SGRAかわらばん

  • 2007.09.28

    エッセイ082:葉 文昌 「オリンピックよりも盛り上がる四年に一度の台湾総統選挙」

    台湾ではあと半年足らずで四年に一度の総統選挙が始まる。この時期にもなると、総統候補に纏わる記事が毎日紙面を賑わすようになり、更に毎週末のスタジアムは政治集会の民衆で溢れ、耳をつんざくほどのラッパ音と歓声がどよめく。支持候補は藍(国民党の色)か緑(民進党の色)か?スポーツで盛り上がる機会があまりない台湾人にとってこれはオリンピックよりも盛り上がる四年に一度の全民挙げての一大イベントなのだ。   普段から話題や趣味の多様性が乏しいこともあってか、選挙が来れば話題という話題は政治一色となる。学食で食事していればどこからか中年の男が現れて支持候補者の褒め話と対立候補の悪口を言ってくるし、タクシーに乗れば、運転手からも同じ目に遭う。(客との言い争いが発展して「降りろ。お前なんか、車に乗せるもんか」となることも度々あると運転手から聞いた。) また、親類、友人、隣人同士でも支持政党に対する言い争いでわだかまりが生じる。台湾の国会議員は国会の殿堂で乱闘をするが、あのような議員がいられるのはそのような国民がいるからである。民衆を台湾では有権者と言うよりもフーリガンとしたほうがしっくりくるかもしれない。   ここまで読むと皆さんは、「台湾の民主主義は茶番劇だ」と思うかもしれない。確かにこれだけでは茶番劇だ。しかし台湾の民主主義による政権交代は、いい面も多くもたらした。一番大きいのは金権との癒着が少なくなったことだろうか。近年では予算を不正使用した政治家、粉飾経理やインサイダー取引の疑いの財閥トップ等が相次ぎ家宅捜査を受け、起訴されている。これまでは政治家や財閥にメスが入るのはあまり考えられなかったので社会にとって大きな進歩である。更に言えば候補者が国民にとってより等身大になったことである。民主化されていなかった数十年前の台湾においては、蒋介石等の独裁者は情報操作によって神格化されていた。ネガティブな情報は抹消され、国民は言いたいことが言えないので、指導者には問題が反映されずに社会の各階層で歪みが蓄積される。これでは社会の健全な発展は難しい。民主化後、台湾の指導者は等身大になったことで、誰でも問題点を言うことができるようになった。   以上、台湾の民主主義を紹介した。台湾は中華の辺境から始まって、スペイン人、ポルトガル人、中国人、日本人に300年程統治され、50年もの独裁政治を経てやっと民権を手に入れた。茶番劇は多いが、たかが10年の民主である、大目に見て頂きたい。また今後、自然の成り行きとして、国際社会への復帰を望むであろう。それで地域の緊張は強まるかもしれないが、民主主義が先進諸国の共通価値観である以上、台湾の民衆の意向は最大限尊重して頂きたいものだ。   --------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchuang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2000年に東京工業大学工学より博士号を取得。現在は国立台湾科技大学電子工学科の助理教授で、薄膜半導体デバイスについて研究をしている。 ---------------------------  
  • 2007.09.22

    エッセイ081:キン・マウン・トウエ 「豊かとは?」

    8月は、ミャンマーの雨季です。毎日一回は雨が降ります。大雨の時はドライブが大変ですが、曇りならば楽しいドライブシーズンとなります。私も旅行が好きなので、8月下旬に仕事も兼ねて、家族も一緒に、実家のあるマンダレーとその周辺へ車で行ってきました。ちょうど曇りだったので、16時間のドライブは楽しいものでした。ただし、ガソリンが値上がりしたばかりだったので、ちょっと大変でした。   前回のSGRAエッセイ「中国(雲南省)とミャンマーの貿易関係」でも、マンダレーのことについて書きましたが、今回は別の角度から考察します。仕事のためにマンダレーで二日滞在した後、マンダレーから約70キロ離れたピンウーリンへ行きました。この町は、ミャンマーの別荘地であり、イギリス植民地時代には、植民地イギリス政府の別荘地にもなっていたところです。その時のメイ将軍の名前を記念にしてメイミョ(メイ町)と呼ばれていましたが、現在は、ビルマ王朝時代の村の名前からピンウーリン(平らなピンウー村)となっています。気候が素晴らしく、山の中なので緑がたくさんあり、風も新鮮です。メイ将軍は、イギリスの気候と似ていると思ったそうです。日本の軽井沢のようなところです。   実家の別荘があるので二日間滞在しながら、仕事に関係のある作物に関する調査を行いました。この町は、海抜3538フイート(1100m)のシャン高原にある町なので、たくさんの種類の野菜や果物や花が作られています。ミャンマーのコーヒーの栽培地でもあります。さまざまな作物が、この町やその周辺からミャンマー全国へ出荷されます。新鮮な野菜や果物が多いため、食の豊かな町です。   1915年、イギリスの林野研究者である Mr. Alex Rogersは、ミャンマーの豊かな森からとれるチーク材の研究と他の目的で植物園を作る計画をはじめ、1917年にMrs. Charlotte Wheeler Cuffe の管理で150エーカーある植物園が完成しました。この植物園は、1942年には240エーカーまで拡張しました。この町へ来て、ミャンマーの新鮮な風、豊かな時間、豊かな農作物を海外へ売り出す計画を思いついたようです。   現在、ミャンマー軍のいくつかの大学がこの町にあります。さらに、政府のトップレベルの人たちの別荘地にもなっているため、町作りに力を入れています。植物園の中に、湖や動物園を作り、さまざまな花を栽培し、ミャンマーで一番の公園になるよう改良を行い、National Gardenになっています。観光客がとても多く、皆が楽しめる公園になっています。このように表から見ると、この観光客たち、この町、この国は豊かで幸せそうに見えるかもしれませんが...   現在、世界の石油の値段が急騰しています。ミャンマーでも最近値上がりしました。国内の物価も騰がりました。他の国と比べたらまだ安いかもしれませんが、国民の一般の収入と比較したら、多くの人びとが大変な生活をしなければなりません。毎日の生活さえ困る人がたくさん出てくるでしょう。それを我慢できるかどうかが問題です。   ミャンマーは、広い海と長い海岸があるので海産物がたくさん捕れます。広い面積の森があるので、チーク材含め森の資源がたくさんあります。多くの山があるので鉱山資源もあります。世界一のルビー、翡翠、サファヤなど、宝石が豊かな国と呼ばれるほどあります。確かに、この国は豊かです。   しかし、「豊か」ということは、何でしょうか?   お金の豊かさ、心の豊かさ、時間の豊かさ、資源の豊かさ…   ミャンマーの普通の人々が思っている「豊かさ」や「幸せ」は、何でしょうか?     ピンウーリンの写真は、下記URLより後藤修身氏の写真館にてご覧ください。     ------------------------- <キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe>   ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。 -------------------------  
  • 2007.09.14

