SGRAかわらばん

  • エッセイ315:ボルジギン・フスレ「ウランバートル・レポート2011」

    2011年はモンゴルが清朝から独立して百周年になり、それを記念して、モンゴルではさまざまな記念行事、シンポジウムが企画・実施された。SGRAがモンゴル科学アカデミー国際研究所と共催した第4回ウランバートル国際シンポジウムも8月に開催された。その準備のため、私は8月8日にウランバートルに入った。同月9日~13日に国際モンゴル学会(IAMS)主催の、「モンゴル独立百周年記念、第10回国際モンゴル学者会議」にも参加したが、会議の傍ら、国際研究所の方と一緒にシンポジウムの準備をした。 8日の午後、モンゴル科学アカデミー国際研究所にて、同所副所長、実行委員会のモンゴル側の委員長でもあるシュルフー(D. Shurkhuu)氏と打ち合わせをした。問題は山積していたが、一番心配したのはやはり経費の問題であった。同時通訳設備や通訳謝礼、会場借料、車のレンタル代などの経費が確保できていなかった。モンゴル側の協賛団体の関係者に資金の提供について打診したが、はっきりした答えはなかった。急いで、SGRA代表今西淳子氏にも現状をつたえ、資金の追加をもとめたが、大震災の後、日本での資金調達も難しかった。 その後の数日間は、要旨集の印刷、新聞社・テレビ局の取材に応じたほか、資金をあつめるため、関係団体と交渉しつづけた。そして、11日に、朗報があった。モンゴル国のある協賛団体が気前よく寄付金を決定し、国際研究所に渡した。これで実行委員会のメンバーは、やっとほっとすることができた。 今回、モンゴルの企業が大口寄付をしてくれたのには、同国の経済の飛躍的発展がはじまっているという背景がある。世界が注目するなか、巨大な資源をもつモンゴルは史上空前の大変動期をむかえている。資源立国戦略をうちだしたモンゴル国は世界最大級のオユー・トルゴイの銅・金鉱山、タバン・トルゴイの石炭、ドルノド、マルダイ、ゴルバン・ボラグのウラン、ツァガーン・ソブラグの銅、アスガトの銀、トムルティの鉄、タムツァグ盆地と南東部東ゴビ盆地の石油など、豊かな資源を持っており、本格的な資源大国と認められている。列強が虎視眈々と狙っている中、モンゴル国政府が数年間にわたって、オユー・トルゴイの銅・金鉱山、タワン・トルゴイ炭田の開発について国内で議論を繰り返し、何回も開発案を訂正してきたのも、それなりの戦略があったからであろう。すでに開発がはじまっているオユー・トルゴイ鉱の本格的な生産は2013年から始まる。イギリスの権威ある大手調査機関によると、モンゴル国の鉱山開発の生産高は今後4年間だけでも4倍に成長し、2015年には115億ドルに達すると予測されている。タワン・トルゴイ鉱床の初期投資の資金は73億ドルにのぼると言われている。 モンゴルは、たしかに、目がまわるほど変わっている。それは、経済だけではなく、外交などの分野にも反映されている。SGRAの今回のシンポジウム開催の前後にも、韓国の李明博大統領、フィンランドのタルヤ・ハロネン大統領、アメリカのジョー・バイデン副大統領、中国共産党中央政治局の周永康常務委員を団長とする中国政府代表団、日モ友好議員連盟、カナダのベヴァリー・オダ国際協力大臣等が相次いでウランバートルを訪れた。そのねらいはいうまでもなくモンゴルの鉱山だ。 SGRAのモンゴル・プロジェクトは、2007年に企画され、2008年に正式にはじまり、今年は4年目に入った。日本の経済が芳しくない状況の中、さまざまな団体、企業からの支援を得て続けてきた。それと同時に、SGRA代表の今西氏をはじめ、英文要旨・論文のネイティブ・チェック担当のフェルディナンド・マキト氏とコロンブス・マキト氏、2009年シンポジウム論文集のロシア語の論文を翻訳してくださった一橋大学名誉教授田中克彦先生、論文集の原稿の一部をチェックしてくださった東京外国語大学二木博史先生、モンゴル語の挨拶文を翻訳してくれたSGRA会員のハムスレン・ハグワスレン氏、マンダフ・アリウンサイハン氏、運営委員の石井慶子氏等、みんな無報酬のボランティアで、SGRAのウランバートル国際シンポジウムの活動に携わってきた。 大震災・原発事故の影響で、今年度のウランバートル国際シンポジウムの資金調達はさらに厳しかった。幸いなことに、渥美財団の渥美直紀評議員会長のご紹介により三菱商事と鹿島建設から賛助をいただくことができ、また、守屋留学生交流協会理事長守屋美佐雄氏、事務局長高橋準一氏、西岡隆秀氏も即決で同協会の助成金を提供してくださった。東京外国語大学のOB、OGの集会で、SGRAのモンゴル・プロジェクトのことを知った涌井秀新氏も、積極的に関係企業に働きかけ、株式会社「モンゴルの花」社の支援を得ることができた。同社の社長星野則久氏は、ウランバートルのシンポジウムに参加してくださった。 8月上旬に国際モンゴル学者会議があったため、日本からの研究者東京外国語大学二木博史教授、上村明氏、早稲田大学非常勤講師青木雅浩氏、亜細亜大学非常勤講師荒井幸康氏、日本学術振興会特別研究員橘誠氏等、内モンゴル大学チョイラルジャブ(Choiraljav)教授、ロシアの研究者V. V. グライヴォロンスキー(V. V. Grayvoronskiy)教授、クズミン(S. L. Kuzmin)教授、インドの研究者シャラド・ソニ(Sharad K. Soni)氏等はすでにモンゴルを訪れていた。そして、SGRAのシンポジウム開催の前日、ロシア科学アカデミー言語学研究所上級研究員アイサ・ビトケーヴァ(Aysa Bitkeeva)氏、東京大学大学院総合文化研究科で研究している韓国の研究者崔佳英氏、千葉大学児玉香菜子准教授、愛知大学高明潔教授、法政大学王敏教授等も予定通り、ウランバートルに到着した。 8月15日午前、私は在モンゴル日本大使館の青山大介書記官と同大使館でおこなう招待宴会などの件について、連絡をとった。青山氏には2年続けてたいへんお世話になった。ここで、これまで終始、SGRAのモンゴル・プロジェクトを支援してくださった在モンゴル日本大使館のみなさまに感謝の意を表したい。午後、私はモンゴル・日本人材開発センターにて、同センターのKh. ガルマーバザル総括主任、佐藤信吾業務主任に挨拶した。そして、国際研究所の職員と一緒に、会場、同時通訳設備のセッティングなどを確認した。その後、空港にて、今西淳子代表、一橋大学田中克彦名誉教授をむかえた。 8月16、17日の2日間、第4回ウランバートル国際シンポジウム「20世紀におけるモンゴル諸族の歴史と文化」がモンゴル・日本人材開発センターで開催された。 開会式では、モンゴル科学アカデミー副総裁T. ドルジ(T. Dorj)が司会をつとめ、モンゴル道路・運輸・建設・都市計画大臣Kh. バトトルガ(Kh. Batulga)、モンゴル科学アカデミー総裁B. エンフトゥブシン(B. Enkhtuvshin)、在モンゴル日本大使館参事官日野耕治、SGRA代表の今西淳子が挨拶と祝辞を述べた。続いて、モンゴル科学アカデミー会員D. ツェレンソドノム(D. Tserensodnom)教授、一橋大学田中克彦名誉教授、内モンゴル大学チョイラルジャブ教授、東京外国語大学二木博史教授、モンゴル科学アカデミー国際研究所ロシア研究室主任O. バトサイハン(О. Batsaikhan)教授、ロシア連邦科学アカデミー東洋学研究所モンゴル研究室主任V. V. グライヴォロンスキー教授が基調報告をおこなった。午後の報告は、ボグド・ハーン政権や1921年の立憲君主国家の樹立に対する再検討、再評価が中心となった。その日の夜、チンギス・ハーンホテルで、モンゴル科学アカデミー主催の招待宴会がおこなわれた。そして、翌17日の発表は、国境をまたぐモンゴル諸族がどのようなプロセスを経て現在の状況にいたったのかなどについて、歴史と国際関係、文化、言語の視点から議論を展開したものであった。発表の詳細は別稿にゆずりたい。その日の夕方、在モンゴル日本大使館公邸で、日本大使館とSGRA共同主催で招待宴会をおこなった。城所卓雄大使が挨拶を述べた後、今西代表とモンゴル科学アカデミー副総裁T. ドルジ氏が祝辞を述べた。 2日間の会議に、モンゴル、日本、中国、ロシア、韓国、インドなどの国の研究者約100人あまりが参加し、共同発表も含む、28本の論文が発表された。また、『日報(Daily News)』や『首都・タイムズ』、モンゴル国営テレビ局は同シンポジウムについて報道した。 18日、会議の参加者は、テレルジのチンギス・ハーン記念リゾート、亀岩などを見学した。 第4回ウランバートル国際シンポジウムの写真 -------------------------------------- ボルジギン・フスレ(Husel Borjigin):東京大学大学院総合文化研究科学術研究員、昭和女子大学非常勤講師。中国・内モンゴル自治区出身。北京大学哲学部卒。東京外国語大学大学院地域文化研究科博士前期課程修士。2006年同研究科博士後期課程修了、博士(学術)。内モンゴル大学講師、東京大学・日本学術振興会外国人特別研究員をへて現職。著書『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編『ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年――2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2010年)他。 -------------------------------------- 【付録】今西淳子「朝青龍さんが教えてくれた新聞記事」 フォーラムの翌日、ウランバートルから東京へ帰る飛行機の中で面白いことがありました。通路を隔てて隣に座っていた人が「すみません、これあなたじゃないですか」と声をかけてきたのです。見てみたら、モンゴル語の新聞に私の写真が大きく載っているではありませんか!(シンポジウムの時に取材をうけました。)そして、その声をかけてくださったのは、なんと朝青龍さんだったのです。そして、私はその新聞をいただきましたが、今回かわらばんのためにSGRA会員のナヒヤさんが抄訳してくださったので、やっと内容がわかりました。朝青龍さんは、来年モンゴルの選挙に出馬する予定で、現在、モンゴルでノモンハン戦争を舞台にした映画を製作中だそうです。(SGRA代表) ジェー・ガンガー 「モンゴル民族の歴史と文化」 (モンゴルDaily News 2011年8月19日掲載記事) (抄訳) 近年、モンゴル国は旧ソ連圏の国家と違う非常によいイメージを作り出してきた。