SGRAかわらばん

  • エッセイ516:高偉俊「アジア未来会議に思うこと」

    (第3回アジア未来会議「環境と共生」報告#9)   第3回アジア未来会議が、20ヵ国から397名の登録参加者を得て、北九州市で開催されてからもう2カ月が過ぎました。元渥美財団の奨学生として第1回アジア未来会議の企画当初から係わり、また、私の所属する北九州市立大学が第3回アジア未来会議を共催することになり、現地連絡責任者として大会運営に携わった者として、いろいろな思い出が湧いてきます。   2009年ごろだったと思いますが、私を含めた数人のSGRA会員が渥美財団の今西さんとおしゃべりしているうちにだんだん話が盛り上がってきました。それは、元渥美奨学生(ラクーン)はすでに世界中に広がり、大学の教授になって学生や若手研究者の指導をしたり、研究所や企業等で研究活動を続けている。そのような元奨学生(渥美財団のこどもたち)や彼らが指導する学生や若手研究者(渥美財団の孫たち)が集まる国際会議を立ち上げ、渥美奨学生やSGRA会員の交流の輪を拡げ深めたいという話でした。   翌年、事務局長(当時)の嶋津さんも交えて話す機会があり、そのような国際会議をやりましょう、そして第1回会議は経済大国として台頭する中国の上海で開催しましょう、ということになりました。それから徐々に、会議の名前は「アジア未来会議」とすること、ネットワークを広げるために、SGRA会員だけでなく日本に留学し現在世界各地の大学等で教鞭をとっている方々や、その学生の皆さんにも交流・発表の場を提供すること、限定された専門家ではなく広く社会全般を対象に、幅広い研究領域を包括した国際的かつ学際的な活動を狙いとすることなどが決まっていきました。   2011年4月、第1回アジア未来会議の企画案が出来上がりました。テーマは「世界のなかの東アジア:地域協力の可能性」とし、参加者150人以上の規模をめざし、2012年8月上旬に上海で開催としましたが、その後、諸般の事情により、2013年3月に500人の規模で開催する計画に変更されました。2011年7月18日から21日まで、今西さんと一緒に上海を訪問し、メイン会場として3000人収容できる上海同済大学会場を視察、上海市僑務弁公室副主任蔡建国氏および複旦大学日本センター主任の徐静波先生に協力をお願いし、SGRA会員の上海財経大学の範建亭教授と打ち合わせを行いました。   2012年に入ってから、2回の現地訪問を重ね、着実に会議の準備を進めていましたが、2012年8月に尖閣諸島(中国では「釣魚島」)の「国有化」問題のために中国の反日運動が激しくなりました。国際政治に翻弄され、良き地球市民の実現を目指す渥美財団としては非常に残念ではありましたが、2012年10月に上海での開催を断念し、会場を上海からタイのバンコク市に移すことになりました。開催まであと4カ月しか準備期間がありませんから、慌ててバンコクを視察し、タマサート大学と北九州市立大学に共催を打診し快諾をいただきました。また当初イベント会社に依頼して企画してもらう計画も水の泡になりましたが、そのおかげで、その後の会議はSGRAネットワークを利用して、渥美財団が自ら企画運営する原型になりました。   SGRA会員の積極的な参加、多くの企業等の後援により、第1回アジア未来会議は20か国から332名の参加者を得ました。建築家隈研吾氏の公開基調講演には1200人が参加して成功へ導きました。フェアウェルパーティーにて第3回アジア未来会議の開催地の話が出て、当会議に参加した北九州市立大学の近藤学長から「ぜひ北九州で行いましょう」というお話があり、その場で決まってしまい、北九州市立大学の教授として私は重い責任を感じました。その後、2014年8月にインドネシアのバリ島で、第2回アジア未来会議「多様性と調和」が、17か国から約400名の参加者を得て開催されました。私としても北九州の開催に向けて益々緊張が高まりました。環境首都の旗を掲げた北九州での開催ですから、メインテーマを決めるのはそれほど時間がかかりませんでした。日本語の「環境と共生」の英訳には当初の「Environment and Symbiosis」より広い意味の「共生」を意味する「Environment and Coexistence」としました。   日本で初めての開催、また地方都市の北九州市での開催ですから、参加者が集まるか心配でした。しかし、論文の発表要旨の締め切りをした時点で700編を超える応募があり、改めてSGRAネットワークの強さを感じました。また会議開催に当たっては、投稿論文の査読やセッション座長から受付や会場案内まで、多くのSGRA会員がボランティアで手伝ってくださり、会議の成功に向けて奮闘してくださいました。最も感動したのは、渥美伊都子理事長がご高齢にもかかわらず会議に参加してくださり、大きな励みになったことでした。   北九州市立大学としても、第3回アジア未来会議を創立70周年記念の大行事と位置づけ、学長のリーダシップのもとに、副学長漆原先生を部会長としてアジア未来会議部会を立ち上げ、10回ほどの会合を開いて会議の開催に尽力しました。会議期間中に、職員の応援延べ86人、学生ボランティア延べ134人を動員し、休憩時のピアノの演奏や茶道のお点前など多くのイベントを準備しました。特に感動したのは漆原先生が食堂に立ち、自らマイクをもって、茶道のインベトの宣伝をする姿でした。このような大きな行事の開催によって、我大学としても大きなものを得たことを付け加えたいと思います。   以上のように、第3回アジア未来会議はみなさんのおかげで無事に成功裡に終了しました。渥美財団の元奨学生として、また今回の会議の運営組織の一員として振り返ってみると、アジア未来会議の開催は我々SGRA会員の交流を深めるばかりではなく、社会へSGRAの主張を広げることにより、良き地球市民の実現を目指すSGRAの目標に近づくことにもなったと思います。これからもより多くの方々にアジア未来会議に参加していただき、国境を越えたアジア未来を語っていきたいと思います。   <高偉俊(ガオ・ウェイジュン)Gao_Weijun> 北九州市立大学国際環境工学部建築デザイン学科教授。中国西安交通大学、四川大学、浙江大学等客員教授。SGRA研究員     2016年12月29日配信
  • エッセイ515:林茜茜「天災は頑固に、保守的に執念深くやって来る」

    ◆林茜茜「天災は頑固に、保守的に執念深くやって来る」   天災は忘れた頃に来る。これは物理学者・寺田寅彦の言葉である。初めてこれを見た時、はっと我に返り鳥肌が立ったのをいまだに覚えている。   2016年11月22日の早朝、東北地方で再び大きな地震が発生した。津波警報と同時に、福島第二原発三号機の使用済み燃料プールの冷却装置が停止したというニュースも報道された。幸いなことに、2、3時間後、冷却装置は無事に再起動したものの、その時、日本列島に再び衝撃が走り、人々は5年前のあの悪夢を思い出してしまった。   2011年の東日本大震災からすでに5年も経ったが、原発の問題はいまだに解決されておらず、原発に恐怖を覚えながら、日々を暮らさなければいけない状況もまったく改善されていない。いったい福島で何が起きていたのか、根本的な問題は何であるのだろうか。今回の地震が起きるおよそ3週間前に、東京大学名誉教授の畑村洋太郎先生は、渥美国際交流財団ホールでの「渥美奨学生の集い」で「福島原発事故に学ぶ」という講演を行い、その答えを教示してくださった。   畑村先生は、福島原発の放射能漏れの原因は水素爆発にあったという一般的な認識を否定し、津波による配電盤の水没で長時間全電源が落ちていたため、燃料プールの冷却が不能だったことを指摘した。つまり根本的な原因は、津波がもたらしうる影響を充分に想定できなかったことにあるという。もちろん、事故が起きた原因を究明することも大事であるが、一番重要なのは、この事故から学んだことを今後に生かすことである。先生は、人間は「見たくないものは見えない、見たいものだけが見える」という心理が働くため、想定不足や準備不足による事故に陥りやすいと指摘した。それを踏まえたうえで、このような事故を防ぐには、危険に直面しても議論できる文化の醸成が必要で、自分の目で見て自分の頭で考えて判断・行動できる個人を作り、真のリーダーを育てなければならないと訴えた。   講演後、参加者から多くの質問が出た。例えば、経済効率の点から考えると、原発を推奨する必要性があるのか、中国や韓国における原子力発電の現状はどうなっているのか―このような多くの質問のなかで、私にとって一番印象深かったのは、畑村先生と名古屋大学名誉教授の平川均先生が交わした会話の内容である。先生方は、現在日本の社会は「気」に動かされており、特にリーマンショック以降、他人と異なる意見が言えなくなる状況が深刻化し、ますます村八分的なことが横行する社会になっていると指摘した。   確かに日本で生活してみて、不思議に思うところが多くあった。ここで取り上げられた「気」はまさにそのうちの一つである。「出る杭は打たれる」という表現があるが、日本では度が過ぎていて、個性や他人との差異はあまり認められないようである。それは現在日本でイジメが絶えない原因の一つになっていると考えられる。集団意識、協調性はすばらしいが、同一性を求めすぎると、窮屈になり、社会の活性化はますます難しくなってしまう。   イジメといえば、最近福島第一原発事故で福島県から横浜市に自主避難した中学1年の男子生徒がいじめを受けて不登校になったことが大変注目を浴びている。名前に「菌」と付けて呼ばれたり、「放射能」と言われたりするのみならず、「原発事故の賠償金をもらっているだろう」と言われ、同級生らと遊びに行く時に、遊興費や飲食代など合せて約150万円もの大金を負担させられたという。そのニュースを見た時、本当にあきれてしまった。優しい、思いやりがあると自負している国の子供なのに、なぜこのような残酷なことができるのだろうか。もちろん原因はいろいろあるだろうが、賠償金の事情や避難生活をしている人々に対する社会全体の関心の低さが、その一因と考えられる。今後、原発事故に関連するほかの問題も出てくるかもしれないが、原発事故だけでなく、避難生活を余儀なくされている人々にも、スポットライトをあてる必要があると思う。このように、畑村先生の講演は福島原発事故の問題のみならず、日本の今日の在り方を見詰め直す貴重な機会も提供してくれた。   今回の地震の時、テレビのアナウンサーが繰返し口にした次の言葉が、大変興味深かった。「津波警報が出ています。至急高い所に非難してください。皆さん、5年前の津波を思い出してください。実際に津波で命を失った方がたくさんいました。至急非難してください。」この言葉からは、過去の教訓を生かして、悲劇の再発を防ぐために努力している人々の前向きな姿勢が感じられ、少しはほっとしているが、しかし道のりはまだまだ長い。寺田寅彦は随筆「津浪と人間」で「地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである」と述べ、災害を防ぐ唯一の方法は「人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう」と熱弁している。寅彦が言うように、私たちにできることは、人智が及ばぬ天災が起こりうる現実を直視し、過去の教訓に学んで、絶えずその危機に直面したときのことを考え、警鐘を鳴らし続けるよりほかはないと思う。   <林茜茜(リン・センセン)Lin Qianqian> 渥美国際交流財団2016年度奨学生。2013年4月に早稲田大学教育学研究科国語教育専攻に入学。現在は博士論文を執筆中。日本近代文学、中日比較文学を中心に研究している。     2016年12月22日配信  
