SGRAかわらばん

  • 2008.07.23

    エッセイ147:太田美行「グローバル時代におけるオリジナリティとは何か」

      オリンピックが近づいてきてワクワクしている。このところ殺伐としたニュースが世の中を賑わせているし、遂に私自身も病気になってしまった(SGRAかわらばん124号「私の残業物語」をご参照下さい)だけに、各競技に専念する選手の姿や記録、そしてワクワク感が詰まったスポーツの祭典は(様々な問題が付随しているとはいえ)歓迎だ。    競泳や陸上競技なら数値で判定が出されるが、今回のオリンピックでは技術の他に芸術的要素が加わるシンクロナイズドスイミング(以下シンクロ)に私は注目している。芸術性は審査員にどのように評価されるのだろうか。そして各国はどのようなプログラム構成でそれを表現するのだろうか。    思い出されるのは前回のオリンピックでの日本のシンクロのデュエットのテーマがテクニカルルーティーンで「SAKURA2004」、フリールーティーンで「ジャパニーズドール」。そして団体では日本の阿波踊りを取り入れた演技をし、フリールーティーンでは「サムライinアテネ」のテーマで、かなり「欧米から見た日本色」を打ち出していたことだ。こうして改めて当時のテーマ構成を見ても独自性を出そうとしていること がわかるが、アテネの時はテレビを見ながら、「審査員達は、これ見て面白いのかしらね」「それ以前に阿波踊りを見てわかるの?」と家族と言いながら見ていたものだが、結果はデュエット、団体戦とも銀メダルを獲得したのだから評価はされたのだろう。しかし同僚との間でも「ちょっとあのテーマは違うよね」と話題になったものだ。    オリンピックという正にグローバル、かつ一瞬で勝負が決まる場であり、独自性を評価してもらうことは至難の業だろう。それゆえ「わかりやすいオリジナリティの表現」に流されたのかもしれない。1980年代後半くらいから90年代にかけてワールドミュージックと名づけられた民俗音楽が流行したり、沖縄民謡風の音楽にも注目が集まったりした。アパレルの分野でもエスニック調の服やバック、アクセサリーなどが人気を集めている。「伝統」はグローバル社会においてオリジナリティを表現する有効な手段として捉えられているようだ。    しかし一方では、各国の現代文化がグローバルに評価されている例としてマンガ、アニメがある。確かにこれは直接的に伝統文化とは関係ない。また「Shall we ダンス?」、「インファナル・アフェア」等、アジア映画をハリウッドでリメイクするなど、アジアという一地域のヒット作品がグローバル市場で評価される動きもある(本当はオリジナル作品のままグローバル市場に参入できると良いのだが)。この場合に評価されているオリジナリティはどこにあるのか考えてみたが、いまひとつわからない。そんな時に女優のソフィア・ローレンのインタビュー記事の一節を読んではっとした。    彼女は「宮崎駿のアニメーションを見たが、木々の描き方がヨーロッパの表現方法と違い、非常に興味深かった」と感想を述べていたのだが、表現方法の違いについて何と面白い捉え方をしているのだろうと、かつてヨーロッパの芸術家たちが日本の浮世絵の構図や表現方法に触発され、流行したジャポニズムに通じる感想だと思った。同じ事物への感性の違い、思想の違い。歴史や環境が育み、凝縮されて生まれた表現方法に加えて、個人の経験と歴史もある。それらが重ねられた薄い色紙の束から生まれた色彩。それを何かの形にしようとはさみで切っていくのが個人の感性。あるいはこう言い換える事ができるかもしれない。周囲の歴史と経験に、自分自身の経験と教育と歴史を、咀嚼し吸収された後に生み出されるもの。そのようにして出来上がったものがオリジナリティではないのか。そこに「普遍的な感性のツボ」と「衝撃」が加わった時に、グローバルレベルでのヒット作が生まれる、と考えてみた。だからシンクロで「さくらさくら」や「ラストサムライ」を選曲して殊更エスニックを強調しなくても、オリジナリティは表現できるのではないだろうか。   こう考えていた時に思い出したのがバルセロナオリンピックの時のシンクロで銅メダルを受賞した奥野史子選手(当時)が、1994年の世界選手権でそれまでの「シンクロは笑って演技をする」常識を覆した「笑わない演技」をし、世界選手権初となった全審査員からの芸術点満点を獲得したことだ。「笑わない演技」とは、怒りや情念が、時に能面のように無表情で表現されたりしながら、最後には昇華され、穏やかな表情となって演技が終了するプログラム構成である。インタビュー記事から本人も、シンクロ界に歴史を残したと誇らしげだった。能などをどこまで意識したかは不明だが、それなりに意識していただろうし、その配分と奥野氏のもつ個性と技術によって生まれた演技だろう。    残るはそれがグローバル市場でどう受け入れられ、広まるかだ。誰でも自分の作品がいつまでも「ハリウッドでリメイクされる」では嬉しくないだろう。戦略や流通経路の開発や仕掛けも必要だ。一部の知識人に評価されるのも嬉しいかもしれないが、作り手としてはやはり皆に受け入れられた方が嬉しいに違いない。そしてそこから先が真の才能の戦いになるのだろう。   --------------------------- <太田美行(おおた・みゆき)☆Ota Miyuki> 東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。 ---------------------------
  • 2008.07.18

