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  • エッセイ526:フランク・フェルテンズ「花国」

      「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という文章で始まる川端康成の『雪国』は日本海にある。毎年冬になると白雪に沈む地方をごくポエティックに表現している。しかしながら、私にとっては、日本といえば雪国ではなく「花国」だ。私には日本人より「日本は四季がある」という大ニュースがよく伝わってくるのではないかと思う。言うまでもなく、四季はドイツ、アメリカ、北半球の大半にもあるが、日本の四季は特別で不思議だ。もちろん花は世界のどこにでもあるが、花国の日本では、花が驚くほど大きな役割を果たしていると気づいた。まず、どんな季節でも花が咲いている。どんな時でも自然の美しさが溢れる。冬は梅、春は桜、夏は桔梗、秋は菊、など。   出身のドイツや、学校のあるアメリカと比べたら、日本では季節の変わり目はあまりなく、温度の差もあまり激しくない。高校生の頃にしばらく住んでいたカナダでは、本当に季節の違いが感じられた。感じてしまったと言ってもよい。カナダでは、冬が終わって雪が溶けると、熊が冬眠から目覚めたごとく、みんなが家から出て、目を擦る。「あったかい〜!!」と叫びたいぐらいの嬉しさが溢れる時期だ。   季節の差が激しくない日本でも、同じような気持ちを感じる。日本在住の4年間、毎年春分になると、信じられないぐらいの嬉しさが体を包んでわくわくする。何故だろうと自問してきた。今年初めて、その答えがわかった。花だ。温度や日差しではなく、花で嬉しさを感じるのだと。今年の最も重要な発見だった。気温に関係なく、周りに花が咲くと、より気分が良く幸せに溢れるようになる。花国の日本は、暖かくなる間もなく花が咲き始める。枯れた枝に我慢して待っていた蕾は、春の最初の日差しで出てきて挨拶する。暖かい季節の到着を現す若葉よりも、花が祝われている。日本の春は緑ではなくピンクだ。   冬と春の境に梅の花が咲く。梅もまた不思議な花だ。何百年もそのままであったような、節くれだつ枝から咲いている梅の花は奇妙な美しさがある。梅の花といえば、初めて日本に留学した時に行った京都の北野天満宮をいつも思い出す。ただ、見るよりも匂うことで思い出す。2007年2月にふらっと北野天満宮に行ったら、天国に生まれ変わったような香りに飲み込まれた。「うめのはな、こすゑをなへて、ふくかせに、そらさへにほふ、はるのあけほの」という藤原定家が詠んだ和歌と同じように、風が運んだ香りが鼻に潜り込んだ。この経験から、私にとって日本は梅の香りの花国となった。今年の2月、駅のホームで電車を待っていた。突然、梅の親しい香りが飛び込んできた。梅の木はどこにも見当たらなかったが、贈り物としてその香りをもらったような気がした。   春は桜、という感覚が一般的かもしれないが、私には冬と春を結びつけている梅が季節の魅力を形にしている。日本の代表である桜は梅と違う。梅が春を開くのに対して、桜の、軽く、細雪のように渦を巻いて散る花は、雪国の冬を春にひっくり返し、季節を取り替える。桜吹雪で春と冬をスイッチする日本は、やはり不思議な四季の感覚だ。   花国のもう1つの不思議さは季節のタイミングだ。毎年春は定期的にやってくるが、この頃に桜が咲くぞという予報は、確かにその通りになる。梅はこのように注目されず、一人で頑張って、綺麗なものを産み出してくれる。梅こそ日本の本当の代表ではないだろうかと私は思う。ただ、日本は桜が優先されてしまうため、それぞれの季節の貴重さがたまに失われてしまう。平安時代から「花」といえば「桜」のことを指していたそうだが、各季節に違う花々に彩られているのが、日本という花国の最もアピールするところではなかろうか。地球温暖化のため、日本の季節も変わってくるかもしれないが、日本の心にはずっと花があることは変わらないだろう。   <フランク・フェルテンズ☆Frank_Feltens> 米国フリーア美術館特別研究員。ドイツのフンボルト大学で日本文学を学んだ後、米国コロンビア大学大学院で日本美術を学び、尾形光琳と江戸中期の美術をテーマにして2016年博士号を取得。学習院大学に文部科学省国費留学生として留学し、その後、客員研究員、立教大学非常勤講師等を務める。2016年夏より現職。     2017年3月23日配信
  • エッセイ525:フリアナ・ブリティカ・アルサテ「娘として来て、母になった」

    (『私の日本留学』シリーズ#7)   このエッセイでは、「私の日本」について考えてみたい。広い課題だが、「私の日本」というのは、日本における私の個人的な経験になるだろう。日本で生活することによって、どのように自分自身の人生が変わってきたかを考えてみたい。特に、「娘として来て、母になった」という個人的な道のりについて書いてみよう。そのことによって、私の視点から「日本」を見られるのではないかと思う。   日本に来てからそろそろ7年になる。日本に来る前の私はコロンビアのボゴタで両親と一緒に住んでいた。ロス・アンデス大学で言語哲学および社会文化研究を主専攻、哲学を副専攻として学士号を取得した。大学生のときには、6つのレベルの日本語クラスを終了し、文化、歴史、現代思想、文学、映画、アジアのルーツや地域研究など、開講されている日本に関するすべてのクラスを受講した。また、大学の文化祭の企画に積極的に関わり、生け花や折り紙のワークショップや日本からコロンビアへの移民に関する会議なども企画した。時には、家に持ち帰ってお寿司を作ったり、書道をしたり、日本映画を見たりもした。私はとても楽しかったのだが、母から見るとそれはおかしな行為だったようだ。「大学も時代が変わってきたよね」、「これは何のため?どういう仕事ができる?」「卒業したらどうするの?」とよく言われた。   日本に来る前から日本のイメージを持っていた。日本のことや日本語を知っていると思ってはいたが、さらに自分の知識を広め深めようと日本の大学院に行くことを決めた。夢が今や現実のものとなり興奮していた私だったが、成田空港に到着した時は、電車のチケットを買おうとしてもどうしたらいいか分からなかった。それで最初の会話は英語になってしまった。意外ではないかもしれないが、私に日本語で話してくれる人は少なかった。7年経った今でも、まだ最初から日本語で話してくれる人と会うのは珍しい。外国人が日本語を話せるということを期待している人は少ないようだ。日本に来てから「外国人の大学院生」としてさらに日本語の勉強を進め、日本文学を研究しながら夢中に過ごしたが、それによってどのように人生が変わるかを想像するのは難しかった。   