SGRAかわらばん

  • エッセイ537:太田美行「忖度する日本語」

    イスタンブールのホテルでの会話である。 「すみません、ベッドサイドの電気スタンドの電気がつかないんですけど。」 「はい。」 「あの、電気がつかないんです。」 「はい。・・・それで?」 「いえ、あの、電気がつかないから困っているんです。」 「・・・ああ、お客様は困っていて技術的なアシスタントが必要なんですね。」 「そうです、そうです。」 「わかりました。係の者を部屋に伺わせますのでお待ち下さい。」   フロントに電話をしたら、やけに話が通じず時間が掛かって困った。フロントの人も意地悪でそういったのでは無論なく、私の話の趣旨が掴めず困っていたのだ。どうしてこうも話が通じないのだろう。ふと、日本語教師養成講座時代の先生の言葉が浮かんだ。 「日本語は察しの文化です。外国、例えば中国南部の人に以心伝心は通じません。具体的に言わない限り多くの場合、こちらの意向は伝わりません。」   そのクラスでは「以心伝心」「察し」で通じる会話を作成する課題が出された。酒屋に「うちだけど。」「ああ、毎度ありがとうございます。午後にお届けしますよ。」とだけで注文する得意客と店員の電話のやり取り、待ち合わせは「じゃあ、いつもの所で。」誰が、何を、どこで、は明示しなくても会話は成立してしまう文化。「どちら様ですか?」「いつものを何本ですか?」などと聞こうものなら、たちまちのうちに「まったく気が利かない店だよ。」などと思われてしまう。実際、ビジネスマナー本などにも「よく電話をかけてこられるお客様の声は覚えておきましょう。お客様も喜ばれます。」といった「気の利く対応」が推奨されている。   他人の心情領域に踏み込むこと、あるいは相手に行為を直接的に促すことが日本では、失礼なことにあたるとされている。英語の直訳で「(あなたは)私に何をしてほしいですか」と言われたら、大半の日本人が違和感を覚えるだろう。他にも有名な和歌の一部を引用することで和歌全体の内容を伝えることがあるが、この場合のポイントは全文を言わないこと。直接的な要求や引用は日本ではあまりしないものとされる。   それと言わなくてもコミュニケーションが成立してしまう日本文化では、非言語コミュニケーションが発達し、大いに考慮されている。特に権力の立場にある者は誰といるか、誰に何を頼んでいるか、それ自体がメッセージなのだから慎重なものになるべきだが、どうも怪しいようだ。周囲の者は発信者の意図を察して対応する。日本語と忖度はセットで使われ、必須の相方があってこそ日本語の文章は成立する。この文を読むあなたが今そうしているように。   <太田美行☆おおた・みゆき> 東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究科修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通、コンサルティングなどを経て2012年より渥美国際交流財団に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。     2017年6月8日配信
  • エッセイ536:マックス・マキト「マニラ・レポート2017年初夏」

    2015年9月、国連は17の持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals:SDG)を定めた。その6番目の目標に「すべての人々に水と衛生へのアクセスと持続可能な管理を確保する」ということが掲げられている。これを背景として、第23回SGRA持続可能な共有型成長セミナーが、「経済的に困窮しているコミュニティのための水の統合システム」というテーマで、2017年5月7日(日)にマニラで開催された。共同主催者は、雨水利用を推進するアメコス・イノベーション社(AMECOS INNOVATION, INC.)で、自社を会場として提供してくれた。   SDGのウェブサイトには、次のような統計がある。 ・2015年の時点で、改良飲料水源を利用する人々の割合は、1990年の76%から91%へと増大しています。しかし、トイレや公衆便所など、基本的な衛生サービスを利用できない人々も、25億人に上ります。 ・毎日、予防可能な水と衛生関連の病気により、平均で5000人の子どもが命を失っています。 ・水力発電は2011年の時点で、最も重要かつ広範に利用される再生可能エネルギー源となっており、全世界の総電力生産量の16%を占めています。 ・利用できる水全体の約70%は、灌漑に用いられています。 ・自然災害関連の死者のうち15%は、洪水によるものです。   フィリピンでも水の状況はあまり芳しくない。今のままでは、フィリピンは今後10年以内に水不足が深刻な問題になり得る。不衛生な水しかなくて毎日55人が命を落としている。ボトルウォーターの使用が急増している。   SGRA持続可能な共有型成長セミナーの目標は「効率・公平・環境」の鼎立であるので、実行委員会ではKKKセミナーと呼んでいる。ちなみに、フィリピン語にしてもKKKなのである。毎年2回フィリピンで開催する共有型成長セミナーでは、1人の委員のKKKに関する研究とアドボカシー(主張)に焦点を当て、発表と議論が行われる。   第23回KKKセミナーの午前中の司会者は、フィリピン出身の元渥美奨学生のブレンダ・テネグラさんであった。彼女は暫くの間参加できなかったが、今西淳子SGRA代表の誘いで、前回のKKKセミナーから復帰してくれたので嬉しく思っている。今回のKKKセミナーの焦点は、アメコス社の社長で、元大学教授であるアントニオ・マテオ先生の雨水利用の活動であった。   マテオ先生と角田英一渥美財団事務局長の開会挨拶の後、マテオ先生が「イノベンション(発明+革新)と気候変動の影響」(Innoventions Versus Climate Change Effects)というテーマで発表した。雨水利用は家計の水道費を節約するだけでなく、気候変動によって頻繁に起きている湖水の被害を軽減できるという主張であった。水源に注目したマテオ先生に対して、フィリピン固形廃棄物管理協会(Solid Waste Management Association of the Philippines)のグレース・サプアイ会長と娘のカミールさんは、下水に焦点を当てた「浄化槽における環境に優しいイノベンション(発明+革新)」(Green Innoventions in Septic Tanks)を発表した。   ちなみに、KKKセミナーへの次世代の参加が増えていて嬉しく思っている。彼らには未来が託されているからこそ、積極的に参加してもらいたい。KKKセミナーは2004年にスタートしたが、その時から僕の兄弟たちはもちろん、姪と甥もできるだけ参加してもらうようにしている。