    エッセイ084:太田美行 「インドの落語とマンゴープリン」

    景気が良くなってきていると言われているせいだろうか、働き手の不在と共にまた外国人労働者の問題がメディアで取り上げられるようになった。5月15日の読売新聞(夕刊)では、「外国人短期就労の解禁案 法相『研修』を廃止、新制度」との見出しをトップであげた。8年位前にもこうした問題は色々な方面から取り上げられ、私自身もSGRAのメンバーを含む元留学生の方にシンポジウムに参加して戴いたり、国会議員を対象とした政策ディスカッションの企画・実行に携わった。   こうした問題が取り上げられ議論されるのは、将来の国の姿を考える上では本来喜ばしいことだが、景気が良くなれば「働き手としての外国人労働者」が、そして景気が悪くなれば「犯罪者としての外国人」が報道されることが多いように思う。もちろん景気が悪くなれば犯罪も増えるし、これまでの日本にはあまり見られない犯罪が増えることで目新しく、ニュースにはなるのだろうが、メディアによる世論の作り方自体に意図的なものが感じられるのは私だけだろうか。   そうは言うものの、約10年前と今とで大きく異なる点もある。それは今まで以上に外国籍住民の存在が当たり前になってきたこと、そして日本生まれの2世が社会人になっていることではないか。コンビニや飲食店で働いている姿は本当によく見かける。それに限らず企業や学校でも以前とは比べ物にならないほど増えている。2006年に日本国内で就職した外国人留学生が過去最多の8272人になったと法務省入国管理局は発表した。また日本生まれについては、もはや説明するまでもないほど。有名な日本ハムのダルビッシュ選手、またお正月の箱根駅伝にもフィリピン人とのダブルの選手が出場したりと賑やかだ。   先日新宿の紀伊国屋書店の前を歩いていると面白い光景に出会った。香港人と思しき観光客グループが地図を片手にワイワイやっている向こうから、一見して日本在住とわかる西洋人の男性が歩いてくる。その横を自転車を押しながら、韓国人の女子大生風の2人連れが韓国語でおしゃべりをしながら通り過ぎる。それを見ながらつくづくと日本の光景が「変わった」と思った。しかもこうした光景が新宿だけではなく多くの場で見られるのだから。   これだけ変わってきてはいるのに最近政府が外国人政策、あるいは留学生政策に関して明確な方針を挙げたということはあまり聞かない。せいぜい短期就労の解禁案や看護師の問題、観光基本法の改定(観光立国推進基本法)くらいだ。もっと本腰を入れて議論して欲しいと思う。千葉に住む友人には、上海人の隣人がいる。「将来はオーストラリアに移住したいので、子供には今から英語を勉強させています」と言っているそうだ。私の伯父が長年おつきあいしていた元ベトナム難民の方は博士号取得後、日本で就職を希望していたが当時適わず、結局オーストラリアへ移住し大学教授になっているという。やる気のある優秀な人を居つかせない社会は日本人にとっても魅力のある社会なのだろうか。このテーマは日本の今後を考える上で非常に大きな意味を持つはずだ。もしかすると政府も、日本の数十年先のあるべき姿を考えることができないから議論がされないのかとすら思う。   観光立国推進基本法といえば、ビジット・ジャパンキャンペーンのあのロゴをよく見かける。「21世紀は観光の世紀だ」と学生時代の講義で聞いたが(当時は20世紀)、観光は非常に大きな可能性を持つし、また影響力を持っているビジネスだ。安部首相は、インドとの関係強化が経済上、安全保障政策上も重要との観点から円借款を400億円行うことを決め、日本とインドの交流人口を2010年には30万人、2015年には50万人にする目標に、査証手続きの簡素化をするそうだ。その一環で文化・芸能分野での交流として、和太鼓、雅楽、落語などの伝統芸能の公演をニューデリーで行うことを決めた。なぜまたもや伝統芸能なのだろう。インドで落語!?   伝統芸能の素晴らしさと影響力は否定しないが、今のインドの人たちが知りたい、あるいは触れたい日本の姿なのだろうか?マンガだけが日本の現代文化の伝道師とは思わないが、もう少し柔らかい発想で考えて欲しい。(私自身は落語好きだが)今流行の作家の翻訳を増やしてもいいだろうし、テレビやラジオの放送枠を買い取って日本キャンペーンの仕掛けを作っても良いだろう。それこそ韓流ではないが、日本のドラマを流しても良いのではないか。先週シンガポールに行った時、韓国への旅行を呼びかけるキャンペーンCMを見た。正に韓流スターのオンパレードといった趣のもの、それから今の韓国を前面に出したものの2つで、韓流スター出演の方を見て韓国への理解が深まるかは謎だが、意気込みとユーモアは感じられた。それに引き換え日本のキャンペーンは・・・。「本当に日本をアピールする気があるの?」と腹を立てていたところに面白い記事を発見した。   「熱帯フルーツ輸入急増 若い女性に人気 参入希望国も続々」(読売新聞8月14日夕刊)海外旅行で熱帯フルーツを味わった若い女性がブームに火をつけたのが発端となり、今では世代や性別に関係なく人気があるというものだ。2006年の輸入額が約49億円、パパイアは12億円と大きな市場となっている。「マンゴープリン」だけを見ても、2006年の市場規模が25億円、去年のインド産マンゴーの輸入量9トンが今年は52トンと約6倍にまで拡大している。これに目をつけて商社が害虫の処理技術に関しての技術支援に乗り出し、輸出解禁を求めている国が12カ国にもなっているという。   旅行業界や雑誌などによる後押しがあったとしても、国策による堅苦しい文化交流よりもっと素直な発見と喜びがブームに繋がった例はないか。10年以上前、香港に旅行した友人がマンゴープリンがどれだけおいしいものか、わざわざはがきを送ってくれたことを思い出す。韓流ブームも、「いい年をしたおばさんがみっともない」など批判は色々あったが、あれほどの人が韓国語を学び始めて韓国に旅行した例がこれまでにあっただろうか。ブームが一時的なものにせよ、そこで得られたプラスの面を次の展開や、真の理解につなげる役割を担う人が必要だろう。それは国の場合もあるかもしれない。でもできることならその役割は自由な個人やSGRAに参加する意欲のある皆さんが積極的に行ってほしいと勝手に思っている。   ----------------------------- 1973年東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究科修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。 -----------------------------
  • 2007.09.12

