SGRAかわらばん

  • 2008.03.25

    エッセイ121:ボルジギン・フスレ「モンゴル人は血のついた肉をそのまま食べるって本当?(その1)」

    「モンゴル人は血のついた肉をそのまま食べるって本当?」 20数年前、北京大学に入った時、クラスメートに、よくこのように聞かれた。 当時、わたしが入ったクラスには「五湖四海」と呼ばれる中国各地域から来た学生が51人もいた。それなのに、かれらにとって、内モンゴルから来たわたしはまるで特別な存在であった。モンゴル人の衣食住、ひいてはデリケートな政治問題などについて、さまざまな質問があった。「家の入り口に男女二人の靴が置いてあったら、その部屋に入ってはいけないって本当?」とか、「冬、おしっこをしに行く時、棒を持って行かなければならないの?」とか、どこで得た「知識」なのか分からないが、受け売りで根拠のない話は少なくなかった。そのなかには、モンゴル人の飲食についての質問もたくさんあった。   わたしがミルクティーを作って飲んでいるのを見て、「これは何?」と聞いてくる。わたしの説明を聞いたら、「へぇー、なんでお茶にミルクを入れるの?」と、かれらはわたしが飲んでいるものが非常にまずそうだという顔をする。「改革開放」から間もなく、貧困からまだ脱出しておらず、長い間、雑穀を食う生活に慣れたかれらにとっては、牛乳は赤ちゃんの飲み物だ。大人は牛乳なんて飲まないし、お茶に牛乳を入れるのはさらに不思議である。わが家では、麺類にも牛乳やバターを入れて食べると話したら、かれらはさらに大騒ぎした。かれらにとって、わたしは遅れているのであり、野蛮なのである。   冒頭の質問にもどると、確かに遊牧民族であるモンゴル民族は羊肉、牛肉が好きである。草原で育てられ、汚染されていない新鮮な羊肉そのものの品質は当然良いし、それほど煮ずに食べられるし、スパイスやソースも不要、塩のみで十分に旨い。農耕民族によって小屋で育てられた家畜は、生まれてからの運動も少ないし、育てられた環境や餌などの原因も加わり、肉が硬く、品質管理が悪ければ衛生上の理由でよく煮なければならない。濃厚なソースや強いスパイスなどの調味料も要求される。   半年後、冬休みに帰省し、新学期が始まると、わたしは故郷からたくさんの土産を持って大学に戻った。そのなかには母親が作ってくれた牛肉、羊肉の料理もあった。物理学部の故郷の友人を呼んで、ルームメートと一緒にその肉を堪能しようとした。ルームメートは初めてこんなたくさんの肉を目にして、たいへん喜んだ。彼は「美味しい。美味しい。でも1回でこんなたくさんの肉を食べきれない」と言いながら、ナイフで脂身の部分を切り捨てて、赤身の部分だけを食べた。豪放に肉を食べていた同郷の友人が、それを見て少し怒りながら、「何で肉を捨てるんだ?」と聞いた。ルームメートは、「脂身は食べられないよ」と返事しながら、続けて脂身を切り捨てた。友人はわたしに「肉を大切にしないやつは肉を食べる資格がない。かれらに肉をあげるな」と言った。   卒業して地元の大学で勤務していた。1996年、北京で開催されたある学会に参加した時、北京に住んでいたモンゴル人の友人がしゃぶしゃぶの名門店「東来順」に招待してくれた。わたしたちがたくさん羊肉を注文したのを見て、ある店員は「あなたたちは何者ですか?」と訪ねてきた。わたしたちがモンゴル人であるのを知って、「わたしは満洲族だ」と、その店員はしゃべり始めた。「しゃぶしゃぶは美味しいでしょう。こんな美味しい料理は、あなたたちの祖先の発明だ」と、次の物語を語った。   ホビライ・ハーンがある戦役を指揮した際、お腹がすいていて、「肉を持って来い」と近衛の部下に命令した。戦闘の真最中で、料理はすぐ作れないから、命令を受けた部下はお湯を沸かしながら、「このまま塊の肉を入れたら、出来上がるのに時間がかかる。どうしたらいいか」と焦っていた。その瞬間、ひらめいた。彼は速やかに肉を薄く切って、沸いたばかりのお湯に肉を入れたとたん、すぐとり出して戦役を指揮している馬上のホビライ・ハーンに呈し続けた。大勝した後、ホビライ・ハーンがあの料理のことを思い出して、「戦闘中に食べた料理は誰が作ったのか」と聞いた。   その部下は、何かまずいものを作ってしまい、ハーンに怒られたと心配しながら、慌てて「わたしです」と名乗り出た。ホビライ・ハーンは、「こんな美味しい料理を、おのれ一人で食べていいのか。わが勇敢な将軍、戦士たちもねぎらってやろう」と、部下に新たにその料理を作らせて、将兵たちにご馳走した。こうして、しゃぶしゃぶという料理が生まれ、後世に伝わった。大清時代には、宮廷の料理として、有名だったという。   この伝説は、わたしが中学校の時、フフホトでも聞いていた。ただし、その主人公はホビライ・ハーンではなく、チンギス・ハーンであった。伝説はともかく、今や、しゃぶしゃぶという料理が東アジア各国で盛んになったのである。(つづく)
  • 2008.03.19