    エッセイ146:ボルジギン・フスレ「ウランバートルレポート:2008年夏(その2)」

      シンポジウムの朝、心配していた雨は降り続いていた。   モンゴル・日本センターでおこなった開会式では、ウルズィバータル氏が司会をつとめ、モンゴル国政府法務・内務相ムンフオルギル(Munkh-Orgil. Ts)氏、SGRA代表今西淳子氏、在モンゴル日本大使館参事官小林弘之氏、モンゴル科学アカデミー学術秘書長レグデル(Regdel)氏が挨拶と祝辞を述べた。   続いて、モンゴル科学アカデミー歴史研究所長ダシダワー(Dashdavaa. Ch)氏、東京外国語大学教授二木博史氏、内モンゴル大学教授チョイラルジャブ(Choiralzhab)氏、モンゴル国家文書管理局長ウルズィバータル氏、学習院大学大学院人文科学研究科アーカイブズ学専攻主任、教授安藤正人氏、モンゴル科学アカデミー言語・文学研究所事務局長プレブジャブ(Purevjav Erdene)氏が基調報告をおこなった。    午後は、モンゴル・日本センター多目的室1と2、モンゴル国家文書管理局会議室、モンゴル科学アカデミー歴史研究所会議室で、「歴史・メディア・アーカイブズからみた北東アジアの社会秩序:過去・現在と課題」、「北東アジア文学の中の社会像・世界像」、「アジア主義論からアジア共同体へ」、「北東アジア地域アーカイブズ情報の資源化とネットワークの形成にむけて」の四つの分科会をおこなった。ウルズィバータル局長、モンゴル国家文書館上級研究員ダシニャンム博士、東京外国語大学二木博史教授、岡田和行教授、北京大学陳崗竜教授、モンゴル科学アカデミー歴史研究所研究員バトバヤル博士、昭和女子大学フフバートル準教授、モンゴル国の殊勲研究員ノロブサンブ氏が各分科会の議長をつとめた。   モンゴル国、日本、オーストラリア、ドイツ、韓国、中国、ロシア、アメリカなど8ヶ国の50名の研究者が出席し、発表をおこなった。発表者は近現代北東アジア地域の一元化と多元性の葛藤という今日的であると同時に歴史的である問題を取り込み、現代北東アジア社会のグローバル秩序の歴史的背景とその今日的意義を考え直し、北東アジアの地域秩序はどのようなプロセスをへて構築されたか、これからどのように構築していくか、関係諸国のアーカイブズ情報の資源化とネットワークの形成等をめぐって、特色ある議論を展開した。2日間の会議中、ウランバートルにある各大学、研究機関の研究者、学生、職員、中国社会科学院の訪問教授、内モンゴル大学の交換研究者、日本人留学生、モンゴル・日本センター日本語コースの生徒など160人ほどが参加した。    夕方、ウランバートルホテルのレストランで歓迎宴会をおこなった。ウルズィバータル局長の情熱的な挨拶の後、今西代表は挨拶で「明日、天気が晴れるように祈るが、昨日ウルズィバータル局長が“いくら晴れても、雨に濡れた羊の肉は美味しくない”とおっしゃった。ですから、本場のモンゴル伝統的な料理ホルホグを賞味するため、もう一度モンゴルに来ることにした」と述べ、毎日が雨の残念さとSGRAのモンゴルフォーラムを続けていくことを巧妙に表現した。みんな笑いながら、大きく拍手した。    25日午前中、まずモンゴル・日本センターの会議室で総会をおこない、各分科会議長がそれぞれの分科会の発表についてまとめた後、ウルズィバータル局長が総括報告をおこなった。   その後、参加者はモンゴル国家文書館で展示した文書展示会を見学した。貴重な文書も多かったが、閲覧する時間が少し足りなかった。続いて、モンゴルの国会議事堂の前で参加者の記念写真を撮った。    昼から、会議の参加者は中央県の草原に赴いた。今西さん、二木博史教授、岡田和行教授、アリウンサイハンさんと私は、市橋康吉在モンゴル日本特命全権大使閣下に招かれて、在モンゴル日本大使館に行った。市橋大使についての記事などは、以前、日本モンゴル協会誌『日本とモンゴル』や新聞で読んだことがあるが、直接お会いしたのは初めてであった。大使は背が高く、活力満々で、やさしく、知識が豊富で、ペテランの外交官である。   今西さんはSGRAや渥美国際交流奨学財団、今回のシンポジウムなどについて紹介した。市橋大使は、在モンゴル日本大使館の事業、話題のノモンハン事件(ハルハ河戦争)で亡くなった日本人兵士たちの遺骨収集などについてお話をした。   その後、大使のご招待で、みな昼食(日本料理)をしながら、これからの事業などについて展望した。大使からいろいろ助言をいただいて、充実した会見になった。   大使と今西さん、先生方の励ましを得て、次の事業の遂行に大きな自信になった。短い時間であったが、今回、市橋大使をはじめ、在モンゴル日本大使館の方々との出会いを通して、大使館に対する認識も変った。    大使館を後にして、今西さん、岡田先生と私は大使館の車で草原にむかった。小山書記官は仕事関係で同行せず、運転手は地元のモンゴル人であった。雨が降ったお陰で、草が生え、奥に行けば行くほど、草原や羊、馬の群れがだんだん見えてきた。   途中、再び雨が降ってきた。GOBI MONに行ったことはない運転手が道に迷って、あるゲル(モンゴルのテント)に近づいて、出てきた婦人にその道を尋ねた。婦人も詳しく知らなかったそうで、大雨のなか、また別のゲルに行って、聞いてくれた。GOBI MONとは近年草原に建てられたゲル風のホテルで、閉会パーティをおこなう場所である。   車は方向を変えて、走った。   雨がだんだん弱くなってきた。ついに、ホテルのような建物とたくさん並んだゲルが目に映った。目的地のGOBI MONだ!   ちょうど雨もやんだ。GOBI MONでみんなと合流した。    今西さんとウルズィバータル局長がゲルでハムをつまみにモンゴルのウォッカを飲みながら、会談をおこなった。シンポジウム、第二次世界大戦後モンゴルに抑留していた日本兵捕虜、モンゴルと日本の伝統文化の異同、選挙、資源、環境など、さまざまな分野のことに触れた。今西さんはとても楽しそうで、その天真爛漫な笑顔を見たのは初めてであった。    ゲルから出て気づいたのだが、目に見えたのは、まさに見渡すかぎり果てしない大草原である。雨がすっかり止んで青空が広がっていた。   今西さんと私と数人の研究者は、草原を、馬に乗って遠くまで走った。   夕方になると、草原で閉会パーティが開かれた。ホルホグの料理であった。乾杯を続けるなか、モンゴル相撲も披露された。モンゴルのウォッカが相次いで運ばれた。みんな興奮して、飲みながら、歌っていた。宴会は深夜まで続いた。   写真による報告(その2)をここからご覧ください。   「ウランバートルレポート(その1)」はここからご覧いただけます。   ------------------------------- <ボルジギン・フスレ☆ BORJIGIN Husel> 博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「1945年の内モンゴル人民革命党の復活とその歴史的意義」など論文多数発表。  
  • 2008.07.11

    エッセイ144:シム チュン キャット「ところでシンガポール人は何語を喋るの?」

      外国で僕はよくタイトルのような問いを受けます。そしてこの問いに対して僕はいつも「ばらばらです」と答えます。   「あれっ?英語じゃないの?」と思う人もいるかもしれませんが、まあ、とりあえず僕の説明を聞いてください。   日本人なら日本語、タイ人ならタイ語、イタリア人ならイタリア語、イギリス人なら英語…という図式がまずシンガポールには当てはまらないのです。そもそも「シンガポール語」という言葉が存在しません。中国系76%、マレー系14%、インド系8%とそのほかの民族からなる多民族国家シンガポールでは、三世代も遡れば国民のほとんどのおじいさんとおばあさんは、より豊かな生活を求めて遥々中国やインドと周りの国々からやってきた移民たちばかりなのです。もともとの出身地がばらばらであるために、言葉ももちろんばらばらです。しかも、多くの移民が中国とインドのような「場所が変われば言葉も変わる」という「方言大国」から来ているゆえ、言葉の問題はなおさら複雑になっていきます。たとえば、一言「シンガポールの中国系」といっても、福建系、広東系、海南系、客家系、上海系…などという非中国系でもわかるような違いもさることながら、同じ福建系でも福州系、福清系、南安系、アモイ系、安渓系…などにさらに枝分かれして、同じ福建語といってもそれぞれ微妙に違ってきます。ちなみに、僕は福建系の安渓系です。もっとも残念なことに、福建語でさえろくに喋れない僕のような世代のシンガポール人にとって、その「何々系」が何の意味をなすのかもまったくわからなくなりましたが。   とにかくこのような背景があったため、独立した1965年当時、シンガポールはまさに「言葉のデパート」状態だったのです。それゆえに、まず北京語を中国系同士の標準語にし、そのうえで英語をシンガポール人同士の共通語にする必要があったのです。ただ、そこまでしていても、今でさえシンガポールの公用語(英語、北京語、マレー語、タミル語)が四つもあるわけですから、おじいさん・おばあさんの言葉である方言の衰退によって文化の継承が損なわれるといわれてもやむを得ませんでした。   そして自然な流れとして、教育制度に二言語政策が導入されました。中国系なら北京語と英語を、マレー系ならマレー語と英語を、インド系ならタミル語と英語を学校で学ぶことになったわけです。このバイリンガル教育は一見したところ合理的なやり方ではありますが、こんな政策を取り入れればこんな成果が得られるという保証がないのが教育の世界の常です。シンガポールの二言語政策の何が一番問題だったのかというと、たとえばマジョリティを占める中国系の場合、独立した当時、大多数にとっては北京語も英語も母語ではなかったということです。識字率もそれほど高くない時代だったので、多くの人々にとっては学校でいきなり並行(もしくは閉口)して二つの言語を学ばなければならなかったのです。そして言うまでもなく、言葉の勉強だけでも大変だったのですから、学業についていけない子どもが続出しました。当時の政府レポートによれば、70年代の半ばになっても、シンガポールの小学校と中学校における平均中退率がそれぞれ29%と36%にものぼり、高校進学率については14%という非常に低いレベルにとどまっていました。問題の根源は、二言語政策が強化されるなかで、なんと85%もの子どもが家で話されない言葉で学校の授業を受けることになり、そのため多くの生徒が進級できず、学校を中退せざるを得なくなったことにあると同レポートは報告しました。小中学校の中退者はいわば教育の「浪費」(wastage)であるとされ、そのような「浪費」を解消するためには二つの方法しか考えられませんでした。一つはどこかの国みたいに教育に「ゆとり」をもたらすべくカリキュラム全般を簡易化すること、もう一つは潜在的中退者の異なる能力に合わせたコースを設置することでした。エリートの育成を国策の柱としてきたシンガポール政府が選んだ道は言わずもがな後者でした。こうして小学校の生徒を主に言語能力別に振り分ける三線分流型のトラッキング制度が1979年に初めてシンガポールで登場したわけであります。したがって、小学校から始まるシンガポールのトラッキング制度は、旧宗主国だったイギリスの一昔前の「11才試験」(11-plus examination)を受け継いだのではなく、二言語政策を徹底させたことが発端でした。   さて、家庭の言語環境が大きく異なるうえ、能力によって学校で習う言語のレベルも違ってくるのですから、同じ英語、同じ北京語、同じタミル語、同じマレー語といっても人によって上手・下手があるのは当然です。さらに世代が違えば、教育制度や生まれ育ちの違いから、言語能力の上手・下手はよりいっそう顕著になります。そのため、シンガポール人同士で喋るときでも、TPOはもちろん、相手の人種、職業、年齢などまでも考慮に入れて言葉を選ぶのが粋なシンガポール人というものです。もっとも、このようなコードスイッチング、つまり言葉を使い分ける能力についても、環境や教育による分化と世代間による差異のせいもあってシンガポール人なら誰でも身についているわけではありません。したがって、外国人にとってそのときそのとき接するシンガポール人によってシンガポールに対するイメージも大きく変わってくるはずです。なぜなら、同じシンガポールでも人種が違う場合もあれば、話す言葉もその言葉の上手さもばらばらなのですから。冒頭で、タイトルの問いに対して僕が「ばらばら」と答えたのはそのためです。そしてこのように「ばらばら」で多様性に富むシンガポールが僕は好きです。   ----------------------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。現在は、日本学術振興会の外国人特別研究員として同研究科で研究を継続中。SGRA研究員。 -----------------------------------  
  • 2008.07.08

