SGRAかわらばん

  • 2008.11.18

    エッセイ170:包 聯群「中国の経済発展は農民たちに何をもたらしたのか:黒龍江省でのフィールドワークから見えたこと」

    言語接触や言語変容に関する調査のために中国黒龍江省に、9月から10月にかけて約1ヶ月ほど滞在した。調査地は主に大慶市ドルブットモンゴル族自治県、チチハル市の泰来県が中心だった。移動手段は鉄道や車を利用した。ちょうど農民たちが農産物を収穫している忙しい時期でもあった。各地域内での移動は車だったので、これらの地域の変化を直に自分の目で確かめることができ、また農民たちとも話をする機会があった。   ○中国東北地方の中都市(城鎮)の変化    2003年の調査を最後に、黒龍江省大慶市ドルブットモンゴル族自治県に足を運んだのは5年ぶりのことだった。街は見違えるほどの変化だった。道路が整備され、大きなビルが道路の両端に立ち並ぶ。その数は倍増し、かつての古い街並みは変貌してしまった。新しい商店街ができ、多くの人でにぎわっていた。夜になると、多種多様な電灯が住宅のビル全体をてりつけ、華やかな街並みとなっていた。現在の街は昔の何倍にも拡大され、マンションを買う農民も増えているようである。本県の領域では、石油の採掘ができることが経済発展に直接結びついていると市民たちが話していた。   黒龍江省泰来県では石油の資源がないため、経済的に他の県とある程度の差がみられるが、それでも、村と村を繋ぐ道路が整備されるなど、昔と比べると、発展しつつあることが見うけられた。このように、地方都市の外観からでも中国の経済発展の一角がみられるのである。   地球温暖化の原因となる二酸化炭素(CO2)を排出しない太陽光の自然エネルギー利用への転換は、環境やエネルギー資源に対する積極的な取り組みととらえられるが、中国東北地域では太陽エネルギーの使用が普及しつつある。各家庭の給湯、シャワーなどで使われている。これもまた5年前には見られなかった風景である。街にしろ、農村にしろ、屋根の上に横1メートル以上、縦60cm程度(?)の管を横に並べているのがはっきり見られる。太陽熱温水器の値段は、一番安いものが3000人民元(約5万円程度)であり、一般的な家庭でも設置できる手ごろな値段と言われている。業者が村まで行ってチラシ(“東北王太陽エネルギー”)を配っている事情をみると、太陽エネルギーを使用する家庭がさらに増えているのだろう。環境問題が世界的に取り上げられている時代では、これは地球環境を守る一つの手段と言えよう。   ○中国東北地方の農村の変化   言語調査の傍ら、農村の生活を体験し、その変化を感じ取ったことも今回の収穫の一つだと言える。黒龍江省チチハル市泰来県ウンドル村で行われたインタビュー調査をもとに中国農村の変化をみてみよう。    筆者:今の生活をどう思いますか。   農民Aさん:今は昔と比べると、毎日“過年”(お正月)みたいだ。今は、毎日お米や麺類を食べられるようになった。さらに魚、鶏肉、豚肉をいつでも買って食べられるしね。70年代末まではお腹いっぱいに食べられず、いつも空腹感が残っていたので、大変だったよ。新しいトウモロコシが食べられる秋になる前に、それまで食べていた食べ物がすでになくなってしまう。今、トウモロコシを食べる人は一人もいないよ。   筆者:それはよかったね。   農民Aさん:そうですね。これだけじゃないよ。今はね、農民の土地から税金を取られなくなったよ。逆に国から一畝の土地に300元以上の耕地用の支援金をくれるのよ。昔なら、絶対想像できなかった。収穫があってもなくても税金を払っていたよ。   筆者:そうですか。   農民Aさん:うん。今はね、満足しないことがないよ。今年からね、数年間をかけて、国が土で建てた家を壊す計画が出ているよ。誰かが(煉瓦で)新しい家を建てると、国から一万元(農村で100平方メール近くの家を建てるには安くても大体8万元ほどかかる)の補償があるよ。家を建てたい人は登録をすでに済ませて、これからその政策が実行されるとみんなが言っているよ。   筆者:けっこうすごいですね。   農民Aさん:そうだよ。今、ウンドル村では、農業以外、酪農用の牛を育てる家庭も増えているよ。国の支援策があるからね。今農村でも忙しいときに人を雇って農業をやっているよ。昔の地主みたいね。勤勉の人は結構お金を儲けているよ。   筆者:そうですか。   農民Aさん:農民たちは新しい家を建てる際にも、先進的な設備を備えるように工夫している。街にあるシャワー、暖房、水道などの設備がすべてあるよ。   筆者:なるほど、これをみると、昔の農村のイメージと大分違いますね。農村と思えないほどの変化ですね。   農民Aさん:そうでしょう!!(自慢気に)。   (次号に続く)   ------------------------------------ <包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun> 中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻)を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/教育研究支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、契丹小字等。SGRA会員。 ------------------------------------
  • 2008.11.11

