SGRAかわらばん

  • 2012.09.20

    エッセイ350:ジョン・ハミルトン「モンゴル旅行記」

    Essay in English   今回のシンポジウム、並びに2009年のノモンハン事件のシンポジウムは私にとって非常に刺激的、かつ興味のあるものでした。2009年、この時、私は歌を唄う事となり、もっとカリンカ(ロシア民謡)を練習しておけば良かったと後悔しました。だから、キリル文字から英訳した歌詞をウィキペディアで知り、友人からCDを借りて、車の中で練習しました。最近、英国のサッカーチーム、チェルシーのサポーターが試合でこの歌を歌っています(このクラブのオーナー、アブラモヴィッチはロシア人です)。2万人の観衆が合唱するのでテナー歌手は非常にパワフルに歌わねばなりません。私は車の中では、かなり旨く歌えた(と、自分では思っています)が、ウランバートルでロシアの方々と歌えるチャンスがあれば、歌のレッスンを受けようと考えていました。   2009年のノモンハン事件のシンポジウムにはロシアの方々が多かったですが、今回はあまりいらっしゃらなかったので、カリンカを唄うチャンスはありませんでした。ケンピンスキー・ホテルでの夕食でお会いした エフゲニー・リストヴァンネィ氏はひょっとしたら、と思いましたが、翌日、彼は居ませんでした。氏はイルクーツクから来られました。そこで私は彼に車で来たのか聞きましたが飛行機との事でした。このあとシンポジウムで、イルクーツクはモンゴル語で「クリスチャン(ネストリア派)の街」と知りました。   今回のシンポジウムで次に準備したのは本を読むことでした。2009年のシンポジウムの前、私は姜戎の『神なるオオカミ(Wolf Totem、狼図騰)』」)を読みました。これは、文革時代、モンゴルにいた中国人の書いたモンゴル人についての本で、ベストセラーとなり、フランス人映画監督により映画化される予定です。モンゴルのインテリはこの本について、或いはここでのモンゴル人の書かれ方に非常に懐疑的ですが、私自身はここに書かれた狼について楽しく読みました。私はそのフランス人監督が良い映画を作るのは難しいと思っています。今回のシンポジウムの最後の日、我々は狼の毛皮を見ることが出来ました。   そう、私は狼の毛皮のコートを着た今西さんの素敵な写真を持っています。このシンポジウムの前、木村肥佐生氏の「チベットの日本人エージェント」を読みました。今は英訳されていますが、これは1943年から1945年にかけて内蒙古、チベットからインドにかけての旅行を描いたもので、読む人を楽しませ、彼が出会い、一緒に過ごしたモンゴル人、チベット人に温かい眼差しを注いでいます。私は非常に面白く読みました。 シンポジウムのための次の「準備」は思いがけないもので、非常にハッピーでした。 今年の4月、名古屋市の中央、ささしまライブ駅地区に新しく愛知大学の主要キャンパスがオープンしました。これは関係する全ての人に様々な問題をつきつけました。私は毎週月曜に4つのクラスを持ったので、火曜日の朝まで泊ろうと思いましたが、新しいキャンパスには風呂が無いのです。そこで2カ月ほど前、中村区まで銭湯を探しに出かけました。最初の「さくら湯」は丁度、閉店したばかりで、太閤通りの別の銭湯を探しました。もう夜も9時30分、知っている人は居そうもありません。すると一人の女性が暗闇から現れ「お手伝い出来る人を知っています」、そして閉店したばかりのお好み焼き屋さんのドアを叩きました。中には犬養爺さんと彼の奥さんが居て、「地蔵湯」と云う銭湯に連れて行ってくれると云うのです。迷路の様な道すがら、彼は話してくれました。1950年代に愛知大学を卒業したとか、「地蔵湯」は一番の銭湯だとか・・・。   以来、毎週月曜、銭湯に行く前、犬養爺さんのところで、時には友人を連れて夕食をとっています。モンゴル・シンポジウムの一週間ほど前、犬養爺さんの娘さんが、ウズベキスタンと、最近はベニンで日本語の先生をしていたKito Naomiさんを呼んでくれました。彼女はアフリカ人の夫、Adecを連れて店に来ました。Adec はフランス語しか話せません。栄でドラムを叩いています。いずれにせよNaomiさんのお陰で、モンゴル第2の都市ダルハンに住むウルズィー・オルシフ氏に会う事が出来たのです。   私は7月20日(金)の夜、ウランバートルに着き、空港にはウルズィーが待っていてくれました。私はモンゴル第2の都市はウランバートルに非常に近いと思っていましたが、実際は北に200マイルほど離れていました。そう、彼は遠路はるばる来てくれたのです。   私は彼にこの週末、2年ほど前に行ったウランバートルの観光地より、彼の住むダルハンの方がより興味がある旨を伝え、その費用として若干のお金を渡し、もし彼に時間があるなら アマルバヤスガラント寺に行ってみたいと言いました。その晩、ウランバートルでの夕食のあと、タクシーに相乗りでダルハンに戻り、家族全員と一緒のウルズィー のアパートに泊まりました。ウルズィーは良きホストでした。壁に掛かったパナソニックのテレビではNHKの英語放送を始め、英語によるインド向けのロシアの番組、フランスの番組、BBCなど豊富な番組を見る事が出来ます。道路を隔てた彼の事務所、仕事場にも行きました。ウルズィーは小さな印刷会社を持っていました。最近のモンゴルの選挙ではすべての党の選挙印刷物をコニカ・ミノルタの印刷機で印刷しました。裏手の仕事場には、大きなポスターを刷っていた中国製の印刷機と軽トラックがありました。 そのあと、そのトラックで彼の両親が住む丘の上のダーチャ (ロシア風別荘)を訪ねました。確かにダルハン はモンゴル第2の都市かも知れませんが、人口は僅か5万人です。ロシアは社会主義の時、大きな工業都市を建設しようと思いましたが、それは実現しませんでした。今日、人々はアパ-トかダーチャかゲル (天幕)に住んでいます。ウルズィーの両親は裏手に野菜畑のあるダーチャに住んでいます。彼のきれいなお母さんは刺繍をし、お父さんは野菜畑を耕します。そこにはグズベリー、ラズベリー、干しブドウ、或いはロシアから持ち込まれた豊富なジャガイモがありました。そこからマーケットに行き、素晴らしい肉屋に行き、そこのレストランで昼食をとりました。 午後、我々はウルズィーの友人バータルとその奥さんも同行し、彼の運転でアマルバヤスガラント寺へ向かいました。お寺はオルホン川の対岸、ダルハンから約2時間、西に向かったところにあります。最後の35マイルは悪路です。この地点で不幸にも雨が降り出し、道は非常に滑り易く、車は至るところで滑りました。数回に亘り、我々は車を出て押さねばならず、ある場所では車は完全に動かなくなりました。遠くで稲光が光り、雨は強くなりました。シンポジウムに参加できなくなるのでは、と本当に心配しました。しかしバータルは優秀なドライバーで、ウルズィーは全然、心配していません。それから誰かがケーブルを持って現れ、大きな四輪駆動車も来ました。我々は車を押し、四輪駆動車が引き出しました。こうして我々はやっとアマルバヤスガラント寺に着きました。   我々はゲルに落ち着き、ウルズィーと私が今朝マーケットで買ったマトンとジャガイモでほとんどの夕食を作り、ウオッカで流し込みました。バータルはアルコールが駄目なので、ウルズィーが、殆んど飲んでしまいました。もしかしたら、バータルと彼の妻はクリスチャンだったからかも知れません。夜中、私の耳から6インチと離れていないゲルの壁越しに馬が草を食べる音が聞こえていました。翌朝、太陽は眩しく照っていました。お寺は草原の中の大聖堂の様でした。このお寺は1727年から37年の間に満州の皇帝雍正帝により建てられ、乾隆帝により完成しました。そしてここに葬られている彫刻家ザナバザルに奉納されました。ここは牧草地の野生の花に囲まれています。どこを歩いても、そこここにタイムの香りが漂い、小さなマーモット(リス科の小動物)がちょこちょこ走っていて、エキゾチックな鳥も見られます。 私は何とか、とさかのあるHoopoe (日本名ヤツガシラ) をカメラに収める事が出来ました。ウランバートル空港の鳥の本で見たのをみつけたのです。草原には朝食に料理した野生の苺や茸もありました。日曜日、来た道はすっかり乾き、帰りは非常に楽でした。でも、また一回、我々は車から出て押さなくてはいけなくなりました。 月曜の朝バンタン・チャイ(一種のミルクテイで、前夜からの 餃子(の様なもの)と肉汁の混ざったもの)のあと、私はウルズィーウルズィーの妻オーギとサイナーと言う女性と相乗りタクシーで出かけました。二人ともKito Naomiさんの生徒でした。オーギはひと月に2回ほどウルズィーの仕事の印刷の材料を買いに中国(国境の街 エルレン(二連)のほんの先ですが)へ行きます。そこはダルハンから列車で一泊のところですが、今回はウランバートルからはるばる来てくれたのです。 サイナーには初めての中国でした。我々はダルハンで特別のポンプでLPGを満タンにしました。道端に牛の群れがいたので、運転手は尚一層スピードを上げました。スピードメーターは動かず、誰もシートベルトをしていません。事故の側を通りましたが、死者はいなかった様です。それからはずーっと足はアクセルを踏みっぱなしでした。