今回も、マニラの大学の工学部を卒業した甥が参加した。別の甥は、セミナー前日の夜遅くまで仕事があったが、セミナー当日には運転手として手伝ってくれた(セミナーでは眠っていたけれど)。   サプアイ親子の発表の次に、「コモンズの管理と債務の開発のための交換 (Managing the Commons and Debt for Development Swap:コモンズとは誰の所有にも属さない資源を指すもの)についてジョッフレ・バルセ氏が発表した。彼は、100年以上も続く古いオーストラリアの「良き政府の協会」(Association for Good Government)の会長であり、セミナーのためにシドニーから来てくれた。バルセ氏は、汚職などが絡んで正しく使われなかった借入金はインフラ開発のため(例えば、水道システムの開発)に使えるようにすべきだと主張した。   最後に、フィリピン大学経営学部のアリザ・ラゼリス先生が「営利団体による水源の管理」(Water Resources Management by Business Organizations)について発表した。国連の「統合水源管理」が発表した理論的な分析枠組みを展開し、文化的要素を含む社会的な様相をその枠組みに導入しようとした。   昼食を挟んで、午後はSGRAフィリピン代表のマキトが司会を務め円卓会議を行った。他の委員のアドボカシーを事例として円卓会議の進め方を説明した後、発表者や参加者と一緒に、午前中の発表を1つずつ、5つの観点(つまり、効率・公平・環境・研究・アドボカシー)から論じた。その詳細と当日の写真は、セミナーの報告書(英文)をご参照ください。   円卓会議の後、マテオ先生にアメコス社をご案内いただいた。本社屋は多目的で、自宅でもありながら、発明用の研究室+展示施設でもある。獲得した特許はすでにご自分の年齢を上回っているほどで、「母の胎内にいた時にも発明をやっていた」と冗談を言っていた。   しかし、特許に関しては問題もある。あるフィリピン政府機関が無断で彼の発明を利用しているそうだ。知的財産の権利を守る番人でもある政府が、その役割を果たしていないのであるから問題の深刻さを物語っている。政府は国の発展のためにその発明を広めようとしているかもしれないが、さらなる発明や革新の妨げになるだろう。それでも、マテオ先生は国の発展のために発明や革新を呼びかけている。   アメコス社のプチ観光の最後に、子ども達や家族や友人たちを楽しませるために、再利用した資材を使って自分で作ったツリー・ハウス(樹上の家)に案内してくださった。マテオ先生が発明や革新の意欲を失わず、しかも、KKKセミナーの参加者とのネットワークがビジネスにも役立ったと話してくれたことを嬉しく思っている。   <マックス・マキト☆Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。SGRAフィリピン代表。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。     2017年6月1日配信
  • エッセイ535:金律里「『積弊清算』への要求―今回韓国大統領選挙について―」

    2017年5月9日(火)に行われた韓国の大統領選挙で文在寅(ムン・ジェイン)氏が当選し、韓国第19代大統領となった。   そもそも今回の選挙は、朴槿恵(パク・クネ)前大統領の弾劾で大統領が欠位になったためであった。朴前大統領は、「大統領が全国民に対し『法治と順法の象徴的な存在』であるにもかかわらず、憲法と法律を重大に違反した行為」(憲法裁判所決定文中)をしたゆえに弾劾され、現在拘置所に収監中である。   周知の通り、朴槿恵前大統領は、1963年から1979年まで執権した朴正煕(パク・ジョンヒ)元大統領の娘である。朴正煕は軍事クーデターによって権力を握り、国家主導の強力な経済発展政策を施行したが、彼に対する評価は大きく2つに分かれる。1つは、朴正煕は植民地支配とそれに次ぐ朝鮮戦争の後の貧しい韓国を、高度経済発展へと導き、現在の韓国経済の礎を築いた「偉大な指導者」である、という見方である。こういった見方の極端な例ではあるが、彼の誕生日に生誕祭を行うなど彼を神格化し崇拝する人々も存在する。他方、朴正煕は自分に反対する人々を無残に除去しながら長期執権した独裁者で、現在韓国の政治・経済・社会が抱えている諸問題は、ある程度は朴正煕独裁政権時代の過ちに起因する側面があり、よってその時代を反省して乗り越えるべきである、という見方もある。   朴正煕に対する見解は、韓国の改革派と保守派を区別する基準の1つともされ、政治家としてそれほど実績もなかった朴槿恵氏が特に保守派の圧倒的な支持で大統領となり得たのは、その親の七光りが極めて大きかった。それに加え、数年にわたる韓国経済の低迷によって、韓国経済が量的に大成長した朴正煕時代を懐かしく感じる人が増加し、経済再建を掲げた朴氏の当選に影響を与えた。   しかし、朴氏の在任期間中、韓国国民の生活はより厳しくなった。とりわけ、「3放世代(サンポセデ)」と称される青年達の生活はみじめな状況まで陥ってしまった。3放世代とは、3つをあきらめた世代という意味で、その3つは、恋愛、結婚、出産である。大学生は就職のための勉強で恋愛ができず、また就職しても給料が十分ではないため多額のお金のかかる結婚ができない。結婚はできても、住宅を購入できる十分なお金もなく共働きしなければならず、また育児や子供の教育にもお金がかかるため出産をあきらめる、ということである。この新造語は李明博元大統領の在任時期である2011年頃登場したが、言葉が表す青年たちの状況は悪化する一方であった。2017年の最低時給は6470ウォン(約650円)であるが、平均ランチ代は6500ウォン前後である。つまり、コンビニなどで1時間働いても昼食代さえギリギリなのである。   若者ひいては大多数の国民は、生活難の深刻化のうえに、セウォル号事件やMERS事件で明らかになった国民の生命さえ守れない無能の極まりを見せた朴槿恵政府に幻滅し、崔順実(チェ・スンシル)ゲート事件が起爆薬になって、大統領の弾劾に至った。   以上のような辛酸をなめてきた韓国国民は、今回の選挙で、もともと朴槿恵を支持しなかった人はもちろん、支持したことを後悔する人々も、「積弊清算」を掲げた文在寅を選択した。文氏の当選は、単なる政権交代にとどまらず、とりわけ朴前大統領の弾劾によって明確になった権威的な大統領、権力に迎合する検察、政官財の癒着などに対する改革の声であり、経済的不平等の緩和、社会的弱者に対する配慮などへの要求である。   <金律里(キム・ユリ)Kim_Yullee> 渥美国際交流財団2015年度奨学生。韓国梨花女子大学を卒業してから来日、2015年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程を退学。     2017年5月25日配信
