SGRAかわらばん

  • 2012.10.05

    エッセイ352:孫 軍悦「人として、人と、出会いなおす」

    9月16、17日に、「九一八事変」の記念日に合わせて大規模なデモが発生するという予感のなかで、日本と中国の大学で教鞭を執る約20名の中国人研究者が北京に集まり、「改革開放以来の中国と日本」と題するシンポジウムを開いた。会議において、ある研究者は、日本の町内会や自治会の経験を中国市民の自治組織の運営に生かせないかと検討し、別の研究者は、日本マルクス主義にはマルクス主義に対する独自の発展があり、その理論を以って80年代以来の中国の社会変革を解釈できると主張し、日本マルクス主義に関する著書の翻訳出版を進めている。三十年も日本に在住した学者は、会議の冒頭でまず「文人不言戦(知識人は戦を唱えず)」という立場を表明し、清の兵隊に虐殺された革命家徐錫麟の家族を救ったのは日本人であるというエピソードをあえて紹介した。清華大学中国文学部の教授は、福島原発事故が起きた後なおも原子力発電所の建設を推し進める中国の原子力政策に怒りを覚え、まったく畑違いの原発問題を一から勉強し、国民に知らせることをライフワークにしようかと語った。成功の経験のみならず、失敗の教訓も含めて、日本はこれからの中国にとっても見習うべき対象であることは、誰もが否定しない前提である。そして、中心的話題となった領土問題をめぐり、どちらかの政府の言い分を鵜呑みにするのではなく、明確な法的、歴史的根拠を専門家に教えてもらおうというのが、参加者の共通した姿勢であった。   幸い、日本に帰国すると、書店にはすでに領土問題を解説する書籍が並べられている。9月29日に放送された「報道特集」というテレビ番組では、日中国交正常化の交渉に当った当事者たちが、尖閣諸島(釣魚島)の問題を棚上げにしたのは事実であると証言し、同日、大江健三郎氏ら日本の知識人と市民団体約1300人が、「領土問題を論じるには、日本が先に歴史を反省しなければならない」という声明を発表した。   強硬論を唱える専門家によって「理論武装」された中国政府の言い分のみを報道する中国のテレビ局とは違い、日本では、政府と異なる声もはっきりと発せられている。中国のマスコミも、主権在民と報道中立を標榜するのなら、日本の学者や政治家の言論から中国政府の主張に符合する部分のみを切り取り利用するのではなく、政府の立場と異なる様々な観点を紹介し、国民に思考の材料を与え、判断を委ねたらどうだろうか。   しかし、たとえ各地で起きた「釣魚島」の主権を求めるデモがすべて、領土問題をめぐる歴史的経緯と法的根拠を総合的に検証したうえでの理性的な政治行動ではないにしても、愛国主義教育によって洗脳され、政府への批判が封じられたため、日本批判と愛国無罪の大義名分の下で不満をぶちまける暴行という認識は、決して真実ではない。   つい最近、「道徳・国民教育」という科目をすべての学校に導入するという計画を政府に撤回させた香港民衆の「尖閣国有化」に反対する声は、明らかに江沢民時代に強化された愛国主義教育の結果ではない。ニューヨークの国連本部の前でプラカードを掲げる白髪の華人・華僑たちも、その魔法の教育を受けるには年を取りすぎている。歴史教科書に日中戦争をめぐる記述が何文字増えたか減ったか、虐殺の写真が載ったか載っていないか(どんな残虐行為の写真も展示も、戦争の人間に対する全面的破壊を現し尽くせない)という問題より、物事を歴史的に認識する方法の伝授と、主体的に思考する習慣の養成に重点を置く教育をいかに実現するか、それこそ考えなければならない日中両国の歴史教育に共通する課題ではないだろうか。   「愛国のための行動なら罪に問われない」と本気で信じる人がいるなら、単に無知としかいいようがない。暴力行為が決して許されない違法行為であると憤慨するのは日本人だけでなく、中国の一般市民も同様である。現に、9月15日に西安で起きたデモで車や商店を壊した容疑者9名の写真が公開され、自首と情報提供が呼びかけられ、ネット上でも批判が集中している。   だが、暴力は、ただ法の論理をかざして糾弾すれば済む話ではない。もし暴力行為がすべて中国政府の言うように「過激で不適切な愛国感情の表現」であるなら、暴力を呼び起こす「愛国感情」のゆがみこそ、まず追究しなければならない。映画やテレビドラマに出てくる紋切型の「日本軍人」への憎悪によって喚起される「敵対感情」を「愛国感情」と混同するのは、時代錯誤も甚だしい。戦勝も敗戦も、無数の生命を犠牲にした結果であり、それ自体驕れるものは何一つない。日本の人々は、非戦の精神を社会の隅々まで浸透させ、平和憲法を守ろうという強い意志と行動を以って、敗戦の遺産を受け継いだ。抽象化された「被害感情」への惰性的執着と「富国強兵」への果てしない欲望は、逆に中国の人々が克服しなければならない戦勝の負の遺産かもしれない。   そもそも「感情」は理性的思考と行動の動機であって、目的であってはならない。まして歴史的事実に裏付けられていない一過性のものは単なる情緒的衝動であって、「感情」とすら言えない。歴史を扇情的物語の背景に利用する娯楽産業の政治的効果は決して看過できない。ただ、それを共産党政府の意図的プロパガンダだと決めつけるのは、中国の抱える問題を見誤るだけでなく、「われわれに共通する問題」を「中国に特有の問題」に矮小化するという、もう一つの政治的効果をもたらすのである。   一方、もし暴力行為が日本のマスコミの言うように「格差や腐敗といった社会問題への不満の爆発」というのなら、まずその社会問題の根源を探求しなければならない。2012年7月28日に、江蘇省南通市で、日系企業の王子製紙から排出される毎日15トンの廃水を海に流すパイプ敷設計画の取り消しを求め、漁業を主要産業とする地域住民のデモ隊が政府庁舎に乱入し、政府高官の高級酒を庁舎の外に放り投げた。9月23日米アップルの携帯電話「iPone5」の部品を生産し、シャープが資本提携交渉をしている、台湾の鴻海精密工業の、中国子会社富士康科技の工場で、従業員約2000人による騒乱が発生し、40人余りが負傷した。この会社は、二年前も若い従業員の連続自殺事件が起き、先月アメリカの非営利団体公正労働者協会の指摘を受け、労働時間の短縮と労働条件の改善を承諾したばかりだ。マクドナルドで100円のコーヒーを飲みながら、アフリカの農園で働く子供の賃金を連想せずにはいられない時代において、このような地域住民と政府当局の衝突、工場の従業員の労働問題は、中国国内で起きたからといって、我々とまったく無関係だと言えるのだろうか。グローバリゼーションは、中国人生産者と日本人消費者、あるいは中国人消費者と日本人生産者というような単純な図式では理解できない。最初の生産者と最終の消費者との間に国境を超える長い生産過程と商品の連鎖がある。その階層化された世界のなかで、末端にいる労働者、生活者の置かれる状況を顧みず、中国国内に起きる問題をすべて「中国問題」、日本国内に起きる問題をすべて「日本問題」というのは、まさに思考停止を誘発する「国境」の罠である。   私はここで、暴力を擁護しているのではない。ただ、卵やペットボトルを手にする群衆に、拳銃で武装された警察がなぜ取り締まらないかと憤る自らの暴力性も含めて、「暴力」を思考の対象にしようとするのである。   中国人に一切の言論自由がないとか、政府批判が一切許されないとかも、はっきり言って、嘘である。池上彰がテレビ番組で中国人は全員電話や携帯が盗聴されていると了解済みだと言っているが、孤陋寡聞のせいか、私には初耳である。13億人が了解済みだという調査がいかに行われたかはさておいて、現に言論自由がないとされる民衆は、政府高官や共産党幹部の腐敗と不正行為を批判し、追究し続けている。領土問題を巡るデモが発生するさなか、同じ西安において、8月26日に起きた重大交通事故の現場で陝西省安全生産監督管理局の局長の笑顔が新聞記者のカメラに捉えられた。その後、市民はその局長が巨額な資産を不正に築いた事実を突き止め、解職処分に追い込んだ。さらに、この局長に資産の公開を求め続けていた一人の大学生が、当局の不作為を訴える行政訴訟を起こす準備をしている。いま、監督体制と司法が十分に機能していない状況のなかで、メディアと民衆は、ただ共産党幹部や官僚の腐敗を批判するだけでなく、自らの力で行政を監督し、不正を匡そうと行動し始めている。たしかに、民衆の合法的、合理的要求がしばしば政府当局に跳ね返され、無視されるため、暴力的衝突が絶えない。ただ、それと同時に、いかに法律を守りながら戦うかという意識も芽生えている。インターネットを通じて情報を共有し、「散歩」という平和的方式で政府に異議申し立てするという、「ネット上で討議、ネット外で散歩」の戦術も編み出され、厦門、大連、成都などの都市で、環境を脅かすプロジェクトを政府に撤回させることにすでに成功している。環境保全運動に力を入れる、あるフリーランス作家はこう言った。インターネットにアップされたものを完全に削除することはあり得ない、ネットに発表したものは永遠に存在する、と。   この十年間、急速な経済成長とともに中国国内で様々な社会問題が噴出し、深刻化しているのは、紛れもない事実である。だが、それと同時に政府と民衆の意識と行動も著しく変化している。このような現実を目の前に、求心力の増強を図る共産党政権が言論統制を強化するか否か、民衆の政治的行動をいかに監視、規制するかといった政府当局の動向ばかりに神経をとがらすのか、それとも、権利意識に目覚め、政策決定と社会変革に参与する方途を模索しはじめた民衆の知恵と実践に焦点を当てるのか、それはもはや見られる側の問題ではなく、見る側の意図と視点にかかわる問題なのだ。   現実は、新しい見識を生み出す源泉であり、陳腐な結論を証明する材料ではない。   こんな小話を聞いたことはないか。ある和尚が沙弥を連れて河を渡ろうとするとき、美しい少女におんぶしてくれないかと頼まれた。河を渡ってしばらく歩くと、沙弥はとうとう我慢できず、女性に近づいてはいけない和尚がなぜ少女をおんぶしたのかと聞いた。和尚は微笑んでこう答えた。「私はもうとっくに彼女をおろしたが、あなたはまだ抱いているのか。」   中国共産党一党独裁の政治体制下でまったく自由意志の持てぬ、洗脳された烏合の衆という「中国人」像も、戦争責任を認めず、軍国主義の復活を図るという「日本」イメージも単なる自己欺瞞の想像的産物にほかならない。自らのナショナリズムに目を逸らすために、惰性と快感に委ね、ことあるごとにこうした幻像に抱き着く悪習を直さない限り、たとえどんなに交流が増えたとしても、どんなに相互理解を叫んでいても、我々はついに出会うことすらできないのである。   相手に理解してほしいなら、批判される覚悟が要る。相手を理解しようとするなら、自己批判の勇気が要る。理解は同調を意味しない。好感を抱くともかぎらない。ただ、理解を求めあう者は互いに敬意を失わず、相手の心情を汲み、その立場に立って考える努力を惜しまない。   地理的近さや経済的結びつきで付き合わなければならない、という消極的「友好論」を唱える人もいるが、私には首肯できない。戦略的位置や政治的、経済的利益のみで結ばれるのは、国家間の関係であって、人間同士の関係ではない。戦後日中交流にかかわった人々の書き残した書物を繙くと、最も印象に残るのは、出会った人がすべて個人名で記されていることだ。いま、国家間の関係の論理に支配された国民間の感情が、個人同士のつながりと大きく乖離し、それを蝕もうとしている。それこそ、個人と個人との信頼関係が国民間の感情に基礎づけられ国家間の関係を動かしてきた歴史に逆行する、日中関係の危機だと私は思う。   一体誰の利益を指すのか、つい正体不明の「国益」に翻弄されるのではなく、係争する海域を古くから生きる場とする漁民たちという当事者の利益をまず考えてみてはいかがだろうか。それとも、自然とともに生きてきた人々を、「日本人」や「中国人」という国籍を冠することによってその活動する領域を領土に編入するために、単なる手段として利用するのか。人間に蚕食されない自然のままの海と島を一つや二つぐらい、残してもいいではないか。それとも、豊饒の地球を単なる「資源」として、枯渇するまで最後の一滴を絞り出さずには気が済まないのか。   もし日本と中国政府に、国民国家を超える新しい理念と行動を以って世界をリードする気概が求められないのなら、せめて河野洋平氏の次の言葉に傾聴してほしい。「相手の主張に耳を傾け、学び合い、助け合っていく姿勢でのぞむこと、そして、互いに相手を尊敬し、信頼することが外交の要諦です。相手の信頼に背くことはしてはいけないです。」   -------------------- <孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 学術博士。東京大学教養学部講師。2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。 --------------------     2012年10月5日(金)配信
  • 2012.10.03