  • エッセイ514:グロリア・ユー・ヤン「トランプのアメリカ:鶏足を持ち込んだ華人」

    12月1日、朝5時。眠れなかった。書かなきゃと思った。 「鶏足とトランプ」 どこから始めようか。「アジア人はアメリカに入国する場合、MSP(ミネアポリス・セントポール)空港を避けてください。人種差別を経験してみたいと云うなら別ですが」にしよう。   アメリカ入国審査は、決して愉快な経験ではないけど、ものすごく悪いわけでもない。審査官はコンピューター上に記録を引っ張り出し、それに目を通し、データにタイプし、旅行の目的など短い質問をする。もし審査官の機嫌が悪い時には、殆んど無言で待てば良い。普通は「米国へようこそ」で終わる。この10年間、一貫して学生ビザだったので、質問も段々減ってきた。10月にニューヨークに戻った時もそうだった。   今回のMSPは全く違った。乗客が少ないのに手続きが遅かった。白人の審査官が、ビザ免除の日本人にも大きな、かつ乱暴な口調と手振りで質問していた。彼らは、アメリカ人であろうと無かろうと白人は直ぐに通した。アジア人ばかりが残った。   この中年で禿げ始まった白人の審査官は、私が今まで受けた事の無い、意味不明な質問をした。私の答えを遮ったり、他の質問に飛んだり、又、同じ質問に戻ったりした。終わりが無く、脈絡も無く、かつ乱暴な口調での質問に私は我慢しながら、目的は何だろう、もしかして、「審査室」に連れ行きたいのかと考え始めた。   たくさんの質問の後、彼はやっと口を閉じ、今度は私のパスポートを見始めた。世界各国のスタンプをパラパラとめぐりながら「何でこんなに多くのアメリカビザがあるんだ?」と聞いた。 「最近まで、アメリカは中国人に毎年ビザを更新する様に要求していたから。」(その都度、200 ドル、取られました。) 私は非常に慎重だった。仕方がない。彼は随意に私の入国を拒否出来る。彼自身もその権力をよく知っている。   彼はボールペンを取り出し、入国スタンプに、ひとつずつ線を引きはじめた。何でずっと残しておいたのかと文句を言いながら。 アメリカ入国スタンプで一杯のパスポートを2冊持っていた。いままでの入国審査官は誰も何も言わなかった。私は、彼が私の唯一のリーガル・ドキュメントに線を引くのを見ていたが、現在有効なビザにも線を引こうとしたので、声を出し止めさせた。 他の審査官が3人か4人を通過させた時、彼は質問を聞き尽し、これ以上は諦めた、と思ったのは私の思い違い、これからがスタートだった。   「ところで、どこの国から来たの?中国?」(最初から私のパスポートを見ていたはずです) 「はい。」 「荷物はいくつ?」(この質問は国籍の質問の前に聞かれたばかり) 「ひとつです。」 「ひとつ…食べ物は持っている?」(これは普通、税関での質問ですが) 「いいえ。」 「持ってない?」 「持っていません。時間がなかったので。」 彼は目を細めた。「月餅も持っていない?」 月餅。 中秋でもないのに月餅。私が中国人だから?このくだらない会話の行方が段々分かってきた。 「月餅? なぜですか。持っていません。」 「本当に?」 「持っていません。今回は日本から来たので。」 「持ってない?月餅も鶏足も持ってない?」   鶏足。 鶏足。 中国人だったら、必ずこの異国情緒たっぷりで未開地の気持ち悪い食べ物を食べる。そして、この偉大なアメリカにこっそり持ち込む。 ただし、私は彼の間違った知識と非道徳性を正す権利を持っていない。彼は権力者であり、私は外人として、鶏足に答えなければならない。 「私は鶏足を持ち込んでいません。」 「本当かい?鶏足のようなものも持ち込んでいない?」 「ここに10年近く住んでいますが…」 彼は私の言葉を遮って「10年だろうがそれ以上だろうが、<彼ら>は鶏足を持ち込んでいる。」 「私はしません。」 「私は嘘を言ってないよ。」彼は呟いて、「<彼ら>はここに持ち込んでいる。我々はそれを見たんだ。<彼ら>は持ち込んでいるんだ。」   「彼ら」という言葉が私の体と頭の中に響いた。彼のつぶやきも聞こえなくなった。   ある不法移民のメキシコ人がいる故に、どのメキシコ人も不法移民かどうか疑う。なぜかというと、「彼ら」は不法移民だから。 ある犯罪者の黒人がいる故に、どの黒人も犯罪者かどうか疑う。なぜかというと、「彼ら」は犯罪者だから。   今回の選挙で、なぜアメリカの人々がトランプを選んだのか、やっとわかり始めた。 「私ではない。 」もうそのまま引き揚げようかと考え始めた。 「…オーケー。書類と荷物を持ってあそこに行って検査を受けて。」 いつもの「米国へようこそ」の挨拶は、プロトコールなのか優しさなのかわからないが、もうどうでもいい。 彼がテーブルに投げて寄こしたファイルを持って税関に向かった。   税関の官吏に「食べ物は?」「ありません。」「無い?野菜は?」「無い。」「リンゴは?」「無い。」「肉は?」「無い。」「生魚?」「無い。」「XXXXは?」「無い」 「オーケー、青い線のところでバッグの検査を受けて。農産物のXXX」 私の言葉が信じられないのなら、何故聞くの?   バラバラにされた荷物の現場。一人の若い女性が日本語の説明がついている使い捨てカイロについて怒っているような検査官に必死に説明していた。その後彼女はリパックし、「ありがとうございます。」という挨拶をしに来た。検査官はそれに応えず、こちらに向かって「あんたは感謝するべきだ。」と独り言を呟いた。そして私の書類をとり「バッグを載せて、黄色の線に沿って行きなさい」と。バッグを通し、食べ物がなかったことでちょっとびっくりした検査官は私に書類を渡した。「良い一日を。」 次の国際到着便は白人が多く、誰もが大きなバッグを持っていたが、X線検査に向かうことなくパスしていた。   もう限界を超えた。信じられない。ただの官僚的な無礼では済まない。そうではないからだ。私には反論する選択肢さえ与えられなかった。お互いに平等でない限り、グッド・ハートなど有りえない。 これを過剰反応とは思わない。一人のアメリカ人が日本人か中国人の入国審査官から、「カウボーイハットを持っているか?冷凍の七面鳥は?臭いチーズは?」と聞かれ、アメリカ人がなんと答えるか想像してみよう。そしてアメリカ人は「いいえ」と答える時を。「本当に?全てのアメリカ人は常に気味の悪い、胸の悪くなる様な食べ物を持っている。常にですから、あなたもね。」 もし私がまだ20代だったら、入国審査官に言い返しただろう。「今、鶏足やあひる足、また七面鳥の足でもニューヨークのスーパーで買えるよ。いろんな味で、オーガニックも、全てアメリカ製」と。 しかし、今回の選挙でわかったことは、皮肉は人種差別との戦いに勝てない。   20代で初めてアメリカに来た時、こんな質問には会わなかった。人々は強い偏見を持っていたかも知れないが、素直に会話を交わし、そして、考え方を変え、お互いの違いを受け入れた時期だった。過去10年、私は外国でも中国でも、人種、性別、そして、国籍に対する様々な差別と一生懸命闘ってきた。どこでも、アジアの文化、社会、政治について話すことによって、文化の多様性と社会の寛容性の尊さを知ってもらうために努力してきた。 20代に聞かれなかった鶏足の質問。2016年に来た。   アメリカ人は様々だ、その通り。良い人も沢山いる、本当に。しかし、本当の多様性というのは一方的なものではない。中国人、日本人、そして他の民族もアメリカ人と同じように、様々であるということを認めなければならない。そうでなければ、アメリカの多様性とは、1930年代に「五族協和」を宣伝した日本の植民地「満州国」と同じように偽善的なものではないだろうか。一言でいうと、アメリカは、白人をトップとし、中国人は中華街のキッチンに、メキシコ人はデリバリーの自転車にと、階級社会を前提とした複数の人種が共存する社会なのだ。   セキュリティゾーンを出る前に、もう一度振りかえってみた。彼らは正義の味方のように行動していた。お国の為だから。彼らの人種差別的な行動は愛国主義の名のもとに正当化される。それに私はぞっとする。今回の選挙結果は、外国人には乱暴な言葉や行為を振る舞えることを正当化した。新しい「偉大な」大統領と同じく、外国人を違法移民か、アメリカの「偉さ」を奪う盗人として見ても良いという結果になった。 「偉大な」アメリカは心底嫌いだ。   ニューヨークへの乗り換え便の中で、私は沈黙していた。隣の席に座った男性が荷物をキャビネットに入れ、軽く挨拶した。「こんにちは。」 その瞬間、ずっと我慢していた涙が落ちた。 2006年、私が初めてアメリカに来たとき、ピッツバーグ行きの乗り換え便で、まさしく同じ言葉を投げかけられた。今でも覚えている。その後、父にこう言った。「アメリカ人は優しいね」と。   選挙の後、何日も泣いた。英語、中国語、日本語で書かれた記事を読んで、悩んで考えた結論は、私はアメリカの大学で東アジア美術史を教える。たとえ、そこが中西部であろうと田舎であろうと。誰かが闘わなければならないからだ。しかも一生懸命に。教育に恵まれてきた私は、教育の力で偏見や差別を消すことができると信じていた。 が、今日は完敗だ。もう、これ以上無理だ。   アジア人のみなさん、アメリカへの入国にあたってはミネアポリス・セントポール空港を使ってはいけません。私達は戦いに敗れたのです。   追伸。2日後 つらかった。