    エッセイ079:オリガ・ホメンコ 「ワレンティナ」

    大学の三年生の時だった。彼女がそのときに何歳だったかよく覚えていない。三十歳くらいだったと思う。彼女は礼儀正しい可愛い女性で、自分のおかあさんが大好きだった。ほとんど毎週末、おかあさんが住んでいた田舎に、都会のお土産が入ったかばんを両手に持って帰っていた。その中には必ずパンが入っていた。なぜならおかあさんが住んでいた遠い田舎の町には、おいしいパンを売っている店がなかったから。それで、ほとんどの週末に都会のおいしいパンをおかあさんに持っていった。   その村はなぜか「何もない村」という名前だった。17世紀にコザックたちがそこに住もうと決めたとき、そこは何もない野原だったので、「何もない村」と名づけた。野原はきれいな草花がいっぱいだったのだから、「かみつれ村」とか「矢車菊の村」とでも名づけられたのに・・・   マリアおばあさんの家はドライフルーツで香っていた。毎夏、庭でとれたりんごやなしからドライフルーツを作っていたから。窓際にあった柏の茶色の椅子の涼しい香りもしていた。私が子供のころ、この家に初めて入ったときから、その香りに満たされていた。昔の家の香り。マリアおばあさんは私の祖母で、ワレンティナは私のはとこだった。   ワレンティナは微笑みがきれいで、美しい声の女性だった。そして貴族的なきれいな名前で、きっと素敵な将来が訪れるに違いないと思われていた。彼女はこの小さい「何もない村」で生まれ育ち、キエフの出版関係の大学を出て仕事を始めて都会に住み着いた。だが田舎にほとんど毎週末帰っていた。彼女の友達は同じ学校を出て同じ出版社の仕事をしていたが、そのうち若い男の人と一緒に田舎に帰るようになって、それから結婚して、子供も生まれて、家族と一緒に里帰りするようになったのだけど、彼女はいつも一人だった。   ワレンティナは友達の結婚式や誕生日会にもほとんど一人で出席していた。知り合いに「誰かを紹介しましょうか」といわれたとき、彼女ははにかんで微笑んだだけだった。彼女の知り合いの男性は「背が低い」か、「面白くない」か、「性格合わない」人ばかりだった。選べる男がいないという事情だった。   彼女の父親には一度も会ったことがない。だが、マリアおばあさんにご主人の話を聞くと「はい、結婚したことはありますよ。でも、もういいんだ。もう<それ>は経験したのだから」と答えた。子供の私にとってそんな言い方は不思議に思えた。私の両親の「結婚」は結構いいものだったので、マリアおばあさんは違うことを経験したと、そのときは思うしかなかった。   ワレンティナは私の家によく遊びにきていたが、私が大学三年生のある日、急に病気になり、仕事もやめなければならなかった。彼女が入院していた病院は放射線治療で一番良い病院だった。病院の正面には、かわったモザイクの絵があった。放射線の機器を手にした男性が驚いた目でその光を眺めている。ソ連時代の絵だが、当時、「人間は自然を支配した」という考えがはやっていた。つまり、人間の手によって、放射線を支配し、治療に使うという意味の絵だった。その絵に描かれている男性は、すごく驚いているように私には見えた。彼はまだ「自然を支配した」ということを心の中で信じていない目をしていた。   彼女はその病院で亡くなった。白血病だった。   最後に見舞いに行った時、家族は「何でこんなに若い人が死ななければならないのか」という怒りと悲しみの気持ちでいっぱいだった。だが彼女は皆に向かって「泣かないでください。死ぬことなんか怖くない。みんなのことを大好きだから」とかぼそい声で語った。彼女は大変な病気に苦しんでいたのに、勇ましい心の女性だった。だが突然部屋に入ってきた若い看護婦は「ワレンティナ!泣き虫!泣くのをやめなさい。注射ですよ」とがみがみ言った。あまりに乱暴な態度だったので、この短い白衣とハイヒールの若い看護婦を殴りたいと思ったほどだった。   亡くなる前にワレンテイィナはひとつのお願いをした。葬儀のときに好きなひとからもらったネクレスを首につけること。それで彼女に好きな人がいたとわかった。誰も彼を知らなかった。葬儀の時、古い習慣に基づいて、一度も結婚してない女性はウェディングドレスやベールを着て棺にいれられた。そして首には小さい赤いビーズのネクレスをしていた。きれいだった。   ワレンティナは、小さい「何もない村」の墓に埋められた。聞いた話によれば、彼女がもう病院から戻れないとわかったときに、彼女の家の鍵をもっていた女友達が、彼女の家から多くのものを持っていってしまった。服、アクセサリー、シーツまでとったらしい。マリアおばあさんはワレンティナの家に何があったかよくわからなかったし、娘の急死で動転していたので、そんなことどうでもよかった。   誰もはっきり言わなかったが、チェルノブイリの事故があった1986年の夏には、「何もない村」には帰らないほうがよかったといううわさが流れた。風がチェルノブイリから「何もない村」を通って、ベラルーシに吹いていたから。だが彼女はママが好きでほとんど毎週土曜日に帰っていた。それが原因だったと誰も言わなかったが、その夏だけは村にいなければよかったといううわさがあった・・・   ワレンティナはきれいで心の優しい人だった。「何もない村」の小さい墓にもう15年以上眠っているにもかかわらず、人に思い出されることがある。彼女の家の鍵をあずかっていたあの「単純な」女友達は元気で子供や孫もいるようだ。今でもあのシーツで眠って素敵な夢をみているかもしれない。彼女たちはとても単純な人ですから。そして彼女たちの子供や孫はマリアおばあさんの隣の庭で騒いでいる。   マリアおばあさんはもう80歳を超えて、ドライフルーツの香りのするあの小さな家に一人暮らしている。   ------------------------------------ オリガ・ホメンコ(Olga Khomenko) 「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍していたが、2006年11月より学術振興会研究員として来日。現在、早稲田大学で研究中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。 ------------------------------------
  • 2007.09.04