    エッセイ120:陳 姿菁「台湾のシルバーシート事情」

    台湾に旅行に来て気づく方も多いでしょう。公共交通機関に乗ったときに、若者がすぐお年寄りや妊婦さんに席を譲る光景を絶えず見かけることです。   台湾では「博愛席」というものがあります。日本でいうところのシルバーシート(優先席)で、電車やバスに設定されています。人々はお年寄りに対して積極的に席をゆずります。台湾には「敬老尊賢」という言葉があります。年上を尊敬し敬うという意味で小さいころから植え付けられている概念です。そのため、特に交通機関に乗るときに、お年寄りをとても大切にします。シルバーシートではなくても、積極的に席を譲るし、席を譲るために離れたところにいるお年寄りを呼ぶこともあります。席を譲る対象はお年寄りばかりではなく、小さな子どもや、妊婦さんあるいは体の不自由な方にも座席を譲る習慣があります。   日本で忘れかけた人のやさしさを台湾で見かけると、よく日本人の友人から聞きます。台湾人は「博愛席」という名称にもあるように、人を思いやる博愛精神を大切にしているように思いますし、教育でも重視されているようですね、と感心してくださる日本人の友人の数は少なくありません。日本に帰って、自分は席を譲ったけれども周りの人は誰もしないのを見て日本人として恥ずかしい思いをしたという友人もいました。   しかし、反対の声も聞こえます。老人はともかく、何で子ども達にも譲らなければならないでしょうか。子どもを大事にするにしてもほどがあり、甘やかし過ぎないように親も気をつけなければならないという意見です。   日本にもシルバーシートの設定を巡って議論が起きているようでが、実は台湾でも同じ声が聞こえます。「外見は健常者に見えるから譲ってもらえないが、心臓疾患や高熱などの内部疾患を患っていて外見では見分けられない人もいるのですよ」という指摘にはハッとさせられます。また、「一日仕事をしていたのでくたくたな時は、若者だって座りたいことはある」「乗車時間が長いので、座るのは自分の権利である」「譲るか譲らないかは個人の自由」という生々しい本音も吐露されます。   確かに、シルバーシートの設立趣旨はいいことではありますが、しかし、当たり前になりすぎたという感じは見受けられます。なぜかというと、あたかも譲ってもらって当然という態度のお年寄りに何度も会ったことがあるからです。本来なら「敬老尊賢」は美徳とされ、お年寄りを思いやるために席を譲り、お年寄りの方もそれをありがたく相手の好意を受け取るのが理想的です。しかし、譲る行為が一般化しすぎた故、譲らないといかにも図々しく礼儀知らずの若造として周りに見られてしまいます。その上、お年寄りの方に「席を譲って」という目で見られ、疲れていても、具合が悪くても譲らなければならない状況に追い込まれることも少なくありません。そんな具合ですから仮眠して知らない振りをする人も出てきています。お年寄りだけではなくて、子連れの親が席についている人に「席を譲って」という目線をずっと送っている情景もしばしば目撃しました。   ここまでくると、本来の趣旨から外れてしまっているのではないでしょうか。表から見れば、博愛精神を大切にし、お年寄りや体の不自由な方を大切にしている社会に見えますが、掘り下げてみると、譲る側としては自分が得た「楽に交通機関に乗る『権利』」を譲るのに、当たり前に受け取られて心から感謝してもらえない、という表向きと背馳する行いになっているのではないでしょうか。   席を譲る必要はないと主張しようとしているわけではありませんが、それは強制的なものではないと理解した上で、席が譲ってもらったら「当たり前」ではなく、相手の思いやりに感謝していただきたいものです。   -------------------------------------------------- <陳姿菁(ちん・しせい ☆ Chen Tzuching)> 台湾出身。お茶ノ水女子大学より博士号を取得。専門は談話分析、日本語教育。現在は開南大学の応用日本語学科の専任講師。台湾大学の頂尖企画も兼任している。SGRA研究員。 --------------------------------------------------
  • 2008.03.15

    エッセイ119:韓 京子「ジェネラルドクター:病院とCaféの結合」

    ソウルにちょっとかわった病院が登場したという記事を見かけました。ソウルには教会も多いのですが、病院もとてもたくさんあります。特に整形外科や歯医者。日本では美容整形といって「整形」という漢字を使いますが、韓国では「成形」を使います。韓国では「整形」というと骨、筋肉、関節関連の分野です。「形を整える」と「ある形をつくる」、意味は随分違いますが、韓国の美容整形はもとの形をちょこっといじるだけでなく、別のものを「創り出す」ということなんでしょうか。歯医者も虫歯などの治療というより、矯正、歯の美白など美容の方に力を注いでいますが、こちらも見た目重視の韓国社会では需要が大きくなる一方かもしれません。ちなみに日本では産婦人科の不足が大問題となっていますが、ソウルは今のところまだ大丈夫そうです。   さて、この病院を紹介することにしましょう。取材をかねて実際に行って診察してもらいたかったのですが、最近体調が悪くなかったためコーヒーだけを飲みに行くのもどうかと思い断念しました。でも、この病院のお医者さんは病気になる前から遊びに来る感覚で来てほしいらしいです。   場所はソウル市内の弘益(ホンイック)大学前。この大学は美術学部が有名なせいか、学校の周りにはおしゃれなお店が多く、ちょっとしたデートスポットとなっており、わざわざ遠くからもカップルがやってきます。そんな街にできたこの病院、知らない人はコーヒーショップと思い、お茶だけして帰ることもあるそうです。   では、どうしてこのような病院が作られたのでしょう? それは日本と同様、韓国の病院、特に大学病院などの総合病院での「3分(いや、1分)診療」に疑問を持った奇特な若いお医者さんの発想によるものでした。最近日本でもカルテが手書きじゃない場合が多いかも知れませんが(以前東大病院にかかっていた時は先生がいっしょうけんめい手で書いていました)、韓国(大学病院)では医者ではなく看護婦が患者の症状などをパソコンに入力するのを見てびっくりしました。この大学病院の医者は担当の患者数が多いため真ん中に仕切りのある二つの部屋を行き来しながら診察をしていました。医者が他の部屋で診察をしている間、もう一つの部屋では看護婦が待機している患者の症状などをあらかじめ聞いてパソコンに入力しているという状況です。結局、医者と患者の対面時間は1分というわけです。心理的な要因による疾患の場合、もうちょっとお医者さんと相談したいものですが、追い出されるように診察室を出るしかないのです。(ちなみに韓国にはまだ心療内科がありません)   ジェネラルドクターはこのような非人間的な医療状況について悩んだ結果だといいます。病気になる前から病院に「遊び」に来て医者と友達になったり、お茶を飲んでちょっと休憩しに病院に行ったりすることが可能になることを望んで建てたそうです。そのため、一人あたりの診察時間が30分以上になることが当然なようで、結果、多くの患者を診ることができない分、コーヒーショップの収入に依存するということらしいです。収入に頼るというより待ち時間にコーヒーを飲みながら緊張をほぐす意味の方が大きいのかもしれません。   病院の診療時間は午前10時30分から夜12時までという、ソウルのコーヒーショップ並みの時間です。もちろん、日曜日もやっています(最終日曜のみ定休日)。内科と小児科が診療科目なのですが、精神科の治療や人生相談もやっているとか。まだ、1年も経ってないのですが、医療コミュニケーションに関心をもってこれからも様々な試みをするつもりだそうです。医療デザイン会社も運営していて、子ども用のキャンディー付の舌圧子なども直接デザインしたということです。大学病院も徐々に改善されていくのでしょうが、これからどんどんこのようなお医者さんが増えてほしいものです。   この病院の写真や韓国語の情報は下記URLよりご覧いただけます。   http://healthlog.kr/303?_best_tistory=trackback_bestpost   ------------------------------------------- <韓 京子(ハン・キョンジャ)☆ Han Kyoung ja> 韓国徳成女子大学化学科を卒業後、韓国外国語大学で修士号取得。1998年に東京大学人文社会系研究科へ留学、修士・博士号取得。日本の江戸時代の戯曲、特に近松門左衛門の浄瑠璃が専門。現在、徳成女子大学・韓国外国語大学にて非常勤講師。SGRA会員 -------------------------------------------
  • 2008.03.07

