で新たな生活をスタートさせたことで、この都市の国際化は内面から進められるようになっている。   ここで、統計データや新聞報道に見えてこない人の国際化の一面を紹介したい。海外留学から帰国した人のうち、日本からの元留学生の人数が相当の割合を占めていると思う。上海で発行されているいろいろな日本語のフリーペーパーをみれば、同窓会やOB会の情報が非常に多く、また出身大学もほぼ日本全国に及んでいることがわかる。私は日本の二つの大学で勉強したことがあるから、今は二つの同窓会の運営に携わっている。メンバーたちは同じ留学経験を持っているので、お互いに交流しやすく、普段もよく集まっている。   でも奇妙なことは、同窓会の仲間の中には実際日本人に帰化した者も多いことである。彼らは身分上もう中国人ではないが、ずっと上海で暮らしている。日本には何も残っていないから、戻ることはもうないだろうと思う。そして、中国の国籍に戻ることも不可能である。当初は日本で暮らすために帰化したのに、今は外国人として祖国で暮らす。その現象は日本留学の仲間に限らず、親戚や周りの人々にもそのような「日本人」や「アメリカ人」などがよく見られる。昔はみんな逃げるような気分で出国したことを思い出すと、その変化は本当に感慨無量である。   一方、私が勤めている大学においても、留学から帰国した人数が絶えず増加している。現在、海外で博士号を取得した教員の数は80人を超え、教員全体の約15%を占めている。帰国者のうち、やはり外国で永住権を獲得した人も少なくない。また、留学先を見ると、アメリカと日本が一番多く、合わせて帰国者全体の半数以上を占めている。日本からの元留学生同士として親しみがあるから、人数が増えることは嬉しいが、逆に学内で重視される程度も低くなり、普段の仕事では日本語を使う機会がほとんどなくなってしまった。そのせいで、私の日本語能力も見る見るうちに低下している。それは、私にとって帰国してから一番残念なことだ。   -------------------------- <範建亭(はん・けんてい)☆ Fan Jianting> 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 --------------------------
  • 2008.02.19

    エッセイ114:李 垠庚 「知る権利、知らない権利」

    日本に住む外国人が、来日直後に困惑する理由の一つは、毎朝生々しく報道される「殺人事件ニュース」ではないだろうか。最初は、自分が日本に来たちょうどその時、たまたま稀代の殺人事件でも起きたのかと思ってしまう。ところが、時間が経つにつれ、殺人事件の主人公が変わるだけで、殺人事件の報道が毎日続くことに気付くようになる。事件の報道はあまりにも詳しく、おかげで事件の手口を教えられるのは勿論のこと、被害者の人柄や日常生活までわかるようになり、さらには友だちや遺族の肉声まで聞かされる。犠牲者になった子供がどれほど親の言いつけに従い、勉強熱心で、友達の面倒見が良かったかを繰り返し聞いているうちに、もし両親に逆らい、不勉強で人見知りでもあった子供なら、被害にあっても良いというのだろうかという反発心さえ浮かんでくる。あらためて根掘り葉掘り聞き出さなくても、人間の命それ自体が貴重であることを、むしろ忘れているのではないか。   危険なのは朝の時間帯だけではない。地上波だけでも毎晩平均一本以上、2時間のサスペンスドラマを放映している。他の種類のドラマの中にも、殺人事件をあつかう刑事ドラマが多い。日本語の勉強という名目でサスペンスドラマを見始め、そこで犯罪の類型や手口を習得してからは、朝の殺人事件ニュースを見ながら犯人探しに没頭するようになる。更に、自ら完全犯罪のマニュアル、少なくとも密室殺人のトリック一つくらいは作らなければ、という義務感さえ感じ始め、それこそが、自分が日本に住んだ甲斐のある仕事ではないか、とすら思えてくる。   それからまた時間が経つと、自分の情緒不安定とわけのわからない不快感は、残酷な殺人事件報道に無防備でさらされていることと無関係ではなかろうと、突然気付き始める。その対策に腐心し、サスペンスドラマ一切を避けること(昼にも再放送があるので要注意!) 、ニュースは時間が短くて割合にあっさりした夜のニュース、あるいはNHKのニュースを見ること、朝の情報番組や主婦番組を見る時は、アイドルスターの熱愛報道やグルメガイドに続き、突然殺人現場にまで引きづられるかもしれないので、いつもリモコンを握ったまま見ること、などの要領を覚えてくる。(残念ながら、留学生活末期は、古いテレビのリモコンも壊れがちであるが・・・)   次の新たな事件が起きるまで、視聴率を支えている毎日の殺人劇は、すでに日本経験者のあいだでは忘れられない日本生活の思い出(?) という風評である。一般の被害者をめぐる日本の加熱報道が、外国人の目にどれほど不可解に映るか、よもやメディア自身がわかっていないわけではないだろう。