私はモンゴルの人は勇敢だと思いました。シートベルトは運転手への信頼を欠き、神への信頼を欠く事なのか、と。   ともかく無事にウランバートルへ着き、彼らは私をタクシーに乗せ、オーギがiPhoneでインターネットで見つけたホテル・ミカへ向かわせました。私は旅を堪能し、ホテル・ミカに着き、風呂を探しました。するとドアのところに、スマートなスーツに身を包んだフスレ先生が居られました。彼は重要人物に会いに出かけるところでした。私はとても嬉しかった。そして言いました「良い風呂を探しています!」。彼の顔が曇りました。彼はホテルの水配管系が壊れていて、熱いお湯は出ないことを知っていたのです。結局私は冷たいシャワーを浴びる羽目にな りました。そのあと翌日の為のシャツを買いにウランバートルの街に出かけました。   翌朝、シンポジウムはホテル・ミカの朝食時に始まりました。ほかの人達が来る前、私はNagahama Takashiro/Kimi夫妻と話していました。彼は川崎の、彼女は石川県の出身です。彼らはJICAのシニア・ボランテイア(Nagahama氏は引退したばかり)でダルハンに住んでいます。彼の主題は「品質管理」で、工科大学のManagement 部で教えようとしていました。 そこで私はUlziiを紹介し、ハガキで念を押しておきました。朝食に最初に降りて来たのは愛知淑徳大学の藤井真湖さんでした。彼女に会えて良かったと思っています。隣人に会うのに、時にははるばる長い距離を行かねばなりません。彼女は『モンゴル秘史』 (漢字で書かれた音声バージョンから作業) の真面目な学者です。   次に朝食に現れたのは林泉忠氏でした。彼はアモイ生まれで、香港育ち(英国籍)です。彼はハーバード(最終日、ハーバードのTシャツを着ていました)にも居ましたが、最近、長い間の東京と沖縄の生活を終え、台湾で仕事を始めたところでした。初日の朝食時、彼はAmi and Bunung の台湾のTシャツを着ていました。   次に来たのはソウルから来た崔佳英さんです。 彼女は5年間、東大駒場に居て人気の的でした。 彼女の美しさはシンポジウムの中でも際立っていて、後に私は韓国の儒教の力を改めて感じました。彼女が私の目の前のドアを通り抜けるのをただ見ているだけでした。最後にフスレ先生が到着しました。ただ一人、今日、お会いで出来なかったのは手術(成功したのですが)をしたばかりの田中克彦先生ですが、気持ちのうえでは我々と一緒だと思いました。   モンゴルの日本センターで、お湯の出でるケンピンスキー・ホテルに泊まっている今西淳子さんにお会いしました。このシンポジウムまで、私は彼女と彼女のお母さんが運営するSGRAや渥美国際交流財団が、鹿島建設(今は取り壊されていますが、愛知大学三好キャンパスを造った。)の基金によることを知りませんでした。何と、私は、ものを知らないのでしょう! いずれにせよ、私は再び彼女にお会い出来て良かったと思っています。モンゴルと日本の関係が如何に大切か、彼女の手に手を携えた様なアプローチが如何に良いものか、必要なものか。   次にお会い出来て良かったのはミャグマルサンボー(陸軍大佐)さんです。彼とは東京国立の一橋大学で会い、飲みました。彼とはモンゴル研究でもっと時間をとれたらなあと思っています。近い将来、多分、そういったチャンスはあるでしょう。シンポジウムの終りに彼はモンゴルの美しい写真でいっぱい本をくれました。その幾つかを写真に撮って、私のマルコポーロ講義(多分、来年)に使うと思います。   それからゾルボーさんです。彼とは初対面ですが、驚いたことに彼は私の17ページに及ぶ論文をモンゴル語に翻訳してくれました。これまで自分の本格的な仕事が他の言語に翻訳されたことが無いので、これを読みたい気持ちで一杯です。D.ゾルボーさんありがとう。私の「南西中国からヨーロッパにかけて広がった腺ペスト」の発表は第1日めでした。幸い、論文と一緒に、C.P.アトウッド(2009年のシンポジウムに参加) の素晴しい『モンゴル百科事典』と、カプロンスキ編集によるバータルの『モンゴル史』を持っていました。発表中にもお見せ出来たし、休憩時間にも何人かが注文するために本の写真を撮っていました。   その夜、ケンピンスキー・ホテルでの夕食時、私は皆さん全員を招待してくれたシュルフーさんと、大草原への遠足の時に知り合った研究所長、ハイサンダイさんの間に座っていました。私はシュルフーさんのモンゴルについての話を興味深く聞いていました。ロシア(1億4千万の人口)と中国(13億の人口)の間には3つの緩衝地帯がある。モンゴル(240万人)、内モンゴルそしてロシアのブリアート自治管区で、皆バイカル湖を囲んでいる(バイカルはモンゴル語で‘豊かな湖’を意味する。イシククル湖は別の湖)、と。夕食のテーブルの反対側にはケンブリッジからのボラグさんが居ました。 彼は12月に愛知大学に来るかも知れないと聞き興味を持ちました。孟松林さんと内モンゴルのフルンボイルから来ました。彼のアシスタントも居ました。フスレ先生曰く、孟さんのお母さんは溥儀(中国最後の皇帝)の妻婉容の親戚だと。私は何かそこに興味深いストーリーがあると感じました。   2日目、いろいろな興味深い発表がありました。藤井真湖さんはとても印象的でした。午後、私は、幸い殆んどの仕事をやってくれたソドノム・ツォルモンさんとセッションの司会役でした。ポンサグさんがジンギスカンの法律について良い話をしてくれました。私の頭の中では、1215年はジンギスカンが北京を征服した年は、英国のマグナカルタ(大憲章)が制定された年です。上村明さんが‘黄禍論’について、そしてドイツ帝国皇帝がこの言葉をどの様に使ったかを話しました。私は皇帝がビクトリア女王の従弟で、女王はワイト島で彼の腕のなかで亡くなった、と言う事を除いては余り多くは覚えていません。 崔佳英さんは南北朝鮮の教科書のなかのジンギスカンについての記述について話しました。彼女が北朝鮮の教科書をどうして知ったのか分かりません。韓国のSubadeの侵略にも興味があります。済州島の馬に関しても、もっと知りたいと思います。林泉忠さんは台湾におけるジンギスカンの取り上げ方について話しました。只、彼のどちらかと言えば難しい日本語は、英訳が無くて私には彼の論文が良く分かりませんでした。でも台湾の地図では外モンゴルは中国の一部と扱われている様です。そして再び教科書について、高橋梢さんから聞く時間となりました。彼女のモンゴル語はとても美しく、音楽を聴いている様でした。   2日目の夕食会はウランバートルホテルでした。確か、このホテルの一部は1970年代には英国大使館だったところで、当時、私の従弟、Myles Ponsonby RIPが大使でした。 夕食はすばらしいもので、私の話す番の時、すでにかなりの量のソヨンボウオッカが入っていたのですが、私はアマルバヤスガラントでの冒険について話しました。通訳のボロルマーさんが、私の日本語をかなり旨くモンゴル語に通訳してくれました。その後、私はアユシ・ボヤンテグスさんと話しました。彼は5年以上、モスクワに居て、日本語、英語をロシア語訛りで話します。   最後の日、お気に入りとなったハイサンダイさんと一緒に草原へ行きました。ガイドをしてくれた研究所の方は米国オハイオに居たことがあり、帰国した彼はきれいな英語を話しますが、絶対菜食主義者でアルコールは飲みません。こういうモンゴル人がいることは興味深いことです。私達は13世紀のモンゴル生活の博物館の様な所を訪れ、そこで私は私のマルコポーロ講義の為の写真を沢山撮りました。昼食は壮大なゲルで、非常に家庭的な雰囲気のなかでとりました。中に肉の入ったフラット・ジャックはとても美味しいものでした。そのあと、モンゴルのシャーマン教で聖地とされるところへ行きましたが、ゲルの中には沢山の仮面や魔法のシンポルがありました。シャーマンの占い師を通して、他の世界の人々と話をしようとするものの様です。モンゴルのシャーマンは韓国を通って日本に伝わり、神道の一部となったと私は考えます。   他のゲルでは馬やらくだに乗りました。ふたこぶらくだは非常に心地良く、自然の鞍の様でした。私は、らくだのこぶが宴会に供される杜甫の詩を思い出しました。最後のゲルは学校で、女性スタッフ達がモンゴル文字を筆で美しく書いていました。床には山羊の皮の敷物やヤクの皮が、椅子には豹(winter leopard) の皮がありました。   外は雲の影が絵の様に流れています。この日は快晴でした。   ウランバートルに戻った時には、皆、とても疲れていました。そしてシュルフーさん主催の素晴しい夕食でこの日を終えました。シュルフーさんは翌朝、私を空港へ送る為、ビャンバー・ツェンゲルハムさんを付けてくれました。彼女の弟は早稲田大学で国際関係を勉強していて、お兄さんはジャーナリストでロンドンのオリンピックをレポートする予定との事です。   機中で、先週の土曜日、北京、天津に大雨、洪水があった事を『中国日報』で読みました。その日は丁度、私がアマルバヤスガラントへのクロス・カントリーに大奮闘していた日でした。   (愛知大学教授、原文は英語、河村一雄訳)   2012年9月20日配信  
  • 2012.09.16