    エッセイ351:シム チュン キャット「意志あるところに道あり」

    尖閣諸島(中国名は釣魚島)問題をめぐる日本と中国の対立が収束の気配を見せず、新たな衝突への懸念も消えません。たとえ一時納まったとしても、根本的な解決がない限り燻っている火種はまた火を噴くのでしょう。渥美健夫鹿島建設名誉会長の遺志を引き継ぎ『人々の心の中に国際理解と親善の芽が生まれ、やがては世界平和への道がひらかれてゆくことを願って』設立された渥美国際交流財団の元奨学生として、また『良き地球市民の実現を目指す』ことを目標に、関口グローバル研究会(SGRA)の運営委員として微力ながら活動させていただいてきた僕は、だから最近ちょっと気持ちが晴れず、頭の中ではいろいろな「なぜ?」、「どうすれば?」などのクエスチョンマークが駆け巡っています。   尖閣諸島/釣魚島は赤道直下のシンガポールから遠くて全然関係ないかもしれません。また、中国とも日本とも良い外交関係を確立しているシンガポールは今回の件について、どちらかの側に立つことも絶対にないのでしょう。というより普通に考えれば、アジア2強のケンカに敢えて首を突っ込んで要らぬ飛び火を自ら受けに行く国はあるはずもありません。静かに見守っているほうが面倒なことにならずにすむと思っている国が多いのではないでしょうか。しかし、このまま事態が打開の方向へ進んでいかなければ、その負の効果はアジア地域全体に不安を与え続けることになりましょう。   個人的な話になりますが、中学2年生の頃からずっと日本ファンであり続けてきた僕はシンガポール生まれの中国系華人でもあります。それゆえに、日中の領土問題は心境的に他人事などではないと勝手ながら思っています。例えがヘタかもしれませんが、ロンドン五輪のバレー女子準々決勝で日本がフルセットの末に中国を撃破し、ソウル五輪以来24年ぶりに準決勝進出を決めたあの激戦を中継で見ていたときの心境に近いものを感じます。日本チームの選手全員の名前を知っている僕は日本を応援しつつ、片方で、選手の名前は一人も知りませんが、かの郎平選手が無敵に活躍していた黄金時代に女子バレーの面白さに目覚めた僕は中国チームにも負けてほしくありませんでした。なので、日本チームが接戦を制したあの瞬間、日本サイドの歓喜に沸くシーンに僕は感動を覚えつつも、中国サイドが流す涙には寂しさを感じました。結果が逆だったとしても、同じ心情になったに違いありません。はい、面倒臭い男です。そう言われても仕方ありません。中国人ではありませんが中国系華人であり、日本人ではありませんが東京在住17年の日本大ファンでもある僕がそういう心境にならざるを得ないことは、果たして理解されるでしょうか。できれば、両方を勝たせてあげたかったのですが、勝負をつけなればならないのが競技の厳しい掟です。一方、領土問題でも勝ち負けを分けなければならないでしょうか。領土問題の「勝ち」と「負け」は何を意味するでしょうか。それに例え最終的に一方が「勝った」としても、もう一方が悔し涙を飲めばすむというような単純な図式ではないところに、日中の領土問題の複雑さがあります。   近年、オランダ・ハーグの国際司法裁判所により解決した紛争事案の中に、シンガポール対マレーシアの領土問題がありました。サッカー場の半分しか面積はありませんが、戦略的に重要な位置を持つある無人島をめぐって両国は実に28年間にもわたって論争を繰り返してきました。その島の領有権は結局シンガポールに帰属するという判断が下されましたが、それによって二国間関係が影響されることはないと両国ともに事後コメントしていました。当然ながら、東南アジアの領土紛争と東アジアの領土権問題を同一視することはできません。ここで僕が言いたいことは、シンガポールもマレーシアもより良い未来関係を作るため、後腐れのないように領土問題という両国間の懸案を、国際的な場で片付けたということです。現に、その3年後に両国は長年に及ぶもう一つの懸案となっていたマレー鉄道の用地返還問題も解決し(それまでシンガポールの中心部まで走っていたマレー鉄道の線路とその敷地はすべてマレーシアの所有という離島領有権以上の領土問題がありました)、またそれを機にいくつもの共同開発プロジェクトにも乗り出しました。相手の主張を断じて認めない、あくまで自分の主張を曲げないでは、懸案も懸案のまま、新しい関係が開かれる未来もなんら構築できないことは、中学生でもわかることです。   東アジア情勢の専門家でもない僕ですが、稚拙さを承知のうえで意見を書かせていただくと、日中関係問題の根元にはもちろん政治、経済、歴史、教育などの問題が絡みついていますが、つまるところ問題の根幹をなしているのは、過去と現在に関する情報提供の不足、あるいは過剰による認識の不一致とすれ違いに尽きると思えてなりません。日韓関係問題も同じ構図が見えます。高度情報化時代なのに、ではなく、そうだからこそ正確な情報の共有がますます難しくなっています。良くも悪くも情報は規制の網をくぐり抜けて一人歩きし、その中から自分が読みたい情報、自分サイドに都合の良い情報だけを人は選んで信じる傾向があるからです。しかし、こうして問題ばかりを指摘していても現状は好転しません。相手の非ばかりを責めても難局は克服できません。ここで僕が思い出したのは、日中国交正常化の交渉に際し、かの周恩来首相が両国交流の基本精神として表現した「求大同、存小異(小異を捨てて大同に就く)」という言葉です。2012年9月21日に放送されたNHK-BS1スペシャル『1972年 北京の五日間 -こうして中国は日本と握手した-』という日中国交正常化に至るまでの舞台裏を報道した番組によれば、政治的な思惑もあったにせよ、「中国に力がつけば、すぐにでも日本への借りを返したい(大意)」と思う中国国民が多かった当時にあって、周恩来首相がそれでも日本と友好関係を結んだのは未来の中国、未来の日本、そして未来のアジアのためであったといいます。そこにも新しい関係と新しい未来を築いていきたいという通奏低音が流れているということです。   今すぐには難しいかもしれません。でも、日中両国の関係について感情的になっているのは一部の市民だけで、多くの人々はやはり友好関係とアジアの平和と新しい未来を望んでいるはずです。その友好と平和の種をたくさん蒔いておくためにも、SGRAの活動は続けなければならないと思いました。勝ち負けではなく、最終的に両国とも和平の金メダリストとなれるような道はあるはずです。「Where there is a will, there is a way(意志あるところに道あり)」です。百年後、もしくは二百年後の世界は、地球の表面に国境線を引くことが無意味な世界だと思いたいです。その実現が困難を極めることは言うまでもありません。それでも、それが人類社会の目指すべき理想の姿だと僕は信じています。国境線でさえ意味をなさない世界では、海の上ではもちろん線なんか引きません。ましてや誰も住んでいない無人島の奪い合いなどの事態が生じるはずもありません。   ---------------------------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 ----------------------------------------   ★SGRAかわらばんでは、現在、読者の皆様から投稿していただいた領土問題に関するエッセイを優先的に配信しています。SGRAはどの立場を採るかということではなく、開かれた議論の場を提供することを目指しています。   2012年10月3日配信
  • 2012.09.26