それでも、長い放送時間を埋めるためには決して捨てられない大事なネタとして、全国民の同意を得ているのだろうか。そして、殺人事件の被害者になった途端、全国民の「知る権利」の範囲に入る「公人」になるという、暗黙の了解でもあるのだろうか。もしかしたら、それを「知る権利」と主張する人がいるかも知れない。芸能人のプライバシーなら楽しみとも言えるが、悲惨に殺された人のプライバシーを掘り出してほしい、国民の私にはそれを「知る権利」があると唱える日本人がどれほどいるのか疑わしい。例えそうした人がいるとしても、それが望ましいとは言えない。情報にも、共益にもならない死にいたるまでの人間同士の揉め事を、それほど必死に掘り出すのは、まさか娯楽のためではないだろう。   公的立場の責任ある人が関係していたり、事件自体が国民の注目に値するほど社会的な意味合いを持つものでない限り、殺人事件は(裁判は民事ではなく刑事事件として扱かわれると言えども)個人的な問題として扱かわれるべきだと思う。残酷な事件の犠牲者になったという理由だけで、何の抵抗も出来ず、異を唱えることも出来ない死者のプライバシーや事件の状況を暴くことはやめてほしい。犯罪の予防に力を尽くすべきなのは当然であるが、犯罪被害者を二度目の被害にさらされないようにするのも必要ではないか。それは、被害者や遺族のためでもあるが、何気なくテレビをつけた人が、生きていたら自分とは何の関係もなかったはずの誰かの殺害事件について、そこまで詳しくは「知らない権利」を保護するためでもある。日本は世界で犯罪発生率がもっとも低く、犯人の検挙率も最も高いにもかかわらず、犯罪に対する恐怖心はどの国より強いと報じる記事を読んだ記憶がよみがえる。   ------------------------------------- <李垠庚(イ・ウンギョン)☆ Lee Eun Gyong> 韓国の全北全州生まれ。ソウル大学人文大学東洋史学科学士・修士。現東京大学総合文化研究科博士課程。関心・研究分野は、近代日本史・キリスト教史、キリシタン大名、女性キリスト者・ジャーナリスト・教育者など。現在は、韓国語講師を務めながら「羽仁もと子」に関する博論を執筆中。 -------------------------------------
  • 2008.02.19

    エッセイ113:包 聯群「母語の喪失(その3)」

    中国黒龍江省において、モンゴル語による教育が徹底的に実行されていなかったことは、すでにみなさんにご紹介した通りですが、モンゴル語教育の歴史をみると、清朝、中華民国、満洲においても、モンゴル語による教育が積極的に行われたとは言えません。新中国建国以来、少数民族の教育を重視したとは言え、様々な政治運動が続く中、モンゴル語を話せる、あるいはモンゴル語を使用する環境が整備されておらず、モンゴル語を放棄して中国語を話せることを社会に適応した一種の「能力」とみる人が徐々に増え、モンゴル語ができなくても、生活には何の支障もなく、モンゴル語ができなくても当たり前のことだと考える人が多くなっています。この状況をさらに詳しく知るために、地域に使われている言語の状況を見てみましょう。   黒龍江省における唯一のモンゴル族自治県である杜爾伯特(ドルブット)地域では、政府の言語政策としてモンゴル語と中国語が平等に扱われています。公務員の試験、進学の試験などにおいては、モンゴル人はモンゴル語による受験を受けることができると明確に定められています。しかし、実際に公務員の試験では、中国語による受験しか受けられません。というのは、モンゴル語で受けても(実際にモンゴル語のレベルはそれほど高くないのも事実です)、中国語ができなければいけないからです。   次に、黒龍江省においてはモンゴル語による新聞、一般誌、出版社、テレビ局などはありません(モンゴル語による学術雑誌が一つだけあります)。杜爾伯特モンゴル族自治県に、土日の夜、中央テレビのニュースが終わったあと、10分程度のモンゴル語による放送があるだけです。4万を超えるモンゴル人がこのような新聞メディアの環境に置かれています。私が自治県所在地の町をちょっと回ってみたところ、個人が経営している店の看板はモンゴル語と中国語の両方で書かれていますが、その文字の大きさがあまりにも対照的でした。モンゴル文字は、はっきり見えないほど小さく、漢字がモンゴル文字の何十倍も超える大きさで書いてありました。   さらにある店では、モンゴル文字の方向が逆になっていました。そこで、店の経営者に聞いてみると、意外な事実が明らかになりました。看板をつくる際、最初はモンゴル文字を入れなかったが、政府の民族教育委員会から検査をするという情報があったため、後に貼り付けたということでした。しかし、モンゴル文字の方向を逆転してしまったのに誰もが気がついていなかったのはあまりにもひどい話ですね。