私は22歳から東京で生活しているので、日本で「大人」になっている。母が初めて来日した時、私が2年間で様々なことを乗り越え、十分に成長したという印象を持ったそうだ。2回目は私が日本に来てから5年目、結婚式のために来た。その時は「もう大人になった」と言われた。私は自立し、新しい家族を作った。3回目は孫の世話をするために来た。私は「娘として来て、母になった」のだ。これは大きな人生の変化だ。 そして、母からは「あなたはだんだん日本人になっている」と何回も言われた。どういう意味かを考えてみたい。それは日本文化、価値観や態度を自分の性格の一部として受け入れるようになってきたということだと思う。例えば、約束の時間に間に合うように頑張ることで「日本人みたい」と評価してくれる。確かに私は時間を守る人になったが、私にとってそれは「日本人になっている」より、「日本で(大)人になっている」の方が、自分の人生にとってより大きな意味があると思う。言い換えれば、人生を変えるような出来事が日本で起こったのだ。そして自分の職業や人間関係、考え方は日本が背景になっているのだと思う。   日本で初めて自立した生活をし、修士号を取得し、結婚し、母になった。そして、今は博士号の取得に向けて取組んでいる。東京では保育園が不足しているという社会問題があるのに、ラッキーなことに子どもを保育園に入れて、これからは子育てをしながら研究者として活動しようとしている。本当にありがたいことである。   博士論文では日本の現代女性作家の作品における女性の身体表象について研究している。自尊心や自己受容に基づき、自分の体とポジティブな関係を築く手段として文学を用いたい。私が選んだのは川上未映子の『乳と卵』、桐野夏生の『東京島』、伊藤比呂美の「カノ子殺し」である。この研究が私の生活にも繋がっている。とりわけ、この研究は間違いなく、私が母親になるという個人的な道のりを助け、導いてくれていると感じる。これらの作家たちは妊娠、出産、授乳、子育てをする体について新しい見方を与えてくれた。まず、人生の変化は身体の変化であるということを理解できた。私が研究している日本文学に出てくる子育ては、皆あいまいで、矛盾し、もろく、完璧な、あるいは理想の母親は存在しないということを示している。   最後に、私にとって日本は、つまり「私の日本」は、母親になるために素晴らしい国だと思う。日本で「娘として来て、母になった」という個人的な道のりによって成長できる機会が与えられていることに日々感謝している。   <フリアナ・ブリティカ・アルサテ☆Juliana_Buritica_Alzate> 渥美国際交流財団2015年度奨学生。2010年4月に来日。国際基督教大学大学院アーツ・サイエンス研究科比較文化専攻で修士号を取得。現在、同研究科博士後期課程在学中。専門は比較文学およびジェンダー研究。     2017年3月16日配信
  • エッセイ524:謝志海「歩きスマホの護身術」

    スマートフォンが世にでる前から、私は歩きながら携帯電話を操作しないようにしている。私の友人の友人が、仕事帰りに最寄り駅から自宅までの夜道で携帯電話を見ながら歩いていて、たまたま工事中でロープが張られていたことに気付かず、それに引っかかり転倒し、膝を大きく切り11針を縫うことになったという。翌日から沖縄旅行を控えていたが、医者に海に入るどころか飛行機に乗ることも禁じられ、旅行はキャンセル。当日のキャンセルで代金は全額戻らず。私はこの惨事を被った方とは全く面識はないが、話を聞いた時「この出来事は私へのメッセージ、明日は我が身、今後携帯電話を見ながら歩かない」と決心した。それ以来、私はスマホを見ながらずんずん向こうから突進してくる人々にもなぜか寛容になれた。私が気をつけていれば大丈夫だと。しかしスマートフォンの急速な普及、そして様々な使われ方で、歩きスマホは社会問題、いや世界の課題のようだ。   ある日の日本経済新聞の見出しに「歩きスマホ万国共通」とあり、この記事には様々な国の歩きスマホ対策が紹介されていた。どの国でも事故があり問題視されているが、これといった解決策は見出されていないことまで共通している。中国湖南省で、母親の歩きスマホが原因でその子どもが交通事故死となった例が冒頭に紹介されていたが、中国の歩きスマホは深刻だ。死亡事故まで多発している。   例えば、2013年10月北京市で、17歳の女子高生が深い溝があることに気付かずに転落死。2016年8月には浙江省の男性が信号のない横断歩道をスマホを見ながら横断中に車に跳ねられ死亡。2015年11月、江蘇省の男性が階段に気付かず転落死。このように、歩きスマホの事故はキリがないほど出てくる。死に至るケースも多い。一方で歩きスマホに対する対策や危険の周知に関しては、これといって出てこないこともまた驚きだ。中国のスマートフォンユーザーは9.2億人と言われている。そのうち歩きスマホをする人は何億人いるのだろう?想像するだけでゾッとする。   歩きスマホが怖いのは中国だけではない。日本にもたくさんの歩きスマホ者がいる。日本で生活していて、歩きスマホに関して特に怖いと感じるのは、都心の混み合った駅のプラットホームで歩きスマホをする人たちと遭遇する時だ。スマホを凝視しながら足早に向かって来る人に何度もぶつかりそうになり、また歩きスマホ同士が接触している様も何度も目撃した。プラットホームで彼らにぶつかって、線路に落ちたらと思うととても怖い。最近私はホームの端っこに近づかないようにしている。日本のような先進国でもホームドアの設置が遅れている。   前述の新聞記事の結論は「結局は一人一人の意識改革が必要になる」であった。私がいつもしていることは、「混雑している場所でのスマホの操作は、道の端、柱の陰に速やかに移動して立ち止まって行う」である。迷惑にならないようにということと、衝突などから我が身を守るためである。実は私は歩きながら携帯を操作するというマルチタスクが苦手という自認もあるのだが。当分の間はこのように、自分で歩きスマホの人々から身を守るしかなさそうだ、どの国にいても。   <謝志海(しゃ・しかい)Xie_Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2017年3月9日配信
  • エッセイ523:チャクル・ムラット「私が日本留学で学んできたこと―特に女性のすごさについて」