今年もいろいろなイベントが行われ、それが世界にモンゴルを宣伝するいいチャンスになったが、「選挙のショー」に終わったものもあった。しかし、モンゴルの歴史と文化について、人々は何を考えているのだろう。周年記念特別イベントに際して、8月16日~18日の三日間、国際シンポジウム「20世紀のモンゴル民族の歴史と文化」がウランバートルにて開催され、各地より研究者が集まった。同シンポジウムはモンゴルの歴史と文化に焦点をあてた学術研究会であり、世界にモンゴルを宣伝するとてもいい機会になった。ここで特に注目されるべき点は、このシンポジウムは日本側主催者の企画プログラムによることである。在モンゴル日本大使館、日本国渥美国際交流財団、三菱商事、モンゴルの関係団体などの支援により、十数地域から約百人もの研究者が集まった。日本はモンゴルに対して友好関係を築いてきたが、その象徴の一つとしてこの国際シンポジウムが開催された。 (シンポジウムの報告について簡単に紹介:橘誠(日本)、デ・シュルフー(モンゴル)、 青木雅浩(日本)、 ナ・スフバートル(モンゴル)、 チェ・ボルドバートル(モンゴル)、 ボルジギン・フスレ(日本)―――詳しくは原文をご覧ください) シンポジウムの主催者、渥美国際交流財団理事長(編者註:常務理事)、関口グローバル研究会(SGRA)代表の今西淳子さんは、「今回は私の4度目のモンゴル訪問である。私たちの財団はこのように、アジアの各地域でそれぞれ最も関心のあるテーマを選んで、フォーラムを催してきた。今回は、財団OBのフスレ博士の企画を支援して、モンゴル民族文化をテーマにしたフォーラムを開催した。フスレさんはモンゴル人であるため、ウランバートルで会議が開かれた。中国では、自然と環境をテーマにした若者向けのフォーラムを、北京とフフホトにて催す予定である。つい最近は台湾で、「国際日本学研究の最前線にむけて:流行・言葉・物語の力」をテーマにしたフォーラムを開催した。私たちの団体は、このように各地域の特性に応じた重要テーマを選び、シンポジウムをしている。日本政府には属さない(編者註:民間の)組織ではあるが、政府側はこのような活動を行うことに対して、税金を取らないという形で支援を表明している。さらに、今回は日本駐モンゴル大使館にご支援いただき、たいへんうれしく思っている。最後に、今年の春に起きた地震に際して、ご支援してくださったモンゴルの皆様へお礼を申し上げて、ごあいさつとさせていただきたい」と言った。 そして、大きな成果が期待され、今後もこのような場を継続して持っていくことを確認し、シンポジムは閉会した。 (抄訳文責:ナヒヤ) 会議の報道   日報 2011年11月9日配信
  • エッセイ314:シム チュン キャット「日本に「へえ~」その9:「生きる力」って何ですか?」

    周りに学校に通っている子どもがいない人はご存知ないかもしれませんが、日本の学校現場では学力低下を招いた元凶とされてきた「ゆとり教育」に実質的な終止符が打たれ、新しい学習指導要領が今年から小学校でスタートしました(中学校は来年、高校は再来年から)。文科省が作成した保護者用リーフレットの内容には、今後の教育方針として学習内容の充実(つまりもっと多く勉強しよう~)と授業時間の増加(つまりもっと長く勉強しよう~)のほかに、「生きる力」がやたらと強調されています。もちろん、「生きる力」は「ゆとり教育」のキーワードでもあったのですが、過去10年間のように「ゆとりの中で特色のある教育によって『生きる力』を育む」のではなく、これからは「ゆとりでも詰め込みでもなく『生きる力』をよりいっそう育む」というのが新しい学習指導要領の基本方針だそうです。なんかわかったような、わからないような感じではありますが、さらに読んでいくと「生きる力」とは「知・徳・体」のバランスのとれた力であると定義され、それは「確かな学力」と「豊かな人間性」と「健康・体力」という三つの重要な要素で構成されるそうです。まあ、ごもっともすぎて反対の余地もありませんが、ただ「想定外」の大震災と原発事故が起きた今でも、「生きる力」の定義がこのままでいいのかという疑念がどうしても湧き上がってきます。 乱暴な言い方をさせていただければ、3-11に起きたあの恐怖の巨大地震と超大津波の前で、「確かな学力」も「豊かな人間性」も関係ないでしょう。さらに、広島型原爆30発分ぐらいはあるという放射線物質を撒き散らした福島原発事故の前では、たとえこれまで培ってきた「健康と体力」があったにしてもそれが何になりましょう。誤解しないでほしいのですが、文科省が学校で子どもにつけさせようとする「生きる力」が重要でないと言っているわけでは決してありません。ただ、それ以前にもっと根本的な、もっと大事な「生きる」力が抜けていやしないだろうかという疑問が拭えません。 ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックの「リスク社会論」を引き出すまでもなく、現代を生きる私たちはいろいろなリスクと隣り合わせています。震災、津波、原発事故、自然破壊、テロ、戦争、金融危機、食の安全問題などのようなマクロなリスクもあれば、例えば就活に失敗して正社員になれないリスクや突然解雇されて失業するリスク、または家族を持ちたいと結婚を希望しているのにまったくモテないという非モテのリスクなどのような個人レベルのミクロなリスクもあります。詰まるところ、リスクとは自分が思い描いた通りの人生が送れなかったり、これまで生きてきた人生が突然絶たれたりするようなことであるともいえます。そしてマクロ・ミクロを問わず、それらのリスクのいずれも個々人の努力ではどうにもならない場合が多いのです。だからこそ、微力ながら出来る範囲で自分を守る知識と知恵、さらに予期せぬ逆境を乗り越える勇気と柔軟性、つまり「生きる」ことの根本たるものを学校で子どもたちに教えることがより重要なのではないかと僕は強く思います。例えば、天災が起きたときに防災教育のマニュアル通りに動く前にまず災害状況を判断してどうすればいいのかを自分で考えること、「世界平和は大事だ」というような当たり前のことを唱える前に民族紛争や宗教対立の本質と根源を理解すべく宗教の成り立ちや近代史などをしっかり勉強すること、「好きなことをやれ、夢を追え」という前にその夢の実現の難しさと、実現できなかったときに自分をどう守るのかと社会保障制度や労働制度および政治制度のあり方について学習議論すること、「いただきます」と感謝の気持ちを表すと同時に、目の前の給食がどこのどのような食材を使い、どのようなルートで教室の机までたどり着いたのかを知ること、などです。「人生は旅」というのなら、「確かな学力」、「豊かな人間性」や「健康・体力」も重要でしょうが、その旅の道中に発生しうるリスクとそれに備えるための知識と力も子どもたちに身につけさせてから旅立たせるべきなのではないでしょうか。 「生きる力」のことを、文科省はこれまで「the zest for living」という英訳を使ってきました。英語は「生きる力」というよりも、「生きるための情熱」という意味になります。まあ、日本の子どもたちに情熱を持って生きてほしいという狙いはわかりますが、淡々と人生を生きるのもそれはそれでいいのではないかと僕は思います。情熱に溢れる人生にしろ、おしとやかな人生にしろ、まず自分の思い通りに生きられないかもしれないというリスク、そしてそのリスクについての理解力、対応力と備えを学校でもっとしっかり教えるべきなのではないでしょうか。東北大震災と原発事故の後、学校教育のあり方が問われるべき転換期を迎えているといっても過言ではありません。近代未曾有のリスクを被ってしまった日本がこれからどう変っていくのか、いま世界の目が向けられています。 -------------------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 ------------------------------ 2011年11月2日配信
  • エッセイ313:今西淳子「内モンゴル草原旅行記」

    2010年9月に内モンゴル大学で開催したチャイナ・フォーラムで、SGRA会員のブレンサインさんとネメフジャルガルさんが選んだテーマが鉱山資源開発だった。内蒙古博物館の展示と、内モンゴル大学のオンドロナ先生の発表で、広大な露天掘りのことを知ったのがきっかけで、今年のフォーラムの前にシリンホト(錫林浩特)に行くことにした。そして、シリンホトからフフホトまでの700kmの内モンゴルの草原、ゴビ、農耕地、山脈を車で走りぬけた。この興味深い旅をアレンジしてくださったネメフジャルガルさんにあらためて感謝したい。ネメフさんはもっと説明したかったそうだけど、途中、眠ってしまってごめんなさい。 9月24日(土)早朝の便で、北京からシリンホトに着いた。中国の他の都市同様、新しい明るい空港だった。一行は、フォーラム講師の柳田耕一さん、孫建軍さん、渥美財団の石井慶子さんと私。空港で前日にフフホトから8時間ドライブして来てくれたネメフさんが出迎えてくれた。快晴。風もほとんどなし。事前に、北京で、内モンゴルは寒いですよと脅かされていたが、幸いなことに今回の滞在中は秋高気爽、快適な気候だった。内モンゴルは鉱山開発のおかげで、飛ぶ鳥を落とす勢いの経済発展を続ける中国の中でも、発展が一番早い地域である。広い道路の両側には新しい建物が立ち並び、どでかい博物館、広場など、何もかもが大きくて新しくてぴかぴかしていた。さらにもっと驚くのは、建設工事中のアパート群である。こんなに一斉に建設して住む人が居るだろうかと思ってしまうのは、余計な心配なのだろう。なぜなら同じ光景は、フフホトでも見られるし、おそらく中国全土の都市でおこっている現象であろうから。 まず、今回の旅のハイライト、石炭の露天掘り現場を見に行った。飛行機の窓からも眺めることができたが、露天掘りの山は、シリンホト市のすぐそばにあったので驚いた。その地域の聖なるボルガン山(丘)の上には、風車と携帯電話のアンテナが建っている。開発の暴力に心が痛む。窓から見る採鉱施設は綺麗に整備されていた。ひとつの山では、石炭は覆いのついたベルトコンベアーで下に運ばれ、建物の中でトラックに積載される。ご存知のように、シリンゴル盟では5月11日に、一人の若い遊牧民がダンプカーに轢かれたことをきっかけに、大規模な抗議行動が起こり、そのニュースは世界に伝わった。その後の中国政府の対策は非常に早く、環境は著しく改善されたということだった。ダンプカーは決められた舗装道路しか走行できなくなったし、外で積載してはいけなくなり、ベルトコンベアーには覆いが被された。 