    エッセイ169:今西淳子「留学生30万人計画と短期留学推進への期待」

    5つの国立大学が世話人となって開催する「『留学生30万人計画』と『短期外国人留学生支援制度』の行方」という会合があったので行ってみた。各大学の短期留学プログラム担当者の会だったようだが、私は以前から、5年とか10年とかかけて日本の大学から学位を取得するための留学ではなく、1年未満の短期間の青少年の国際交流をもっともっと大量に増加すべきだと思っているので、短期留学の現状がどうなっているかを知りたいと思ったからだ。主催者から、参加者は全員、短期留学プログラムの資料を提出すべきということだったので、私も渥美財団とSGRAの紹介の後に、今年から始めた北京・ソウルでの面接による奨学生の現地採用について説明し、最後に次のようなコメントを付け加えた。   [短期留学推進への期待]   留学生30万人計画は、勿論悪くない。世界中の若者が、国境を越えて異文化に接する機会が増えれば増えるほどいい。でも、何故か、現場の方々は、あんまり喜んでいないように見受けられる。30万人なんて無理、10万人計画でも問題が山積みだったのにと。勿論喜んでいる人もいる。大きな政策があれば予算がつくから、その恩恵に預かろうと思っている方々。昨今は、ビジネス日本語や企業への就職斡旋や日本企業に相応しい高度人材の育成が大流行り。でも、少子高齢化の日本を救うための留学生受入政策って本物ですか?これから景気が悪くなったら企業の採用も激減するのでは?そうなったら外国人の方が使い捨てになる可能性が高いかも。青少年の国際交流は、異文化に接触することによって個々が成長し、異文化が融合することによって新しいものを創造するところに、その使命と醍醐味があるのでは?通信と交通手段が発達して、時間の流れが早くなった今日、人生の一番大切な20歳代の10年間をかけて日本の大学の博士号を取得しにくる留学生は、これ以上多くはならないでしょう。短期留学の促進にとても期待しています!短期留学促進には、奨学金よりも、英語(中国語も?)による授業、単位交換、宿舎の整備、リスクマネジメントなどがもっと必要なのではないかと思います。   セミナーの前半には、文部科学省高等教育局学生支援課留学生交流室の方による留学生政策の説明があった。留学生30万人計画骨子の3つのポイントは、1)「グローバル戦略」展開の一環として2020年を目途に留学生受入れ30万人を目指す。2)大学等の教育研究の国際競争力を高め、優れた留学生を戦略的に獲得。3)関係省庁・機関等が総合的・有機的に連携して計画を推進、ということであった。最後に短期留学のデータが紹介されたが、2008年5月1日の時点で、留学生総数118,498人に対して、短期留学生は7.1%の8,368人。出身国は、留学生全体では圧倒的にアジアが多いのに対し、短期留学では中国韓国の次にアメリカ、台湾、ドイツ、フランス、タイ、イギリスと、欧米諸国からの留学生も多い。そして文科省の奨学金のひとつの枠である「短期留学推薦制度」については、1996年より2007年まで、採択者数は2千人前後とあまり変化しないが、応募者は2,464人から10,207人に急増している。尚、文科省による「短期留学」の定義は、3か月以上1年未満の留学である。3か月以上とするのは、それ以上滞在するためには留学ビザが必要になるので、留学生ビザによって正確な統計がとれるからだと思う。   セミナーの後半は参加した38機関が、それぞれ1分間で自分の短期プログラムを紹介した。部外者として聞いていると、国立大学と私立大学の差が明確で興味深かった。そもそも、この会合のテーマにある「短期外国人留学生支援制度」というのは、文科省のひとつの施策を意味するらしく、国立大学は、当然のことながら、その恩恵にどうやって与るかが大きな関心事らしかった。また、正確には把握できなかったが、この制度は大学間協定による交換留学に使われることが多いようでもあった。この施策の恩恵を受けることのできるプログラムを「短期プログラム(短プロ)」というらしいのであるが、留学生を1000人以上受け入れている大きな国立大学が、20人とか30人の短プロだけを1つだけ紹介しているので驚いた。このような大学には、それ以外にも1年未満の短期留学生がたくさん来ていると思うのだが、そのような留学生たちはどのように把握されているのだろう。また、留学生30万人計画の中では、そのような「短プロ」以外の短期留学の推進はどのように行われているのだろう。    一方、私立大学は、文科省の「短期外国人留学生支援制度」とはあまり関係なく、独自にいろいろな短期プログラムを工夫しているようだった。中には、自由研究を主体とし、キャンパスのない留学生受入をしているという報告もあり、ちょっと心配になった。一般的には、国公立大学も含め、地方にある大学も、それぞれ工夫して短期留学を推進しようとしているようであるし、何よりも日本に短期留学したいという希望者が増加しているようであった。奨学金がなくても来るという希望者も多いようで、むしろ宿舎の不足が問題という報告もあった。    このセミナーでは、参加者全員が発言することになっていたので、私の番がまわってきた時に、次の2点の感想を述べた。    まず、現在、日本に居る留学生11万人の留学生のうち8千人が短期留学というデータは、日本で受け入れている短期留学生の実態を正確に表していないのではないかという問題提起をした。日本で受け入れた1年未満の留学生の数を把握するのに、ある年の5月1日に、たまたま短期プログラムで来日して滞在していた人を数えても、今、グローバルに激増している青少年の国際交流の実態を把握できないように思う。しかも、3ヵ月未満の超短期留学や各種の交流プログラムを含めると、1年間に短期留学で日本にやってくる青少年の数は、8千人よりはかなり多くなるであろう。30万人計画を進めるために、好都合なトリックになってしまうかもしれないが、現在の国際社会のダイナミズムをもう少し正確に表すことができるデータを使った方がいいのではないかと思う。    そして、各大学の報告を聞いて、一番気にかかったことは、大学間協定を結んで交換留学プログラムを立ちあげても、海外から日本への留学したい希望者は増えているのに、日本からの海外留学の希望者が非常に少ないという、複数の大学からの報告だった。私が「日本全体、大学生までもが、とても内向きになっている。在学中に一度留学しなければ卒業できないというような、制度的な工夫が必要なのではないか」と、部外者の特権で勝手な発言をすると、大学の担当者の皆さんは大きく頷いて賛同してくださった。   ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。 ------------------------------------------  
  • 2008.11.07

    エッセイ168:林 泉忠「どうなる?転換期の日台関係」

    先日、台湾の馬英九総統は、建国記念日に行われたスピーチにおいて、「台日特別パートナーシップ」の構築に言及した。五月の就任式の演説では日本との関係は言及されなかったが、今回、米台関係よりも重点的に言及されているだけに注目を浴びている。   いうまでもなく、馬英九は、6月に起きた台湾漁船「連合号」の衝突事件以降、停滞が続いた日台関係を意識したのである。   「連合号事件」は、台湾側の自制への転換、および日本側の陳謝と賠償の約束で解決したが、事件当初、台湾政府の対応と台湾社会の反応は日本社会を震撼させた。台湾政府要人の「一戦を辞さない」発言、そして報道やネット上での反日的言論が急増したからだ。   日本にとって、台湾が最も親日的近隣として認識されているだけに衝撃は大きかった。それだけに、事件後、日本の新聞も揃って日台関係を懸念する社説を次々と掲載した。   しかし、「連合号事件」はあくまで日台関係を停滞させた要因のひとつにすぎなかった。その背後には、中国への急接近を図る馬英九新政権の対日戦略が不透明だったこと、加えて、許世楷駐日代表辞任後、長い間、新代表の人選が難航し、日台関係の修復を先伸ばしにさせたことがある。   日本側の懸念をやっと理解した馬政権は、7月から、日台関係を決して軽視していない姿勢を次々と示した。   まず、馬英九は、自らを決して「反日家」ではない「知日家」としてアピールし、今度は一歩進んで「友日家」になる意思を表明した。また、「連合号事件」の直後に撤廃した台湾外交部(外務省相当)の下に置かれた「日本事務会」に代わって、各省庁連携で対日政策を検討する「日台関係作業会報」を発足させた。そして、9月になると、新しい日台関係の構築を訴える「台日特別パートナーシップ」を発表した。   しかし、転換期にある日台関係を構築するには、この対日新思考はいかなる役割を果たせるのか。   「台日特別パートナーシップ」が単に国交のない日台間の緊密な友好関係の実態を語るのみにとどまるのであれば、馬英九政権の日台関係重視への転換を示す以上のものはない。しかし、それを新しい日台関係を築くための戦略的指針として捉えてほしいのであれば、それを裏付ける中身が不可欠だ。それにあたり、日台新関係の中期目標として次の四点は重要視すべきであろう。   まず、日台間の交流関係を全面的に強化するためには、「連合号事件」の再発防止に向けた日台間の危機管理体制の確立が最重要課題になろう。確かに、国交のない日台間には米中間の「ホットライン」のような安保協力装置の設置は難しいが、係争地をめぐる衝突を含む緊急時の対応システムの検討は必要だ。   第二に、「台日特別パートナーシップ」を法的に保障する意味においても、日台関係の安定化を図るために、日中関係に悪影響を与えないよう注意を払いながら、米国内法に相当する日本版「台湾関係法」制定の可能性を積極的に検討する意味があろう。   第三に、駐日新代表の人選が難航した背景として、長年下野した国民党側における日台関係に熟知した人材の不足があった。安定した日台の信頼関係を維持するためには、対日外交の人材育成が急務だ。同時に、政権が交代しても野党系の知日派を引き続き重視してほしい。   第四に、日本側において中国接近を図る馬英九政権を懸念する声が高い背景には、近年、親台関係者に「反中」イメージの濃厚な人が集中していることが挙げられる。今回の台湾の政権交代を契機に、親台でも反中ではない、より健全な対中国および対台湾思考の転換が日本社会に求められている。   麻生内閣は首相自身を含めて18人が「日華議員懇談会」のメンバーである。これは、日台間の信頼関係を全面に回復する絶好の環境だ。この好機を逃さず、いかに中身のある「特別パートナーシップ」が構築できるか、今後も目が離せない。  (2008年10月31日ハーバードより)   ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-tiong Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、東京大学大学院法学研究科より博士号を取得。琉球大学法文学部准教授。4月より、ハーバード大学客員研究員としてボストン在住。 ----------------------------------
  • 2008.11.04