あれ以来2日間、私は米国国土安全保障省税関・国境取締局、MSP空港に事実抗議書を出し 、大学の学長と国際センターに手紙を送った。何もならないとわかっても、やるべきだと思った。 しかし、これでも私の気持ちは晴れなかった。逆に、怒り、落胆した後、深く落ち込んだ。   フェイスブックやメッセンジャーのコメントに返事をする気にもならなかった。 「白人である私にとっても国境を越える時の対応は悪かったよ。」 「鶏足はただあなたの国の代表的な食べ物の例としての質問ですよ。」 「なんなのこの悪い男!」 「アメリカ人の偽善さが今更わかったのかい、大げさだね。」 また、これがきっかけとなり、選挙後、アメリカ国境でアジア人に対する様々なひどい話を聞いても言葉が出なかった。   人々がなぜ、またどうやって自分の見方や経験から偏見や認識を抱くのか、私は良くわかっている。これは偶然ではない。アメリカ国境管理官の労働組合「国境巡回委員会」は公にトランプを支持していた。そして、私は、今まで差別に遭った瞬間に、自分自身に「これは私の感情的な過剰反応ではないか。」と毎回チェックしている。そして、今回を含む事件の答えはノーだった。   ニューヨークへの乗り換え便に乗った時、目の前のたくさんの白人たちが一瞬、全てトランプ支持の人種差別主義者に見えた。非合理だが強い感情に動揺し、背筋に悪寒が走った。このような負の感情に押しつぶされ、絶望的な不信感によって心にブラックホールができた。感情は実に重要なものだ。そもそも、今回の選挙では、知恵の欠如ではなく、恐怖と不安の気持ちに巻き込まれ、判断力を失った多くのアメリカ人がトランプに投票した。   1週間後、私は国際センターのディレクターとこの事件について話した。MSP国境管理官に問合せてくれることになった。そのあと、彼は聞いた。 「今から、あなたのことについてちょっと話しましょう。あれからどうですか。気分は。」 聞かれた瞬間、私は鬱になった理由がわかった。戦うことは、傷を癒すこととは別だから。 事件が解決に至るかどうか別として、私は傷ついた。その傷は深い。「私たちはあなたが癒されることを願っています。」 不思議に、その時からだんだん「私は大丈夫だ」と感じるようになった。傷は痛くてもきっといつかは治る。一週間の間に色々な人からもらった励ましも聞こえるようになった。   「選挙後の現実に、どう対応すればよいか。」戦う。そして自分を癒す。極めて難しい、そして苦しいことだ。ただ、そうしなければ、今後の厳しい現実を乗り越えられないだろう。   原文(英語)   <Gloria Yu Yang(グロリア・ユー・ヤン)楊昱> 2015年度渥美奨学生。2006年北京大学卒業。2008年からコロンビア大学大学院美術史博士課程に在籍。近現代日本建築史を専攻。2013年から2015年まで京都工芸繊維大学工芸資料館で客員研究員、2015年から東京大学大学院建築学伊藤研究室に特別研究生として、植民地満洲の建築と都市空間について博士論文を執筆。2017年5月卒業予定。   2016年12月15日配信   ------------------------------------------------------ ◆SGRAエッセイ「鶏足とトランプ」をめぐって   前回のSGRAエッセイ「鶏足とトランプ」に対してSGRA会員の葉文昌さんからコメントをいただき、さらに著者のグロリアさんから回答がありました。読者の皆さんにも考えていただきたい内容なので、お二人の許可を得てご紹介します。グロリアさんからの「急いで書いたので考慮が足りない部分がありますが、一緒に考えてください」というメッセージをお伝えします。   〇葉⇒ヤン   アメリカでのひどい経験、お気の毒でした。 でも他国へ行ったことがあれば、このようなことはどこかで経験しているかと思います。このような偏見は、どの国でも起こり得る事です。起きるたびに、自分がスティクホルダーである国ではどうなのかと自問し、それを解消できるよう自分なりの努力をするのが良いと思います。他国の事を変えるのは、その国のスティクホルダーしかないのです。   ヤンさんは不幸にもひどい仕打ちを受けましたが、でも実際にはアメリカには非差別主義者も多くいる訳で(差別主義者よりも多いかもしれない)、今回の経験からアメリカは変わったと嘆くのはまさに差別主義者の思う壺で、世界を分断の方向に向かわせることに加担することになるのです。   更にヤンさんは「この中年で禿げ始めた白人」と書きましたが、「中年」「禿げ」「白人」は不要な情報で、これこそヤンさんを差別した差別主義者と同じことをしているように思います。   ひどい仕打ちを受けたのは本当に気の毒でした。次は、アメリカの優しい一面に出会えることを願っております。   ヤン⇒葉   ご拝読とご意見いただき、まことにありがとうございます。 葉様のコメント、非常に興味深いと思っております。   まず、冒頭に私が述べたように、今回の事件はアメリカの国境管理の中での異常です。   また、葉様は「でも他国へ行ったことがあれば、このようなことはどこかで経験しているかと思います。」とおしゃいますが、「人種差別が必ずどこかで起こっているから、今回の事件も普通」という推論こそが問題です。どこの国の国境管理においても、このような人種差別の行為は間違ったことであり、それを「普通にあることだ」とか「現実なのだ」などと語り、その行為を正常化することは、逆に人種差別を助長しているのです。どこであろうとも戦うべきなのです。 また、過去10 年の間に、アメリカで様々な人種差別の経験をした私から見ても、今回の人種差別はひどく、憂慮すべきです。その背景は複雑ですが、最近『ニューヨーカー』とか『ニューヨークタイムズ』などで沢山の分析が成されているので、是非お読みください。   次に、私は落ち込んだ理由は、事件そのものではありません。この事件をアメリカの最近の政治文脈の中においた時、浮き彫りにされるのはアメリカ社会の二重構造、「非差別主義者」の「無責任」や「偽善」など、様々な社会・政治・文化の憂うべき側面なのです。選挙の頃、私はちょうどニューヨークにいたので、その場で痛感しました。選挙によってリベラルな考えの人がみんな落ち込んでしまっている時期に、のんきな楽観主義は「毒」とも言えるでしょう。アメリカはただの多民族融合やただの民主国家ではありません。アメリカは、黒人、女性そしてアジア人に対する差別と戦ってきた歴史があります。最近注目された、警察官による黒人の射殺、同性愛者の結婚の合法化、環境への悪影響のために原住民が反対するダコタ・アクセス・パイプライン、ロシア・ラングが撮った強制収容所に移送される日系アメリカ人の写真、そして選挙の翌日から起きたたくさんのイスラム教徒へのヘイトクライムなどが証明しているのは、アメリカは度々白人至上主義にやられてきた、またそれと戦ってきたという事実であり現実なのです。   もし葉様が今アメリカにいらっしゃったら、アメリカの「変わった」環境を体験することもできると思いますが、このエッセイに書いたように、今だからこそ、「分断されたアメリカ」、また、世界が「分断されて行く傾向」を直視しなければならないのです。   このような差別と戦う経験の中で深く認識が変わったのは、私だけではないのです。さらに、彼らの多くはーダコタの原住民や収容所に送られた12万人の日系アメリカ人は、認識だけではなく、運命が変わったのです。もちろん私は一人で戦うのではなく、たくさんの非差別主義者と一緒に戦います。ただ「そうじゃない人やそうじゃない場所」に目をそらすことは、本質を見逃すことであり、問題の解決にはならないのです。   私はミネアポリス空港の抗議書(そこに事実でないことを書いたら罰になります)にも「中年middle-aged」「禿げ bald」「白人 white」を書きました。何故なら、入国審査官の名札を見ておらず、制服も一緒なので外見の特徴で人を特定するための情報として書いたのです。この3つの言葉は、英語の形容詞です。私は女性female、メガネglass、黒い髪 black hair、アジア人asianだと描写することができます。文学性がなくても、見た目の枠で人を書き出すとこうなるのです。   このエッセイは、単に個人的な事実や感情を記述しようとしたものではありません。この事件についての「考え」がポイントなのです。それは、鶏足ではなく、(1)トランプのアメリカにおける人種差別の高まり、(2)この時期だからこその「人種差別と戦うべきスタンス」と「人種差別より受けた傷を治す方法」の2つです。   ご質問にお答えできたどうかわかりませんが、ご指摘ありがとうございました。   〇葉⇒ヤン   返信ありがとうございます。 「中年で禿げ始めた白人」は差別ではないことは理解しました。   同じことを申し上げますが、アメリカがどの様な国になろうとも、それはアメリカ国民が決めることなので、よそ者ができる事は限られています。己が頑張れる事は、住んでいる国または出身国に対して意見を言う事だと思います。そして身内に意見を言う事は、よそ者に対して意見を言うよりも、勇気が必要です。しかしそれは社会の進歩に必要なのです。ちなみに私は身内に関しては見て見ぬふりはしていないつもりですよ。グロリアさんは身内の中国または日本について、何か意見を言ったことありますか?私は差別に関しては、台湾はアメリカよりも遅れていると考えています。だからアメリカに対して意見を言えたものではないと思っています。   ヤン⇒葉   ご返信とご理解ありがとうございます。   もちろんどの国でもよそ者として出来ることは限られます。しかし、よそ者だからこそできることもあります。例えば、よそ者によって、身内では普通だと思われている価値に潜在する差別を明らかにすることが出来ます。   多分、根本的な考え違いは、葉様の以下のご意見です。   「アメリカがどの様な国になろうとも、それはアメリカ国民が決めたことなので…己が頑張れる事は、住んでいる国また出身国に対して意見を言う事だと思います。」 また 「私は差別に関しては、台湾はアメリカよりも遅れていると考えています。だからアメリカに対して意見を言えたものではないと思っています。」   この2点については、申し訳ありませんが、 知識人として、決して同意できません。しかしながら、お互いの考え方のベース(時代背景や世代差の経歴など)を尊重するため、反対の理由は省略させていただきます。   最後の質問に対して、もうすでに書いていたように、私は過去10年間、どこでも意見を言って、差別と戦おうと努めてきました。しかしながら、目をそらしたこともありました。だからこそ、今は、どこででも、言うべきことは言う必要があると思っているのです。 社会はただ進歩するものではなく、人の行動で進歩させるものです。   〇葉⇒ヤン   ご意見ありがとうございました。またお会いした時に色々お話できればと思います。     2016年12月22日配信