私たちの車は舗装道路からはずれ、草原の中の道を通って、黒い馬が繋がれている民家の庭先を通ってすぐのところが、もう露天掘りの現場であった。火山のクレーターのような大きな穴の底で、パワーシャベルが数台ダンプカーに石炭を積んでいく。上から眺めるので大きさの実感は湧かないけど、あっという間に一杯になり、次のダンプカーがやってくる。時々散水車が通って水をかける。この水をかけなければいけないというルールも5.11以後のことだという。私たちが立っていたところの反対側には、ダンプトラックが列をなしている。ダンプははいる前と出る時に計量し、採掘量を割り出すそうだ。ここのあたりで採れる石炭はあまり質の良いものではなく、殆どは、内モンゴル自治区の南の方にある発電所で使われるということだった。このあたりでは、ゲルマニウムもとれるという。ダイオードや放射線検出器に使われるそうだ。牧草地を削り取って採掘していくこのような現場が、IT化と世界の経済発展を支えているのかと思うと背中がぞくっとした。石炭がなくなると、その穴は土をもどして、さらには次の穴の土をいれて埋められる。そして草原に戻すのだと言う。 お昼は、草原の中の鄙びたツーリストキャンプのゲルの中だった。羊肉の丸ゆでのご馳走であった。羊にはやっぱり白酒ということで、思いがけずに昼間っから宴会になった。モンゴル国と違うのは、味噌があったので、邪道とは思うが羊肉と一緒に美味しく食べることができた。キュウリ、人参、かぶ、トマトなどの野菜もたくさんあったことも、モンゴル国と違う。そして、内モンゴルの特徴的なものとして、煎ったキビと、クリームと、お砂糖をまぜたアンブタを初めて食べた。これは美味!中国では、鉱山や都市の土地は国家、農地は村が所有し、村人は村から使用権を与えられている。遊牧民も土地の使用権を持っているわけだ。この付近の村には50数家庭いるが、その殆どは遊牧で生計をたてている。10家庭は土地が鉱山開発地域に当たったので、村の所有権が国に買い上げられた。国はその土地の使用権を、買い上げ価格の何倍もの金額で開発業者に売る。それでも、村人も一番高額な人で1億円を超す現金収入を得た。彼らは、そのお金で都市の商店のスペースの使用権を買い賃貸しているという。 昼食のあと、博物館を見学した。恐竜の骨の複製、草原風景、民族衣装や道具などの陳列だったが、とにかく建物が巨大で、日本の地方都市の箱物行政は負けているなと思った。その後、貝子廟(ベースィーンスム)に行った。今から200年余り前に一人のチベットの高僧がアバガナル地方に回って来て、この場所でお寺を創建し、仏法を広めるための助言を行ったのが始まりだという。昔はシリンホトにはこの廟しかなかったという。999段あるという階段を上ると、私が今まで見た中でも一番整備されたオボーがあった。オボーとは、モンゴルの人々が、道中の無事を祈って石をつみあげてつくる塚で、旅人はそこを右回りに3回以上まわって祈る。13基が並ぶここのオボーは、コンクリート製で、まわりには青や様々な色のスカーフが結ばれていた。人々が石を積むかわりに、スカーフを結んで祈るのだと思う。丘の上からは、高層ビルが立ち並ぶ市内と鉱山を含めた郊外の景色、そして地平線が見えた。ちなみに、999段あるという階段は、140段くらいだったので助かった。オボーから降りて、18世紀に建てられたお寺の一部を見学した。ひとつの建物が資料館になっていて関連する写真が展示されていた。新しくて大きくてぴかぴかのシリンホト市全体に比べて、2本の大きな木も生えている200年前からの空間は、心を落ち着かせてくれた。   翌朝、SGRA会員のナヒヤさんも加わって、午前8時にシリンホトのホテルを出発。フフホトを目指して700kmのドライブが始まった。まず、ぴかぴかの市内をぬけ、とんでもない量の建設中のアパート群を通りすぎて、しばらく行ったところで、シリンホトを眺めた。町全体にどんよりとスモッグがかかっていた。冬になればもっとひどいという。といっても、市内でも青空だったし、とても綺麗な町であるという印象を受けたのだが、風が吹いていたらほこりだらけとのこと。 シリンホト近郊一帯は内モンゴルでは有名な牧草地帯で、肉の産地である。季節は既に秋で、牧草は枯れていた。内モンゴルの自然破壊の話を聞きすぎていたせいか、むしろ草原が思っていたより綺麗だという印象を受けた。モンゴル国の草原と一番違うのは、ゲルがないことであった。その代わり、草原のところどころに家が建っている。ちなみに昨日昼食をしたツーリストキャンプでも、本物のゲルはひとつだけで、他はコンクリートで作られていた。内モンゴルの定住化の歴史は100年以上という。草原は、柵で区切られているところがあったが、牧民たちは自分の土地に家畜を放して飼育しているのか。というのはそのような土地に放されている家畜はあまり見なかった。羊の群れを何回か見たが、それは囲まれた土地ではないところを移動しているように見えた。シリンホトからおそらく何百キロも、石を30cmくらい積み上げたものが続いていた。それは人民公社時代に、草刈のためにその中の牧草地には放牧していけないということを示すために作られた石壁の跡だという。衛星写真で見たら、万里の長城と間違えるのではないかと誰かが言った。 途中で真っ白い水の池があった。天然の重曹の産地だという。昔はこれで洗濯をしたとのことだったが、インターネットで検索してみれば「シリンゴル重曹は天然石(トロナ鉱石)から作った天然重曹だから、環境に負担をかけない自然物質として話題を集めています。食品添加物としても認可されている高品質の素材なのでお掃除はもちろん、食器、野菜洗い、入浴剤に、お料理、お菓子つくりなどどんな用途にもおまかせ」とのこと。 しばらくすると、牧草も低くなりより乾燥した地域にはいった。このあたりは、羊肉で有名だそうだ。スニドの羊といえば神戸の牛に比肩するという。厳しい環境の方が肉が美味しくなるのだろうか。青い屋根の長い建物がいくつもある集落があった。「生態移民」の村だと説明を受けた。決められた牧草地を分け与えられなかった牧民たちは、生態系を保護するために強制的にここへ移民させられたという。ここではオーストラリアから輸入したホルスタインを牛舎で飼っている。調査によれば、牧民の収入は以前より減っているそうだ。ホルスタインはこの土地に合わないし、近くに町がないので牛乳を売る場所がない。結局は政府の補助金に頼るようになり、働かなくてもお金がもらえると、なまけものには羨ましがられているという。 スニド旗の「右」と「左」の間が150kmというのでそのスケールに愕然とするが、午後1時をすぎてようやくサイハンタラにたどり着いてお昼となった。ネメフさんの友人の推奨のお店で、モンゴル風揚げギョーザを食べる。一行7人で、その他にも数皿頼んでビールまで飲んで160人民元(約2000円)!お店の人が計算を間違えたのではないかと思った。それからゴビと呼ばれる、より乾燥した地帯にはいった。ラクダの群れを見かけたが、野生ではなく誰かに属しているということだった。ゴビをぬけると、また草原が続いた。ランチの後のお昼寝から起きると、「草原はここまでですよ。ここがフフホトから一番近い、ツーリストキャンプです」と説明があった。観光客が馬に乗って草原を走っていた。 「この丘を越えると景色が全く変わります」と知らされたので、一体どうなるのかと興味深々だったが、急にたくさんの木が現れて、畑が現れた。農民がジャガイモの収穫をしていた。機械はなく、5~10名の人々が手作業でジャカイモを袋に詰めていた。このあたりは、内モンゴルで、漢民族が移住してきて農耕を始めた最初の地域の一つだそうだ。燕麦、ひまわり、麦、トウモロコシなども作っていた。車を止めて畑に降りて、落ち穂拾いならぬ落ちジャカイモ拾いをした。まさか内モンゴルの草原(だったところ)でジャガイモを拾うとは思わなかった。カササギが木のてっぺんで鳴いていた。カササギの声を聞くと良いことがありますよ、ナヒヤさんが言った。国土全体が開発された日本から来た私にとっては、普通の農村風景のようにも見えた。 フフホトへ到着するまえに、陰山山脈を越えた。抗日戦争の時に大きな基地となっていたところだという。モンゴル国でも同様だが、直射日光が少なく雪どけが遅い山の北側には自然林があり、広葉樹も多く紅葉が綺麗だった。川はすっかり枯れていたが、ナヒヤさんが小学生の頃には、遠足できて川遊びをしたという。ネメフさんは国慶節に家族と一緒に来る予定で、フフホト市民の憩いの場となっているようだ。 山を下りるといよいよフフホト市だった。まず専門学校の共同キャンパスである「大学城」にでくわし仰天した。とにかくとんでもなく広い敷地に、校舎と体育館やグラウンド等の施設、高層ビルの宿舎が林立する。すべてが新しくてぴかぴかである。そして交通渋滞が始まった。ネメフさんが、ここから内モンゴル大学のキャンパスまで早くて30分、渋滞なら2時間かかると教えてくれた。 草原旅行の写真 ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在CISV日本協会理事。 ------------------------------------------ 2011年10月26日配信
  • エッセイ312:李 鋼哲「サイバー犯罪との奮闘記」

