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エッセイ175:洪 玧伸 「アジアに一つしかない碑―宮古島の<慰安婦>のための碑建立までを中心にー(その3)」

結びに代えて: 証言者、その「記憶」に出会った人々の「アリラン」の歌

 

アジア太平洋戦争期には日本軍の基地が存在し、米軍占領期間には米軍の通信施設があり、今は自衛隊の通信施設がある宮古島の野原岳に、2008年9月、日本軍「慰安婦」のための碑が建てられた。 碑の除幕式に2年間の調査過程で証言をしてくれた多くの証言者が駆けつけてくれたが、そのうち、歌を歌いたいと3人の女性たちが名乗り出た。子どもの頃、自分を可愛がってくれた朝鮮の女性たち、当時は苦しい思いをしていたことは知らないで「アリラン」の歌を教えてもらったが、今度は宮古島の歌を「慰安婦」の方に捧げたいと。

 

当日の会場は、歌を歌いたいと駆けつけてくれたおばあさんたち、証言調査に参加してくれた地元の方々で朝からたくさんの人々で賑わった。ところが、歌どころではなかった。なんと除幕式当日なのにまだ碑は完成されていなかったのである。石材屋さんは、まだプレートを岩にはめこんでいなかった。そして、「こうすればもっと綺麗ではないか」などと話し合っているのである。私も日本から来ていた人々も、それにはびっくり。「もう、これ以上綺麗ではなくてもよいですから、早く、早く進めてください!」叫ぶかのように声をかけたが、相変わらず「慎重」で「ゆっくり」。我慢できなくなった私や実行委員会のメンバーは、会場を掃除し、花飾りなどを必死で運んだ。すると、宮古島の人々は、「除幕式は1時だから間に合うよ。洪さんは力もちだね。花は重いよ。ゆっくりね、間に合うからさ」と笑って話しているではないか。泣きそうな気持ちだったが、除幕式の10分前にようやく碑が完成。それが宮古タイムだった。

 

幕がようやく掛けられると、この日のために「アリラン」を初めて学び練習したという宮古高校吹奏学部の高校生たちが、ゆっくり「アリラン」を演奏してくれた。賑やかだった空間が静かなメロディーに包まれ、完成したばかりの碑にかけたばかりの幕を、除幕した。高校生たちの「アリラン」の歌を聞いていると、安心したせいか、いつのまにか自然と涙が流れてきた。振り返ってみると、一緒に宮古島に来た韓国や日本からの参加者はもちろん、先ほどまでせいいっぱい碑のプレートをはめこんでいた石材屋さんまでもが泣いていた。皆が一つになって泣いていた。このように一つの心になれるということに驚いた。

 

次は、宮古島の方々から元「慰安婦」の被害者に花束贈呈があったが、元「慰安婦」朴順姫さん(パク・スンヒ)は、その花束を、自分たちを覚えてくれた与那覇さんに渡した。それから先日、歌を「慰安婦」の方に捧げたいと駆けつけてくれた3人のおばあさんたちが宮古島の方言で歌を歌った。その場に集まった地域住民たちによって、静かな合唱として響いていった。

 

朴さんは家族に迷惑になるのをおそれ、証言を避けてきた女性である。自分を歓迎してくれる島の人々、かつてこの島にいた「慰安婦」を忘れない人々の暖かい気持ちに囲まれ、碑を手で触り、亡くなった人々が「安らかに眠ってほしい」と短い一言を残した。そして、今の感動は、言葉にはできないと、突然、「アリラン」の歌を始めた。碑の完成もはらはらしながら見届けていた私たちは、除幕式の打ち合わせもできず式に挑んでいた。朴さんの「アリラン」は予測もつかなかったことだった。その歌声は、涙でところどころ躓いたのだが、歌声に合わせて宮古島の高校生たちがそのメロディーを演奏してくれた。通訳者であった私も、彼女の途切れた「アリラン」の声には涙を我慢することができず、マイクを持ったまま泣いてしまった。涙で歌を歌う「慰安婦」の声が通訳者にも聞こえなくなっていくと、いつのまにか会場の皆が、合唱してくれた。その歌にあわせ、元「慰安婦」の方々の多くが好んだ「キキョウ」の花を参加者の皆が碑の周りに植えた。そしてすべての式が終わると、朴ハルモニが20名あまりの高校生たちを一人一人、ありがとうと抱いていた。式が始まった時から終わるまでの2時間、皆がともにうたい、ともに泣いた「アリラン」の歌のある空間。それが、2008年9月7日の除幕式の出来事である。

 

かつて「慰安婦」と呼ばれ差別されてきた被害者の女性、それを「見た人々」そして、その「見た人々の記憶を聞く人々」が共に歌う「アリラン」が、私にとっては、今も生き続けている主体の声として、お互いの痛みを「共感」してこそ現れる具体的な歴史、文字や形には刻み切れない、しかし、はっきりとした身体に刻み込まれた、一人一人の歴史そのものとして聞こえてきた。

 

そして、この一人一人の小さい歴史は、琉球新報や沖縄タイムスのような沖縄の地元新聞はもちろん、朝日新聞、東京新聞により東京に、共同通信の発信により様々な地方新聞やJAPAN TIMESにも報道された。韓国にも6社の新聞社により世間に知られ、KBSによる取材も行われた。しかし、除幕式が終わった今、もっともうれしいのは、あの宮古タイムである。除幕後も、さらなる作業が進み、碑の建立後の建立が始まった。碑の周りに植えた「キキョウ」の花に毎日水をあげ、掃除をする住民も出てきた。南の小さい島、ここは、日本の「民族の聖地」ではない。しかし、そこから発信する人々の歌声のようなメッセジーは確実に、「民族」を掲げ、戦争を生き抜いた人々が、経験したからこそ戦争に反対する心を伝える場所である。それは、「慰安婦」を記憶することで始まったが、「反日」ではない。それは、真の平和を求める人々の思いそのものである。私は、この小さい島での出来事が、日韓の反目の歴史を人権の観点から乗り越え、人々の心を結んだら小さな、しかし、確実な第一歩であると信じている。

 

除幕式の写真をここからご覧ください。

 

このエッセイの前半2編は下記よりご覧いただけます。

 

「アジアに一つしかない碑―宮古島の<慰安婦>のための碑建立までを中心にー(その1)」

 

「アジアに一つしかない碑―宮古島の<慰安婦>のための碑建立までを中心にー(その2)」

 

洪さんが2008年4月に投稿してくださったエッセイ:

「思いを形にすることについて~宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に係わりながら~」

 

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<洪ユン伸(ホン・ユンシン)☆ Hong Yun Shin>

韓国ソウル生まれ。韓国の中央大学学士、早稲田大学修士卒業後、早稲田大学アジア太平洋研究科博士課程在学中。学士から博士課程までの専攻は、一貫して「政治学・国際関係学」。関心分野は、政治思想。哲学。安全保障学。フェミニズム批評理論など。現在、「占領とナショナリズムの相互関係―沖縄戦における朝鮮人と住民の関係性を中心に」をテーマに博士論文を執筆中。SGRA会員。

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