  • エッセイ534:南衣映「平和の国で考えてきたこと」

    (『私の日本留学シリーズ#9』)   米軍基地は、ある人々にとってはアメリカ文化を楽しめる身近な場所となっている。毎年、花見と花火の季節に開かれる開放イベントでは、戦闘機や軍艦を見物し、ホットドッグやピザを味わう人々で賑わっている。しかし、そこはどうしても忘れることのできない苦痛が始まったところでもある。米兵の犯罪や事故で生命と尊厳を奪われた女性たちにとってはそうである。この事実を知らない人はほとんどいないだろう。だが、何も言えず静かに涙を流すしかなかった人々がどれほど存在していたかを知ることはできない。また、一方には、経済的な事情などの理由で兵士になったが、心的外傷後ストレス障害(PTSD)で苦しんだ末、自ら命を絶ってしまう若者たちがいる。米軍基地は軍産複合体(military-industrial_complex)であると論じられているが、それは苦痛と快楽の複合体(pain-pleasure_complex)でもあると私は思う。   米軍基地による安全保障が謳われている中で、こうした苦痛は語ること自体難しいものになっている。そのようにして、基地というのは多くの人々によって支えられている。私のように遠く離れているところに住んでいる者たちにとって、米軍基地とは何か。韓国と沖縄で基地のある日常を生きている人々の声を聞いて私はそう考えた。それからもう一度米軍基地に目を向けた。様々な人々がそれぞれ異なるかたちで関係しているこの巨大なシステムは、どのように形成されてきたか、その文化的基盤とは何かを考え始めた。具体的な事例として、東アジア最大の駐留地域である日本で、ミュージシャンによる公演活動や、FENとして知られている米軍ラジオ放送が、どのようにおこなわれてきたのかを研究してきた。このように文化を取り上げることで明らかにしたかったのは、米軍基地の明暗ではなかった。そうではなく、苦痛がどのようにして快楽と結び付くようになったかを考えたかった。そこで、第2次世界大戦期までのアメリカで何が起きてきたかを追跡してきた。   その過程で浮かび上がってきたのは、新しい史実よりも歴史とは誰の語りであるかという問いであった。資料調査中に訪れた米軍のミュージアムで、朝鮮戦争の最中を生きている少女の写真を見た。自身に銃口を向ける米兵の前で、チマチョゴリを着た少女は怯えていた。米軍はその姿をカメラに収め、「誰が敵であるかわからなかった」と伝えている。そこに写っている少女のことを、私は見たことも聞いたこともなかった。戦争は遠い過去のことのようである豊かな時代に生まれ育った私は、大学院に進学し米軍について研究をしている。だが、60余年前、私と同じところで生まれ育ったあの少女は、米兵に敵扱いされていた。この少女の姿が、韓国ではなくアメリカでこのように語られているのはなぜだろうか。   日本に帰ってアメリカで収集してきた米軍の文書を読んでいると、あるフレーズが目に入ってきた。「われわれはなぜ朝鮮で戦うのか」。戦場に派遣される兵士のため、こうしたタイトルの映画や冊子などが制作されていた。なぜアメリカの若者は朝鮮半島に来たのか。私はそのとき初めて問うようになった。戦争がどのように勃発したのか、どのように展開されたのかについては、小さい頃から聞いてきた。大学に入ってからは、戦争中に民間人の虐殺がどのように起きていたのか、米軍がその悲劇にどのようにかかわっていたかも知るようになった。しかし、米兵になった人々については考えたことはなかった。米兵はどのような思いで朝鮮半島に来たのか。アメリカの若者は、どのようにして見も知らぬ韓国人のために命を捧げるようになったのか。アメリカの青年が朝鮮の少女に銃口を向けるようになったのはなぜか。   その戦争は休んでいるものであれ、終わっていない。世界一平和が訴えられてきた国で暮らすことで、私は自身が世界一長い戦争が続いている国で生まれ育ったことに気付き、これまでの自身を振り返るようになった。それだけでなく、韓国の戦争も、日本の平和も、米軍基地という共通の土台の上に成り立っているのはなぜかを問うようになった。さらに、その土台が若者の苦悩と苦痛によって築かれてきたことにも目を向けるようになった。「基地問題」の対策が論じられても、基地というシステムが生み出す苦痛は、依然として語れないもの、聞こえないものになっている。米軍基地について何が見えても何は見えづらいのか。何が聞こえても何は聞きづらいのか。日米韓同盟の強化が推し進められる昨今の様子を見ると、平和なんて無理だという思いがしなくもない。しかし、他に選択肢があるのか。戦争による苦痛に満ちている社会で生まれ育った私は、やはりそう思うしかない。なかなか難しいものであるからこそ、平和は研究に値する対象ではないかと思う。   <南衣映(ナム・ウイヨン)Nam, Euiyoung> 東京大学大学院情報学環特任研究員。2006年、韓国ソウル国立大学社会学科卒業後、国費留学生として来日。2014年、東京大学大学院学際情報学府博士課程満期退学。19世紀後半以降のアメリカが軽武装国家から軍事大国へ変貌してきた過程を視野に入れ、第2次世界大戦以降の東アジアにおけるアメリカナイゼーションを考察している。       2017年5月18日配信
  • エッセイ533:林泉忠「『習・トランプ会談』から見えたトランプの胆略と手腕」

    (原文は『明報』(2017年4月10日付)に掲載。比屋根亮太訳)   片方は権力が一極集中した毛沢東以来の中国最強の指導者。もう片方は「アメリカを再び壮大な国としての勢いを取り戻そう」という建国以来最も尋常ではない「超異種」の大統領。このユニークな個性を備える2人の、数十年に一度あるかどうかの大国の指導者のめぐり逢いにより「庭園サミット」が演出され、それだけで国際メディアの注目を引くには十分すぎるほどであった。それにとどまらず、今回の米中元首による会談の重要性を事前に評論するものも現れ、冷戦期1972年2月の共和党のニクソン大統領による歴史的な北京訪問と重ねて議論する者もいた。しかしながら、大きな注目を浴びた「習・トランプ会談」にもかかわらず、「実質上の成果を得られない」まま終了した。   〇トランプ氏が手堅く戦略的高得点を得た   なぜなら、2日間の「習・トランプ会談」は、火花が散ることも、これといって目立ったニュースもなく、インタビューに訪れた多くの国際メディアの記者たちは、トランプ氏の孫娘による中国語の歌『茉莉花(ジャスミン)』に注目をせざるをえなかった。あるいは、報道の焦点を会談期間中に起きた、アメリカのシリアへの軍事行動へと迅速に移さざるをえなかった。しかしながら、もしトランプ氏が今回の習近平氏訪米全過程を、細かくアレンジしていたとするならば、我々は、トランプ氏の「能ある鷹は爪を隠す」という能力を暴くことが出来なかったということになる。