  • エッセイ513:ジッリォ エマヌエーレ・ダヴィデ「イタリアと日本との『良き合成体』を目指して:日本に来て8年目に思いついた、ちょっとした雑感」  

      小さい時から日本に憧れていた。日本に初めて来るとき、「日本文化こそ人類文明の最高頂点であり、私も人間として進化するためにぜひ日本の文化を吸収したい」という心構えでやってきた。今年で東京にきて8年目になる。この8年間にはもちろん、「日本文化の『闇』の部分」と思われるところにも直面した。しかし、それで「もう日本なんて嫌いだ」とか、「もう帰りたい」とかは、少しも思わない。今思っているのは、「日本は非常に民度が高い;非常に民度が高いからこそ、その分「『悪』の部分がより特定し辛く、しかも鋭い」ということだ。そこで、私がずっと目指しているあり方はだいたい次のようなものである。   まずイタリア人として、イタリア人にしかできない観点から、イタリア文化の悪いところに気づき、乗り越え、いいところだけを残す。そして、日本の文化を少しずつ吸収することで、今度は日本人に限りなく近いあり方にもなり、日本人と同じような観点から、日本文化の「悪い」と思われるところを理解し、乗り越え、いいところだけを身につけていく、というような、イタリア人と日本人との「良き合成体」と呼ぶべきあり方だ。   なぜ「日本人に限りなく近いあり方にもなり、日本人と同じような観点から」と言うか。「そこまでする必要があるのかな」と考える人もいるかもしれないが、私の場合は「西洋人だから日本なんて簡単に吸収し、超えられるんだ」と最初から思っていたからではない。日本のことを「下手に」馬鹿にしている外国人とか、もしくは―8年前の私にはそういうところもあったかもしれないが―日本に「下手に」憧れているような外国人もまだいるだろうが、「いや、私はできれば、そうなりたくはない」と心から願っているからなのだ。   「でも私はあくまでも『なになに人』だよ」とか「私はまず『なになに人』だよ」と言う人がいる。例えば『イタリア人』『フランス人』『アメリカ人』『韓国人』『日本人』とか。それでもいいと思う。ただ、私個人は、実験的に「私はまず人間だよ」という立場に立ってみたい。この実験は、今この世界に存在している色々なアイデンティティを危険にさらしてしまうかもしれない。しかし、「でも私はあくまでもイタリア人だよ」とか、「私はまずイタリア人だよ」というあり方は、私個人には、本質であるはずの部分(=人間)と、属性であるはずの部分(=『なになに人』)とを逆転させてしまう危うさを持っているとしか思えない。   よく考えれば、属性を本質と間違えてしまうというのも、危ないのではないか。ならば、どちらにしろ危ないのなら、私は自分の一番好きなあり方を選んでみたい。つまり、心さえ広げれば、誰だってどの文化も理解し、いつだって何人にでもなれるではないかという、良き地球市民のようなあり方だ。決して楽な道ではないと思う。しかし、異文化をどれだけ受け入れ吸収できるのか、というようなことを日々問われるという、「考え方のグローバル化」がこれから始まろうとしていると考えると、なおさら今言ったようなあり方を選択してみたい。   <エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ☆Giglio,_Emanuele_Davide> 渥美国際交流財団2015年度奨学生。トリノ大学外国語学部・東洋言語学科を経て、2008年4月から東京大学大学院インド哲学仏教学研究室に在籍。2012年3月に修士号を取得。現在は博士後期課程に在籍中。身延山大学・東洋文化研究所研究員。     2016年12月8日配信
  • エッセイ512:謝志海「インターネットと若者の◯◯離れ」

    最近よく耳にするフレーズ「若者の◯◯離れ」。◯◯の中には酒、車、タバコなどが入るそうだが、私がこの事についてかわらばんに書こうと決めた後にも、若者が離れていったというものに続々と出会う。テレビ離れ、本と本屋離れになんとガム離れまで。   先日の週末は映画館に新作のハリウッド映画を観に行った。この映画はシリーズ作の第4弾。8月には俳優陣もプロモーションで来日していて、私は期待して観に行った。内容は、現代の世相が反映されていて最初から最後まで退屈なシーンなどなかった。高揚した気分のまま映画が終わり、劇場内にライトがついた。観客がゾロゾロ出口に向かう。そこで私は驚愕した。「若者がいない」。探したが、大学生らしき人はいなかった。中高生は無論いない。来館者の全てが40~50代もしくはシニア層。若者の◯◯離れを肌で体感した瞬間だった。しかし冷静に考えれば、私が通うこの映画館ではこれまでどの曜日、時間帯に行っても若者が少なかった。大学生が一番映画館に足を運ぶ時間があると思い込んでいたが、現実は大きく違うようだ。   では色々な物から離れた若者はどこにいるのだろうか。酒造、自動車、出版、製菓メーカー等、若者に去ってゆかれた業界は彼等をもう一度振り返らせることに必死だろう。そして、若者はスマートフォンを通じインターネット上にいるのだろうと薄々察しがつく。   ヤフージャパンのニュース記事によると、若者のガム離れの原因もスマートフォンの普及だそうで、電車に乗っている退屈な時間に噛まれていたガムがスマートフォンのおかげで売れなくなったそうだ。本屋離れにしたって、スマートフォンで説明がついてしまう。インターネット上にあふれる無数の情報や読み物。わざわざ本を購入しなくとも、単純に読むもの(情報)は簡単に手に入る。どうしても本として読みたければ、オンラインショッピングでポチっとすれば、家に届く。本の中でも特に雑誌が売れないとテレビニュースが取り上げていたが、確かに電車の中で雑誌を読んでいる人は本当に少ないというか、久しく見かけていない。今はアプリをダウンロードして、月に数百円の定期購読代を払えば、そのアプリ上の様々なジャンルの雑誌がいつでも読み放題の時代。広告だらけの重い雑誌を持ち歩かずにすむ。   「若者の◯◯離れ」の大方はスマートフォンの普及ということで説明がついてしまうのではないか。スマートフォンの製造メーカー、アプリ、ソーシャルネットワーク、通信メーカーといったインターネットで商売する業界は、集まって来る若者を逃すまいとこちらも必死だろう。日々様々なアプリが誕生し、ソーシャルゲームは次々と更新され、ソーシャルネットワークには色んな機能が追加される。私には到底ついていけないのだが、若者はこういった新情報にも敏感である。   所変わって、中国の事情。特に若者が離れていくという現象は見られないものの、日本で起きている状況とおおむね代わりはない。中国はもう世代を問わずスマートフォンに夢中という感じだ。中国本土では未だにYouTube、Facebook、Gmailはアクセス出来ないが、そんなことどこ吹く風。スマートフォンの用途は日本より多岐に渡っていると言っても過言ではない。代表的なのはモバイル決済。最近よく耳にするフィンテック(Fintech)。例えば、中国ではアリババのアリペイ(Alipay)等のモバイルオンライン決済。これに関しては、日本はアメリカや中国に大きく遅れを取っている。そしてこのモバイル決済が発達しているがゆえに日本よりも早く普及しているビジネスが配車サービスである。代表的なメーカー、ウーバー(Uber)はタクシーの捕まりにくい北京や上海ではすでに人気のサービスである。中国の若者にとってもスマートフォンは生活に欠かせない存在となっている。   すでに若者離れを痛感している企業にとっては、自社の製品とインターネットをどう融合させるかがキーポイントとなるだろう。すでに様々なメーカーがテレビコマーシャルだけでなく、動画配信サイト上にもコマーシャルを流している。また、製品専用のアプリを作り、消費者同士がそのアプリ上で交流出来る仕組みを作ったり、ポイントを貯めて使えるシステムを構築したり、企業のウェブサイトやアプリ上で消費者が何かとお得に感じられるように企業側も必死だ。こうしてインターネットの世界は無限に広がっていく。   <謝志海(しゃ・しかい)Xie_Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている     2016年12月2日配信
  • エッセイ511:沼田貞昭「アジア未来会議-新しい息吹き」

    (第3回アジア未来会議「環境と共生」報告#6)   筆者は、北九州市で9月30日−10月1日に開催された公益財団法人渥美国際交流財団主催第3回アジア未来会議に参加した。2013年3月にバンコックで開かれた第1回会議、2014年8月バリ島で開かれた第2回会議にも参加した。400名の参加者が熱心に議論を交わし合う姿を目の当たりにして、渥美奨学金により日本で博士号を取得した人々を中核とするアジアおよび他の地域の知的ネットワークが、今やインドネシアなどの若い学生・研究者の新しい息吹もあって着実に拡大していることを心強く思った。以下、筆者の参加したセッションについての感想を記す。   ◇9月30日午前 AFC_Forum_#2「東南アジアの変わりつつある社会環境に対する宗教の反応」   (1)筆者は、1976−78年スハルト「新秩序」の軍の二重機能の下で政治勢力としてのイスラームの影響力は限られていたインドネシアに在勤し、2000年−2002年には駐パキスタン大使として、近代的穏健イスラーム国家を標榜しながらも急進イスラームの勢力伸張に伴う深刻な不安定要因を抱えた9.11事件前後のパキスタンの姿に接していた。このような経験に鑑み、「1998年後のインドネシアにおける民主主義のデイレンマ:一層の自由は宗教間の対立が深まることを意味するのか、対話が進むことを意味するのか?」とのガジャマダ大学ムンジッド・アハマッド氏の発表は極めて興味深いものだった。   今日のインドネシアは、スハルト・ファミリー及び軍部の強権的支配の崩壊後、政治の民主化、地方分権化が進みつつあること、また、経済成長が進み「イスラーム大国」に変貌しつつあること、民主主義の進展と自由の拡大が異宗教間の対話を進める契機となり得ることなど、筆者にとって学ぶことは多かった。なかんずく、アハマッド氏他インドネシアからの参加者が、自国の抱える問題を闊達に議論していたことが印象的だった。