    エッセイ143:キン・マウン・トウエ「ナルギス被災者支援プロジェクト第2回活動報告」

      6月29日の朝、やはり雨季の朝です。今日は、第2回支援活動を行うため、前回支援を行いましたクンチャンコン地区ペーコン村より小型船で1時間半ぐらい離れた所へ行く予定です。6月27日(金)に日本から募金残金472,295円を送金していただき、無事に497万キャトを受け取りました(9500円で10万キャト)。    28日(土)にボランテアをしてくれる友人と一緒に、トラクターを買うため農機などを販売している代理店へ行きました。いくつかのお店で値段を調査しましたが、思っているより高くなっています。サイクロン後、農機の価額が高騰したようです。国内でも生産していますが、中国からも多くの台数が輸入されています。今回の支援予定地を調査した時に村が要求した機種を探しましたが、ある店に7台しか残っていませんでした。必要な部品やオイル、また、クンチャンコン地区まで運送費も合わせて一台あたり75万キャト(約7万5千円)もしました。予算オーバーになってしまいましたが、私達が行くための経費と、対象地での学校支援分を友人のボランティアグループが日本円で5万円分を支援して下さいました。本当は農機10台ぐらいを予定していましたが、予算と在庫の関係で7台だけ支援することにしました。運送屋にお願いして、その日のうちに支援対象地に一番近いクンチャンコン地区へ運んでもらい、翌日、私達も現地へ出発することにしました。    稲作を始めることができる雨期は、あと何日も残っていません。7月下旬頃までに終わらせなければなりません。それまでは一日でも大事です。タイミングを上手くあわせないと、種にするお米の値段が大変な価額になってしまいます。現在も今までの価額より2倍ぐらい上がっています(1キロ:約1500キャト)。今まで農民が私達のためにお米を作ってくれましたが、今回は、彼らに私達がサポートをしなければなりません。今回は、サイクロン被害者の方達のために単に生活物資を支援するより、彼らの将来の発展のために役だつことを支援するのがもっと重要と考え、農機を支援することに決めました。    今回は、予算の関係もあって7名のメンバーで行きました。船も安いものを借りましたが、7台のトラクターで重量オーバーです。船が小さいから危険だと思いながら、そのまま一隻だけで2時間以上の距離を進みました。雨が降らないように、風が強くならないように祈りました。普段は、このような情況では絶対行かないと思いますが、今は支援のためなので、皆も楽しくなっています。    支援対象地であるデイダーイェ地区アセーレイー村は、前回支援した地域から、小型船で1時間半ぐらい離れています。この村の約200名がサイクロンで亡くなったそうです.377世帯のうち124世帯が農民です。その他は、魚屋や水産物商、その他の仕事を行っています。農民の半数の世帯が残った財産から農機を購入しましたが、残り半数は全く財産が失ったため、農機が購入できない情況です。    午後1時頃村へ到着しました。すぐに農民を集め、農機の在庫情況を説明しました。その後、まず一台を組み立てました。農民達の顔が、明るくなっていきます。彼らの近い将来が決まったようです。しかし、台数が少ないですから皆でグループを作って、なかよく利用するようにお願いしました。その後、小学校へ行き、お手洗いの修理代、黒板購入代とその他費用として、支援金の一部を寄附しました。3時ごろに、村長の家で、ヤンゴンから持ってきたお弁当を食べました。    最後に農民の方達にもう一度集まってもらって、農機を利用して残っている期間を上手く使っていただくように再度お願いしました。私達は単に支援するだけではなく、指導も行います。今度来る日程、および、農民に対する宿題などの打ち合わせを行いました。    今回のヤンゴンへの帰り道は、前回と違って、私達の心の中も、喜びと強い自信がいっぱいでした。彼らは、サイクロンで家族や財産を失いましたが、今は、将来のため頑張っています。    7月2日に、指導グループ4名が村へ泊まりに行きました。村の方達が笑顔で迎え、宿題だった農機全部の組み立てや農民達のグループ化も上手く準備していました。アセーレイー村の将来のため、我々も安心しました。今後、私達のボランテアの方達が力を合わせて必要な肥料やその他について継続的に支援する予定です。    日本から一部支援された古着と私が購入した古着は、また時期を考慮して支援することにしました。特に、雨季後の寒い時期になれば、この古着の必要性が出てきますので、その時に実施する予定です。    皆様、私の小さなナルギス被災者支援プロジェクトに対して、ご協力ご支援を本当にありがとうございました。今後もよろしくお願い致します。   活動の写真はここからご覧ください   第1回活動報告は、ここからご覧いただけます。   --------------------------------------------- <キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe> ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。 ---------------------------------------------   【募金の報告】森峰生さんより   6月30日現在で、5団体と19名の皆様から総額633,295 円の募金をお預かりいたしました。あらためて募金下さった皆様に厚く御礼申し上げます。   そのうち、6月上旬に第1回活動資金として15万円をミャンマーに送金いたしました。キンちゃんが今まで行ってきた「学校支援ボランテア活動」のメンバーでもある人が幹事をしているボランテア団体からの資金30万円と合わせて、共同で45万円分の支援活動をヤンゴンから海の方向に存在するクンチャンコン地区ペーコン村267世帯を対象に行いました。支援物資は、小型トラック2台分の米、食用油、玉ねぎ、ジャガイモ、薬、石鹸、古着、スリッパ、当座の生活資金です。   第2回の活動がすでに始まっております。6月26日にほぼ残額すべての472,295 円をミャンマーに送金して、キンちゃんの方でトラクター7台を購入したそうです。(今回の送金の後に11,000 円の入金がありました.使途は現在検討中です)   森さんの礼状の全文は下記URLよりご覧ください。   (多少前後していますが、文中の「第2回活動報告」がこのエッセイです)  
  • 2008.07.04