    エッセイ078:高 煕卓 「他者への想像力-日本と韓国の明るい未来に向けて」

    2004年の初夏のある日、「冬のソナタ」の虜になったかのように振舞う自分の母親の変貌ぶりを伝える、教え子のある女子大学生の話ではじめて私は日本での「韓流」ブームのことに気づき、深く考えさせられた。マス・メディアを通じてよく伝えられる、日本と韓国の間で繰り返されてきた「嫌韓」と「反日」といった従来の否定的な相関関係の側面から見て、一つのテレビ・ドラマをきっかけにして日本の人々の間で沸き起こった韓国人や韓国文化への関心の高まりは尋常なものではない。こうした社会現象は両国の人々における思想的基底の変化とそれに伴う相互関係における構造的変動の始まりを意味するものではないだろうか。   ○原理との距離と他者との距離   私は近世東アジアにおける朱子学(新儒学)を中心とした思想的変化の推移に関心をもっているが、近代に始まったかのように思われがちな日韓両国の否定的な相関関係は、じつは両国の近世における思想的変動のなかでその芽が出来上がっていたことに注意する必要がある。   朝鮮王朝時代の朱子学はその王朝の建国理念で、しかも唯一の体制教学であった。そこでは官吏選抜システムとしての科挙制度の実施によって朱子学的教養は道徳面だけでなく政治・経済的特権と結びついていた。その分、18世紀後半になると、当時の全体人口の約80%がいわば支配的な身分(「両班」)として登録されていたほど、人々を引きつける力が強い。それだけに朱子学は宇宙秩序の道徳的な原理(「理」)に人々をよらしめ、いわば公務員倫理としての性格を強めていった。いかに私的欲望を抑制して公的使命感を高めるかがその最大の目標だったといえる。   だが、現実はそう簡単にはいかない。そこでは理想的な観念と実際との分裂といった偽善や欺瞞が起こりやすく、またそれへの恐怖から生じるドグマに陥りやすい。大雑把にいって、朝鮮思想史はその偽善や欺瞞に対して道徳的な原理との距離への問いをもって戦われた壮絶な思想闘争の歴史といえるかもしれない。   ところが、徳川日本では朱子学は朝鮮の科挙制度のような制度的装置にもとづいた体制教学でもなければ、仏教や神道的伝統が先行する思想世界のなかで独占的な地位が保証されたものでもなかった。またその分、その役割や担い手から見ても、朱子学は政治世界よりは都市庶民などの生活世界に近い存在であった。だが、その相対的に不利な条件のためにかえって、じつは朱子学はそれ自身の思想的発展だけでなく、先行の思想や宗教と交わりながら、多様な思想の豊かな展開の土壌になっていった。   一般にはあまり知られていないが、江戸時代において朱子学に志した多くの人は朝鮮朱子学の泰斗と呼ばれた李退渓系列の学風に大きく影響を受けていた。だが、やがてそこに孕まれていた原理主義への傾向と生活世界との不親和性に気づき、それを本格的に修正したり変容させたりする動きが民間の儒学者のなかで起こる。その思想運動の代表の一人である伊藤仁斎(1627-1705)が一方では朱子学に付きまといがちな他者の不在と自己中心的な独断や専横を批判しつつ、他方では他者への承認や寛容にもとづく対話的な社会形成の道を「公共」概念で表わしたのはその典型的な例である。民間でのこうした相対的に自由な思想的模索が東アジアの思想土壌のなかではじめて他者の発見につながっていたのである。   ○超越者のあり方   ところが、必ずといって良いほど、物事には光と影の両面があるのが常である。他者の発見が朱子学修正のなかで生み出されていたために、民族的な自覚や危機意識と絡む場合には、その他者発見の可能性は薄まれ、かえって自己中心的な独断や専横の問題を民族的「外部」として記号化された朱子学に不法投棄してしまうようなことが起こる。先述の伊藤仁斎に強い影響を受けながらも、彼とは異なり、「漢意」の排除を通じて民族的純粋にもとづいた共同体形成の道を別の「公共」概念で打ち出した国学者の本居宣長(1730-1801)がその典型であった。   だが、本居宣長による民族的純粋への追求は応分の代償を伴う。朱子学においてその強い公的使命感を根底で支えていたのは、宇宙秩序の道徳的な原理として「理」であり、それが人においては「良心」とされるものであった。しかもその朱子学批判者の伊藤仁斎においても、他者への承認や寛容といった倫理的命令は超越者としての「天」に拠るものであった。ところが、本居宣長においては、その超越者としての「天」は神話に裏付けられた「天皇」にすりかえられ、「天」や「良心」に内包されていた普遍的可能性は民族的特殊性に閉じ込まれていった。   周知のように、日本近代における民族国家の建設とその後の帝国主義への過程は韓国の悲劇と連動した形で進行したが、そのなかで、加害者の嘲笑と被害者の怨恨にもとづいた「嫌韓」と「反日」といった否定的な相関関係と自民族への閉じこみといった方程式が固まっていったのである。   ○日本と韓国の明るい未来に向けて   「冬のソナタ」から触発された日本での「韓流」ブームは、単に「韓国」という記号に収斂するものではなく、その人や文化に芽生え始めた普遍的な眼差しの発見とそれへの共感の表われだったのではないだろうか。その背後に、それまでの直截的で執着的な自己中心主義の韓国人像とは異なる、真の愛や尊敬は他者を視野に入れ自己を謙虚にしたうえでの配慮に目覚めた韓国人たちの発見が横たわっていた気がする。その意味でその社会的現象は両国ともに、民主主義と経済発展をその背景としながら、従来の両国をめぐる歴史的経緯に囚われぬ、同じ人類として共感できる普遍的なものへの素直な共感が両国の人々の間でも流れ始めたということを象徴しているかもしれない。「文化」を媒介にして多様で豊かに行われる民間交流は、今後のさらなる技術的発展とともに、両国の人々の間で真の隣人としての和解をもたらす重要なチャンネルになるに違いない。   ☆この文章の英語版は、(財)国際経済交流財団発行の「Japan SPOTLIGHT」(http://www.jef.or.jp/jp/journal.html)最新号に掲載されます。   ------------------------------------ <高 煕卓(こう ひたく)☆KO HEE-TAK> 2000年度渥美奨学生、2004年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『近世日本思想における公共探求』)。専門は近世近代日本思想史。最近の関心分野は東アジア比較思想文化、グローバル時代における文化交流の理論と実際など。現在、国際NGO=WCO(World Culture Open、本部はニューヨーク)調査研究機関の一つとしてのGlocal Culture Research Institute(ソウル所在)のディレクターを務めている。SGRA地球市民研究チームのチーフ。 ------------------------------------  
  • 2007.09.01