先日のテレビ放送の情報によると、中国ではある会社が日本の食品であれば「安全」だというイメージを利用し、包装袋にはひらがなの「点」がなかったりする間違った日本語の標記をし、商品を販売していたという事実がありました。日本語は外国語だからたくさんの人が読めないのは仕方がないと言えますが、モンゴル族自治県であり、4万人のモンゴル人が暮らしているにもかかわらず、たくさんの人が気づいていないのは何故でしょう。これは多くの人がモンゴル文字さえ読めないことの現れでもあると読み取れるかもしれません。   モンゴル人が日常生活で使用している言語をみてみましょう。私が観察したところ、この地域で暮らしているモンゴル人は少なくとも三種類の言葉を話しています。年を取った人とモンゴル語教育に従事している人、あるいはそれと関係がある仕事をしている少数のモンゴル人は場合によって、たまにモンゴル語で話しています。それ以外の多くのモンゴル人は日常生活ではモンゴル語の文法をベースにし、多数の中国語語彙を取り入れたいわゆるモンゴル語と中国語を混ざった混合語を話しています。一部の人は中国語を日常言語として用いています。特に若者の多くは中国語を母語とし、モンゴル語ができなくなっています。   中国の経済発展に伴い、「中国語の市場」がますます拡大し、あらゆる分野において中国語の必要性が高まってきました。少数民族の地域において、民族政策が出されましたが、少数民族の言語による「市場」の開発が遅れ、経済的に少数民族言語話者が不利とならない措置を取っていないため、自主的に多数言語の中国語へ切り替える人が増えつつあります。それに従い、少数民族の言語を学ぶ人も減少してきたとも言えます。モンゴル人保護者も自分の子供の将来を考え、中国語による教育を受けさせる人が多くなっています。私のまわりにいる親族、知人、友人ほぼ全員が自分の子供を中国語による教育を受けさせています。一部の人にはモンゴル語による教育を受ける機会がありませんが、一部の人はモンゴル語による教育を受ける機会があっても中国語による教育を選択しています。中国語による教育を選択するのはよくないとは言えませんが、自分の母語を忘れないようにしてほしいと思います。   以上のように、この地域の子供たちは母語を喪失しつつあります。モンゴル語を話せない人が日に日に増えているのが現状であります。この子たちは、母語の大切さ、言語の大切さをいつか実感し、わかってくれるのでしょうか。世界の多くの言語が消滅しつつある中、誰でも自分の母語を大切にし、母語を愛してもらいたいと考えております。   ------------------------------------ <包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun> 中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻)を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/ 教育・研究支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、契丹小字等。SGRA会員。 ------------------------------------
  • 2008.02.13

    エッセイ112:包 聯群「母語の喪失(その2)」

    黒龍江省は中国の最北東に位置し、面積は46万平方キロメートル、2000年の統計によると、人口は3,689万人で、漢民族のほかに、モンゴル族、満洲族、朝鮮族、回族などの民族がいます。黒龍江省にはおよそ15万人のモンゴル族が居住していますが、これは黒龍江省における総人口のわずか0.4%ではあるものの、他の少数民族より多く、漢民族、朝鮮族に次ぐ第三位であります。ドルブット(杜爾伯特)モンゴル族自治県には黒龍江省のモンゴル人の三分の一を越える4万人以上が居住しておりますが、それはドルブットモンゴル族自治県総人口の18%にすぎません。ドルブットモンゴル族自治県は黒龍江省における唯一のモンゴル族自治県です。また、モンゴル語で授業を受けられる唯一の地域でもあります。   これ以外に、黒龍江省のゴルルス(肇源)県、チチハルの泰来県にそれぞれ1万人以上のモンゴル族が居住しており、富裕県、チチハル市郊外、大慶市市内などにもそれぞれ数千人のモンゴル人が暮らしています。しかし、これらの地域で暮らしているモンゴル人の多くは母語であるモンゴル語を話すことができなくなっています。モンゴル人が比較的に集中している村では、モンゴル語を第二言語として教えていますが、学校教育は当然中国語で行われています。これらの地域では、モンゴル人であってもモンゴル語を学ばない人が多く、モンゴル語を学んでいたとしても、それは教室だけで学ぶ「外国語」のようになっています。日常生活で、子供たちは、お互いに中国語のみでコミュニケーションを取っているのが現状です。