    エッセイ167:禹 成勲「『20世紀少年』たちと『ともだち』」

    世界的な金融危機状況が続いている。経済や金融体制に関してはまったくの素人である私としては、こうした金融危機がどうして起こるのか、どのように危機を克服できるのか全然分からない。ただ、様々な原因究明の意見の中で、「現在の『経済システム』の誤りによる」という指摘が気にかかる。     浦沢直樹の「20世紀少年」という漫画を原作とした同名の映画が世界同時公開された。年齢の側面からも経済の側面からも鑑賞可能な「20世紀少年」たちが、この映画に熱狂しているという。    ケンヂという人物を中心とする主人公「20世紀少年」たちは、幼い頃、地球を滅亡させようとする敵が現れたら、皆共に戦い、敵をはね除けて地球を守る約束をする。このことは、やがて忘れられ、主人公たちはおとなになって平凡な日常を過ごしている。ところが、ある日、地球全体を対象にした恐ろしい事件が次々と発生する。主人公たちは、これら一連の事件が、彼らが幼い時に考えた地球滅亡シナリオと同じであることに気付く。一連の事件に絡んでいる謎の男「トモダチ」は、主人公らが幼い時に考えた空想を、次々と現実に再現し、これらを解決することで英雄になって支配者になり、「国家」となる。     現在の経済危機を発生させた「経済システム」は、我々「20世紀少年」たちの現在と未来のくらし、そして夢を守り実現させる存在になりながら「TOMODACHI」となった。「20世紀少年」たちがその存在を認めたことで、それは各種制度を創り出したし、国家の一部になった。 いや、むしろ現在の国々は、「20世紀少年」たちの人生と夢を維持するため、その「TOMOTACHI」に従属しているようにも見える。あたかも漫画の中の「トモダチ」のように。     漫画の主人公ケンヂは、幼い頃の「ともだち」に、彼らの象徴である旗を、彼らの力で取り戻そうと呼び掛ける。たとえその旗が、世界を滅亡させようとする「トモダチ」の象徴物として使われていても、厳密にそれは彼らのものであり、彼らの未来への夢であった。     我々の暮らしを破壊し、夢を押し倒すものを、我々の「敵」と見なす時、今の経済危機を作り出し、現在と未来の暮らしと夢を威嚇している「間違った経済システム」は、明らかに我々の「敵」である。しかしそれは、20世紀的な「トモダチ」とは違う。見えないし実在もしない。見えない「TOMODACHI」と何をもってどのように戦って、我々の暮らしと夢を守り、平凡な平和を取り戻せるのだろうか。見えない「TOMODACHI」と対決し、我々20世紀少年たちの旗を、一緒に取り戻してくれる真の「ともだち」は誰なのか。     漫画の中の「トモダチ」は、その存在が一貫してベールに包まれていた。漫画が終わる時点に至って、疎外感が作り出した「トモダチ」とは、主人公たちと幼い時に別れた「ともだち」であることが明らかとなる。疎外されていたと考えていた「トモダチ」は、主人公たちが自らの存在を記憶しており、「ともだち」として認めているという事実を確認して死を迎えた時、彼らは互いに許しあい和解する。   今の経済危機を打開するために先進国を中心に新しい金融システムを作り出そうとする動きが報道されている。新しい「トモダチ」はどのような姿であろうか。もしかしたらこれによって「TOMODACHI」は、我々「20世紀少年」たちと和解もできないまま死を迎えるかも知れない。いや、もしかすると「TOMODACHI」は、全く新しい姿に仮装して現れるかも知れない。私は、我々「20世紀少年」たちの真の「ともだち」とは、どのような姿をした誰なのか、それが知りたい。   ---------------------------- <禹 成勲(ウ・ソンフン)☆ Woo Seonghoon> 韓国成均館大学建築科を卒業後、2001年に日本へ留学、2007年東京大学で博士号を取得。現在、日本学術振興会外国人特別研究員。SGRA会員 ---------------------------  
  • 2008.10.31