    エッセイ142:金 雄煕「牛肉デモと韓国の民主主義」

    李明博(イ・ミョンバク)大統領の国民への談話、米国との牛肉追加交渉の終結、そして牛肉輸入条件の官報への掲載に伴い、韓国の牛肉デモが新しい局面を迎えている。4月18日に韓国政府が米国産牛肉の輸入制限撤廃を発表して以来、輸入再開への反対デモは、拡大の一路を辿ってきた。韓国MBCのテレビ番組『PD手帳』が米国産輸入牛肉の安全性に疑問を投げかけ、韓国人は遺伝的要因から欧米人よりもBSEの影響を受けやすいと主張したことがきっかけと言われている。当初米国産牛肉の危険性をめぐる議論が主だったキャンドル集会は次第に反政府デモの色合いを帯びるようになり、6月10日には、これまでの最大規模となる約20万人もの市民が抗議デモに参加した。 こうした状況を踏まえ、李大統領は6月19日、国民への談話として事実上の謝罪会見を行った。米国産牛肉の輸入制限撤廃に端を発した政府批判に対し、「子どもの健康を心配する母親の気持ちを思いやれなかった」などと述べ、国民に謝罪した。また、6月10日には、大規模の反政府キャンドル集会の模様を、青瓦台裏手の山から眺めていたと告白し、「暗闇の中、街を埋めたろうそくの火の行列を1人で見ながら、国民を安心させられなかった自分を責めた」と語った。そのうえで、「国民が望まない生後30カ月以上の米国産牛肉が決して食卓に上らないようにする」とした。そして談話の数日後、李大統領は閣僚級にあたる青瓦台首席秘書官などの人事刷新を行い、内閣改造にも踏み切った。 牛肉デモに表れる韓国国民の怒りの原因は、食の安全に直結する狂牛病への不安だけではない。牛肉問題にとどまらず、韓半島大運河構想、教育制度改編など李政権が進める他の政策への不満が複雑に絡み合う。原油価格や物価の急激な上昇に加え、貧富の格差が広がり、庶民の暮らしは厳しいのに李政権の閣僚や高官には億万長者がずらりというのも国民から大きな反発を買った。また、政府の拙速ぶりや国民との意思疎通の不足、李大統領の強引な統治スタイルなどを指摘する声も大きい。さらに韓国独特の愛国主義やお祭りのような集会文化が背景にあるのは特筆すべきであろう。 今回のキャンドル集会の火付け役になったのは中高生や大学生であり、この若い世代が敷いた流れに往年の386世代(民主化闘争世代)や市民団体などが合流する形となった。牛肉デモに参加した大多数の人は純粋な動機を持った普通の市民であり、決して特定勢力が計画したものではない。この意味で既成政治に不信感を抱く若い世代や一般市民が直接政治の場に参加したというのが今回の牛肉デモの本質なのである。   また、インターネットを通じた市民の情報共有が政権批判に大きな役割を演じたことも重要である。牛肉デモの現場にはいつも賢い大衆(Smart Mob)の存在があり、彼らは携帯電話、カメラ、ビデオカメラで集会の現場を生々しく撮影し、すぐに写真や動画がウェブサイトに投稿され、それがさらなる参加を呼びかけた。この意味で牛肉デモはネットという新しいメディアが作り出したウェブ2.0時代の新しい民主主義の可能性を示す事例でもあるといえよう。   これに対し、キャンドル集会はデジタル・ポピュリズムとして「浅民民主主義であり、生命を楯にとって理念を売り出す生命商業主義である」との批判があるのも事実である。彼らは反政府デモの色合いを帯びるキャンドル集会は民主主義を支える「法の支配」に対する挑戦であり、直接民主主義を悪用した世論の歪曲や扇動が飛び交う「民主主義の逸脱」だと警告する。   牛肉デモから新しい民主主義の可能性を見いだすか、さもなければそれを民主主義の逸脱と見るかをめぐっては議論の余地があるが、今回の牛肉デモに大きく影を落としているのは正しい代議制民主主義の失踪である。一般に民主主義のための制度の中で代議制より効果的なものはないとされる。しかしながら、政党やマスコミが機能しなければ代議制はうまく働かないものである。牛肉デモに際して既存の政党やマスコミは本来の機能を果たすことができなかったように思われる。今回の牛肉デモをきっかけに、社会を構成する各部門が代議制の定着のために何をいかにすべきかを真摯に自問しなければ、韓国における民主主義の発展は遠い未来の話になってしまうかもしれない。 -------------------------- <金 雄熙(キム・ウンヒ)☆ Kim Woonghee> ソウル大学外交学科卒業。筑波大学大学院国際政治経済学研究科より修士・博士。論文は「同意調達の浸透性ネットワークとしての政府諮問機関に関する研究」。韓国電子通信研究院を経て、現在、仁荷大学国際通商学部副教授。未来人力研究院とSGRA双方の研究員として日韓アジア未来フォーラムを推進している。今年度は独協大学外国語学部交換客員教授として日本に滞在。 --------------------------  
  • 2008.07.01