    今西淳子「溝を埋める地道な作業を~チャイナフォーラム中止にあたって~」

    大変残念なことに、9月17日にフフホト、19日に北京で予定していたSGRAチャイナフォーラムを中止しました。12年前にSGRAの活動を始めてから、プロジェクトの中止は初めてのことです。   フォーラムの準備が全て終わり、あとは中国へ出発するだけという9月14日(金)朝、フフホトフォーラム担当の内モンゴル大学のネメフジャルガルさんと、北京フォーラム担当の北京外国語大学の宋剛さんから、ほぼ同じ内容のメールが届きました。「昨日の夜、学校の幹部の緊急会議で、日本関係のイベントを自粛、延期するようにという決定が出ました」と。さすがに、皆さんのスケジュールを再調整するのは無理なので、中止せざるをえません。「今日はポスターの回収とキャンセルの説明に奔走しています」とのこと。講師の元ロータリー米山記念奨学会専務理事の宮崎幸雄さんも私も、「こういう時こそ民間の交流が大切」とはりきっていたのに本当にがっかりです。柳条湖事件の前日と翌日にフォーラムを組んだ思慮のなさを悔やみましたが、テレビが伝える今の様子を見ると1週間遅ければ大丈夫だったというようなものでもないかもしれませんね。   さて、今回の反日デモですが、おそらく多くの普通の日本人と同様、私も「どうしてこうなるの?」って感じなんです。日本国政府が日本人の所有者から購入した(=国有化)のは、東京都が買わないようにするためでした。都が買って「島の整備」などをしないように「国」が買いました。国でも都でもなくて右翼団体が買ったらもっと大変です。日本政府は、「当面何もしない、上陸も許可しない」と最初から公表していましたから、私も国が買ってほっとしたわけです。   つまり、日本の領土か中国の領土かという問題とは次元が違う話で、既に実行支配している日本の法律のもとで個人の所有者がいたわけです。(中国の法律のもとでの所有者が居るのかもしれませんが、そのことは今回の売買には関係しません。)日本の法律上で所有していた人が亡くなって、その家族が売却することにしました。最初は東京都と話していましたが、最後は国に売却することに決めました。ですから、日本の法律のもとで、所有者が変わったというだけ話です。その法律の効果があるかどうかは別の話で、個人所有も、国の所有も、同じ法律のもとで行われているのであって、その点では今回の「国有化」で日本政府の立場が変わったわけではなく、まして右翼と一緒になって領土を確定しようとしたわけでもありません。   ですから、中国政府が「日本が国有化した」と、すごく強い口調で非難することに、私自身は非常に違和感を感じます。政府関係者や報道機関は、もっとちゃんと説明してほしいです。少なくとも中国国民の大部分は誤解しているのではないかと思うのです。   勿論逆の「誤解」あるいは「すれ違い」も起こっていると思います。たとえば、韓国大統領の発言の日本での報道仕方は、もう少しなぜこのような発言がでたのか理解できるような説明をしてほしかったと思います。今の問題でも、なぜ中国政府のスポークスマンがこのように強い発言をするのか、なぜ中国の国民がこのように怒っているのか(デモをしている若い人たちの中には笑っている人も多いですけど)、もっと納得できる説明を聞きたいです。   50年前の戦争の時代と今が一番違うのは、交通と通信の発達によって国境を越える人と情報の交流が爆発的に増えたことだと思います。以前は国とマスメディアを通した限られた情報しかなかったのに対して、今はいろいろな方法で個人から個人へ伝えることができます。政府発表や報道をそのまま信じるのではなく、個人個人の意見のやりとりから少しずつ溝を埋めていくような地味な努力がもっともっと必要とされていると思います。ささやかながらもSGRAも貢献することができるかもしれません。   (SGRA代表)     2012年9月16日配信  
  • 2012.09.12

    エッセイ348:金 崇培「日韓関係のナショナリズムに関する一試論」

    日本と韓国の葛藤と摩擦は、21世紀に始まった問題ではない。20世紀の戦争と植民地の遺産が常に燻り続けていたものであり、それは現在でも突如として出現し、国家間に緊張状態をもたらす。国家を形成する主権、領土、国民の三要素はまるで共鳴するかのようにナショナリズム/民族主義を発動させる。特に領土問題はその領土の実質的な規模に関わらずナショナリズムを派生させ、この情緒的でありながらも強力な感情にも似た現象は歴史認識問題と重なり合い、過去から現在までを貫通する一つの認識を形成する。   ナショナリズムを煽り助長することは、瞬間的で容易であるが、問題を冷静に対処し和解の方向に導くには長期的な時間と共に知識や知恵、そして行動を要する。領土問題に関しては様々な意見や主張があると思われるが、それに関連する日韓関係のナショナリズムを巨視的に見る次の三点もまた考慮しなければならない。   第一に市場経済と民主主義。日本と韓国の共通項として市場経済と民主主義が挙げられてきた。両国の市場経済はグローバリズムと直結しており、特に資本と人は簡単に国境を越える。しかし、これらの移動は異文化との接触という新しい世界観の創出だけを意味するのではない。既にヨーロッパでも見られるように他者の流入によって自国で雇用機会を喪失した者は移民や異なった民族・人種に対して排他的、規制的思想と行動をとる傾向もある。グローバリズムに伴う資本と人の移動は一方で国家独自のアイデンティティを喪失しないようナショナリズムをより強固にする側面を持っている。   また、日本と韓国は異なる民主主義の歴史がある。戦後日本はアメリカの7年にわたる間接統治により、上からの民主主義を導入した。一方韓国は国内の独裁政治に対して、下からの民主主義の要求があった。民主主義が共通な価値であると安易に考えず、その形成過程の相違から両国のナショナリズムの本質を把握しなければならない。民主主義国家は互いに戦争をしないというテーゼが注目されてはいるが、民主主義国家からも独裁者は誕生し、国民も熱狂するという事例もまた歴史が示している。   第二に地域共同体。内在的に不安要素を残す東アジアに、EUのような東アジア共同体を形成しようとする努力が行われており、これが国民国家のナショナリズムの障壁を取り除くかもしれない。しかし、ヨーロッパは比較的類似した生活様態や文化、言語、宗教を有し、独自のアイデンティティや規範を見出しやすい基盤があった。EUの双璧であるフランスとドイツは、過去何百年において何度も戦争をしては和解してきた。両国を含めたヨーロッパの平和体制は戦争によって崩壊したが、その都度新しい国家間条約や平和条約によって平和体制を作り上げ、国境線を確定する作業も繰り返されてきた。EUの起源は、そのような歴史と共に、第二次世界大戦後にもドイツによって多大な損害を被ったにも関わらず、フランスがドイツに手を差し伸べて始まった。当時の東アジアの状況を考えるとフランスになりえる国はなかったであろう。   アメリカと共にG2の一角を担う中国の存在が東アジアはもちろん世界にもたらす影響は計り知れない。中国と地政学的に隣接している日本と韓国はより慎重な外交をする力が問われる。それは8千万人もの共産党員を有している現実の中国を直視しながら、その中国をも含めた共通する価値規範の模索が先決であろう。すでに日本と韓国、中国は共に高度な経済的依存の中にある。しかしこの関係がこのまま持続すればいいが、政治的確執によるナショナリズムはこの経済的依存さえも呑み込み、経済力という武器によって、その領域でも軋轢が生じる危険性をはらんでいる。   第三に帝国主義と植民地、そして国際法。戦争と平和の反復は過去の歴史に対する記憶と経験として学習され、今のヨーロッパを作り上げてきた。東アジアはこのような過程を経ずに19世紀に西洋の衝撃によって近代西欧国際法体制を受容、または編入された。文明国を自負していた西欧諸国は東アジアに国際法を適用した。当時の国際法にはいうまでもなく、帝国主義と植民地の問題に関連する法規範と意図が付随されていた。人類は戦争と平和とは何であるかを長い歴史の中で問い続けてきたが、帝国主義と植民地に対する認識の変化は比較的最近である。1910年代後半にアメリカ大統領であったウィルソンが主張した国際連盟(League of Nations)は植民地支配を受けている人々の民族自決を反映させず、国際連盟規約の前文にあるように、国際連盟に参加できた諸国家の平等を理念とした。その国際連盟の理念を一部継承しながら1940年代半ばに発足した国際連合(United Nations)は憲章で平和を掲げたが、国際連盟規約にあった委任統治の変容である信託統治を採用し、帝国主義と植民地に対する解決策や清算を提唱しなかった。国際連合の下では1960年に「植民地諸国、諸国民に対する独立付与に関する宣言」を採択することで、植民地支配を受けている人々の独立の要求を是認した。この時期はひとつの転換期ではあったが、60年代以降も植民地を海外領土として保持する国もある。   1905年の竹島/独島に関連した国際法や、アジア・太平洋戦争を終結させた1951年のサンフランシスコ平和条約もまた帝国主義時代の潮流からは自由ではなかった。ナショナリズムを呼び起こす日韓の領土問題は二国間の問題でありながらも同時に帝国主義と植民地、そして国際法とは何であったのかを想起させるものであり、その世界史的な脈絡での帝国主義の残骸が今現在のグローバル社会において、どこにどのような形態で拡散しているのか追究すべきであろう。   衝突するナショナリズムに対して、簡単に解決策を述べることはできない。外交力と市民力という二つの柱を中心に段階的な改善策が求められる。以前から提唱されてきたように、引き続き東アジア共同体の構築、政府間での対話、市民レベルでの交流、学術的交流など多様な外交政策と交流が同時進行されなければならないであろう。政治家であれ、学者であれ、またはそのような職業に属していない者であっても、ある国を背景にして生まれた一人の人間であるならば、社会的責任と同様にナショナリズムを有していても不思議ではない。問題はナショナリズム自体でなくナショナリズムの方向性である。両国の主張と立場を理解しながら発するメッセージや行為は、時に第三者的立場として追いやられ、両国のナショナリズムの批判対象となる。それにも関わらず閉鎖的なナショナリズムに巻き込まれずに開かれたナショナリズムを保つためには、他者を排除せずにその存在を認識し、自分の思考を整理する「主義」を養うしかない。   -------------------- <金崇培 (キム・スウンベ)☆KIM, Soongbae> 政治学専攻。関西学院大学法学部法律学科卒。韓国の延世大学政治学科にて修士号取得。博士課程修了。現在博士論文執筆中。2011年度に慶應義塾大学へ訪問研究員として滞在。研究分野は国際政治史。特に日韓関係史、帝国史、反共史について研究。 在日韓国人三世。 --------------------   2012年9月12日配信
  • 2012.08.29

