SGRAイベントの報告

国際シンポジウム『世界史のなかのノモンハン事件(ハルハ河会戦)』報告(その2)

ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年を記念して、2009年7月3、4日にウランバートルで開催したシンポジウムについては、前回のかわらばんで報告いたしましたが、基調講演をお願いした一橋大学名誉教授の田中克彦先生が、現在編集中の論文集のためにシンポジウムを総括してくださいましたので、先生のご承諾を得てご紹介いたします。尚、田中先生は、本年6月に出版された岩波新書「ノモンハン戦争 モンゴルと満州国」で、新史料に基づくモンゴル人研究者による業績を含めた最近の研究成果をわかりやすく纏めていらっしゃいますので、是非ご一読ください。

■ 田中克彦「2009年ウランバートル・シンポジウムを終えて」

モンゴルとソ連は、その堅固な友好の同盟関係を強調するために、しばしばハルハ河戦勝記念日を祝っていたと思われる。それを知ったのは、たまたま戦勝30周年にあたる1969年、ウランバートルを訪問したときである。記念行事のためにモンゴルを訪れていたらしいソ連軍将兵が「ハルハ河30年」と書いた記念バッヂを胸につけて街を散策しているのを見かけて話し合い、そのことを知ったのである。

その時私は、かれらの敵対者であった日本も、そのような催しに加わって、不戦を誓いあうべきではないかと考えて、雑誌『世界』に一文を寄せた(「ノモンハンとハルハ河のあいだ」)。それは3年後にモンゴル語に翻訳されて、モンゴルでひろく読まれた。

私のこの一文の影響のせいか否か、明らかではないが、それから20年たった、すなわちハルハ河50周年にあたる1989年6月、モンゴルは日本からも研究発表者を招いてウランバートルでモ・ソ・日の三者からなる「ハルハ河50周年シンポジウム」を開催した。これがきっかけとなり、それから2か月たった8月、今度はモスクワに、モンゴル、日本から代表を招いて円卓会議が開かれた。主催はソ連国防省軍事史研究所で、日本からの出席は私だけだった。

その席で、次回は日本が行うべきだと多くの参加者たちが要求したので、私は「何とか努力しましょう」と半ば約束させられてしまった。
 
この約束は1991年に実現した。NHK、朝日新聞社をはじめ、ジャーナリズムやいくつかの企業から資金が寄せられたおかげである。シンポジウムで発表されたロシア語とモンゴル語の論文はすべて翻訳され、さらに一般参加者からの発言、討論も含めて、『ノモンハン・ハルハ河戦争』として1992年原書房から刊行された。

この東京シンポジウムには特に指摘しておかねばならない価値があった。というのは、モンゴルの固有の領土の一部が、日本に占領されたまま停戦協定が結ばれてしまったために、モンゴル領として回復されず、今日の中国領に残ってしまった。このことを、1936年にモンゴル、ソ連との間で締結された、相互援助条約の不履行であるという指摘をモンゴル代表が行ったのである。つまりモンゴル側からソビエト連邦に対する不服のあることが明らかにされたのである。これは会場を日本で準備して得られた大きな成果であった。モンゴル代表は、日本では、比較的自由にふるまえたからだと思う。
 
その後、年々ハルハ河戦争についてシンポジウムが行われたが、今回、日、ロ、モ三国の間に行われた70周年シンポジウムは、1991年の結果をさらに展開させた点で注目すべき催しであった。

以下に、寄せられた9か国40本の発表論文の分析にもとづき、そこに示された注目すべき関心をいくつかの項目にまとめる。
 
1. ノモンハン戦争の原因と目的に関して
この戦争をはじめたのは日本側であるというのが全般的な共通認識である。日本では現地の関東軍が東京の大本営の制止を受け入れず独走したとの議論がひろく知られ、一般認識となっているが、ソ連(ロシア)、モンゴルではそうではない、1927年に当時の首相田中義一が天皇に上奏した、大規模な侵略計画にもとづいて開始されたのがノモンハン戦争だという説がいまなお一貫して維持されている。ロシアの学会ではこの上奏文なるものが偽文書だということが徐々に理解されてきたが、今回、依然として、そこからノモンハン戦争の原因が説き起こされているのは注目すべきことだ。
日本の研究者は、今回のシンポジウムまで、こんな議論がくりかえされているのかとあきれているが、こういう誤った前提が解消されるには、あと10年、つまり80周年のシンポジウムまでかかるであろう。