    (『私の日本留学』シリーズ#7)   2006年に運よく日本留学の夢が叶い、今年で9年目になった。振り返ってみればあっという間に過ぎた時間であったが、日本留学をきっかけに「良き市民」になる学びのプロセスが始まったと思う。日本に来た当時と今を比べると、想像以上の成果があり、学んだことは計り知れない。専門的な知識や研究でのノウハウはその1つである。たとえば、問題意識をはっきりさせること、適切な課題や方法を設定すること、そして、研究者だけが理解するような研究では意味がないから、子どもにも分かるように研究のデザインを常に映画監督のごとく考えていくことなど、ここに書ききれない多くの学びがあった。   この9年間は、研究だけをやってきたわけではない。日本人や様々な国の人々との交流のおかげで、研究以上の学びがあった。研究だけの人生というのはつまらないと思ったことも多々あるから、その時にはできるだけ日本人の研究者と交流した。また研究者だけの人間関係では狭いから、子どもや一般の人ともできるだけ多く接したいと思うようにもなった。   特に、小中学校でのトルコの紹介といった形での国際交流活動を通して児童や生徒から学んだことは、私の人生観や世界観を変えるほど刺激的なものだった。子どもたち(子どもといってもみんな立派な「大人」たちだと思うが)に接して思い知らされたことは主に2つある。1つは、私が自分のことや自国のことをいかに知らないのかということだった。もう1つは、教えること、つまり、子どもたちの成長・学びを最大限に助けて導くことがどれほど難しいことなのかをよく理解したことである。   研究について苦しんでいるとき、子どもに関係する活動を行い、そこで得ている学びを自分で実感できるようになり、研究上の新たな気付きや達成感を味わった。だが、当時焦りや心配がいっぱいあった昔の私に、今の自分は、「まだまだ伸びしろがあるよ、先のことを考え過ぎたり、小さなことで悩んだりするよりもっと行動しなさい。その時にやるべきことをやりなさい」と言いたい。なかなか物事がうまくいかず達成感を味わうことができなくても、「それはそれでまた学びだよ」と言いたい。   こうした考えを強めたのは、自分の子どもが生まれた時と、その時から実感し始めた「女性のすごさ」のおかげである。   自分の育ってきた社会において、女性の社会的地位や女性に対する考え方というものにいつも疑問を感じて、どうやったらもっと女性が生き生きする社会にして行けるのだろうかということを考えたりしていた。しかし、今考えてみると、当時は本当の意味で「女性のすごさ」を理解していなかったとはっきりいえる。トルコ社会でも経済的に恵まれている女性たちは生き生きして、積極的で活発に動く人が多い。しかし、日本の女性と比べると、大きく違うところは「日本人女性のしたたかさ」である。   出産前と、出産後の子育ての長い過程が始まってからの妻の変化に対する自分の発見・驚きと戸惑いを忘れることができない。まず、女性が「子どもを産む」ということ自体がすご過ぎる。男性は女性より体力があるにしても、出産の痛みなどには絶対に耐えられない精神的に弱い生き物だと思う。また、子育てをし始めてからのたくましさ・したたかさが出産前より何十倍も強くなっている妻の姿を見たときに、一方で、子どもが産まれてもあまり変わらない、また変わろうとしているがなかなか思うように変えられない自分がそこにいて、今まで感じたことがない無力感に襲われた。その後、妻のペースにどんどん巻き込まれていくのだが、自分は何とかしてついていかなければいけないと思い、いろいろ学び始めた。このように女性が秘めている底なしのしたたかさと、守り・包み込むような優しさを身近に見て感じ、そこから自分は初めて女性を本当の意味で理解し始めた気がした。   一方、晴れて渥美財団のメンバーになれて、異なる側面から女性のすごさを発見することができた。それは、男性と違う女性にしかできないリーダーシップである。男性のリーダーシップはどちらかというと、持っている権力を通して人々が動くように働きかけ、影響を与えることが中心になっているといえる。しかし女性は、影響力を与えるというより、まずその組織の一員としての居場所を与え、一人ぼっちと感じないように大きな家族のあたたかさで包み込む。そこから大きなネットワークに「ダイナミックにつないで」個々人にアイデンティティを与える。そうすると、抵抗感を感じることなくいつの間にか各自は女性のリーダーシップに引っ張られていることに気付く。このような学びを経て、自分がもしリーダーの立場に立った時にどうすればいいのか、相手をどのようにつなぐか、その相互関係性を理解したといえよう。   よく考えてみると、この世の中はそもそも女性が作っているといっても過言ではない。我々男性は仕事や研究という狭いところでちまちましているのではなく、もっと多様な能力を持っている女性に学んで、世の中をよくしていかなければならない。私はどれほど狭い世界でしか考えていないのかを思い知らされ、もっと思考を広くしなければならないと感じた。   これらは私のこれまでの留学経験で得た貴重な体験であるが、良き市民になるための自分の人生の新たな段階での新たな学びは始まったばかりなのだ、と私は思う。   <チャクル・ムラット☆Cakir_Murat> 渥美国際交流財団2014年度奨学生。2015年度に関西外国語大学特任助教。2015年筑波大学人間総合科学研究科教育基礎学専攻博士後期課程単位取得退学(教育学)。獨協大学、文京学院大学、早稲田大学、筑波大学非常勤講師、トルコ大使館文化部/ユヌス・エムレ・インスティトゥート派遣講師。     2007年2月23日配信
  • エッセイ522:ライラ・カセム「一風変わった里帰り」

    (『私の日本留学』シリーズ#6)   私には故郷(ふるさと)が2つあります。留学生同士の親が出会い、兄と私が生まれ、13歳まで過ごした日本と、その後大学卒業まで過ごしたイギリスです。美術大学を卒業し、数年間アルバイトやインターンを転々としていたころ、大学院へ進学したい気持ちが芽生えてきました。どこへ行こうかと迷っていた時、両親が「私達が日本に留学した時の文部科学省の奨学金に申請してみれば?」と提案してくれました。成長するにつれ、「自分のような日本で生まれ育った外国人にとって、日本はどのような場所で、自分は何ができるのだろう」という疑問への回答も得られるのではないかと考え、日本への留学を決意しました。運良く試験に受かり、2010年4月に東京藝術大学大学院のデザイン科に入学しました。   一風変わった里帰り。そんな中、2011年3月11日に東日本大震災が起こりました。日本全国、そして世界中の皆が、自然の偉大さ、命の尊さ、人間の強さなど、様々なことを考えさせられた出来事でした。自分も何か手助けしたいと思った人は沢山いたことでしょう。