    エッセイ118:金 政武「私の日本ドリーム」

    日本の先進技術と豊かな文化を求め、1998年既に31歳になっていた私は、人生を日本で再スタートする気概で、東工大の博士課程に入学した。そして、大学院では一緒懸命に研究に没頭した。月20万円の渥美奨学金を貰うまでの2年間は学習奨励費の月7万円くらいで生活していた。(奨学金を提供してくださった日本の諸機関には深く感謝している。)その最初の2年間は、日本のあらゆる種類のインスタント・ラーメンを食べ尽くした。月末になると、たまにはお金が無くて1、2日間何も食べられなかった事もあった。それでも希望を持って、一生懸命に私の「日本ドリーム」に向かって突撃してきた。その後、国立の研究所などを経て、日本のある大手電気メーカに入社し、普通のサラリーマン生活を送るようになった。   来日して10年間、私は日本で結婚し、日本で子供を育てた。私にとって、人生の一番重要なイベントが全て日本で起こった。日本はもう私の故郷であるように感じた。そして、自分も普通の日本人と何の変わりも無いようになって、私の日本ドリームがつい実現したかのように思っていた。そして、此処日本と今の会社を自分の家だと思って、仕事に一層励んできた。   来日して10年が過ぎたし、年を取って病気療養中の母と一緒に住まないといけなくなった事もあって、永住権か国籍を申請した方が良いのではと思い、先日入国管理局と法務局に行って関連規定を聞いた。答えは見事にノーでした。つまり、日本は非移民国家なので、人道的配慮から子供の同居は認めるが、帰化しても両親との永住同居は認めないとの事だった。ショックだった。このような規定になった理屈は十分理解できるものの、感情的にはどうしても受け入れられなかった。このような規定に関しては早めに確認しておいた方が良かったと後悔の気持ちで一杯だった。   そして、どうがんばっても日本は私を受け入れない事を悟った。腹が空いても希望を持って徹夜しながらがんばっていたのは何のためだったのか、会社の仕事が忙しくて、父の最期を看取ることができなかったのは何の、誰のためだったのか、がんばって来た10年間が空しく感じて仕方が無かった。入国管理局からの帰り道に、わざわざ桜木町駅で降りて、海の方へ足を運んだ。周辺の夜の景色は素晴らしいものだったが、自分とは何の関係も無いと感じた。   何時ものとおり、その夜、一人で生活している母に電話した。母の蒼老な声に心が強く打たれた。今まで感じた事の無い何かが心の中を走った。涙が止まらなかった。実質両親を捨てたような形で、夢中にひたすら日本のドリームを求めて来た自分と家族の10年間はあまりにも空しく感じた。   ベランダに出て、タバコに火をつけた。外では小雨が降っていた。静かな夜景は奇麗だった。仕事から遅く帰宅する人たちは小雨の中で急いで各自の家に向かっていた。でも、全ては自分とは無関係に感じた。静かに降っている小雨は私のノスタルジックな気持ちを一層寂しくした。薄く空に舞い上がっているタバコの煙は、私の日本ドリームのように何処かへ無言で消えて行った。もう帰る時だ。一人で寂しく老後を送っている母が待っている。母と日本、私は母を選ぶ事にした。   追記: 私のようなケースは決して稀ではないと思う。このような問題を適切に解決する方法がないと、先ず優秀な人材が日本に来ない。また、来たとしても、何時か仕方なく離れる事になる。人材を日本に招く努力をすると同時に、彼らをどう引き止めるかをも考えないと、結局マイナス効果になるに間違いない。   -------------------------------- <金 政武(きん・せいぶ)☆ Jin Zhengwu> 中国吉林省出身。1993年華東理工大学で工学博士号取得。2001年東京工業大学理学博士。国立研究所などを経て、2003年~現在、日本某大手電気メーカ社員。 --------------------------------
  • 2008.03.04