ドルブットモンゴル族中学校・高校のモンゴル語で授業を受けているモンゴル人の生徒さえ学校の外へ一歩踏み出せば、中国語のみが共通語となっています。   なぜ、このような状態になったかを考えてみると、そこにはこの地域のモンゴル語教育の歴史的背景があったと思われます。   黒龍江省における唯一のモンゴル族自治県であるドルブット地域では、黒龍江省教育委員会の決議によって、1984年9月から、モンゴル人が比較的多く住んでいる地域で中国語ではなく、モンゴル語による教育を実験的にスタートしました(中国語以外の科目)。これによって、ドルブット地域では、断続に行われてきたモンゴル語教育が再開されることになりました。なぜ、断続的に行われたかというと、そこにはそれなりの理由がありました。黒龍江省のドルブット地域には、もともとモンゴル人のみが居住していました。しかし、後に清朝が実行する“蒙地開放”政策などにより、ドルブット地域の人口が徐々に増えはじめました。モンゴル人は相対的に少なかったのですが、1910年に3,561人、1928年には6,635人に達し、総人口の27.7%しか占めていませんでした。モンゴル語を学ぶ時は、最初は「私塾」(主に『モンゴル語字母』、モンゴル語に翻訳した『百家姓』、『三字経』などの典籍を教科書として使用していた)から始めるか、あるいは家庭教師を招いて学ぶ方式でした。   中華民国元年(1912)になると、私塾は8ヶ所まで増え、1930に、バヤンチャガン学校は唯一の公立蒙文官学でありました。加えて、ドルブット地域には中華民国時代に仏教寺院が9ヶ所あり、そこに居た425人のラマ僧はモンゴル語を学び、仏教活動に携わっていました。1940年に学校の数は28校となり、そのうち、モンゴル人が通う学校は11校でした。   しかし、全員がモンゴル語で学べていたわけではありませんでした。新中国が誕生して以来の1952年に当地域のオリンシベ(敖林西伯)モンゴル族小学校でモンゴル語による教育を実験的にスタートしました。児童は29人しかいませんでした。しかし、それもそれほど長く続けられませんでした。さらに中国は1966年から文化大革命の政治混乱に陥り、政府が教育を軽視する時期が10年間も続きました。その後、1984年9月からスタートしたモンゴル語による教育も、12年経った1996年8月に地元政府の判断により小学校からのモンゴル人児童の募集を停止しました。残った2、3学年の児童も中国語のクラスへ切り替えさせ、ほかの学年が卒業するまで、そのまま維持するという方針でした。この時期はちょうど中国全土が市場経済を重視しはじめた時期でもあります。   このようにモンゴル語による教育が波瀾万丈の歩みを経て、そのまま終止符が打たれたと思っていたころ、モンゴル語による教育の小学生の募集が停止されてから10年目の2005年9月に、モンゴル語による教育の中学校生募集が急遽始まりました。これは言うまでもなく、モンゴル語教育にプラスになりますが、あまりにも突然のことで、教育の理屈にも合わないし、生徒にも負担がかかるに違いありません。この時期は中国経済の高度成長期にあたり、中国政府は危機に瀕する少数民族の言語、文化などの保護を重視しはじめた時期でもあります。   しかし、それにしてもモンゴル語による教育を受けていたモンゴル人児童・生徒の数が限られており、地域に住むモンゴル人全員がモンゴル語による教育を受けたわけではありませんでした。依然としてモンゴル語を学ばない、あるいは学べない様々な(言語生活、言語環境などの)理由がありました。モンゴル人の子供の多くは母語であるモンゴル語を失いつつあります。(続く)   ------------------------------------ <包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun> 中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻)を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/ 教育・研究支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、契丹小字等。SGRA会員。 ------------------------------------
  • 2008.02.09

    エッセイ111:包 聯群「母語の喪失(その1)」

