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エッセイ125:孫 軍悦 「山裏人(その1)」

「どこの出身ですか」と聞かれると、私はいつも口ごもってしまう。母の世代は「小三線」といえば、ある程度わかってもらえるが、私の世代となると、同じ経験を持つ人でない限り、もはや想像すらつかないだろう。

 

それは、たしか上海から500キロ離れた、安徽省積渓県、黄山という名勝地の麓だった。硯や墨、画仙紙、緑茶が有名で、清朝の大商人胡雪岩、五四文学革命の先駆者胡適、詩人汪静之、そしていまの国家主席胡錦濤など、有名人も輩出している。一方、洪水が多発し、夏になると、見わたす限りの濁流にわずか水牛の角と屋根が浮かんでいる。そのため、故郷を離れる難民が多いこともよく知られている。

 

私が幼少時代を過ごしたのは、この安徽省の山奥にある「上海光輝器材厰(工場)」というところだった。もう少し奥には、「万里厰」があって、ほかに「赤星」、「燎原」、「前進」といった工場もある。こうした山奥に作られた工場で働く上海人たちは、自分たちのことを「山裏人=山のなかの人」と呼ぶ。1980年代半ばごろ、工場が廃業し、彼らは一斉に上海に戻り、時計会社や、カメラ会社、製紙会社、洗剤会社、製鉄所、造船所などで働くことになるが、同郷の誼の代わりに、「山裏人」という固い絆で結ばれている。そして、私たちは、「山裏人の子ども」という奇妙なアイデンティティを共有することとなる。

 

工場は国産ブランドの置時計の部品を作っていた。が、かつて砲弾をつくる軍需工場だったことは一度も聞かされなかった。今思えば、このような交通不便な山奥で置時計を作ることも、近くの山頂に大砲が置いてあるのは山の猛獣を脅かすためだという大人たちの説明も、腑に落ちないものだ。真実が教えられていないことに対して不満をもっているわけではない。当事者は往々にして饒舌ではなく、寡黙なのだ。ただ、現実に疑問を呈する姿勢と矛盾を追究する方法が、私たちの教育には決定的に抜け落ちている。

 

正確に言えば、工場ではなく、街だった。地元の農民から土地を徴用し、道路、浄水場、マンション、幼稚園、学校、食堂、図書館、保健所など、生活に必要な施設はすべて揃っていた。マンションには水洗トイレがあるが、ガスはない。一階に住んでいたため、母は家の前の空き地を利用して、かまどのある厨房と、鶏やアヒルの小屋を作った。毎朝、アヒルを川に追い込み、夕方に家に連れて帰るのが私の日課だった。卵を産まなくなる鶏を食べて、その骨を細かく砕いて餌にする。雄鶏の尾羽を使って玩具を作る。アヒルの産毛はきれいに洗い、干してからダウンジャケットに使う。職員は朝がた県の市場から野菜を仕入れる。母は毎朝必要な野菜を日めくりカレンダーの裏に書いて、バスケットに付けてある洗濯挟みに挟んでおく。そして、私が学校に行くついでにバスケットを野菜売り場に預けて、夕方帰るときに取りに行く。今風に言えば、きわめて環境に優しい生活だった。母は石臼で豆乳を作り、お正月には団子用のもち米を挽いていた。一度、挽肉をつくる器械を使ってみたが、器械を組み立てたり洗ったりするのが面倒だったからか、それとも味に不満があったからか、結局包丁で叩くことに戻った。「過去の生活には戻れない」とよく聞くが、母にとって、「近代化」や「効率化」と「進歩」とは少しも結びつかない。生活に必要であれば、いくらでも「後退」することができる。そもそも、彼女からみれば、「進歩」するのは、経験から培われる智恵のみである。それに従わずに、知識や理屈を信奉するほど愚かなことはない。

 

都会からみれば、五階建てのマンションに住みながら、かまどを使い、家禽を飼う生活は、かなり奇妙ではあるが、地元の農民の自給自足(自足しているかどうかは別として)の生活とも一線を画している。農民たちは川の向こう側で畑を耕し、上海人は川のこちら側で旋盤を動かす。それぞれの技術で懸命に生きている。時には、農民たちが豚肉を担いで売りに来たり、上海人が水道を引いてあげたり、地元の大工さんに家具を作ってもらったりはするが、互いの交流はそれほど盛んではなかった。子供の世界も変わりはない。上海人の子どもたちは、川のこちら側の子弟学校で学び、地元の子どもたちは、川の向こう側の学校で学ぶ。山道で偶然出会ってもにらみ合うことがあるほど、互いに「違い」を意識していた。農地が徴用され、工場で働くことになった人もいるが、やはり上海人のなかに完全に溶け込んでいないようだった。あるいは、上海人が彼らを完全に仲間として受け入れていなかったのかもしれない。その子どもたちは、私たちと一緒に子弟学校で学んでいた。おかげで、野いちごのような美味しいものが食べられたが、ツツジの花びらや生のソラマメなど、まずいものも随分食わされた。それにしても、どこかが違うということは、おぼろげにも分かっていた。こんな山奥にある弾丸の地でも、差別意識は歴然と存在していた。恐ろしいことに、幼い子どもでもこうした差別意識を利用し、悪事を働いたら農民の子に罪をなすりつけることを覚えた。

 

小学校は、丘の中腹にあった。山は天然の校庭。自然科学の授業はつまらないが、バッタや蟷螂や蛙、そして毎年岩場で咲き乱れるツツジから、生命とは何かを教わった。それは、動物との触れあいの中で命の愛おしさを知るといった奇麗事ではない。むしろ、殺しても殺しても殺しきれないという厳然たる事実から、あらゆる生物に対する畏怖の念が生まれたのである。ペットショップや動物園、水族館に囲まれた子どもたちは、征服者としての人間の傲慢さしか知らない。現代社会は、自然を前に人間が覚えるもっとも基本的な感情の一つである恐怖を、子どもたちから確実に奪っている。

 

小学校の先生たちは、授業中は先生であるが、放課後は隣人でもある。たとえば、数学の先生は同じマンションの四階、美術の先生は六階、校長先生はむかい側のマンションに住んでいる。三人とも奥さんに尻に敷かれていることも、子どもながらよく知っている。四階の数学の先生の奥さんが「早く夕食の支度を」という先生への伝言を母に頼んだが、使いに行かされた私は怖くて伝えられなかった。そのせいで先生が奥さんに叱られたことを、いまでも申し訳なく思っている。遠足のときには一人の先生が何人かの生徒と一緒に行動することが決まりだったが、私はいつも美術の先生と一緒だった。二人とも無口で、不器用で、即かず離れずにぼうっと歩いていたことをかすかに覚えている。

 

低学年のクラスには、まだ十数名の児童がいるが、高学年となると、将来上海市の中学校で良い教育が受けられるように、親たちは大半心を鬼にして子どもを上海の親戚に預ける。もっとも、預かってくれる親戚がいれば、という幸運な場合に限った話だが。実際、兄にはいたが、私にはいなかった。ただ、私のほうがもっと幸運だった。(続く)

 

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<孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。

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