    エッセイ166:宋 剛「国貿:現代中国の縮図」

    北京、否、中国でもっとも有名な大通りは長安街に他ならない。世界で名高い天安門広場はそのど真ん中に位置する。長安街にあり、天安門広場より約5キロ東にあるのがこのエッセイの舞台、中国国際貿易センターだ。   立地の優位性だけではない。「国貿」と略称されたこの地域は1990年に誕生したばかりであるが、高級オフィス、五つ星ホテル、トエッセイ166:宋 剛「国貿:現代中国の縮図」ップクラスのデパート、大型展示場の総合体で、歴史的背景を考えずに言ってみれば、まるで丸の内ビル、帝国ホテル、銀座和光、東京国際フォーラムを一つのエリアに網羅したようなものだ!しかも、敷地面積54万㎡。主建築の高さが330mの第三期建設は進行中だ。ちなみに、留学生活の6年間、筆者は東京国際フォーラムに行ってもam/pmにしか入ったことがなかった。   今回、筆者は正々堂々と「国貿」の展示場の前に立った。胸を張りながら、400メートルに及ぶ長蛇の列の横を通り、開場の30分前に中に入った。現在所属する大学が今年の北京国際留学フェアに参加して、「手伝え」と呼んでくれたからだ。「関係者」という肩書きはいかにも実用的である。下働きだとしても。   北京最大規模の海外留学の宣伝イベントには、日本も含め、30以上の国と地域から、600あまりの大学が出展し、2日間の入場者数は10万人を超えると予想された。去年は8万人だったという。    世界金融危機の最中なのに海外留学は人気があるのだろうか?そんな心配は「国貿」の入口が開いた瞬間に一掃された。30分前よりずっと膨らんだ長蛇が中に飛び込んだ。「200万元用意した、大学四年間で足りる?」「ドル安だから、学費が割引になってるみたい!」「一人息子だから、いくらでも払う!」金融危機はここですっかり姿を消した、というか、中国の「神武景気」が来た印象さえ受けた。    用意したすべてのパンフレットは一日でなくなってしまった。仕事を終えて、せっかくだからトップクラスのデパートにでも行ってみようかと思った。    「国貿」の展示場とデパートは同じ構内にあるが、出入口は別である。GUCCIとCHANELの専門店に挟まれたデパートの入口から入ると、海外留学の経験者であり、下働きながらも「関係者」という誇りは微塵も残らなかった。日本でも入ったことのなかったブランド品専門店がここで顔を揃えている。名前を知らない店も多数ある。ショーウィンドーを通り過ぎるふりをして値札を覗き見したら、目玉が飛び出てしまい、しばらく元に戻らなかった。空が再び金融危機の影に覆われた。筆者一人の頭上の空だけだが。    「やっぱり北京だ、ものが多いな」「あっちにも行ってみよう」四川方言の濃い男女だ。地方の人もわざわざここへショックを受けに来たのか。都会育ちとしての自負心が湧いてきた。が、その手に持ったものをふと見ると、残されたわずかなプライドもどこかに吹っ飛んじゃった。Louis Vuittonのスーツケースとキャリーバッグだった。二人の後姿を満面の笑みで店外まで見送る店員がいた。    これ以上もう堪られない。いっそ帰ってしまうことにした。「国貿」の地下二階は地下鉄の駅だ。この駅を利用する出稼ぎ労働者がなぜか多いという。日が暮れる直前だが、照明はまだ灯されていない。幸い、上と下をつなぐ薄暗い通路は意外と短かった。    ホームに入ると、いきなりよどんだ空気に包まれ、鼻を刺激する臭いもした。そして農民のような格好をした三、四人が重たそうな大きな荷物を背負っている姿が目に入った。何週間も洗っていなさそうな髪の毛に、油のしみが付いている服。別の場所で待とうかと躊躇している間に、入口の方から騒ぎ声が聞こえてきた。ヘルメットを着用している人たちだ。どうやら「国貿」第三期の現場から仕事が引けた労働者らしい。「毎日白菜ばっかりだ」「女房がいたらなぁ」ホームは賑やかになった。  地下鉄の中で、筆者はこう思った。「国貿」はあたかも現代中国の縮図のようだ。外見は先進国を今にも凌駕しそうに立派になりつつある。中の人々も世界に目を向けようとしている。しかし、この繁栄を支えている人が全員その成果を享受しているとは限らない。そして、教育レベルにしても、社会的地位にしても、決定的なのはほかならぬ金となった。金があれば何でも出来るというほどでもない。けれども、金がなければ、知識があっても、身長があっても(筆者自身新たな誇り発見!)、微笑んでお辞儀をしてくれる人もいないし、将来子供に海外留学をさせることも出来ない。こうした思いで、人生の歯車を狂わせてしまった人はきっと少なくないだろう。    とにかく、地上と地下は紙一重だが、別世界である「国貿」は面白いところだ。   ----------------------------  <宋 剛 (そー・ごー)☆ Song Gang> 中国北京聯合大学日本語科を卒業後、2002年に日本へ留学、桜美林大学環太平洋地域文化専攻修士、現在桜美林大学環太平洋地域文化専攻博士課程在学中。中国瀋陽師範大学日本研究所客員研究員。10月より北京外国語大学日本語学部非常勤講師。SGRA会員。 ---------------------------   
  • 2008.10.28

    エッセイ165:キン・マウン・トウエ「時の流れと健康」

      「40歳になると、身体機能、生活環境、職場環境などの影響によって、人間の視覚知識や視覚機能が低下する」・・・視覚工学研究や眼工学研究をしていた大学院時代に、論文や研究発表などの「概要」で良く使われていた表現でした。しかし、当時の私は、視力もよく、視覚知識が低下は自分で体験できないことでした。コンピューターシミュレーションによる実験で、本当の基礎データ-から求められた視覚機能低下者の画像結果を計算した時も、理論から考えて「このように見えるのだろう」と考えながら、研究を行っていました。    その頃、40歳を過ぎた方々から良く聞いたのが、「20代や30代の頃と比べると、体の調子が悪い。体のあちこちが痛い。生活環境を改善しなくては...」と言うことでした。留学時代は、徹夜をして2~3日続けて実験することもよくありましたし、研究室の方々や友達と一緒に無理なお酒を飲むこともありました。しかも、このように無理な生活をしていても、楽しく研究を行い、健康に暮らしていました。    ミャンマーに帰国後も、30代の後半までは、日本留学時代と変わらずに、職場でも自分がしたいことがあれば、昼夜関係無く、無理なこともよくしました。「健康」よりも「自分の目標」が大事で、体調は気に掛けずに、「私は大丈夫です。いくら無理しても、健康ですから」とよく言いました。    時の流れによって、私も昨年40歳になりました。まず、自分の視覚能力が低下してきたことを感じ、とってもショックを受けました。つまり、老眼が始まりました。40年間使用した眼の水晶体(レンズ)の働きが低下したということです。細かい作業をするときや、小さな字の本を読むときに、良く見えない。また、乱視にもなってしまい、雨の日の夜に車を運転する時は、見にくいので大変です。かつて私がシミュレー ションをしていた視力低下者の「見え方」を、自分で体験することができたわけです。そして、時の流れによる「年齢」を感じ、「健康の大切さ」について気づいています。      最近、また大きなショックを受けました。高血圧になり始めています。私の父が高血圧、母親が糖尿です。父も40代の時に高血圧の診断を受け、76歳の現在まで、生活環境にとても注意しながら血圧レベルを管理しています。母親も40代に糖尿病になり、62歳で糖尿病と関連する疾病が原因で亡くなりました。次兄も糖尿病を患っているし、姉も高血圧です。こんな家族の情況ですから、私も30代後半から食生活に大変注意してきました。    しかし、先月、風邪をひいて体調が悪いのに無理した時、眼の前が真っ暗になって、地球が回転して、その後何もわからなくなり、気づいた時は、病院のベッドの上でした。血圧が非常に上がった状態になっていたそうです。しばらく入院させられ、健康管理を行いました。検査の結果は、高血圧になり始めたけれども、その他の病気はまだ発生していない状態とのことです。今後、食生活の管理と運動によって血圧のレベルをコントロールしなければなりません。今まで健康な体でしたが、時の流れによって健康問題が発生してきました。    退院後、大きな問題はありませんが、コンピューターの前の仕事に影響が出ています。今まで、コンピューターの前に座って仕事するのは、何時間でも全く問題なかったのですが、退院後2~3週間ぐらいは、短いメールを書くのが精一杯でした。このエッセイも、締め切りに大変遅れて、申し訳ございません。今は、とっても健康でバリバリ仕事をしています。    一方、時が流れてよくなることもあります。5月のサイクロンによって甚大な被害を受けた地域は、かなり回復してきました。皆様の御支援を受けて支援活動を行った村も、寄贈したトラクターを使用して米を栽培し、まもなく村の人々の喜び季節がやってきます。今回は雨季の米の栽培でしたが、乾季栽培にも、寄贈したトラクターを利用する予定で、配置や分担などの準備が進んでいます。    時の流れによってよくなってきたこともあり、悪くなってきたこともあります。石や鉄でさえも、さまざまな要因によって、時が流れて無くなることもあります。我々人間の場合、健康を大事にすることが、自分の目標を達成するために、とっても重要なのだ感じています。    今回のエッセイは、私の体験に基づいて、皆様の健康管理の参考にしていただける内容を考えました。皆様のご健康をお祈り致します。   ---------------------------------------------  <キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe> ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。 ---------------------------------------------  
  • 2008.10.17