    エッセイ347:李 鋼哲「領土問題で試される日中韓の知恵、解決策は?」

    領土・領海問題で東アジアの国家間関係や国民感情に大きな揺れが生じている。時折起こる局部的な地震のような感じがする。地震が起きたら国境を越えた被災者救助協力が行われ、国家関係や国民感情にプラス効果をもたらす方向に動くのだが、領土問題が発生するとそれとは逆の方向に動くのである。 人間対自然で闘うときは協力できるが、領土問題となると奪い合いの力が働き、国家間の対立が生じるのは人間社会の常であろうか。人間社会の長い歴史を見ると、常に領土を奪い合う弱肉強食の世界がそこに繰り広げられてきた。歴史上の世界の為政者たちは、「国民」、「国益」を守るという名目で、他国を侵略したり、占領したり、統治したりしてきた。そのような弱肉強食の世界がピークに達したのが第一次、第二次世界大戦ではなかろうか。 二つの大戦を経て、人類は、戦争というものは結局人の殺し合いで、誰の利益にもならない愚かな行為だと気付き、それを防ぐための世界的な仕組みを考え出した。そのひとつが「国際連合」(United Nations)という仕組みである。しかし、「国連」という仕組みのもとでも「冷戦」という深刻な対立と局部的な戦争を完全には防げなかった。 それをさらに進化させたのが「欧州共同体(EU)」に他ならない。近代において弱肉強食の戦争がもっとも激しかったヨーロッパでは、「二度と戦争をしない」という強い意志をもって、長い間最も激しい戦争をしてきたフランスとドイツが中心になって「共同体」を目指し、50年をかけて実現したのである。EUは単に経済共同体なのではなく、人類の最高の価値である「平和と共存」を実現する人類の知恵の結晶だと筆者は考えている。「普遍的な人権」という価値観は「平和と共存」という価値観の上で成り立つ価値観である。「普遍的な人権」価値観のもとでは他国に干渉したり、弱肉強食の戦争(例えばイラク戦争)があり得るが、「平和と共存」という最高の価値観のもとでは、戦争や他国干渉ができなくなる。これは国連憲章の基本原則でもある。 東アジアでも、この十数年間に「共同体」への機運が生まれ、「共同体」意識が経済や文化交流の緊密化とともに育まれてきている。最終のゴールとして「東アジア共同体」が実現できるかどうかは別として、大きなベクトルはその方向で動き、国境の壁は着実に低くなってきているのだ。今後、そのプロセスには波瀾万丈が予想されるが、「平和と共存」という人類最高の価値観に立ち戻れば、様々な問題は解決の方法が見つかるはずだと、筆者は確信している。 東アジアでは、第二次世界大戦後に領土・領海問題がたくさん残されているのは事実である。尖閣諸島(釣魚島)問題、竹島(独島)問題、北方領土問題、南沙諸島問題など。これらの問題はいずれも東アジアの近代における戦争や植民地支配など、かつての弱肉強食の世界秩序と、その後の混乱する国際情勢の中で残された問題である。戦争は終わり、戦後60年以上経った現在でも、今の国際法や二国間関係では、簡単には解決し難い問題である。 だからといって、解決方法が全くなく、今後も領土・領海紛争が起こり続けるのだろうか。解決方法は必ずあるはずである。それは関係各国が、「平和と共存」という人類最高の価値観と、自国の最高の「国益」という戦略的な大局で一致することができる時である。ここでいう「国益」とは一部政治家達が唱えている国民騙しのスローガンではなく、「平和と共存」という「人類益」に反しない範囲での「国益」として理解すべきである。 領土問題解決の実例もある。日中間の尖閣諸島に関する「棚上げ」方法は、最終的な解決方法ではなかったにせよ、過去40年間の日中友好協力関係を維持する上で最良の方法であったことは否定できない。この方法で対応できたのは両国のリーダー達が、「平和と共存」という価値観と自国の国益を合致させる方向で舵取りをとったからに他ならない。問題は、その後、「棚上げ論」から一歩も前進しておらず、最近では後退さえしていることだ。   もう一つの実例を挙げよう。中ロ国境線の確定である。江沢民時代の1998年に中国とロシア両国は、数百年争ってきた領土問題にけじめを付けたのである。中国の歴史教科書では、ロシア帝国が東シベリアや極東にまで領土を拡張して、清朝から160万平方キロメートルの領土を占領したと書かれ、筆者もそのような教育を受けてきた。1969年には珍宝島(ダマンスキ島)で中ロ両国の武力衝突まで起こり、中ソ間で大きな戦争が起こるから、いつも戦争準備に備えるという教育を受けてきたし、小学校の体育の時間には軍事訓練をさせられ、核戦争を予想して家の庭に防空洞(防空壕)を掘るのが、学校が終わってからの日課だった時期もある。全国民が防空洞を掘っていたのだ。   そのような緊張関係にあった中ロ間で、国境を確定し領土問題にけじめを付けたというのは、まさに中ロ両国のリーダー達が「平和と共存」という価値観と国益の価値観を一致させたからにほかならない。中国内ではこれに対してインターネット世論で相当な政府批判や江沢民批判があった。「売国賊」、「弱腰外交」などの言葉がネットで飛び交った。筆者も当時は「あれほどロシア帝国主義とソ連修正主義を批判した中国が?」と首を傾げたこともあるが、これはやはり中国のリーダー達の賢明な選択であったと理解するようになった。   中国は陸続きで国境を接している国が16ヶ国もあり、戦後に国境紛争が何度もあったが、現在では多数の国と領土問題を円満に解決しており、残った領土・領海問題にも善隣友好の大局に基づき、対話で解決することを一貫した外交指針としている。(もちろん、国力が強くなれば強気で出てくる可能性もないとは言えないが。)   東アジアで時として噴出し、国家関係や国民感情の悪化を招く領土ナショナリズムをどのように克服するのか。これは、東アジアの人々の知恵が試される21世紀の最大の課題である。これは国際問題・外交問題だけではなく、国内問題でもある。「平和と共存」を尊重する多数の国民と少数のナショナリスト間の葛藤でもある。   現時点では領土・領海問題には、完全な解決方法が見つからない。関係各国の為政者の賢明な選択は、現状維持を尊重する上で、紛争防止の為のガバナンス・メカニズム(対話チャンネル)を構築することである。実際に領土・領海紛争があるのに、「領土問題は存在しない」とする姿勢で国民を騙したり、解決方法を模索しないのは政治家達の怠慢に他ならない。政治家たちが領土主張を繰り返しても本当の国益にはならない。マスコミがそれを煽ることも国益にはならず自制すべきである。隣国間の関係を緊張化させることは国民にとっては迷惑行為ではないか。   将来的な解決方法としては、前途多難かも知れないが、EUのような共同体を目指すことも有力な道筋だろう。「共同体」や「連合」になったら国家主権が限りなく弱まるので、領土問題も主権問題としての意味が次第に薄れるか、またはなくなってしまうかも知れない。   --------------------------------- <李 鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。 ---------------------------------     2012年8月29日配信
  • 2012.08.23