    近年、インターネットが普及し、利用者が急増する一方で、サイバー犯罪も増えています。つい最近、筆者はサイバー犯罪に遭遇しました。少しでもご参考になればと思い、その経緯と経過、結果について皆様にご報告します。 不審な一通のメール 2011年9月9日の夕方、友人のLさんから一本の電話が入りました。スペインから不審なメールが入っているが、李さん(私)が本当にスペインに行って困ったことになっているかを確認する電話でした。当然そんなはずもないし、スペインは一度も行ったこともありません。 ここで、まずその不審なメールをそのままコピーして掲載します。 How're you doing, I will be glad if I could confide in you and I want this issue to be confidential between You and I because I don't want people to get worried about my situation. I'm really sorry to reach you this way and I make an urgent trip to Valencia, Spain for a seminar and to complete a project. I happened to be a victim of armed robbers on my way to the hotel and I lost my belongings including wallet, mobile phone and some valuables during this inccident. I am sending you this e-mail from the city Library (and I only have 15mins in every 2hours to access my email from here), I had to block my account and my bank cards immediately the incident happened., I am facing a hard time here because i have no money on me to clear my Hotel bill and other expenses. Please I will like you to assist me with a loan of 2,600 Euro ($3,700 USD) or any amount you could afford to sort-out my hotel bills first and to get myself back home. I have reported the case to the embassy here and they are going through the necessary procedures but I will appreciate whatever you can afford to assist me with and I'll refund you the money as soon as I return. I await your reply immediately so I can email you the needful details to send the money. Thanks, Note: I have attach my passport to this email for trust. LI Kotetsu メールの内容はご覧の通りで、私のコンピューターに登録されている千人以上のメール・アドレスに送られたことが後ほど分かりました。それも私のメール・アドレスで私の住所などの連絡先が付いて、さらにはパスポート・コピーまで添付されて。メールを受け取った人は、単なるいたずらメールや迷惑メールとは思わないでしょう。 友達に大迷惑 その後は次から次へと確認電話が殺到しました。携帯電話、自宅電話、そして研究室の電話まで、夜中も、翌日も、また翌日も……。日本国内だけではなく、外国からも数多くの電話が飛び込みました。大変なことになったなと思ったけれど、どうしょうもなかったのです。 私は6年くらい前から @gmail.comを無料で使っていましたので、早速gmail日本管理センターに電話しましたが、金曜日午後7時くらいでしたので、応答する人はいませんでした。今度はGoogleのホームページにアクセスして処理方法を模索し、手順通りに手続きを進めてみましたが、24時間以内に返答するとのメッセージが自動的にメールで入ってきただけでした。 どうしたらいいのか?千人以上の方々にご迷惑をかけており、誰かがメールを信じて犯人に送金することになると大変な結果になることは火を見るように明らかです。自分のgmailにアクセスできないので、サーバーの中にあるメール・アドレスのデータベースが使えず、友人達に詐欺メールを警告するメールすら送れないので大変焦りました。電話では千人の方々に警告することもできませんので。。。 危機管理意識の欠如 なぜ、このようなメールが私のメール・アドレスを使って、それにパスポート・コピーまで添付して皆様に送られてしまったのか。よく考えてみたら、その前日の夜中にgmail管理会社を名乗ったメールが一通私に届き、「ユーザの関連情報を再度登録しないと無料のgmailは継続使用できません」と英語で書かれていたのです。あまり深く考えないでIDやパスワードなどの情報を返信してしまいました。そして、私は国内外の出張が多いので、万が一のための対策として、パスポート・コピーやその他の個人フィアルをgmailサーバーに保存していたのです。非常に便利でしたが、それがそのまま悪用されたのです。パスワードが分からなければ、誰も(恐らく管理会社も含めて、但しCIAなど情報機関はその限りではないかも知れないですけど。。。)アクセスできないはずなのに、躊躇なくパスワードも「管理会社」に提供した私の行動自体があほらしく、危機管理意識の欠如そのものであったのです。 警察を通じて対応 事件の処理のためにたくさんの友人に電話してアドバイスを求めました。「警察に話して対応してもらった方がいいじゃないですか」と言われたので、警察がこのようなハイテク犯罪に対応できるかどうか疑心暗鬼しながらも翌日警察本部のサイバー犯罪対策科に電話しました。以上の事情を説明し、対応を求めたのです。 土日を挟んでいたのでGoogle管理会社には誰もおらず、月曜日を待って警察本部の職員が管理会社に電話を入れたということです。(ちなみに、私も東京の管理会社に電話をしてみたのですが、自動音声の応答のみで、人と話すことはできませんでした。)管理会社の職員は、「このような無料メール・アドレスは数百万人が使っており、無料ですから会社側からは一切対応しかねます」という返事だったそうです。それでも、警察は犯罪被害が拡大する恐れがあるとの理由で、根気強く職員と連絡を取り合った結果、職員は会社の本部に報告し、一応メール・アドレスの使用を止めることができました。一方、警察からのアドバイスのもと、gmailのホームページで、パスワードを忘れた時のメール・アドレス復帰作業を何度も繰り返した結果、3日後には一応メール・アドレスを取り戻すことに成功しました。 この事件が発覚してすぎ、私は至急新しいgmailアドレスを取得し、数年前に保存していたメール・アドレス帳から300人ほどに詐欺メール警告のメールを送りました。しかし、今度は元のgmailアドレスが復帰したので、改めてメール・アドレスを登録している方全員に詐欺メールを警告するメールを送信できました。このように、一週間をかけて何とか問題を解決したのですが、大変な時間コストを払わざるを得ませんでした。 偽LI KOTETSUとの遭遇戦 友人のMさんから電話が来て、詐欺メールを受けた後、真実を確認するためにLI KOTETSUさんに「あなたの出身地を教えてください」と返信メールを送ったところ、「CHIBA」であるとの返事をもらったので、これは嘘だ、詐欺だとすぐ分かったそうです。 そこからヒントを得て、もし詐欺メール送信者の情報を得ることができれば、国際サイバー警察を通じて犯人を捕らえることができるかもしれないと思って、私も偽名を使って、LI KOTETSUさんに「送金先と住所を教えてください」とのメールを送ったところ、その日のうちに返事が来て送金先と住所を教えてくれました。そこで、今度は「あなたの奥さんの名前と住所を教えてください」と再度メールを送ったら、その後は全く返事をもらえませんでした。送信者のPOPアドレスを突き止めてみたら、南アフリカで送信された形跡があるという情報が出てきました。結局はなんの役にも立ちませんでしたが、犯罪者と戦おうという意思はありました。警察側は、「実際の送金被害が発生していないので、国際サイバー警察はコストをかけて対応してくれないだろう」ということでしたので犯人捜しはこれで諦めました。 今度の事件を通じて、サイバー犯罪はいつどこでも起こる可能性があるということを実体験で理解しました。それを防ぐためには情報管理を含めたリスク管理をしっかりする必要があるということは言うまでもないでしょう。友人の皆様には本当に大変なご迷惑をかけました。幸いにもこのメールを信じて送金したという報告はありません。 --------------------------------- <李 鋼哲(り・こうてつ)☆ Li Kotetsu> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。 --------------------------------- 2011年10月19日配信
  • エッセイ311:フェルディナンド・マキト「マニラ・レポート2011年夏」

    今回のマニラ訪問のハイライトはフィリピン大学の労働・産業連携学院(UP SOLAIR)で8月24日~25日に開催された学会である。以前のマニラ・レポートでお知らせしたように、SGRA顧問の平川均名古屋大学教授とベトナムのハノイ国際貿易大学のビック・ハ教授とミャンマーのタンタン先生と一緒に、論文2本を発表することになった。 基調講演はフィリピン大学副学長のアマンテ教授である。彼は、僕と同じ頃に日本留学(慶応大学卒)を終えてからフィリピン大学に戻った。途中で韓国の大学で教えたこともあったし、UP SOLAIRの学部長にもなった。基調講演のなかで、UP SOLAIRは1950年代に設立された時から労働・産業連携についての教育や研究において東南アジアでも権威ある機関であったが、その後、地位が下がってきているという問題提起があった。ASEAN諸国に抜かれることがすでに目前に迫っていること、依然として日本から学ぶべきこと、学部のなかで建設的に批判し合い・新しいアイデアについて議論し、改善の努力をしていくことが必要だと促した。 ご無沙汰していたにも関わらず、会場に座っていた僕の方に質問を振った。それは「今の世界的な経済危機の中でそろそろアジアの通貨を設立すべきではないか」というものだった。僕の専門は国際金融ではなく開発経済学だということをわかっていただいた上での質問だったようだ。僕は以下のように答えた。「東アジアの域内貿易は、NAFTAより大きくなったし、EUに追いつく勢いで拡大している。このような経済協力はユーロのような制度的な装置がなくても実現できた。その主な原因は、トヨタのような日系企業が図った東アジアにおける国際分業化だと思う。フィリピン・トヨタ自動車のソブレベガ氏(フィリピン労働・産業関係協会(PIRS)会長兼務)が指摘したように、他のASEAN諸国にあるトヨタ関連企業と仕事をする時、標準化と多様性の尊重との絶妙なバランスを取らなくてはいけない。