    エッセイ164:マックス・マキト「今こそ、時と場のあるヴィジョンを!」

      アメリカの株価が戦後最大規模で暴落し、世界の経済に多大な打撃を与えた。格差が深刻に拡がっていたために、米国の経済の回復はなかなか進まない。そのような時に、大地震などの自然災害に苦しんだ日本から、政府の命によって、二人の若き日本人が、混乱する時代に陥ったヨーロッパへ旅立つ。世の中が崩壊しつつあることには囚われず、確固たる使命感を抱いて、長期的なスパンで日本をいかに発展させるかという「時」と「場」のあるヴィジョンを探しに出る。    上述の場面は現在のことだと思われるかもしれない。しかし、時は1930年頃、若き二人は、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)の赤松要と外務省の鹿島守之助だ。世界大恐慌を招いたアメリカの株価暴落は1929年に発生し、米国経済は第2次大戦まで回復できなかったという。関東大地震直後の日本から、若き二人は、高いインフレに悩み、ヒットラーの人気が高まるドイツに派遣された。赤松は経済、鹿島は外交、それぞれの分野で、二人は、ドイツ滞在によって、日本が進んでいる長く暗いトンネルの先の光を、いかにして見抜くかという使命感で一杯だった。   あいにく、当時の殖民地ゲームに巻き込まれた日本では、彼らのヴィジョンは軍隊の道具として利用され、東アジアを戦争の海にした。東アジアでも世界でも戦争は決してあってはならないと、良き地球市民の誰でもが願っている。あの残酷な時代の経験が、これからの時代を考えていくのに生かされるのであれば、敢えてあの時代の良い思想を僕の研究に取り入れてみたいと思う。   赤松は、今でも盛んに利用されているドイツ学問の歴史重視の方法論を、日本の産業構造の分析に適用し、いわゆる雁行形態型発展を提唱した。鹿島は、当時の外務省では誰も関心を示さず、やがてナチスドイツで禁じられることになるパン・ヨーロッパの運動に大きく影響され、パン・アジアを提唱した。後に、その建設のために外交官の仕事を辞めて政治家を目指す。赤松は歴史観、つまり「時」のある経済政策を作り出した。一方、鹿島はアジアという地理的概念、つまり「場」の重要さを訴えた。   残念ながら、どちらの思想も帝国軍に利用され、あの大東亜共栄圏の戦争を正当化した。しかし、1985年に韓国で開かれた太平洋経済協力会議において、日本委員会の大来佐武郎委員長は、東アジアで進んでいる国際経済分業を説明するために、雁行形態発展論を取り上げたが、問題なく受け入れられている。また、1997年のアジア通貨危機以後、EUの誕生を受けて、東アジアにもASEANを超える地域統合の可能性が模索され始めている。    冒頭で描かれたような場面は今でも起こっていると気づかれたと思うが、僕が強調したいのは、最近の世の中の出来事は、大きな戦争に発展する可能性ということではない。それより、ある意味で、赤松と鹿島は、彼らからみれば植民地という、ひとつの時代或いは世界秩序の終焉を感じたのではないかということである。   現在、1980年代に社会主義という大規模な社会実験が失敗で終わったように、この21世紀の境目で発生した世界金融危機(1997年にタイ、2007年にアメリカから勃発)が示唆するように、資本主義という大規模な社会実験と、それを理論づけた新古典派経済学(市場万能主義)の失敗が到来したことを示しているではないかと思う。外交政策に関して専門外であるが、当時の赤松や鹿島のように、周りが崩壊しつつあるなかでも、長い目をもって国際秩序をみなければいけないと思う。   新古典派経済学では「時」と「場」に対する考察が十分でないことは、経済学者の中では指摘されていたが、社会主義に対する勝利に酩酊した状態であまり注目されなかった。新古典派経済学は「場」である市場の供給需要のバランス(均衡)と、その「時間」に伴う変化を確かに考慮しているが、古い均衡から新しい均衡への移転過程を無視し、経済活動の現場とそこにいる人々の顔がみえるような議論が行われていない。   僕が、この完全競争市場の最も良い例として、授業でよく使うのはウォール街である。マウスのワンクリックで、膨大な資金を、瞬間的に国境を越えて移動させる金融市場は、「時」と「場」に対する感覚が最も欠けている。金融業界が要らないと言っているのではない。あらゆる経済活動の中で、この業界が果たす役割は、これかも必要であろう。ただ、どこかがおかしい、という皆さんの認識が芽生えればいいと思う。   走りすぎたマネー・ゲームによる不安定性だけではない。1930年代の米国における格差は、戦争経済で持ち直された。しかし、1960年代からのジニ係数の上昇トレンドからみれば、依然として、広がっている傾向がある。このような格差は、極端な市場主義を受け入れている国々でも進行している。   社会主義でありながら資本主義だった日本でさえも格差が広がっている。それは、日本で1990年代から始まった、市場万能主義を唱えた経済学者・政治家の責任にほかない。最近の金融危機と関係している一例だけを言わせてもらえば、日本の金融業界が惨めな状態にあった1990年代には、現在アメリカ政府が提唱する「TOO BIG TO FAIL」という方針と違い、日本では「NO BANK IS TOO BIG TO FAIL」と主張する声が圧倒的に強かった。このように強調する経済学者・政治家にとっては、グローバル競争で死にそうな企業郡が存在するという古い均衡から、そのような企業群が淘汰されたという新しい均衡へ移転するのは、いたって簡単なプロセスであった。市場万能主義を一番強く押し付けているのは米国だと思うが、それでも、市場に任せきらずに、経済政策が必要なときがあると戦略的に認識している。   我が東アジアで、経済や政治の政策作成に関わる方々には、あらためて、「時」と「場」を取り入れるヴィジョンを作り出すようにお願いしたい。今こそ、一国も残さずに行きわたる、この地域の繁栄が必要とされている。そのヒントは赤松と鹿島が見出した「時」と「場」のあるヴィジョンに潜んでいると僕は思う。 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------
  • 2008.10.10