トランプ氏は人を唸らせるほど大胆な知略と手腕に富んでいたことになるだろう。そして今回の、尋常でない米中サミットに伴う2大指導者による外交の力比べにおいて、言うまでもなく、トランプ氏が最初から最後までずっと戦略的主導権を握っていたと言えるだろう。   まず初めに、トランプ氏が先手を取ったのは、米国がホスト、中国がゲストという地位関係である。45年前はニクソン氏自らが、新中国を巧みに手なずけし、それをもってソ連を牽制するという目的で、千里はるばる見知らぬ「共産中国」を訪れた。毛沢東は落ち着きはらい、自信たっぷりな様子で、「米帝国主義のボス」を出迎え、明確に、威張り腐った「ソ連兄貴」へ見せつけた。この奇妙な米中ソの世紀の外交ゲームにおいて、「東風が西風を押し倒す」をスローガンに掲げていた毛沢東が勝利をおさめ、その傍らで面子をも取り戻した。   しかし今回は、ホワイトハウスの新たな主人であるトランプの主導のもと、習近平氏の訪問が「アレンジ」され、更には、もともとは7月に予定されていたスケジュールを4月上旬に早めさせた。国内では権力を集中させ、13億人もの人口を抱える大国の習近平氏は、時間の調整を急がせざるをえず、予定を早めてこちらの「不確実性」に溢れたアメリカ新大統領に会いに来た。時間と場所のアレンジ、どちらか一方だけをとっても、今回の一幕においてトランプ氏は容易にいち早く主導権を握っていた。   2つ目は、「習・トランプ会談」前の3か月ほどの間に、トランプ氏はありとあらゆる手を尽くして、米中関係の為すべき事柄全てをシュミレーションし、中国国内において早い段階からすでに「核心」的「スーパーストロング政治家」としての印象を持たせ、習近平氏が対抗できないほどにトランプ氏に引き回されていた。トランプ氏はまず去年12月2日に慌てず騒がず落ち着いて「蔡英文からの電話を受け」、更に2、3発続けて、「もし中国が経済貿易と南シナ海の議題において譲歩しなければ、アメリカは『一つの中国』政策を堅持するとは限らない」と言い放った。   言うまでもなく、トランプ氏とその官僚たちは、北京が最も気にかける「一つの中国」と「台湾問題」、これらの「核心」的利益について熟知しており、したがって、就任前から「台湾カード」を出して取引を行った。そして2月9日の習近平氏との通話中には、一変して「アメリカは『一つの中国」』政策を尊重する」とし、北京からの「高い評価」をうまく引き出した。北京のトランプ氏に対する基軸は、誰にも気づかれないうちにいつのまにか「不確実性を減らす」ということに固く設定されていた。中国だけに止まらず、この点に関して、トランプ氏は依然として、相手の頭をくらくらさせ方向を見失わせることを楽しんでいる。   今回の米中力比べにおいて既に優勢であったトランプ氏は、一方では、習近平氏の訪問を熱烈に歓迎する姿勢を見せ、もう一方では、「習トランプ会談」前夜に、もし北京が北朝鮮を有効に抑え込むことに協力しなければ、アメリカは「単独行動」を採ると単刀直入に言い放った。以前オバマ氏は、北京に「取り換えが効かない」影響力を発揮して欲しいと終始懇願し、北朝鮮に圧力をかけようとしていた。しかしながら、トランプ氏は、一方では、北京に対して、中国の北朝鮮に対する影響力が大きいから、それを取引の材料として、トランプ政府との駆け引きができると勘違いして誤った判断をしないようにと促し、もう一方においては、北朝鮮から地理的に遠いアメリカではあるが、依然として世界の指導者であり、トランプ政権下のアメリカは国際的な懸念に対してはさらに決断力をもって処理していくと、北京をたしなめた。突然「攻撃を受けた」北京は、まだ何が起きているのか理解できていないまま、「習近平訪米前の良好な雰囲気づくり」の目的のため、早い段階から北朝鮮への石炭の輸出を一時的に禁止し、身の程をわきまえて国連決議の執行を宣言していた。   〇トランプ氏、超大国指導者の対応能力を示す   骨折り損のくたびれ儲けの「習・トランプ会談」劇場は、4月6日予定通りトランプ氏の別荘があるマー・ア・ラゴにて、鮮やかに始まった。習近平氏はこの地に約20時間とどまり、すべての中国メディアはまじめに「習大大」(シー・ダーダ)の訪米の詳細を一つ一つ報道評論した。トランプ氏は、一方で、習近平氏を自然体で夫婦で出迎え、同時に、もう一方では、慌てず騒がず落ち着いて、シリアに対する軍事行動を挙行した。習氏に対して超大国の指導者の並外れた対応能力を見せつけたのだ。   実は、当日の午後、庭園に向かう途中の飛行機の中でもまだ、トランプ氏は国防省とテレビ会議を行っており、午後4時マー・ア・ラゴに到着後、大統領は、即座に国家安全会議を招集し、軍事行動という重大決定を下していた。晩餐会は6時半に正式に始まり、トランプ氏は、何事もないような笑顔でリラックスした様子で、「われわれは長時間の話し合いをしたが、未だに何の成果も得られていない」と表明した一方で、7時40分、米軍はシリアへ59発のトマホークミサイルを発射し、トランプ氏は宴席の間も引き続き国家安全会議の役人の進展報告を聞いていた。そして晩餐会が終了する8時半前、トランプ氏は慌てず落ち着いた様子で宴席上の習近平氏にアメリカの今回の軍事行動を伝えた。しかしながら、この前にアメリカは、ロシアとアメリカの同盟国には、このことを伝えていた。習近平氏は、これに対し「理解を示す」しかなかった。   「習トランプ会談」終了後、中国外交部の役人は慣例に則り、習近平氏の今回の訪米の「非常に大きな成果」を声高々と強調し、双方がいわゆる外交安全対話、経済問題に関する全面的な対話、ネット・セキュリティに関する対話、および社会と人文交流に関する対話という、4つの対話メカニズムの構築を宣言した。実際は、米中間において、内部の者は、各種対話メカニズムが不足していないことを皆知っているが、これらの気まずさを隠すための自己肯定は、逆にやられた感を増すどうしようもない表情として写った。   〇トランプ氏、指導者としての風格を見せ、人々のこれまでの見方を一変させ重視させる   完全にトランプ氏の脚本によって演じられた「習・トランプ会談」は、トランプ氏のアメリカ国内での名声を上げ、「オバマケア」排除等の国内政策上困り果て挫折しそうな表情をさらけ出していた状況を一掃し、外交領域での成功をおさめリベンジを果たした。その中でも特に、トランプ氏が見せた外交手腕とユニークな指導者としての風格は、この実業家ファミリー出身の「政治素人」に対して、馬鹿にするような目で見ていた多くの人々のこれまでの見方を一変させ、重視させるようになった。今回の「大がかりなトランプ劇場」に理由なく共演役を務めさせられた中国において、北京のブレインは、今回の授業によって、改めてトランプ氏の物事の処理にあたる風格、指導者としての才能と手腕を研究し理解する得難い機会を得、それを経験として取り入れ、それらがトランプ新時代の「不確実性」の序幕への対応となるだろう。   <林 泉忠(リン・センチュウ)☆ John Chuan-Tiong Lim> 国際政治専攻。2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員、2014年より国立台湾大学兼任副教授。     2017年5月11日配信