    ダニエル・ネトルとスザンヌ・ロメインの研究によると、使用頻度のもっとも高い100言語を、世界総人口の90%が話しています。そして、少なくとも6000の言語が、地球上の約10%の人々によって話されています。10万人を超える話者をもつ言語を含めて、「安全」であるのはせいぜい600言語であり、他の5400言語で安全な未来をもつものは皆無に近いということです。言い換えれば、世界の言語の圧倒的多数が死滅の危機にあると言ってもよいわけです。言語学者の推計では、少なくとも世界の言語の半数は、次の100年のあいだに死滅するであろうということです。   話者人口が最も多い言語は、中国語、英語、スペイン語・・・の順で、日本語は8番目に入っています。私の母語であるモンゴル語の話者数と比べると、日本語の話者数は遥かに多いわけです。   私が母語であると言っているモンゴル語は現在、モンゴル系諸言語の一つに過ぎません。1950年代に、中国政府の言語学研究機関をはじめ、多数の研究者から構成されたチームが大規模な現地調査を行い、文化や習慣、言語等を基準として民族の分類、言語の認定を行いました。その結果、モンゴル族以外に、中国領内にあるモンゴル系諸言語を話す話者は五つの民族に分けられ、正式に認められました。   モンゴル系諸言語は中央アジアのモンゴル高原を中心に広く分布し、一つのモンゴル系言語同士のグループに属します。モンゴル系の民族として、モンゴル国や中国領内のモンゴル族をはじめ、ロシア領内の、カルムイク族、ブルヤート族、中国領内のダグル(達斡爾)族、バオアン(保安) 族、ドゥンシャン(東郷)族、シラ・ユグル(裕固)族、モングォル(土族)族、アフガニスタンのモゴール族などが含まれます。   2000年の中国の統計で、中国領内の各民族の総人口は以下のようになります(HP:中国国家民族事務委員会による)。ダグル族の人口は132,394人、バオアン族は16,505人、ドゥンシャン族は513,805人、ユグル族は13,719人、そして、モングォル族は241,200人以上に達したということです。栗林均によれば、ロシア領内のカルムイク族は約12万人、ブルヤート族は30万人ですが、アフガニスタンのヘラート州に点在するモゴール族のモンゴル系言語の話者数は推定で数百人ということです。   モンゴル系諸言語の起源について様々な論説がありますが、モンゴル語研究者たちの多数は、チンギス・カーンがモンゴルを統治していた13世紀ごろには、一つの祖語=モンゴル語であっただろうという推定をしています。   現在、皆さんが言うモンゴル語は、モンゴル国と、中国領内の内モンゴル自治区および黒龍江省、吉林省、遼寧省、青海、新彊ウイグル自治区などの地域に分布しています。モンゴル国内に約253万3100人(モンゴル国大使館ホームページ:2004年統計年鑑による)の話者がいます。2000年の中国の人口統計によると、中国領内のモンゴル族は581万人を超えています。これは1990年の480万人より100万人も増えた数字であります。   しかし、中国領内のモンゴル語話者数は、実は人口数よりもはるかに少ないというのはとても悲しい事実です。例えば、内モンゴルにおいては、1990年時点でモンゴル族総人口は337万5千人でしたが、モンゴル語を話せる人は65.1%しか占めていないことが他の研究者の調査によってわかりました。つまり、内モンゴルでは、10人のモンゴル人のうち、4人はモンゴル語を話せないという状態になっています。中国の東北地域で暮らすモンゴル人および他の地域で暮らす中国語で授業を受けているモンゴル人の状況をみると、さらにひどい状態に置かれています。中国経済の高度成長期において、モンゴル人の若者の中には、多数の話者をもつ中国語を自分の将来に有利だと考え、中国語を第一言語とし、母語であるモンゴル語を話せなくなっている人が増えています。また、一部の児童、生徒が母語であるモンゴル語を学びたいという希望があっても、学習する環境が整備されていない地域が多数あるため、学ぶことができないこともあります。   もし日本で、日本人の若者が母語である日本語を話せなくなったと考えると、言語の喪失がどれほど悲しいものであるか、みなさんも容易に想像していただけると思います。中国東北地域に居住するモンゴル人の多数の若者は母語であるモンゴル語を自主的に放棄し、中国語を重視する傾向にあります。私が一番よく知っている中国東北地域に位置する黒龍江省のモンゴル人(約15万人)の若者の多数は自分の母語であるモンゴル語を話すことができなくなり、母語であるモンゴル語を失いつつあります。(続く)   ------------------------------------ <包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun> 中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻)を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/ 教育・研究支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、契丹小字等。 ------------------------------------
  • 2008.02.06

    エッセイ110:羅 仁淑「ある在日のおはなし」