    エッセイ350: 嶋田義仁「中国の反日運動の根源: 尖閣が日本領土であることの理論闘争をせよ」

    今回の中国の反日運動の根源は深いと考えています。 今回の中国の反日運動の根源は深いと考えています。   1.尖閣問題の日本側の問題:無策だった   尖閣諸島にたいする日本の、戦後における「実効支配」はきわめて薄弱だった。日本政府は「実効支配」が中国を刺激することをおそれて、なんらの「実効支配」をおこなってこなかった。触らぬ神にたたりなしの政策をとってきた。中華人民共和国の反対により、仮設ヘリポートも撤去、日本国領土だと明記した国標さえも建設しなかった。これだったら、日本は尖閣の領有権をみとめていないとおなじ。   2.尖閣問題の中国側の問題:実効支配の準備をちゃくちゃくとすすめていた   他方、中国では、尖閣諸島は中国領土だという主張を、学校教育をつうじてさえ中国人に植え続けてきた(そのはじまりは、江沢民時代)。だから、中国の若者は、尖閣諸島は中国領の釣魚列島だと信じている。この意味で、中国のほうがむしろ実効支配をおこなってきた。それ故、中国の民衆にとって、今回の尖閣諸島の日本人所有者からの国家による購入は、中国領土の略奪なのである。   3.解決策   第一の解決策は、日本政府は尖閣諸島が日本領だという根拠を、丁寧にわかりやすく、中国人にも日本人にも説明すること。   しかしこれを日本政府はやっていない。領土問題は存在しないといって、沈黙しているだけ。野田首相は、まずは国民に向かって、誰にでもわかるように、丁寧に、尖閣諸島が日本の領土である理由をのべるべきなのだ。ジャーナリズムも、これをやらなくてはいけない。この説明は、当然中国にも、世界にも発信される。もちろん、中国が、尖閣諸島を中国領土だとする理由も、わかりやすく説明しなければいけない。  外務省ホームペイジには「尖閣諸島の領有権についての基本見解」という説明文 があるが、これは典型的な役人文章で、きわめてわかりにくい。   日本にも多数の中国人がいる。彼ら彼女らと日本人のあいだでも、尖閣問題は当然話題になる。しかし、問題が理論的によく整理されていなければ、議論ができない。理論的な整理がないと、日本人は感情的な愛国心だけで、尖閣諸島は日本領土だと主張し、中国人にたいする感情的な憎悪を募らせるだけになり、これは日中関係にとってきわめて危険である。   玄葉外務大臣が、中国当局に訴えた、「石原都知事が買うよりも国が買う方がいい」という説明は、聞いてあきれる。これは尖閣諸島の領有権をめぐる問題なのだ。中国にとって、尖閣を都が買おうと国が買おうと、どちらでもいい。中国にとって問題は、尖閣は中国領だということだ。日本が言うべきは、尖閣諸島は日本固有の領土だ、という主張でしかない。その主張がただしくないことを説明するのが、外務大臣の役割だ。   4.解決のむずかしさ あるいはおそろしさ 1  民衆の集団的反日   しかし、この解決策による解決には恐ろしく大きな困難がつきまとう。それは、中国の中央集権的な教育政策によって、中国人の青年若者世代の脳髄には、尖閣諸島は中国領だ、という意識が強烈にうめこまれ、それは固定観念化しているからだ。それは数人の政府幹部の意識のもんだいではない。中国国民大衆の集合的な意識の問題である。数億の国民の意識の問題である。   しかも中国は言論が統制されている。そのコントロールをおこなっているのは、改革開放政策がすすんだ現在でも、あらゆる組織にはびこっている共産党組織である。共産党組織の指令ひとつで、数億の中国国民がうごきだす(これは党支配を原則とする社会主義国の原則)。今回のこのおそるべき反日運動は、当然背後から指揮されている。だから、数億の中国の民衆による巨大な集団的反日運動のうねりとなる。これはおそろしいことである。このような民衆の集団的な暴力的うねりはいちどはじまったら、はどめがきかなくなるからだ。日本政府はこのおそろしさを認識しなければならない 独裁はしばしばこのような民衆の集団的暴力をともなう。中国の文化革命時代、江青一派の4人組支配により、紅衛兵という民衆組織を通じて、反革命的とみなされた階級や少数民族にたいする弾圧が民衆の集団的暴力となって吹き荒れたことは、記憶に新しい。 5.解決の難しさ 2  10月の中国次期後継者の決定問題 では、いかなる政治的意思がうごいているのか。帝国主義日本の中国侵略への遺恨もあるが、近くは、10月に予定されている共産党大会における胡錦濤総書記(国家主席)の後継問題-胡派か江沢民派か-も考慮すべきであろう。 反日教育の主導者は江沢民であった。その理由は二つ。①当時南京政府の支配地でうまれ、日本軍の南京攻略をはじめ上海を中心とする日本軍の中国侵略をまのあたりにしながら育った江の経歴。もうひとつは、②文化革命が生み出した中国国民の内部分裂と遺恨、および改革開放がうみだした政府批判とその弾圧(天安門事件)による国内分裂の危機を、反日にむけることによって解消をはからざるをえなかった当時の歴史状況(江沢民は天安門事件の年の1989年に総書記就任)だ。 胡錦濤総書記の後継候補は江派の習近平副主席である。習新総書記(主席)とともに、江沢民派の反日政策が再び活発化する可能性がある。今回の反日運動はそのための、準備運動とも推測できる(反日のデモや暴動は、江沢民派の権力基盤のある、上海を中心とする中国中南部に集中している。中国の中で経済発展に最もめぐまれているこの地域で、何ゆえに反日運動がおきるのか、その理由はここにあると推測している)。   6.解決の可能性  文化革命の悪夢  しかしこのような、集団的な反日運動にたいして、中国内部に警戒感もあるだろう。政府自身もおそれているかもしれないが、中国には文化革命の悪夢がある。文化革命時代に、過酷な弾圧や暴力の犠牲となった中国内の少数民族や辺境地域住民がいる。漢族以外56の民族がいるという中国では、共産党支配はほとんど漢族支配だとみられている。現在でも、ウイグルやチベットをめぐる国内民族問題は一触触発状態だ。したがって、漢族以外の少数民族、モンゴル族や、ウイグル族、チベット族、雲南の多数の少数民族は、この集団的な反日運動の暴力がかつては自分たちに向けられた文化革命時代を、恐怖の記憶とともに思い起こしているのではないだろうか。 結論 くりかえしになるが、ただたんに、「毅然と」対応せよ、「理性的に」対応せよ、というだけでは、理性的でも、毅然としてもいない。尖閣がなにゆえ日本の領土で、中国領ではないのか、そのことを一般の日本国民にも、中国国民にも、あるいは世界の人々にもわかるような方法で、理路整然と説明する必要がある。それが「理性的」な対応だ。 尖閣が日本領であるとする日本政府の理由を、日本人の多くもよく理解していない。 その際特に重要なのは、尖閣が日本の領土であることは、日本単独の主張ではなく、サンフランシスコ平和条約その他一連の国際条約のなかで決められたことであることを、十分理解することだろう。 それで、日本政府の主張が正しいのなら、毅然とそう主張し、正しくないのなら、中国の主張をみとめるしかない。こうした議論を、すでに、さまざまなかたちで深いつながりができている日本人と中国人どうしで、丁寧におこなうことが、平和的な解決への第一歩であろう。 理由なき愛国主義も、沈黙も、ともに解決にならない。中国の反日運動に対して、日本政府は中国を刺激すまいと沈黙をまもっているが、それは逆効果である。沈黙政策は、国際的にみれば、日本は中国が糾弾するような領土的野心にもとづいて尖閣の国有化をおこなっているのだということを認めているようにさえみられてしまうからだ。正当な理由を明言する理論闘争が必要なのである。 ----------------------------------------- <嶋田義仁 SHIMADA Yoshihito> 名古屋大学文学研究科教授。1949年生まれ。京都大学博士(文学)、Dr. de 3ème cycle (EHESS)。宗教人類学。著書:『黒アフリカ・イスラーム文明論』(創成社)、『牧畜イスラーム国家の人類学』(世界思想社)、『稲作文化の世界観』(平凡社)(和辻哲郎文化賞)、など。 ----------------------------------------- 今回の中国の反日運動の根源は深いと考えています。 1.尖閣問題の日本側の問題:無策だった 尖閣諸島にたいする日本の、戦後における「実効支配」はきわめて薄弱だった。日本政府は「実効支配」が中国を刺激することをおそれて、なんらの「実効支配」をおこなってこなかった。触らぬ神にたたりなしの政策をとってきた。中華人民共和国の反対により、仮設ヘリポートも撤去、日本国領土だと明記した国標さえも建設しなかった。これだったら、日本は尖閣の領有権をみとめていないとおなじ。 2.尖閣問題の中国側の問題:実効支配の準備をちゃくちゃくとすすめていた 他方、中国では、尖閣諸島は中国領土だという主張を、学校教育をつうじてさえ中国人に植え続けてきた(そのはじまりは、江沢民時代)。だから、中国の若者は、尖閣諸島は中国領の釣魚列島だと信じている。この意味で、中国のほうがむしろ実効支配をおこなってきた。それ故、中国の民衆にとって、今回の尖閣諸島の日本人所有者からの国家による購入は、中国領土の略奪なのである。 3.解決策 第一の解決策は、日本政府は尖閣諸島が日本領だという根拠を、丁寧にわかりやすく、中国人にも日本人にも説明すること。 しかしこれを日本政府はやっていない。領土問題は存在しないといって、沈黙しているだけ。野田首相は、まずは国民に向かって、誰にでもわかるように、丁寧に、尖閣諸島が日本の領土である理由をのべるべきなのだ。ジャーナリズムも、これをやらなくてはいけない。この説明は、当然中国にも、世界にも発信される。もちろん、中国が、尖閣諸島を中国領土だとする理由も、わかりやすく説明しなければいけない。 外務省ホームペイジには「尖閣諸島の領有権についての基本見解」という説明文があるが、これは典型的な役人文章で、きわめてわかりにくい。 日本にも多数の中国人がいる。彼ら彼女らと日本人のあいだでも、尖閣問題は当然話題になる。しかし、問題が理論的によく整理されていなければ、議論ができない。理論的な整理がないと、日本人は感情的な愛国心だけで、尖閣諸島は日本領土だと主張し、中国人にたいする感情的な憎悪を募らせるだけになり、これは日中関係にとってきわめて危険である。 玄葉外務大臣が、中国当局に訴えた、「石原都知事が買うよりも国が買う方がいい」という説明は、聞いてあきれる。これは尖閣諸島の領有権をめぐる問題なのだ。中国にとって、尖閣を都が買おうと国が買おうと、どちらでもいい。中国にとって問題は、尖閣は中国領だということだ。日本が言うべきは、尖閣諸島は日本固有の領土だ、という主張でしかない。その主張がただしくないことを説明するのが、外務大臣の役割だ。 4.解決のむずかしさ あるいはおそろしさ 1  民衆の集団的反日 しかし、この解決策による解決には恐ろしく大きな困難がつきまとう。それは、中国の中央集権的な教育政策によって、中国人の青年若者世代の脳髄には、尖閣諸島は中国領だ、という意識が強烈にうめこまれ、それは固定観念化しているからだ。それは数人の政府幹部の意識のもんだいではない。中国国民大衆の集合的な意識の問題である。数億の国民の意識の問題である。 しかも中国は言論が統制されている。そのコントロールをおこなっているのは、改革開放政策がすすんだ現在でも、あらゆる組織にはびこっている共産党組織である。共産党組織の指令ひとつで、数億の中国国民がうごきだす(これは党支配を原則とする社会主義国の原則)。今回のこのおそるべき反日運動は、当然背後から指揮されている。だから、数億の中国の民衆による巨大な集団的反日運動のうねりとなる。これはおそろしいことである。このような民衆の集団的な暴力的うねりはいちどはじまったら、はどめがきかなくなるからだ。日本政府はこのおそろしさを認識しなければならない 独裁はしばしばこのような民衆の集団的暴力をともなう。中国の文化革命時代、江青一派の4人組支配により、紅衛兵という民衆組織を通じて、反革命的とみなされた階級や少数民族にたいする弾圧が民衆の集団的暴力となって吹き荒れたことは、記憶に新しい。 5.解決の難しさ 2  10月の中国次期後継者の決定問題 では、いかなる政治的意思がうごいているのか。帝国主義日本の中国侵略への遺恨もあるが、近くは、10月に予定されている共産党大会における胡錦濤総書記(国家主席)の後継問題-胡派か江沢民派か-も考慮すべきであろう。 反日教育の主導者は江沢民であった。その理由は二つ。①当時南京政府の支配地でうまれ、日本軍の南京攻略をはじめ上海を中心とする日本軍の中国侵略をまのあたりにしながら育った江の経歴。