    エッセイ141:藍 弘岳「新しい台中関係の時代と日本(その2)」

      現在の台湾では、大雑把に言えば、二つの区別できる考えがあります。一つは「中華民族」という言葉に訴えて、中国と更に交流して経済の利益を求めるだけではなく、最終的に統一を望むというような主張です(これをとりあえずA主張とします)。それに対して、もう一つは、人権・民主という価値とアジア主義的な考えに共感を覚えて、アメリカと日本との同盟関係を強化して台湾の主体性と国家としての独立を求めようとする主張です(これをB主張とします)。むろん、この二つの主張が完全に対立しているのでありません。むしろ、AB二つの主張を柱の両端とすれば、その間にはさまざまな主張と立場が提出されていると考えられます。   このような考えによって、この二十年来の台湾の政治状況を見ると、李登輝氏と陳水扁氏の両前総統が政権を握っていた時代はBの主張が政治を主導していたのに対して、これからの馬英九総統の時代はAの考えが主導権を取り戻したといえるかもしれません。しかし、いうまでもなく、このような二元論的な考えは現実の情況を極めて単純化していると言わざるをえません。というのも、この二十年来、台湾と中国はそれぞれ大きく変化しました。台湾において、民主主義と台湾人としてのアイデンティティが大いに発展しました。馬英九氏がいう「中華民族」はこの二つの台湾政治を支えている根本的な原則を前提にしているはずです。そもそも、孫文の三民主義を信奉する国民党政権にとって、「民生」と「民族」のほかに、「民主」も根本的な原則としてあります。台湾には、「民生」と「民族」のために「民主」を犠牲にしてもかまわないと考えている人はいますが、天安門事件とチベット騒乱などをめぐって共産党政権を厳しく批判してきた馬英九氏がそのような人とは思えません。台湾の民主と法治を守ることこそ、最重要な課題としているはずです。その意味では、馬氏は上述のAとBの考えを両端とした柱の中間あたりに位置する人と、私は認識しています。しかも、民主主義だけではなく、その就任演説でも触れていたように、台湾が国家として「全面的に東アジアの経済統合に融けこんで東アジアの平和と繁栄に積極的に貢献する」(「全面融入東亞經濟整合、並對東亞的和平與繁榮作出積極貢獻」)ことも課題としています。このように、馬政権はアジア主義的な考えを重視しています。   とはいえ、この期待を裏切るように、ごく最近尖閣諸島沖で起きた日本の巡視船と台湾遊漁船の衝突事故に対して、馬政権は強硬な姿勢を示しました。長年、親日的と見られてきた台湾の行政院長(首相)が最終解決手段として「開戦を排除しない」とまで口にしたことは日本政府とメディアを驚かせました。東京新聞の社説では「中華ナショナリズムの共鳴が対日強硬姿勢を招くとしたら日本には悪夢だ」と率直に日本としての憂いを述べました。確かに、台湾の馬政権は李登輝と陳水扁の政権より、「中華民族」の団結を重視して、中華ナショナリズムに共鳴しやすいかもしれません。しかし、既述のように、馬氏政権が望む「中華民族」の団結は民主主義と台湾人の主体性と台湾の国家としての独立性を前提にしています。これは現在の中国共産党の胡政権が訴えた「中華民族」の団結とは根本的に異なっているところです。この根本的な差異が何時でも問題化されて台湾と中国の友好ムードを壊すゆえに、「中華民族」という台湾の馬政権と中国の胡政権が共に受け入れられる現在の枠組みにおいて、台湾と中国の関係がどこまで深められるかは、予測しにくいと思われます。   一方、これからの台湾と日本との関係についでですが、過去二十年、台湾はこの地球上、最も親日の国家だったとも言われます。これはさまざまな歴史的な背景もありますが、李登輝と陳水扁政権が台湾独立という目的を達成するために、政策的にあえてそうした面も大きいです。しかし、これについて、私が一人の台湾人として、特に悲しく思うのは、日本の右翼的な政治家しか台湾を相手にしませんでしたから、過去の台湾政府(特に一部の台湾知識人)が、日本の右翼的な政治家・知識人よりも過激な中国批判と無制限な日本礼賛に流れた、ということです。特に、これらの台湾知識人の言動がさらに日本の右翼政治家・思想家に利用されていますので、ますます悪循環に入っていました。ある意味で、やや大げさな言い方ですが、過去二十年の台湾の親日現象は、台湾当局の日本に対する節操のなさと知識欲のなさ、及び日本当局の台湾への関心のなさをカムフラージュしていたと、私は思っています。この意味で、馬政権が過去の無節操の親日を断ち切って、よりよく日本を知り、同時に中国と日本と真に友好的な関係を築く可能性を持っているかもしれません。少なくとも、私はそういう風に望んでいます。尖閣諸島事件はそのきっかけになればと、ひそかに期待しています。   以上、一人の台湾人として、これからの台中関係及び台日関係についての感想と期待を述べました。国際関係を専攻していない人間ですので、たわ言を喋りすぎたと思われるかもしれませんが、このテーマに関してご意見とご関心をお持ちの方々からご叱正いただければ幸いです。   -------------------------------------- <藍 弘岳(らん・こうがく)☆ Lan Hung-yueh > 中華民国の台湾南投生まれ。現東京大学総合文化研究科博士課程に在籍するが、博士論文の審査が通ったばかり。関心・研究分野は荻生徂徠、日本思想史、東アジアの思想文化交流史、日本漢文学など。博士論文のテーマは「荻生徂徠の詩文論と儒学――「武国」における「文」の探求と創出」。現在は、二松学舎大学COE研究員、SGRA会員。 --------------------------------------   現在の台湾では、大雑把に言えば、二つの区別できる考えがあります。一つは「中華民族」という言葉に訴えて、中国と更に交流して経済の利益を求めるだけではなく、最終的に統一を望むというような主張です(これをとりあえずA主張とします)。それに対して、もう一つは、人権・民主という価値とアジア主義的な考えに共感を覚えて、アメリカと日本との同盟関係を強化して台湾の主体性と国家としての独立を求めようとする主張です(これをB主張とします)。むろん、この二つの主張が完全に対立しているのでありません。むしろ、AB二つの主張を柱の両端とすれば、その間にはさまざまな主張と立場が提出されていると考えられます。   このような考えによって、この二十年来の台湾の政治状況を見ると、李登輝氏と陳水扁氏の両前総統が政権を握っていた時代はBの主張が政治を主導していたのに対して、これからの馬英九総統の時代はAの考えが主導権を取り戻したといえるかもしれません。しかし、いうまでもなく、このような二元論的な考えは現実の情況を極めて単純化していると言わざるをえません。というのも、この二十年来、台湾と中国はそれぞれ大きく変化しました。台湾において、民主主義と台湾人としてのアイデンティティが大いに発展しました。馬英九氏がいう「中華民族」はこの二つの台湾政治を支えている根本的な原則を前提にしているはずです。そもそも、孫文の三民主義を信奉する国民党政権にとって、「民生」と「民族」のほかに、「民主」も根本的な原則としてあります。台湾には、「民生」と「民族」のために「民主」を犠牲にしてもかまわないと考えている人はいますが、天安門事件とチベット騒乱などをめぐって共産党政権を厳しく批判してきた馬英九氏がそのような人とは思えません。台湾の民主と法治を守ることこそ、最重要な課題としているはずです。その意味では、馬氏は上述のAとBの考えを両端とした柱の中間あたりに位置する人と、私は認識しています。しかも、民主主義だけではなく、その就任演説でも触れていたように、台湾が国家として「全面的に東アジアの経済統合に融けこんで東アジアの平和と繁栄に積極的に貢献する」(「全面融入東亞經濟整合、並對東亞的和平與繁榮作出積極貢獻」)ことも課題としています。このように、馬政権はアジア主義的な考えを重視しています。   とはいえ、この期待を裏切るように、ごく最近尖閣諸島沖で起きた日本の巡視船と台湾遊漁船の衝突事故に対して、馬政権は強硬な姿勢を示しました。長年、親日的と見られてきた台湾の行政院長(首相)が最終解決手段として「開戦を排除しない」とまで口にしたことは日本政府とメディアを驚かせました。東京新聞の社説では「中華ナショナリズムの共鳴が対日強硬姿勢を招くとしたら日本には悪夢だ」と率直に日本としての憂いを述べました。確かに、台湾の馬政権は李登輝と陳水扁の政権より、「中華民族」の団結を重視して、中華ナショナリズムに共鳴しやすいかもしれません。しかし、既述のように、馬氏政権が望む「中華民族」の団結は民主主義と台湾人の主体性と台湾の国家としての独立性を前提にしています。これは現在の中国共産党の胡政権が訴えた「中華民族」の団結とは根本的に異なっているところです。この根本的な差異が何時でも問題化されて台湾と中国の友好ムードを壊すゆえに、「中華民族」という台湾の馬政権と中国の胡政権が共に受け入れられる現在の枠組みにおいて、台湾と中国の関係がどこまで深められるかは、予測しにくいと思われます。   一方、これからの台湾と日本との関係についでですが、過去二十年、台湾はこの地球上、最も親日の国家だったとも言われます。これはさまざまな歴史的な背景もありますが、李登輝と陳水扁政権が台湾独立という目的を達成するために、政策的にあえてそうした面も大きいです。しかし、これについて、私が一人の台湾人として、特に悲しく思うのは、日本の右翼的な政治家しか台湾を相手にしませんでしたから、過去の台湾政府(特に一部の台湾知識人)が、日本の右翼的な政治家・知識人よりも過激な中国批判と無制限な日本礼賛に流れた、ということです。特に、これらの台湾知識人の言動がさらに日本の右翼政治家・思想家に利用されていますので、ますます悪循環に入っていました。ある意味で、やや大げさな言い方ですが、過去二十年の台湾の親日現象は、台湾当局の日本に対する節操のなさと知識欲のなさ、及び日本当局の台湾への関心のなさをカムフラージュしていたと、私は思っています。この意味で、馬政権が過去の無節操の親日を断ち切って、よりよく日本を知り、同時に中国と日本と真に友好的な関係を築く可能性を持っているかもしれません。少なくとも、私はそういう風に望んでいます。尖閣諸島事件はそのきっかけになればと、ひそかに期待しています。   以上、一人の台湾人として、これからの台中関係及び台日関係についての感想と期待を述べました。国際関係を専攻していない人間ですので、たわ言を喋りすぎたと思われるかもしれませんが、このテーマに関してご意見とご関心をお持ちの方々からご叱正いただければ幸いです。   -------------------------------------- <藍 弘岳(らん・こうがく)☆ Lan Hung-yueh > 中華民国の台湾南投生まれ。現東京大学総合文化研究科博士課程に在籍するが、博士論文の審査が通ったばかり。関心・研究分野は荻生徂徠、日本思想史、東アジアの思想文化交流史、日本漢文学など。博士論文のテーマは「荻生徂徠の詩文論と儒学――「武国」における「文」の探求と創出」。現在は、二松学舎大学COE研究員、SGRA会員。 --------------------------------------
  • 2008.06.27