    昨年の暮れ、在日の方々の登山についていった。P氏(70代)と私はグループから遅れてしまい、二人きりで世間話などを交わしながらゆっくりと歩いた。P氏が身の上話を始めた。涙を浮かべて聞き入る私、目頭を濡らして遠い過去を探り出すP氏。分断国出身同士の気持ちの通じ合いだったに違いない。二人の頭には、もはや早くグループに追いつかなければ・・・ということなど完全に忘れていた。   波乱万丈という言葉はこういうとき使うためにあるのかもしれない。多くの在日の来日動機とは異なる理由でP氏は高校生(16歳)の時来日した。当時の朝鮮半島の状況が分からないと、氏の来日理由は理解できないかもしれない。   朝鮮半島の北はソ連が、南は米国が優勢な状況で、1945年8月15日、日本の植民地から解放された。同年12月、モスクワで今後の朝鮮半島問題を議論する米•英•ソ3カ国外相によるいわゆるモスクワ会議が開かれ、米国は朝鮮半島を50年間信託統治することを提案し、ソ連は朝鮮民族には自主的に独立する力量があるので信託統治は要らないと主張した。度重なる協議にもかかわらず、なかなか合意に至ることはできなかった。ソ連の強い反対にもかかわらず、朝鮮半島問題は国連に上程されることになった。   当時、米国の影響力が強かった国連は1947年11月14日、(1)国連の選挙委員団の監視下で1948年5月10日に人口比例による南北朝鮮の総選挙を実施する、(2)政府樹立後外国軍を撤退させる、という米国案を可決した。人口比例で国会議員を選出することは南の人口より圧倒的に少なかった北に不利な条件であった。直ちに同委員団が上陸したが、北は入国を拒否した。国連は同委員団が接近できる南だけで総選挙を行うと決定し、予定通り実施された。そして南では大韓民国(1948年8月)が、北では朝鮮民主主義共和国(1948年9月)がそれぞれ樹立された。結果的に、手紙のやり取りすらできない、もっとも敵意の強い国同士になってしまった。   P氏の話に戻そう。上記のように政治的・思想的に不安定な時期に、高校生だったP氏は5月10日の南だけの選挙拒否運動に参加した。南だけの選挙が強行されると、P氏は国家反逆罪に問われ厳罰を受ける身になってしまい、やむを得ず国を離れることを決心した。真っ暗闇の中で「いつまた会えるかしら」と泣きじゃくる母を背にしてP氏は生まれ故郷を離れた。   日本に来て大学も卒業した。結婚もした。子供ももうけた。それなりに蓄財もできた。しかし、夢でも会いたい母に会いに行くことだけはできなかった。当時、韓国は罪の責任が親戚にまで及び、出国禁止を始めとしてあらゆる行動を制約する「縁座制」の時代であった。1980年代になってようやくこの「縁座制」が廃止され、家族の出国が許された。早速母が来日することになった。母に会える喜びで夜も眠れなかった。指折りその日だけを数えた。一日に何回も数えた。そんなある日、弟から電話があり母の心臓が悪くなり来ることができなくなったと告げられた。全身から力が抜けた。そのままP氏の母はあの世へ旅立ってしまった。   母が亡くなって数日後、弟からの手紙が届いた。母からP氏に宛てた手紙であった。臨終間際に弟に書かせたという。「お前は親不孝者ではないんだよ・・・」。亡くなった後、親不孝者だと自責する息子を慰めるためであっただろう。どこにそんな涙が溜まっていたか分からないほど止め処もなく溢れ出た。来日後、北朝鮮籍に変えたことを悔やんでも悔やみきれなかった。   それから数年後、韓国政府の在日同胞帰国事業により母国訪問団の一員として50年ぶりに故郷の土を踏むことができた。故郷の空を眺めることができた。お墓の前で母と長い話をすることもできた。   まだ会いたくても会えない人がいるとP氏の話は続いた。1959年2月、「在日朝鮮人中北朝鮮帰還希望者の取り扱いに関する件」が日本の閣議で議決されて以来、1967年まで約8万8千人が北朝鮮に渡ったが、その時、娘は万景峰号に乗った。それ以来、会っていない。祖国統一が実現され、死ぬ前娘に会うことがP氏の唯一の願いだ。60年前、祖国の分断を阻止しようと南だけの選挙に反対したP氏の運動は、分断された国がひとつになることを祈る形で今でも続いている。 ――――――――――――――― <羅 仁淑(ら・いんすく)☆ La Insook> 博士(経済学)。専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。SGRA会員。 ―――――――――――――――
  • 2008.01.29

    エッセイ109:キン・マウン・トウエ「ゴミの中から金」