  • エッセイ532:林柏俊「八田與一先生、すみません」

    4月16日の夕方、長い海外出張から戻ってほっとしたその時、テレビの速報で八田先生の銅像が破壊されたニュースを見てびっくりした。翌日、日本の友人にすまないとLINEでメッセージを送ったところ、群馬県の40代のA君から「ニュースで見た。ひどいことをする人がいるものです」との返事が来て、A君のがっかりした顔つきが僕の頭に浮かんだ…。   犯人は警察に逮捕されたが、動機といきさつを犯人自身がFB(フェイスブック)で語ったところによると「八田氏の台湾での貢献に関する歴史評価を認めることができない。数年前から計画していた」とのことだった。それに対して、台湾駐日本代表の謝長廷氏は東京で「八田氏が台湾人に危害を加えたことはない。彼は政治家ではなく水利土木技師であり、反日の対象にはなり得ない」と発言した。一方、5月8日に「八田先生の追悼会」が行われる予定であり、民間の嘉南農田水利会(組合)と奇美博物館は速やかに協力を表明し、大至急銅像の修復を行うと発表した。追悼会に間に合うよう、現在も修復を急いでいる。   台湾南部の人と我ら日本留学組は、八田先生を大変尊敬している。この方の偉業が、最近の台湾内部の政治紛争に巻き込まれてしまったことは非常に遺憾である。特に八田先生の家族と今まで台湾を応援してくださった日本の友人に対して大変申し訳ないと、深く心が痛む。   いばらの道ともいえる120年の複雑な歴史の流れの中で、日本と台湾は今までにない友好的な関係を築き、強い信頼で結ばれたパートナーとなった。これは言うまでもなく、先人や先輩方の、多方面にわたる命がけの努力の上に築き上げられたものである。   この事件をきっかけとして、台湾と日本の友人は次のことを真剣に考えるべきだと思う。   (1)先人達が残した重要な資産について学び、再認識すべきである。例えばダムなど国土を支えている建造物、鉄道や道路などの交通システム、戸籍などの政治制度の背景を、両方が互いに学ばなければならない。   (2)様々な歴史を背負ってきた日台関係は平たんなものではなかったにもかかわらず、益々緊密かつ有効的なものになっている。宿命ともいえるこの関係について、その理由を理解しようと努めるべきである。   ただ観光に来るだけではなく、一段と日台関係の歴史と未来について考え、理解を深めるべきだと呼びかけたい。台湾には「打断手骨、顛倒勇」ということわざがある。折られた腕はさらに強くなるという意味だ。この事件によって我らはよい教訓を得たが、今後もまた何らかの事件が起こるかもしれない。   日台の絆は、はかり知れないほど貴重な宝である。日本人と台湾人にとって共有の無形資産と言えよう。やはり皆が一緒になって、雲上の八田ご夫妻のご恩にふさわしい絆を守り、着実に次世代へとバトンタッチするよう努力すべきである。   さて、話を戻して、僕はこの文章と次のメッセージをA君に送るつもりだ。   「大丈夫。安心してください。日台の絆は簡単に引き裂かれるものではありません。また台湾で一緒にお酒を飲んで、おいしい料理を食べましょう。」   〇筆者による補足説明   八田與一(はった・よいち)先生は、1886年石川県に生れ、1910年東京帝国大学土木工学科を24歳で卒業後、台湾総督府の土木技師に就任し、初めて嘉南平野の水利問題を調査、後に烏山頭ダムと嘉南大シュウを計画、建設して、荒地を良田に変えた貢献者です。 1920年に外代樹(とよき)女史を烏山頭の任地に妻として迎えて居住。1942年政府の派遣でフィリピンに赴任した時に、運送船の大洋丸が米軍の潜水艦の攻撃を受けて殉職。遺骨は同年台湾烏山頭墓地に納められ永眠されました。妻の外代樹女史は、終戦後日本への引き上げ前に、夫の後を追いダムに投身、情愛の厚い大和撫子に台湾の人は感動しました。 ダム施工中、病気などで死難した134名の殉職者を、日本人(統治者)台湾人(植民者)の区別なく殉職時の順で慰霊碑に姓名をきざみこんだ事に台湾の人も感服しました。 この恩典に感謝するため、1930年に「八田の友会」が組織され、日本の有名な彫刻家都賀田勇馬に銅像を依頼して翌1931年に烏山頭ダムに建立しましたが、第二次世界大戦末期の金属徴収令を避けるため、嘉南の人々が命をかけて、密かに銅像を現在の隆田駅の倉庫に隠しました。戦後、蒋介石政権の反日感情を懸念して嘉南水利組合の決議で私人住宅に移され、数十年を経て政治情勢の緩和にともなって、1981年に現在の烏山頭八田塚前に再び建立された次第です。 毎年5月8日の命日には「八田の友会」を開催し、八田家の子孫親友と共に追悼会を行っています。   <林柏俊 Bob Lin> 家族と祖父の日本人の友人のお陰で、1977年(15才)から名古屋に渡り、名古屋市立菊井中学を卒業。更に1年10カ月程の日本語の学力で高校入試にのぞみ、名古屋市立北高等学校に入学。高校2年生の時に(1980)アメリカに留学。南カリフォルニア大学で学士、経営修士(MBA)を習得。カリフォルニア州の公認会計士の免許取得後、1990年に台湾に戻る。現在は共益水泥製品廠/金匡国際(股)社長、台湾外貿協会WTO_GPA全球採購商機専案顧問等を務める。また、台日文化経済協会の理事として日本と台湾との民間交流の活動を支援している。       2017年5月4日配信
  • エッセイ531:林茜茜「住みにくい人の世」

    「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」夏目漱石の「草枕」の有名な冒頭の言葉である。同じく「人の世」に属しているため、「住みにくい」と感じる点に関しては、たぶん中国も日本も大して変わらないだろう。しかし、やはり文化の違いがあるので、どうしても感じ方には相違が生じる。   日本に来てあっという間に5年が過ぎた。この5年間で、日本に対する認識も少しずつ変わりつつある。日本へ留学する前に、日本のドラマやバラエティ番組を見たことがある。特にバラエティ番組における女装タレントたちの活躍ぶりを見て、大変驚いた。その時、私のなかの日本は、女装タレントも差別されることなく、自由にメディアに出られる開放的な国であったのだ。   実際に日本へ来て、テレビを見る機会は前よりだいぶ増えた。いつの間にか、朝起きたら、まずテレビをつける習慣が身に付いていた。午前中、ほとんどのテレビ局が報道番組をやっているが、番組で中国のこともしょっちゅう俎上に載せられる。しかし、日本のテレビで報道されている中国のイメージは、かなり偏っている印象をどうしても受けてしまう。