もうひとつは、②文化革命が生み出した中国国民の内部分裂と遺恨、および改革開放がうみだした政府批判とその弾圧(天安門事件)による国内分裂の危機を、反日にむけることによって解消をはからざるをえなかった当時の歴史状況(江沢民は天安門事件の年の1989年に総書記就任)だ。 胡錦濤総書記の後継候補は江派の習近平副主席である。習新総書記(主席)とともに、江沢民派の反日政策が再び活発化する可能性がある。今回の反日運動はそのための、準備運動とも推測できる(反日のデモや暴動は、江沢民派の権力基盤のある、上海を中心とする中国中南部に集中している。中国の中で経済発展に最もめぐまれているこの地域で、何ゆえに反日運動がおきるのか、その理由はここにあると推測している)。 6.解決の可能性  文化革命の悪夢 しかしこのような、集団的な反日運動にたいして、中国内部に警戒感もあるだろう。政府自身もおそれているかもしれないが、中国には文化革命の悪夢がある。文化革命時代に、過酷な弾圧や暴力の犠牲となった中国内の少数民族や辺境地域住民がいる。漢族以外56の民族がいるという中国では、共産党支配はほとんど漢族支配だとみられている。現在でも、ウイグルやチベットをめぐる国内民族問題は一触触発状態だ。したがって、漢族以外の少数民族、モンゴル族や、ウイグル族、チベット族、雲南の多数の少数民族は、この集団的な反日運動の暴力がかつては自分たちに向けられた文化革命時代を、恐怖の記憶とともに思い起こしているのではないだろうか。 結論 くりかえしになるが、ただたんに、「毅然と」対応せよ、「理性的に」対応せよ、というだけでは、理性的でも、毅然としてもいない。尖閣がなにゆえ日本の領土で、中国領ではないのか、そのことを一般の日本国民にも、中国国民にも、あるいは世界の人々にもわかるような方法で、理路整然と説明する必要がある。それが「理性的」な対応だ。 尖閣が日本領であるとする日本政府の理由を、日本人の多くもよく理解していない。 その際特に重要なのは、尖閣が日本の領土であることは、日本単独の主張ではなく、サンフランシスコ平和条約その他一連の国際条約のなかで決められたことであることを、十分理解することだろう。 それで、日本政府の主張が正しいのなら、毅然とそう主張し、正しくないのなら、中国の主張をみとめるしかない。こうした議論を、すでに、さまざまなかたちで深いつながりができている日本人と中国人どうしで、丁寧におこなうことが、平和的な解決への第一歩であろう。 理由なき愛国主義も、沈黙も、ともに解決にならない。中国の反日運動に対して、日本政府は中国を刺激すまいと沈黙をまもっているが、それは逆効果である。沈黙政策は、国際的にみれば、日本は中国が糾弾するような領土的野心にもとづいて尖閣の国有化をおこなっているのだということを認めているようにさえみられてしまうからだ。正当な理由を明言する理論闘争が必要なのである。 ----------------------------------------- <嶋田義仁 SHIMADA Yoshihito> 名古屋大学文学研究科教授。1949年生まれ。京都大学博士(文学)、Dr. de 3ème cycle (EHESS)。宗教人類学。著書:『黒アフリカ・イスラーム文明論』(創成社)、『牧畜イスラーム国家の人類学』(世界思想社)、『稲作文化の世界観』(平凡社)(和辻哲郎文化賞)、など。 ----------------------------------------- ★おことわり★ SGRAかわらばんでは、読者の皆様から投稿していただいた領土問題に関するエッセイを優先的に配信しておりますが、これらのエッセイの内容はSGRAとしての見解を示すものではありません。SGRAはどの立場を採るかということではなく、開かれた議論の場を提供することを目指しています。 2012年9月26日配信 ★おことわり★ SGRAかわらばんでは、読者の皆様から投稿していただいた領土問題に関するエッセイを優先的に配信しておりますが、これらのエッセイの内容はSGRAとしての見解を示すものではありません。SGRAはどの立場を採るかということではなく、開かれた議論の場を提供することを目指しています。 2012年9月26日配信 1.尖閣問題の日本側の問題:無策だった 尖閣諸島にたいする日本の、戦後における「実効支配」はきわめて薄弱だった。日本政府は「実効支配」が中国を刺激することをおそれて、なんらの「実効支配」をおこなってこなかった。触らぬ神にたたりなしの政策をとってきた。中華人民共和国の反対により、仮設ヘリポートも撤去、日本国領土だと明記した国標さえも建設しなかった。これだったら、日本は尖閣の領有権をみとめていないとおなじ。 2.尖閣問題の中国側の問題:実効支配の準備をちゃくちゃくとすすめていた 他方、中国では、尖閣諸島は中国領土だという主張を、学校教育をつうじてさえ中国人に植え続けてきた(そのはじまりは、江沢民時代)。だから、中国の若者は、尖閣諸島は中国領の釣魚列島だと信じている。この意味で、中国のほうがむしろ実効支配をおこなってきた。それ故、中国の民衆にとって、今回の尖閣諸島の日本人所有者からの国家による購入は、中国領土の略奪なのである。 3.解決策 第一の解決策は、日本政府は尖閣諸島が日本領だという根拠を、丁寧にわかりやすく、中国人にも日本人にも説明すること。 しかしこれを日本政府はやっていない。領土問題は存在しないといって、沈黙しているだけ。野田首相は、まずは国民に向かって、誰にでもわかるように、丁寧に、尖閣諸島が日本の領土である理由をのべるべきなのだ。ジャーナリズムも、これをやらなくてはいけない。この説明は、当然中国にも、世界にも発信される。もちろん、中国が、尖閣諸島を中国領土だとする理由も、わかりやすく説明しなければいけない。 外務省ホームペイジには「尖閣諸島の領有権についての基本見解」という説明文があるが、これは典型的な役人文章で、きわめてわかりにくい。 日本にも多数の中国人がいる。彼ら彼女らと日本人のあいだでも、尖閣問題は当然話題になる。しかし、問題が理論的によく整理されていなければ、議論ができない。理論的な整理がないと、日本人は感情的な愛国心だけで、尖閣諸島は日本領土だと主張し、中国人にたいする感情的な憎悪を募らせるだけになり、これは日中関係にとってきわめて危険である。 玄葉外務大臣が、中国当局に訴えた、「石原都知事が買うよりも国が買う方がいい」という説明は、聞いてあきれる。これは尖閣諸島の領有権をめぐる問題なのだ。中国にとって、尖閣を都が買おうと国が買おうと、どちらでもいい。中国にとって問題は、尖閣は中国領だということだ。日本が言うべきは、尖閣諸島は日本固有の領土だ、という主張でしかない。その主張がただしくないことを説明するのが、外務大臣の役割だ。 4.解決のむずかしさ あるいはおそろしさ 1  民衆の集団的反日 しかし、この解決策による解決には恐ろしく大きな困難がつきまとう。それは、中国の中央集権的な教育政策によって、中国人の青年若者世代の脳髄には、尖閣諸島は中国領だ、という意識が強烈にうめこまれ、それは固定観念化しているからだ。それは数人の政府幹部の意識のもんだいではない。中国国民大衆の集合的な意識の問題である。数億の国民の意識の問題である。 しかも中国は言論が統制されている。そのコントロールをおこなっているのは、改革開放政策がすすんだ現在でも、あらゆる組織にはびこっている共産党組織である。共産党組織の指令ひとつで、数億の中国国民がうごきだす(これは党支配を原則とする社会主義国の原則)。今回のこのおそるべき反日運動は、当然背後から指揮されている。だから、数億の中国の民衆による巨大な集団的反日運動のうねりとなる。これはおそろしいことである。このような民衆の集団的な暴力的うねりはいちどはじまったら、はどめがきかなくなるからだ。日本政府はこのおそろしさを認識しなければならない   独裁はしばしばこのような民衆の集団的暴力をともなう。中国の文化革命時代、江青一派の4人組支配により、紅衛兵という民衆組織を通じて、反革命的とみなされた階級や少数民族にたいする弾圧が民衆の集団的暴力となって吹き荒れたことは、記憶に新しい。 5.解決の難しさ 2  10月の中国次期後継者の決定問題   では、いかなる政治的意思がうごいているのか。帝国主義日本の中国侵略への遺恨もあるが、近くは、10月に予定されている共産党大会における胡錦濤総書記(国家主席)の後継問題-胡派か江沢民派か-も考慮すべきであろう。   反日教育の主導者は江沢民であった。その理由は二つ。①当時南京政府の支配地でうまれ、日本軍の南京攻略をはじめ上海を中心とする日本軍の中国侵略をまのあたりにしながら育った江の経歴。もうひとつは、②文化革命が生み出した中国国民の内部分裂と遺恨、および改革開放がうみだした政府批判とその弾圧(天安門事件)による国内分裂の危機を、反日にむけることによって解消をはからざるをえなかった当時の歴史状況(江沢民は天安門事件の年の1989年に総書記就任)だ。 胡錦濤総書記の後継候補は江派の習近平副主席である。習新総書記(主席)とともに、江沢民派の反日政策が再び活発化する可能性がある。今回の反日運動はそのための、準備運動とも推測できる(反日のデモや暴動は、江沢民派の権力基盤のある、上海を中心とする中国中南部に集中している。中国の中で経済発展に最もめぐまれているこの地域で、何ゆえに反日運動がおきるのか、その理由はここにあると推測している)。   6.解決の可能性  文化革命の悪夢   しかしこのような、集団的な反日運動にたいして、中国内部に警戒感もあるだろう。政府自身もおそれているかもしれないが、中国には文化革命の悪夢がある。文化革命時代に、過酷な弾圧や暴力の犠牲となった中国内の少数民族や辺境地域住民がいる。漢族以外56の民族がいるという中国では、共産党支配はほとんど漢族支配だとみられている。現在でも、ウイグルやチベットをめぐる国内民族問題は一触触発状態だ。したがって、漢族以外の少数民族、モンゴル族や、ウイグル族、チベット族、雲南の多数の少数民族は、この集団的な反日運動の暴力がかつては自分たちに向けられた文化革命時代を、恐怖の記憶とともに思い起こしているのではないだろうか。 結論 くりかえしになるが、ただたんに、「毅然と」対応せよ、「理性的に」対応せよ、というだけでは、理性的でも、毅然としてもいない。尖閣がなにゆえ日本の領土で、中国領ではないのか、そのことを一般の日本国民にも、中国国民にも、あるいは世界の人々にもわかるような方法で、理路整然と説明する必要がある。それが「理性的」な対応だ。   尖閣が日本領であるとする日本政府の理由を、日本人の多くもよく理解していない。   その際特に重要なのは、尖閣が日本の領土であることは、日本単独の主張ではなく、サンフランシスコ平和条約その他一連の国際条約のなかで決められたことであることを、十分理解することだろう。   それで、日本政府の主張が正しいのなら、毅然とそう主張し、正しくないのなら、中国の主張をみとめるしかない。こうした議論を、すでに、さまざまなかたちで深いつながりができている日本人と中国人どうしで、丁寧におこなうことが、平和的な解決への第一歩であろう。   理由なき愛国主義も、沈黙も、ともに解決にならない。中国の反日運動に対して、日本政府は中国を刺激すまいと沈黙をまもっているが、それは逆効果である。沈黙政策は、国際的にみれば、日本は中国が糾弾するような領土的野心にもとづいて尖閣の国有化をおこなっているのだということを認めているようにさえみられてしまうからだ。正当な理由を明言する理論闘争が必要なのである。   ----------------------------------------- <嶋田義仁 SHIMADA Yoshihito> 名古屋大学文学研究科教授。1949年生まれ。京都大学博士(文学)、Dr. de 3ème cycle (EHESS)。宗教人類学。著書:『黒アフリカ・イスラーム文明論』(創成社)、『牧畜イスラーム国家の人類学』(世界思想社)、『稲作文化の世界観』(平凡社)(和辻哲郎文化賞)、など。 -----------------------------------------   ★おことわり★ SGRAかわらばんでは、読者の皆様から投稿していただいた領土問題に関するエッセイを優先的に配信しておりますが、これらのエッセイの内容はSGRAとしての見解を示すものではありません。SGRAはどの立場を採るかということではなく、開かれた議論の場を提供することを目指しています。   2012年9月26日配信
  • 2012.09.20