    エッセイ140:藍 弘岳「新しい台中関係の時代と日本(その1)」

    今年の3月20日に、私は選挙権を得てから4回目の総統選挙に投票しました。しかしながら、今回ほど自分の一票の重さを感じたことがありませんでした。約3年前から、台湾の陳水扁前総統の親族までを含む民進党政権関連の汚職疑惑と、総統の有力候補だった馬英九氏が汚職で起訴された事件などのニュースが毎日のように続いて、海を隔てる日本にまでなだれ込んで来ました。そんなニュースを見るたびに、台湾の将来への焦燥感が押し寄せてきます。このような焦燥感に駆られて、私は一票を投じました。この一票の力が功を奏したか、台湾は2回目の政権交替を実現しました。果たしてこれで台湾がよりよい民主国家になれるかどうかはわかりませんが、私は焦燥感から解放されました。    この新しい政権への期待感が膨らむ中、5月20日に、馬英九氏が台湾の新総統に就任しました。この日を境に、台湾は新しい時代に入りました。この日から、対中協調を重視する国民党が8年ぶりに政権に復帰して、新しい台中関係への模索が始まったのです。これと同時に、民進党政権が中国と縁を切るために遂行しようとした脱中華・中国的なものの文化革命も挫折しました。この意味で、馬英九氏のこのたびの選挙の勝利は台湾の民主主義を深化させただけではなく、台湾内部における脱中国主義の勢力の成長を鈍化させました。    実は、早くも、総統の就任式典前の5月12日に、台湾の次期副総統(当時)蕭万長氏は中国海南省の博鰲で行なわれたボアオ・アジア・フォーラム(Boao Forum for Asia)で、中国の胡錦濤国家主席と会談しました。これは戦後、中国大陸(中華人民共和国)と台湾(中華民国)当局間では最高レベルの首脳会談といえます。この会談で、蕭副総統はこれからの台湾の対中姿勢として「現実を直視し、未来を開き、争いを棚上げし、相互利益を求める」(「正視現實、開創未來、擱置爭議、追求雙贏」)原則を示し、台湾と中国の直行チャーター便や中国本土からの観光客の受け入れ解禁などを求めました。この蕭副総統が示した経済優先の現実主義的な対中姿勢は、多数の台湾人の期待に沿うものだし、これからの台中関係の基調になると思われます。現に、この2ヶ月間に、中国大陸と台湾当局との間の交流が頻繁になっています。台湾側の人事問題などによって多少の波乱が生じましたが、台湾側が求めた台湾と中国の直行チャーター便や中国大陸からの観光客の受け入れ解禁などはそれぞれ、今年の7月に実現されることになっています。    そもそも、馬英九氏が今回の選挙で、58.45%の得票率で大差をつけて選挙に勝ったのは、この台中関係の改善という選挙の公約にも関わっています。就任式典で行われた所信表明演説の重点も台中関係の改善にあります。彼は演説の中で、次の四つの台中関係の改善に関わることを述べました。(1)「三つのノー(独立せず、統一せず、武力を行使せず)」の理念で台中の現状を維持すること。(2)台中が「ひとつの中国」をそれぞれ解釈するとの「1992年の合意」を基礎に、対話再開を求めること。(3)7月からの週末チャーター便の運航と中国観光客受け入れ解禁で、台中は新時代に入ること。(4)中国大陸と台湾の人民はともに「中華民族」に属しており、平和共存の道を見つけることができることです。    この宣言で、特に注意すべきなのは、「中華民族」という言葉です。この言葉は、これから、「一つの中国」という原則に代わって、台湾と中国が共有する最大の枠組みとして使われるようになると思われます。実際、馬氏の就任して間もない5月26日、呉伯雄国民党主席は、香港を経由してチャーター機で中国を訪問して胡錦濤国家主席と会談を行いました。会談の過程で呉胡の両氏は「中華民族」を10回以上言及したそうです。このように、中国大陸当局は主権に関わる「一つの中国」という基本原則をひそかに棚上げにしました。これは確かに大きな変化でしょう。この変化は各社説にも論じられたように、台湾の政権交替と関わるほかに、今年3月に起こったチベット騒乱で国際社会から非難を受け外交面で孤立した共産党政権が中国のイメージアップを図ろうとした狙いがあることと、四川大地震の際、台湾が積極的に義援していたことなどにも関わっています。    しかし、「中華民族」は近代から創出された一つの虚構にすぎません。「中華民族」は梁啓超と章太炎といった近代中国の大思想家たちが日本で使い始めた言葉です。だが、当初、彼らがいう「中華民族」は漢族だけを指していました。それ以後、孫文が自ら提唱した五族共和説を修正して中華民国の国民を創出するために「中華民族」という概念枠組みを選びました。また、中国共産党の創始者の一人である李大釗は日本帝国の大アジア主義に抗して、「新中華民族主義」を提出しました。孫文と李大釗が使う「中華民族」はもはや漢族だけではなく、中国の主権統治範囲内のほかの少数民族をも含む政治概念になっています。さらに、中国共産党は、国民党と、日本帝国という共通の敵をもったから、後に結党当初採用したプロレタリア民族論に基づく「中華連邦共和国」の建設という目標に修正を加え、孫文の民族主義から批判的に摂取・継承しつつ、中国内部のさまざまな民族集団を含む全ての人々を「中華民族」と呼ぶことにしました。このように、日本という共通の敵があるからこそ、「中華民族」という国民党と共産党が共有できる概念枠組みが形成しました。とはいえ、さかのぼって見れば、戦前の日本のアジア主義も「中華民族」という概念の根底にある中国中心の天下の秩序観・世界観から離れるためもあり、さまざまな視点から提唱されていました。そして、1990年代以後、日本だけではなく、台湾と韓国と中国にもアジア主義的な考えが再び流行するようになっています。なぜなら、アジア(ないし東アジア)という概念は西洋中心の世界と中華民族及び国民国家の枠組みを同時に超える思想の可能性を持っているからでしょう。    ともかく、日本、アジア、中華、台湾、西洋などの概念が歴史的に複雑に絡まっていますので、これ以上、深く立ち入って論じることはしません。私がこのようにあえて「中華民族」という概念の略史を述べたのは、台湾政治が抱える根本的な問題の一つを考えてみたいからです。(続く)   -------------------------------------- <藍 弘岳(らん・こうがく)☆ Lan Hung-yueh > 中華民国の台湾南投生まれ。現東京大学総合文化研究科博士課程に在籍するが、博士論文の審査が通ったばかり。関心・研究分野は荻生徂徠、日本思想史、東アジアの思想文化交流史、日本漢文学など。博士論文のテーマは「荻生徂徠の詩文論と儒学――「武国」における「文」の探求と創出」。現在は、二松学舎大学COE研究員、SGRA会員。  
  • 2008.06.20