    エッセイ163:太田美行「在住外国人児童生徒への日本語指導及び教材開発について(その2)」

      都内の公立小・中学校では、日本語指導が必要な外国人児童生徒が入学すると、各自治体の教育委員会に「日本語指導員の要請」を行う。そして教育委員会が日本語指導員を派遣するのだが、学校に日本語指導が必要な子供が多ければ国際学級(外国人児童生徒のための特別教室で日本語指導やその他の補習事業が行われる)が開設されるが、前述のように5人以下のケースが大半であるため、個別に日本語指導員が派遣されることが多い。指導時間は各自治体によって違っており、一人当たり1回2時間で20時間の場合もあれば36時間(必要に応じて延長あり)など様々である。新宿区などの日本語指導が必要な子供が多い学校(新大久保にある小学校では外国籍あるいは「外国につながりを持つ子供」(日本人とのダブルや、先祖が外国籍の児童など)が9割近くを占める)では、しっかりした学校独自の指導プログラムや熱意ある先生が国際学級を受け持っているが、多くの学校ではまず「どうしよう」と担任の先生が悩むことから始まっていることが多い。以前、東京都教育委員会でも外国人児童生徒受け入れのための冊子(国別に生活指導の要点等をまとめたもの)を作ったが、担当者が変わってしまうと、そうしたものの存在が忘れられたりしてなかなか広まらないという問題がある。    フォーラムでは各自治体や学校での意欲的な取り組みが取り上げられ、学校ごとの取り組み(学科教育の教材、「やさしい日本語」で書かれた教科書、ポルトガル語を用いた指導手引きなど)を共有できるよう、資料センターやインターネットで公開している自治体が紹介されていた。こうしたフォーラムによって教師間、学校間での取り組みの共有化が図られると強く感じた。フォーラムでも発表されていたが、最近新聞などでも注目されている「やさしい日本語」は有効ではないかと思う。これは子供だけでなく、大人にも該当するもので「避難してください」を「逃げてください」等のわかりやすい言葉やひらがなに置き換えるものである。災害時の案内や自治体からのお知らせに使われているが、外国人児童生徒のための教科書として使う例として、「明日家庭の時間に調理実習をするので、エプロンと三角巾が必要です」を「あした、家庭があります。料理をします(ごはんをつくります)。エプロンと三角巾をつかいます。もってきてください」とわかりやすく言い換える。このようにやさしい言葉に置き換えられた教科書を用いて学科教育を進めていくことで、「日本語がわからないだけで学習能力はある子供」にも対応していくことができる。このような「やさしい日本語」やルビを振った教科書を作る取り組みが現在一部地域や大学で進められている。   しかし教育委員会や文部省の認識はかなり不足しているように見受けられる。なぜならこうしたフォーラムに参加していない「一般の教師」たちがこのような便利なサイト情報や教材の情報を何も知らないからである。教育委員会が各学校に対して積極的に情報を提供しなければ何も実を結ばない。そもそも(一部地域を除いた)教育委員会自体にこの問題への認識がないのではないかとすら思ってしまうことも多い。これは外国籍人口が高い東京でも同様だ。さらに日本語指導員の待遇が悪いことも指摘され「このままでは裾野が広がらないし、そもそも日本語指導をやる人がいなくなってしまう」との危機感すら叫ばれ、会場内から大きな拍手をもらっていた。一人の熱意に頼るところが大きい割りに、正規の教師と異なり、低賃金で雇用が安定せず(数ヶ月の短期契約など)、正直なところ本業にするには「食べていけない商売」なのである。そのためか安定した経済的背景をもつ主婦がこの職に多いことも事実だ。今の時代、例えば月収27万円が派遣社員として働いて得られるのに、こうしたフォーラムに出席する教師や日本語指導員たちは、教育に対する熱意や使命感だけで続けている。    もっとも実際に現場の教師たちが何とかしたいと思っていても、日本語教育や学科教育に対する知識や時間がなかったりすることも多い。教師たちも日常業務で手一杯な状況の中、やむをえず一部の教師やボランティアの熱意にのみ頼っているように思えることも多々あった。ある教師が外国の教科書を山と積んだ写真を見せて「これは私一人で集めたものです。一人でもこれだけ集められるのに、どうして国や自治体が努力しないのでしょうか。いつまでも個人の努力に頼り放しの現状には限界があるのです」と訴えていたのは印象的であった。ちなみにこの教師は自分が勤務する自治体が「国際都市」を標榜していることに大きな皮肉を感じていると言う。    ある国際学級の先生に「日本語が全くわからない子供が日本語の教科書を習得するのに平均してどれくらいの年数がかかりますか」と聞いたことがある。「差はあるけれど大体5年程度」との答えをもらった。このフォーラムとほぼ同時期に行われた厚生労働省の「インドネシア人看護士・介護士雇用に関する説明会」では日本語能力検定2級程度の人材の雇用を考えており、日本の看護士試験に合格しなければ彼らは帰国しなければならないことが説明された。ちなみに日本語指導をする期間は「6ヶ月」とのことだった。   --------------------------------------- <太田美行☆おおた・みゆき> 東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。 ---------------------------------------  
  • 2008.10.07