ASEANがここまで比較的上手く存続できたのは内政不干渉の原理があったからだろう。フィリピンはアジアにおける民主主義のモデルとされ誇りに思うが、大げさに自慢しないようにしていただきたい。シバル学部長やアマンテ教授が先ほど指摘したように、気をつけないとベトナムやミャンマーのように政府が強いASEAN諸国がフィリピンを追い抜くかもしれない、ということを肝に銘じなければならない。もちろん近隣諸国が発展していくことを、我々も嬉しく思わないといけない。ただし、フィリピンが犠牲にならずに、一緒に発展しないといけない。だから、今なによりもフィリピンに必要なのは、共通通貨のような金融制度より、東アジアの経済連携の駆動力である実物の国際分業化にいかに上手く入り込めるかということのほうだと思う。」 マカラナス先生に指名された平川先生は、「以前、東アジアでは共通通貨を設立しようという試みがあったが、米国の強烈な反対を受けて失敗に終わった。現在は、中国の人民元が自然に共通通貨になり得るではないか」というご意見だった。 ベトナムのビック・ハ教授も発言した。日本語のほうが得意なので僕がなんとか英語に通訳した。「以前、ベトナムではフィリピンの発展が大変印象的だとみなした時期があったが、実際にこうして(初めて)訪問してみると、インフラ整備は進んでいるが、スラムのような問題を多く抱えて一般市民の生活水準があまりよくないのにビックリした。ベトナムが比較的上手く進んでいるのは、主に海外からの直接投資のおかげである。一石三鳥だと思う。海外直接投資により雇用、技術移転、現地の中小企業の育成が可能になっている。ベトナムではフィリピンとは違った政府と労働組合との協力関係があり、それについてフィリピンの皆さんと建設的な会話を進めることができると思うので、これからも貢献することができればと思う。」 ミャンマーのタンタン先生は、同日午後、平川先生とビック・ハ先生の支援を受けながら、ベトナムでの共同調査の結果を英語で発表した。事前に僕と相談して、発表の最後にフィリピンに対する含意を取り入れてくれた。それは、「ベトナムでは労働者の国外への出稼ぎを抑えているので、国内の人材育成が実現できて国の競争力の向上に貢献してきた。一方、フィリピンは国外への出稼ぎ労働者を国家戦略としているので、国の競争力がなかなか伸びないのが現状である。フィリピンでは、労働者をいかに国内にキープし、出稼ぎ労働者を再びフィリピン社会に受け入れるか(RE-INTEGRATION)が、重要な政策課題であろう」ということだ。 このように積極的に議論し合い、互いに学びあうことで、ASEAN諸国間の新しい協力の道を開くことができるかもしれない。残念ながら、僕は別のセッションに割り当てられ、3人のセッションに参加できなかった。 僕のセッションは「日本から学ぶ」というテーマだった。発表者は3人で、そのトップ・バッターとして僕は日本企業と米国企業の労働契約を、共有型成長の観点から比較した。続いて、ソブレベガ氏が製造業の事例としてトヨタについて、また労働組合会長がサービス産業の事例としてフィリピン航空について発表した。その後のオープン・フォーラムにおいて、僕が発表で紹介した日系企業の幾つかの共有型成長の原理を、パネリストがトヨタとフィリピン航空の事例をめぐる議論に何の抵抗もなく適用していたことを大変嬉しく思っている。確かに、僕の発表の重要な狙いの一つは、制度的な多様性(INSTITUTIONAL DIVERSITY)を保つために、フィリピンは、日本から学べる共有型成長の制度全ての保護地域になるべきであるという認識を高めることにある。 学会の二日目に、僕達4人は同じセッションに参加して、貧困や不平等な社会を引き起こす児童買春、ジャパ行き、性差別、出稼ぎ労働者、土地改革について考える貴重な時間をともに過ごした。我々4人にとっては初めてのUP SOLAIRの学会だったので、今後改善すべき問題も発生したが、充実した発表と議論、そしてUP SOLAIR+SGRAの家族の暖かい出迎えによってそれをカバーすることができたとしたら嬉しく思う。 学会の翌朝7時に3人のホテルに迎えに寄り、7時半にスビックの開発を一緒に考える仲間のフィリピン大学建築学部の先生を乗せて、鹿島建設も関わった高速道路を走って2時間半ぐらいかかるスビック自由港地帯に向かった。丁度台風11号がフィリピン北部に上陸していたので、天気が荒れてゆっくり走らざるを得ないにも関わらず、10時の約束時間ぴったりに、スビック港メトロ管理局(SUBIC BAY METROPOLITAN AUTHORITY:SBMA)の本部に到着できた。SBMAのガルシア会長に挨拶した後、11時から1時間ほどスタッフがスビック自由港地帯について説明してくれた。その時に、平川先生の調査研究プロジェクトの実施の段取りについても相談した。ランチをしてからさらに1時間ぐらい見学して、マニラに戻ったのは夕方の5時ごろだった。 ガルシア会長とも話したように、スビック自由港地帯は当初順調だったが、最近勢いが衰えているのではないか。会長はスビックからの撤退例をいくつか取り上げて、やや低迷している現状を説明してくれた。当初、台湾の高雄とスビックとの間に自由貿易回廊を構築するために、300ヘクタールの台湾テクノ・パークを建設しようという動きがあったが、中国からの反発で行き詰まった。スビックにある国際空港は以前FEDEXという大手の運送会社のアジア本部だったが、中国に移転した。またNAFTA市場に接近するため、日本からの借款で建設したコンテナ港から米国企業がメキシコなどに移転した。 以上の事例の共通点は、スビックが中途半端なところにあるから、せっかく参入した企業が大きな舞台に逃げやすいということだ。しかし、会長はこの特徴を逆にテコとして利用しながら、スビックを地域の倉庫としてこれから発展させたいと言う。「スビックは、東アジアの主要都市に飛行機で3時間半のところにある。船の航路からみても戦略的な位置にある。スペインや米国海軍がスビックを基地にしたもう一つの理由は自然に深い港であることだ。(そういえば、台風11号が接近中であっても港の海は比較的に穏やかだった)最後に、スビックは自由港地帯である故に、あらゆる法律上や管理上の面でフィリピン政府から独立性があるので、単純にスビック=フィリピンという方程式は成り立たない」と強調した。 以上の要素を考慮すれば、確かにスビックがフィリピンを引っ張る可能性も十分にあるといえよう。スビック未活用の現状の中にも、希望の光を照らすことがある。韓国の大手海運会社ハンジンはスビックに世界で第4位の造船所を営んでいる。しかも、これから200ヘクタールも拡張し、今まで輸入していたものを国内企業に委託しようとしている。世界経済が低迷しているにも関わらず、ハンジンの造船量は衰えていない。積極的にフィリピンの発展を応援している。会長は、日本側からの応援も期待している。 ※学会の模様はPIRSのFACEBOOKで閲覧できます。 ※僕が忙しいときに、平川先生方を案内してくださったテオドシオ先生とマカラナス先生、父と妹のレニに感謝しています。テオドシオ先生とマカラナス先生を今年の3月に名古屋大学に、ビック・ハ先生とタンタン先生を今回のUPSOLAIRの学会に招聘してくださった平川先生にあらためて感謝の意を表します。 English Version -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。 -------------------------- 2011年10月12日配信
  • エッセイ310:宋 剛「SMAP北京コンサートに見る中日の文化的相違」

    9月16日に、SMAPが北京でコンサートを開いた。私の知り合いの教え子がその準備作業に携わっていた。この学生によると、共同作業をした日本と中国のスタッフの間で、文化の違いによって、多くのトラブルが起きたそうだ。興味深い話なので、学生の同意を得て整理してこのエッセイを書いた。(以下、便宜上、第一人称で記すことにする。) * * * * * ジャーニーズが好きで、今回のコンサートのボランティア――とはいえ、ステージから一番遠い席のチケット1枚と毎日100元の謝礼がもらえる――に応募した。専門知識はないが、照明部門に配属された。仕事内容は日本の業者の人と北京現地の機材会社の従業員の意思疎通役だった。10日の午後11時から、18日の午前10時まで、昼夜合わせて8日間現場にいた。木村君を至近距離で見ることができてもちろん大満足だったが、現場で見た日中両国の文化の違いもなかなか忘れられない。 酒とベッド 初日の夜、コンサート会場の工人体育場に到着すると、ステージ組み立ての材料や道具がまだコンテナの中に入ったままなので、照明部門の仕事は2日目の午前9時から始まるという予定変更だった。早く帰れてラッキーだと思ったが、日本側の担当者と顔合わせをしたら、酒を飲みに行こうと誘われてしまった。中国側の担当者に打診してみると、「今、何時だと思ってんの、明日は朝9時からだから、今のうちに寝ておかないと体が持たないぞ」と完全に世間知らずだと思われた。結局、日本側の担当者3人と夜中の3時まで酒を飲んで、3時半に寮に戻って、4時間弱寝て、また現場に行った。 酒のおかげで、日本側の3人と仲良くなった。その後の数日、現場で冗談混じりの会話ができて、とてもフレンドリーな雰囲気だった。でも、やはり2日目と3日目は体がだるくて、集中力も普段よりだいぶ弱かったように感じた。酒とベッド、チームワーク優先と個人プレー優先の相違が見えてきたのではないか。 マニュアルと指示 実際に仕事をすると、スポットライト、ハイスタンドライト、ストリーマー、チューブイルミネーションなど、学校で勉強しない専門用語がたくさん出てきたが、両方の担当者は英語でたいてい通じるので、具体的な機材より、作業の流れについてのコミュニケーションが多かった。 日本側の担当者は3人いるが、早・中・遅のローテーション制で出勤する。3人で同時に出てきたのは初日と本番の16日だけだった。3人は同じ作業マニュアルを持っている。当番を交代するとき、何ページの何番目まで進んでいると伝えるだけで進捗状況が明瞭だ。一方、中国側は作業員が20数人いるが、その半分が日本人担当者の配下となり、残りの半分は一人の責任者の指示に従って動いていた。作業には特に決まった順序がなく、まったく責任者の経験と判断で作業を進めている、と一人の中国側の作業員から聞いた。 後で分かったが、照明部門だけでなく、音響、ステージ、道具などの他部門も大体同じ状況で、日本側は作業マニュアルどおり進むが、中国側は各部門のトップの指示が絶対視される。