    エッセイ350:ジョン・ハミルトン「モンゴル旅行記」

    Essay in English   今回のシンポジウム、並びに2009年のノモンハン事件のシンポジウムは私にとって非常に刺激的、かつ興味のあるものでした。2009年、この時、私は歌を唄う事となり、もっとカリンカ(ロシア民謡)を練習しておけば良かったと後悔しました。だから、キリル文字から英訳した歌詞をウィキペディアで知り、友人からCDを借りて、車の中で練習しました。最近、英国のサッカーチーム、チェルシーのサポーターが試合でこの歌を歌っています(このクラブのオーナー、アブラモヴィッチはロシア人です)。2万人の観衆が合唱するのでテナー歌手は非常にパワフルに歌わねばなりません。私は車の中では、かなり旨く歌えた(と、自分では思っています)が、ウランバートルでロシアの方々と歌えるチャンスがあれば、歌のレッスンを受けようと考えていました。   2009年のノモンハン事件のシンポジウムにはロシアの方々が多かったですが、今回はあまりいらっしゃらなかったので、カリンカを唄うチャンスはありませんでした。ケンピンスキー・ホテルでの夕食でお会いした エフゲニー・リストヴァンネィ氏はひょっとしたら、と思いましたが、翌日、彼は居ませんでした。氏はイルクーツクから来られました。そこで私は彼に車で来たのか聞きましたが飛行機との事でした。このあとシンポジウムで、イルクーツクはモンゴル語で「クリスチャン(ネストリア派)の街」と知りました。   今回のシンポジウムで次に準備したのは本を読むことでした。2009年のシンポジウムの前、私は姜戎の『神なるオオカミ(Wolf Totem、狼図騰)』」)を読みました。これは、文革時代、モンゴルにいた中国人の書いたモンゴル人についての本で、ベストセラーとなり、フランス人映画監督により映画化される予定です。モンゴルのインテリはこの本について、或いはここでのモンゴル人の書かれ方に非常に懐疑的ですが、私自身はここに書かれた狼について楽しく読みました。私はそのフランス人監督が良い映画を作るのは難しいと思っています。今回のシンポジウムの最後の日、我々は狼の毛皮を見ることが出来ました。   そう、私は狼の毛皮のコートを着た今西さんの素敵な写真を持っています。このシンポジウムの前、木村肥佐生氏の「チベットの日本人エージェント」を読みました。今は英訳されていますが、これは1943年から1945年にかけて内蒙古、チベットからインドにかけての旅行を描いたもので、読む人を楽しませ、彼が出会い、一緒に過ごしたモンゴル人、チベット人に温かい眼差しを注いでいます。私は非常に面白く読みました。 シンポジウムのための次の「準備」は思いがけないもので、非常にハッピーでした。 今年の4月、名古屋市の中央、ささしまライブ駅地区に新しく愛知大学の主要キャンパスがオープンしました。これは関係する全ての人に様々な問題をつきつけました。私は毎週月曜に4つのクラスを持ったので、火曜日の朝まで泊ろうと思いましたが、新しいキャンパスには風呂が無いのです。そこで2カ月ほど前、中村区まで銭湯を探しに出かけました。最初の「さくら湯」は丁度、閉店したばかりで、太閤通りの別の銭湯を探しました。もう夜も9時30分、知っている人は居そうもありません。すると一人の女性が暗闇から現れ「お手伝い出来る人を知っています」、そして閉店したばかりのお好み焼き屋さんのドアを叩きました。中には犬養爺さんと彼の奥さんが居て、「地蔵湯」と云う銭湯に連れて行ってくれると云うのです。迷路の様な道すがら、彼は話してくれました。1950年代に愛知大学を卒業したとか、「地蔵湯」は一番の銭湯だとか・・・。   以来、毎週月曜、銭湯に行く前、犬養爺さんのところで、時には友人を連れて夕食をとっています。モンゴル・シンポジウムの一週間ほど前、犬養爺さんの娘さんが、ウズベキスタンと、最近はベニンで日本語の先生をしていたKito Naomiさんを呼んでくれました。彼女はアフリカ人の夫、Adecを連れて店に来ました。Adec はフランス語しか話せません。栄でドラムを叩いています。いずれにせよNaomiさんのお陰で、モンゴル第2の都市ダルハンに住むウルズィー・オルシフ氏に会う事が出来たのです。   私は7月20日(金)の夜、ウランバートルに着き、空港にはウルズィーが待っていてくれました。私はモンゴル第2の都市はウランバートルに非常に近いと思っていましたが、実際は北に200マイルほど離れていました。そう、彼は遠路はるばる来てくれたのです。   私は彼にこの週末、2年ほど前に行ったウランバートルの観光地より、彼の住むダルハンの方がより興味がある旨を伝え、その費用として若干のお金を渡し、もし彼に時間があるなら アマルバヤスガラント寺に行ってみたいと言いました。その晩、ウランバートルでの夕食のあと、タクシーに相乗りでダルハンに戻り、家族全員と一緒のウルズィー のアパートに泊まりました。ウルズィーは良きホストでした。壁に掛かったパナソニックのテレビではNHKの英語放送を始め、英語によるインド向けのロシアの番組、フランスの番組、BBCなど豊富な番組を見る事が出来ます。道路を隔てた彼の事務所、仕事場にも行きました。ウルズィーは小さな印刷会社を持っていました。最近のモンゴルの選挙ではすべての党の選挙印刷物をコニカ・ミノルタの印刷機で印刷しました。裏手の仕事場には、大きなポスターを刷っていた中国製の印刷機と軽トラックがありました。 そのあと、そのトラックで彼の両親が住む丘の上のダーチャ (ロシア風別荘)を訪ねました。確かにダルハン はモンゴル第2の都市かも知れませんが、人口は僅か5万人です。ロシアは社会主義の時、大きな工業都市を建設しようと思いましたが、それは実現しませんでした。今日、人々はアパ-トかダーチャかゲル (天幕)に住んでいます。ウルズィーの両親は裏手に野菜畑のあるダーチャに住んでいます。彼のきれいなお母さんは刺繍をし、お父さんは野菜畑を耕します。そこにはグズベリー、ラズベリー、干しブドウ、或いはロシアから持ち込まれた豊富なジャガイモがありました。そこからマーケットに行き、素晴らしい肉屋に行き、そこのレストランで昼食をとりました。 午後、我々はウルズィーの友人バータルとその奥さんも同行し、彼の運転でアマルバヤスガラント寺へ向かいました。お寺はオルホン川の対岸、ダルハンから約2時間、西に向かったところにあります。最後の35マイルは悪路です。この地点で不幸にも雨が降り出し、道は非常に滑り易く、車は至るところで滑りました。数回に亘り、我々は車を出て押さねばならず、ある場所では車は完全に動かなくなりました。遠くで稲光が光り、雨は強くなりました。シンポジウムに参加できなくなるのでは、と本当に心配しました。しかしバータルは優秀なドライバーで、ウルズィーは全然、心配していません。それから誰かがケーブルを持って現れ、大きな四輪駆動車も来ました。我々は車を押し、四輪駆動車が引き出しました。こうして我々はやっとアマルバヤスガラント寺に着きました。   我々はゲルに落ち着き、ウルズィーと私が今朝マーケットで買ったマトンとジャガイモでほとんどの夕食を作り、ウオッカで流し込みました。バータルはアルコールが駄目なので、ウルズィーが、殆んど飲んでしまいました。もしかしたら、バータルと彼の妻はクリスチャンだったからかも知れません。夜中、私の耳から6インチと離れていないゲルの壁越しに馬が草を食べる音が聞こえていました。翌朝、太陽は眩しく照っていました。お寺は草原の中の大聖堂の様でした。このお寺は1727年から37年の間に満州の皇帝雍正帝により建てられ、乾隆帝により完成しました。そしてここに葬られている彫刻家ザナバザルに奉納されました。ここは牧草地の野生の花に囲まれています。どこを歩いても、そこここにタイムの香りが漂い、小さなマーモット(リス科の小動物)がちょこちょこ走っていて、エキゾチックな鳥も見られます。 私は何とか、とさかのあるHoopoe (日本名ヤツガシラ) をカメラに収める事が出来ました。ウランバートル空港の鳥の本で見たのをみつけたのです。草原には朝食に料理した野生の苺や茸もありました。日曜日、来た道はすっかり乾き、帰りは非常に楽でした。でも、また一回、我々は車から出て押さなくてはいけなくなりました。 月曜の朝バンタン・チャイ(一種のミルクテイで、前夜からの 餃子(の様なもの)と肉汁の混ざったもの)のあと、私はウルズィーウルズィーの妻オーギとサイナーと言う女性と相乗りタクシーで出かけました。二人ともKito Naomiさんの生徒でした。オーギはひと月に2回ほどウルズィーの仕事の印刷の材料を買いに中国(国境の街 エルレン(二連)のほんの先ですが)へ行きます。そこはダルハンから列車で一泊のところですが、今回はウランバートルからはるばる来てくれたのです。 サイナーには初めての中国でした。我々はダルハンで特別のポンプでLPGを満タンにしました。道端に牛の群れがいたので、運転手は尚一層スピードを上げました。スピードメーターは動かず、誰もシートベルトをしていません。事故の側を通りましたが、死者はいなかった様です。それからはずーっと足はアクセルを踏みっぱなしでした。私はモンゴルの人は勇敢だと思いました。シートベルトは運転手への信頼を欠き、神への信頼を欠く事なのか、と。   ともかく無事にウランバートルへ着き、彼らは私をタクシーに乗せ、オーギがiPhoneでインターネットで見つけたホテル・ミカへ向かわせました。私は旅を堪能し、ホテル・ミカに着き、風呂を探しました。するとドアのところに、スマートなスーツに身を包んだフスレ先生が居られました。彼は重要人物に会いに出かけるところでした。私はとても嬉しかった。そして言いました「良い風呂を探しています!」。彼の顔が曇りました。彼はホテルの水配管系が壊れていて、熱いお湯は出ないことを知っていたのです。結局私は冷たいシャワーを浴びる羽目にな りました。そのあと翌日の為のシャツを買いにウランバートルの街に出かけました。   翌朝、シンポジウムはホテル・ミカの朝食時に始まりました。ほかの人達が来る前、私はNagahama Takashiro/Kimi夫妻と話していました。彼は川崎の、彼女は石川県の出身です。彼らはJICAのシニア・ボランテイア(Nagahama氏は引退したばかり)でダルハンに住んでいます。彼の主題は「品質管理」で、工科大学のManagement 部で教えようとしていました。 そこで私はUlziiを紹介し、ハガキで念を押しておきました。朝食に最初に降りて来たのは愛知淑徳大学の藤井真湖さんでした。彼女に会えて良かったと思っています。隣人に会うのに、時にははるばる長い距離を行かねばなりません。彼女は『モンゴル秘史』 (漢字で書かれた音声バージョンから作業) の真面目な学者です。   次に朝食に現れたのは林泉忠氏でした。彼はアモイ生まれで、香港育ち(英国籍)です。彼はハーバード(最終日、ハーバードのTシャツを着ていました)にも居ましたが、最近、長い間の東京と沖縄の生活を終え、台湾で仕事を始めたところでした。初日の朝食時、彼はAmi and Bunung の台湾のTシャツを着ていました。   次に来たのはソウルから来た崔佳英さんです。 彼女は5年間、東大駒場に居て人気の的でした。 彼女の美しさはシンポジウムの中でも際立っていて、後に私は韓国の儒教の力を改めて感じました。彼女が私の目の前のドアを通り抜けるのをただ見ているだけでした。最後にフスレ先生が到着しました。ただ一人、今日、お会いで出来なかったのは手術(成功したのですが)をしたばかりの田中克彦先生ですが、気持ちのうえでは我々と一緒だと思いました。   モンゴルの日本センターで、お湯の出でるケンピンスキー・ホテルに泊まっている今西淳子さんにお会いしました。このシンポジウムまで、私は彼女と彼女のお母さんが運営するSGRAや渥美国際交流財団が、鹿島建設(今は取り壊されていますが、愛知大学三好キャンパスを造った。)の基金によることを知りませんでした。何と、私は、ものを知らないのでしょう! いずれにせよ、私は再び彼女にお会い出来て良かったと思っています。モンゴルと日本の関係が如何に大切か、彼女の手に手を携えた様なアプローチが如何に良いものか、必要なものか。   次にお会い出来て良かったのはミャグマルサンボー(陸軍大佐)さんです。彼とは東京国立の一橋大学で会い、飲みました。彼とはモンゴル研究でもっと時間をとれたらなあと思っています。近い将来、多分、そういったチャンスはあるでしょう。シンポジウムの終りに彼はモンゴルの美しい写真でいっぱい本をくれました。その幾つかを写真に撮って、私のマルコポーロ講義(多分、来年)に使うと思います。   それからゾルボーさんです。彼とは初対面ですが、驚いたことに彼は私の17ページに及ぶ論文をモンゴル語に翻訳してくれました。これまで自分の本格的な仕事が他の言語に翻訳されたことが無いので、これを読みたい気持ちで一杯です。D.ゾルボーさんありがとう。私の「南西中国からヨーロッパにかけて広がった腺ペスト」の発表は第1日めでした。幸い、論文と一緒に、C.P.アトウッド(2009年のシンポジウムに参加) の素晴しい『モンゴル百科事典』と、カプロンスキ編集によるバータルの『モンゴル史』を持っていました。発表中にもお見せ出来たし、休憩時間にも何人かが注文するために本の写真を撮っていました。   その夜、ケンピンスキー・ホテルでの夕食時、私は皆さん全員を招待してくれたシュルフーさんと、大草原への遠足の時に知り合った研究所長、ハイサンダイさんの間に座っていました。私はシュルフーさんのモンゴルについての話を興味深く聞いていました。ロシア(1億4千万の人口)と中国(13億の人口)の間には3つの緩衝地帯がある。モンゴル(240万人)、内モンゴルそしてロシアのブリアート自治管区で、皆バイカル湖を囲んでいる(バイカルはモンゴル語で‘豊かな湖’を意味する。イシククル湖は別の湖)、と。夕食のテーブルの反対側にはケンブリッジからのボラグさんが居ました。 彼は12月に愛知大学に来るかも知れないと聞き興味を持ちました。孟松林さんと内モンゴルのフルンボイルから来ました。彼のアシスタントも居ました。フスレ先生曰く、孟さんのお母さんは溥儀(中国最後の皇帝)の妻婉容の親戚だと。私は何かそこに興味深いストーリーがあると感じました。   2日目、いろいろな興味深い発表がありました。藤井真湖さんはとても印象的でした。午後、私は、幸い殆んどの仕事をやってくれたソドノム・ツォルモンさんとセッションの司会役でした。ポンサグさんがジンギスカンの法律について良い話をしてくれました。私の頭の中では、1215年はジンギスカンが北京を征服した年は、英国のマグナカルタ(大憲章)が制定された年です。上村明さんが‘黄禍論’について、そしてドイツ帝国皇帝がこの言葉をどの様に使ったかを話しました。私は皇帝がビクトリア女王の従弟で、女王はワイト島で彼の腕のなかで亡くなった、と言う事を除いては余り多くは覚えていません。 崔佳英さんは南北朝鮮の教科書のなかのジンギスカンについての記述について話しました。彼女が北朝鮮の教科書をどうして知ったのか分かりません。韓国のSubadeの侵略にも興味があります。済州島の馬に関しても、もっと知りたいと思います。林泉忠さんは台湾におけるジンギスカンの取り上げ方について話しました。只、彼のどちらかと言えば難しい日本語は、英訳が無くて私には彼の論文が良く分かりませんでした。でも台湾の地図では外モンゴルは中国の一部と扱われている様です。そして再び教科書について、高橋梢さんから聞く時間となりました。彼女のモンゴル語はとても美しく、音楽を聴いている様でした。   2日目の夕食会はウランバートルホテルでした。確か、このホテルの一部は1970年代には英国大使館だったところで、当時、私の従弟、Myles Ponsonby RIPが大使でした。 夕食はすばらしいもので、私の話す番の時、すでにかなりの量のソヨンボウオッカが入っていたのですが、私はアマルバヤスガラントでの冒険について話しました。通訳のボロルマーさんが、私の日本語をかなり旨くモンゴル語に通訳してくれました。その後、私はアユシ・ボヤンテグスさんと話しました。彼は5年以上、モスクワに居て、日本語、英語をロシア語訛りで話します。   最後の日、お気に入りとなったハイサンダイさんと一緒に草原へ行きました。ガイドをしてくれた研究所の方は米国オハイオに居たことがあり、帰国した彼はきれいな英語を話しますが、絶対菜食主義者でアルコールは飲みません。こういうモンゴル人がいることは興味深いことです。私達は13世紀のモンゴル生活の博物館の様な所を訪れ、そこで私は私のマルコポーロ講義の為の写真を沢山撮りました。昼食は壮大なゲルで、非常に家庭的な雰囲気のなかでとりました。中に肉の入ったフラット・ジャックはとても美味しいものでした。そのあと、モンゴルのシャーマン教で聖地とされるところへ行きましたが、ゲルの中には沢山の仮面や魔法のシンポルがありました。シャーマンの占い師を通して、他の世界の人々と話をしようとするものの様です。モンゴルのシャーマンは韓国を通って日本に伝わり、神道の一部となったと私は考えます。   他のゲルでは馬やらくだに乗りました。ふたこぶらくだは非常に心地良く、自然の鞍の様でした。私は、らくだのこぶが宴会に供される杜甫の詩を思い出しました。最後のゲルは学校で、女性スタッフ達がモンゴル文字を筆で美しく書いていました。床には山羊の皮の敷物やヤクの皮が、椅子には豹(winter leopard) の皮がありました。   外は雲の影が絵の様に流れています。この日は快晴でした。   ウランバートルに戻った時には、皆、とても疲れていました。そしてシュルフーさん主催の素晴しい夕食でこの日を終えました。シュルフーさんは翌朝、私を空港へ送る為、ビャンバー・ツェンゲルハムさんを付けてくれました。彼女の弟は早稲田大学で国際関係を勉強していて、お兄さんはジャーナリストでロンドンのオリンピックをレポートする予定との事です。   機中で、先週の土曜日、北京、天津に大雨、洪水があった事を『中国日報』で読みました。その日は丁度、私がアマルバヤスガラントへのクロス・カントリーに大奮闘していた日でした。   (愛知大学教授、原文は英語、河村一雄訳)   2012年9月20日配信  
  • 2012.09.16

