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レポート第58号 「鹿島守之助とパン・アジア論への一試論」

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投稿論文(日本語・英語合冊版)

平川 均 「鹿島守之助とパン・アジア論への一試論」

Dr. Morinosuke Kajima and Pan-Asianism

2011年2月15日発行

 

<はじめに>

今日、鹿島守之助は、鹿島建設元社長として昭和期を代表する卓越した実業家であると同時に政治家、学者でもあった人物として知られている。彼の経歴は極めて多彩であり、経営者であると同時に戦後18年間にわたり自民党の国会議員であった。また、外交研究者でもありほぼ生涯にわたって執筆を続け、大戦後は自らの著作を含めて日本外交に直接間接に関わる膨大な出版活動を行った。彼は日本外交の公的研究機関である国際問題研究所の開設で主要な役割を果たし、自らも平和研究のための鹿島平和研究所を創設して、戦後における日本外交と外交研究に多大な足跡を残した。

 

しかし、彼が1920年代後半以降生涯を通じて、独特なアジア主義者として「アジア連盟」あるいは「アジア共同体」の理想を追求した人物であったことを知る人は少ない。彼が73年に、フランスの元首相エドワード・エリオ(Edouard Herriot)による25年1月の議会演説に準えて、かつての生家・永富家の一角に「わが最大の希願は、いつの日にかパンアジアの実現を見ることである」と刻んだ碑を建立していたことを知れば、意外に思う人がほとんどであろう。実際、彼の国際政治や外交に関する膨大な著作や政治活動の軌跡を辿るならば、彼は確かに「汎アジア」「パン・アジア」を悲願としており、大戦後の多彩な社会活動も彼の思想と深く関っている。 こうしてそのことは、われわれに多くの関心を呼び起こす。

 

彼のアジア主義はどのような思想であり、彼をその思想に駆り立てたものは何か、彼の思想が「大東亜共栄圏」によって象徴される日本のアジア侵略の試練とどう関り、その試練をどう潜り抜けてきたか、彼の構想が戦後むしろ省みられないできたのは何故か、などである。 東アジア共同体への関心が21世紀に入って急速に高まっている現在、鹿島守之助のパン・アジア論に光を当てることによって、今日の東アジア共同体に資する何かを発見できるのではないか。以下ではほぼ時代に沿って鹿島のパン・アジア論の生成と変遷をみた後、その論理の特徴を確認したい。そのことによって上述の疑問の幾つかに回答を試みたい。