また何かしたいが何をすればいいかわからないと、歯がゆく感じた人もいたでしょう。特にデザインをやっている身としては、この歯がゆさを今まで以上に感じました。「きれいなものだけをつくれば人は幸せになれるのか?」「人のための真のデザインとは何か?」等々と。   震災の甚大な被害を思えば悲観的な考えばかりになりがちな中で、私にはこれからの日本が良い方向へ変わるのではないかと楽観的に考える部分がありました。それは、これまで商業目的で活動していた多くのデザイナーが社会に目を向け始め、人のため、コミュニティーのためにどのように自分の技術・スキルを活用できるのかと考え始めたからです。私もその1人として、(震災前に)もともと興味のあった福祉の世界で人とともにデザインをしていくことを決意しました。そして、障がい者施設で知的障がいの成人にアートを教え、そのアートが施設の収入源となるデザイン商品へと転換する活動を始め、現在まで続いています。   しかし、震災から5年経った現在は、東京オリンピックの招致が決まったことで、2011年当初の震災復興ではなく、オリンピックを目的として行政と企業がともに社会的活動を実施する傾向が窺えます。震災以降には社会貢献活動を「震災があったからこういうことは大事ですよね」と言われましたが、今は私自身の活動を説明すると「オリンピックがあるから、このような障害者の活動は大事ですよね」と言われるのです。たしかに震災とオリンピック開催は多くのデザイナー、企業そして行政が社会に目を向けるための良いきっかけとなったことは事実ですが、物事をやる「きっかけ」と「理由」は別ものであり混同してはいけません。   社会貢献を目的とした活動をする人々が、今、答えなければいけない事は「なぜこのような活動をやりたいか」ではなく、「なぜこのような活動をやらなければならないのか」ではないでしょうか。震災後は復興、オリンピックでは「多様性とソーシャルインクルージョン(社会包括)」が課題として掲げられていますが、なぜこの課題が重要なのかという議論がそもそもなされていないのが現実です。復興とは何か、多様性、ソーシャルインクルージョンとは何か、これらの言葉が秘めている根本に答えることが理由となり、真の解決策を導く手段となるのです。その根本こそが、「故郷」という言葉に秘められていると思います。   私が障がい者福祉施設との協働活動でたびたび感じることは、社会の有力な人材となるためには、個人が様々な人と交流し共有できる「居場所」が必要であるということです。障がいや貧困など様々な背景を理由に社会から孤立している、忘れられていると感じている人は少なくないでしょう。障がい者施設に通う重度の障害をもつ多くの人々は、家と施設を往復する生活しかしていません。このような生活が本当にソーシャルインクルージョンといえるのでしょうか?   復興でも同じことです。巨大な防波堤を作り、高台に住宅を作ることが被災地の復興に繋がるのかと考えると、そうでないと言えるでしょう。一度自分の居場所をなくした人々は、物質的なものだけでは「故郷」を構築できないからです。英語では故郷を「Home_is_where_the_heart_is(故郷とは心の集うところ)」と表現します。社会とコミュニティーは様々な背景を持つ十人十色の人間から成り立つものです。その多様な人々の心が集える場をつくることで、協力し合い、調和して生きる世の中を築いていけるのだと思います。より多様な人々が理解し合い、共存できる「故郷」をつくることが、現在の日本や世界各国が掲げている様々な社会課題に取り組む理由、そして解決するヒントの1つになるのではないでしょうか。   私は生涯、デザイナーとして、そして多様な故郷を持つ人間として、社会に居場所がないと感じている人々の心が集える場をつくることに尽くしたいと考えています。   <ライラ・カセム☆Laila France Cassim> グラフィックデザイナー。東京大学先端科学技術研究センター特任助教。社会から取り残されたグループのエンパワメントにインクルーシブデザインのプロセスとグラフィックデザインのスキルをツールとして利用することに力を入れ、作品制作と研究に取り組んでいる。現在は足立区の障がい福祉施設「綾瀬ひまわり園」で定期的に講師をし、そのアートを活用し、施設の支援スタッフとともに利用者の社会参加と経済自立につながるアート作品の制作と商品づくりの開発に取り組んでいる。また、東京大学先端研では、突出した能力はあるものの既存の教育環境に馴染めず、不登校傾向にある小・中・高生の継続的な学習保障と生活のサポートを提供するプログラム「異才発掘プロジェクトROCKET」にも関わっている。     2017年2月16日配信
  • エッセイ521:趙国「先入観、実感、一般化の間に」

    (『私の日本留学』シリーズ#5)   まだ留学生活が終わったわけではありませんが、約4年間の留学生活について、反省を込めて顧みたいと思います。私は2012年度に早稲田大学の日本史学コース博士課程に入って留学生活を始めました。日本に来る前に、先輩留学生からいろいろな話を聞き、私は日本(人)に関するある種の先入観を持つようになりました。たとえば、学校生活と日本人学生についてです。同じゼミ所属の日本人学生でも仲良くなるまで非常に時間がかかるということです。日本人は他人への配慮心が高すぎる、また人間関係に用心深いという側面があり、特に外国人(留学生)については親切とはいえ、このような側面がもっと強く反映されているようです。自分が積極的に日本人学生たちの中に溶け込もうとしないかぎり、いくら時間が経っても決して仲良くできないという先輩留学生のアドバイスでした。   私はもともとそれほど社交的な性格ではありませんので、以上のような話を聞いて、ある程度の覚悟を持ってゼミに参加することになりましたが、想像した「日本人イメージ」とは相当違う学生たちと出会って半分驚き、半分安心しました。先に声をかけてくれたり、食事に誘ってくれたりする学生がたくさんいたのです。もちろん、中には予想通り(?)、非常に用心深く、私から声をかけることすら難しそうな人もいましたが、それは韓国でも同じでしょう。   またゼミは、韓国で経験したことよりむしろ自由な雰囲気でした。歴史という多少堅い学問的な雰囲気はあるものの、先生と学生、学生同士の活発な議論が行われ、あるゼミでは史料の選定からゼミのやり方まで、すべてを学生自らが決めるほどの自由度がありました。教室外での雰囲気も、私としては馴染みな風景でした。学校周辺の戸山公園では、酔っ払って乱暴ともいえるくらいの学生たちがたまに目にとまり、韓国での大学の風景とさほど違いはありませんでした。   