と同時に、インドネシアと比較すると、ムシャラフ政権の崩壊により軍部支配は一応終わったとは言っても、民主化の進展にはまだまだ障壁が残り、多種多様な人種・地域からなる国家を統一するシンボルとしてのイスラームのあり方が急進派と穏健派の間で激しい対立抗争を呼んでいるパキスタンは、何時イスラーム国家として安定するのだろうかとの疑問を禁じ得なかった。   (2)続いて「フィリピンにおける気候変動とカトリックの反応」(アテネオ・デ・マニラ大学ジャイール・セラノ・コルネリオ氏発表)をめぐる討論で、気候変動のもたらす環境破壊、災害の被害者である貧者に対するカトリック教会の取り組みに見られる社会的宗教的正義の問題が取り上げられた。タイの教育関係NGO代表ヴィチャク・パニク氏は、「人道に反する仏教:愛とか親切心ではないもの」と題する発表で、仏教がナショナリズムの一部ないしは支配階級の政治的道具として使われる場合には、人命をも脅かす強圧的なものになりうる危険を指摘した。フランスの現代東南アジア研究所カリヌ・ジャケ氏は、「宗教と救援活動:ミャンマーにおける宗教関係団体と社会的貢献の役割」と題する発表において、ミャンマーの辺境地域などの自然災害被害者に対する仏教団体、キリスト教団体の救援活動を通じて、国家が十分に果たし得ない救援などの社会貢献活動ネットワークが広がって行く可能性を指摘した。   (3)セッションを総括したエリック・クリストファー・シッケタンツ氏(東京大学)は、宗教が民族ないし国家のアイデンティティを誇示する手段として使われる時に政治的対立がしばしば生じるが、宗教が政治的対立に巻き込まれないようにして行くにはどうしたら良いか、また、地域ないし国家のアイデンティティを超えて宗教が果たし得る役割にはどのようなものがあるかを考える必要があると指摘した。   (4)以上の討論を聞いていて、筆者は、アジア各国における多様な宗教状況についてこのような議論を聞く機会は日本国内では極めて少なく、インドネシアにおけるイスラーム、フィリピンにおけるカトリック、タイ及びミャンマーにおける仏教がそれぞれ果たしている役割及び抱えている問題についての日本の一般国民の理解は皮相なものにとどまっており、この日の討論のような内容を日本国内で広めていくことが必要であると感じた。   ◇10月1日午前「平和」分科会(2)   筆者がミラ・ゾンターク立教大学教授とともに共同議長を務めた本分科会では、多民族・多文化社会であるインドネシアと平和国家を目指す日本の直面する問題に関してそれぞれ2つの発表が行われた。   (1)インドネシア   〇「宗教的シンボルの無い教会」(バンジャルマシン宗教・社会研究所シリ・タラウィヤ氏) 南カリマンタン州首都バンジャルマシンのイスラーム社会の中に存在する少数のキリスト教ベテル派信者と周辺住民との間に、信者の集まりに伴うゴスペル等の騒音、駐車問題等を巡り摩擦が生じ、ベテル派追放の動きもあったが、イスラーム系住民の中にも共存しようと努める向きもある。他方、地方政府当局の硬直的介入がかえって事態を混乱させている。   〇「モルッカ諸島におけるサニリ(伝統的合議体)を通じる紛争解決及び環境保存」(ジョグジャカルタ大学スハルノ講師) 中央政府がインドネシア全土にわたって「村」という同一の行政単位を広めようとして来たのに対し、モルッカ諸島では、伝統的な合議体であるサニリが例えば漁業資源の有効利用、保存といった問題について調整機能を発揮している。1999年のアンボンにおけるイスラーム系住民とクリスチャンの流血の対立への政府・公的機関の無為な対応ぶりは、サニリという「土地の知恵(local_wisdom)」への住民の志向を高めた。   〇この2つの発表は、インドネシアのような多文化社会では、異宗教・異民族間の様々な問題が地域レベルで生じるところ、これに対する中央ないし地方政府の画一的な対応には限界があることを指摘する点で共通していた。 (2)日本   〇「至上の法としての憲法遵守:憲法9条と日本の平和主義」(デリー大学准教授ランジャナ・ムコパディヤーヤ博士) 1947年5月5日に日本の仏教、キリスト教等宗教関係者からなる全日本宗教平和会議は、先の戦争を阻止できなかったことについての「懺悔の表明」を行った。仏教界は「聖戦」の名の下に戦争と植民地拡大を支持したことを反省し、憲法9条の戦争放棄条項を仏教の非暴力の教えを具現するものと考えた。キリスト教徒も同条項を「汝殺すなかれ」の教えを反映するものと捉えた。このようにして、日本の宗教界は憲法9条改正に反対する平和運動の主要な勢力となって来た。   〇「地球温暖化、戦争、原子力の三角関係」(木村建一早稲田大学名誉教授) 地球温暖化防止のための炭酸ガス排出制限を定めた京都議定書の下でも軍事目的のためのエネルギー使用についての抜け道がある。米国、中国等の武器生産・使用等の軍事支出のうちかなりの部分が炭酸ガス排出につながるという意味で、地球温暖化は戦争にも関連している。原子力発電は温暖化防止に役立つとして推進されてきたが、日本においては2011年の福島の原発事故以来多くの原発が閉鎖を余儀なくされている。また、原発に蓄積されるプルトニウムは、核兵器生産に使用され得るものとして、非核3原則との関連で深刻な問題を提起している。地球温暖化、エネルギーの問題を考えるにあたりこのような相関関係を考慮する必要がある。   〇この2つの発表は、憲法改正、原子力発電という現下の懸案を考えるに当たり興味深い視点を提供するものだった。   ◇10月1日午後「教育」分科会(3)   筆者が傍聴したこの分科会では、いずれもインドネシアからの4人の学生・若手研究者が、英語教育に関わる発音訓練、YouTubeの利用、グローバル言語とローカル言語、外国人とのコミュニケーション成立過程についてそれぞれ発表を行った。筆者がジャカルタに在勤していた30年前に比べて、インドネシアの学生とか若手研究者の英語習熟度及び発表意欲が著しく高まったことに印象付けられた。   「環境と共生」という今回会議のテーマのうち筆者が参加したセッションは、平和と宗教、多文化社会の問題、環境等に関するものだったが、これらの問題を世界レベル、国家レベル、地域社会レベルで複眼的に把握する必要があること、さらにそれぞれのレベルでのガバナンスの問題に取り組む必要があること、また、インドネシアのような多民族・多文化国家は、日本国内には見られないような様々な課題を抱えていることを明らかにするものだった。また、筆者は英語で行われたセッションに参加したので特に感じたのかもしれないが、今回会議に国外から78名と最も多く参加していたインドネシアの若手研究者とか学生の強い意欲と熱気に感銘を受けた。   <沼田 貞昭(ぬまた さだあき)☆NUMATA Sadaaki> 東京大学法学部卒業。オックスフォード大学修士(哲学・政治・経済)。 1966年外務省入省。1978-82年在米大使館。1984-85年北米局安全保障課長。1994−1998年、在英国日本大使館特命全権公使。1998−2000年外務報道官。2000−2002年パキスタン大使。2005−2007年カナダ大使。2007−2009年国際交流基金日米センター所長。鹿島建設株式会社顧問。日本英語交流連盟会長。     2011年11月10日配信
  • エッセイ510:ブレンサイン「中国の少数民族地域におけるバブルとその遺産」

    (第3回アジア未来会議「環境と共生」報告#5)   ここ十数年の急激な経済発展を経て、中国は世界第2の経済大国に成長した。このプロセスを1970から1980年代にかけて急成長した日本に例えて「中国版バブル経済」という人もいる。しかし、勢いよく続いてきた中国の経済発展にも、ここに来て陰りが見え始め、中国経済のバブル的な発展はもう終焉を迎えているのではないかと囁かれている。いずれにせよ、21世紀に入ってから現在に至るまでの中国は、経済発展による激動の時代であり、13億の人口を抱える大国の国内の状況が目まぐるしく変化した。   そもそも中国は漢族以外に55もの少数民族を抱える多民族国家であり、文化と歴史の異なるこれらの少数民族の人々は広範囲に「自治区」を形成して居住している。急激な経済発展のなかで、これらの少数民族の人々が等しくその恩恵にあずかり、各少数民族自治区の経済状況も共に発展したかどうかについては、必ずしもその状況がよく伝わっているとはいえない。これらの少数民族の多くは人口が比較的少ない辺境地域に居住しているが、これらの地域には各種の資源が豊富で、特に地下資源は以前から中国全体の経済発展を支えてきた。   中国は1990年代後半から資源輸入国に転じ、「世界の工場」に変身した今日、原材料の供給地は全世界の隅々にまで及んでいる。急激な経済発展下における原材料調達と製品輸出によるグローバル化のなかで、国内少数民族地域の状況が見えなくなり、以前にも増して風通しが悪くなっていることも事実である。私たちは、急激な経済発展期における少数民族地域の変化、そして伝統的な資源供給地であった少数民族地域、少数民族の人々が如何にバブル的な経済発展の洗礼を受け、いかなる遺産を引き受けたのかを知る必要がある。色々な意味において、上海や北京だけではなく、内陸部で起きたリアルな変化を把握することによって、はじめて中国の立体的な姿を捉えることができる。第3回アジア未来会議では、このような問題意識をもって自主セッション「中国の少数民族地域におけるバブルとその遺産」を組織した。   本セッションでは、まず内モンゴル大学のネメフジャルガルさん(2008年度渥美奨学生)が「内モンゴル自治区とモンゴル国の草原牧畜業の比較研究」というテーマで報告した。遊牧と牧畜の伝統を共有するモンゴル国と内モンゴル自治区は今こそ異なる国家に分断されているが、1911年までは共に清朝に属し、20世紀の半ばからそれぞれソ連と中国の2大社会主義国家の枠組みのなかで社会主義の洗礼を受けてきた。中国の改革開放に伴って、内モンゴルは1980年代初期から限定的な市場経済へ移行し、その後中国の社会主義市場経済の荒波にさらされてきた。一方、モンゴル国は1990年に社会主義体制が崩壊して、一気に市場経済の土俵に押し出され、社会主義的な牧畜から市場経済的な牧畜への移行に伴う混乱は現在まで続いている。   内モンゴルでは、牧草地の使用権の個人分配が行われ、家畜頭数の増加と調整不能な牧草地利用の間に生じた矛盾が急激な沙漠化を引き起こした。市場経済に移行したモンゴル国でも都市部において土地の私有化がすすめられ、将来的に牧草地の私有化が行われるのではないかと危惧されている。