例えば、中国のどこかでまた世界遺産を模倣した建築物が作られたとか、修復時に「万里の長城」の表面がコンクリートのようなもので平らに塗り固められたとか、珍事件ばかりが報道される。それを見ていると、やはり違和感を覚える。結局、中国に対する日本人の今までのステレオタイプと一致するネタだけが選択されているのではないか。その点について物申してみたい。   もちろんニュースで取り上げられた珍事件が実際にあったことは、揺るぎのない事実である。ただし、日本側の報道には、中国人全員がそれらの珍事件を違和感なく受け入れているような印象を与える傾向が見られる。そうすると、日本人の中国に対するイメージは、ますますステレオタイプ化されてしまうことになる。実際は中国においても、それらの事件に対して批判的な態度を取る人が大勢いることを、より多くの日本の方々に知ってもらいたい。中国のことをより的確に知りたいのならば、多様な中国人の声を意識的に聞く工夫が必要だと思う。   日本で生活してみて、もう一つ気になった点がある。日本では中国の言論統制がよく話題にされるが、しかし日本は本当に言論自由な国といえるのだろうか。確かに日本では国民が自由に発言できる権利をもっている。しかし、発言に不適切な言葉が一箇所使われるだけで、発言者はすぐ強く叩かれることになる。そうすると、人々はどうしても慎重に言葉を選び、しかも無難な発言をするようになってしまう。このような空気が蔓延すると、環境がますます窮屈になり、言論の自由も次第に奪われてしまう気がせざるを得ない。もちろん言葉に責任を持つべきだとは分かるが、しかし細かい言葉遣いの一箇所よりも、もっと発言内容の全体に目を向けてもらいたいとつくづく思う。   およそ5年前、上海で日本人の女性Aさんと知り合ったが、彼女は中国人の男性と結婚して、上海でおよそ8年間暮らしていた。中国語で値切れるほど中国の生活になじんでいたので、本当にタフな方だなあと思った。約2年前に旦那さんの仕事の関係で、Aさんは再び日本へ戻って暮らすことになった。ちょうど1週間前に、久しぶりに彼女に会ったが、なんとあのタフなAさんの口から「中国に戻りたい。日本は怖くて住めない!」という言葉が出た。その理由を聞くと、どうやらこの前、ある女性タレントが不倫のため、世間から厳しく叩かれ、一時期芸能活動を休業にまで追い込まれたのを見て、現在の日本がリンチ社会になっていると感じ、恐怖を覚えたらしい。もちろんそのことに対して異様さを感じた人は日本にも多くいるはず。私もその一人である。ただし、長年中国で暮らしたことのあるAさんだからこそ、そのことに対する違和感をよりいっそう敏感に感じ取ったのだと思う。   確かに「人の世は住みにくい」。しかし、この住みにくい人の世を少しでも住みやすくするには、やはり窮屈だと感じた社会の全体を見直し、改善する必要があると思う。改善の時期はいつであるかと聞かれると、答えは1つしかない。それは「今でしょ!」   <林茜茜(リン・センセン)Lin Qianqian> 渥美国際交流財団2016年度奨学生。2013年4月に早稲田大学教育学研究科国語教育専攻に入学し、2017年3月に博士学位を取得。日本近代文学、中日比較文学を中心に研究している。     2017年5月4日配信
  • エッセイ530:チョ・アラ「批判的思考について」

    韓国の教育制度の問題と言えば、多くの韓国人は「注入式教育(詰め込み教育)」を思い浮かべるでしょう。その注入式教育の弊害は、批判的思考が難しくなることです。批判的思考のためには、ある情報を得た時そのまま信じ込まずに、その情報が本当に正しいかどうかを自分で確かめようとする「努力と時間」が必要です。しかし、今のように情報が溢れる時代には、批判的思考によってある情報が事実なのかどうかを判断することが容易ではありません。   この数か月、政治的、社会的に大きな衝撃を与えた朴槿恵元大統領と親友のスキャンダルで、韓国は毎日大騒ぎでした。連日驚きの事実が明らかになったため、私はネットで韓国ニュースメディアの報道と、この事件を報じる日本のメディアの様子を観察してみました。特に残念に思ったのは、韓国で既に明らかになっている事実関係を十分に把握していないまま、恣意的な解釈をする専門家やコメンテーターが少なくなかったことです。その解釈を受け、一部のパネリストたちと番組の司会者はまた事実とは程遠いコメントをします。例えば、朴氏の罷免について、ニュース番組やワイドショーに出演したコメンテーターが「まだ具体的な証拠も出ていないし、大統領が自分の疑惑を否定していることを理由に、『憲法違反』との判決が下ることはおかしい」と発言するのを聞いたことがあります。   しかし、この発言は多数の韓国国民の認識とはかけ離れています。韓国の憲法裁判制度は一般の裁判とは違い、「憲法の精神に基づく責任」が問われる政治的な色彩が強い裁判です。法律に比べると憲法は曖昧なところが多いけれども、その分弾劾は国会の3分の2以上の賛成という厳しい条件を必要とします。朴氏が捜査を拒否する間、嫌疑を裏付ける証拠は毎日のようにメディアに報じられ、その一部の事実は検察と特別検察の公訴状にも記載されました。なお、弾劾に賛成する世論は昨年12月から今年の2月まで一貫して70~80%を維持したのですが、朴氏の弾劾には何回か危機がありました。それに憤りともどかしさを感じた国民が、冬の寒さの中で広場に集まって、20回以上の平和的な集会が開催されました。証拠のない世論裁判によって罷免されたのではありませんし、同情される理由もないというのが多数の国民の意見なのです。   言論NPOの世論調査によると、韓国についての情報源を問う質問に、日本のニュースメディアと答えた比率は2015年には94.3%、2016年には92.1%でした。新聞やテレビニュース、或いはワイドショーの視聴者が、事実と違う専門家の意見を批判的思考なしにそのまま受け入れてしまえば、視聴者の目に韓国は法の支配が崩壊した国、国民の感情に振り回される国、ややもすればデモをする国に映るでしょう。集団的自衛権の行使容認と安保法制の成立以降、「日本が軍国主義に戻ろうとする野心を示した」と主張する一部の韓国と中国の報道に、日本の国民が同意できないと感じるのと似ているかも知れません。   経済交流、人的交流、文化交流が進む中で、何故日韓関係はなかなか改善しないのか、そして日韓の国民のお互いに対する親近感は何故なかなか強くならないのか。不幸な過去の歴史から生まれたいろいろな問題がネガティブな相互認識を形成する根本的な原因ではありますが、これを拡大させる「今現在のメカニズム」もやはり存在しています。日本ではネットで韓国のニュース記事の日本語翻訳を見つけることができます。同じように、ユーチューブでは、ハングルで「朴槿恵 弾劾 反応」と検索してみると、朴氏の弾劾を報じる日本のニュース番組やワイドショーにハングルの字幕を入れてアップロードした動画がたくさん出てきます。