このような経験から、私は、いつも遠慮がちで、静かな日本人という先入観を改めることができました。ただし、私の経験は、主に学校の生活、しかも「学問の独立」を学風とする自由な雰囲気の早稲田大学であるからこそ得たものかもしれません。つまり、私の限られた経験を一般化して、ほとんどの日本人がそうであるとは決して言えないのです。   当然ですが、社会の中には様々な人々がいます。私の限られた経験の中でも、憲法修正の反対集会や慰安婦問題に関するシンポジウムで大勢の人々を目の前にした一方で、長い行列の右翼宣伝車やヘイトスピーチをも目撃しました。ただし、その多様性をあまり強調すると、確かに存在する日韓の相違が逆に見えなくなると思います。その相違を理解するためにも、いわゆる「国民性」を定義・解明する、一般化の過程が不可欠でしょう。   日本にも早くから紹介されている、韓国の学者、李御寧氏の『「縮み」志向の日本人』という本もこの試みの一つだと言えます。盆栽からウォークマンまで、説得力をもって分析がなされた本ですが、他方では、世界最大級といえる日本の古墳や、東大寺のような巨大な建築物はどう説明するのかという疑問も残ります。つまり、一般化の作業には、再び先入観を作り出してしまう恐れもあります。     これは非常に難しい問題で、私も常に悩んでいるところです。たとえば、韓国には日本に対する先入観を持っている人がいますが、これらの人々に私は自らの経験に基づいて「実はそうではないこともある」と語る一方で、「一般化はできないけれど」という条件を付けないといけないのです。しかし同時に、社会全般における日韓の相違を理解するための、一般化した説明もまた必要であると思います。先入観、実感、そして一般化の間にバランスをとっていくことが重要です。歴史に限っても、日韓の間には、相手を理解しながら解決すべき問題が依然として残っています。互いの理解を高めるためには、なにより相手国へ関心を持つことが重要ですが、それと同時に、自分が得た知識、体験と距離を置き、相対化する必要もある、というのが私の留学生活を通じて得た貴重な教訓です。   <趙 国(チョ・グック)CHO_Guk> 歴史学専攻。早稲田大学大学院文学研究科博士課程在学中。研究分野は日本近現代史で、現在は日本の居留地における清国人管理問題について博士論文を執筆している。     2017年2月9日配信
  • エッセイ520:謝志海「新年の抱負との付き合い方」

    新年早々、日本人から面白い質問をされた。「中国には新年の抱負ってあるの?(もしあれば)それは新年、それとも春節どちらに目標を立てるの?」とても日本人らしい質問だと思った。というのは中国では新年の抱負というものが一般的ではないからだ。誰も全くしないとは言わないが、年明けや春節に挨拶代わりのように「今年の抱負は?」と聞き合うことはない。   日本では正月を迎える前から「来年の抱負は?」という質問が飛び交っている。テレビを観ていても、芸能人だけでなく、政治家までもがこの質問をされている。また聞かれた側も普通に回答している。新年を新たな区切り、スタート地点として捉え目標設定することはとても良いことだと思い、とても興味深い。   では年の瀬、どのくらいの人が年初にたてた目標を達成できているのだろう。私に質問をしてきた日本人に「年末には今年の抱負をどのくらい達成できたか聞きあったりするの?」と聞いてみた。相手は「うーん、ないかなあ」と言葉に詰まってしまった。「その時期は師走でそれどころじゃないんじゃない。」というのが答えだった。そうか、日本では掲げた目標の達成度をレビューする機会があまりないのかもしれない。年末年始には抱負は?抱負は?とどこでも話題になるのに抱負を振り返るチャンスはシェアされていない。これもまた興味深いことである。   調べてみると、「新年の抱負に掲げるのは何か」というランキングは出てきたが、結果や、達成度についてのデータは出てこなかった。代わりにアメリカでの調査結果があった。アメリカのスクラントン大学の「新年の抱負」についての調査によると、2016年に立てた新年の抱負を達成出来たと感じられた人はたったの9.2%。日本で調査しても、案外似たようなものかもしれない。マクロミル社が2016年1月に日本で行った調査によると、過去に新年の抱負を立てたことがある人に挫折したことがあるかと聞いたところ、「挫折したことがある」と答えた人が87.6%と9割近い数になっている。目標を掲げることは簡単でもそれを実行するのは難しいということか。   日本の書店に行くとビジネス書のセクションには目標の実行の仕方、夢の叶え方等の自己啓発本がたくさん並んでいる。ということは日本人はやはり目標を掲げ、達成する為に日々奔走しているのではないだろうか。しかも海外からの自己啓発たぐいの本も日本語に翻訳され同じくビジネス書のコーナーにたくさん並んでいる。海外のメソッドまで取り入れようとしているのか、と感心する。   例えば、米国スタンフォード大学の心理学者、ケリー・マクゴニガル教授の著書「スタンフォードの自分を変える教室」では実践的で誰もがすぐに取り入れやすいように、目標達成へのステップを指南している。この教授の専門は健康心理学で、目標を叶えるプロなどではないのだが、彼女がよく提案するのは、大雑把に言うと自己分析や自分を振り返る時間が大切だということ。ということは目標を立てるだけではダメで随所に振り返りの作業を取り込むべきなのだろう。自己分析、すなわち自分を客観的に見ることは、難しいけれど目標を叶えるためには不可避なのだろうと感じさせられる。   日本には新年に抱負を掲げるチャンスがあり、それを実行する為の指南書も溢れている。日本に住んでいる私はこれらを活用しなくてはと思い始めた。新年の抱負としてではないが、私が立てた目標は実は数年前からずっと同じだ。ということは大多数の、新年の抱負を達成できていない人、挫折した人と同じになっている。年内に必ず自身の目標に対して振り返る機会を作ろうと思う。自己分析が上手になれば目標達成への近道となるはず。まずはそれが私の今年の抱負だ。   <謝志海(しゃ・しかい)Xie_Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2017年2月2日配信
  • エッセイ519:カバ・メレキ「13年ぶりのトルコ―人の死に慣れる自分―」