    エッセイ077:羅 仁淑 「陽は昇ると沈み、沈むとまた昇る」

    3年ほど前より都内の某大学の生涯学習センターで韓国語講座の講師を務めている。講座に参加している受講生は20代から70代まで年齢分布の幅が広い。韓国語に興味を持つようになった理由もさまざまだ。好きな芸能人と話したい、韓国に行って韓国語の看板が読めるようになりたい、またある人は韓国人と結婚した娘の娘(孫娘)と話がしたいなどなど。理由はそれぞれ違ってもみんな韓国が大好きだ。昔は韓国人嫌いの人が多かったと思う。幸い私は経験してないが、韓国人だということで部屋を貸してもらえず大変だったと多くの友人から部屋探しの苦労話をこぼされたことがある。   いきなり話が変わるが、最近、韓国にお嫁に行く外国人女性が増えているらしい。母から聞いた話だが、日本人3姉妹が次々と韓国人と結婚しテレビでも面白半分それを紹介したそうだ。昔はその反対のパタンーが多かったと思う。   一昨年、外国人がよく行くソウルのイテウォンというところに大学院生時代にお世話になった某奨学財団関連の方のお買い物にお供したことがある。数年前、日本の友人と一緒に訪れて以来のことだった。代金を払おうとしたら「韓国ウォンはないですか?ウォンにしてください」と言われた。驚いた。数年前まではウォンはお金でないかのような語調で、日本円にしてくれないかとしつこく言われていたのに・・・。   いずれにしても韓国自体も韓国に対する外国人の印象も昔と変わった。一時帰国をするたび、韓国の変わりぶりには驚かされる。80年代後半、日本で大学を卒業した後、1年半ほどイギリスにいたことがある。大英帝国イギリスを頭に描きながら渡英したが、世界を席巻した大英帝国の姿はもはやそこにはなかった。マンチェスターやリバプールなど昔栄えた町ほどそうだった。活気が感じられなかった。まるで老紳士のようだった。当時の日本はというとそれは活気に満ち溢れ、この国に強く照らし続けている太陽が沈むことはないように思えた。最近、たまに韓国へ行くと猛烈な躍動感を感じる。健康で虹色の夢を見ている成人式を終えたばかりの若者のような。   韓国は1960年代朴正熙大統領時代から始まった計画経済政策により急速な経済発展を遂げた。10%以上の成長率を記録し、「ハンガンの奇跡」と言われるほどであった。とくに1988年ソウルオリンピック以降、IT産業、造船、半導体、電子、自動車、携帯電話などにおいては基幹産業として飛躍的な成長を遂げ先進国と肩を並べるようになった。造船では海外受注量において1位であった日本を追い抜いて世界一となり、半導体の分野では三星電子を筆頭とする韓国企業が世界シェアの一位を占めている。自動車分野においても世界中に販売網を構築し先進諸国と激しい競争を繰り広げている。全産業に通用するとは言えないものの韓国企業と韓国商品が世界市場で高く評価されていることは確かのようだ。政治的には金大中大統領の太陽政策(宥和政策)以後、敵対関係であった南北が協調関係に変わった。南北を縦断する道路と鉄道を繋ぐとか、経済的協力を拡大するとか、さらに統一に向けた具体的構想を練るとか、朝鮮半島にとって明るいニュースがちらほら聞こえてくる。性急な人々は民族の宿願「統一」が実現され、陸路で朝鮮半島発アジア、EU行きもまんざら夢ではないと目を輝かす。韓国語講座の受講生たちも韓国にお嫁に行く外国人女性たちもそんな韓国が好きになったかもしれない。   人間と同じく国にも乳幼児期、青少年期、成人初期、成人後期、老年期というライフサイクルがあると思う。人間のライフサイクルは老年期から逆方向へ戻ることはできないが、国はいくらでもそれができることが違うだけだろう。世界経済史が示しているように韓国が今の状態を長期的に維持できる保証はない。いつ韓国が沈み、またどの国が昇るのか興味津々だ。   ------------------------------ <羅 仁淑(ら・いんすく)☆La Insook> 博士(経済学)。SGRA研究員。 専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。 ------------------------------  
  • 2007.08.21