    エッセイ162:太田美行「在住外国人児童生徒への日本語指導及び教材開発について(その1)」

      最近読んだ産経新聞の記事「残留孤児の2世・3世がマフィア化 同胞からみかじめ料取り勢力拡大」(9月1日)が大きなショックだった。内容は「中国残留孤児(婦人)の子供たちである2世・3世が正規の在留資格を持ち、不正行為をしても強制送還されないため、中国人の店からみかじめ料をとっても、経営者が被害者を訴えない泣き寝入り状態だ」というものだ。   この記事をそのまま評価するわけにはいかない。というのも、この記事の書き方自体に問題があると思うからだ。産経の記者の視点が、中国残留孤児(婦人)の2世・3世を中国人と位置づけしているようなのが気にかかる。もちろん彼らは日本国籍を保持する日本人であるから、「強制送還」に該当しない。そして彼らの「同胞」は中国人なのか、日本人なのか。記事ではどうも中国人としているようだ。   しかしそうした問題はさておき、この記事がショックだったのは、かつて事件にもなった中国残留孤児2世・3世による暴走族のドラゴン(怒羅権)を思い出したからだ。ドラゴンに関しては、当時の日本の受け入れ態勢の不備、学校教育が行き届かない事によるドロップアウト等が原因の一つという指摘もある。日本に着いたばかりの子供に日本での生活の第一歩を導くはずの学校で、逆に大きなストレスと挫折感を味わってしまうことが原因とは皮肉ではないだろうか。それから何年か経ち、当時の暴走族が大人になってみかじめ料をとっているのか、また当時と今とでは状況がどのように変遷したのか等の記述が記事にはなかったが、もし2世・3世の子供たちが来日当初にスムーズに日本社会に馴染めていたら状況は大きく変わっていたと思う。    そうした意味で外国人児童生徒の日本語指導に関わったことがある私には、先の記事が胸の痛むものだったのだ。もし学校が子供たちの「日本に軟着陸する」手伝いの機能をある程度果たしていたら・・・と思う。もちろん頑張っていた先生たちも多いとは思う。現場の教師たちも何とかしようと努力はしているものの、外国人の子供を初めて指導するケースや、まず何から手をつけていいのかわからなかったり、あるいは教師自身が抱える仕事量の多さから子供たちに十分手が回らなかったりで、状況は厳しい。  しかし状況は少しずつでも明るくなってきている。そこで本エッセイでは、この夏、東京外国語大学で行われたフォーラム「在住外国人児童生徒のための教材開発から見える課題とその解決に向けて」を紹介したいと思う。大変活気あるフォーラムで、留学生、元留学生の皆さんの中にも、日本語指導のアルバイト経験者がいて面白いのではないかと思う。    日本語指導が必要な外国人児童生徒数は22,413人(平成18年9月現在)とされており、文部省の平成11年の調査開始時から最も多い。中でもポルトガル語を母語とする児童生徒が4割近くを占め、中国語及びスペイン語の3言語で全体の7割以上を占めるとの結果が出ている。また外国人児童生徒が「1人」の学校が2,591校(47.3パーセント)で約半数を占め、「5人未満」の在籍校が4,337校で79.2パーセント、一方「30人以上」の学校は85校と少数ではあるものの増加しており、「分散と集中の二極化の状況」にあるといわれている。(出典:文部科学省URL) こ  の分散と集中の二極化を意識したためかフォーラムでは、「ブラジル人コミュニティとの教育における連携」、「使ってください!領域別系統表-系統別に指導できるトゥカーノ算数教材を例に-」、「分散地域における教材開発を含む教育支援システム構築に向けて」、「集住地域における教材開発を含む教育支援システム構築に向けて」の4つの分科会に分かれて行われた。東京外国語大学ではブラジル人児童生徒のための学科指導用教材を開発しており、現在はフィリピン人児童生徒のための 学科指導用教材を開発している。 こ   皆さんは留学生、あるいは元留学生として大学や大学院での現状はご存知のことと思うが子供たちの日本語教育についてはどのようにお考えだろうか?まず指摘されるのが不就学児童生徒の問題だ。複数回答の質問による答えからは、「学校へ行くためのお金がないから」(15.6パーセント)が最も多く、次いで「日本語がわからないから」(12.6パーセント)「すぐに母国に帰るから」(10.4パーセント)と続いている。しかし、親が「すぐに母国に帰るから」と考えていても、様々な事情で日本での滞在期間が延びることも多く、「結果としての長期滞在」は健康保険加入などの問題などでもよく指摘されている。 こ  教師でもしばしば勘違いしてしまうのが「子供の頃から日本に住んでいれば、日本語を習得するのは簡単だ」という考えである。確かに子供はすぐに言語を習得することが多い。しかしそれは日常言語のことであり、学習言語はまた別の問題であることはあまり知られていない。フォーラムでは「『日本の学校教育は日本文化・日本語を前提にして成り立っている』という限界」が指摘された。教科書には日常会話では使われないような言葉が出てきたり、また長い文章や難しい構文からなる問題文で、日本語習得が十分でない子供たちが、(言語に頼る度合いが少ないといわれる算数でも)内容が理解できなかったりすることがある。  こ  最近の傾向として小学校1年生から日本の学校に入学する子供たちの増加が挙げられる。こうした子供たちは、日本語あるいは学科教育には問題がなくついていけると思われているが、日本の保育園や託児所を利用していない(地域によっては日本語を使わなくても生活できるコミュニティが既に形成されており、ブラジル人による託児所の利用も多い)、あるいは家庭内での会話に日本語が使用されていない等の理由で、学習についていける程度の語彙力がないことが指摘されている。実際に調査をすると、小学校1年生から日本の学校に入学した子供でも授業の内容についていけない子供たちがいることが紹介されている。こうしたことから日本語指導が単なる語学指導に留まらず、学科教育にまで至ることが多々ある。つまり日本語指導以外でもやることが山のようにあるということだ。私の知っているケースでは親が深夜も働いているため、子供の睡眠時間や生活が乱れて学校では寝ているだけとか、幼い兄弟の面倒を見るため勉強できない等の生活問題に学校が対応しなければならないことがかなりあった。 (つづく) こ  --------------------------- <太田美行☆おおた・みゆき> 1973年東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。 --------------------------- こ  (2008年10月7日) こ 
  • 2008.09.30