    エッセイ346:韓 京子「2012年夏の文楽騒動」

    「二度と見に行かない」「古典として守るべき芸だということは分かったが、ラストシーンがあっさりしていて物足りない。演出不足だ。昔の脚本をかたくなに守らないといけないのか」「人形劇なのに人間の顔が見える。見えなくていい」   財団法人文楽協会への補助金の全額カットを打ち出している、橋下徹大阪市長の言葉の数々である。文楽が二度と見たいと思わせないほど魅力を感じさせないことは改善すべき問題であり、市として市の補助金が無駄に使われることのないよう、真摯に検討することは重要である。   だが、市の長としての意見ではなく、ただ「つまんな~い。お金もったいねえな」という小学生っぽいおじさんとしての意見に見えてしまう。橋下市長のもっともらしい意見は大阪市のホームページから確認することができる。   大阪府知事時代、文楽なんて二度と見ないと言い切った橋下徹氏が、市長になってから、この7月にまた観劇した。これに前後し数々の聞き捨てならない発言が続く。「能や狂言が好きな人は変質者」とおっしゃったらしいが、観劇は個人の趣味なのに、古典芸能の鑑賞が趣味というだけで変質者呼ばわりされるのはあんまりである。   「文楽はつまらない」。現代の多くの人にとってはそうかもしれない。専攻した私にとっても4、5時間の観劇がつらいこともある。また、家族やまわりの人を宣教しても、文楽の魅力を伝えることができなかった。今はやっと学生を洗脳し、「先生!日本に行って直接文楽をみてみたいです」と言わせるのに成功した。   専攻している者からすれば、「ラストシーンがあっさりしている」、「昔の脚本をかたくなに守らないといけないのか」云々の市長のコメントは、「それはね」と説明したくなる。市長が見たのは、近松門左右衛門の『曾根崎心中』である。ラストシーンがあっさりしているという印象を受けたのは理解できる。それは、300年前に書かれた近松の脚本のままでないからである。個人的な考えでは、近松の脚本のままがいい。ラストシーンに込められた近松の思いが、1955年に復曲された現行の脚本では削られているからだ。   心中物のラストシーンは、心中、すなわち男が女を殺し、自殺する場面で終わる。現行の台本では、男(徳兵衛)が女(おはつ)を殺害する際、「馴染み重ねて幾年月いとし可愛としめて寝し、今この肌にこの刃」を当てることができないが、覚悟を決めたおはつに促される。その後、遠くのお寺から念仏が聞こえるという形で終わる。市長の言うとおり、あっさりすぎる。近松は、おはつを刺せないでいる徳兵衛を詳細に描く。徳兵衛は「まなこも暗み、手も震い、弱る心を引き直し、取り直してもなお震い」、おはつの喉の急所を何度もはずす。やっと急所を刺せた徳兵衛が、喉笛を「刳り通し、刳り通し」たところ、おはつは両手を伸ばし断末魔を苦しみ、力が抜けていったと、表現する。さらにそれで終わらず、徳兵衛は自分も遅れまいと「剃刀取って喉に突き立て、柄も折れよ、刃も砕けとえぐり」、目をまわし苦しみながら死んでいく。心中する二人を容易に死なせては、近松のメッセージが伝わらない。そのため、現行のものは、もの足りないものになったといえる。生々しい殺害の場面こそ、強い余韻が残るのである。それは「死」を通じて「生きる」ことの意味を考えさせるのである。日本古典芸能の魅力がここにある。   そして、近松は『曾根崎心中』の中で、大阪の都市案内書の様な要素を盛り込んでいる。こうした近松の大阪への思いまで汲めというのは、橋下市長には酷かもしれない。   人形遣いの顔が気になるのは、作品世界に入り込めてないからだろう。この、いわゆる「出遣い」も時代の流れによって出てきた演出である。どれもこれも、知識のない市長にそう思われても仕方ないとは思う。私がラグビーに興味を持てないのと同じであろう。   「観客が入らない」と言われるが、東京ではいつも満員である。東京にいく際にはいつも予約をするが、席が残っていることは非常に少ない。ということは、大阪で観客が入らない原因を考えなければいけないのではないか。   市長はファン開拓のため脚本や演出を現代風にアレンジするなどの工夫を求めている。歌舞伎が古典そのままではない脚本、演出が可能なのは、文楽とは違い役者を見せる舞台であるということもある。昔から役者に合わせてアレンジされてきた。   また、歌舞伎や狂言が若者にも人気を得ることができたのは、役者の他ジャンル(映画やドラマ)などへの進出や、人気脚本家の宮藤官九郎や串田和美、蜷川幸雄などの演出家との共同作業の結果でもある。これが可能なのも、役者のほとんどが、生まれる前から歌舞伎に浸っているからである。役者に基本芸があってこそ可能なのである。   ところが、文楽は古典芸能の中では珍しく世襲制ではない。一家の人々に囲まれ3歳で初舞台を踏む他の芸能とは違う。文楽は研修生から始まる。募集要項を見ると、中学卒業以上で応募でき、2年の研修期間を経て、人形遣いか三味線か太夫になることができる。一般的に足遣い10年、左手遣い10年、そして、首と右手を操る主遣いへの修行が続く。技芸員の数が少数であり、東京、大阪、その他の地方を巡回公演する状況で、新しい試みをするのは容易ではない。   そうした中、市長のいう「面白さ」の要求に呼応したかのように、三谷幸喜が文楽を手がけた。『曽根崎心中』の後日談として、8月に東京PARCO劇場で『其礼成(それなり)心中』が上演される。 橋下市長と懇談した文楽三味線の鶴沢藤蔵は「橋下さんは、面白いものを作ったらお客が来る、と言っておられますが、それもどうかな」と話したという。新作が好評を得たとしても、大阪文楽劇場の観客動員数の増加に繋がるかは疑問である。しかし、このような試みの積み重ねは、未来の観客確保のためにも重要である。   橋下市長は「特権意識にまみれた今の文楽界を守る必要はない」「文楽協会に『直接意見交換したい』と言ったが、拒否してきた。市長に会う会わないに関係なく『補助金はもらえるもんだ』と勘違いしている。恐ろしい集団だ」「大衆文化が特権になってしまった。こういうところに衰退の原因がある」などと激しい語調で述べた。また、急病(脳梗塞)で入院した文楽太夫の人間国宝、 竹本住大夫に対し、「心からお見舞い申し上げます。文楽協会の一件で、心身ともに多大なご負担をおかけしたことも要因になったのではないかと案じております」とコメントした。そのとおりだろう。   1926年生まれで、戦時中から養父のもとで太夫修行(食べていけないことから、太夫になることを反対されていた)をしていた竹本住大夫は、誰よりも文楽の過去を見てきた人物であり、未来を案じる人物であった。住大夫は技芸員とともに、文楽の普及のため、大学などの数々の講座(例えば、大阪市立大学企画の<上方文化講座>)に積極的に参加している。その講演の記録を読めば、住大夫の努力の一端が窺える。住大夫には、文楽が世界無形遺産に指定されたことさえ、単純に喜べず責任の重さにストレスがたまる一方だったらしい。「特権意識にまみれた集団」の代表者とされてしまっているが、東京と違い大阪の劇場に観客が少ないことも悩み、そのような時代に大きな劇場を建ててもらい長期公演ができることにも感謝している。もちろん、商工会議所、関西経済連合会、大阪市職員(関淳一市長当時;関市長は「文楽デー」を制定)にも。「新作もしなきゃいけない」と言っている。高齢にもかかわらず、今に安住していない。自分の位置をわきまえ、感謝する心を忘れず、文楽の未来のために行動するその姿勢に私は敬意の念を抱く。   江戸時代、文楽(当時は人形浄瑠璃)興業は京都が優勢だった。それを、道頓堀を芝居の町として活性化させるために、地元の有力者が道頓堀の興行界と版元(出版社)とともに戦略を練り、京都にいた近松門左衛門を巻き込んだ結果、「大阪=文楽の本拠地」としての位置を築くことができたのである。少なくとも関市長在任時には、これと似たような、経済界、行政、文楽協会、研究業界(大学)の協力が得られていた。   橋下市長は、文楽協会や大阪フィルハーモニー協会への補助金カットだけでなく、市音楽団の廃止、中之島図書館の廃止を目指しているという。国の重要文化財に指定されている府立中之島図書館については、廃止後の活用策に関し「美術館なんかがいい。その方が建物の雰囲気に合う」と言われたという。貴重な古典籍が所蔵されており、お世話になっている中之島図書館まで、建物の雰囲気で美術館にされちゃ困ります。そもそも美術館の建物の雰囲気って、何ですか。大阪市と大阪府は、中之島図書館や、隣接する中央公会堂が立地する地域を文化芸術の重点地域としてブランド化する方針だというが、彼らの感覚からすると、非常に不安である。   観客動員数が少ないことからの、文楽協会や大阪フィルハーモニー協会への補助金カット。他人事ではない。日本国内においては日本古典文学が危機的状況である。韓国の大学においては、日本古典文学はいうまでもなく、日本関連学科(大学院も含め)自体が学生動員数の減少に悩まされている。就職に役立たない人文系の非人気学科はその存続すら危ぶまれている。橋下市長の論理では、古典芸能であれ、学問であれ、図書館であれ、お金にならなければ、保護しなくてもいいのことになる。さらに、「僕が直接選挙で選ばれているので最後は僕が民意だ」という。大阪の文化が危うい。   ----------------------------------- <韓 京子(ハン・キョンジャ)☆Han Kyoung ja> 韓国徳成女子大学校化学科を卒業後、韓国外国語大学校で修士号取得。1998年に東京大学人文社会系研究科へ留学、修士・博士号取得。日本の江戸時代の戯曲、特に近松門左衛門の浄瑠璃が専門。現在、慶熙大学校外国語学部日本語学科助教授。SGRA会員 -----------------------------------   2012年8月23日配信
  • 2012.08.08