ここから、ドグマチズムとワンマン主義、言い換えれば、それぞれにルール依存とリーダー依存傾向のある国民性の相違が浮き彫りになっているといえないだろうか。 3時間と3分間 SMAPが来た。今までテレビでしか見られなかった5人のスーパースターが目の前に現れた。世代的には嵐のほうが好きだが、日本の代表的なアイドルであるキムタクを生で見て、やはりじっとしていられなかった。 SMAPの北京入りは14日だった。到着早々、リハーサルが始まった。服装とゲスト以外、歌やダンスなど、全ては本番同然だった。大雨で中断したが、その気合の入った様子に感心した。翌15日の午後1時半から再びリハーサルだった。コンサート本番は2時間だが、5人は丸々3時間歌ったり踊ったりした。歌がけっして旨くなく、おしゃべりのイメージが強い中居君も終始真剣に取り組んだ。リハーサル終了後、香取君と草彅君はなお振付師について遅くまでダンスを練習した。 一方、16日のコンサートの盛況はともかく、その後の中国側の作業員の切り上げの早さは、日本人と対照的だった。午後9時半閉幕の予定だったが、アンコールなどで9時50分まで延長された。中国側の作業員の勤務時間は10時までだったので、ほとんどの人がステージの解体作業を放り出して、10時を過ぎると2、3分でみんな消えてしまった。それもそのはず、朝9時から夜10時までの13時間労働であり、私の謝礼と同じ程度の低賃金も拍車をかけて、モチベーションが出ないのは当然だ。しかし、日本側の多くの作業員が眉を曇らせながら作業していたのも確かだった。20時間も連続で作業した人もいたと聞いたが、彼たちには仕事が中途半端で作業場を離れる行動はどうしても理解できなかったのだろう。反対に、20時間勤務の日本人作業員は、中国側では馬鹿と見なされていた。 3時間と3分間には、仕事優先と自己中心という両国作業員の勤務スタイルが露わになっているかもしれない。 * * * * * もう少し立ち入って考えてみれば、現場にいた学生の話の中には、記述に値するところがまだまだありそうだが、ここで終わりにしよう。ただし、上記の比較は良し悪しを競う意味ではなく、異文化理解とコミュニケーションの大切さを意識しながら読んでいただきたい。 ---------------------------------------------------- <宋 剛 (そーごー)☆ Song Gang> 北京外国語大学日本語学部講師。SGRA会員。現在大東文化大学訪問研究員。 ---------------------------------------------------- 2011年10月5日配信
  • エッセイ309:オリガ・ホメンコ「私のなかのチェルノブィリ事故」

    3月、日本に地震や津波があって福島の原発事故が起きた時、最初は本当に信じられなかった。まさか日本でもチェルノブィリみたいな事故が起きるとは。ありえないと思った。チェルノブイリの事故はやはり人間のミスという要素が大きかったようだが、きちんとしている日本でまさか事故が起きるとは。   ウクライナにいて福島からのニュースを毎日テレビで見ながら、思い出したくなくても、どうしても25年前のチェルノブイリのことを思い出していた。そのときの思い出が痛いほど目の前を流れていた。私はまだ十代前半で中学生だった。事故があった朝に知り合いがたくさんいた父親に電話がかかってきた。何かが起きているという話だった。だが両親はそのときはよく分からなくて、知り合いの物理学者に電話したという。そして何か大変なことが起きてしまったと分かったようだった。子供だった私たちにはしばらく何も話さなかったが、話してもらえなくても、やはり何か起きているなと感じた……。   5月1日、キエフでは毎年のように自転車レースが行われた。ちょうどマロニエの花が満開で、その下を自転車が走っていた。事故から5日後だったが、レースは中止にならなかった。メインストリートでメーデーのパレードも行われた。今から考えると、それは本当に許せないことだった。事故から3週間くらいは、不安ばかりの日々を送っていたことを覚えている。ラジオで解説していた医者たちは、外から帰ったらまずは靴のうらを洗うことが必要だと言っていた。そして建物の中にいるときに窓を全部閉めるように、学校へ行く時にはスカーフをかぶるように、と。だが十代の子どもたちは年寄りのおばあちゃんみたいにスカーフをかぶって学校に行くなんてちょっといやだと思って、家から出るときはスカーフをかぶっていたけれど、家から少し離れるとみんな外していた。格好悪いから、クラスの男の子に見られたら恥ずかしかったから。 その年の5月はじめの3週間の味も、今でも覚えている。紅茶に医療用ヨードを5滴くらい入れて飲まされたから。そうすれば放射線が身体につきにくくなると思われていた……。   後になって、必要なのはそれとは違うヨードだったということが分かった。だが、そのときには誰も知らなかったし、そんなヨードはキエフになかったかもしれない。 そしてやっと20日くらいたって、学校ごとにチェルノブィリとは反対の南の方に避難させられた。それも一生忘れられない経験だった。「キエフから避難します。簡単な荷造りをしてきてください。みんなで保養地へ行きます。子供だけです。学校の先生と一緒に」と言われた。はじめて両親と離れるので、とても不安だった。しかも生徒の間に、もうキエフに戻れないかもしれない、もうキエフという町が存在しなくなるかもしれないという噂が流れていた。悲しくて悲しくて、先が見えなかった。毎日悲壮感にかられて、泣いていたこともあった。   ただ両親には涙を見せなかった。親も心配していたし、しかもこれから避難生活がはじまるので、今さら両親を悲しませても意味がないと思った……。 そして避難する日が来た。学校の前にバスが20台くらい来た。わたしの通っていた学校には、当時1500人くらいの生徒がいた。高校や中学校の生徒は残された。期末試験があったり、卒業だの入試だのがあったからだった。年がそんなに離れていないのに、それだけの理由で残された。両親と離れ離れになるのはとても悲しかった。泣いていた子も結構いた。ちょっと戦争になったみたいな感じだった。   キエフ駅に連れられて行って、汽車に乗って、昔から子供の保養地のキャンプがたくさんあった南部の方に運ばれていった。その汽車の移動もとても印象的だった。子供ばかりの汽車だったのでちょっと不思議な感じだった。そしてそこで3カ月すごした。 クラスの仲はあまりよくなかったけれど、保養地のキャンプで一緒に暮らして、みんなお互いによく助け合うようになった。女の子で集まって男の子のTシャツを洗ってあげたり、泣いている同級生を一緒に慰めたりしていた。とても強くなった。   キャンプに着いたとき、現地の人は最初「あら被爆者が来た! 気をつけましょう」という反応だった。わたしたちにはそれが不思議な感じだった。第一にチェルノブィリから180キロも離れているキエフの出身だったし、首都のちゃんとした学校の生徒たちだったので、プライドもなかったわけではなかった。現地の人にそういわれて結構怒っていた。それでも時間がたてばたつほどお互いによく知り合うようになって、仲よくなった。地元の人たちもあまりにも心配で、どう反応すればいいか分からなかったみたいだった。   その時のもうひとつの思い出。毎年、夏の間に両親と一緒に海に遊びに行くのをとても楽しみにしていた。5歳の時に海に連れていってもらいたくて、頑張って自分でアルファベットを覚えて読めるようになった。読めるようになったら海に連れていってあげると両親に言われたからだった。それぐらい海を見たかった。でも、事故があった1986年の海の味は、とてもしょっぱかった。毎日砂浜へ行って、海を眺めながら「キエフの家に戻れるかな」と思って寂しかったから。海の塩と涙の塩の味を混ぜた味だった。   8月末にキエフに戻ることになったときは、どれだけ嬉しかったか! また両親と一緒の家に住めるし、好きな学校にもいけるし、みんなで授業を受けられるし、遊べることがとても嬉しかった。キエフに戻ってから、ずっと残って仕事していた父親の話を聞くと、その3ヶ月の間のキエフはとても奇妙だったらしい。掃除の車が1日3回道に水を流して、町には子供が一人もいなかったという。大人ばかりの町。とても妙な雰囲気だったらしい。   キエフの人は普通はチェルノブィリ事故の話をあまり思い出したがらない。外国人から見たらおかしく見えるかもしれないけれど、それにはいろんな理由がある。一つには、その時に受けたショックが今でもどこか心の中に眠っている。そして事故の後しばらくしてソ連は崩壊してしまい、ウクライナも独立した。そのあとは経済発展を目指して、細かいことを気にしなくなったと言っていいかもしれない。こんな言い方はひどいかもしれないけれど、チェルノブイリより多くの経済的な問題を解決しなければならなかったというのが実情だった。そしてもうひとつには、あんな大きな事故にあって、やはりショックから立ち直れない部分がどこかある。ただ被害者意識を持っているだけだと何も新しいものが作れないから、まずはそれを乗り越える必要があった。無理やりにでも、何もなかったというふりをしてでも、一生懸命……。   家庭のレベルでは、多くの家でガイガーカウンターを持つようになった。万が一のために。事故の後は食料検査も行われたし、チェルノブィリ近辺の森も赤くなったし、変わった魚や動物が生まれているというニュースも結構流れた。だからやはりそれを自分で確認しないと落ち着かないという人もたくさん現れた。それにはガイガーカウンターが便利だった。まあ、計ってみて、もしだめだったらどうすると聞かれたら、それはまた別の話……。どうするか分からない。逃げるしかないのかもしれない。それでも放射線は見えないので、やはり機械があると少し安心できる。 あとになって分かったのは、事故からの直接的な被害より、直接的でない精神的な被害の方が大きかったということ。放射線は見えないから、本当に自分の家に住んでも安全なのだろうか、畑で実ったものを食べてもいいのか、不安に思う人も少なくなかった。   それでも結局時間がたてばたつほど、「まあいっか。何とかなる」という考え方になった人が多かったかもしれない。抜けられない緊張感に疲れたのか、飽きたのか……そこはよく分からないけれど。 ただ、その時にいくつか体で覚えたことは、今でも忘れられない。まずは公園や森を散歩するときには、深い草の中にはいかないこと。秋の落ち葉の中では遊ばないこと。放射線が高いかもしれないから。キノコ狩りは避けた方がいいと言われた。牛乳もしばらく気をつけていた……。 