SGRAイベントの報告

尹在彦「第9回東アジア日本研究者協議会パネル『宗教と漢字の視点から見る日本文化の深層』報告」

 

2025年10月31日から3日間、韓国・翰林大学にて「東アジア日本研究者協議会第9回国際学術大会」が開催された。私たちのセッション「宗教と漢字の視点から見る日本文化の深層」は、大会2日目の午前9時より1時間半にわたり行われた。

 

セッションは日本文化の深層を形成する宗教、特に仏教の現状と、日中における漢字観の比較が主要なテーマで、私は企画および司会を担当、宗教については磯部美紀氏(親鸞仏教センター)が、漢字については陳希氏(中央大学)が研究報告を行った。各報告に対しては、松本悠和氏(京都府立大学)および賈海涛氏(神奈川大学)がコメントを担当した。なお、陳氏は大会直前に急遽参加が難しくなったものの、動画配信によって支障なく報告できた。

 

磯部氏は「現代日本における宗教者とナラティブ」というタイトルで現代日本の葬儀における浄土真宗の僧侶による「法話」に焦点を当て、そのナラティブ(語り)が「死者と生者」の関係にどのような影響をもたらすかを、千葉県A市の「R寺」での事例を通して分析した。

 

家族構造の変化や檀家制度の弱体化により僧侶の役割が見直される中、R寺の住職は、通夜の場などで遺族との相互行為(傾聴と法話)を通じて故人の生涯を多面的に再構成する。法話の内容は、死者を単に「失われた存在」としてではなく、「教えを届ける仏弟子」「これからの生を導く存在」として、新たな文脈に位置づけ直す機能を持つ。これにより、死別を「関係の断絶」ではなく「関係の変化」として捉え直し、死者をも含めたアクター間の関係性を更新すると指摘した。

 

このナラティブによる再構築は、死者と生者間のコミュニケーションを拡張するもので、日本文化における死生観の一端を示唆する。欧米の「自律性」重視の死生観とは異なり、死者は関係の網の目から排除されることなく、「継続する絆」として相互依存の関係を保持し続ける。

陳氏は「方法としての漢字―1950年代の日中漢字論―」で、中国の歴史学者・唐蘭と日本の言語学者・河野六郎を取り上げ、両国における漢字観の比較検討を行った。1950年代を中心に、近代的言語観への疑問からどのような認識変化が生じたのかを探ることが主眼だ。

 

報告によると、唐と河野は西洋言語学が前提とする音声中心主義に対して、文字を思考形式・文化表現として再評価し、「言語の下位概念としての文字」ではなく、文字そのものを独立した学問として位置づける「文字学」の確立を志向していた。ただ、焦点は異なり、唐が漢字における音と義の調和を強調したのに対し、河野は視覚的思考の媒体としての文字の役割を重視した。

 

また、唐が実践的改革者として活動したのに対し、河野は理論構築者としての側面が際立っていた。これらの相違は、両国の社会や時代背景の影響によるものと考えられる。このように、漢字文化圏に属する両国の学者たちは、日常的な文字体系としての漢字の可能性を改めて見出し、文化の深化に寄与しようと模索していたことが浮き彫りになった。

 

続いて討論が行われた。松岡氏は、磯部氏の研究における「法話」の機能の再定義、すなわち、死者と生者の関係を結びなおす共同的営みとしての意義を評価しつつ、研究アプローチの妥当性や「法話」のナラティブとしての射程(宗派固有性と日本文化に共通する要素)、さらに「法話」が本来的には教化(教導)である点から、相互行為として捉える際の限界や検討の余地があることを指摘した。賈氏は陳氏の報告に対し、1950年代の議論にとどまらず、現代における漢字観の変容やデジタル環境下での文字の役割といった観点を踏まえて再検討する必要性を提示した。

 

会場参加者は多くはなかったものの、最後まで熱心に耳を傾けていた。両研究報告を通じ、日本文化の主要要素としての宗教や漢字について改めて考える貴重な機会になった。テーマの専門性が高いながらも、報告者と討論者の的確な議論の展開により、参加者が理解を深めやすい構成となっていた点も本セッションの成果として挙げられる。最後までスムーズなパネル進行にご協力いただいた報告者および討論者の皆様に、心より御礼申し上げたい。

 

当日の写真

 

<尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jaeun>

東洋大学社会学部メディア・コミュニケーション学科准教授。延世大学(韓国)社会学科を卒業後、経済新聞社で記者として勤務。2021年、一橋大学大学院法学研究科にて博士号(法学)を取得。同大学特任講師、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所非常勤講師などを経て2025年、現職。渥美国際交流財団2020年度奨学生。専門は国際関係論およびメディア・ジャーナリズム研究(政治社会学)。