    エッセイ117:梁 蘊嫻 「Happy People」

    *写真入りのエッセイは下記のURLからご覧いただけます。http://d.hatena.ne.jp/tamasato/     昨年の夏、アジア21奨学財団「日本の基層文化を学ぶ」熊野ワークショップツアーで奥田彰人という写真家に出会った。   「写真家の奥田さんです。彼はもっぱら人物写真を撮っていて、『世界』という雑誌に作品が掲載されていますよ。大阪の人で冗談ばっかり言うから、一日中一緒にいると疲れちゃうんだよ」と奨学財団事務局長の角田さんは冗談を混じえながら、奥田さんを私たちに紹介してくださった。   奥田さんは運転手を勤める一方、我々の活動を写真で記録していた。確かに彼はいつも「俺は他人に厳しく自分に優しいんだ」と戯けた口調で話しているが、その裏には真面目な性格が隠されていることを私は感じ取った。我々の活動が無事に行われるように配慮し、彼は必ず行列の最後尾にいる人に目配りする。また、日本や熊野の風土について知っている限りのことを留学生に教えてくれようとする優しい一面も見せてくれた。   旅行中一つ印象的なことがあった。旅の最後の晩、私たち一行は那智の滝がよく見える山頂に聳えたお寺「青岸渡寺尊勝院」に泊めていただき、住持の高木英亮さんの法話を拝聴した。翌日早朝、荷物を背負って青岸渡寺尊勝院に別れを告げたときの出来事であった。私たちはのんびりとおみくじを引きに行ったり、寺院の周辺を散歩したりしていた。奥田さんは散漫としている私たちに怒り出した。全員が集まって、お世話になった「青岸渡寺尊勝院」の方々にきちんとお礼を申し上げなければならないと彼は考えていたからだ。奥田さんは人に対して「感謝の気持ち」を強く持っている方なのだ。   旅行から戻ると、参加者全員がレポートを提出し、財団の便り「結」(ゆい)に載せてもらったが、奥田さんは以下の言葉を文章に綴った。 「このツアーは自分にとって線香花火のようだ。人生の一夏にいつも残るのは写真と、消えそうで消えない思い出と、日焼けのあとだけ。それらは大きく打ち上げられたものではなく、それぞれ小さな光がちりちりと重なり合う火玉、線香花火。出会いと別れを繰り返した暑い夏が去り、爽やか秋のそよかぜにこの身が包まれる頃、火玉は静かに落ちてゆく。火玉の残像はありふれた生活の中で自分の「笑顔」に変わっていく。自分にかけがえのない輝きを放つのである」。   最後に彼は「感謝を込めて」という言葉を皆に贈ってくれた。奥田さんは人との出会いを大切にし、それを写真によって記憶して、さらにそれが自分の笑顔に変わっていく。そして彼は自分と「ご縁」を結んだ人々に対して感謝している。こんな彼が「人」を撮りたいというのはよく理解できる。人間好きな奥田さんは一体どんな写真を撮っているだろうかと気になった。角田さんの言葉を思い出して、私は図書館で『世界』という雑誌を見つけ出した。   雑誌をめくると、目に映ったのは一図一図幸せが溢れている笑顔であった。 労働を終えた休憩時間で、白い歯を見せながら天真爛漫に笑っているおばさんたち。顔を見合わせ「スローライフで楽しくいこう」とにっこりする銀髪夫婦。花柄のシャツにカウボーイ風の帽子、その上タバコを口に銜えている、気ままに生きる男のように見えるが、そのイメージと対照的に写真の説明では「いつもサイフに親の写真……入れてるんだよ」というセリフが付けられ、何とも言えない微笑ましい光景だ。私はなぜかほっとして、しばらくこれらの写真に見入っていた。   ところが、雑誌のページをめくって奥田さんの説明を読んだら、私の心は激しく打たれた。撮影場所が水俣市であることを知ったからだ。あの「水俣病」に襲われた悲劇的な歴史を背負った町ではないか。有機水銀に中毒した患者の写真を多く見てきただけに、写真に映った人々の笑顔がこの上なく輝かしいものに思えた。   海で遊ぶ四人家族。お腹の中に小さな命が育まれているお母さんは、娘を愛しそうに見ながら小さな手を繋いでいる。お父さんも幸せそうに娘を見守っている。この幸せに満ちた海は水俣病をもたらす祟りの不知火海だろうか。「水銀の被害に遭い失われた生命の魂の再生を願って、こけしを作っている」建具職人は手に握った作品を凝視して淡々とする表情だが、深い想いに沈んでいるように見える。後ろの海を振り返りながら、岸頭に佇むおばさん。「水俣に始まり、水俣で終わる」彼女の平凡な人生には物語がたくさん詰まっているということをこの写真は語っている。   奥田さんはそれまで注目されてきた「水俣病」とは異なった視点から写真を撮っていた。それについて彼は「この作品を制作するにあたって一つの決め事がありました。それは水俣病について勉強しないことでした」と述べた。なぜならば、「水俣病という括りだけではなく、それも含めてそこにある全てを『人』を通じて拾い集めていきたかったから」だ。   奥田さんは一年と四ヶ月に渡って撮っていた自分の作品を “Happy People”と名付けた。その理由は「撮影させて下さった方々、また目に見えない形でご賛同いただいた方々、そしてこの作品を見ていただいた方々に、我々の往く道に『幸、多かれ』と祈る気持ちを込めつけました」と奥田さんは注記している。また『涙の数だけ笑いもある』との彼の言葉は私の心の深い所まで届けられた。そうだね。工業発展がもたらした水俣病という途轍もない悲劇を我々は教訓として背負って行かなければならないけど、しかし地元の人々の笑顔から救われることができたような気がする。人々は大きな悲しみの中で自分のささやかな幸せを所有している。いや、大きな不幸の外側により大きな幸福が囲んでいるはずだ。奥田さんの写真をみてそう思った。   「感謝」「恩返し」「人間」「笑顔」は奥田さんの人生にとって一番大事なことではないかと思う。この四つの主題を生々しく表現している彼の作品が私の琴線にふれる。蠍座の性格かもしれないが、私も人によく感謝する性格なので、ここで改めて奥田さんに「ありがとう」と言っておきたい。   彼とはあまり話さなかったが、写真を通じて心の交流ができたような気がする。「一期一会」。私はこれから奥田さんに会う機会があるかどうかがわからないが、2007年夏の出会い、そして写真がくれた感動を心の中に大切に留めてゆきたいと思う。   ★注記 以上の写真は『世界』(岩波書店、2007年4月)に掲載されているものであるが、奥田彰人氏の承認を得てこちらに転載した。無断掲載や転送を固く禁止する。なお、メールで送信できるように解像度を低くしたので画質が少々落ちており、彩度や明度などは若干原作品と異なった箇所がある。原作と異なった部分があれば、原作品に準ずることを断っておきたい。ご興味がある方はぜひ原作をご覧ください。   追伸:奥田氏の作品「HAPPY PEOPLE」が「第14回土門拳文化賞」大賞を受賞されたという最新情報があった。   ------------------------------- <梁 蘊嫻(りょう・うんけん)☆ Liang Yunhsien> 台湾花蓮県玉里鎮出身。淡江大学日本語学科卒業後来日。現在東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化研究室博士課程に在籍。博士論文は「江戸時代における『三国志演義』の受容」をテーマとしており、今年度提出予定。母語を忘れてはいけないと思っているので、現在勉強の合間を縫って、母語の客家語を教えている。学生には、日本人、台湾人、二世客家人、ニュージランド人、マレーシア人などがいる。 -------------------------------
  • 2008.02.29