    今西淳子「溝を埋める地道な作業を~チャイナフォーラム中止にあたって~」

    大変残念なことに、9月17日にフフホト、19日に北京で予定していたSGRAチャイナフォーラムを中止しました。12年前にSGRAの活動を始めてから、プロジェクトの中止は初めてのことです。   フォーラムの準備が全て終わり、あとは中国へ出発するだけという9月14日(金)朝、フフホトフォーラム担当の内モンゴル大学のネメフジャルガルさんと、北京フォーラム担当の北京外国語大学の宋剛さんから、ほぼ同じ内容のメールが届きました。「昨日の夜、学校の幹部の緊急会議で、日本関係のイベントを自粛、延期するようにという決定が出ました」と。さすがに、皆さんのスケジュールを再調整するのは無理なので、中止せざるをえません。「今日はポスターの回収とキャンセルの説明に奔走しています」とのこと。講師の元ロータリー米山記念奨学会専務理事の宮崎幸雄さんも私も、「こういう時こそ民間の交流が大切」とはりきっていたのに本当にがっかりです。柳条湖事件の前日と翌日にフォーラムを組んだ思慮のなさを悔やみましたが、テレビが伝える今の様子を見ると1週間遅ければ大丈夫だったというようなものでもないかもしれませんね。   さて、今回の反日デモですが、おそらく多くの普通の日本人と同様、私も「どうしてこうなるの?」って感じなんです。日本国政府が日本人の所有者から購入した(=国有化)のは、東京都が買わないようにするためでした。都が買って「島の整備」などをしないように「国」が買いました。国でも都でもなくて右翼団体が買ったらもっと大変です。日本政府は、「当面何もしない、上陸も許可しない」と最初から公表していましたから、私も国が買ってほっとしたわけです。   つまり、日本の領土か中国の領土かという問題とは次元が違う話で、既に実行支配している日本の法律のもとで個人の所有者がいたわけです。(中国の法律のもとでの所有者が居るのかもしれませんが、そのことは今回の売買には関係しません。)日本の法律上で所有していた人が亡くなって、その家族が売却することにしました。最初は東京都と話していましたが、最後は国に売却することに決めました。ですから、日本の法律のもとで、所有者が変わったというだけ話です。その法律の効果があるかどうかは別の話で、個人所有も、国の所有も、同じ法律のもとで行われているのであって、その点では今回の「国有化」で日本政府の立場が変わったわけではなく、まして右翼と一緒になって領土を確定しようとしたわけでもありません。   ですから、中国政府が「日本が国有化した」と、すごく強い口調で非難することに、私自身は非常に違和感を感じます。政府関係者や報道機関は、もっとちゃんと説明してほしいです。少なくとも中国国民の大部分は誤解しているのではないかと思うのです。   勿論逆の「誤解」あるいは「すれ違い」も起こっていると思います。たとえば、韓国大統領の発言の日本での報道仕方は、もう少しなぜこのような発言がでたのか理解できるような説明をしてほしかったと思います。今の問題でも、なぜ中国政府のスポークスマンがこのように強い発言をするのか、なぜ中国の国民がこのように怒っているのか(デモをしている若い人たちの中には笑っている人も多いですけど)、もっと納得できる説明を聞きたいです。   50年前の戦争の時代と今が一番違うのは、交通と通信の発達によって国境を越える人と情報の交流が爆発的に増えたことだと思います。以前は国とマスメディアを通した限られた情報しかなかったのに対して、今はいろいろな方法で個人から個人へ伝えることができます。政府発表や報道をそのまま信じるのではなく、個人個人の意見のやりとりから少しずつ溝を埋めていくような地味な努力がもっともっと必要とされていると思います。ささやかながらもSGRAも貢献することができるかもしれません。   (SGRA代表)     2012年9月16日配信  
  • 2012.09.12

    エッセイ348:金 崇培「日韓関係のナショナリズムに関する一試論」

    日本と韓国の葛藤と摩擦は、21世紀に始まった問題ではない。20世紀の戦争と植民地の遺産が常に燻り続けていたものであり、それは現在でも突如として出現し、国家間に緊張状態をもたらす。国家を形成する主権、領土、国民の三要素はまるで共鳴するかのようにナショナリズム/民族主義を発動させる。特に領土問題はその領土の実質的な規模に関わらずナショナリズムを派生させ、この情緒的でありながらも強力な感情にも似た現象は歴史認識問題と重なり合い、過去から現在までを貫通する一つの認識を形成する。   ナショナリズムを煽り助長することは、瞬間的で容易であるが、問題を冷静に対処し和解の方向に導くには長期的な時間と共に知識や知恵、そして行動を要する。領土問題に関しては様々な意見や主張があると思われるが、それに関連する日韓関係のナショナリズムを巨視的に見る次の三点もまた考慮しなければならない。   第一に市場経済と民主主義。日本と韓国の共通項として市場経済と民主主義が挙げられてきた。両国の市場経済はグローバリズムと直結しており、特に資本と人は簡単に国境を越える。しかし、これらの移動は異文化との接触という新しい世界観の創出だけを意味するのではない。既にヨーロッパでも見られるように他者の流入によって自国で雇用機会を喪失した者は移民や異なった民族・人種に対して排他的、規制的思想と行動をとる傾向もある。グローバリズムに伴う資本と人の移動は一方で国家独自のアイデンティティを喪失しないようナショナリズムをより強固にする側面を持っている。   また、日本と韓国は異なる民主主義の歴史がある。戦後日本はアメリカの7年にわたる間接統治により、上からの民主主義を導入した。一方韓国は国内の独裁政治に対して、下からの民主主義の要求があった。民主主義が共通な価値であると安易に考えず、その形成過程の相違から両国のナショナリズムの本質を把握しなければならない。民主主義国家は互いに戦争をしないというテーゼが注目されてはいるが、民主主義国家からも独裁者は誕生し、国民も熱狂するという事例もまた歴史が示している。   第二に地域共同体。内在的に不安要素を残す東アジアに、EUのような東アジア共同体を形成しようとする努力が行われており、これが国民国家のナショナリズムの障壁を取り除くかもしれない。しかし、ヨーロッパは比較的類似した生活様態や文化、言語、宗教を有し、独自のアイデンティティや規範を見出しやすい基盤があった。EUの双璧であるフランスとドイツは、過去何百年において何度も戦争をしては和解してきた。両国を含めたヨーロッパの平和体制は戦争によって崩壊したが、その都度新しい国家間条約や平和条約によって平和体制を作り上げ、国境線を確定する作業も繰り返されてきた。EUの起源は、そのような歴史と共に、第二次世界大戦後にもドイツによって多大な損害を被ったにも関わらず、フランスがドイツに手を差し伸べて始まった。当時の東アジアの状況を考えるとフランスになりえる国はなかったであろう。   アメリカと共にG2の一角を担う中国の存在が東アジアはもちろん世界にもたらす影響は計り知れない。中国と地政学的に隣接している日本と韓国はより慎重な外交をする力が問われる。それは8千万人もの共産党員を有している現実の中国を直視しながら、その中国をも含めた共通する価値規範の模索が先決であろう。すでに日本と韓国、中国は共に高度な経済的依存の中にある。しかしこの関係がこのまま持続すればいいが、政治的確執によるナショナリズムはこの経済的依存さえも呑み込み、経済力という武器によって、その領域でも軋轢が生じる危険性をはらんでいる。   第三に帝国主義と植民地、そして国際法。戦争と平和の反復は過去の歴史に対する記憶と経験として学習され、今のヨーロッパを作り上げてきた。東アジアはこのような過程を経ずに19世紀に西洋の衝撃によって近代西欧国際法体制を受容、または編入された。文明国を自負していた西欧諸国は東アジアに国際法を適用した。当時の国際法にはいうまでもなく、帝国主義と植民地の問題に関連する法規範と意図が付随されていた。人類は戦争と平和とは何であるかを長い歴史の中で問い続けてきたが、帝国主義と植民地に対する認識の変化は比較的最近である。1910年代後半にアメリカ大統領であったウィルソンが主張した国際連盟(League of Nations)は植民地支配を受けている人々の民族自決を反映させず、国際連盟規約の前文にあるように、国際連盟に参加できた諸国家の平等を理念とした。その国際連盟の理念を一部継承しながら1940年代半ばに発足した国際連合(United Nations)は憲章で平和を掲げたが、国際連盟規約にあった委任統治の変容である信託統治を採用し、帝国主義と植民地に対する解決策や清算を提唱しなかった。国際連合の下では1960年に「植民地諸国、諸国民に対する独立付与に関する宣言」を採択することで、植民地支配を受けている人々の独立の要求を是認した。この時期はひとつの転換期ではあったが、60年代以降も植民地を海外領土として保持する国もある。   1905年の竹島/独島に関連した国際法や、アジア・太平洋戦争を終結させた1951年のサンフランシスコ平和条約もまた帝国主義時代の潮流からは自由ではなかった。ナショナリズムを呼び起こす日韓の領土問題は二国間の問題でありながらも同時に帝国主義と植民地、そして国際法とは何であったのかを想起させるものであり、その世界史的な脈絡での帝国主義の残骸が今現在のグローバル社会において、どこにどのような形態で拡散しているのか追究すべきであろう。   衝突するナショナリズムに対して、簡単に解決策を述べることはできない。外交力と市民力という二つの柱を中心に段階的な改善策が求められる。以前から提唱されてきたように、引き続き東アジア共同体の構築、政府間での対話、市民レベルでの交流、学術的交流など多様な外交政策と交流が同時進行されなければならないであろう。政治家であれ、学者であれ、またはそのような職業に属していない者であっても、ある国を背景にして生まれた一人の人間であるならば、社会的責任と同様にナショナリズムを有していても不思議ではない。問題はナショナリズム自体でなくナショナリズムの方向性である。両国の主張と立場を理解しながら発するメッセージや行為は、時に第三者的立場として追いやられ、両国のナショナリズムの批判対象となる。それにも関わらず閉鎖的なナショナリズムに巻き込まれずに開かれたナショナリズムを保つためには、他者を排除せずにその存在を認識し、自分の思考を整理する「主義」を養うしかない。   -------------------- <金崇培 (キム・スウンベ)☆KIM, Soongbae> 政治学専攻。関西学院大学法学部法律学科卒。韓国の延世大学政治学科にて修士号取得。博士課程修了。現在博士論文執筆中。2011年度に慶應義塾大学へ訪問研究員として滞在。研究分野は国際政治史。特に日韓関係史、帝国史、反共史について研究。 在日韓国人三世。 --------------------   2012年9月12日配信
  • 2012.08.29