    エッセイ075:デマイオ・シルヴァーナ「伊太利亜王国海軍と日本」

    1866年に日伊修好通商条約が締結された後の日伊関係については、1868年以降イタリアで出版されている『リヴィスタ・マリッティマ海事雑誌』(Rivista Marittima)に掲載された日本に関する海軍司令官報告書や諸論文などを読んでみると新しい発見ができる。   当時のイタリアでは、蚕糸業が蚕体の病気の蔓延により大きな被害を受けており、海外から良質の蚕種を輸入する必要に迫られていた。王国海軍が日本へ海洋遠征を開始した理由は、まさに日本から蚕種輸入を図るためであった。   しかし、伊太利亜王国海軍は条約に基づく開港地(神奈川、函館、長崎)以外にも、湾岸測量を行いつつ、入港可能な地点を探索していた。1872年にG.ロヴェーラ艦長率いる軍艦ヴェットル・ピサーニ号が日本に到着した。その軍艦のデ・ヴェッキ大将は下士官に水路学を教えながら、例えば脇浜の図面を制作している。図面制作を進めていたイタリア人は日本人たちから大いに歓迎され、乗組員たちは、その日本人たちに艦内見学までさせている。日本人たちの鋭い質問に圧倒されたと回想するロヴェーラ艦長は、下士官の淡路島・三原での訪問について興味深い指摘をしている。   「三原に住む日本人は外国人に多大な関心を示すところからみて、三原の住民は初めてヨーロッパ人に出会ったと推測される。イタリア人の士官が綿の商売で繁栄していた三原の目抜き通りを歩いたとき、前も後ろも日本人がついてきたが、全部で千人はいたであろう。三原を見学することを事前に町の人に連絡していたわけではなかったので、それら日本人は誰かに命じられて我々イタリア人を歓迎していたわけではなかった。」   更にまた、開港・開市でなかった「Yamada」という地名の付けられた場所について、ゴヴェルノーロ号のアッチンニ艦長による1873年の記録につぎのような記述があるり、伊太利亜王国海軍の士官、乗組員たちが、開港・開市以外の土地も訪れていたことがわかる。   「入り江には小さな日本の汽罐船があった。ポルチェッリ大尉と少尉の努力にもかかわらず、日本人と意思疎通できなかったため、その舟がそこで何をしていたのかはまったく分からなかった。その入り江については横浜で何人かの外国人の全権大使が話していた。しかし、小さな入り江なので大きな舟が入れない。さらにまた、海岸には小さな村しかなく、商売に適していないと思われる。そこからさらに6マイルほど離れた場所にある仙台市の方がある程度商業が発達しているため、面白いかもしれない。」   以上明治初期の伊太利亜王国海軍による海洋遠征にみる日本とイタリアとの《出会い》について若干みてきた。ここで参照した資料は、いずれもイタリア側から“テクスト”として記述された見聞録である。日本側において伊太利亜王国海軍についてどのように記述されたか文献資料を比較考量することも必要となってきている。   ---------------------- <シルヴァーナ・デマイオ ☆ Silvana De Maio> ナポリ東洋大学卒、東京工業大学より修士号と博士号を取得。1999年から2002年までレッチェ大学外国語・外国文学部非常勤講師。2002年よりナポリ大学「オリエンターレ」(ナポリ東洋大学の新名)政治学部研究員。現在に至る。主な著作に、「1870年代のイタリアと日本の交流におけるフェ・ドスティアーニ伯爵の役割」(『岩倉使節団の再発見』米欧回覧の会編 思文閣出版 2003)。 ----------------------
  • 2007.08.18

    エッセイ074:孫 軍悦 「足ツボと足のツボ」

    今年の四月から、二つの大学で非常勤講師として中国語を教えるようになった。これまで大学院で先輩たちに「若手」と目されていた私だったが、平成生まれの大学生の前では、日々自分の「古さ」を突きつけられていた。確かに、いまだに携帯を持たず、活字メディアに固執しているのだから、時代遅れといわれても仕方がない。しかし、私が感じたもっとも大きな「ジェネレーションギャップ」は決してファッションや趣味、話題といった外在的なものではなく、むしろ知覚・感覚の様式や物事を認識、思考する回路の違い、つまり文字通り「人間」そのものの違いである。   というのは、テレビやゲーム、パソコン、携帯に囲まれて育てられた世代の感覚様式は驚くほど視覚に頼っている。多くの学生が私に、話した内容を逐一黒板に書くように求め、耳だけでは追いつくことができない。他人の話を聞くのも苦手のようで、何人も同じ質問を繰り返すこともしばしばあった。集中できる時間が短く、時には小学生のように手を挙げてトイレに行ったり、前に座った人にちょっかいを出したりする。しかし、彼らは決して不真面目でもなければ、中国語が嫌いというわけでもない。男子学生でもきれいなノートを作り、絶えず辞書を調べている。問題はそこなのだ。私が不思議に思うのは、本来練習問題に出てくる言葉はすべて習ったものにもかかわらず、彼らはいつもそのつど振り出しに戻って遂字に(←?)辞書を調べる、ということだ。これは、単純に復習をしていないため、覚えていないと理解してもいいが、その学習スタイルはどこかパソコンに似ていないのだろうか。つまり、そのつど、パソコンを立ち上げ、必要な情報を検索するというスタイルだ。しかし、パソコンから見つかった情報は常にそのときそのときの必要性に応じて見つけ出されるもので、決して体系をなしていないのだから、彼らの頭に取り入れられた情報も散乱としていて、記憶するために必要な体系化という作業がなされていない。さらに、こうした、全体像が分からないまま、そのつどの需要にあわせて情報を取り出す今日の学生たちの物事を認識する方法は、断片化された情報を次から次へと更新していく「断片性」と「速報性」という「世論操作」の基本とほぼ同じ構造を持っていることも、決して見過ごせないだろう。   中国の若者たちも例外ではないはずだ。世界的にますます均質化された都市生活の中で培われた感性や知性と、中国の政治、経済、社会的状況という土壌とが、いかなるダイナミズムをなしているのかを考えない限り、いわゆる「愛国主義教育」による洗脳の魔術を誇大視し、インターネットに飛び交う情報の内容の虚実に目を奪われるだけでは、日中関係の未来が一向見えてこないのではないか。   このような疑問を持って、最近「反日」デモに関する過去の新聞をいろいろと読み漁った。1908年の第二辰丸事件、1915年の山東問題、1919年の五四運動、1920年代の旅大回収、五・三〇事件、山東出兵、済南事件、1930年代の万宝山事件、満州事変・・・・・・そして、2005年の「反日」デモ。こうして新聞報道や学者の議論を追っていくと、暴徒化した学生の暴力的行為、戦々兢々とする邦人の恐怖、反日愛国主義教育、メディアの煽動、政治家の権力闘争、山積する社会問題、くすぶる群衆の不満などなど、デモの様子についての描写もデモ発生の背景を分析する視点も驚くほど類似していることに気付く。もっとも、それぞれのデモが発生する特殊な歴史的背景を無視し安易に表層的な類似点を抜き出して比較するのは禁物である。だが、あらゆる「現状」に基づいた分析に確かに一つだけ変わっていない要素がある。それは、プロパガンダに洗脳され、政治家に利用され、メディアに煽動されやすい、かくも純真な怒れる青年たちの気質である! すなわち、人間だけは、変わらないものとされているのである。   ここで、息抜きに最近ツボにはまった笑い話をちょっと紹介しよう。「シンブルー・ライン」というイギリスのコメディ・ドラマのなかで、主人公のファウラ警部の同居者パトリシャは「指圧マッサージ」に夢中になって、足裏に頭や心臓や肝臓など身体のあらゆる部分に対応するツボがあって足ツボマッサージがどんなに身体にいいのかをこんこんと説いていたら、ファウラ警部はこう聞いた。「足のツボはどこだ?足が疲れた時どのツボを押せばいい?」そう、足裏には足のツボがないのだ!と同時に、足の疲れをほぐす時にいつも足全体をマッサージしているのだから、足裏にあるすべてのツボがまた足のツボでもあるのだ。   やや強引な展開になるが、政治学や歴史学や社会学、経済学など人文科学の個々の研究分野と人間との関係も、足裏にあるさまざまなツボと足に効くツボの関係と似てはいないか(私の発想のすべての源泉はこうした日常的なたわいのない経験であることをお許しいただきたい)。つまり、われわれはそれぞれの研究領域において、具体的な政治的、歴史的、社会的、経済的事象に気をとられるあまり、全ての人文科学は、根源的に人間に関する探究にほかならないという最も重要なことをつい忘れてしまうのではないだろうか。   歴史家リュシアン・フェーヴルが明確に定義している。「歴史とは人間を対象とする学問」だと。さらにこう言う。「生きるとは変化することにほかならない」。「科学」と冠するあらゆる学問において、それでも人間を一つの常数としてではなく、常に一つの変数として細心の注意を払いながら扱うべきだと主張する私はやはり「古い」人間なのだろうか。   -------------------- <孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。 --------------------
  • 2007.08.15