日本のニュース記事の下にあるコメントや2chなどの利用者のコメントを丸ごと韓国語に翻訳して韓国のウェブサイトにアップするケースも少なくありません。   反対の場合も同じですが、日本の韓国専門家やコメンテーターが韓国の状況について不確かな情報、或いは事実関係が間違った情報を生産し、それが批判的思考のフィルタリングなしで日本の国内に発信されると、それが韓国語に翻訳され、その情報が速いスピードで韓国国内に拡散するという意味です。そうなると、韓国の人は「韓国のことを知らないくせに、とんでもない捏造をする」と日本の社会に対して強い不満を感じ、日本のことをそんな風に決めつけてしまう可能性もあります。   私は日本でこの状況を観察しながら、専門家の役割についてよく考えるようになりました。今のように情報が溢れている状況では、批判的に情報を受け入れることが大変難しくなります。そうなると、情報を受容する側が簡単で分かりやすい情報、或いは専門家が発信した情報に依存する可能性が高くなります。研究者なら皆そうだと思いますが、とりわけ他の国の政治や社会問題について研究し、その成果を発信する立場にある人なら、現在のメディアとネットの環境に格別に注意を払う必要があります。   韓国と日本は似ているようでも、日韓の社会の歴史的流れ、特に民主主義体制を作ってきた経験に違いがあります。この違いが、実は国民の認識と行動に大きな影響を及ぼしてきたと私はみています。それに加えて、現在のメディアとネット環境の中で、現状の断面だけを見て相手について早まった判断をしてしまえば、両国国民の相互認識はこれからもっと悪化すると思います。この理由から、研究者と専門家の責任、そして情報を受け入れる側である市民の批判的思考の能力も、以前よりも強く求められると考えています。   <チョ・アラ(曺娥羅)CHO Ahra> 渥美国際交流財団2016年度奨学生。韓国・国立ソウル大学国際大学院国際地域学専攻で修士号を取得後、同大学院博士課程在学中。研究のテーマは、日中関係及び東アジア国際関係というコンテクストの中での安全保障や海洋秩序の問題。現在は慶應義塾大学の准訪問研究員としてフィールドワークを行いながら、中国の海洋進出が日本の防衛政策に及ぼした影響について博士論文の執筆に取り組んでいる。     2017年4月20日配信
  • エッセイ529:金崇培「名称の国際政治学」

    政治学の定義に対して、多くの見解があるだろう。しかし、分析対象の権力構造を明らかにすることが政治学の目的の一つであることは否めない。また、政治学の応用分野でもある国際政治学は20世紀に誕生したが、この学問領域における大きなテーゼは戦争と平和であった。ただし、近年の国際政治学は国家間関係だけでなく、経済領域、市民社会や文明、文化など多岐にわたる領域に対しても関心を抱く。そして事物の名称の起源や伝播を追跡することもやはり国際政治学的観点から考えることができるであろう。   1945年の日本の敗戦は米国によるところが大きかった。また共産主義というイデオロギーの表象でもあったソ連の対日参戦も少なからず日本の降伏に影響を与えたという学説もやはり考慮しなければならない。ただし、太平洋だけでなく、日本軍はアジア大陸でも戦っていたのであり、日本を取り巻く戦争においてアジアの要素も見逃してはならない。アジア・太平洋戦争という名称は、戦争の性格をより正確に表出しようとした日本の研究者たちの思考の結果でもある。   もちろん大東亜戦争、15年戦争、太平洋戦争など、日本のイデオロギーまたは日本のイデオロギーを拒否した米国の視角を簡単に排除することもできない。その時代に伝播された名称は自然発生的ではなく、何らかの意図が作用していたからだ。鶴見俊輔は1931年の満州事変から1945年までを15年戦争と提唱した。ただし1933年には、満州事変の停戦協定である塘沽停戦協定が締結されたため、物理的な衝突が継続されてはいなかった。しかし、この名称は天皇制ファシズム、国家独占資本主義という日本国内の政治経済的構造に注目したという点で、依然として日本の学界において意味をなすものである。   戦争の名称を取り巻く論争に比べ、戦争を公式的に終了させる平和条約の名称は論争的ではない。しかし平和条約の名称もまた何かしらの意味をもつ。例えば、1919年に締結されたヴェルサイユ平和条約の英文正式名称は「Treaty of Peace between the Allied and Associated Powers and Germany」である。それにもかかわらず、今現在多くの国ではヴェルサイユという名称が一般的に使用されている。これは長い平和条約の名称を簡略化させるものでもあるが、ヴェルサイユ平和条約が締結された場所がヴェルサイユ宮殿であったことを再認識すべきでもある。   普仏戦争において、戦勝国であったプロイセンの皇帝ヴィルヘルム1世は1871年、ヴェルサイユ宮殿において戴冠式を行い、統一ドイツを宣言した。ドイツはこの戦争の結果、フランスに対して賠償金を要求し、アルザス=ロレーヌ地域を獲得した。これによりフランスではドイツに対する報復主義(Revanchism)が高揚した。当時フランスの議員であったクレマンソーの記憶と経験は、1919年に第一次世界大戦の敗戦国となったドイツに対して、過酷な懲罰へと繋がった。ヴェルサイユ宮殿での条約締結もやはり国際政治の権力構造を表している。   戦争と平和が主要テーゼである国際政治学において、日本と韓国で使用される名称は、どのように把握されるべきであろうか。1897年、高宗は朝鮮の国号を変え、大韓帝国の樹立を宣言した。大韓とは馬韓、辰韓、弁韓の領域を三韓として統合し、これを治める大きな韓を意味した。しかし1910年の韓国併合条約により大韓帝国は日本に編入された。韓国併合条約が発効された同日に日本は「韓国の国号を改め朝鮮と称するの件」という勅令を発令し、これにより大韓帝国を国家でない朝鮮という名称に変更した。   また、1897年に誕生した大韓帝国内における新聞では、少なくとも1900年には韓半島という地域名称も使用されていた。一方、大韓帝国成立以降1910年までの日本外交文書を見ると、大韓帝国という正式名称よりも、韓国が最も多く使用され、時には、朝鮮という名称も混用されていた。そして地域名称である韓半島という名称もやはり点在していたが、朝鮮半島という地域名称の使用は見られない。   1950年6月25日に勃発した戦争を韓国では韓国戦争または6.25戦争という。しかし日本では1950年当時、朝鮮動乱、朝鮮事変、朝鮮戦乱という名称があったが、今現在では朝鮮戦争が定着している。日本で使用された名称に共通するものは朝鮮であった。現在も日本で使われている地域名称である朝鮮半島とはおそらく朝鮮(1392-1897)だけでなく、1910年に日本が大韓帝国を朝鮮と命名したことと関連性があるであろう。   日本と韓国で今現在、政治的論争となっている特定名称とは異なり、日本で使用される朝鮮半島という名称を韓半島とすべきと、名称を論争化させる必要はない。ただし、ある名称の誕生が、いつどこで、どのように作られ、その名称に内在化されている権力構造を把握することは必要であろう。戦争と平和の国際政治学の領域に併せて、植民地問題の意味を再考する日韓関係の国際政治学が要求される。   <金崇培(キム・スウンベ)KIM Soongbae> 政治学専攻。関西学院大学法学部法律学科卒。韓国の延世大学政治学科にて修士号、博士号を取得。現在、延世大学統一研究院専門研究員。研究分野は東アジア国際政治史。在日韓国人三世。     2017年4月13日発行  