    エッセイ347:李 鋼哲「領土問題で試される日中韓の知恵、解決策は?」

    領土・領海問題で東アジアの国家間関係や国民感情に大きな揺れが生じている。時折起こる局部的な地震のような感じがする。地震が起きたら国境を越えた被災者救助協力が行われ、国家関係や国民感情にプラス効果をもたらす方向に動くのだが、領土問題が発生するとそれとは逆の方向に動くのである。 人間対自然で闘うときは協力できるが、領土問題となると奪い合いの力が働き、国家間の対立が生じるのは人間社会の常であろうか。人間社会の長い歴史を見ると、常に領土を奪い合う弱肉強食の世界がそこに繰り広げられてきた。歴史上の世界の為政者たちは、「国民」、「国益」を守るという名目で、他国を侵略したり、占領したり、統治したりしてきた。そのような弱肉強食の世界がピークに達したのが第一次、第二次世界大戦ではなかろうか。 二つの大戦を経て、人類は、戦争というものは結局人の殺し合いで、誰の利益にもならない愚かな行為だと気付き、それを防ぐための世界的な仕組みを考え出した。そのひとつが「国際連合」(United Nations)という仕組みである。しかし、「国連」という仕組みのもとでも「冷戦」という深刻な対立と局部的な戦争を完全には防げなかった。 それをさらに進化させたのが「欧州共同体(EU)」に他ならない。近代において弱肉強食の戦争がもっとも激しかったヨーロッパでは、「二度と戦争をしない」という強い意志をもって、長い間最も激しい戦争をしてきたフランスとドイツが中心になって「共同体」を目指し、50年をかけて実現したのである。EUは単に経済共同体なのではなく、人類の最高の価値である「平和と共存」を実現する人類の知恵の結晶だと筆者は考えている。「普遍的な人権」という価値観は「平和と共存」という価値観の上で成り立つ価値観である。「普遍的な人権」価値観のもとでは他国に干渉したり、弱肉強食の戦争(例えばイラク戦争)があり得るが、「平和と共存」という最高の価値観のもとでは、戦争や他国干渉ができなくなる。これは国連憲章の基本原則でもある。 東アジアでも、この十数年間に「共同体」への機運が生まれ、「共同体」意識が経済や文化交流の緊密化とともに育まれてきている。最終のゴールとして「東アジア共同体」が実現できるかどうかは別として、大きなベクトルはその方向で動き、国境の壁は着実に低くなってきているのだ。今後、そのプロセスには波瀾万丈が予想されるが、「平和と共存」という人類最高の価値観に立ち戻れば、様々な問題は解決の方法が見つかるはずだと、筆者は確信している。 東アジアでは、第二次世界大戦後に領土・領海問題がたくさん残されているのは事実である。尖閣諸島(釣魚島)問題、竹島(独島)問題、北方領土問題、南沙諸島問題など。これらの問題はいずれも東アジアの近代における戦争や植民地支配など、かつての弱肉強食の世界秩序と、その後の混乱する国際情勢の中で残された問題である。戦争は終わり、戦後60年以上経った現在でも、今の国際法や二国間関係では、簡単には解決し難い問題である。 だからといって、解決方法が全くなく、今後も領土・領海紛争が起こり続けるのだろうか。解決方法は必ずあるはずである。それは関係各国が、「平和と共存」という人類最高の価値観と、自国の最高の「国益」という戦略的な大局で一致することができる時である。ここでいう「国益」とは一部政治家達が唱えている国民騙しのスローガンではなく、「平和と共存」という「人類益」に反しない範囲での「国益」として理解すべきである。 領土問題解決の実例もある。日中間の尖閣諸島に関する「棚上げ」方法は、最終的な解決方法ではなかったにせよ、過去40年間の日中友好協力関係を維持する上で最良の方法であったことは否定できない。この方法で対応できたのは両国のリーダー達が、「平和と共存」という価値観と自国の国益を合致させる方向で舵取りをとったからに他ならない。問題は、その後、「棚上げ論」から一歩も前進しておらず、最近では後退さえしていることだ。   もう一つの実例を挙げよう。中ロ国境線の確定である。江沢民時代の1998年に中国とロシア両国は、数百年争ってきた領土問題にけじめを付けたのである。中国の歴史教科書では、ロシア帝国が東シベリアや極東にまで領土を拡張して、清朝から160万平方キロメートルの領土を占領したと書かれ、筆者もそのような教育を受けてきた。1969年には珍宝島(ダマンスキ島)で中ロ両国の武力衝突まで起こり、中ソ間で大きな戦争が起こるから、いつも戦争準備に備えるという教育を受けてきたし、小学校の体育の時間には軍事訓練をさせられ、核戦争を予想して家の庭に防空洞(防空壕)を掘るのが、学校が終わってからの日課だった時期もある。全国民が防空洞を掘っていたのだ。   そのような緊張関係にあった中ロ間で、国境を確定し領土問題にけじめを付けたというのは、まさに中ロ両国のリーダー達が「平和と共存」という価値観と国益の価値観を一致させたからにほかならない。中国内ではこれに対してインターネット世論で相当な政府批判や江沢民批判があった。「売国賊」、「弱腰外交」などの言葉がネットで飛び交った。筆者も当時は「あれほどロシア帝国主義とソ連修正主義を批判した中国が?」と首を傾げたこともあるが、これはやはり中国のリーダー達の賢明な選択であったと理解するようになった。   中国は陸続きで国境を接している国が16ヶ国もあり、戦後に国境紛争が何度もあったが、現在では多数の国と領土問題を円満に解決しており、残った領土・領海問題にも善隣友好の大局に基づき、対話で解決することを一貫した外交指針としている。(もちろん、国力が強くなれば強気で出てくる可能性もないとは言えないが。)   東アジアで時として噴出し、国家関係や国民感情の悪化を招く領土ナショナリズムをどのように克服するのか。これは、東アジアの人々の知恵が試される21世紀の最大の課題である。これは国際問題・外交問題だけではなく、国内問題でもある。「平和と共存」を尊重する多数の国民と少数のナショナリスト間の葛藤でもある。   現時点では領土・領海問題には、完全な解決方法が見つからない。関係各国の為政者の賢明な選択は、現状維持を尊重する上で、紛争防止の為のガバナンス・メカニズム(対話チャンネル)を構築することである。実際に領土・領海紛争があるのに、「領土問題は存在しない」とする姿勢で国民を騙したり、解決方法を模索しないのは政治家達の怠慢に他ならない。政治家たちが領土主張を繰り返しても本当の国益にはならない。マスコミがそれを煽ることも国益にはならず自制すべきである。隣国間の関係を緊張化させることは国民にとっては迷惑行為ではないか。   将来的な解決方法としては、前途多難かも知れないが、EUのような共同体を目指すことも有力な道筋だろう。「共同体」や「連合」になったら国家主権が限りなく弱まるので、領土問題も主権問題としての意味が次第に薄れるか、またはなくなってしまうかも知れない。   --------------------------------- <李 鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。 ---------------------------------     2012年8月29日配信
  • 2012.08.23

    エッセイ346:韓 京子「2012年夏の文楽騒動」

    「二度と見に行かない」「古典として守るべき芸だということは分かったが、ラストシーンがあっさりしていて物足りない。演出不足だ。昔の脚本をかたくなに守らないといけないのか」「人形劇なのに人間の顔が見える。見えなくていい」   財団法人文楽協会への補助金の全額カットを打ち出している、橋下徹大阪市長の言葉の数々である。文楽が二度と見たいと思わせないほど魅力を感じさせないことは改善すべき問題であり、市として市の補助金が無駄に使われることのないよう、真摯に検討することは重要である。   だが、市の長としての意見ではなく、ただ「つまんな~い。お金もったいねえな」という小学生っぽいおじさんとしての意見に見えてしまう。橋下市長のもっともらしい意見は大阪市のホームページから確認することができる。   大阪府知事時代、文楽なんて二度と見ないと言い切った橋下徹氏が、市長になってから、この7月にまた観劇した。これに前後し数々の聞き捨てならない発言が続く。「能や狂言が好きな人は変質者」とおっしゃったらしいが、観劇は個人の趣味なのに、古典芸能の鑑賞が趣味というだけで変質者呼ばわりされるのはあんまりである。   「文楽はつまらない」。現代の多くの人にとってはそうかもしれない。専攻した私にとっても4、5時間の観劇がつらいこともある。また、家族やまわりの人を宣教しても、文楽の魅力を伝えることができなかった。今はやっと学生を洗脳し、「先生!日本に行って直接文楽をみてみたいです」と言わせるのに成功した。   専攻している者からすれば、「ラストシーンがあっさりしている」、「昔の脚本をかたくなに守らないといけないのか」云々の市長のコメントは、「それはね」と説明したくなる。市長が見たのは、近松門左右衛門の『曾根崎心中』である。ラストシーンがあっさりしているという印象を受けたのは理解できる。それは、300年前に書かれた近松の脚本のままでないからである。個人的な考えでは、近松の脚本のままがいい。ラストシーンに込められた近松の思いが、1955年に復曲された現行の脚本では削られているからだ。   心中物のラストシーンは、心中、すなわち男が女を殺し、自殺する場面で終わる。現行の台本では、男(徳兵衛)が女(おはつ)を殺害する際、「馴染み重ねて幾年月いとし可愛としめて寝し、今この肌にこの刃」を当てることができないが、覚悟を決めたおはつに促される。その後、遠くのお寺から念仏が聞こえるという形で終わる。市長の言うとおり、あっさりすぎる。近松は、おはつを刺せないでいる徳兵衛を詳細に描く。徳兵衛は「まなこも暗み、手も震い、弱る心を引き直し、取り直してもなお震い」、おはつの喉の急所を何度もはずす。やっと急所を刺せた徳兵衛が、喉笛を「刳り通し、刳り通し」たところ、おはつは両手を伸ばし断末魔を苦しみ、力が抜けていったと、表現する。さらにそれで終わらず、徳兵衛は自分も遅れまいと「剃刀取って喉に突き立て、柄も折れよ、刃も砕けとえぐり」、目をまわし苦しみながら死んでいく。心中する二人を容易に死なせては、近松のメッセージが伝わらない。そのため、現行のものは、もの足りないものになったといえる。生々しい殺害の場面こそ、強い余韻が残るのである。それは「死」を通じて「生きる」ことの意味を考えさせるのである。日本古典芸能の魅力がここにある。   そして、近松は『曾根崎心中』の中で、大阪の都市案内書の様な要素を盛り込んでいる。こうした近松の大阪への思いまで汲めというのは、橋下市長には酷かもしれない。   人形遣いの顔が気になるのは、作品世界に入り込めてないからだろう。この、いわゆる「出遣い」も時代の流れによって出てきた演出である。どれもこれも、知識のない市長にそう思われても仕方ないとは思う。私がラグビーに興味を持てないのと同じであろう。   「観客が入らない」と言われるが、東京ではいつも満員である。東京にいく際にはいつも予約をするが、席が残っていることは非常に少ない。ということは、大阪で観客が入らない原因を考えなければいけないのではないか。   市長はファン開拓のため脚本や演出を現代風にアレンジするなどの工夫を求めている。歌舞伎が古典そのままではない脚本、演出が可能なのは、文楽とは違い役者を見せる舞台であるということもある。昔から役者に合わせてアレンジされてきた。   また、歌舞伎や狂言が若者にも人気を得ることができたのは、役者の他ジャンル(映画やドラマ)などへの進出や、人気脚本家の宮藤官九郎や串田和美、蜷川幸雄などの演出家との共同作業の結果でもある。これが可能なのも、役者のほとんどが、生まれる前から歌舞伎に浸っているからである。役者に基本芸があってこそ可能なのである。   ところが、文楽は古典芸能の中では珍しく世襲制ではない。一家の人々に囲まれ3歳で初舞台を踏む他の芸能とは違う。文楽は研修生から始まる。募集要項を見ると、中学卒業以上で応募でき、2年の研修期間を経て、人形遣いか三味線か太夫になることができる。一般的に足遣い10年、左手遣い10年、そして、首と右手を操る主遣いへの修行が続く。技芸員の数が少数であり、東京、大阪、その他の地方を巡回公演する状況で、新しい試みをするのは容易ではない。   そうした中、市長のいう「面白さ」の要求に呼応したかのように、三谷幸喜が文楽を手がけた。『曽根崎心中』の後日談として、8月に東京PARCO劇場で『其礼成(それなり)心中』が上演される。 橋下市長と懇談した文楽三味線の鶴沢藤蔵は「橋下さんは、面白いものを作ったらお客が来る、と言っておられますが、それもどうかな」と話したという。新作が好評を得たとしても、大阪文楽劇場の観客動員数の増加に繋がるかは疑問である。しかし、このような試みの積み重ねは、未来の観客確保のためにも重要である。   橋下市長は「特権意識にまみれた今の文楽界を守る必要はない」「文楽協会に『直接意見交換したい』と言ったが、拒否してきた。市長に会う会わないに関係なく『補助金はもらえるもんだ』と勘違いしている。恐ろしい集団だ」「大衆文化が特権になってしまった。こういうところに衰退の原因がある」などと激しい語調で述べた。また、急病(脳梗塞)で入院した文楽太夫の人間国宝、 竹本住大夫に対し、「心からお見舞い申し上げます。文楽協会の一件で、心身ともに多大なご負担をおかけしたことも要因になったのではないかと案じております」とコメントした。そのとおりだろう。   1926年生まれで、戦時中から養父のもとで太夫修行(食べていけないことから、太夫になることを反対されていた)をしていた竹本住大夫は、誰よりも文楽の過去を見てきた人物であり、未来を案じる人物であった。住大夫は技芸員とともに、文楽の普及のため、大学などの数々の講座(例えば、大阪市立大学企画の<上方文化講座>)に積極的に参加している。その講演の記録を読めば、住大夫の努力の一端が窺える。住大夫には、文楽が世界無形遺産に指定されたことさえ、単純に喜べず責任の重さにストレスがたまる一方だったらしい。「特権意識にまみれた集団」の代表者とされてしまっているが、東京と違い大阪の劇場に観客が少ないことも悩み、そのような時代に大きな劇場を建ててもらい長期公演ができることにも感謝している。もちろん、商工会議所、関西経済連合会、大阪市職員(関淳一市長当時;関市長は「文楽デー」を制定)にも。「新作もしなきゃいけない」と言っている。高齢にもかかわらず、今に安住していない。自分の位置をわきまえ、感謝する心を忘れず、文楽の未来のために行動するその姿勢に私は敬意の念を抱く。   江戸時代、文楽(当時は人形浄瑠璃)興業は京都が優勢だった。それを、道頓堀を芝居の町として活性化させるために、地元の有力者が道頓堀の興行界と版元(出版社)とともに戦略を練り、京都にいた近松門左衛門を巻き込んだ結果、「大阪=文楽の本拠地」としての位置を築くことができたのである。少なくとも関市長在任時には、これと似たような、経済界、行政、文楽協会、研究業界(大学)の協力が得られていた。   橋下市長は、文楽協会や大阪フィルハーモニー協会への補助金カットだけでなく、市音楽団の廃止、中之島図書館の廃止を目指しているという。国の重要文化財に指定されている府立中之島図書館については、廃止後の活用策に関し「美術館なんかがいい。その方が建物の雰囲気に合う」と言われたという。貴重な古典籍が所蔵されており、お世話になっている中之島図書館まで、建物の雰囲気で美術館にされちゃ困ります。そもそも美術館の建物の雰囲気って、何ですか。大阪市と大阪府は、中之島図書館や、隣接する中央公会堂が立地する地域を文化芸術の重点地域としてブランド化する方針だというが、彼らの感覚からすると、非常に不安である。   観客動員数が少ないことからの、文楽協会や大阪フィルハーモニー協会への補助金カット。他人事ではない。日本国内においては日本古典文学が危機的状況である。韓国の大学においては、日本古典文学はいうまでもなく、日本関連学科(大学院も含め)自体が学生動員数の減少に悩まされている。就職に役立たない人文系の非人気学科はその存続すら危ぶまれている。橋下市長の論理では、古典芸能であれ、学問であれ、図書館であれ、お金にならなければ、保護しなくてもいいのことになる。さらに、「僕が直接選挙で選ばれているので最後は僕が民意だ」という。大阪の文化が危うい。   ----------------------------------- <韓 京子(ハン・キョンジャ)☆Han Kyoung ja> 韓国徳成女子大学校化学科を卒業後、韓国外国語大学校で修士号取得。1998年に東京大学人文社会系研究科へ留学、修士・博士号取得。日本の江戸時代の戯曲、特に近松門左衛門の浄瑠璃が専門。現在、慶熙大学校外国語学部日本語学科助教授。SGRA会員 -----------------------------------   2012年8月23日配信
  • 2012.08.08