2. ノモンハン戦争は避けられたはずだとする説
1935年、ノモンハン戦争の前哨をなす、ハルハ廟における満洲国軍とモンゴル軍の衝突以来、双方はこうした紛争が大きく発展するのを阻止するため、それぞれが代表を派遣して、マンチューリで会談を行うことになった。この会談は、満、モ双方がそれぞれの支配者である、日本とソ連の支配から脱して、独立統合への道を模索する密談を含むものとして、日、ソ双方が会談を妨害、阻止した。日、ソは、満、モの代表それぞれを逮捕処刑した。しかし、もしこのような妨害が行われなければ、マンチューリの会談は成功して、戦争に至らずにすんだかもしれないという趣旨のものだ。1991年の東京シンポジウムではじめて発表されたこの考え方を、今回のシンポジウムで受けついで発表したのが、私、田中である。

3. 国境認識にかかわる地図の研究
ソ連は、1932年に、ハルハ河が満、モ国境線をなすという、日本側と同様の認識をもっていた。しかし、1934年までの間にノモンハン・ブルド・オボーを国境線とするという認識に変わった。この問題は国境衝突事件としてのこの戦争を研究する上で出発点となるほどの重要性がある。しかし、勝者としてのロシアには国境線については議論の余地がないものとしてあまり関心がないのに対し、日本代表にはまだ議論し足りない不満が残った。

4. 国際関係からみたノモンハン戦への関心
すなわち、日本はなぜ停戦を急だか、また、41年には、ドイツ軍がモスクワに迫っていたときを利用して、なぜ日本はドイツの同盟国でありながら、ソ連に攻撃を加えず、想像を絶した真珠湾攻撃に踏みきったのか。あの時、もし日本がドイツに呼応してソ連を攻撃していたら、ソ連は崩壊していたかもしれないというような問題提起である。日本では考えられないこのような仮定はアメリカ、イギリスなどの参加者から出された。
また、アメリカからはもう一人の気鋭の研究者が、ノモンハン戦争を朝鮮戦争と対比して見せた。同じ民族がかれらを分断した国境の双方から敵対したという点に注目した、このような巨視的な見方は、欧米の研究者にしてはじめて得られるものであろう。

5. 日本の国内事情にも関心が持たれるようになった
1989年のモスクワ円卓会議で、私は辻政信参謀個人の性格が戦闘の開始そのものにも、関東軍の行動の上にも大きな影響を及ぼしたことを述べたけれども、ソ連は全く関心をもたなかった。天皇を頂点とする規律正しい帝国日本では、一個人がそのような独走を演ずる余地は全くなく、関東軍の動きを、一貫した侵略計画の不動の方針に従ったものとする理解の域を出なかった。しかし今回2009年のウランバートルでは、停戦協定を結んだ東郷大使の回想録を読んで、その人柄を知り、東郷が停戦にこぎつけた功績をたたえる発表が行われた。これは日本側の立場を内部にたち入って明らかにしようと試みたものであって、研究がよりこまやかになり、大きく進展するきざしを見せるものとして注目すべきであろう。

6.ノモンハン戦争の背後には満洲国とモンゴル人民共和国の国境によって分断されたモンゴル諸族の統一運動があったことを重視する視点は、最近のモンゴル人の著作には至るところ示されているけれども、それをまとめてとりあげる試みはなかった。しかし、田中の提出したこの観点に積極的に賛意を示す人は少なく、と言って反論する人もいなかった。ロシアの人たちには不快に感じられたはずである。しかし、これは将来忘れられない論点になるである。

以上、今回のシンポジウムの成果を、1989、1991年の状況と比べるならば、長足の進歩があったと称賛しなくてはならない。そして、歩みは遅いけれども、国際的なシンポジウムが開かれる度に、確実に発展があり、それはハルハ河戦争のみならず、モンゴル、ロシア、日本相互の間の国際理解に大きく寄与したことが実感される。

半世紀にわたってこの経過を見つづけてきた者には、なお80周年のシンポジウムが行われる必要があり、そこではさらに大きな一歩が進められるであろうと期待される。

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2009年10月7日配信