    エッセイ116:趙 長祥「独対寂寞、静観吾心」

    ●「庄子心得」シリーズ(その1)   はじめに   中国では、2005年にエンターテメントの世界から全国に波及した「超級女生(スーパーガール)」が大きな話題になったが、翌2006年には「学術超男と学術超女」の話題がメディアに取り上げられ、国中に宣伝された。中国の中央テレビ(CCTV)で放映されたのは、有名大学の教授達が、これまで非常に難しいとされていた国学(中国古典文学)を易しく大衆に解説し、啓蒙する番組である。なかでも、「三国誌」を解説したアモイ(厦門)大学教授の易中天氏(男性)と、中国古典書のひとつである「庄子」を解説した北京師範大学教授の于丹氏(女性)は、それぞれの的確な理解と簡潔明瞭な解説を以って、中国で一躍有名になった。テレビ番組は本に纏められ、それぞれ「品三国」「庄子心得」と名づけられてベストセラーとなった。これまで中国の大学の先生たちは、黙々と研究や教学に努め、マスメディアにでることなく、スーパースターとは全く無縁だった。しかし、今や、学者も国学解説によって学術超男と学術超女となったわけである。   国学が復興したといわれる現在の中国であるが、その原因を分析すると、改革開放30年近くの歳月を経て、徐々に豊かになっている国民は、物質生活だけでなく、精神的な支えも求めるようになったといえるだろう。豊かな中国の古典文学を、現在起きている身近な事象に引き寄せ、易しい説明を加えることによって、金儲けと出世をめざして常に競争に晒され、負組みに陥ることへの恐怖心から常に頑張って緊張している大多数の国民の心を癒すものとなったである。   私は、昨年の9月に上海の企業での仕事を辞めて学界に戻ってから、時間的に多少余裕が出てきたので、上述の「品三国」と「庄子心得」を読むようになった。特に、于丹氏によって解説された「庄子心得」における、彼女の独自のロジックからたくさんのヒントを得、少しずつ感想として書き出し、ブログ(blog.sina.com.cn/xiangchangzhao)に載せるようになった。そのいくつかを、SGRAかわらばんの場をお借りして、皆様とシェアさせていただきたい。このシリーズが皆様の癒しとなり、テンポの速い生活のなかでも、ときどき空気に漂うスローライフの淡い……淡い香を感じていただければと思う。   ●「独対寂寞、静観吾心」 ~ひとりで自分に適切な時間を定め、わが心を見つめて、更なるふさわしい道を歩む~   「庄子心得」之三で、于丹氏は、レバノンの著名な詩人であるKahlil Gibran氏の言葉「我々は、遠くへ、遠くまで来ている、源となる出発の目的を忘れるほど」を引用し、その章を展開している。私もこの言葉から始めることにしたい。   人間の一生は、長かろう、短かろう、人それぞれ独自のユニークな経歴である。それぞれの人生の旅には、目の前に聳え立っている高山を登り越えなければいけない場合もあり、彼方へ流れていく浅い渓流や谷を渡る場合もある。一人で茨に覆われている狭い山道を切り開く時もあり、平坦な大道を淡々と歩く時もある。成功の喜びを体験する時もあり、挫折や失敗の悲しみを味わう時もある。   いずれにしても、生涯を終える時ではなく、旅をしながら歩いてきた道を常に振り返って修正する人は、成功する確率が高いと考えられる。しかし、大多数の人間は、旅路で出会った様々な体験を、捨てるべきものも、キープすべきものも、すべて両肩に背負い、自分にとって大きな負担となっていることに気づかない。いくたびの年月が人生に深く刻まれても、ある場所とある状況から離れることができず、更なる広い大道へ進んでいく境地に廻りあわない。   時代の変化が強く感じられる現代社会に生活している人々は、リズムの速い生活に追われ、足音と心臓のビートを常にテンポの速い時代感覚に合わせて、前へ前へ向かって走らなければならない。記憶のなかでは、中学のテキストにある朱自清氏によって書かれた著名なエッセイ「背影―姿」(興味のある方は、是非一読ください)を、現代の感覚で味わうことができたとしても、あの時代の気配は全く感じられなくなり、いくたびか生活のリズムが塗り替えられた感慨だけは残っている。ペースを変えてもさらに速くなるだけ。それぞれの人生の目標のために・・・、高山を乗り越え、川をわたり、ハードルを一つ一つ潰して、目標も一つ一つクリアしたにもかかわらず、大きな目標はいつまでも遠い 遠い 前方の彼方にあり、遥かに届かないところで疲れ果てた人々を待ち侘びている。その目標のために、今まで歩いてきた道を振り返る時間さえ作り出せない状態なのである。   人間の成長段階も同様で、多くの人は、生まれてから一人旅ができるまでの期間は家族にケアされながら、長い成長の旅に必要な養分を蓄積していく。大きくなるにつれて、憧れた夢を追い求め、ふるさとを離れ異郷で追い求めた生活を営み、生まれ育ったふるさとの光景は徐々に脳裏から薄らいでいく。しかしながら、年をとってみると、長年住んでいた生活の地には根を下ろせず、静かな夜に心の底から湧いてくるのは、相変わらず生まれ育ったその土地、夢のなかに浮き彫りにされるのは、相変わらず故郷の山水・人々・・・   したがって、人生の旅のそれぞれの節目に、ときどき自分に「寂寞の光陰」を与え、出発地からの旅程のひとつひとつを味わい、自分の心路を整理する必要がある。歩んできた道は、正しい道かどうか、曲がったり歪んだりした道ではないかをじっくり考え、更なる自分の心路(I have to follow my heart)に基づき、自分にふさわしい道を選び出して切り開いていく必要がある。すなわち、このような期間は、「独対寂寞、静観吾心」、つまり、歩んできた人生の振り返りであり、自分へのまとめでもある。寂寞の光陰によって、生活の五味をじっくり味わい、心と体に落ち着きをとりもどして、新たな生活へ向かっていく。たとえ不公平な状況に直面しても、過ぎ去った歳月に幾多の侘しさと憂いがあっても、自分には励ましのチャンスを与えなければならない。   旅路で辿り着いたところどころに立ててきた旗が強風に吹き倒されていないかどうか、後ろを顧み反省しながら、旅人は更なる高い峰を目指して、風とともに青空へ舞い上がる。長旅につれて両肩に掛かる負荷は徐々に重くなる。背負っている荷物を取捨選択し、捨てるべき負担をどんどん身の後ろに放り出さなければ、足取りは重くなる一方で、ついには歩けなくなってしまうだろう。したがって、旅路の途中で、時々ひとりで自分に適切な時間を定め、わが心を見つめて、自分にふさわしい更なる道を歩んでいくことが必要になってくる。   ------------------------------------------- <趙 長祥(チョウ・チョウショウ) ☆ Andy Zhao> 2006年一橋大学大学院商学研究科より商学博士号を取得。現在、中国青島の海洋大学法政学院で講師を務める。専門分野は企業戦略、地域産業開発、産業組織。SGRA研究員。 -------------------------------------------
  • 2008.02.23