    エッセイ345:金キョンテ「朝鮮のトラ(虎)は誰が殺したのか」

    朝鮮半島には野生のトラが住んでいるんだろうか。最近中国の放送で白頭山(中国名は長白山)のトラがカメラに映ったこともあったが、朝鮮半島にトラがいる確率は極めて低いと思われる。しかし、元々朝鮮半島にはトラが多かった。漢城(ソウル)の宮城内は勿論、海に面した南方の釜山(プサン)にもトラは出没した。韓国の全地域にはトラと関連した昔話が多く残っている。いったい朝鮮半島のトラはいつ、どうしていなくなったのであろうか。   時は1953年、韓国の初代大統領、李承晩(イ・スンマン)が非公式に日本を訪問した。対談の席で当時の日本の総理大臣、吉田茂がいきなり「韓国にはトラが多いんじゃありませんか」と聞いたらしい。そうすると李承晩は「壬辰倭乱(文禄慶長の役)の時、加藤清正がすべて捕って行ったので今はいない」と返答したという。この話の真意は疑わしいが、少なくとも、多くの韓国人がこのような(加藤清正とトラに関する)話を知っていて、事実だと思っていたから、一つの都市伝説のように広がったのではないかと思われる。だとしたら、果たして加藤清正が朝鮮トラを全部殺した犯人であろうか。   壬辰戦争(文禄慶長の役)の最中の1594年12月、豊臣秀吉の奉行、浅野長吉(長政)と木下吉隆が朝鮮に在陣中だった日本軍の武将(大名)たちに虎狩りを命じる書状を送った。秀吉の養生のためにトラを捕らえて「頭、肉、腸」何れも塩漬けにして送れ、ということだった。しかし、トラの皮には興味がなかったらしく、トラを捕らえた者に与えよと言っている。秀吉のこのような命令は忠実に履行された。武将たちに与えられた感謝状がいつくか残っているが、その一つを見ると(鍋島直茂宛)、命が下された後、即時に狩りが行われ、「皮、頭、骨、肉、肝胆」を送ったことが分かる。直茂は皮まで送ったのだ。勿論、秀吉子飼いの武将、加藤清正も秀吉の命令を忠実に履行しようとしただろう。後に秀吉は虎狩りを止めるように指示することになるが、その理由は秀吉の朱印状に書かれているように、「人など損候へハ如何候」からか、または養生に効果がなかったためか分からない。とにかく、この戦争の中で日本軍による虎狩りが行われたことは、当時の文書と共に、現在日本に残っているトラの剥製や骨などによっても分かる。   しかし、この時の虎狩りによってトラが絶滅したのではない。トラは相変わらず朝鮮半島のあちこちで出没した。朝鮮の砲手(鉄砲撃ち)は19世紀まで旧式の火縄銃で虎狩りをし、彼らの優れた腕は中国とロシアまで知られていた。   朝鮮時代―江戸時代、朝鮮の釜山には倭館という所があった。ここは日本と朝鮮の貿易と外交実務の為に設置された特殊な地域だった。ここには日本人(主に対馬人、男性)500名程度が常住していた。ここにもトラがたびたび出没した。1771年3月23日には2頭も現れた。   最初のトラが現れると、下級武士であった小平太を始めとする人々が飛び掛って、槍を突き刺して射殺した。しかし、しばらくしてまた一頭現れた。小次郎という者が鉄砲を撃って肩に当てるとトラは藪の中へ逃げた。逃げるのを見て、腰のほうにまた一発当てる。トラはたまたま開市(定期市場、朝鮮人と日本人の私貿易が行われた)に逃げた。一騒ぎの後、トラは山のほうへ逃げる。小次郎はこれを追いかける。ちょうど木の上にいた人がトラを発見して位置を知らせる。小次郎も木に登ってトラを撃とうとしたが、トラが飛びついて足を噛まれた。悲鳴を聞いた又吉が来て刀でトラの頭を刺したが、トラはなかなか小次郎を放さない。あちこちを刺された虎は、ようやく小次郎を解放したが、今度は又吉が噛まれる危機。飛んできた駕籠かきの甚介が持っていた山刀で頭を打ち、トラが倒されると、人々が飛び掛って息の根を止めた。この活劇の素晴らしさは当時、開市のため倭館に来ていた朝鮮人たちによって全国に伝えられた。   この事件は公式に東萊府使(倭館地域及び、現在の釜山地域を治めた地方官)に知らされ、翌日、褒賞の意味で白米2俵が与えられ、負傷した小次郎には「妙薬」といって鶏が4羽与えられた。日本からの褒美も5月に下されたが、活躍の目立つ5人は侍身分に上がり、名字を与えられ、名前に「虎」の字を使うことを認められた。殺されたトラの1頭は対馬に送られ、残りの1頭は焼いて食べたという。このときトラの肉を食べた小田幾五郎という通訳はその味を「老牛のように油気がない」と言ったが、食べた人たちは「何か力が湧き上がるような感じがする」と言ったとも伝えられている。   以後、近代化が朝鮮にも始まり、処々が開発されたが、20世紀になってもトラは依然として生存していた。しかし、近代化の視点から見ると、トラは大事な労働力の源泉である人命を脅かし、開発の邪魔になる妨害物に過ぎなかった。朝鮮を植民地化し、本格的な植民地開発に乗り出した日本帝国は虎狩りを進めた。「百獣の王」のトラも近代化された武器と組織による狩りには敵わなかった。トラはどんどん減り、韓国地域では1922年慶州で捕らえたトラを最後に捕獲された例がない(今の北朝鮮地域では1946年に捕らえたのが最後)。朝鮮半島の野生トラはこうして絶滅した。トラは今、動物園の中でしか生きていない。   トラと人間は同じ場所で住めない。人間の生活空間が広がり人間がトラの領域に侵入することにより、トラと人間は衝突した。トラはトラの為に人間を殺し、人間は人間の為にトラを殺した。そして、人間は残り、トラはいなくなった。   -------------------------------------- <キム キョンテ ☆ Kim Kyongtae> 韓国浦項市生まれ。歴史学専功。韓国高麗大学校韓国史学科博士課程。2010年から東京大学大学院人文社会研究科日本中世史専攻に外国人研究生として一年間留学。研究分野は中近世の日韓関係史。現在はその中でも壬辰戦争(壬辰・丁酉倭乱、文禄・慶長の役)中、朝鮮・明・日本の間で行われた講和交渉について研究中。 --------------------------------------     2012年8月8日配信
  • 2012.07.18

    エッセイ343:李彦銘「むしろ『政冷経熱』ではない日中関係―政治的な相互信頼―をまず『ワイズな市民』に期待する」

    6月20日、今年で8年目になる言論NPOと中国日報社の日中共同世論調査の新しい結果が公表された。「特に日本の対中認識が悪化しており、8割以上の人が中国に『良くない印象』を抱いています。これは反日デモが頻発した2005年を上回り、過去の調査の中でも最悪の数値です」という。   一方で、法務省のデータによると、2011年の日中の間の往復者数が延べ約499万人に達し、2007年と2010年を除く最大となった。震災があったにも関わらず中国から日本への訪問者は約133万人まで増え、2010年に次ぐ2位の数字となり、相互往来は、よりバランスがとれるようになった。その背景には日本の観光振興策によるビザの緩和と中国の経済成長があるのは言うまでもない。さらに、日本では中国語の学習者数が200万人を越えたといわれ、HSK(中国政府公認の中国語レベル検定試験)の受験者数もこここで急増している。経済面においては、2008年のリーマンショック以降、日本の海外投資が全体的に縮まるなかで、2011年の中国に対する投資は63.5億ドル(前年比49.6%増加)まで増大し、第1位となった。その結果、上海在住の日本人数もこの3年間急増している。まさに文字通りの「相互交流」となってきたわけである。   このように、国交正常化40周年という節目を迎える日中関係は、国民レベルで今までにないような身近な存在となってきた。個人、文化、経済、科学……政治と安全保障を除くあらゆる分野の交流が著しく進んでいる。ついこの間までに使われた「政冷経熱」という言葉から脱皮し、「政冷民熱」の様相へと変わりつつあるといえよう。   いや、民はまだ「熱」とまでは言えず、交流が進んでいるわりに理解がまだまだで、先の世論調査でも、国民間の相互理解には改善が見られない。過去1年でお互いに印象が良くない最も大きな理由が「尖閣問題」と回答したのは、日本では64.6%で、去年よりも高く引き続き1位である。中国ではやや低くなったが、それでも4番目の理由であった。このように、国民が政治の話題に左右されやすい状況は相変わらず日中ともに存在している。   特に日本で注目したいことは、中国に対する認識の情報源が8割を超える高い割合でテレビニュースに依存していることである。民主主義選挙政治の欠陥に関する研究に「合理的無知」という仮説がある(ブライアン・カプラン『選挙の経済学 投票者はなぜ愚策を選ぶのか』を参考)。もともと経済学から導入した概念だが、簡単に説明すると、選挙に関する情報(たとえば政策の妥当性など)を獲得するためには有権者個人は多くのコストを支払うことになる。しかし結果は公共のものになるため、個人にとってコストに見合う利益はほぼゼロである。よって有権者が「パブリック」=政治のために、余計なコストを支払いたくなくなり、自分自身の直接な利益や自らの職業に関係する分野の問題を除いて、情報を持たないように、つまり無関心、あるいは偏見を持つようになる。これは個人にとって合理的な選択である。   この仮説は、最近の日本の選挙政治のなかに位置する対中政策に正に適合している。石原慎太郎都知事の例をあげるまでもない。若手政治家もこの手の集票活動に乗り出している。一人の若手議員が国会議員を卒業し、ある県の知事選に出馬する。その矢先に彼がとった行動は、尖閣諸島へ釣りに行くことだった。彼は本当に釣りが好きかも知れない。日本国内では、全国ニュースというより地方に対するアピールに過ぎなかったかもしれない。しかし当然ながら、日本の与党議員が尖閣に行くこと自体が中国国民の中で大きな反響を引き起こした。おまけに彼は北京大学で修士号を取っていた。中国の微薄(マイクロブログ)で大きな物議を呼んでいる。   もとより、北京に長く留学した彼は、かつて「知中派」とみられていた。自分自身の行動が中国人のなかでどんな反応を引き起こすのかも理解しているはずであろう。いやむしろ知っているからこそ中国人だけではなく中国政府が何らかの反応を示すことを期待していたのではないか。もしそうであれば、「毅然とした姿勢」が、全国的にも瞬時で有名になる。個人にとっては計算高い選挙戦略である。(しかし中国政府が抑制の姿勢をとったのは計算違いだった。)   中国との関係は、当選のためにきわめて短期的に考えられている。このような例は、ほかにも少なくなく存在している。たしかにさまざまな問題を抱える日中関係にとって、「毅然とした態度」を示すのは最も単純明快で、「合理的に無知」な国民にとっては選びやすい。しかし果たして日本全体のことと外交的解決を考えているのか。   幸いなことに、日中の交流がさらに進んでいる。ますます身近なことになった日中関係は個人にとって「合理的な無知」の状況を容認できなくなる。前述の世論調査でも、日中とも8割以上の回答者が日中関係は重要だとみている。今までは「合理的無知」だったかもしれないが、市民レベルでは逆の働きが始まっているのではないか。思慮分別に富む「ワイズな市民」がより鋭い目で政治家の選別をすれば、よりよい政治家が選出され、日中の政治信頼もそこからますます大きくなると確信している。   上述のような政治家個人の行動が、ようやく二大政党制を迎えた日本の選挙政治のなか、政治家の一種の混迷ぶりだと理解している。ただ、少し心配なのは、こうした行動が同じく国内政治の激しく変動する時期にある中国の、戦略的判断の誤りをもたらすことである。それは今の政治家に任せるしかないが、今からすぐにできることとしては、個人の「合理的な無知」を克服し、「ワイズな市民」を目指すことであろう。そういう意味では、日中関係はまた市民の政治リテラシーを試す材料にもなっている。   ----------------------------------------- <李 彦銘(リ・イェンミン)☆ Yanming LI> 国際政治専攻。中国北京大学国際関係学院卒業、慶應義塾大学にて修士号取得し、同大学後期博士課程単位取得退学。研究分野はおもに日中関係、現在は日本の経済界の日中関係に対する態度と影響について博士論文を執筆中。 -----------------------------------------   2012年7月18日配信