つまり、遊牧に頼ってきたモンゴル国と内モンゴルは、両者ともそれぞれ微妙に異なる市場経済による環境の変化に晒されている一方で、ここ十数年の急激な経済発展のなかで、両者とも中国経済の原材料供給地となり、地下資源開発ブームに沸いている。   ネメフジャルガルさんの報告で特に注目すべき点は、資源開発によって内モンゴル各地で起きている工業汚染、デベロッパーと地方政府の利権絡みで強引にすすめられる開発プロジェクトとそれに対するモンゴル人の抗議活動など、現地で起きているなどの最新情報であった。本セッションの直前に、内モンゴル自治区共産党委員会書記(自治区のトップ)が交替し、前書記の王君氏が力を注いていた「十個全覆蓋」(十大インフラ整備)という内モンゴル全体を巻き込んだインフラ整備運動が中断されたというホットなニュースが報告された。内モンゴル史上最大の「面子工程」といわれるこの強引なインフラ整備運動を、人々は色とりどりに化粧された羊に例えて風刺したり、宴席の笑いのネタにしたりしていた。このプロジェクトによって、内モンゴル各地の地方財政は大きな負債を抱えたといわれている。情報化、グローバル化の時代と裏腹に、中国の少数民族居住地域で起きているこうした情報は国際社会に伝わり難いので、本セッションの趣旨に沿った大変有意義な報告であった。   2番目の報告者は内モンゴル大学のナヒヤさん(2007年度渥美奨学生)で、テーマは「内モンゴルにおける小学校の統廃合問題:フルンボイル市新バルガ左旗を事例に」であった。中国では、2001年ころから「撤点并校」と呼ばれる農村の末端地域にある小中学校の統廃合政策がすすめられ、農村の子供たちは県(内モンゴルでは旗・県)政府所在地などその地域の中心都市に就学することになった。それにより、村から学校までの距離は遠くなり、子供が下宿するため親が都市部にアパートを借りで子供の世話にあたり、村の生活がおろそかになることや就学バスの事故が多発して大きな社会問題となっている。問題の重大さに気づいた中国政府は2012年に見直し、統廃合にブレーキをかけたが、それまですすめられた政策の影響は全国的で深刻なものである。   末端小中学校の統廃合運動は分散居住する少数民族地域ではさらに大きな混乱をもたらし、その影響は人口の密集する地域よりもさらに深刻である。モンゴル族が分散居住するフルンボイル市新バルガ左旗の場合は、強引な統廃合や都市化による人口流出で自然廃校してしまい、人々は教育の質を求めてより大きな町の学校へ進学するという状況が生じた。現在、内モンゴルの牧畜地域では、ほとんどの末端小中学校が廃止され、旗政府所在地に旗内のすべての子供たちが修学するために集まるという状況になっている。それは結果的に、モンゴル族の文化と社会の将来を担う次世代の子供たちを、生の民族の生活から強引に引き離し、同化に拍車をかけることになっている。   3番目の報告者は新疆ウィグル自治区出身のイミテ・アブリズさん(2002年度渥美奨学生)であった。化学を専門とするアブリズさんは現在新疆大学で教鞭をとっている。周知の通り、現在の新疆ウィグル自治区は中国の少数民族自治区のなかでも最も情報の閉鎖された地域の一つであり、そうした政治的な閉塞の陰で、経済や社会的な変化に関する情報も見えにくくなっている。本セッションを企画するなかで、専門の異なるアブリズさんに経済や社会に関する報告を準備していただきとても感謝している。   新疆ウィグル自治区は中国屈指の石油、天然ガスと石炭の埋蔵庫であり、中国全体のエネルギー資源埋蔵量の1/3を占めるともいわれている。また温暖な気候をもつ新疆では近年、綿花やトマトの生産が盛んに行われ、農業でもその重要性が増している。急激に成長する中国経済にとって新疆がもつ豊かな資源は益々重要な存在となっており、ウィグル族をめぐる政治的問題と並んで新疆がもつ経済的な意義も軽視できない。しかし、2015年の新疆のGDPは中国31の省・市・自治区のなかで、後ろから6 番目に留まっている。豊富な資源があるにもかかわらず経済発展に恵まれないこのような現象をアブリズさんは「資源の呪い」に例えた。新疆は旧ソ連圏の中央アジア諸国やアフガニスタン、パキスタンなど西アジア諸国への玄関口であり、その地政学的重要性は新疆のインパクトを一層強めることとなっている。   2014年の統計によると、新疆ウィグル自治区の総人口は2322万人に達し、そのうちウィグル族の人口は自治区総人口の48.53%を占める1127万人であり、漢族は859万人(37.01%)、カザフ族は159万人(6.88%)であり、チベット自治区を除けば、漢族人口が半分に満たない唯一の自治区となっている。また、ウィグル族とカザフ族を合わせると全自治区総人口の55%がトルコ系のイスラム教徒によって占められるという点も注目に値する。この2つの特徴が今日新疆を取り巻く複雑な状況の背景にあることは間違いない。ちなみに、同じイスラム教徒である回族も百万人(5%弱)居住している。   各民族の規模や力関係をめぐるこうした状況は民族教育にも色濃く反映されている。新疆では、ウィグル族を対象に「双語教育」(バイリンガル教育)という政策が厳しく実施されている。バイリンガル教育とは本来、2つの言語を均等に操ることのできる状態を指すのが一般的で、ウィグル族も含めてモンゴル族やチベット族、朝鮮族といった独自の言語と文字をもつ少数民族は、小学校3年まで自民族の言語や文字で勉強し、小学校3~4年生のころから中国語を学び始めるのが従来のやり方であった。しかし、現在新疆で実施されているのは、ウィグル語を母語として生まれた子供たちに小学校1年生から中国語で教育を受けさせ、母語のウィグル語はいわばひとつの言語として学ぶというものであり、何よりも中国語によるコミュニケーション能力と知識習得を重視している。これも新疆における民族対立の根底にある要因の1つだと囁かれている。   最後の報告は奇錦峰さん(2001年度渥美奨学生)による「ゴースト・タウン(鬼城)『康巴什』」であった。中国の広州中医薬大学教授の奇さんは内モンゴル自治区オルドス(鄂爾多斯)出身のモンゴル族であり、彼の故郷のオルドスは「鬼城/ゴースト・タウン=康巴什(ヒヤバグシ)」が位置する地域として世界的に有名である。夏休みに広州から遥々内モンゴルに行って現地調査をし、報告を準備してくださったことを大変感謝している。   内モンゴル自治区西部の沙漠のど真ん中にあるヒヤバグシは「中国のドバイ」或は「中国のラスベガス」ともいわれている資源バブルで急成長した幻の都市である。黄河と沙漠に囲まれたオルドスはもともと牧畜業を中心としてきた内モンゴル自治区の盟(市)レベルの地域の一つで、モンゴル族の生活舞台であったが、改革開放後の1980年代からカシミア山羊の飼育に成功し、有名な「鄂爾多斯カシミア」ブランドで世界中にその名が知られるようになった。   そのオルドス沙漠の地下には豊富な石炭が埋蔵していることが発見されて、1990年代から採掘が始まった。ちょうど中国が経済発展期を迎える時期であり、オルドス南隣に位置する中国最大の石炭採掘地域である山西、陝西両省の石炭資源が限界を迎えていた時期とも重なったのである。この2つの偶然がオルドスの運命を変え、2000年にわずか15億元しかなかったGDPは、2009年には2000億元にまで膨れ上がり、わずか9年で香港を超えて「オルドスの奇跡」と呼ばれた。まさに中国の急激な経済発展が少数民族地域にもたらした典型的な資源バブルである。経済規模の膨張に伴ってオルドス市は沙漠のなかに百万人が居住できる新都市の建設に乗り出し、世界的に有名な建築家たちを集めてインパクトの強い建物と大勢の市民が居住する高層住宅を建設した。   それと同時に、加熱する不動産業への投資として金融活動も活発になり、シャド―・バンキングとも呼ばれる民間の金融業者が横行し、オルドスは浙江省の温州とともに中国の金融バブルを代表する闇金融の代名詞ともなった。しかし、バブルの饗宴は長つづきせず、リーマンショックによる世界的な需要の低下によって石炭の需要も減り、2010年ころからオルドスの経済は失速した。現在百万人を収容できる都市に5万人前後しか人が住んでおらず、ヒヤバグシは中国に数多くある「ゴースト・タウン」の代表格として定着した。草原と沙漠と遊牧でしか知られていなかった内モンゴルの奥地に何故世界的なゴースト・タウンができたのか。わずか十数年の間に、蜃気楼のように現れた「オルドスの奇跡」は一体何を物語っているのか。奇さんの報告は、聴講者に深く問いかけるものであった。   自主セッション「中国の少数民族地域におけるバブルとその遺産」では、中国の少数民族出身の4名の元渥美奨学生にそれぞれの故郷で起きているホットな出来事を報告していただいた。現代中国を内陸部から理解するためのとても重要な情報発信であり、これは渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)がもつソフトパワーの1つでもあると思う。   当日の発表資料(抜粋1)と会場風景   当日の発表資料(抜粋2:オルドス)   <ボルジギン・ブレンサイン> 渥美国際交流財団2001年度奨学生。1984年に内モンゴル大学を卒業後内モンゴル自治区ラジオ放送局に勤務。1992年に来日し、2001年に早稲田大学で博士学位取得。現在は滋賀県立大学人間文化学部准教授。   2016年11月4日配信  
  • エッセイ509:ラムサル・ビカス「AFC円卓会議『人とロボットの共生社会をめざして』で学んだこと」