    エッセイ115:範 建亭「上海における人の国際化」

    上海は中国の最大都市として、国際化が急速に進んでいる。それは外資系企業の進出、国際ビジネスまたは外国人の数などに限らず、街の景観、ファッションや食べ物、娯楽などの日常生活、そして人間そのものにも反映されている。前回は上海に住む日本人の状況を紹介したが、今回は現地人の国際化について話したい。   上海が国内で最も国際的な都会となったのは今だけの話ではない。1930年代、上海はすでに近代的国際都市となり、「東方のパリ」とも呼ばれた。だが、50年代以降は計画経済体制の下で、内向きの都市に変身した。70年代末からの改革開放によって、再び国際化の道を歩み始めたが、活発化したのは近年のことである。   しかし、海外留学や移民といった人の外向き国際化においては、上海はほかの地域に及ばないところがある。中国では、広東省や福建省は人の海外移住が伝統的な地域として知られており、世界各地で暮らす華人の殆どがこれらの地域出身である。上海ではかつて海外に出るという風潮は根付いていなかったが、80年代以降は海外留学がブームとなり、沢山の若者が夢を胸に出国した(私もその中の一人)。「せっかく海外に出たので、故郷に帰ることを考えるな」と家族や友達に言われるばかりではなく、心の中でそう決心して留学した人も非常に多かったに違いない。   ところが、近年では事情が一変し、留学先から帰国して仕事に就く人数がますます増えている。新聞報道によると、1978年以降出国した留学生は昨年末で約100万人、そのうち帰国して就業している人は全体の三分の一に達しているが、大半はここ数年帰国したのである。そして、これらの留学生が帰国するときに、上海を選ぶ傾向が強いと見られるという。その理由は様々であろうが、沢山の元留学生(私もその中の一人)がまた夢をみて上海で新たな生活をスタートさせたことで、この都市の国際化は内面から進められるようになっている。   ここで、統計データや新聞報道に見えてこない人の国際化の一面を紹介したい。海外留学から帰国した人のうち、日本からの元留学生の人数が相当の割合を占めていると思う。上海で発行されているいろいろな日本語のフリーペーパーをみれば、同窓会やOB会の情報が非常に多く、また出身大学もほぼ日本全国に及んでいることがわかる。私は日本の二つの大学で勉強したことがあるから、今は二つの同窓会の運営に携わっている。メンバーたちは同じ留学経験を持っているので、お互いに交流しやすく、普段もよく集まっている。   でも奇妙なことは、同窓会の仲間の中には実際日本人に帰化した者も多いことである。彼らは身分上もう中国人ではないが、ずっと上海で暮らしている。日本には何も残っていないから、戻ることはもうないだろうと思う。そして、中国の国籍に戻ることも不可能である。当初は日本で暮らすために帰化したのに、今は外国人として祖国で暮らす。その現象は日本留学の仲間に限らず、親戚や周りの人々にもそのような「日本人」や「アメリカ人」などがよく見られる。昔はみんな逃げるような気分で出国したことを思い出すと、その変化は本当に感慨無量である。   一方、私が勤めている大学においても、留学から帰国した人数が絶えず増加している。現在、海外で博士号を取得した教員の数は80人を超え、教員全体の約15%を占めている。帰国者のうち、やはり外国で永住権を獲得した人も少なくない。また、留学先を見ると、アメリカと日本が一番多く、合わせて帰国者全体の半数以上を占めている。日本からの元留学生同士として親しみがあるから、人数が増えることは嬉しいが、逆に学内で重視される程度も低くなり、普段の仕事では日本語を使う機会がほとんどなくなってしまった。そのせいで、私の日本語能力も見る見るうちに低下している。それは、私にとって帰国してから一番残念なことだ。   -------------------------- <範建亭(はん・けんてい)☆ Fan Jianting> 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 --------------------------
  • 2008.02.19

    エッセイ114:李 垠庚 「知る権利、知らない権利」

    日本に住む外国人が、来日直後に困惑する理由の一つは、毎朝生々しく報道される「殺人事件ニュース」ではないだろうか。最初は、自分が日本に来たちょうどその時、たまたま稀代の殺人事件でも起きたのかと思ってしまう。ところが、時間が経つにつれ、殺人事件の主人公が変わるだけで、殺人事件の報道が毎日続くことに気付くようになる。事件の報道はあまりにも詳しく、おかげで事件の手口を教えられるのは勿論のこと、被害者の人柄や日常生活までわかるようになり、さらには友だちや遺族の肉声まで聞かされる。犠牲者になった子供がどれほど親の言いつけに従い、勉強熱心で、友達の面倒見が良かったかを繰り返し聞いているうちに、もし両親に逆らい、不勉強で人見知りでもあった子供なら、被害にあっても良いというのだろうかという反発心さえ浮かんでくる。あらためて根掘り葉掘り聞き出さなくても、人間の命それ自体が貴重であることを、むしろ忘れているのではないか。   危険なのは朝の時間帯だけではない。地上波だけでも毎晩平均一本以上、2時間のサスペンスドラマを放映している。他の種類のドラマの中にも、殺人事件をあつかう刑事ドラマが多い。日本語の勉強という名目でサスペンスドラマを見始め、そこで犯罪の類型や手口を習得してからは、朝の殺人事件ニュースを見ながら犯人探しに没頭するようになる。更に、自ら完全犯罪のマニュアル、少なくとも密室殺人のトリック一つくらいは作らなければ、という義務感さえ感じ始め、それこそが、自分が日本に住んだ甲斐のある仕事ではないか、とすら思えてくる。   それからまた時間が経つと、自分の情緒不安定とわけのわからない不快感は、残酷な殺人事件報道に無防備でさらされていることと無関係ではなかろうと、突然気付き始める。その対策に腐心し、サスペンスドラマ一切を避けること(昼にも再放送があるので要注意!) 、ニュースは時間が短くて割合にあっさりした夜のニュース、あるいはNHKのニュースを見ること、朝の情報番組や主婦番組を見る時は、アイドルスターの熱愛報道やグルメガイドに続き、突然殺人現場にまで引きづられるかもしれないので、いつもリモコンを握ったまま見ること、などの要領を覚えてくる。(残念ながら、留学生活末期は、古いテレビのリモコンも壊れがちであるが・・・)   次の新たな事件が起きるまで、視聴率を支えている毎日の殺人劇は、すでに日本経験者のあいだでは忘れられない日本生活の思い出(?) という風評である。一般の被害者をめぐる日本の加熱報道が、外国人の目にどれほど不可解に映るか、よもやメディア自身がわかっていないわけではないだろう。それでも、長い放送時間を埋めるためには決して捨てられない大事なネタとして、全国民の同意を得ているのだろうか。そして、殺人事件の被害者になった途端、全国民の「知る権利」の範囲に入る「公人」になるという、暗黙の了解でもあるのだろうか。もしかしたら、それを「知る権利」と主張する人がいるかも知れない。芸能人のプライバシーなら楽しみとも言えるが、悲惨に殺された人のプライバシーを掘り出してほしい、国民の私にはそれを「知る権利」があると唱える日本人がどれほどいるのか疑わしい。例えそうした人がいるとしても、それが望ましいとは言えない。情報にも、共益にもならない死にいたるまでの人間同士の揉め事を、それほど必死に掘り出すのは、まさか娯楽のためではないだろう。   公的立場の責任ある人が関係していたり、事件自体が国民の注目に値するほど社会的な意味合いを持つものでない限り、殺人事件は(裁判は民事ではなく刑事事件として扱かわれると言えども)個人的な問題として扱かわれるべきだと思う。残酷な事件の犠牲者になったという理由だけで、何の抵抗も出来ず、異を唱えることも出来ない死者のプライバシーや事件の状況を暴くことはやめてほしい。犯罪の予防に力を尽くすべきなのは当然であるが、犯罪被害者を二度目の被害にさらされないようにするのも必要ではないか。それは、被害者や遺族のためでもあるが、何気なくテレビをつけた人が、生きていたら自分とは何の関係もなかったはずの誰かの殺害事件について、そこまで詳しくは「知らない権利」を保護するためでもある。日本は世界で犯罪発生率がもっとも低く、犯人の検挙率も最も高いにもかかわらず、犯罪に対する恐怖心はどの国より強いと報じる記事を読んだ記憶がよみがえる。   ------------------------------------- <李垠庚(イ・ウンギョン)☆ Lee Eun Gyong> 韓国の全北全州生まれ。ソウル大学人文大学東洋史学科学士・修士。現東京大学総合文化研究科博士課程。関心・研究分野は、近代日本史・キリスト教史、キリシタン大名、女性キリスト者・ジャーナリスト・教育者など。現在は、韓国語講師を務めながら「羽仁もと子」に関する博論を執筆中。 -------------------------------------
  • 2008.02.19