去年の秋に25年ぶりにラトヴィアに遊びに行ったときに、友達にキノコ狩りに誘われた。森にいくと、まず私の頭の中に「草に入らないほうがいい」という信号がついた。ちょっと笑った。まさか、今でもそんなふうに反応するとは思わなかった……。ちなみに、ラトヴィアの森で放射線量を測ったら、ものすごくきれいなものだった。そこでとったキノコもとても美味しかった。久しぶりだったからかもしれないけれど。   ここ数年は、チェルノブィリへの観光ツアーが流行している。私の外国の友達は結構それに興味を持って、私も何度か誘われたけれど、行かないようにしている。安全かどうかはまた別問題として、やはり子供の頃に感じた「チェルノブィリの恐ろしさ」は今でもどこか記憶に残っている。見たくないし、思い出したくもないし。あれだけの経験をすると、原子力に反対するようになる。やはり人間には自然の力を抑えることは無理だと分かる。チェルノブィリの近くにあった美しい森、川、池の昔の写真を見ると、ものすごく悲しくなる。あれだけの美しい土地を一瞬で使えないものにしたのだから……悲しい。   最近仕事で、事故当時ラジオでいろんなアドバイスをしていたお医者さんに会った。会う前は、結構複雑な気持ちだった。あれだけ微妙な情報を伝えていた人の目をのぞいて見たかった。会ってみると、もうおじいさんだった。話をしてみると、そのお医者さんの発言についての見方が少し変わった。事故の当時は、放射線や核の問題について知識が不足していただけではなく、大変な政治的プレッシャーもかけられたようだった。それでも人々に情報を伝え、何らかのアドバイスをした方がいいとその医師は思ったようで、自己責任で発言したようだった。ラジオでのアドバイスはほとんどそうで、結構勇気ある行動だったのだと思った。その仕事で、キエフの子供たちを避難させる決定はキエフの女性政治家が強く押したものだったということを知った。モスクワからはこうした方がいいという話はいっさいなかった。ひどい言い方かもしれないけれど、事故現場から千キロも離れているので、どうでもよかったのかもしれない。 事故当時、さかんにアドバイスをしているその医者は冗談で(ウクライナ人は冗談が好きですから)「チェルノブイリの鶯」と呼ばれた。鶯はきれいな歌をうたう鳥だけれど、本当かどうか誰も分からない……。今回会ってみて、大変な人生を歩んできた人だと思った。あんな厳しい状況の中でも、自分の医者としての誓いを破らなかった。できる限りのことをした人だったと思った。外見で人を判断してはいけないと、また思った。   25年前のことは、あまり思い出したくなかった。あまりにも寂しくて、その時に受けたショックが大きかったからかもしれない。しかし何年過ぎても、やはりその事故の影響を感じてもいた。学校では甲状腺の病気の子も出たし、白血病で急死した人もいるし、いろんな病気も発生するようになった。直接関係あるかどうか誰もいえないけれど……。人々が元気を取り戻すのに、かなり時間もかかった。 この事故のことを、多くの人は忘れてはいけないと思っているけれど、毎日は思い出したくないという微妙な感情を持っている……。それが今回の福島の事故で、本当に昨日あったことのように、フラッシュバックして目の前に現れた。やはり核は非常に危ないものであると感じた。そして福島近辺の人々の気持ちは、誰よりも分かると思った……。 一日も早く状況が安定することを祈ります。こんな事故は二度と起きないことを祈ります。生活のありかたも変わると思いますが、心だけは大事にして、落ち込まないことが大事です。前向きに歩いていくしかないから。 ウクライナから愛を込めて……。   *本稿は、群像社の「群」に掲載された記事を、著者の承諾を得て転載しました。   ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> キエフ生まれ。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。現在はキエフでフリーのジャーナリスト・通訳として活躍。2005年には藤井悦子と共訳で『現代ウクライナ短編集』を群像社から刊行した。 ------------------------------------   2011年9月28日配信
  • エッセイ308:趙 長祥「上海万博のよい影響は長続きできるのか?」

    昨年の5月から10月に上海で開催された万博は中国の経済発展にとって、北京オリンピック以来最大のイベントであり、中国急成長の証でもあった。 上海万博を成功させるために、中央政府をはじめ、上海市政府は莫大な投資をした。特に、都市部のインフラ(地下鉄、バス路線などを含めた公共交通手段)、万博関連施設の建設、街の清掃(一時に多くの人手を投入した)、市民へのマナー教育など、様々な面で工夫していた。そのため、上海万博は成功裏に収められ、その時点において上海を国際大都市にまで向上させた。昨年10月に筆者も万博を見学した。その時、街の清潔さ、市民のマナー、万博園内のサービス(夜20時以降を除く)など、色々な面で上海は他の国際都市と比肩できる世界有数の都市だと思った。また、この上海万博の開催効果を長く持続できるだろうと思っていた。 しかし、実際に上海に住み始めてみると、万博一年後の現在は昨年の万博の時の上海とは比べられないほど違っており、どこか別の都市ではないかという錯覚さえも感じてしまう。同じ街なのに、何故これ程違った印象を与えるのか不思議に思った。 まず、現在の状況を確認しよう。2011年7月27日の上海浦東テレビ台の報道によれば、三林浦東万博園内の状況はめちゃめちゃであった。道路のあちこちに捨てられた様々なゴミ、補助施設の破壊などは驚きであった。かつての文明エリアは消え失せていた。 明らかに現在の上海はソフトの面で何か大切なものが欠落している。 筆者自身の経験からもその点を証明できる。市の中心部を除けば、どこに行ってもゴミが捨てられ、ゴミ捨て場のようになっているところもある。あちこちに痰を吐くことも相変わらずである。地下鉄に乗るときの「列に並びましょう」というポスターは完全に無視され、ドアが開けば一斉に中へ流れこんで、席を奪い合う。降りる人が降りられなくなり、私はみんなの席の奪い合いが終わってから降りることがしばしばである。深夜(お祭でもないのに午前2時に爆竹を鳴らす)や早朝(5時頃)も自分の都合ばかりで騒ぎ、他人の休息に影響を与えても、偉そうに屁理屈ばかりこねる。 このようなマナーは常識的なものばかりで、特別なことは一つもない。しかし、これらのマナーは一つの街が文明的であるかどうかを評価する指標となっている。しかも、このような態度を直す方法はいくらでもある。だが、人々はこのようなことはすべて小さなこと(小事)であり、殆ど無視し、改善する気持ちはほぼ皆無に等しい。 一つの都市を評価する時、ハードとソフトの両面を客観的に見なければならない。ハードだけ(市内のインフラなど)からみれば、最新技術を取り入れた高く聳え立つ「陸家嘴金融城」、「新天地」、「万博園」などのビルや、新しく開設された地下鉄など、上海は確実に世界のどの街にも劣らない国際都市である。ところが、ソフトの面(街の文化、庶民のマナー、サービスなど)から評価すれば、上海は世界の国際都市からほど遠い。殆どの分野で国際スタンダートと大きく離れている。勿論、筆者もグローバリゼーションによってローカル性を失わせることを主張しないが、完全なグロバールスタンダードには遥かに及ばず、また完全なローカル性もない、中途半端は一番嫌われる。 何故、ソフトとハードがこれほど離れているのか。 ご存知のように、経済さえ発展し、金さえ投入すれば、最新技術を瞬時に手に入れることができる。したがって、ハードのキャッチアップはそんなに難しいことではない。しかし、ソフトは昔と深いつながりをもっているため、コア技術の蓄積と同じく、培わなければならず、完全に模倣することはできない。経済発展の期間が短いと言われるかもしれないが、改革開放以来30年以上を過ぎている。世界の発展史にとって、瞬時に消え去る流れ星ほどの短さかもしれないが、一人の人生にとっては、30年は長い期間であり、一世代の人間が成長できる期間でもある。したがって、時間の問題だけではない。中国の歴史からみれば、かつて世界一の道徳、文明の国であった。それが継承されないのは、主に近代史150年近くの屈辱(外国侵略、鎖国)によって経済発展が遅れて、人々が自信を失い、貧しさによって人々の意識が変えられたことに原因があるのではないかと考える。 そもそも中国は“人治の国”であり、“法治の国”ではないと言われている。しかし、近年、法律やルールは驚くべきスピードで完備されつつある。問題は人々の意識である。ルールや法律があっても、殆ど守らない。現世代から次世代へ悪循環を続けている。逆にマナーやルールを守る人達は形式的だと見られている。それほど道徳観が喪失している。 私は、上海万博一年後の現在の文明的な態度の欠落、万博効果の喪失、ソフト面の欠落の原因は、人々の意識にあると考える。人々の意識を変えなければ、いくら豊かになっても、いつまで経っても、このままの状態が続くであろう。 中国は歴史と文明のある国であり、上海も歴史と文化のある都市である。今後、インターネットやテレビ、学校、家庭、NGO/NPOなどの様々メディア、諸機関を通して、法律やルールと合わせて、庶民のマナー教育を実施し、人々の意識を一新して、万博効果が長続きするようにできれば、上海市は物心ともに発展し、真に世界有数の国際都市になることができると期待する。 ---------------------------- <趙 長祥(ちょう・ちょうしょう)ZHAO Changxiang> 2006年一橋大学大学院商学研究科より商学博士号を取得。専門分野はイノベーションとエントルプルヌアシップ、コーポレートストラテジック。SGRA研究員。 ---------------------------- 2011年9月21日配信
  • エッセイ307:趙 長祥「国の基本を脅かす『食の安全』問題はいつ治まるのか」

