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エッセイ457:ボルジギン・フスレ「モスクワ、カザンへの旅(その2)」

モスクワ滞在中の9月16日午前、在ロシア日本大使館を表敬訪問した。今回の調査にあたって、井出敬二駐クロアチア日本大使、倉井高志駐ロシア日本公使にはたいへんお世話になった。2011年の調査の時にも、当時駐ロシア日本公使だった井出氏ご夫妻がいろいろと手配して下さった。ここに記して、感謝を申し上げたい。

 

16日の午後は、ロシア国立人文大学哲学部准教授のウズマノヴァ・ラリサさんにご案内いただき、ロシア国立軍事史文書館で資料を調査した。事前に連絡しておいたこともあり、また複数の紹介状もあったおかげか、意外にも質問もなく、閲覧証はすぐ発行された。これと比べると、国立ロシア連邦文書館、ロシア国立社会政治史文書館での調査はたいへんだった。ロシア国立社会政治史文書館のある男性の職員は毎日、机をたたいたり、叫んだりして怒っていた。よほどストレスがたまっていたのか、われわれ調査にきた者に対してだけではなく、文書館のほかの職員に対しても毎日怒っていた。しかし、相手がいくら怒っても、私は毎日、あきらめず、しつこく、調査しつづけた。実は、3年前の同文書館での調査でも、この職員に怒られていた。また、ある日、ロシア国立社会政治史文書館の職員と話が通じなかった時、そこで資料調査をしていた東京外国語大学図書館長の栗原浩英氏が助けて下さった。このように、今回の調査では多くの方々からご協力いただいた。

 

後日、K先生に言われた。「文書館の職員、いいや、それだけじゃない。おそらく文書館を利用しているすべての人は、フスレのことを知っているだろう。ロシア語はあまりできないくせに、毎日朝一番早くやって来て、閉館まで、一生懸命、ロシア語の資料を調べている。そして、一番貴重な資料を手に入れた。本当に不思議だ」。実は、調査の途中から、K先生は体調不良で、文書館に行けなくなった。その間に、私は重要な史料をみつけて、文書館の許す範囲で、500ページほどコピーした。

 

K先生はいつも早寝早起きで、モスクワについてからも(世界のどこに行っても同じだと思うが)、同じであった。ある夜、私は遅くまで調査した資料のメモなどを整理してから布団に入った。その時、隣の部屋で寝ているK先生が恐ろしい大声で叫んでいるのが聞こえた。慌てて起きて、K先生の部屋に入った。K先生は部屋の鍵もかけずに寝ていたようである。私が部屋に入ったところ、K先生はすでに起きて、ベッドに座っていた。「どうしたんですか」と聞いたら、「悪い夢をみた」と。「どんな夢だったんですか」と聞いたら、「知らない3人の女がやってきて、怖かった」と答えた。「本当に来たんですか」と冗談で聞いた。「来るわけはないでしょう。まあ。怖かった」と。その後、K先生に少しワインを飲ませて、寝かせた。私は自分の部屋に戻って寝ようとしたが、今度は、自分がなかなか眠れなくなった。仕方がなく、起きあがって、我慢できず、K先生の友人にメールを送って、先生の悪い夢の話をした。先生の友人からきたのは、「女難の夢を見たんですね。おかしいですね。まったくK先生らしくないね」という返事だった。

 

9月19日の夕方、日本センター長の浜野道博氏が、私たちのホテルを訪れ、食事に招待してくださった。浜野氏はロシア語が堪能で、豊かな知識をもって、国際関係やロシア文化、そして日本の対ロ政策などについて、K先生と話し合った。2人の間では、意気投合のところもあれば、はげしく論争したところもあった。

 