    エッセイ113:包 聯群「母語の喪失(その3)」

    中国黒龍江省において、モンゴル語による教育が徹底的に実行されていなかったことは、すでにみなさんにご紹介した通りですが、モンゴル語教育の歴史をみると、清朝、中華民国、満洲においても、モンゴル語による教育が積極的に行われたとは言えません。新中国建国以来、少数民族の教育を重視したとは言え、様々な政治運動が続く中、モンゴル語を話せる、あるいはモンゴル語を使用する環境が整備されておらず、モンゴル語を放棄して中国語を話せることを社会に適応した一種の「能力」とみる人が徐々に増え、モンゴル語ができなくても、生活には何の支障もなく、モンゴル語ができなくても当たり前のことだと考える人が多くなっています。この状況をさらに詳しく知るために、地域に使われている言語の状況を見てみましょう。   黒龍江省における唯一のモンゴル族自治県である杜爾伯特(ドルブット)地域では、政府の言語政策としてモンゴル語と中国語が平等に扱われています。公務員の試験、進学の試験などにおいては、モンゴル人はモンゴル語による受験を受けることができると明確に定められています。しかし、実際に公務員の試験では、中国語による受験しか受けられません。というのは、モンゴル語で受けても(実際にモンゴル語のレベルはそれほど高くないのも事実です)、中国語ができなければいけないからです。   次に、黒龍江省においてはモンゴル語による新聞、一般誌、出版社、テレビ局などはありません(モンゴル語による学術雑誌が一つだけあります)。杜爾伯特モンゴル族自治県に、土日の夜、中央テレビのニュースが終わったあと、10分程度のモンゴル語による放送があるだけです。4万を超えるモンゴル人がこのような新聞メディアの環境に置かれています。私が自治県所在地の町をちょっと回ってみたところ、個人が経営している店の看板はモンゴル語と中国語の両方で書かれていますが、その文字の大きさがあまりにも対照的でした。モンゴル文字は、はっきり見えないほど小さく、漢字がモンゴル文字の何十倍も超える大きさで書いてありました。   さらにある店では、モンゴル文字の方向が逆になっていました。そこで、店の経営者に聞いてみると、意外な事実が明らかになりました。看板をつくる際、最初はモンゴル文字を入れなかったが、政府の民族教育委員会から検査をするという情報があったため、後に貼り付けたということでした。しかし、モンゴル文字の方向を逆転してしまったのに誰もが気がついていなかったのはあまりにもひどい話ですね。先日のテレビ放送の情報によると、中国ではある会社が日本の食品であれば「安全」だというイメージを利用し、包装袋にはひらがなの「点」がなかったりする間違った日本語の標記をし、商品を販売していたという事実がありました。日本語は外国語だからたくさんの人が読めないのは仕方がないと言えますが、モンゴル族自治県であり、4万人のモンゴル人が暮らしているにもかかわらず、たくさんの人が気づいていないのは何故でしょう。これは多くの人がモンゴル文字さえ読めないことの現れでもあると読み取れるかもしれません。   モンゴル人が日常生活で使用している言語をみてみましょう。私が観察したところ、この地域で暮らしているモンゴル人は少なくとも三種類の言葉を話しています。年を取った人とモンゴル語教育に従事している人、あるいはそれと関係がある仕事をしている少数のモンゴル人は場合によって、たまにモンゴル語で話しています。それ以外の多くのモンゴル人は日常生活ではモンゴル語の文法をベースにし、多数の中国語語彙を取り入れたいわゆるモンゴル語と中国語を混ざった混合語を話しています。一部の人は中国語を日常言語として用いています。特に若者の多くは中国語を母語とし、モンゴル語ができなくなっています。   中国の経済発展に伴い、「中国語の市場」がますます拡大し、あらゆる分野において中国語の必要性が高まってきました。少数民族の地域において、民族政策が出されましたが、少数民族の言語による「市場」の開発が遅れ、経済的に少数民族言語話者が不利とならない措置を取っていないため、自主的に多数言語の中国語へ切り替える人が増えつつあります。それに従い、少数民族の言語を学ぶ人も減少してきたとも言えます。モンゴル人保護者も自分の子供の将来を考え、中国語による教育を受けさせる人が多くなっています。私のまわりにいる親族、知人、友人ほぼ全員が自分の子供を中国語による教育を受けさせています。一部の人にはモンゴル語による教育を受ける機会がありませんが、一部の人はモンゴル語による教育を受ける機会があっても中国語による教育を選択しています。中国語による教育を選択するのはよくないとは言えませんが、自分の母語を忘れないようにしてほしいと思います。   以上のように、この地域の子供たちは母語を喪失しつつあります。モンゴル語を話せない人が日に日に増えているのが現状であります。この子たちは、母語の大切さ、言語の大切さをいつか実感し、わかってくれるのでしょうか。世界の多くの言語が消滅しつつある中、誰でも自分の母語を大切にし、母語を愛してもらいたいと考えております。   ------------------------------------ <包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun> 中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻)を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/ 教育・研究支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、契丹小字等。SGRA会員。 ------------------------------------
  • 2008.02.13