    明るく話すのが好きで、明るいトピックを好む私も、世の最も悲しいことの1つである若い人の死のただ傍観者になってしまうことについて書く日がやって来たようである。   2003年からの13年間の日本滞在を経てトルコに帰国したばかり。長い日本滞在の影響もあってバイカルチュラルになったことに帰国してから気がついた。それぞれの文化に異なることは多いが、身体が死ぬのは世界の文化を問わない。身体の呼吸は止まりどんどんと冷たくなっていく。死はどの国でも冷たい。日本で私が意識する人の死は駅の人身事故の放送だけだったかもしれない。しかし今は人の死が日本とトルコでは同じではないと思っている。   帰国してから私を出迎えたのは2016年7月15日の軍人の中に身を隠していたフェト(フェトフッラー派テロ組織(FETÖ))のメンバーによるクーデター未遂事件に、分離主義テロ組織クルド労働者党(PKK)などが行うテロ。さらにトルコ語の音に難民のアラビア語の言葉が混じる街、急激な経済成長が豊かにした人々の暮らしぶり。このような変化はメディアからも読み取れる。   しかし以前と異なるもう1つのことは人々の考え方に起きた変化である。都市化による個人主義と自由主義が普及し、経済力においてもブルジョワ的な要素をもたらした結果、人々は明らかに以前よりかなり楽な生活を送っている。デジタル化の進歩も目まぐるしいし、iPhone、PC、インターネット利用は年配の人にまで驚くほど普及し、すでに日常化している。体よりも頭を使う仕事の数が増えている。そのような日常生活の変化によって、型にはまった考え方の多くは柔軟な考え方に取って代わっている。心身ともに「豊か」になっているトルコである。しかし、皮肉的に言えば13年前よりも豊かになって、13年前よりも沢山の人が死んでいる。このジレンマは中東の地政学的な特徴から自由ではないと思う。   トルコの今日のニュースはフェト、PKK、シリア戦争、様々なテロ組織、トルコ軍のシリアでの活動を中心軸にしている。それにアレッポの悲惨も加わってしまった。ここ数日は街頭にアレッポに送るための物質を集めるテントが目立つようになった。アレッポは今住んでいるカッパドキアの540キロ先にあって、朝出発すれば昼までに到着できる場所にある。我々は死の近くに住んでいて、死とともに生きている。先週、私の職場のコピー担当の若い女性が真っ赤な目をして、私のために梶井基次郎の短編である「檸檬」をコピーしてくれた。アレッポの子供たちのニュースを聞いて涙していた。「檸檬」の主人公はレモンを丸善の店に置き、それが爆弾であると考え、そしてそのレモンの爆発によって愉快な気持ちになる。多分中東の我々の心の中にも「檸檬」の主人公に罹った「得体の知れない不吉な塊」が宿っているのかも知れない。なぜなら、子供や若者の殺害を許すような社会になっているからである。   毎日数人の警察官、軍人、一般人がテロの犠牲になるニュースを「当然のように」聞く。何気なく「山手線は人身事故の影響で運転を見合わせております」と聴きながらポカリスエットをごくごく飲んでのんびりと駅構内を歩く時の記憶に似たところがある。それでも日本にいた時、死は「竹取物語」のおじいさんが行く山の後ろとか、どこか遠くにあったような気がしていた。しかし、一度に沢山の人の葬式を行い、彼らの身体を土の中に埋葬する葬式をテレビのこちら側から文字通り毎日観ている。それでもこうして毎日トルコのおいしいパンを食べ、大学の自分の部屋の窓から松の木が雪に覆われた緑と白の風景を見ながら一文ずつ丹念に読んで、「檸檬」をトルコ語に翻訳している。   テロが起こるイスタンブールやシリア国境に近い地域以外の場所に住んでいる我々は、市場で果物を何キロも買って、週末は出かけて、周りの子供たちと一緒に野良猫に餌をあげて、信じられないほど静かに暮らしている。問題は同じ国と隣国で1秒ごとに死ぬ人々の死に慣れて自分の生活を続けていることである。毎日続く人の死に慣れてきた自分がいる。しかしこのような自分にはどうしても慣れない毎日である。どうにかしてテロや戦争を終わらせたいという気持ちを持つが魔法の杖は当然ないわけである。だから中東の子供たちに平和と命の尊さを教えたい。それが我々の責任であると思う。   <カバ・メレキKABA Melek> 渥美国際交流財団2009年度奨学生。トルコ共和国ネヴシェル・ハジュ・ベクタシュ・ヴェリ大学東洋言語東洋文学部助教授。2011年11月筑波大学人文社会研究科文芸言語専攻の博士号(文学)取得。白百合女子大学、獨協大学、文京学院大学、早稲田大学非常勤講師、トルコ大使館文化部/ユヌス・エムレ・インスティトゥート講師を経て2016年10月より現職。     2017年1月26日配信
  • エッセイ518:李鋼哲「トランプ・ショックからトランプ・チャンスへ発想転換を」

      昨年11月9日に米国大統領選挙の結果が発表されると、世界に大きな衝撃が広がっていった。「トランプ・ショック」で、これからの米国と世界の行方を心配する声が世界中の世論を沸かす。民主党が強い米国の主要都市では大きなデモが発生した。当選した大統領に対する反対デモは、米国だけでなく世界でも例を見ない。新年早々の米国内世論調査でも、トランプ次期大統領の支持率は50%にとどまり、歴代大統領就任直前の支持率では最も低く、国民の分断によって今後の政権運営が難しくなることが予想される。   2016年は国際社会において波乱万丈の年、世界の流れが大きく転換した年であった。かつての「大英帝国」イギリスは7月に国民投票でEU離脱(Brexit)を決定、移民やテロを問題視するEU諸国でも波紋が広がり、極右保守政党が台頭しつつある。そして、今度は「アメリカ帝国」の大統領選挙で、もう一度世界に衝撃を与えたのは偶然の連続ではなく、「行き過ぎた」グローバリズムに対する反動であろう。世論ではEUや米国の先行きについて懐疑と心配の声が圧倒的に多いように見受けられる。これは一つの時代の終わりと新しい時代(多極化または無極化)の始まりを告げる鐘声ではなかろうか。   さらに世界の近代史において、19~20世紀にかけて欧米を中心に創られた世界秩序が、冷戦やポスト冷戦期のグローバル化資本主義を経て、21世紀に入り行き詰まってしまったことに対して、新しい秩序への変化を求める重要なシグナルだと見ることもできるだろう。もちろん、1世紀以上にわたって創られた1つの秩序から次の新しい秩序が成立するまで、世界は波乱と混沌が続く可能性が増すだろう。しかし、他方では、イマニュエル・ウォーラーステイン(アメリカの社会学者)が分析した、中心(先進国)と周辺(途上国)という構図が根底から変わり、先進国と新興諸国が平等な土台に立って、新しい世界秩序を模索・構築していく序曲になるかも知れない。   目を転じてアジアの未来を考えると、日本やアジアにとって「トランプ・ショック」はリスクの要因が大きいかも知れないが、発想を転換すれば、これまでの米国との関係を再構築する重要なチャンスとしてとらえることができるだろう。