    エッセイ161:李 垠庚「韓流とともに歩む」

      私が高校生の頃、我が家ではいわゆる「スポーツ新聞」を購読していた。主にスポーツ関連記事や芸能界のゴシップで埋められたスポーツ新聞を、店や会社でもない一般家庭で購読することは、韓国でスポーツ新聞が創刊された直後の20年前はもちろん、今も滅多にない。そのためか、ポストからスポーツ新聞だけが狙われてなくなることも度々あった。友達との飲み会でも、私がその事実(スポーツ新聞購読)を明かすと、聞いていた皆が唖然として、「あなたの芸能界に関する雑学の源泉がようやくわかった」といわんばかりの顔をしていたのを覚えている。   それから相当の時間が経過した21世紀の日本・東京、私はある韓国語塾の「上級韓国語クラス」の映画を用いた授業を行なっていた。10人弱の日本人に対し、毎週末に、毎回約10分程度の分量のディクテーションを中心とし、セリフの表現について説明し、使い方の練習を行った。すでに韓国語をマスターしていた人々なので、韓国語という語学だけでは十分ではなく、時には俳優の裏話、映画の秘話、韓国の時事ニュースに関しての説明を加えた。韓国についてかなり詳しい彼らでも、さすがに20年近く前から情報を蓄積して来た私には及ばなかった。「先生。先生の専攻は何ですか。何であっても、その専攻より、韓国の芸能界に関する文章や講演のようなことをした方が売れるんじゃないでしょうか」。ある日、授業後の飲み会の中で、真剣な顔でそう言われたことは今でもはっきりと覚えている。   その2年後、平日の夕方に社会人が通う大学の生涯センターで「初級韓国語クラス」を教えることになった。前の上級クラスとは違って、日本語を使って韓国語のイロハから教えるクラスであった。ほとんどが韓国ドラマを見てファンになって韓国語を学びに来た人々なので、私の芸能情報はそこでも非常に歓迎された。一日の仕事と厳しい韓国語の勉強に疲れ、眠くなっている彼らの目を覚ますためには何よりだった。   どちらも韓国語を教えるという仕事は同じであるが、二つのクラスの雰囲気の違いは、最近の日韓文化交流が活発になることによる、日本における韓国関心者の性質の変化を象徴している。すなわち、韓国に関心をもって交流しようとする日本人層がどのように変わったのかを表わしているのだ。上級クラスの学生たちは、日本で韓国文化が流行る以前から、各自の様々な理由による関心から、韓国経験をしていた。彼らは、いわゆる典型的な日本人とは異なっていた。彼らは、悪びれもせず授業に遅れたり、授業中に食べ物や飲み物(しかもアルコール)を持ち込んだり、無遠慮な言い方で無理やり飲み会に誘った。悪意のない彼らの態度は、かえって韓国人気質に似ているものだった。実際に、彼らは韓国での生活体験を懐かしがり、辛い食べ物や、ジェット・コースターを連想させる韓国の市内バスを恋しがった。そのクラスの中では、「先生(すなわち私!)がもっとも日本人らしい」とよく言われた。   それに比べると、初級クラスの学生たちは相当異なっていた。彼らは、日本社会の中流階級の平凡なおばさんや、会社員、管理職を退職した年配の方々だった。韓国のドラマを通じて韓国文化に出会うまでは、韓国に接したことがほとんどなく、今も映像に映る韓国の荒っぽい生活と刺激的な食べ物に、好奇心と恐怖心を半々に抱いていた。長い間勉強から遠ざかっていた人々が、まったく新しい外国語に向き合うことは容易なことではない。日本人にとっては、どうしてもし難しい発音のために、筋肉に微かな痙攣を起しつつ必死に頑張る様子からは、私も感動と励みを感じた(ある人は、韓国語の一部の発音が、日本の女性にとっては一生したこともなく、抵抗感を感じさせる発音なので、どうしても素直に出来ないと言訳をしたが、真偽は確かではない)。彼らは、非常に丁寧で(個人差はあるものの)私に対しても絶対に無礼な言動をしなかった。また、日本人は必ず一つ以上の特技を持っていると言われる通り、茶道、生け花、三味線、私が聞いたことのない外国のダンスなど、必ず一つ以上の趣味を持っていた。韓国では想像さえ出来ないほどのちっちゃなプレゼントを照れずにいただくことに慣れたのもこのクラスのおかげであった(一言では説明できないが、日本と韓国のプレゼントの文化はかなり異なっている)。   上級クラスの学生の中では、韓国の光州民主化運動(1980)を見たことや、「在日」問題に関わることになったことがきっかけで、韓国に関心を持ちはじめたという「重い」動機から韓国と付き合うようになったケースが多かった。韓国旅行の計画をのぞいてみても、私でも行ったことのない歴史的な遺跡地と地方文化探索を試みるものだった。その反面、初級クラスからは、韓国芸能人の日本内活動やファンクラブの動向に関する情報を得ることができた。   この対照的な二つのクラスは、私個人の偶然な体験だけとは言い切れない。昔、日本で韓国に興味を抱いて学ぼうとした人々は大抵、日本社会に息苦しさを感じ、それとは対照的な韓国人気質や歴史に興味を抱き始めた人々、ある意味では「変わり者」やアウト・サイダーが多かった。ところが、最近、新たに現れた韓流ファンは、平凡な日常生活を送りながら、黙々と家庭と社会を支えてきた人々である。昔は、韓国語を教えるところが少なかったゆえに、韓国語を勉強しようとすれば、必ず(前述した塾をはじめ)いくつかの限られた場所にたどり着くようになっていたが、昨今では、韓国語を教えるところが「雨後の筍のように」出来たので、伝統あるところは「古臭い」と度外視されている。その結果、韓国に対する関心があまりにも軽く、興味本位へと傾いてしまうのではないか、と懸念する声もある。日韓交流におけるこのような変化の意義はともかく、私の在日期間中にこのような変化が起こり、自分のもっとも身近なところでそれを目の当たりにできたことを非常に意味深く感じている。   高校時代、夜遅く家に帰り、疲れを抱えて、間食を食べながらスポーツ新聞を読むことを一日の楽しみにしていたあの頃は、まさか21世紀、東京の片隅で、自分が日本人の前に立って、その新聞で得た情報をもとにして韓国の言葉と文化について教える日がくるとは想像すらしなかった。今でもたまに不思議な気持になる。そして今、21世紀初頭の日々を東京の隅っこで過ごしながら見聞きし、考えたことが、また想像も出来ない「何か」で実ることを期待する。   2001年、韓流のはじまりと共に始まった私の留学生活は、そのうねりとともに歩み、そのかげりが見え始める今、そろそろ終着地点が見えようとしている。偶然か必然かは、今後、開かれる道によって証明されるだろう。   -------------------------------------- <李垠庚(イ・ウンギョン)☆ Lee Eun Gyong> 韓国の全北全州生まれ。ソウル大学人文大学東洋史学科学士・修士。現東京大学総合文化研究科博士課程。関心・研究分野は、近代日本史・キリスト教史、キリシタン大名、女性キリスト者・ジャーナリスト・教育者など。現在は、韓国語講師を務めながら「羽仁もと子」に関する博論を執筆中 --------------------------------------   *このエッセイは、2007年度渥美国際交流奨学財団年報に投稿していただいたものを、筆者の許可を得て再掲載しました。   (2008年9月30日)