    エッセイ139:宋 剛 「国際化と自己本位の狭間に彷徨う若き中国」

    半年も過ぎていないのに、2008年は中国にとって多事多難の一年になりそうだ。オリンピックの開催をきっかけに、幸も不幸も中国は世界の注目を集めている。聖火の輝きとともに、以前から抱えてきた諸問題は、目前に突如起きたかのように目立つ。数万人に及ぶ死者を出した四川大震災ですべての問題がまた瞬時に消えたように錯覚させるが、中国経済に対するダメージは実に大きい。   中国政府の行動に対して外国の多数のメディアは、厳しい視線を浴びさせながら理解不能だという論調をあげている。人権問題が解決されていないのになぜオリンピックの開催を急ぐ? 沿道の観客が見られないのになぜ聖火リレーを続ける? 二万人以上が生き埋めの状態なのになぜ国際緊急援助隊受け入れの決定を遅らせる? 確かに、反面教師の役割を果たしていたミャンマー軍政府がなかったら、日本の救急隊は未だに成田空港で待機していたかもしれない。(ヤンゴンのキンさんをはじめ、ミャンマー出身の国民のみなさん、お許しください。)   国によって数字が違うが、中国は4000~6000年の歴史を誇る大国だと認識されている。恐らく、98%の我々中国人もそう思っているだろう。しかし、今日の中国は未熟の少年なのだ、と私は言いたい。なぜなら、国家の歴史と政権は別次元の問題だからだ。   人民共和国は、60年の誕生日を迎えようとしている。だが、生れて初めてその初々しい目で世界を見ようとしたのはたったの30年前のことだ。孔子は「三十にして立つ」と言ったが、アメリカ合衆国は、世界の頂点まで辿りつくのに二百余年の歳月を費やした。日本もまた、文明開化以来百年以上の試行錯誤を積み重ね、ようやくアメリカに次ぐ経済大国となった。   先進国からみると、現在の中国には子供らしい一面や、不合理に見える部分が存在するのは当然なことだ。そして、未熟な中国は国際化のレールに乗ろうとしているのだ。   国際化とは何か? それは国境線を越えて世界的規模に広がることだとすれば、中国は必ずしも頑丈ではない列車をつくり、信じられない速度でそのレールに乗ろうとしている。なぜなら、世界に取り残されたくないからだ。賃金が何倍も安くても外国資本を招致する、世界中でチャイナフリーと言われても世界工場の座を譲らぬ、四合院が取り壊されても高層ビルに入ればよい、という中国。近代化に熱中する中国には、得失を計算する余裕はもはやない。   しかし一方、プロレタリア階級革命によって植民地の危機から救出された中国は、同じプロレタリア階級革命によって中華民族のアイデンティティーそのものも失いつつあることにようやく気づいたようだ。孔子思想の国内における再認識運動、孔子学院の世界進出、文化大革命時代の行き過ぎた孔子批判は反省され、それとともに、過剰な自己肯定論が広がり、大国意識が目覚めている。   こうして、まだ若い中国は、古代の栄光と近代の屈辱、つまり自己本位を徹底するのか、それとも、完全に他人本位を選び、国際化するのか、そのバランスは如何に調整するのかという狭間の中に彷徨っている。    最後に、チベットの人権問題について、愚見を一言付け加えたい。人間として、生きることは基本的な権利で、何よりも優先すべきだと私は思う。言論の自由や、文化の伝承など、さまざまな問題は確実に存在している。しかし、経済を発展させて、お腹がいっぱいにならないと、すべては空中楼閣なのだ。これは中国が60年を経てやっと見つけた方向なのだ。    ----------------------------------------  <宋 剛 (そーごー)☆ Song Gang> 中国北京聯合大学日本語科を卒業後、2002年に日本へ留学、桜美林大学環太平洋地域文化専攻修士、現在桜美林大学環太平洋地域文化専攻博士課程在学中。中国瀋陽師範大学日本研究所客員研究員。SGRA会員。 ----------------------------------------  
  • 2008.06.17

    エッセイ138:洪ユンシン「思いを形にすることについて~宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に係わりながら~」

    一つの思いが形になる際、そこには、何が残るのか。宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に関わって一年が過ぎようとしている。その間、私は、「何故、沖縄なのか」「何故、宮古島なのか」という質問に度々出会い、政治的な目的や背景があるのではないかと批判され、時には、「女性を偶像化するな」とも言われてきたものだ。この碑をめぐる疑問と質問に、今日は答えたい。私/私たちは、ただ、思いに触れて、その思いを思うがままに行動に移した一人、一人の個人であると。ごく単純に、日本軍「慰安婦」のことを忘れず、彼女の休んだ場所に大きな石を置いて、誰か「朝鮮」から人が来ないかと待っている素朴な農民がいた。そして、彼の証言を聞き、その思いに触れた者達が集まってきたのだと。それで納得いかないと言うなら、今日は、実際に起きた出会いを語ることで、宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に関わった経緯を説明しよう。実行委員会のメンバーとしてではなく、何の目的も持たない私自身の思い出として。   「沖縄戦と朝鮮人」の関係を研究している私は、2006年10月と12月宮古島を訪れた。韓国でインタビューをした朝鮮人軍夫のうち、最も病弱な方が宮古島に強制動員されていたからである。私と宮古島の縁は、このような一人の朝鮮人軍夫との出会いで始まった。部屋に入るや否や「では始めましょう」と正座をしたその方は、始終、姿勢を正し冷静な語調で話をしてくれたが、何処か不安そうに見えた。「動物のなかで一番信用できないのは人間だ」という口癖のような言葉が、私を不安にさせたのかもしれない。彼は、何故か、「慰安所」の話だけは、すべて日本語で語っていた。傍でただ話しを聞くだけだったおばあさんが、「私は『挺身隊』にいかされると聞き、顔もしらないこの人と結婚したのよ」と呟いた一言で疑問は解けたが、あの深いため息や、彼のインタビューが終わるまでイライラしていた彼女の、どこか寂しそうな横顔を、私は忘れることが出来ない。インタビューの終わり頃、おじいさんが前日までは座ってご飯も食べられないくらい元気を失っていたことを知らされた。おばあさんは何と退院の直後であったことも知った。沖縄に出来た「恨の碑」の除幕式に行きたかったけれど、体調が悪いためいけなかったと寂しげに語るおじいさんだった。そのとき宮古島の写真を送ろうとひそかに決めていた自分がいた。こうして、私は、宮古島に足を運ぶことになった。   調査を始めると、思いもよらない証言や人の思いに出会った。この島では、井戸など住民が生活している空間のすぐ傍に「慰安所」があったということが分かった。3万人もの日本兵が駐屯していたため、住民より軍が目立つほどだったという。沖縄本土と違い、山の少なかった宮古島では、軍が組織的に作った「慰安所」を、住民の目から隠すことは不可能に近かったことも分かった。生活空間のすぐ傍にいた朝鮮人軍夫や「慰安婦」の方々の苦労を、宮古島の住民は、生々しく覚えていた。この島で、私は、しばしばあの朝鮮人元軍夫とその妻の寂しげな横顔を思い出させる証言者に出会ったのだが、それは、戦争を経験したおじいさんの顔だったり、この島で何度も危機にさらされたおばあさんの横顔だったりした。その一人が、与那覇博敏さんである。   与那覇博敏さんは、戦時中宮古島で日本軍の司令部が置かれていた地域に住んでいた。そして、彼の実家のすぐ傍に、長屋の慰安所があり、朝鮮人の女性数人が居たという。水の貴重な島では洗濯をするにしろ、井戸に行かねばならない。彼女たちは、坂道を登ってその井戸まで洗濯に出かけた。そしていつも、与那覇さんの実家の前にあった木の下で腰を下ろして休んでいたという。与那覇さんは、彼女たちのことを忘れまいと、石を置いたと話してくれた。そして、二度目の調査の際に、「この石に、韓国語で名前を付けてほしい」と頼まれた。東京に戻ると、どうしても碑を建てたいのだと、一生懸命書かれている与那覇さんの手紙が待っていた。それは与那覇さんの強い希望だった。   2006年、私は、尹貞玉(ユン・ジョンオック)先生の沖縄調査に偶然、同行する機会を得た。宮古島調査からの帰りだった。ユン先生に、与那覇さんという宮古島の人の思いを伝えたところ「彼のように自分を覚えている人が居ることを知ったら、おばあさんたちは、どんなに喜ぶでしょうか」と、碑を建てることにすぐ賛同してくださった。こうして、2007年5月、ユン先生を団長とする「韓国・日本・沖縄」共同調査団が、宮古島に足を運ぶことになった。新聞記事を読んで、那覇滞在の宮古戦体験者の方々からも証言したいと声が寄せられた。同調査団に参加し、どうしても碑を建てたいという与那覇さんの話を聞き、その思いの強さに感動した「聞き手」を中心に、直ちに募金活動が始まった。   2008年、二度目の共同調査を実施。合計15箇所の「慰安所」がこの島にあったことを確認した。宮古島に動員された「慰安婦」の方が韓国に生存していることも確認された。現在(2008年4月)、宮古島・東京・韓国に実行委員会が結成され、広く募金を呼びかけている。証言調査も同時に進めており、16番目の「慰安所」を確認した。沖縄の「慰安所」は130箇所だといわれてきたが、その10分の1以上がこの島に存在したことになる。そして、与那覇さんのようなたくさんの住民が彼女たちについて語っているのである。     2008年8月15日、私たちはこの島の与那覇さんの土地に「日本軍『慰安婦』のための碑」を建てる。私たちは女性を表象化する何の彫刻も建てない。ただそこには、日本軍「慰安婦」であることを強いられた韓国のおばあさんたちの多くが自分自身をその花にたとえ、好んでいた花、ドラジコット(キキョウの花)を一輪置く。宮古島の暑い夏、かつて彼女たちがそうだったように、「希望の木」(2007年5月植木)がこの石に、大きな木陰を作ってくれるだろう。そして、いつか、あの木の下で休もうと、腰を下ろす旅人は、この真っ黒い琉球岩石を、守っているかのように囲んでいる私たちのメッセージと、小さいキキョウの花畑に出会える。そして「慰安婦」となった女性たちの10カ国の言語で刻まれた次の言葉を読むだろう。   「日本軍による性暴力被害を受けた一人ひとりの女性の苦しみを記憶し、全世界の戦時性暴力の被害者を悼み、二度と戦争のない平和な世界を祈ります。」   旅人がこの祈りの文を読み終わった後に、あの与那覇さんの石に目を留め、この場所に連れてこられた女性たちへ思いを馳せてくれればよい。あの戦争中戦場となり日本軍の要塞となった沖縄で生まれ今も米軍基地と共に行き続ける人々の思い出と、ここに座り込んでいた「慰安婦」にさせられた女性たちの記憶は、「希望の木」を植えた人々の手触りの暖かさに包まれる。飾りのない素朴な琉球岩石が、寂しく見えるはずはない。そして、この場をたまたま訪ねた人々の思いが、そもまま「祈り文」となるだろう。これらの営みは、決して形などに留まることのない未来への強い希望として働きかけるはずだ。人の思いは形などに留められない。ただ生きているその人自身の「思い」そのもの、ごく普通の人間の思いそのものが、歴史を動かす力となることを、私は、多くの日本軍「慰安婦」証言者や沖縄戦の語り部に学んだ。それを信じている。   ・ ・・「あなたの思いとして、募金と寄付を、募ります。」   宮古島に日本軍「慰安婦」の祈念碑を建てる会 ●代表:与那覇博敏・尹貞玉・中原道子・高里鈴代 ●賛同金:一口2千円。 ●郵便振替口座:00150-9-540937 ●連絡先:(沖縄)宮古島平良西里989-1      (東京)東京都杉並区阿佐ヶ谷南1-8-6   ------------------------------------------------ <洪ユン伸(ホン・ユンシン)☆ Hong Yun Shin> 韓国ソウル生まれ。韓国の中央大学学士・早稲田大学修士卒業後、早稲田大学アジア太平洋研究科博士課程在学中。学士から博士課程までの専攻は、一貫して「政治学・国際関係学」。関心分野は、政治思想。哲学。安全保障学。フェミニズム批評理論など。現在、「占領とナショナリズムの相互関係―沖縄戦における朝鮮人と住民の関係性を中心に」をテーマに博士論文を執筆中。SGRA会員。 ------------------------------------------------  
  • 2008.06.13

