SGRAかわらばん

エッセイ174:洪 玧伸 「アジアに一つしかない碑―宮古島の<慰安婦>のための碑建立までを中心にー(その2)」

日本軍「慰安婦」の碑を建てるまで

 

沖縄戦における朝鮮人と住民の関係性について調査を進めてきた筆者は、『平良市史』をはじめとする住民の戦争体験の中で語られている「慰安婦」についての証言を参考にしながら、1992年に沖縄の女性史グループがまとめたのべ130ヶ所の慰安所の中、宮古島にあったとされる11ヶ所の「慰安所」を手掛かりに、再調査を実施した。そして、野原の「慰安所」について語る証言者、与那覇博敏氏(1933年生)に出会った。

 

与那覇氏は少年時代に家の近くに「慰安所」があり、朝鮮人の女性たちがやや離れたところにある井戸まで洗濯しに行き来していたことを記憶していた。彼女たちはよく井戸からの帰りに道端にある木の下で腰をおろして休んでいたという。当時まだ小学生だった与那覇氏は、色白で綺麗な女性たちだったと思って彼女たちに唐辛子をあげたりして喜ばせたという。しかし、戦後、彼女たちが何故宮古島にいたのかを知り、木の下で休んでいた彼女たちの何処か寂しげな姿が、どうしても忘れられなかった。いまや木もなくかつての「慰安所」もない原野になっているその場所に、与那覇氏は岩を置いた。そしてそこに日本軍「慰安婦」のための碑を建てることを望んでいた。私は与那覇氏のことや宮古島の状況を、韓国の梨花大学の名誉教授である尹貞玉先生に伝えた。こうして、日韓の研究者による共同調査団が結成された。

 

調査は2007年5月に実施され、その後の追加調査などを含め3回行われた。筆者の個人調査を含めると同じ証言者を5回以上訪問した場合もある。これらの調査過程で、与那覇氏を始めとする住民の「記憶」に出会った調査団のメンバーを中心に、何の組織も持たないままの募金活動が始まった。

 

そして、2008年9月、日本軍「慰安婦」のための碑が宮古島に建立された。日本軍「慰安婦」のための碑は、与那覇氏の記憶を留めた「アリランの碑」と、「アリランの碑」の後方に3つの石碑を立て「女たちへ」(韓国語では「平和を愛する人々へ」)という題で、アジア太平洋戦争期に慰安婦とされた女性たちの出身地の11の言語と、今も続く戦時性暴力の象徴として、ベトナム戦時に韓国軍による被害を受けたベトナム女性たちのためにベトナム語を加え、12の言語で追悼の碑文を刻んだものである。沖縄の小さい島、宮古島に、韓国にも、そして他のアジアの被害国にも存在しない碑が建った。それは、「慰安婦」の被害者の問題を、日韓関係の問題として限定してはいない。今現在も続く「武器紛争下の女性への暴力」に抗するために、だからこそ、記憶すべき「現在進行形」の問題として訴える碑である。

 

そもそも「慰安婦」問題は、はじめて実名で被害を名乗った1991年金学順さん(キム・ハクスン)の「記憶」によって始まった。実名で「慰安婦」であった事実を訴えるのに、半世紀近くの時間がかかった。金学順さんが、自分の身に起きた傷跡を、あえて、公にしたその悲しみは、「謝罪」と「賠償」を言う前に、むしろ、「自分の存在についての肯定」つまり、共に生きた人々、そして今共に生きる人々への「共感」をまずもって願っていたのではなかろうか。私は、いわゆる「民族の聖地」である「西大門独立公園」に、慰安婦のための祈念碑建立に強く反対している独立運動家の末裔たちの動きを見ながら、それを、もう一度考えざるを得ない。 (続く)

 

○ 洪さんが2008年4月に投稿してくださったエッセイ:

「思いを形にすることについて~宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に係わりながら~」

 

○ このエッセイの前半:

「アジアに一つしかない碑―宮古島の<慰安婦>のための碑建立までを中心にー(その1)」

 

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<洪玧伸(ホン・ユンシン)☆ Hong Yun Shin>

韓国ソウル生まれ。韓国の中央大学学士、早稲田大学修士卒業後、早稲田大学アジア太平洋研究科博士課程在学中。学士から博士課程までの専攻は、一貫して「政治学・国際関係学」。関心分野は、政治思想。哲学。安全保障学。フェミニズム批評理論など。現在、「占領とナショナリズムの相互関係―沖縄戦における朝鮮人と住民の関係性を中心に」をテーマに博士論文を執筆中。SGRA会員。

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(2008年12月5日SGRAかわらばんで配信)