    最近日本では「おさがり」という言葉を聞かなくなったと思います。かつて家庭にたくさんの兄弟がいた時、「おさがり」は普通でした。お兄ちゃんが着たものを妹が着て、最後に弟が着る。そんなことは当たり前でした。でも日本では、そんなふうに古着を兄弟続けて着ることがなくなり、ゴミとして処分されていることがほとんどでしょう。でも、世界には国境を超えた「おさがり」があります。   私が日本に留学していた時、ミャンマーのリサイクルの状況について、よく質問を受けました。古いコンピューターを処分するけどミャンマーへ持っていけるか聞かれたことがありましたが、当時は、母国のIT技術のレベルの判断が出来なかったので進められませんでした。携帯電話機も同様でした。現在のミャンマー国内のリサイクル状況から言えば、いずれも大歓迎です。   古着も同様です。日本で衣料品が不要になった場合、 1)ゴミとして捨てる。 2)回収業者に持って行ってもらう。 3)町内会の資源回収に出す。 といったルートがあり、そのほとんどが古繊維業者に集まっていくのだそうです。そこで集められた衣料品の用途はおおまかに3通りあります。 1)綿などは適当な大きさに裁断されて工場用雑巾(ウェス)となり、工場の機械類の油汚れなどを拭き取るために使われる。 2)毛織物などはもう一回糸に戻され、再び毛織物になる。またその他の繊維も同様にフェルトや軍手などの製品として生まれかわる。 そして、 3)東南アジアへの輸出。つまり、国境を超えた「おさがり」です。   中古車も同様です。日本では、10年以上新車に乗っていると、車検の変更、車輌管理、排気ガスなどの問題がでてくるので、新車に買い替えることが多い。そこで、捨てられた中古車の市場ができて、先進国の日本から発展途上国へ中古車として輸出される産業が発達しました。主な輸出先は東南アジアです。   「ゴミ」は、見方によっては不要なもの、場所を取るもの、処分するのに困るものです。しかしながら考え方を変えて、ゴミを上手く管理し、「エコ活動」として、それぞれ必要な場所にその必要性によって再利用できれば「ゴミの中から金」ができるでしょう。実際、これは、ミャンマーでよく使われていることわざです。   昨年4月ごろ、出張でミャンマーの山岳地方に行きました。その地方で訪れたある小学校の校舎はぼろぼろで設備も貧しく、しかもその小学校にさえ行けない子ども達がたくさんいるということでした。ヤンゴンでは、金持ちの家族が多く、自分の子どもの学校の選び方は日本のようになってきています。学校の評判や、卒業生の就職先などによって、子どもの学校が決められます。しかしながら、山の貧しい村では、小学校へ行けるだけでも天国へ行くようなことでしょう。親ならば誰でも自分の子どもの将来を考えるはずです。しかし、学校のことまで考えられる余裕があるかどうかです。   特にミャンマーの場合、国の政治や経済の状況によって思うようにはならないことが多いです。昨年も国内政治で大変なことがありました。現在は元に戻っているという話があるかもしれませんが、世の中に表と裏の違いがあるのは当然でしょう。経済的には、ガタガタです。税金の決め方や取り方はめちゃくちゃですし、一部の「関係」のある人だけがよい仕事に就けますし、国民一般の経済状況は下がっています。人々は傷つき、生活には大きな被害が出ていますが、政府が国民の状況をどう思っているのか、我々一般人は読めません。表と裏の違いはあるでしょう。   そこで、山の子ども達のため、彼らの将来のために、政府に頼らずに、民間のボランティア活動として行うプロジェクトを計画しました。最初は資金集めです。まず、日本で支援してくださる方のお蔭で、日本ではゴミとして処分されているものの中でも、ミャンマーでは特に必要となっているもの、建設関係の中古車トラックの輸入・販売事業を始めました。さらに、今年は、日本でゴミとして処分されている古着を利用して、山の子ども達の将来に役に立つプロジェクトを始めています。   国の将来は、子ども達の将来であります。ミャンマーの将来は、ヤンゴンの子ども達だけでなく全国の子ども達にも関係しています。現在先進国である日本は、戦後の日本人の方々の努力の結果です。私も日本留学中には、たくさんの親切な方々にお世話をなりました。今度、私ができることを母国で行うことによって、その方々へのお礼ができると思っています。私が今携わっている「山の子どもたちの将来作りプロジェクト」に、日本の「ゴミの中から金」が得られる事を期待して頑張っています。   皆様のご支援とご協力をお願いいたします。   ---------------------- <キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe> ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。 ----------------------
  • 2008.01.26

    エッセイ108:ボルジギン・ブレンサイン「『高度な自治』はチベットだけの問題ではない」