    エッセイ137:キン・マウン・トウエ「ナルギス被災者支援プロジェクト第一回活動報告」

    2008年6月7日朝5時、空はかなり曇っています。今日は、必ず雨が降るでしょう。本日、ミャンマーのサイクロン被害者の方達へ支援活動を行うために、2つのボランティア・グループが合流し、現地へ行くことになっております。最近、政府からは、被害者への支援を行う場合、現地まで行き、直接被災者の方達へ手渡しするようにという正式発表がありました。今回は、私のナルギス被災者支援プロジェクトの運営ボランティア・グループ9名と、友人のミャンマー国内のボランティア・グループから12名が活動に参加してくれました。   集合場所に6時と言うことでしたが、その前にそれぞれ集まりました。準備した支援物資を2台の小型トラックへ運び込み、6時30分に出発しました。今回の支援物資は、お米、食油、玉ねぎ、ジャガイモ、薬、石鹸、国内の古着、スリッパ、お金一部を用意しました。私のプロジェクトから日本円で15万円と友人のボランティア・グループから30万円をあわせて予算を作りました。   活動する対象としては、ヤンゴンから海の方向に存在するクンチャンコン地区ペーコン村を選びました。多くの被害地がありますが、私達の支援物資の量、現地の被害者家族の状況、今までの連絡係りの準備などを考慮して、ヤンゴンから車と船で約4時間で行けるペーコン村になりました。   車で移動している間、午前8時ごろには大雨だったので心配しましたが、9時前には曇りの状態に戻りました。被害地に入ると、周囲を撮影しながら、船乗り場へ到着しました。ボランティアの皆さんの力で資材を船まで運び、再度海へ出発しました。ヤンゴンで被害を受けた建物とは違い、小さい家や古い精米工場が多く存在し、全てがサイクロンの影響を受けました。復興は1ヶ月経っても、まだまだです。   11時半ころペーコン村に無事に到着しました。村の子ども達が我々を笑顔で迎えてくれました。桟橋が今にも落ちそうなので十分注意ながら支援物資を運び、一人分の支援物資をいれた袋を皆で準備しました。私は、村の子ども達と一緒に、村を回って見ました。ほとんどの家がサイクロンの影響を受けて、どうにか居住できるような状態に直してあります。村の学校もレンガのみ残っています。村の人々は、我々が来たことをたいへん喜んでいます。今までUNICEFから2回、民間支援者達から数回しか、支援物資を受け取っていないようです。   学校が被害を受けた関係で、現在はお寺を借りて学校として勉強しているようです。子ども達は「いつになったら私達の学校ができるか分からない」と言うのを聞いて、私の胸が痛みました。村の73歳の方と会ったときも、「あなた方が来てくださって大変嬉しい。出来る力で、この村のことをお願います」と言われ、「はい」と答えましたが、何とも言えない気持ちになりました。ヤンゴン市内の被害者の場合は、ある程度自力で回復する力がありますが、この村は今後どうなるでしょう。   一方、我々の活動に協力してくれた現地の方は、精米所を持っています。そして、かなりの米を生産する農地も持っています。しかし、工場も、在庫のお米も全てだめになり、農地も塩水が入って、大変な情況です。生活レベルに差があったとしても、この地域に住む全ての人々がサイクロン被害を受けました。彼自身が回復ために、かなりの資金力で頑張らなければなりませんが、一般の人たちは、もっと大変でしょう。政府からの支援については話は聞いていますが、でも...   今回サイクロンの被害を受けた全地域が、ミャンマーで第一の米の生産地であり、精米所も多く存在しています。雨季がきて生産時期が始まりましたが、なかなか準備に入れない人が多いです。今まで農業に使用してきた水牛や牛なども約15万匹がいなくなってしまいました。これから機械農業に展開していくといっても簡単なことではありません。政府や国内支援企業の一部から、農業機械の配分があっても、全ての農民に届くチャンスは少ないでしょう。   我々の支援物資は、彼らが一週間生活するのに役立つかもしれませんが、彼らの将来のことまでは、力が及びません。今回支援を行ったことに対して、喜びと悲しみを同時に感じています。   今後の支援方法について考えています。今回のように一週間分の支援物を準備するか、彼らの将来に役立つ事をするかが、課題になっています。例えば、雨季に米栽培用タネを我々が出来る範囲で準備すると、彼らのためにもっと役立つのではないでしょうか。ヤンゴンへの帰り道は、頭の中でいろいろなことを思い巡らしていました。この267世帯の村でもさまざまな問題が生じていますが、被災地全部ならかなりの力が必要であり、被災者自身の強い心と力も必要です。   皆様、私の小さなナルギス被災者支援プロジェクトにおけるご協力やご支援に関して本当にありがとう御座いました。今後もよろしくお願い致します。   活動写真をここからご覧ください   ----------------------------------- <キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe> ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。 -----------------------------------   【募金のご報告】森 峰生   12日(木)現在,4団体と18名の方々から総計602,295円の募金をお預かりいたしております. そのうち,15万円を第1回活動費の一部に使用して,残額452,295円です.   ★キンさんのプロジェクトにさらにご協力ください!   募金趣意書   ポスター