    (第3回アジア未来会議「環境と共生」報告#4)   2016年9月29日から10月3日まで北九州市で開催された第3回アジア未来会議は、私にとってとても楽しく、またたくさんのことを学んだ貴重な機会でした。総合テーマは「環境と共生」で、20ヵ国から約400人が参加し、多分野に亘る国際的かつ学際的なセッションがたくさんありました。ここでは、9月30日の午前中に北九州国際会議場で行われた4つの円卓会議の一つである「人とロボットの共生社会をめざして」について報告します。   この円卓会議の発表者は、東京大学名誉教授の井上博允先生、立命館大学教授の李周浩(Lee Joo-Ho)先生、ロシア・カザン連邦大学教授のイヴゲニ・マギッド(Evgeni Magid)先生、九州産業大学教授の李湧権(Lee Yong-Kwun)先生、韓国ROBOTIS社のピョ・ユンソク(Pyo Yoon-Seok)先生、ミュンヘン工科大学教授のディルク・ウォルヘル(Dirk Wollherr)先生、上海交通大学の李紅兵(Li Hongbing)先生の7名で、討論者は東京大学の文景楠(Moon Kyungnam)さんとAtelier OPA代表取締役の杉原有紀さんでした。座長は李周浩先生とイヴゲニ・マギッド先生が務め、使用言語は英語でした。   会議は井上先生の基調講演から始まりました。新しい技術に取り組んでいらっしゃる先生は、「コボット:私たちと協働するロボット(COBOT: Robots that collaborate with us)」というテーマで、iPhoneからプロジェクターに出力して発表をされました。50年以上のロボット研究の経験をお持ちの先生は、ロボットに新しい名前を付けてコボットと呼んでいます。共同作業ロボット(COllaborative roBOT)という意味で、ロボットは人間と共同作業をしているという意味を深めるためです。将来、会社などでロボットは労働者として使われるようになり、人口減少の影響により起こる深刻な問題を解決するロボット・ソリューションについての興味深いお話でした。   李周浩先生は「漫画アニメーションにおけるロボットの社会や人間の共存(Coexisting societies of robots and human beings in cartoon animation)」というテーマで発表されました。日本には多くの漫画やアニメーションがあり、そのいくつかはロボットと人間の共存を扱っている事を知りました。1951年に発表された「鉄腕アトム(Astro Boy)」という漫画が、ロボットに関する10の法則を伝えおり、それを参考にして現在のロボットができたという話は、真実であろうと感じました。1969年に発表された「ドラえもん」は、人間とは違う姿をしていますが、人間と同じように考え、人間のために働いてくれるロボットです。言うまでもなく、ロボットはあくまでも人間のために働いてくれる存在なのです。他にもロボットと人間の共存を示す漫画アニメーションが流行っていますが、結論を言うと漫画アニメーションで見られるものは現実の技術レベル以上です。しかし、いつか必ず私たちの日常生活の中に取り入れられてゆくのだろうと感じました。   イヴゲニ・マギッド先生は「都市捜索救助シナリオにおけるモバイルロボットアシスタント(Mobile Robotic Assistants in Urban Search and Rescue Scenarios)」というテーマで発表されました。人間が行くことができない環境と危険な場所に、人間の代わりに行ってくれるモバイルロボットの活用についての発表でした。この発表では起伏の多い地形や瓦礫などで救助が困難なときに、安全でより良い経路を見つけるロボットが、被災地でとても役に立つ事が示唆されています。   李湧権先生は「九州産業大学のヒューマンロボティクス研究センター(HRRC)における研究活動(Research Project of Human-Robotics Research Center in Kyushu Sangyo University)」というテーマで発表されました。リハビリや介護の現場は人手不足が問題になっているため、それを解決するリハビリロボットの開発についての発表でした。現在では、高齢者や脊損患者のリハビリ支援に役立つロボット、全身性麻痺患者用移動支援ロボットや、ベッドの上での生活を介助するロボット開発が進んでいる事がわかりました。   ピョ・ユンソク先生は「なぜ『ヒューマノイド』が必要とされるのか?(Why is “HUMANOID” requested?)」というテーマで発表されました。人間との共生の視点から人間型ロボットの利点、人間型ロボットの外見から機能までの開発条件、人間と人間型ロボットの間の望ましい共存のための予見などについての発表でした。   ディルク・ウォルヘル先生は「人間環境におけるロボットアクションの相互作用の意識(Interaction-awareness for robot action in human environments)」というテーマで発表されました。自然で直感的なロボットアクションは、人間の環境で採用される将来のロボットの受け入れ先を増やすための鍵だということを教えて頂きました。人間は新しい状況に適応する能力を持っている。この人間との対話を目指すロボットは直感的なインターフェイスを持つことが、特に重要になると力説されました。   李紅兵先生は「手術用ロボットの力感知および制御(Force sensing and control for surgical robots)」というテーマで発表されました。現在多くの低侵襲性外科手術の手順は、遠隔操作ロボットシステムを用いて行われていますが、このような一般的なシステムでは外科医の「微妙な力加減」のコントロールシステム(フィードバックシステム)が内蔵されていません。特に、人の持つ組織は繊細なため、外科医に与える触覚的なフィードバックの欠落は、安全で複雑かつ繊細な手術においてボトルネックになっています。そのため手術ロボットの失敗操作が多いという事を知りました。このような失敗をなくすために、力のフィードバックシステムを内蔵した施術ロボットの開発に取り組んでいるそうです。   以上がロボット技術者からの発表でした。最後に、招待討論者の杉原さんは、噴水指輪のデザインと開発を紹介し、ロボット開発にもデザインが大事だということを発表されました。   同じく招待討論者の哲学者である、文景楠さんがいくつかの大事な点をコメントされました。多方面におけるコメントでしたが、一番話題になったのは「ロボットが失敗したら、だれの責任か?」という質問でした。その答えは、開発者の責任になるとも言えますが、私は技術者としてロボットを制御する人の責任でもある、と発言しました。   本会議で色々な種類のロボットについて学ぶ事ができました。ロボットと人間がどのように共存する社会を目指していくか、様々な事を考えました。問題点は多くありますが、技術者は問題解決に向け日々研究を行っている事を知ると共に、ロボット技術の研究開発には、ただ技術者だけではなく哲学者やデザイナーなど理系、文系の枠を超えた学際的なアプローチが必要だという事がよくわかりました。   当日の写真   <ラムサル・ビカス Lamsal Bikash> 渥美国際交流財団2016年度奨学生。トリブバン大学科学技術学部。物理学科を終えて、2010年1月に日本語学生をとして日本へ来日。2014年3月に足利工業大学大学院修士課程を取得。2014年4月から足利工業大学大学院博士課程情報・生産工学専攻に入学。現在は顔検出技術について研究中。
  • エッセイ508:マックス・マキト「マニラ・レポート2016@アジア未来会議」

    (第3回アジア未来会議「環境と共生」報告#3)   当初、日本の風景をゆっくり楽しもうと考えて、東京から鈍行列車で北九州まで行きたいと思っていたのだが、結局、仕事の関係で1日遅れて第3回アジア未来会議(AFC)に参加した。今回、フィリピンからの参加者は30人で、その4割ぐらいは何等かの参加補助をいただき、残りは自費でやってきた。意外にも、毎回自費参加者の割合が増しているようで嬉しく思っている。フィリピン人の中でAFCの評判が高まっている証拠といえよう。   僕は、10月1日(土)に発表者、座長、討論者として参加した。と同時に、できるだけフィリピンからの参加者の世話をした。このエッセイでは、討論者としての役目を中心に話したい。   それは、国士舘大学の平川均教授と北陸大学の李鋼哲教授が座長を務める自主セッション「アジア型開発協力」で、「東アジアを中心にして過去半世紀以上にわたって経済成長を実現してきたこの地域は、欧米とは異なる形の開発協力や地域協力の枠組みを創り上げてきたように思われる。しかし、そうした地域における協力や開発の在り方が欧米とはどう異なるのか、また独自の協力の在り方をどのように整理し、ひとつの理念あるいは哲学に育て上げるかは依然として課題である」という問題意識に基づくものであった。   午後の2セッションを使う長丁場であったが、僕は、午後2時から他のセッションで座長の仕事があったので、後半しか出られなかった。参加者の積極的な議論が続き、セッションが終わろうとしていた時、わざわざ会場まできた今西SGRA代表からフィリピンの参加者に関する事務的手続きについて連絡があったので、部屋から静かに出ようとしたところ、座長の平川先生から討論のご指名をいただき、逃げ道は塞がれてしまった。普段の研究や授業では日本語をあまり使わないので、学会などではできるだけ発言を控えているのだが、しかたなく、一生懸命書いておいた日本語のメモを思い出しながら、以下のような感想を述べた。   後半の最初の上海財経大学の範建亭先生の発表では、中国の国際政治関係が経済関係に影響を与える因果関係を特定する試みを興味深く拝聴した。因果関係をもっと突き止めるために、範先生は別の経済学モデルを取り入れると言われたが、今の方法論でもう十分ではないかとコメントした。ただ、心配な点もある。それは、範先生の分析にはさまざまな国が入っているのに、僕の母国のフィリピンが入っていないことである。単にデータがないのか、それともフィリピンと中国の外交関係が問題なのか。   残念ながら、時間切れで回答を聞けなかったが、その時に思い浮かんだのは、最近、領土問題でフィリピンと中国の外交関係が膠着状態に陥っていることである。仮に政治関係が経済関係に影響するという分析が正しいとしても、その背後にある考え方は危険ではないだろうか。つまり、国際政治関係が悪化したら、経済関係も悪化するという状況は好ましくない。両国の関係が悪くなった時にこそ、なんらかの形で両国の繋がりを保つのが賢明な方策であろう。   後半の最後の報告は、李鋼哲先生のアジア的モデルの提唱だった。欧米の援助や開発の考え方とアジア的なものとの区別を明確にするということは、大変意義があると最初にコメントした。援助理念を明確化するのは重要な作業だ。李先生の発表にも取り上げられた、世界銀行が1993年に発行した「東アジアの奇跡」報告は、実は、被援助国の自助努力を尊重する日本が欧米の援助や経済開発に対抗した結果であると指摘した。   僕の目から見ると、当時の日本は輝いていたのだが、その後の受身姿勢に対してはがっかりしている。最近のDAC(開発援助委員会:OECDの委員会のひとつ)の査読(ピア・レビュー)を読むと、日本が提唱してきた「被援助国の自助努力を支援する」という理念が、欧米でも認められるようになっていることがわかるのだが、その合理性がまだ十分に説明されていないという課題が、20年以上経っても残っている。