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エッセイ802:邱政芃「植民地研究と『出会い損ね』について」

植民地台湾を中心に日本語文学を研究している。ここ数年、韓国や台湾の研究者が相次いで戦前の台湾と朝鮮を並べて論じる研究を出版した。陳佩甄『愛の文化政治:台韓現代親密関係の植民系譜』(政治大学出版社、2023年)や申知瑛『コロニアル・エンカウンター 比較に抗して 』(勁草書房、2024年)などがそれだ。興味深いことに、これらの研究は期せずして、ともに植民地台湾と植民地朝鮮の「出会い損ね」から思考している。どういうことだろうか。

 

戦前の日本における複数の植民地を並べて同時に研究することは、1990年代から注目されるようになった「帝国史」の研究で深められた。駒込武『植民地帝国日本の文化統合』(岩波書店、1996年)がその代表の一つだ。従来のように特定の植民地と帝国の関係を問うスタイルではなく、帝国内部の複雑な相互関係に着目し、朝鮮や台湾、「満州国」、占領地における日本の文化政策を同時に論じた。しかし、これらは日本の「外地」を見渡す視野を提供しているが、植民地の側に立って台湾が朝鮮を、朝鮮が台湾をどのように見ていたのかについて分析したわけではない。「外地」に住む人たちの能動性が比較的に見えづらかった。陳や申の研究は、まさにその点に異論を唱え、あり得たはずの繋がりを求めるものだ。

 

その作業は決して簡単ではなかった。陳がベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」をもじって、「想像されない共同体(unimagined communities)」で台湾と朝鮮の関係を称したように、両者の関係を示す資料はそもそも少ない。その限られた資料の中でも、申が紹介したように、台湾の雑誌における「朝鮮特輯」に朝鮮人著者がいなかったことや、内地の雑誌における「国語創作特輯」で朝鮮人作家が取り上げられたのに台湾人作家が注目されなかったなど、日本における二つの植民地の関係は、時折アンバランスだった。植民地の者たちは「内地」の視点を内面化して互いを見たり、そもそも相手が視野に入らなかったりして、「出会い損ね」ていたのだ。実証的な研究の視点からすれば、「あった」ものの分析ではなく、「出会い損ねた」ものを分析し、乗り越えることは、とても挑戦的だろう。「抵抗」や「協力」などの結論が先立つ危険性や、解釈の恣意性の問題が常に付きまとうが。

 

彼女らはどのような方法論で挑んだのだろうか。陳は台湾と韓国を「想像されない共同体」と規定しつつ、その規定自体を一種の「政治的介入」とみなしている。台湾と韓国におけるナショナル・アイデンティティーの形成は平行線をたどってきたが、両地の同時代のテクストを並置して論じることで、互いに対する共感(sense of likeness)の可能性を見出した。申は、フランツ・ファノンの「二グロとは比較である」という主張から「比較」の方法論を拒否し、森崎和江、崔一秀、金時鐘を引用しつつ、「他者は別の他者と比較なしに出会えるのか」という問いを立てる。「マイノリティーなどの中から比較できない特異性を見出すことで、その特異性を保持しながら共存する」可能性を読み取るという。

 

「共感」「共存」など、アクチュアルな概念が研究の核心にある。現代ではマイノリティーグループの分断が社会問題となることも多いが、これらの研究は互いに想像することが難しくなったマイノリティーの間に、「共感」「共存」の可能性を見出す一つの実践でもあるだろう。結局、同時代に対する人間の想像力が有限なのかもしれない。そうであるなら、歴史からそのような可能性を読み取ることは無意味ではないはずだ。歴史の空白である「出会い損ね」を思考すること自体が空白を埋め、「出会い」を生み出すことなのだから。

 

<邱政芃(きゅう・せいほう)QIU Zhengpeng>
2024年度渥美奨学生。台湾・桃園生まれ。国立政治大学日本語学科(台湾)、近畿大学総合文化研究科を経て、現在、東京大学総合文化研究科・言語情報科学専攻博士課程に所属。専門は、植民地期台湾文学、日本近代文学。

 

 

2025年10月16日配信