    エッセイ073:ボルジギン・ブレンサイン 「湖の中の『国際化』」

    「キャンパスは琵琶湖、テキストは人間」を理念としている私の大学のキャンパスはまさに琵琶湖の畔にあるので、このごろよく湖畔を散歩する。先日、わが大学よりもずっと湖畔にある滋賀県水産試験場のある研究者の方と立ち話をする機会があった。彼はこの水産試験場で淡水魚の養殖や生態に関する研究をしているようで、話は鮒寿司の作り方から琵琶湖の歴史や生態へと広がり、最近話題になっている外来種の問題にまで及んだ。   彼の話によると、琵琶湖の生態を脅かしている最大の外来種は「オオクチバス(俗にブラックバス若しくはラージマウスバス)」と呼ばれる北アメリカ原産の魚だそうだ。この種の魚は1925年に神奈川県芦ノ湖で初めて発見され1970年代になって急速に全国に広がり始め、現在は全都道府県で確認されている。琵琶湖では1974年に初めて確認され、1980年代後半に増殖のピークを迎えた。ブラックバスは大型の動物食性の魚で、魚類・甲殻類だけでなく、昆虫や鳥の雛まで食べ、日本の元来の生態を維持してきた在来種の魚や生態系に対して大きな影響を与えている。琵琶湖では1984年以降、駆除事業が始まり現在も続いている。   ブラックバスと同じく北米原産の魚ブルーギルも多様な小動物から水草まで食べる雑食性で、とくに魚の卵を好んで食べるために、激増した水域では在来生物への大きな影響が懸念される。皮肉なことにブルーギルは1960年、当時の皇太子殿下の渡米の際に、みやげとして贈呈された個体が、各地へ分与され、1965年に西ノ湖で初めて記録され、1968年には琵琶湖で捕獲され、1970年代前半に湖全域に拡大した。1990年代に入って個体数を急増させているという。最近ではコクチバス(又はスモールマウスバス)と呼ばれるはやり北米原産の大型動物食性魚も猛威をふるっているようである。   ところが、日本の河川や湖には、獰猛で肉食性の北米原産だけではなく、近隣のアジアからも色々な外来種が日本に上陸していた。例えば、ハクレンやソウギョのように、明治-大正期から食料増産の目的で中国や台湾、朝鮮半島から持ち込まれた淡水魚がいるが、北米原産と違って非肉食であるうえ、日本在来種に対して劣勢に立たされ、現在その殆どが元来の遺伝的な特徴を失ってしまったという。またこうしたアジア原産の外来種は、日本在来種と同様に北米原産魚に対して劣勢に立たされていることも注目に値する。逆に、日本から北米に持ち込まれた鯉が大発生し、北米在来種に対して脅威となっているという話もしてくれた。   水産研究に素人である私がなぜこのような外来種問題に興味を持ったのか。それは、日本在来種が北米外来種に「劣勢」であるのに対して、アジア外来種には「優位」であるという、琵琶湖を舞台にした湖の中の「国際化」現象にヒントを得たからである。   叫ばれて久しき地上における国際化の実態はどうであろうか。福沢諭吉の「脱亜論」が1885年3月16日の『時事新報』に掲載されて以来、日本は欧米追随一辺倒でアジアを厄介者扱いしてきたが、それが今日の経済大国実現の原動力であったと大勢の日本人に信じられている。しかし、経済的に欧米を圧倒しながらもスポーツや文化などの面で欧米にコンプレックスを覚えてきたことに慣れてしまったため、近年のアジア諸国の経済発展を前に、本来ならアジアに対して「優勢」であったはずの部分までが見え隠れしている状況で、もしかして自信喪失に陥っているのではないか。それが一世紀以上「脱亜」した結果と思うと、実に理解し難いところである。あるフォーラムで某学識経験者が語った「日本はアジアとのつきあいの中であまり良い目に遭ったことがない」というニュアンスの言葉が記憶に残っているが、歴史的事実がそうだとしても「脱亜」し続けてどうやってアジアの台頭に対応するのか。福沢諭吉の時代と違って、現在のアジアはもはや「亡国」を待ち受けた「頼りにならない」アジアではなく、むしろ日本よりも活力に溢れたところとなっている。「脱亜論」を聖書にし続ける人々には、潜水服を着て琵琶湖に潜って、北米原産に食われながらもアジア原種を「同化」させてきた日本在来種の逞しい「国際化」の姿を観察することをお勧めしたい。   <ボルジギン・ブレンサイン ☆ Borjigin Burensain> 1984年内モンゴル大学文学部卒業;1984年~1992年内モンゴルラジオ放送局記者;1996年早稲田大学大学院文学 研究科より修士号、2001年博士号取得;日本学術振興会外国人特別研究員を経て、2006年より滋賀県立大学人間 文化学部准教授。SGRA会員。
  • 2007.08.15