その日の夜、私とK先生は夜行列車でタタルスタン共和国の首都カザンに行った。カザンはかつて東西貿易の中継地点であって、今はイスラム文化とロシア文化を中心として、多文化が共存する街である。一等車だったので、ビールは無料で提供されたが、お茶とコーヒーは有料であった。中年の女性の乗務員は熱心で、お茶とコーヒーを飲んでいる私たちに、「どうですか?美味しいですか?」と聞き、「美味しいよ」と返事したら、「それはもちろんよ。私が心をこめて作ったのだから」とにこにこしながら、満足そうに言った。

 

カザンに着いたら、荷物をホテルにあずけて、すぐにカザン連邦大学(カザン大学)を訪問した。カザン連邦大学は歴史と伝統を誇る名門大学で、レーニンやトルストイ、ロバチェフスキー等は同大学の出身であり、モンゴル研究の発生地の一つでもある。昼には、私たちは同大学の国際関係・歴史・東洋学部の教員と会談し、午後には日本語コースの学生に会って話し合った。夕方はタタルスタン科学アカデミー歴史研究所を訪問した。

 

翌日、歴史研究所長が私たちにカザンの歴史や宗教、文化などについて話してくれたうえに、街の案内もしてくれた。カザン連邦大学国際関係・歴史・東洋学部の女子学生ポリーナさんとディーナさんも同行した。2人の日本語のレベルは非常に高い。私たちはモンゴル帝国のジョチ・ウルス時代から、カザン・ハーン国、日本人抑留、今日の交流までについて話しがつきなかった。K先生の話は、最初は学問的であったが、途中から下ネタを連発し始めた。その行動と話に驚いた学生の一人が私に「K先生は本当に日本人ですか」とひそかに聞いたほどであった。「正真正銘の日本人だよ」と答えた。

 

カザンからモスクワに戻って、パヴェレツカヤ駅とトレチャコフスカヤ駅の間に位置する、昨年オープンしたばかりのホテルに泊まった。さすがに新築のホテルで設備がよい。また、ロシア国立軍事文書館に地下鉄で1本で行けるし、ロシア国立社会政治史文書館に行くのもわずか2駅であり、調査には非常に便利で助かった。

 

日本に戻る前日の夜、浜野氏が私たちに東洋エンジニアリング社モスクワ事務所長の宮崎哲二氏と菅原アソシエーツ社代表の菅原信夫氏を紹介してくれた。宮崎氏は埼玉大学の出身で、菅原氏は東京外国語大学ロシア語科の出身である。宮崎氏等はK先生と私、ラリサさんを食事に招待してくれたが、宴会開始直前に、昭和女子大学のもう一人の教員とモンゴル科学アカデミー歴史研究所長がサンクトベテルブルクから駆け込んできた。みんなで食事をしながら、日露関係やウクライナ危機等について話し合った。

 

特別な国際関係・社会状況の中、日本はロシアに対して独自な政策をとるべきだと、私は考えている。ロシアは、日本がかつて深い関心をもった地域であった。しかし、戦後、北方領土問題があるものの、日本人のロシアに対する関心が次第に薄れてきたことを、残念に思う。NHKにロシア語を教えるテレビ番組がある。放送時間は木曜日の深夜1時からの25分程度で、再放送は金曜日早朝の5時半からの25分間である。こんな時間にロシア語を勉強するのは、どんな人たちなのかを知りたい。

 

ウクライナ危機をきっかけに、日露関係は冷やかになったが、こういう時だからこそ、日本がイニシアティブをとって、両国の関係を打開すべきではないかと思う。

 

エッセイ456:ボルジギン・フスレ「モスクワ、カザンへの旅(その1)」

 

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<ボルジギン・フスレ Borjigin Husel>

昭和女子大学人間文化学部国際学科准教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。昭和女子大学非常勤講師、東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員をへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編『ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年――2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2010年)、『内モンゴル西部地域民間土地・寺院関係資料集』(風響社、2011年)、『20世紀におけるモンゴル諸族の歴史と文化――2011年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2012年)、『ハルハ河・ノモンハン戦争と国際関係』(三元社、2013年)他。

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2015年4月23日配信