    エッセイ345:金キョンテ「朝鮮のトラ(虎)は誰が殺したのか」

    朝鮮半島には野生のトラが住んでいるんだろうか。最近中国の放送で白頭山(中国名は長白山)のトラがカメラに映ったこともあったが、朝鮮半島にトラがいる確率は極めて低いと思われる。しかし、元々朝鮮半島にはトラが多かった。漢城(ソウル)の宮城内は勿論、海に面した南方の釜山(プサン)にもトラは出没した。韓国の全地域にはトラと関連した昔話が多く残っている。いったい朝鮮半島のトラはいつ、どうしていなくなったのであろうか。   時は1953年、韓国の初代大統領、李承晩(イ・スンマン)が非公式に日本を訪問した。対談の席で当時の日本の総理大臣、吉田茂がいきなり「韓国にはトラが多いんじゃありませんか」と聞いたらしい。そうすると李承晩は「壬辰倭乱(文禄慶長の役)の時、加藤清正がすべて捕って行ったので今はいない」と返答したという。この話の真意は疑わしいが、少なくとも、多くの韓国人がこのような(加藤清正とトラに関する)話を知っていて、事実だと思っていたから、一つの都市伝説のように広がったのではないかと思われる。だとしたら、果たして加藤清正が朝鮮トラを全部殺した犯人であろうか。   壬辰戦争(文禄慶長の役)の最中の1594年12月、豊臣秀吉の奉行、浅野長吉(長政)と木下吉隆が朝鮮に在陣中だった日本軍の武将(大名)たちに虎狩りを命じる書状を送った。秀吉の養生のためにトラを捕らえて「頭、肉、腸」何れも塩漬けにして送れ、ということだった。しかし、トラの皮には興味がなかったらしく、トラを捕らえた者に与えよと言っている。秀吉のこのような命令は忠実に履行された。武将たちに与えられた感謝状がいつくか残っているが、その一つを見ると(鍋島直茂宛)、命が下された後、即時に狩りが行われ、「皮、頭、骨、肉、肝胆」を送ったことが分かる。直茂は皮まで送ったのだ。勿論、秀吉子飼いの武将、加藤清正も秀吉の命令を忠実に履行しようとしただろう。後に秀吉は虎狩りを止めるように指示することになるが、その理由は秀吉の朱印状に書かれているように、「人など損候へハ如何候」からか、または養生に効果がなかったためか分からない。とにかく、この戦争の中で日本軍による虎狩りが行われたことは、当時の文書と共に、現在日本に残っているトラの剥製や骨などによっても分かる。   しかし、この時の虎狩りによってトラが絶滅したのではない。トラは相変わらず朝鮮半島のあちこちで出没した。朝鮮の砲手(鉄砲撃ち)は19世紀まで旧式の火縄銃で虎狩りをし、彼らの優れた腕は中国とロシアまで知られていた。   朝鮮時代―江戸時代、朝鮮の釜山には倭館という所があった。ここは日本と朝鮮の貿易と外交実務の為に設置された特殊な地域だった。ここには日本人(主に対馬人、男性)500名程度が常住していた。ここにもトラがたびたび出没した。1771年3月23日には2頭も現れた。   最初のトラが現れると、下級武士であった小平太を始めとする人々が飛び掛って、槍を突き刺して射殺した。しかし、しばらくしてまた一頭現れた。小次郎という者が鉄砲を撃って肩に当てるとトラは藪の中へ逃げた。逃げるのを見て、腰のほうにまた一発当てる。トラはたまたま開市(定期市場、朝鮮人と日本人の私貿易が行われた)に逃げた。一騒ぎの後、トラは山のほうへ逃げる。小次郎はこれを追いかける。ちょうど木の上にいた人がトラを発見して位置を知らせる。小次郎も木に登ってトラを撃とうとしたが、トラが飛びついて足を噛まれた。悲鳴を聞いた又吉が来て刀でトラの頭を刺したが、トラはなかなか小次郎を放さない。あちこちを刺された虎は、ようやく小次郎を解放したが、今度は又吉が噛まれる危機。飛んできた駕籠かきの甚介が持っていた山刀で頭を打ち、トラが倒されると、人々が飛び掛って息の根を止めた。この活劇の素晴らしさは当時、開市のため倭館に来ていた朝鮮人たちによって全国に伝えられた。   この事件は公式に東萊府使(倭館地域及び、現在の釜山地域を治めた地方官)に知らされ、翌日、褒賞の意味で白米2俵が与えられ、負傷した小次郎には「妙薬」といって鶏が4羽与えられた。日本からの褒美も5月に下されたが、活躍の目立つ5人は侍身分に上がり、名字を与えられ、名前に「虎」の字を使うことを認められた。殺されたトラの1頭は対馬に送られ、残りの1頭は焼いて食べたという。このときトラの肉を食べた小田幾五郎という通訳はその味を「老牛のように油気がない」と言ったが、食べた人たちは「何か力が湧き上がるような感じがする」と言ったとも伝えられている。   以後、近代化が朝鮮にも始まり、処々が開発されたが、20世紀になってもトラは依然として生存していた。しかし、近代化の視点から見ると、トラは大事な労働力の源泉である人命を脅かし、開発の邪魔になる妨害物に過ぎなかった。朝鮮を植民地化し、本格的な植民地開発に乗り出した日本帝国は虎狩りを進めた。「百獣の王」のトラも近代化された武器と組織による狩りには敵わなかった。トラはどんどん減り、韓国地域では1922年慶州で捕らえたトラを最後に捕獲された例がない(今の北朝鮮地域では1946年に捕らえたのが最後)。朝鮮半島の野生トラはこうして絶滅した。トラは今、動物園の中でしか生きていない。   トラと人間は同じ場所で住めない。人間の生活空間が広がり人間がトラの領域に侵入することにより、トラと人間は衝突した。トラはトラの為に人間を殺し、人間は人間の為にトラを殺した。そして、人間は残り、トラはいなくなった。   -------------------------------------- <キム キョンテ ☆ Kim Kyongtae> 韓国浦項市生まれ。歴史学専功。韓国高麗大学校韓国史学科博士課程。2010年から東京大学大学院人文社会研究科日本中世史専攻に外国人研究生として一年間留学。研究分野は中近世の日韓関係史。現在はその中でも壬辰戦争(壬辰・丁酉倭乱、文禄・慶長の役)中、朝鮮・明・日本の間で行われた講和交渉について研究中。 --------------------------------------     2012年8月8日配信
  • 2012.07.18