    エッセイ073:ボルジギン・ブレンサイン 「湖の中の『国際化』」

    「キャンパスは琵琶湖、テキストは人間」を理念としている私の大学のキャンパスはまさに琵琶湖の畔にあるので、このごろよく湖畔を散歩する。先日、わが大学よりもずっと湖畔にある滋賀県水産試験場のある研究者の方と立ち話をする機会があった。彼はこの水産試験場で淡水魚の養殖や生態に関する研究をしているようで、話は鮒寿司の作り方から琵琶湖の歴史や生態へと広がり、最近話題になっている外来種の問題にまで及んだ。   彼の話によると、琵琶湖の生態を脅かしている最大の外来種は「オオクチバス(俗にブラックバス若しくはラージマウスバス)」と呼ばれる北アメリカ原産の魚だそうだ。この種の魚は1925年に神奈川県芦ノ湖で初めて発見され1970年代になって急速に全国に広がり始め、現在は全都道府県で確認されている。琵琶湖では1974年に初めて確認され、1980年代後半に増殖のピークを迎えた。ブラックバスは大型の動物食性の魚で、魚類・甲殻類だけでなく、昆虫や鳥の雛まで食べ、日本の元来の生態を維持してきた在来種の魚や生態系に対して大きな影響を与えている。琵琶湖では1984年以降、駆除事業が始まり現在も続いている。   ブラックバスと同じく北米原産の魚ブルーギルも多様な小動物から水草まで食べる雑食性で、とくに魚の卵を好んで食べるために、激増した水域では在来生物への大きな影響が懸念される。皮肉なことにブルーギルは1960年、当時の皇太子殿下の渡米の際に、みやげとして贈呈された個体が、各地へ分与され、1965年に西ノ湖で初めて記録され、1968年には琵琶湖で捕獲され、1970年代前半に湖全域に拡大した。1990年代に入って個体数を急増させているという。最近ではコクチバス(又はスモールマウスバス)と呼ばれるはやり北米原産の大型動物食性魚も猛威をふるっているようである。   ところが、日本の河川や湖には、獰猛で肉食性の北米原産だけではなく、近隣のアジアからも色々な外来種が日本に上陸していた。例えば、ハクレンやソウギョのように、明治-大正期から食料増産の目的で中国や台湾、朝鮮半島から持ち込まれた淡水魚がいるが、北米原産と違って非肉食であるうえ、日本在来種に対して劣勢に立たされ、現在その殆どが元来の遺伝的な特徴を失ってしまったという。またこうしたアジア原産の外来種は、日本在来種と同様に北米原産魚に対して劣勢に立たされていることも注目に値する。逆に、日本から北米に持ち込まれた鯉が大発生し、北米在来種に対して脅威となっているという話もしてくれた。   水産研究に素人である私がなぜこのような外来種問題に興味を持ったのか。それは、日本在来種が北米外来種に「劣勢」であるのに対して、アジア外来種には「優位」であるという、琵琶湖を舞台にした湖の中の「国際化」現象にヒントを得たからである。   叫ばれて久しき地上における国際化の実態はどうであろうか。福沢諭吉の「脱亜論」が1885年3月16日の『時事新報』に掲載されて以来、日本は欧米追随一辺倒でアジアを厄介者扱いしてきたが、それが今日の経済大国実現の原動力であったと大勢の日本人に信じられている。しかし、経済的に欧米を圧倒しながらもスポーツや文化などの面で欧米にコンプレックスを覚えてきたことに慣れてしまったため、近年のアジア諸国の経済発展を前に、本来ならアジアに対して「優勢」であったはずの部分までが見え隠れしている状況で、もしかして自信喪失に陥っているのではないか。それが一世紀以上「脱亜」した結果と思うと、実に理解し難いところである。あるフォーラムで某学識経験者が語った「日本はアジアとのつきあいの中であまり良い目に遭ったことがない」というニュアンスの言葉が記憶に残っているが、歴史的事実がそうだとしても「脱亜」し続けてどうやってアジアの台頭に対応するのか。福沢諭吉の時代と違って、現在のアジアはもはや「亡国」を待ち受けた「頼りにならない」アジアではなく、むしろ日本よりも活力に溢れたところとなっている。「脱亜論」を聖書にし続ける人々には、潜水服を着て琵琶湖に潜って、北米原産に食われながらもアジア原種を「同化」させてきた日本在来種の逞しい「国際化」の姿を観察することをお勧めしたい。   <ボルジギン・ブレンサイン ☆ Borjigin Burensain> 1984年内モンゴル大学文学部卒業;1984年~1992年内モンゴルラジオ放送局記者;1996年早稲田大学大学院文学 研究科より修士号、2001年博士号取得;日本学術振興会外国人特別研究員を経て、2006年より滋賀県立大学人間 文化学部准教授。SGRA会員。