    昔から中国では「民は食を以て天と為す――民以食为天」と言われている。漢書にある孟子の言葉で、中国人は食を重んじる民族であるから、国民はおなかいっぱい食べられなければ蜂起する、だから国を治めるのと食を大事にするのは同じであるという意味である。昔の定義からみると、明らかに現在の状況を説明することができない。 というのは、近代社会では、エンゲル係数で一国の経済発展程度を量ることになっている。エンゲル係数が高ければ高いほど経済発展が遅れているという決まりである。とはいえ、昔と比べられないほど経済が発展した今日では、消費全体に占める食費の比率はむしろ減少している。しかしながら、ほかの部分、例えば、教育、エンターテイメントなどがいくら高い係数を占めても、国民にとって最も基本的なものは、国民全体の健康を維持する食である。食の安全を保つことができなければ、国民の健康が悪化し、国に莫大な衛生、医療負担をもたらし、社会不安にもつながる。したがって、毎日の食の安全は小さいことでありながら、国の基本も脅かす問題でもある。 この点からみれば、中国古来の諺が近代社会の各国での食に対する認識は基本的に通じている。すなわち、食は庶民にとっても、国にとっても基本であり、大事なものである。 中国では、上述の諺からみても、昔から食を重視してきたことがよくわかる。しかし、化学製品(農薬、添加剤など)の使用があまり進んでいなかったせいか、人々の社会意識の発展が低いレベルにあったせいか、食の安全の問題はあまり顕在化していなかった。しかし、近年、経済発展が進むにつれて、特に昨年(2010)あたりから一気に爆発している。上海では、大事件がない限り、食の安全問題のニュースが毎日、各種メディアを賑わしている。 (1) 悪質商売による悪質食品 “地溝油”――食堂などで、下水道に流れている油を掬い出し、加工して市場に売り出す。また、一回に使い終えた油を二度、三度も使うものも指す。 (2) 農薬残留度の高い野菜、果物など (3) 品質低劣なものを高品質なものに偽装して市場に売り出す “勾兑醋”――お酢の添加剤と水などでミックスしたものを醸造酢として販売 “染色饅頭、染色米”――化学薬品を使って、小麦粉で作った饅頭に金色をつけて、コーンで作られたものに偽る(コストが高いから);米も同じく、普通の米を染色して値段の高い品物として販売 余談だが、これは、ほかの分野にも広がっている…… “ダビンチ家具” ――国内で作られた家具を様々な流通チャネルを通して転々とさせ、ダビンチという名をつけて、もともと3万元のベッドを輸入品に偽って300万元で販売 (4)添加剤、防腐剤などの過剰使用、あるいは廉価の代替品を食品に使う 膨張剤を使い西瓜を促成栽培。叩くとすぐに破裂する 国内市場で販売されている台湾製飲料に添加剤を過度に使用 (5)生産日付、メーカなどの表記改ざん   事例を挙げると切りがないが、大きく分類すると上述の5種類に分けられよう。概して言えば、上海市の食品企業で調べた限り、少なくとも10%の企業は様々な問題があると思われるが、全国に広げて見れば、氷山一角といえよう。 では、なぜこれほどの食品問題が一気に顕在化しているのか。 まず、近年、市場経済が進むにつれて、拝金主義が蔓延し、貧富の差が大きく膨張した。その過程における人間の倫理観、道徳観の喪失が原因であると考えられる。金儲けのために、手段を問わないことが、明らかに食品の品質劣化につながり、表面に浮かんできたといえよう。 つぎに、2008年の世界金融危機以来、グローバル性インフレが進んでいる。特に中国を含めた新興国では、インフレ率が非常に高く、食品企業はコストを抑えるために、偽物あるいはコストの安い代替材料を使い食品問題につながっている。 さらに、30年間あまりの経済発展につれて、徐々に豊かになっている国民は、食品の品質に覚醒しているようだ。即ち、一昔の“食事が腹満たし”(吃得飽)から“よりよく満足した食事をとる” (吃得好)へと変化している。食品への品質チェックから食品安全問題が顕在化した原因の一つであると考えられる。 最後に、規制の整備や管理、監督の問題があげられる。即ち、日進月歩の経済発展スピードに足がついていない現状である。特に、食品にまつわる立法、規制などはひと足遅れているため、市場での監督、管理部署は監督執行の法律依拠がない。また、そのような法律、規制などがあっても、市場での監督、管理部署は監督執行の整備ができていないため、食品安全問題につながっている。 真剣に調べれば、ほぼあらゆる食品に多少の問題がある。しかし、食の安全の問題を話すと、殆どの人が「余り気にすると生きていけない」という言葉が返ってくる。つまり、食の安全を気にしながら、負担にならない程度で進まなければいけないと解釈できる。様々な問題が発見されていることは、実は、経済発展途上国にとっては悪いことではない。悪いことは顕在化した問題を避けて通ることである。というのは、殆どの先進国においても、国の発展途中で食の安全問題が多発した時期があった。したがって、発見された問題は、避けて通るではなく、問題の原因を見極めて、解決すればよい。 現状からみると、食の安全問題を解決するためには、多方面から同時に取り組まなければならない。ルール、法律の整備、食品企業のアライアンス(合規)文化の醸成、国民の倫理観の向上、国内のインフレ率を3%ほど抑えるなどの対策が考えられる。いずれも複雑な問題で短期間に解決できるものではない。しかし、国の基本を脅かす食の安全を治め、国民の生活を改善するために、官民合同で一日も早くこの問題を解決することが必須となっている。 ---------------------------- <趙 長祥(ちょう・ちょうしょう)ZHAO Changxiang> 2006年一橋大学大学院商学研究科より商学博士号を取得。専門分野はイノベーションとエントルプルヌアシップ、コーポレートストラテジック。SGRA研究員。 ---------------------------- 2011年9月14日配信
  • エッセイ306:宋 剛 「今だからこそメディアに言いたいこと」

    7月から1年間の予定で日本に滞在している。つい最近、筆者の中国人として心を痛めるニュースがまたまた目に入った。 中米外交のニュースだった。アメリカのバイデン副大統領は8 月16日から6日間に渡って中国を訪問し、次期指導者と有力視される習近平国家副主席など、政府の要人と相次いで会談したという。 北京にいたら、なんとも思わずに聞き流すかもしれないが、日本にいると、中国に関するニュースが出た場合、なぜか神経を尖らせて、耳を傾ける癖がついてしまった。大半を占めるマイナス面のニュースはもとより、プラス面のニュースの途中から出てくる「ところが」に備えて、重い気分を気力で追い払う準備をしなければならないからだ。 早速、中米外交に関連して出てきそうな「ところが」の材料を頭の中でサーチした。サーチ効率を向上させるべく、烏龍茶の黒を一口飲んだ。米国債格下げ?雇用難を無視したオバマ大統領の夏休み?円高ドル安?高速鉄道脱線事故?化学工場抗議デモ?対中貿易赤字?せいぜいこのくらいだろう、と心のどこかで日本メディア通として気取った。 ところが、バイデン副大統領訪中のニュースに続けて出てきたのは、中米バスケットボール親善試合での乱闘だった。中国人民解放軍所属チーム対米ジョージタウン大学の親善試合だ。 「北京五輪準備が佳境に」の後の「深刻な水不足問題」、「中国、億万長者が続々」の後の「格差拡大で各地デモ」、「中国GDP、日本を抜き世界第2位へ」の後の「民主化集会押さえ込み」――今までの「ところが」の前後は中国人から見て、決して愉快に思わないが、レベル的にはそれなりにバランスが取れていて、「一理ある」と気持ちを抑えて自分を納得させることが多々あった。 しかし、中米トップの会談と親善試合の乱闘のコラボレーション――親善試合だから乱闘しても問題にはならないという発想はいささかもなく、当然終始友好ムードで最後点数も引き分けたほうがよいと考えるが――どうしても、『風の谷のナウシカ』と『スラム・ダンク』が一緒になっているように筆者には見える。 一方、中国のメディアはどうかというと、従来の反日ドラマの新作が続々と放送されているのは言うにも及ばないが、ここ最近では、尖閣諸島の海域で中国人船長が海上自衛隊に拘束され釈放を延期される場面や、東日本大震災の惨状や、福島原子力発電所の事故で近隣諸国に通告せずに汚染水を海に排出する報道しか記憶に残っていない。 反日教育対嫌中報道だ。どっちもどっちだ。 かつて、日本では中国ブームがあった。中国でも、ラジオやテレビで日本語講座が毎日流れる日々を筆者は経験していた。いつのまにか、「今こそあれ」(編者註:古今和歌集の出典。今でこそこんなだが、昔は盛んだったという和歌に基づく)というような状況になってしまった。 8月末に、日本のNPOと中国日報共同主催の中日フォーラムという大型イベントが開催された。何よりも衝撃を受けたのは両国で行われた世論調査の結果だった。中国に対して良いまたはやや良い印象を持っている日本人は合わせて21%にすぎない一方、日本に対する良いまたはやや良い印象を持っている中国人は29%に止まった。つまり、残りのパーセンテージは嫌いかやや嫌いの数値だ。調査対象は日本人1500人弱と中国人1000人だった。互いに好感を持っている人数のほうが多いとは思わなかったが、史上最低というその数値は予想を大きく下回った。 中華料理はすでに日本の社会に定着している。ところが、中国が好きだから、中華料理を食べる日本人は一人もいない。反対に、日本のマンガとアニメも中国の若者の世界に充満している。ところが、日本に来たことのない人は、日本にはオタクばかりいると考えがちで、日本に来ても、秋葉原のメイドカフェにしか足を運ばない人は少なくない。国とその文化は完全に区別されているようだ。はたして、文化交流で国民同士の心が結べる、文化外交で国のイメージアップが果たせるというようなスローガンはまだ安易に使えるのだろうか。 メディアの力は大きい。政府の関与があろうが、なかろうが、メディアは視聴者=国民の最大の情報源だ。毎日同じ場面が繰り返されると、いくら判断力が強い人でも左右される恐れがある。真実を伝えることが最大の使命だ、とメディアに携わる人は常に言う。しかし、真実を伝える際、内容の組み合わせ方によって人に与える印象が正反対になる。同じ人に対して、「太ってるけど優しい」と「優しいけど太ってる」を言った場合、当人の反応がずいぶん違ってくる心理学の実験があった。 だから、すでにどん底に陥った互いの好感度を配慮して、どうしても言いたいことあるいは言わなければならないことを言うときに、せめてその調理法を工夫してほしい、と両国のメディアに言いたい。 --------------------------------------------------- <宋 剛 (そーごー)☆ Song Gang> 北京外国語大学日本語学部講師。SGRA会員。現在大東文化大学訪問研究員。 --------------------------------------------------- 2011年9月7日配信