かつて、鳩山由紀夫元首相は「対米関係の見直し、沖縄米軍基地の国外移転、東アジア共同体を目指す」という対外関係の方針を打ち出して米国の反発を買い失脚したが、今こそ、そのような方向性は再検討すべき重要な課題のひとつになるのではなかろうか。安倍政権では日米同盟を強固なもの、半永久なものと強調しているが、日本の50年後や100年後のビジョンを考えた場合、いつまで非対称的な同盟(対米従属)関係を続けるのであろうか。   トランプ新大統領は就任後に、選挙公約で掲げた政策を修正しながらも実施しようとするだろう。米国がTPPを批准しないことになると、日本政府が熱心に進めてきたTPPは無意味になる。日本は、米軍駐留経費の負担増要求(トランプ氏は「海外駐留米軍の撤退」をも言及している)など多くの難題を突き付けられるだろう。日本は思い切って発想転換をすべき時なのかも知れない。米国の政策を逆手に取って、東アジア地域の経済連携を強化するチャンスかもしれない。沖縄問題をはじめとする駐留米軍の基地問題を根本的に解決するチャンスかもしれない。   もちろん日米同盟を一気にぶっ飛ばすということではない。しかし、世界の勢力図が大きく変わりつつある今日、その時代にふさわしい方向を模索していくことは不可欠であろう。1つの選択肢として、日米同盟に代わる安全保障メカニズムを「六者協議」を土台として、朝鮮半島南北+日米中ロが共同で「東北アジア安保協議体」を構築するという構想も改めて検討する価値があるだろう。それにASEANやインドなどアジア諸国を加えると幅広い「東アジア安保協議体」になる可能性も生まれてくるだろう。   多くの日本人は「同盟」を自国の安定を守ってくれるシステムと考えているようだが、日本も同盟国アメリカを守る義務を負うのが本当の意味での平等な同盟であることは言うまでもない。また、「同盟」は自国を守るという側面もあるが、他方では必ず敵(または仮想敵)を作るという両刃の剣のリスクを持ち合わせていることを忘れてはならない。何故かというと、「同盟」は敵が存在しないと意味がないからである。近年日本では「中国脅威論」、「北朝鮮脅威論」(確かに脅威的な側面がないわけではないが)が増えている裏には、為政者たちが意図的にマスコミを通じて脅威論を煽り、国民に恐怖心を植え付け、自分たちの集団利益を図っているというところが本音であろう。日本の国防費がここ4年間増えているという実態がそれを物語っている。東北アジアで軍備競争の機運がにわかに高まっていることは警戒しなければならない。   現在、日本にとって最大の貿易相手と輸出市場は東アジア地域で、日本の対外貿易の55%(2015年)以上を占めている。そのうち半分近くは中国(香港、台湾を含む)である。したがって、日本はあまり国益にならないTPPに固執するよりは、RCEPを推進したほうが、現在も未来も日本経済に大きな利益をもたらすことは明らかである。RCEPに関する交渉は2012年から始まって16年に締結を目指していたが、日本が対米関係を重視しTPP加盟を優先課題として力を入れていたため、交渉が前進していない。今こそ、日本と東アジアがRCEPを進め、「東アジア経済共同体」を目指す絶好の機会であるかも知れない。   トランプ・リスクをチャンスに変えるためには、日本や東アジア諸国は発想の転換が必要であろう。日本では批判と心配の声が多いフィリピンのドゥテルテ大統領は、対米・対中外交方針を大きく転換し、もしかすると日本や東アジア諸国が対米関係を根本から見直す先駆けになるかもしれない。   注記:このエッセイは選挙翌日の昨年11月10日に書き、最近修正した。トランプ大統領当選に対する世間の評価が変わりつつあるが、当時の世論ではほぼ「トランプ・ショック」一辺倒だった。   <李鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学大学院経済学研究科博士課程中退。東北アジア地域協力を専門に政策研究に従事し、2001年より東京財団研究員、名古屋大学研究員、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、06年現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を中心に国際舞台で精力的に研究・交流活動に尽力している。SGRA研究員および「構想アジア」チーム代表。近著に『アジア共同体の創成プロセス』(編著、2015年4月、日本僑報社)、その他論文やコラム多数。   ☆SGRAエッセイは執筆者個人の見解でありSGRAを代表するものではありません☆   2017年1月19日配信
  • エッセイ517:林泉忠「『トランプ・蔡電話会談』米中角逐の新たな幕開け」

    12月2日午後11時、台北の総統府蔡英文総統からアメリカ大統領当選者トランプ氏への一本の電話が、北京の神経を尖らせ、また国際社会をも震撼させた。この日「TAIWAN(台湾)」が人目を引き、アメリカなどの国際メディアのトップニュースとなり現れた。驚きの表情を隠しきれない中国外相の王毅氏と中国国務院台湾事務弁公室スポークスマンが、メディアからの質問に答えた際に、「痛くも痒くもない」の一言だけを返した。「これは台湾側が行った小細工に過ぎず、1つの中国の構造を変えることは不可能である」と。   しかしながら、突然起こった12分間の「トランプ・蔡電話会談」が、いったいどれだけ中国指導部を驚愕させたかは、容易に想像がつく。連日中国共産党政府は、全ての国家安全機関とシンクタンクを動員し、今回の「電話事件」発生のいきさつを明らかにしようとしているが、調べれば調べるほど中南海をがっかりさせる結果となっている。   まず、常識にとらわれないカードを出すトランプ次期大統領の性格からすると、もし「トランプ・蔡電話会談」がふとひらめいた行動だったら、大して驚くことではない。ところが、アメリカ大統領選に勝利した直後、トランプ氏のチームはすでに各国首脳と電話会談を行う名簿を作成しており、消息筋によると、早い段階から「蔡英文総統」はその名簿の中に入っていたそうだ。通話のスケジュールが確定した後、関係者はトランプ次期大統領に説明を行っており、トランプ氏はもちろんネガティブな反応が出る可能性を十分に理解していた。言い換えるなら、今回の「トランプ・蔡電話会談」は偶然に起こった軽率な出来事ではなく、関係者たちによる周到な計画があって成しえた事で、決して台湾側の一方的な「小細工」として説明できるほど簡単なことではない。   ◇周到にアレンジされた「トランプ・蔡電話会談」   次に、中国の最大の心配事は結局のところ、「電話茶番」が、1970年代に構築された「キッシンジャー体制」以来アメリカが堅持している「1つの中国」政策の変更をトランプ氏が意図しているかどうかである。現在トランプ次期大統領の政権人事はまだ完全には固められておらず、また厳格に言うと、就任前の言動も、これからの米国政府の政策とは同じではないにもかかわらず、中国を懸念させる情報が1つまた1つと出てくるたびに、中南海はもうすでにトランプ氏の中国政策に対して引き続き「慎重で楽観的」でいられなくなっている。   ひとしきりの驚愕と震撼が過ぎ去った後、「トランプ・蔡電話会談」を主導していた一大勢力が浮上してきた。それは、アメリカ「ヘリテージ財団」である。イデオロギー的にアメリカの保守勢力の重鎮と見なされているこの財団は、1973年に創立され、創立者のフュルナー(Edwin_Feulner)氏の40年あまりの運営を経て、現在のような年度予算8000万ドルを超えるまでに発展し、ワシントンD.C.に対する影響力が最も大きなシンクタンクの1つとして見なされるようになった。共和党出身の歴任高官の多くはこのシンクタンクから政界入りしており、トランプ次期大統領に運輸長官に任命されたイレーン・チャオ氏もまたその中の一人である。選挙期間中、ヘリテージ財団はトランプ氏の為に政策白書を作成しただけでなく、財団の多くのメンバーも応援団として参加している。注目すべきは、ヘリテージ財団は数十年にわたって台湾との関係が密接であり、ワシントンD.C.の親台本営と見なされており、また台湾は長きにわたりロビー活動や交流を行ってきた対象でもある。   ◇影響力絶大の「ヘリテージ財団」   「トランプ・蔡電話会談」をもっとも直接的に推し進めたのは他でもない、まさに長期にわたりヘリテージ財団の総裁を務めてきたフュルナー氏である。フュルナー氏と台湾の政界はもともと深い関係にあり、台湾への訪問はすでに20回を超え、台湾歴代総統の就任式典にも数多く参加しており、李登輝、陳水扁、馬英九、蔡英文などの歴代の総統との面会も17回にも及ぶ。蔡英文総統と同じロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを卒業したフュルナー氏は今年8月にトランプ応援団に参加し、上級顧問として国家安全保障外交政策を務めるトランプ次期大統領の最重要ブレインの一人である。フュルナー氏は10月に財団訪問団を引き連れて台北を訪問し、13日には総統府において蔡英文総統と面会した。   ヘリテージ財団の米台関係における重要な地位にあり影響力があるもう一人の人物は、財団研究員のスティーブン・イェーツ(Stephen_Yates)氏で、彼は現在アイダホ州共和党主席を務めており、またトランプ氏側の顧問も兼任している。イェーツ氏は、ディック・チェイニー(Dick_Cheney)副大統領の国家安全保障問題担当副補佐官を務めた人物で、今年に入り「台湾関係法」と「6つの保障」(Six_Assurances)を共和党の綱領に入れた起草者でもある。その内の「6つの保障」はまさに、北京を怒らせてやまない「中国の台湾に対する主権を承認しない」である。イェーツ氏はもともと台湾と深い関係にあり、1987年から89年にかけて、高雄でモルモン教の宣教師をしていた事があり、流暢で且つ台湾なまりの北京語を話し、台湾の政界及び社会各界に幅広い人脈を持っており、財団の同世代の中で彼の右に出るものはいない。「トランプ・蔡電話会談」の4日後、イェーツ氏はトランプ氏の意思を携え台北を訪れ、更に蔡英文総統を表敬訪問した。   「トランプ・蔡電話会談」のアメリカ政界における反応は、ほぼ二極化して現れており、在任中のオバマ政府は、やはり「1つの中国」政策を重ねて表明したので、この電話が長年における米国の対中政策に衝撃を与え、世界の2大経済大国間の協力関係に影響を及ぼしたくないことがはっきりと窺える。しかしながら、民主党の人々及びアメリカメディアによる「1つの中国政策」に対し、トランプ氏本人がツイッターやフェイスブックに続けて投稿し強く反撃しただけでなく、主にトランプ側の要員や共和党内にいる有力政治家もまた、次々と「トランプ・蔡電話会談」への評価を表明し、ホワイトハウスの長く続く硬直した思考を問いただした。トランプサイドの顧問を務めているある元国務院の役人は、実際は「トランプ・蔡電話会談」に関わった人物は皆、長年にわたりアメリカがとってきた「1つの中国政策」を非常に理解しているが、「過去に共和党や民主党の大統領が行ってきた事を、トランプ氏が同じように行うとは限らない。彼にとっては典型的なワシントンのルールが必ずしもいつも最も良いものではない」と言及した。   ◇「台湾」をカードとする米中の新たな角逐   中国にとってトランプ時代の対中政策の不安材料は「トランプ・蔡電話会談」にとどまらない。トランプ次期大統領が蔡総統からの電話を受けたまさにその日に、米下院は圧倒的多数で「国防権限法」を可決し、新法案は20年余りに渡る米台間の軍事交流上の多くの制限を解除し、米台関係の未来を「無限の可能性に満ち溢れ」させた。実際、台湾側はすでにその法案が米の上、下院で通った後の検討・協議を開始しており、台湾の国防相が正々堂々とペンタゴンに足を踏み入れることを待望し、また台湾をアメリカ主導の環太平洋合同軍事演習に参加させ、台、米、日、3者による軍事上の協力を実現するという望みがある。   確かに、習近平体制下の北京からすると、「台湾問題」は決して容易に妥協できない「核心的問題」である。「トランプ・蔡電話会談」は危機であると同時に転機でもあり、少なくともすでに中国はトランプ時代に対する「慎重で楽観的」な認識からは転換しただろう。北京はトランプが就任するまでの残された時間を座視することなく、トランプの弱点と人脈について研究し、同時にトランプ次期大統領の対中政策に影響を与えうる全ての人物に近づくことに大幅に力を注ぎ、40年間に渡ってアメリカが既定してきた「1つの中国政策」が完全に歪められないように確保するだろう。   「台湾」をカードとするトランプ時代における米中の角逐は、新たな幕開けを迎えている。   (原文は『明報』(2016年12月9日付)に掲載。比屋根亮太訳)   英訳版はこちら   <林泉忠(リン・センチュウ)☆John_Chuan-Tiong_Lim> 国際政治専攻。2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員、2014年より国立台湾大学兼任副教授。     2017年1月12日配信