SGRAイベントの報告

ボルジギン・フスレ「第7回ウランバートル国際シンポジウム『総合研究――ハルハ河・ノモンハン戦争』報告」

2014年は、ハルハ河・ノモンハン戦争後75年にあたる。これを記念して、モンゴルとロシアで、さまざまな記念行事やシンポジウムがおこなわれた。そのなか、モンゴル国立大学モンゴル研究所とモンゴルの歴史と文化研究会主催、渥美国際交流財団助成、在モンゴル日本大使館、モンゴル・日本人材開発センター、ハル・スルド モンゴル軍事史研究者連合会、モンゴル国立大学プレス・パブリッシング社後援の第7回ウランバートル国際シンポジウム「総合研究――ハルハ河・ノモンハン戦争」が8月9、10日にウランバートルで開催された。

 

謎に満ちたハルハ河・ノモンハン戦争は歴史上あまり知られていない局地戦であったにもかかわらず、20世紀における歴史的意義を帯びており、太平洋戦争の序曲であったと評価されている。1991年、東京におけるシンポジウムによって研究は飛躍的に進み、2009年のウランバートル・シンポジウム(SGRAとモンゴル国家文書管理総局、モンゴル科学アカデミー歴史研究所共催)ではさらに画期的な展開をみせた。しかし、国際的なコンテキストの視点からみると、これまでの研究は、伝統的な公式見解のくりかえしになることが多く、解明されていない問題が未だ多く残されている。立場や視点が異なるとしても、お互いの間を隔てている壁を乗りこえて、共有しうる史料に基づいて歴史の真相を検証・討論することは、歴史研究者に課せられた使命である。そのため、私たちは今回のシンポジウムを企画した。

 

本シンポジウムは、北東アジア地域史という枠組みのなかで、同地域をめぐる諸国の力関係、軍事秩序、地政学的特徴、ハルハ河・ノモンハン戦争の遠因、開戦および停戦にいたるまでのプロセス、その後の関係諸国の戦略などに焦点をあて、慎重な検討をおこないながら、総合的透視と把握をすることを目的とした。

 

私は8月3日にウランバートルに着いた。6月末に予約したのだが、希望日の便が取れなかった。今は、モンゴルの鉱山開発やモンゴルへの旅行などはたいへん人気があって、夏の便は3ヶ月以上前にとるべきだと言われているが、その通りだった。

 

日本と対照的に、モンゴルでは、新聞を読んでも、テレビのニュースを見ても、ハルハ河戦争勝利75周年と関係する報道が多く、街に出ても、「ハルハ河戦争勝利75周年記念」の幕が飾られており、国全体がお祝いムードになっていた。

 

8月8日の午前中に、モンゴル国立大学モンゴル研究所長J. バトイレードゥイ氏と打ち合わせをした際、急にTV2テレビ局から連絡があって、急遽車で同社に向かい、取材を受けた。同社はその日の夜と翌日の朝、2回も報道した。

 

9日午前、モンゴル・日本人材開発センター多目的室で第7回ウランバートル国際シンポジウムの開会式がおこなわれ、在モンゴル日本大使清水尊則氏、モンゴル国立大学長A. ガルトバヤル氏、国際モンゴル学会事務総長・モンゴル科学アカデミー会員D. トゥムルトゴー氏、モンゴル国立大学歴史学術院長P. デルゲルジャルガル氏が挨拶をした。

 

開会式の後、研究報告をおこなった。午前の会議では、P. デルゲルジャルガル氏が座長をつとめ、6本の論文が発表された。午後の会議では、モンゴル防衛研究所教授G. ミャグマルサンボー氏とモンゴル科学アカデミー歴史研究所教授O. バトサインハン氏が座長をつとめ、12本の論文が発表された。その後おこなったディスカッションでは、ウランバートル大学教授ダシダワー氏と私が座長をつとめた。

 

会議には、モンゴル、日本、中国、ロシア、ハンガリー、チェコ等の国からの研究者70人あまりが参加し、活発な議論が展開された。「最近、モンゴルの研究者は、あまりにも外国の研究者の主張に従い過ぎる」「モンゴル人研究者は独自の主張を持つべきだ」と、若手研究者の研究を批判する者がいれば、「未だ30年前の古い立場に立っている」と反論する研究者もいる。また、「モンゴル人の立場から見れば、ハルハ河戦争とはハルハとバルガの統一運動の一つの過程であった」「この統
一の運動を分断するため、ソ連と日本が同戦争をおこなった」という日本人の研究者のかんがえ方に対して、「モンゴルでは、だれもそう考えていない」と批判する声もあった。さらに、世界ハルハ河・ノモンハン戦争研究会を組織するという提案があり、全員の賛成を得た。ハルハ河・ノモンハン戦争の原因や結末、戦争の名称等をめぐって、各国の研究者のかんがえ方が大きく対立していることがしめされ、さまざまな課題はまだ残されている。

 

同日の夜、在モンゴル日本大使館で、同大使館と渥美国際交流財団共催の招待宴会がおこなわれ、清水大使と私が挨拶をし、一橋大学名誉教授田中克彦氏が乾杯の音頭をとった。参加者は歓談しながら、日本食を賞味した。

 

10日午前、参加者はジューコフ記念館を見学した。その後に行ったモンゴル軍事史博物館でも、各国の研究者の間では議論がつづき、また今後の学術交流などについても意見を交換した。午後からは、ウランバートル郊外のチンギスーン・フレーで、モンゴル国立大学モンゴル研究所主催の招待宴会がおこなわれた。

 

同シンポジウムについて、モンゴル国営通信社などモンゴルとロシアのテレビ局十数社が報道した。

 

当日の写真(フスレ撮影)

 

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<ボルジギン・フスレ Borjigin Husel>
昭和女子大学人間文化学部国際学科准教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。昭和女子大学非常勤講師、東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員をへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編『ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年――2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2010年)、『内モンゴル西部地域民間土地・寺院関係資料集』(風響社、2011年)、『20世紀におけるモンゴル諸族の歴史と文化――2011年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2012年)、『ハルハ河・ノモンハン戦争と国際関係』(三元社、2013年)他。
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2014年10月8日配信