    エッセイ112:包 聯群「母語の喪失(その2)」

    黒龍江省は中国の最北東に位置し、面積は46万平方キロメートル、2000年の統計によると、人口は3,689万人で、漢民族のほかに、モンゴル族、満洲族、朝鮮族、回族などの民族がいます。黒龍江省にはおよそ15万人のモンゴル族が居住していますが、これは黒龍江省における総人口のわずか0.4%ではあるものの、他の少数民族より多く、漢民族、朝鮮族に次ぐ第三位であります。ドルブット(杜爾伯特)モンゴル族自治県には黒龍江省のモンゴル人の三分の一を越える4万人以上が居住しておりますが、それはドルブットモンゴル族自治県総人口の18%にすぎません。ドルブットモンゴル族自治県は黒龍江省における唯一のモンゴル族自治県です。また、モンゴル語で授業を受けられる唯一の地域でもあります。   これ以外に、黒龍江省のゴルルス(肇源)県、チチハルの泰来県にそれぞれ1万人以上のモンゴル族が居住しており、富裕県、チチハル市郊外、大慶市市内などにもそれぞれ数千人のモンゴル人が暮らしています。しかし、これらの地域で暮らしているモンゴル人の多くは母語であるモンゴル語を話すことができなくなっています。モンゴル人が比較的に集中している村では、モンゴル語を第二言語として教えていますが、学校教育は当然中国語で行われています。これらの地域では、モンゴル人であってもモンゴル語を学ばない人が多く、モンゴル語を学んでいたとしても、それは教室だけで学ぶ「外国語」のようになっています。日常生活で、子供たちは、お互いに中国語のみでコミュニケーションを取っているのが現状です。ドルブットモンゴル族中学校・高校のモンゴル語で授業を受けているモンゴル人の生徒さえ学校の外へ一歩踏み出せば、中国語のみが共通語となっています。   なぜ、このような状態になったかを考えてみると、そこにはこの地域のモンゴル語教育の歴史的背景があったと思われます。   黒龍江省における唯一のモンゴル族自治県であるドルブット地域では、黒龍江省教育委員会の決議によって、1984年9月から、モンゴル人が比較的多く住んでいる地域で中国語ではなく、モンゴル語による教育を実験的にスタートしました(中国語以外の科目)。これによって、ドルブット地域では、断続に行われてきたモンゴル語教育が再開されることになりました。なぜ、断続的に行われたかというと、そこにはそれなりの理由がありました。黒龍江省のドルブット地域には、もともとモンゴル人のみが居住していました。しかし、後に清朝が実行する“蒙地開放”政策などにより、ドルブット地域の人口が徐々に増えはじめました。モンゴル人は相対的に少なかったのですが、1910年に3,561人、1928年には6,635人に達し、総人口の27.7%しか占めていませんでした。モンゴル語を学ぶ時は、最初は「私塾」(主に『モンゴル語字母』、モンゴル語に翻訳した『百家姓』、『三字経』などの典籍を教科書として使用していた)から始めるか、あるいは家庭教師を招いて学ぶ方式でした。   中華民国元年(1912)になると、私塾は8ヶ所まで増え、1930に、バヤンチャガン学校は唯一の公立蒙文官学でありました。加えて、ドルブット地域には中華民国時代に仏教寺院が9ヶ所あり、そこに居た425人のラマ僧はモンゴル語を学び、仏教活動に携わっていました。1940年に学校の数は28校となり、そのうち、モンゴル人が通う学校は11校でした。   しかし、全員がモンゴル語で学べていたわけではありませんでした。新中国が誕生して以来の1952年に当地域のオリンシベ(敖林西伯)モンゴル族小学校でモンゴル語による教育を実験的にスタートしました。児童は29人しかいませんでした。しかし、それもそれほど長く続けられませんでした。さらに中国は1966年から文化大革命の政治混乱に陥り、政府が教育を軽視する時期が10年間も続きました。その後、1984年9月からスタートしたモンゴル語による教育も、12年経った1996年8月に地元政府の判断により小学校からのモンゴル人児童の募集を停止しました。残った2、3学年の児童も中国語のクラスへ切り替えさせ、ほかの学年が卒業するまで、そのまま維持するという方針でした。この時期はちょうど中国全土が市場経済を重視しはじめた時期でもあります。   このようにモンゴル語による教育が波瀾万丈の歩みを経て、そのまま終止符が打たれたと思っていたころ、モンゴル語による教育の小学生の募集が停止されてから10年目の2005年9月に、モンゴル語による教育の中学校生募集が急遽始まりました。これは言うまでもなく、モンゴル語教育にプラスになりますが、あまりにも突然のことで、教育の理屈にも合わないし、生徒にも負担がかかるに違いありません。この時期は中国経済の高度成長期にあたり、中国政府は危機に瀕する少数民族の言語、文化などの保護を重視しはじめた時期でもあります。   しかし、それにしてもモンゴル語による教育を受けていたモンゴル人児童・生徒の数が限られており、地域に住むモンゴル人全員がモンゴル語による教育を受けたわけではありませんでした。依然としてモンゴル語を学ばない、あるいは学べない様々な(言語生活、言語環境などの)理由がありました。モンゴル人の子供の多くは母語であるモンゴル語を失いつつあります。(続く)   ------------------------------------ <包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun> 中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻)を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/ 教育・研究支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、契丹小字等。SGRA会員。 ------------------------------------