  • エッセイ528:中西徹「Noli_Me_Tangere(我に触るな):ドゥテルテ流民族主義的外交政策の背景」

    ロドリゴ・ドゥテルテ氏は、2016年6月末、一部の現地マスコミの「期待」を裏切り、しかし、大方の予想通り、第16代フィリピン大統領に就任した。選挙における得票率は4割程度だったが、現在の支持率は80%を優に超える。私の周りでは、選挙時には、極貧層から富裕層まで、ドゥテルテ氏を嫌う者は少なくなかったが、その後、彼の統治によって、マニラでは凶悪犯罪や収賄は激減したとし、ドゥテルテ氏に対する評価を変えた者も少なくない。たしかに、その感覚は実感できる。   ドゥテルテ人気の理由の一つは、しばしば指摘される彼の家父長的力強さだけでなく、その来歴にもあるように思われる。彼は、東ビサヤ地方のレイテ島で生まれたが、マラナオ族系と中国系の血筋を引き、身をもってマイノリティの立場を理解している。子どもにはイスラム教徒と結婚しているものもおり、イスラム社会、華人社会との接点を有する。これらのマイノリティ社会の人々の多くは、大統領選でドゥテルテ氏を支持した。彼の地盤はイスラム問題を抱えるミンダナオ島のダバオ市だ。左翼思想に触れた大学時代を除き、首都マニラとは無縁であり、中央の経験がない。法科試験合格後は、ダバオ市において、検察官を10年、ダバオ市長を22年間務めた。さらに、父も弁護士だったとはいえ、旧エスタブリッシュメントとは接点はなく、その生活は質素である。70歳を超えた彼には、フィリピンを再建した英雄になるという名誉欲はあったとしても、歴代の大統領にありがちだった「物欲」は感じられない。彼は、大学時代の恩師である共産党設立者のホセ・マリア・シソンの支持を受け、複数の左派系の人材を閣僚に任命した。   しかし、このような高い国民的支持にもかかわらず、欧米における評価は芳しくない。彼の悪名を国際的に轟かせたのは、公約「麻薬撲滅戦争」における,いわゆる「超法規的殺害」(extrajudicial_killings)である。売買関与しているとされる公職者のリストを公表し、自首しなければ命はないものと思えと呼びかける。警察だけでなく、自警団までもが常習者のリストを用いて摘発に精を出し、投降しなければ売人を銃殺する。新聞報道によれば、十分な取り調べのないまま殺された者も少なくない。大統領就任後3ヵ月の間に、3千人を超える「麻薬犯罪者」が道端などで超法規的に処刑された。フィリピンでは死刑が廃止されているが、麻薬犯罪については大統領のお墨付きなのだ。こうした実態が欧米の非難を浴びた。タイム誌はドゥテルテ氏のことを「処刑人」と呼び、人権NGO団体だけでなく、アメリカもEU諸国も、その「非人道的行為」を厳しく批判した。しかし、ドゥテルテ氏は、全ての批判者に悪口雑言の限りを尽くし、決して政策を変えようとはしない。   たしかに、欧米の価値基準からすれば、このような振る舞いは、デュー・プロセスを踏まない非人道的で野蛮な行為としかうつらないであろう。だが、フィリピンには、現在推定400万人以上の麻薬中毒者がいると報道されている。そして、その売買で甘い汁を吸っている者は、ギャングやゴロツキだけではない。警察や政官界にも「闇の組織」は蔓延しており、そのネットワークは巨大である。超法規的手段を執らない限り、麻薬撲滅はありえないというのが彼の立場だ。   東アジアにおいては麻薬犯罪には死刑が適用される国が多い。中南米の例を引き合いに出すまでもなく、麻薬は現在も発展途上国において最も深刻な問題の一つだからである。しかし、歴史をひもとけば、麻薬を植民地インドで生産し、中国に持ち込み戦争を起こしたのは英国である。他方、フィリピン革命の後、米西戦争に勝利したアメリカは、フィリピンの独立を約束したにもかかわらず、多くのフィリピン人を虐殺し植民地とした。それは、ドゥテルテ氏の故郷レイテ島でも悲惨を極め、彼はその生き残りの子孫だと自認している。アメリカによって、発展途上国の罪のない市井の人々がどれほど殺害されてきたのか、彼の憤りはこうした歴史からも来ていることは間違いないであろう。   ドゥテルテ氏の外交を考えるとき、彼が独特な民族主義者であることを理解するのは重要である。彼は、相手が欧米の価値観で頭ごなしに批判しない限り、口汚く罵ることはない。忌むべきは未だに宗主国のように振る舞いたがる大国による内政干渉だからだ。彼は、これまでの麻薬政策を批判した、エスタブリッシュメントを基盤とする民主党オバマ政権を徹底的に嫌い、CIAによる暗殺の可能性にしばしば言及しアメリカを牽制してきた。その外交は一見すると、個人的感情丸出しの素人に見えるが、中国、日本への訪問からもわかるように、領土問題の先鋭化を巧みに抑え、中国とアメリカという2大大国から微妙な外交的距離を置きつつ、日中両国から大型援助を引き出すという成果を出した。麻薬中毒者の更生施設に加え、クラーク基地跡地の開発事業が喫緊の課題だからである。言いたい放題の後の後始末もそつなくこなしており、彼のスタンスはそれなりに計算されたものだ。ドゥテルテ氏は、共和党トランプ氏がアメリカ大統領に選ばれるや否や、いち早く祝福を送った。今後はアメリカとの関係にも新しい変化が起こるかもしれない。   *本稿の中国語版は台湾の自由時報(2016-12-12)に掲載された。   <中西徹(なかにし・とおる)Toru_Nakanishi> 東京大学・大学院総合文化研究科・教授(地域研究・開発経済)。1989年東京大学大学院修了(経済学博士)。国際大学助手。1991年北海道大学助教授。1993年東京大学助教授。2001年東京大学教授(現在に至る)。主要著書に『スラムの経済学』(単著:東京大学出版会、1991年)、『開発と貧困』(共著:アジア経済研究所1998年)、『人間の安全保障』(共著:東京大学出版会、2008年)、『現代社会と人間への問い』(共著:せりか書房、2016年)。     2017年4月6日配信
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