    エッセイ343:李彦銘「むしろ『政冷経熱』ではない日中関係―政治的な相互信頼―をまず『ワイズな市民』に期待する」

    6月20日、今年で8年目になる言論NPOと中国日報社の日中共同世論調査の新しい結果が公表された。「特に日本の対中認識が悪化しており、8割以上の人が中国に『良くない印象』を抱いています。これは反日デモが頻発した2005年を上回り、過去の調査の中でも最悪の数値です」という。   一方で、法務省のデータによると、2011年の日中の間の往復者数が延べ約499万人に達し、2007年と2010年を除く最大となった。震災があったにも関わらず中国から日本への訪問者は約133万人まで増え、2010年に次ぐ2位の数字となり、相互往来は、よりバランスがとれるようになった。その背景には日本の観光振興策によるビザの緩和と中国の経済成長があるのは言うまでもない。さらに、日本では中国語の学習者数が200万人を越えたといわれ、HSK(中国政府公認の中国語レベル検定試験)の受験者数もこここで急増している。経済面においては、2008年のリーマンショック以降、日本の海外投資が全体的に縮まるなかで、2011年の中国に対する投資は63.5億ドル(前年比49.6%増加)まで増大し、第1位となった。その結果、上海在住の日本人数もこの3年間急増している。まさに文字通りの「相互交流」となってきたわけである。   このように、国交正常化40周年という節目を迎える日中関係は、国民レベルで今までにないような身近な存在となってきた。個人、文化、経済、科学……政治と安全保障を除くあらゆる分野の交流が著しく進んでいる。ついこの間までに使われた「政冷経熱」という言葉から脱皮し、「政冷民熱」の様相へと変わりつつあるといえよう。   いや、民はまだ「熱」とまでは言えず、交流が進んでいるわりに理解がまだまだで、先の世論調査でも、国民間の相互理解には改善が見られない。過去1年でお互いに印象が良くない最も大きな理由が「尖閣問題」と回答したのは、日本では64.6%で、去年よりも高く引き続き1位である。中国ではやや低くなったが、それでも4番目の理由であった。このように、国民が政治の話題に左右されやすい状況は相変わらず日中ともに存在している。   特に日本で注目したいことは、中国に対する認識の情報源が8割を超える高い割合でテレビニュースに依存していることである。民主主義選挙政治の欠陥に関する研究に「合理的無知」という仮説がある(ブライアン・カプラン『選挙の経済学 投票者はなぜ愚策を選ぶのか』を参考)。もともと経済学から導入した概念だが、簡単に説明すると、選挙に関する情報(たとえば政策の妥当性など)を獲得するためには有権者個人は多くのコストを支払うことになる。しかし結果は公共のものになるため、個人にとってコストに見合う利益はほぼゼロである。よって有権者が「パブリック」=政治のために、余計なコストを支払いたくなくなり、自分自身の直接な利益や自らの職業に関係する分野の問題を除いて、情報を持たないように、つまり無関心、あるいは偏見を持つようになる。これは個人にとって合理的な選択である。   この仮説は、最近の日本の選挙政治のなかに位置する対中政策に正に適合している。石原慎太郎都知事の例をあげるまでもない。若手政治家もこの手の集票活動に乗り出している。一人の若手議員が国会議員を卒業し、ある県の知事選に出馬する。その矢先に彼がとった行動は、尖閣諸島へ釣りに行くことだった。彼は本当に釣りが好きかも知れない。日本国内では、全国ニュースというより地方に対するアピールに過ぎなかったかもしれない。しかし当然ながら、日本の与党議員が尖閣に行くこと自体が中国国民の中で大きな反響を引き起こした。おまけに彼は北京大学で修士号を取っていた。中国の微薄(マイクロブログ)で大きな物議を呼んでいる。   もとより、北京に長く留学した彼は、かつて「知中派」とみられていた。自分自身の行動が中国人のなかでどんな反応を引き起こすのかも理解しているはずであろう。いやむしろ知っているからこそ中国人だけではなく中国政府が何らかの反応を示すことを期待していたのではないか。もしそうであれば、「毅然とした姿勢」が、全国的にも瞬時で有名になる。個人にとっては計算高い選挙戦略である。(しかし中国政府が抑制の姿勢をとったのは計算違いだった。)   中国との関係は、当選のためにきわめて短期的に考えられている。このような例は、ほかにも少なくなく存在している。たしかにさまざまな問題を抱える日中関係にとって、「毅然とした態度」を示すのは最も単純明快で、「合理的に無知」な国民にとっては選びやすい。しかし果たして日本全体のことと外交的解決を考えているのか。   幸いなことに、日中の交流がさらに進んでいる。ますます身近なことになった日中関係は個人にとって「合理的な無知」の状況を容認できなくなる。前述の世論調査でも、日中とも8割以上の回答者が日中関係は重要だとみている。今までは「合理的無知」だったかもしれないが、市民レベルでは逆の働きが始まっているのではないか。思慮分別に富む「ワイズな市民」がより鋭い目で政治家の選別をすれば、よりよい政治家が選出され、日中の政治信頼もそこからますます大きくなると確信している。   上述のような政治家個人の行動が、ようやく二大政党制を迎えた日本の選挙政治のなか、政治家の一種の混迷ぶりだと理解している。ただ、少し心配なのは、こうした行動が同じく国内政治の激しく変動する時期にある中国の、戦略的判断の誤りをもたらすことである。それは今の政治家に任せるしかないが、今からすぐにできることとしては、個人の「合理的な無知」を克服し、「ワイズな市民」を目指すことであろう。そういう意味では、日中関係はまた市民の政治リテラシーを試す材料にもなっている。   ----------------------------------------- <李 彦銘(リ・イェンミン)☆ Yanming LI> 国際政治専攻。中国北京大学国際関係学院卒業、慶應義塾大学にて修士号取得し、同大学後期博士課程単位取得退学。研究分野はおもに日中関係、現在は日本の経済界の日中関係に対する態度と影響について博士論文を執筆中。 -----------------------------------------   2012年7月18日配信
  • 2012.07.11

    エッセイ342:シム チュン キャット「日本に『へえ~』その11:注意放送大国日本!」

    日本に来たばかりの頃、出かけるときに一番よく耳にした日本語といったら、駅で電車を待つたびに聞こえてくる、あの「間もなく電車が参ります。危険ですから、黄色い線の内側まで下がってお待ちください」という注意放送でした。日本語がまだ十分に分かっていなかったことに加え、シンガポールの地下鉄の駅ではこんな長い放送があまり流れないので、「何事か?危険?何が参るの?」と最初は緊張して聞いていた記憶があります。もちろん、慣れてくると何のことはありませんでした。普通に電車が来ただけでした。常識的なことをなんでいちいち注意するのかなと疑問に思っていた、あの頃の初々しかった自分が愛しいです。なぜなら、こんなのはまだ序の口で、日本語がだんだん理解できるようになるにつれ、注意放送が日本社会のありとあらゆる場面で氾濫していることが分かったからです。   注意放送については、日本の電車は特に親切です。電車が接近するときの「参ります」だけでなく、停車した後でも「ホームと電車の間が一部広く開いているところがあります。足元に十分ご注意ください」という優しい声が流れたり、発車する直前でも「発車間際の駆け込み乗車は大変危険ですから、無理なご乗車をなさらないようお願いいたします」といろいろ「危険」を注意してくれたりします。さらに、荷物を持っていれば「お忘れ物をなさらないよう十分ご注意ください」と、雨が降れば「傘のお忘れにご注意ください」とあったりもして、小学生だった自分が登校する前にいろいろ注意してくれた母のことを実に懐かしく思い出させてくれます。   もちろん、注意放送は電車や駅の中にとどまりません。エレベーターに乗れば、「ドアが閉まります」「上に参ります」「3階です」と、多くのエレベーターは自分の動きと働きを細かく予告放送してくれます。エスカレーターはもっと丁寧です。「ご利用の際は、危険ですから手すりにおつかまりのうえ、黄色い線の内側にお乗りください。尚、小さいお子様をお連れのお客様は、どうぞ手をおつなぎください」と、乗り方だけでなく、親子の「絆」にまで気をかけてくれます。ただ、注意があまりにも長いので、全部聞き終わらないうちに降りてしまう場合が多いことがちょっと残念です。それから、銀行のATMでお金を引き出すときも、「現金をお取りください」や「カードのお取り忘れにご注意ください」と、間髪をいれずに現金とカードの引き抜きを繰り返し注意喚起してくれます。でも、その催促のスピードが速すぎて音声も大きいので、かえって慌ててしまって手順を間違えたりする場合もあります。また、機械音声のほかに、最近では生の人間による注意アナウンスも増えてきましたね。気温がちょっと下がると、テレビのアナウンサーが「お出かけの際は、昨日より1枚上着を羽織ってお出かけください」や「風邪を引かないよう、今夜は暖かくしてお休みください」と思いやりのある注意を払ってくれたり、暑くなると「今日はTシャツ1枚で十分でしょう」や「こまめな水分補給を心がけましょう」と服装の提案と飲水の指導までしてくれたりもします。どこもかしこも本当に優しさに溢れてはいますが、何か過剰すぎておかしくはないかと首を傾げてしまうのは僕だけでしょうか。   何なんでしょうね…。この国の人々はいつもボーっとしているということですかね。注意されないと、無理な乗車をしたり、電車とホームの間に開いた隙間に落ちたり、荷物を忘れたりする人が続出するのでしょうか。注意されないと、エスカレーターの乗り方も分からなかったり、お金を引き出すために銀行に行ったのにお金を取り忘れたりする人が多発するのでしょうか。注意されないと、天気を見て何を着て出かければいいのかも分からない人が増えてきたのでしょうか。あるいは注意されないと、何かが起きたときに「なんで注意してくれなかったの?」とクレームを入れる人がいるから、保身のために注意する側もつい過保護になりがちなのでしょうか。それとも、「絆」といううわべの言葉が持てはやされるほど人間同士の関係が実は希薄になりすぎたせいで、お互い注意をし合わなくなったからこそ、いちいち機械に頼らざるを得なくなったのでしょうか。いずれにしても、こんなにも注意放送がたくさんあると、何かバカにされている?と思ってしまう僕の方がおかしいのでしょうか。   当然ながら、注意放送の中には確かに必要性があって大事なものもあるのでしょう。しかしここまで氾濫が進んでいると、どんな注意も生活騒音の一部になってしまい、本当に大事なものまでも軽んじられたり聞き流されたりしてはいないか、と逆に心配になります。というより、ほとんど誰も聞いていないのではないですか。現に、僕があらゆる駅で観察する限り、あれだけ「大変危険ですから」と駅内アナウンスが朝から晩まで注意を促しても駆け込み乗車は一向に減りません。この前なんか、発車寸前にベビーカーを押しながら駆け込み乗車をする若いお母さんがいて、案の定ベビーカーが閉まるドアに挟まってしまったという危ない場面も目にしました。赤ちゃんの安全を顧みないほど、移動時間を急がなければならない用事というのはいったい何だったのでしょうね。そういう人に危険を冒させないためにも、誰も聞かない注意放送を流すよりも、閉まるドアに電気を流して体に触れるとピリッとくるようにしたほうが無理な駆け込み乗車も減っていくのではないでしょうか。もちろん、冗談ですが。   そんなに注意放送をするのが好きならば、もっと肝心な所で注意を呼び掛けて欲しいというものです。例えば、「地震大国日本で原発の再稼働は大変危険ですから、国民の生活を守るためというような矛盾に満ちた無理な言い訳をなさらないようお願いいたします」のような注意アナウンスのほうが現実味があるのではないでしょうか。もしくは「この国の未来に関わる問題が山積しております。言った言わない、解散しろ解散しない、協議に応じろ応じない、というような非生産的な水掛け論は大変無意味ですから、おやめください。尚、国民に選ばれた義務と責任とプライドのお忘れにも十分ご注意ください」のように、然る(叱る)べき所で注意喚起をしておいたほうが有意義なのではないでしょうか。もっとも、野次が飛び交う中で誰も聞きはしないでしょうが。   ------------------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 -------------------------------     2012年7月11日配信
  • 2012.07.04

