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エッセイ155:孫 軍悦「山裏人(その2)」

1985年より、安徽省南の山間部に点在している八十箇所の企業や公共施設が廃業し、二万人以上の上海人が帰郷の途についた。

 

1960年代、三人の子どもが次々と上海を離れた後、祖母は家を売り払い、南京の伯父と同居することにした。そのため、母は「上海に帰る」とは言っているが、実際帰るところはなかった。母は時々、もし祖母が上海を離れなかったらと悔しそうに言う。私にはそれがかえってよかった。当時、上海では人口が密集し、住居が著しく不足していた。地方で長年苦労したとはいえども、引き揚げてきた兄弟を誰もが快く受け入れたわけではなかった。法廷にもつれ込んだ骨肉の争いも決して珍しいことではなかった。母と違い、私は「血のつながり」に対して、いかなる本質主義的な幻想を抱かなかった。

 

もっとも、上海に戻ることは、決して「上海人」に戻ることではない。「上海人」は安徽省の山奥にいるときにだけ「上海人」であったが、一旦上海に戻り、別々の会社に分かれていくと、こんどは安徽省での生活経験を共有する「山裏人」という新たなアイデンティティが形成されるのである。さらに、別々の工場から引き揚げてきた「山裏人」が同じ会社に入り、同じ郊外の農家に間借りし、やがて同じマンションに入居したため、その輪がますます広がったのだ。

 

「山裏人」は想像の共同体ではない。彼らはそのつながりをフルに利用し、「故郷」での決して楽ではない新生活を切り開いていった。たとえば、洗剤や紙といった日用品は洗剤会社や製紙会社に勤めている「山裏人」からもらい、自転車やカメラといった当時の人気商品は、自転車会社、カメラ会社のかつての同僚に、安く購入できるよう便宜を図ってもらう。時計が壊れたら、時計会社に配属された「山裏人」の友人に届ければ、無料で修理してくれる。引っ越す時に、「山裏人」のドライバーさんに電話すれば、かならず手伝ってくれる。誕生会や、定年、還暦、子どもの結婚式、初孫の満月祝いまで、人生のあらゆる重要な場面において、彼らはともに喜怒哀楽を分かち合っていた。親戚すら一目置く存在である。

 

かといって、「山裏人」は決して新しい環境に疎外感を覚える外来者の集団ではない。むしろ新しい同僚や友人関係に自然に溶け込めるのがその特徴である。というのは、彼らを結び付けるのは、郷愁でも利権でもない。ただ単に、同じ境遇であったという理由から生まれた一種の親近感と義侠心、それに、助け合いながら生きるという習慣にほかならない。だから、彼らに団結、友愛、無私といった徳目を押し付け、道徳的にもちあげるのは筋違いだろう。ただ、年を重ねるとともに、その利己心は生きることへの執念のように映り、多少の「不正行為」も一種の柔軟性と受け取れなくもないと、私も思うようになった。

 

母が上海に戻った最大の理由は、よい教育環境で子どもたちを育てたいからだ。ただ、親にとっての「よい教育環境」と子どもにとっての「よい教育環境」とは必ずしも一致するとは限らない。

 

初めて上海に来た時、すでに上海の中学校に通っていた兄は自分の小遣いでアイスキャンディを買ってくれた。田舎ではアイスキャンディは紙で包むため、その密封したビニール袋をどう開ければよいかと戸惑っている私の顔を見て、兄は得意げに封を切って見せた。彼にとって、そのビニール袋はまさに都市文明の象徴であったのだろう。学校の寄宿舎に泊まっていた兄は、週末になると、ふらりと街に出る。同級生はみな家に帰るが、彼だけは、一人で映画を見たり、ラーメンを食べたりして、またふらりと校舎に戻る。上海は兄にとって、優しく包んでくれた空気のような存在である。彼はこの街に深い感情を抱いている。飲み水がまずいとか、青空が見えないとか、街路樹の葉に黒い煤煙が覆われているとか、いちいち目くじらを立てる私とは対照的であった。二人の心に、異なる原風景が描かれている。

 

河北、安徽、南京、上海と四つの小学校を転々としていた私は、常によそ者だった。よそ者として来て、またよそ者として去る。しかも、どういう経緯でやって来たのかも、うまく説明できない。子どもなのに、話そうとすると長くなってしまう。特別ではないけれども、理解してもらうには複雑すぎる。自分が何者であるかを説明するために、母の人生を理解しなければならない。母の人生を理解するためには、国家の歴史を知らなければならない。そう思うようになったのはつい最近のことである。

 

「三線建設」は、1960年代初、アメリカ、旧ソ連との緊張関係の中で、戦争に備えるために西南、西北、中央の山間部で始めた大規模な工業、交通、国防建設を指す。1980年まで、2千億元以上の資金と、数百万の人員が投入され、1100以上の企業や関連施設が建造された。80年代に入ると、多くの軍需企業が民需企業に変わり、近辺の中小都市に移転した。現在、沿海都市から「三線」に移ってきた人々の中で、もとの居住地に戻った人と、地元に残った人との間に、生活水準に歴然とした差がある。「三線建設」の成果に関して、農民から多くの農地を奪い、巨大な物資と人力を浪費したと指摘し、「間違った時に間違った場所で行われた間違った建設」だと批判する人もいれば、いくつもの重要な工業都市が形成され、東西経済発展の格差を是正したと、評価する人もいる。

 

 上海地方誌弁公室は、1966年から、安徽省績渓県績北道路沿線に建設された、上海軽工業局管轄下の「三線企業」を次のように取り上げている――1971年に生産を始めてから1983年まで、57ミリの砲弾402.8万発を製造。1978年に民需品の生産に切り替えてから、扇風機25.98万台、置時計61.59万個、腕時計の部品15万個、自転車のチェーン225万本、石炭コンベヤ82台等を製造。総生産額5.09億元。

 

偶然にも四川大地震の際に、日本の報道番組で珍しく「三線建設」という言葉を耳にした。なぜすぐに日本の救援隊を受け入れないかと追及された解説委員は、四川省にかつて「参戦建設」が行われていたため、いまだに軍事関連施設が多く残されているからではないかと分析した。

 

政党、政権、政策を中心とする歴史叙述は、所詮政党、政権、政策の歴史にすぎない。国家によって翻弄された個人の歴史に関する叙述も、おおかた、個人を翻弄する国家という観念を前提とした、国家の歴史に関する叙述にほかならない。現代中国の歴史と現状は、個々人の人生において異なる紋様として顕現された歴史と現実を見つめることによって、初めて見えてくるのではないだろうか。その意味で、国家の歴史が母の人生を理解する鍵というよりも、むしろ母の人生が、国家の歴史を照射する光源ではないかと思われる。

 

数年前、母の友人が、すでに廃屋になった安徽省の山奥のマンションを購入した。かつて住んでいた部屋を改装し、いまは別荘として悠々と暮らしている。人は、最後にどこを「安住の地」として選ぶのか。それだけは、国家の政策によって決められるものでも、また国家の歴史から想像できるものでもない。

 

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<孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。 SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。

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「山裏人(その1)」