日本人は曖昧さを好んでいるが、やはり国際的な場では、もっと明確に説明しないといけない。それは他国と違ったやり方をしている時にこそますます重要であるといえよう。   以上のように「政治外交関係が経済関係に影響を与えること」と「開発援助理念の曖昧さ」の2点を指摘したが、実は、これが今の南シナ海の緊張に不安材料を与えている。本来、被援助国の経済発展のために使うべきODAが別な目的のために使われかねないからである。具体的な例として、日本のODAがフィリピンの軍備に使われていることを取り上げた。すぐに会場から「まさか!」という反論を浴びた。「日本のODAにはそれを防ぐための装置があるはずだ」と。僕は一歩も譲らずに、平和憲法があっても武器輸出が始まっていると反論した。最後に座長の平川先生の「鶴の一声」によって、どちらかというと、僕の側が優勢で議論が終わった。   その夜、ホテルに戻ってオンラインで調べたら、記事を見つけたので、「会場から『信じられない』という反応があんなにあって驚いた」と書き添えて、その記事のリンクを平川先生にメールした。     2015年6月5日のフィリピンの新聞の記事で、「日本は来年から新哨戒船10隻をフィリピンに引き渡す」という題名である。駐日フィリピン大使が、「これらの船はODAの一貫として引き渡される。今までのインフラ整備中心の方針と違う」と語っている。領土問題になっている西フィリピン海(南シナ海)で活動させるという。2020年まで、日本、韓国、米国、イスラエルからの武器輸入でフィリピンは自国の防衛体制を充実させる構えである。   翌日の打ち上げ夕食会でも議論が続いた。同じような意見を述べ、同じような結論に辿り着いた。僕の主張は正しかったわけだが、全然嬉しくない。むしろ、これからどうなるか非常に心配である。   酒の勢いで陽気になったあらゆる国から来た狸たち(註:元渥美奨学生)は、僕の心配を少し晴らしてくれた。「あなたの国の大統領が大好きだ!」と、ミャンマー、内モンゴル、韓国の狸たちからエールが送られた。僕も暴れん坊の大統領を支持しているが、最近の行動は心配の種になっている。これからの難しいかじ取りを上手くしてくれるよう祈っている。   <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。SGRAフィリピン代表。フィリピン大学機械工学部学士、Center_for_Research_and_Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。     2016年10月20日配信
  • エッセイ507:川崎剛「あの戦争の名前、そして『国史たちの対話の可能性』」

    (第3回アジア未来会議「環境と共生」報告#2)   あの戦争が終わったのは、1945年8月15日だったとみんなが思っている。昭和天皇がラジオで「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」と、連合国のポツダム宣言を受け入れ無条件降伏すると発表したからである。朝鮮などの植民地ではこの日、日本の敗北を知った人たちが歓呼したという。   しかし、正式に日本がポツダム宣言の受け入れを連合国に伝えたのは、前日の8月14日だった。そして中立国のスイスとスウェーデン駐在の日本公使を通じて受諾の意思が伝わったのは、それより4日前の8月10日。   米国の対日戦勝記念日は9月2日だ。米戦艦ミズーリ号上で日本の全権重光葵外相が降伏文書に調印した日である。相手はダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官。ニューヨーク・タイムズが一面に3本の大見出しで伝えている。(The New York Times, September 2, 1945)  「JAPAN SURRENDERS TO ALLIES,      SIGNS RIGID TERMS ON WARSHIP;       TRUMAN SETS TODAY AS V-J DAY」   中国では、日本軍が南京で降伏文書に調印したのは9月9日だったが、中国の対日戦勝記念日はミズーリでの連合国軍への降伏文書調印翌日の9月3日になっている。ソ連もそれにならったかのように、9月3日。戦争が終わった日を8月15日とする国は日本だけである。   ヨーロッパの戦勝記念日は5月8日で、ヒトラーが自殺した8日後だった。あの戦争を戦った各国は、それぞれの「終戦記念日」を持っている。   戦争の名前も、それぞれ異なっている。「第二次世界大戦(Second World War, World War II, Seconde Guerre mondiale, Zweiter Weltkrieg)」という認識は同じようだけれど、人口に膾炙した名前は米国では「Pacific War(対日)」「European War(対独伊)」だった。ソ連では「大祖国戦争(Great Patriotic War)」と呼ばれたが、それはナポレオンとの戦争(1812)が「祖国戦争(Patriotic War)」だったので、それより激しかった今回は、「大(Great)」が加えられたかららしい。中国では「抗日革命・世界反ファシズム戦争(抗日革命世界反法斯思戦争)」である。それぞれの国と人民の意識の中で、あの戦争は同じではない。   日本では、米英に宣戦布告した東条英機内閣が決めた正式名称は「大東亜戦争」だったが、これも含めいろいろな名前にはそれぞれの感傷が張り付いている。それは、「太平洋戦争(米国とは戦ったけれど、中国戦線は無視したい)」「15年戦争(1931年の満州事変から本格化したあの戦争の長さとしては的確だ)」「日中戦争」「アジア太平洋戦争」など。(註)   素人であることは十分自覚しながら、ながながとあの戦争の名前や終わった日に思いをめぐらせているのは、9月30日に北九州市で開かれた第3回アジア未来会議のフォーラム「日中韓における国史たちの対話の可能性」を後列で聞いていたからだ。専門家・知識人レベルで、そして出来ることなら普通の人たちの間でも、歴史を語ることができるようになるためには、私たちはどのような作業を行っていかなければならないか。日本、中国、韓国の専門家たちが、この地域における「知の共同体」の現状とどこに向かうべきかを探るラウンドテーブルだった。   早稲田大学の劉傑教授が問題を提起した。劉さんは今が「歴史対話の低迷期である」と言い、相手の国の研究状況をお互いに学んだ上で、対話後の構想を練る必要性を訴えた。「東アジアの知の共同体はこの地域の最後の砦。知識人の対話が崩れたらとても心配だ」とも。だから東アジアで共有できる国史をどう作り上げていくか、知をぶつけあうために集まった。そしてこの場は、相手の国の資料がわかる留学生という特別な人材を将来に向けて育成する重要な場にもなるだろう。   韓国・高麗大学の趙珖名誉教授は、植民地体験もそれぞれの国史を規定するものであるとして、「右寄りの歴史観では国際平和を論じることはできない」と釘を刺した。日本だけの話ではないのだろうと私は思った。「高句麗は韓国史で大きな位置を占めるが、中国の地方史でもある。属地主義的な見方か属人主義的な見方かで事象は違って見える。日中韓の国史が交錯する明や朝鮮通信使などの複眼的な見方と資料を整理した関係史事典づくりが、それぞれの認識の違いを克服する作業かもしれない」。   また、中国・復旦大学の葛兆光教授は、「蒙古襲来(1274、1281)」、「応永の役(1419)」「壬申丁酉の役(1592):日本では『文禄の役』」を事例に、日中韓の外交的な歴史叙述の可能性を構想した。   三谷博・東大名誉教授は、新課目となる「歴史総合」が導入される日本の高校歴史過程の見直しについて、日本近代史についての文部科学省の枠組みが①近代化②大衆化③グローバル化、となっていることについて、「順番が違う。グローバル化が日本の近代化の発端だった」と批判した。そして若い世代にとって一番大事なのは、「自分の国を外から眺め、隣の国の国内史について学び合うこと。これがないと東アジア史に無知のまま終わる」と提言し、フォーラムのあり方について「対話だけではもう進まない。共同作業をやりましょう。自国で読める隣国の資料を編集した資料集を作りましょう」と呼びかけた。   このような形でのフォーラムはこれから少なくとも5回は続くのだという。これをきっかけにした実務作業も若い研究者を交えれば活発になるだろう。それぞれの国の政治経済や安全保障関係の影響を受けながらでも。   素人であることをもう一度強調した上で希望を述べておきたい。日中韓の「国史たち」とともに、私はこの3カ国にとどまらない関係史を知りたい。アジア地域が日本(とタイ)を除いて植民地だったという近過去を知っておきたいのだ。例えばベトナム戦争は米国と北ベトナムが戦った戦争だが、ベトナムはその前にはフランスと独立戦争を戦っていた。フランスの前にベトナムを支配していたのは、日本軍だ。   自国の歴史を美しく書き直したいという歴史修正主義が、一時的とは思えない気分とエネルギーを醸し出している今の日本である。「国史たちの対話フォーラム」とそれを支える日中韓の「知の共同体」の発展は、重要で緊急であると考える。     英訳版はこちら     <川崎剛(かわさき・たけし)Kawasaki Takeshi>  津田塾大学非常勤講師、元朝日新聞アジアネットワーク(AAN)事務局長   (註) Karoline PostelVinay,“The 70th anniversary of_1945: Trouble_ahead,” presentation at Temple University Japan Campus on Feb. 27, 2015▼佐藤卓己「増補 八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学」(2014年、筑摩書房)▼小森陽一「天皇の玉音放送」(2003年、五月書房)▼半藤一利「十二月八日と八月十五日」(2015年、文春文庫)▼山田侑平監修「『ポツダム宣言』を読んだことがありますか?」(2015年、共同通信社)、などを参考にしました。     2016年10月13日配信
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