    エッセイ341:葉 文昌「台湾のビール事情」

    今、台湾ではマンゴビールとパイナップルビールが流行っている。台湾の最大ビールブランド「台湾ビール」を持つ台湾菸酒公司(昔のタバコ酒専売公社)が開発して今年出したビールで、月に50万ダース売れる大ヒット商品だそうだ。ビール会社でありながら正統ビール市場で勝負に出るのではなくビールと銘打ったカクテルで盛り上げたのにはビール造りとしてのプライドに疑問を感じてしまうのだが、何はともあれ、2005年にビールの輸入関税が0%になってから、台湾のビール市場は外国製ビールも入り乱れての戦国時代なのだ。   日本のコンビニのビールコーナーにはアサヒ、キリン、サントリー、サッポロの4ブランドが、プレミアムビール、ビール、発泡酒と違うランクの銘柄を出して競っている。一方で台湾では、国産の台湾ビールを筆頭に、日本勢はアサヒ、キリン、サントリー、サッポロ、欧米勢はハイネケン、カールスバーグ、ミラー、バドワイザー、更にその他に青島、コロナ、タイガーなどが置かれている。ビールは1987年までは台湾菸酒公司が専売だったのでシェア100%であったが、2010年には75%に下がった。それでも圧倒的なシェアではあるが、しかしそれまで専売制度で努力せずとも製品が売れていた甘い体制から自由競争に突入したので、シェア25%減と言うのは痛い打撃かもしれない。   シェア25%の外国ブランドの中では、ハイネケンがトップの13.5%で、キリンの6%、青島3-4%、そして残りをバドワイザー、アサヒ、カールスバーグ等が分けた(2011年、台湾酒訊雑誌)。第一線のビールにはハイネケン、スーパードライ、一番搾り、とバドワイザーがあり、これらの特徴はブランド国からの直輸入であり、値段も高い。量販店における350cc級の半ダース最安値を見ると、ハイネケンが350cc換算で90日本円、一番搾りが87円、スーパードライが81円、バドワイザーが86円であった。この中ではハイネケンが最も高い価格設定で尚且つ単一銘柄でありながらもトップシェアを誇っている。低価格帯では台湾ビールが69円、青島ビールが59円、キリンBarビールが72円、アサヒ乾杯が58円、サッポロビールが61円であった。これら低価格帯ビールは台湾メーカーによる代理生産か又は中国生産であった。これらの価格は日本人から見れば安いと思うかも知れないが、日本も台湾もマクドナルドでの20分間の労働分に相当するので台湾人にしてみれば安くはない。   日本では日本ブランドしか並んでいないので平和に見えるかもしれないが、台湾にいれば逼迫した世界ビールブランド競争を肌で感じることができる。一方で消費者は世界中のビールから自分の好きなビールを選ぶことができるので幸せと言えば幸せである。台湾のビール市場を経験すれば日本のビール市場が少し退屈に見えてしまう。日本でも銘柄は多く出ているものの、競争の土俵は第二のビールや第三のビールに移っている。でもこれら発泡酒は、材料も工法もビールとは異なるものの味をそれに似せる為の研究開発であって、歴史に残るものではないし、世界での競争も難しい。台湾でのビール価格から、日本のビール価格の大半が酒税であることがわかるが、消費者が酒税の安い発泡酒を求めるがために日本のビール会社の開発がそれに移っていることは残念な気がする。ビールの酒税を下げれば国民も発泡酒からビールに戻る上に、開発競争も本来のビールに戻る。そしてプレミアムモルツ、スーパードライや一番搾り等のような、世界で十分に戦える新しいビールの出現が期待できるのではないか。   ------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。 -------------------     2012年7月4日配信
  • 2012.06.27

    エッセイ340:マックス・マキト「防波堤の日本」

    昨年3月11日、大津波が太平洋側から日本列島を襲い、東北地方の海岸沿いが平らになってしまうほどの被害をもたらした。留学生関係のあるセミナーの休憩時間の雑談で、それについて思いついた仮想的な感想を、日本の西側にある国の研究者に、話題のひとつとして話してみた。それは、「日本列島がなければ、日本の西側に位置する諸国はあの津波でやられたかもしれない。日本が防波堤になった」ということだった。すると、その研究者は、この仮想を否定することもなく、「それはとくにありがたいとは思わない」と強調した。僕はその返事を聞いて悲しくなった。というのは、この研究者は、日本に長年留学し、充実した就職もできて家族と一緒に暮らしているにも関わらず、このように少し怒っているような返事をしたからである。あまりにもショックだったので、僕は残念ながら反論できなくて、国際紛争が起きる前に、日本の留学生の代表とは考えられないその研究者の前から退いた。   昨年8月、フィリピン大学の学会で発表した論文を、名古屋大学の平川均教授との共著で、労働・産業連携大学院のジャーナルに投稿してみた。およそ30年前、太平洋側からグローバル・スタンダード化の大津波が日本列島を襲い、国々の違いをなくして世界を平らにしようとしたので、大きな被害をもたらした。それについて思いついた仮想的な説を、その論文で提案した。それは、日本のような労働契約制度がなければフィリピンは共有型成長をなかなか達成できないだろうという仮説だ。その可能性を否定することもなく、ジャーナルのレフェリーは「数十年以上も失われた日本経済を、今さらモデルにするなんて」と強調した。僕はその返事を聞いて悲しくなった。共有型成長が一回も実現できていないフィリピン、その悲惨な労働事情に詳しいであろう研究者(レフェリー)にも関わらず、堂々とこのようなコメントをしたからである。   今度は、ちゃんと反論した。確かに日本経済はバブル経済が弾けてから数十年も低迷しており、成長が鈍く、格差も拡大してきたので、共有型成長のモデルとは言えなくなった。しかし、僕がフィリピンで実現してもらいたいのは、共有型成長が可能であると示した、失われた数十年以前の日本から学ぶことである。幸いにも、編集者は僕の反論を認めてくれて、その論文はジャーナルに掲載されるという通知が届いた。   3月11日の大津波が襲来したあとに、瓦礫の山が残った。その処理はあまり進んでいない。昨年7月に渥美財団で「放射能が人体に与える影響」についての話を聞く茶話会があったが、僕が瓦礫の処理を巡る懸念について質問した時に、講演者は「東電の敷地内に埋めるとよい」と答えたので、僕は思わず拍手した。最近、それに近い瓦礫の処理方法の提案を聞いた。被災地の中で瓦礫を処理するという提案である。瓦礫の山の上に土を被せて植林して「鎮守の森」を育てようというのだ(宮脇昭『瓦礫を活かす「森の防波堤」が命を守る』学研新書)。瓦礫処理と同時に、津波の防波堤にもなる。実際、海岸線にそのような森があった地区では、沢山の命が救われたという。   およそ30年前にグローバル・スタンダード化の津波が襲来したあと、日本の経済の活気と国民の安定した生活が失われた。今でもたくさんの国民が苦しんでいる。早く何らかの手を打ってほしいが、政治情勢はなかなか安定しないし、経済の建て直しはなかなか進まない。   しかし、僕は、グローバル・スタンダード化の津波に対して、日本が防波堤として頑張っていたことに感謝の意を表したい。いわゆるグローバル・スタンダードとは異なる日本の制度は、この津波に叩かれてしまったようにも見えるが、それでも、世界に別の道も実現可能であると証明したことを僕はありがたく思っている。上述のフィリピン大学の論文には、日本の大手自動車会社のデータを分析した結果、フィリピンの共有型成長に貢献していることを示した。日本からもたらされた共有型成長の種をフィリピンにしっかりと植えて大事に育てるべきである。それは、東アジアの「鎮守の森」にもなるであろう。   ※お断り:このように書いて、僕が反米だと誤解されるかもしれないが、そうではないことをはっきり言っておきたい。上述の論文では、日本と米国の労働契約制度を比較し、どちらかというと日本制度のほうが共有型成長に貢献できるであろうという結論を出した。ただ、完璧な社会制度はどこにもない。各国の制度には弱点もある。僕の今までの人生の半分はアメリカに魅了されて過ごした。今でも、アメリカが好きである。それに近い長さの人生は日本に魅了されて過ごしてきた。現在、拡大している格差のもとで多くの日本国民と同様に苦労しながらも、日本も好きである。要は、我々は、互いに違っていても、互いを尊重すれば友達になれるということである。   -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。フィリピン大学の労働・産業連携大学院シニア講師。 --------------------------     2012年6月27日配信