    2007年10月のアメリカ議会での「議会名誉黄金章」受賞をきっかけに、ダライ・ラマの活動はますます活発になっている。ダライ・ラマは、行く先々で、チベットが中国に対して求めているものは、中国の主権下における「意味ある自治」または「高度な自治」だと宣言しており、チベットの独立を否定する発言を繰り返している。この問題をめぐっては、1980年代から亡命政権の代表と中国政府高官が6回にわたって話し合いをしているといわれているが、状況は一向に進展しているようにはみえない。両者の話し合いの内容は公表されていないが、核心はおそらく、年配のダライ・ラマが如何に体面を保ちながらチベットに帰還できるか、そしてダライ・ラマが帰還した後のチベットは一体どんな状態であるべきなのか、といった問題にほかならないであろう。そこで気になるのは、ダライ・ラマ側が求める「高度な自治」とはいったい何を指し、一方の中国にとっての「高度な自治」とは何を意味するものなのか、ということである。   ダライ・ラマ側が求める「高度な自治」とは、例えてみれば清朝時代における清朝政府と外藩―つまりモンゴルやチベット―との関係そのものである。それは、軍事と外交を除くあらゆる権限が与えられた「間接統治」といわれるものであり、現代中国の中央政府と少数民族自治区との関係とは本質的に異なるものである。   周知ように、現代中国の五つの少数民族自治区(内モンゴル自治区、チベット自治区、新疆ウイグル族自治区、寧夏回族自治区、広西壮族自治区)はその他の省、直轄市と同等なレベルの行政区域に過ぎず、多くの意味においてはそれ以上に中央政府の関与を受けている。これらの少数民族自治区と中央政府との「直接統治」の関係は、それぞれが中央政府の統治を受け始めたときから確定されたものなのかというと、事実はそのようにも思えない。例えば、中華人民共和国の建国より二年前につくられた内モンゴル自治政府は自前の軍隊までもつ、それこそ「高度な自治政府」であり、現在の同自治区と中央政府との関係とは比べられない独自性があった。チベットが中国共産党の統治を受け始めた時の当事者であったダライ・ラマ十四世の目にも当時の中央政府からの約束とその後の現実との間に大きな隔たりがあるのであろう。そしてダライ・ラマはそれを取り戻したいと努力していると理解することができる。   しかし、一方の中国政府からすれば、チベットに「高度な自治」を与えることは、少なくとも「自治政治」のレベルを、国民党と天下争奪をしていた時の「気前のいい」状態に戻すことを意味し、ひいて言えば漢民族を除く55の少数民族全体の処遇をもう一度見直すことになる。チベットにだけ高度な自治が与えられ、ほかの少数民族は現状維持では、中国の民族関係はさらに複雑化するに違いない。チベット亡命政府との話し合いに消極的で、中国の主権下での「意味ある自治」と明確に訴えているにもかかわらず、ダライ・ラマを分離分子と非難している中国政府の姿勢の背景にはこうした事情が潜んでいるであろう。   しかし、考え方を変えて、チベット問題の解決を機に、中国が建国半世紀以上経った区域自治政治を原点に戻してもう一度考え直し、新たな時代に相応しい少数民族政策を打ち出すことになるなら、それも大きいな政治的資産をつくることになるであろう。少数民族の分離独立の動きを押さえるもっとも有効的な手段はほかでもなく、中国の中で彼らが自らの文化を温存しながら生きることができて、誇りと尊厳を取り戻し、経済発展で豊かになったことを実感できる生活空間を与えることだ。今の中国にはそれを実現するだけの余裕は充分ある。   ところが奇妙なことに、中国には「高度な自治」が存在する。しかもそれは多民族国家ならではの少数民族統治とは縁のないところに存在していることに注目したい。それは香港と澳門の「特別行政区」と台湾問題を解決する枠組みだとされる「一国二制度」である。列強に虐げられた長い植民地時代への清算と国家統一という至上命題を実現するために打ち出された枠組みであろうが、その発想の出所はまさに清朝時代の「間接統治」であり、長く蓄積された異民族統治の知恵が転用されたことは明らかである。   中国は、かつて中国と争ってきたモンゴル人や満洲人など周辺少数民族のほとんどを統治下に治めたので、これらの異民族にいまさら「高度な自治」などを与える必要性はなくなった。現在中国の国家統一の障害となっているのは同じ漢民族内部の問題であり(台湾問題)、さらに中国にとっては少数民族問題よりも本土における地域間の経済格差問題の方がより統治の脅威となっている。「高度な自治」という異民族統治から生まれた知恵が今度は少数民族問題ではなく、漢民族内部の問題を解決する道具となりつつある。   ---------------------------------- <ボルジギン・ブレンサイン ☆ Borjigin Burensain> 1984年内モンゴル大学文学部卒業;1984年~1992年内モンゴルラジオ放送局記者;1996年早稲田大学大学院文学研究科より修士号、2001年博士号取得;早稲田大学モンゴル研究所客員研究員を経て、2005年より滋賀県立大学人間文化学部准教授。SGRA会員。 ----------------------------------