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エッセイ715:オリガ・ホメンコ「ウクライナ人とトラウマ」

子供の頃からおばあちゃんに「戦争さえなければ良い」とよく言われていた。平和ボケで、戦争ってどこか遠いところにあるもの、自分と全く関係ないのだと思い込んでいた。

 

戦争になって6カ月が過ぎた。戦争が始まった2月には「夏までに終わるだろう」と皆期待していた。友達の歴史家と4月頃にその話をした時、「それはあれ。第二世界大戦の時と一緒。始まった時には皆、クリスマスまでに終わるだろうと言っていたのと一緒かもしれない」と指摘され「何言ってるの」と思ったけど。

 

ウクライナ人にとって第二次世界大戦のトラウマは何か。いろいろある。まずは1カ月くらいでキーウに侵攻したドイツ軍が2年以上も占領していたこと。戦争で父親を失い、家を失った人が多く、残された家族はドイツに安い労働力として連れていかれた。穀倉地帯なので肥沃な土までドイツに運んだ。キーウではユダヤ人を含むたくさんの人が殺された。第二次世界大戦では700以上の町と28000以上の村が完全に破壊された。軍人と民間人合わせて800万~1000万人のウクライナ人が亡くなった。軍人と同数の民間人が亡くなった。当時のウクライナの人口の4分の1だ。戦後、結婚する相手がいなくて苦しんだ世代もあった、などなど。

 

長く占領されていたので、年寄りはドイツ語に抵抗感がある。戦後のソ連の戦争映画も誤ったドイツ人のイメージを作った。映画の中では「止まれ」「手を上げろ」「早くしろ」「牛乳と卵をくれ」など、特殊なドイツ語しか出てこなかった。ソ連時代の子供は皆そのようなドイツ語は理解できた。学生時代ドイツに旅行中、駅で警察の人に「パスポートを見せなさい」と言われた時、体が凍り付いた。笑うか泣くかどうすればいいか分からなかった。今回、ドイツへ避難して半年たっても、ドイツの言葉、生活、ルールの厳しさに慣れなくてキーウに帰る人もいる。

 

ウクライナ人はそもそもトラウマが多い国民である。1918年にウクライナ共和国が独立したのに長続きせず、自分の国を持てなかったトラウマ。1933年の人工的に作られた飢饉のトラウマ。第二次世界大戦で配偶者を失った多数の未亡人、父親を知らないまま育った戦前生まれの子供のトラウマ、またチョルノブーリ事故の被害のトラウマ。そして、おまけに、今回の戦争で避難民になった人、またイルピンやブーチャ虐殺だ。なんという不幸な運命としか思えない。このようなことが続くので、「いくら頑張っても何か余計な力が必ず邪魔する」という迷信が自然に生まれてきた。ウクライナ語のことわざに「邪魔しなければ、助けなんていらない」というものもある。

 

経済学者によると、飢饉があった地域とそれがなかった地域を比べると、ビジネスに対する思いや意欲が違うそうだ。やはり、国、地域、個人の経験が繋がっている。外から圧力をかけられ自分で自分の運命を決められなかった時代がトラウマとなって、社会の記憶になる。飢饉を直接経験せず何十年後にも生まれても、おばあちゃんが残ったパンを食卓から片付けて食べているものを見るとやはり気になる。

 

私は学者なのでさまざまな学問的アプローチをしていているが、やはりいざとなったら体の中に染み込んだ歴史的なトラウマが前に出て体を動かすことになることを今回実感した。一つは、2020年3月。世界にコロナ時代が来た時、私はアメリカにいた。近くのスーパーに出掛けていろんな食料を買った。その買物をよく見たら普段はあまり買わないものだった。たとえばコンデンスミルク4缶。考えてみたら、私が高校生の頃はソ連時代の終わりであまり良いお菓子がなくて、必ずどこの家にもコンデンスミルクの缶があった。長持ちするし、死ぬほど甘いし、甘いものを欲しくなったら簡単に使える。今は食べることもないのに、昔の話と混乱して無意識的に買ってしまったのだ。これには自分でもびっくりした。それまで食料が家にあるか殆ど気にしなかったが、それ以後は食べ物がなくなったらどうするかとものすごく心配した。最初の1週間は毎日料理を作っていたのを覚えている。

 

もう一つは、家族に大学中退のお父さん、卒業証明書を無くしたおじいちゃんがいたので学問関係の書類はきちんとしておくべきだという家族トラウマがあった。1月から日本の友達もキエフを去り始め、メディアもいろいろ報道していたのでウクライナは結構変わった雰囲気に陥った。それを見ながら、大学の卒業証明書や博士号の学位記などを全部揃え始めた。家で書類のファイルを作る時に結構手が震えた。研究で学んだ話もあるが、家族に書類関係の変わったストーリーがたくさんあった。

 

戦後、子供を抱えた若き未亡人のおばあちゃんが再婚した。旦那のグリゴーリイさんは結婚歴があった。徴兵に応じた時、卒業証明書などはもちろん持っていかなかった。戦争から帰ってくると、当時の奥さんが生活に苦労して彼の卒業証明書を売ってしまったことを知った。大学の資料館が全部燃えてしまい、教育を受けた証拠がなくて再発行してもらえなかった。それで鉄道会社に就職し、長い間仕事で全国を渡ってきた。汽車のサービス関係者だった。いろいろなところのお土産話をしてくれたので、まだ小さい私は聞くのが楽しみだった。そして話の中に、大学卒の学歴を証明できるものがあったら、安心してキーウで仕事ができたのに、という話が必ず出てきた。私は今までさまざまなテーマの研究をしてきたが、一つがウクライナのディアスポラ、移民研究である。その研究でも身分証明書を持っていない人がどれだけ酷い目にあったかを知らされる。

 

ちょうど1月初めに自分の家族史は、チェルニヒフ歴史資料館に17世紀まで遡れる資料があることが分かったが、3月の空爆で燃えてしまったニュースを見て非常に残念に思った。資料館、博物館や一般の家が空爆によって破壊されている状況を見て、ウクライナの歴史をまるごと消そうとしている攻撃者のモチベーションについて考えた。「自分の味方にならない人は皆存在しなくてもいい」という考えが怖い。

 

出張に行く時、全ての書類を整理したファイルを震える手で旅行カバンに入れた。侵攻の2週間前だった。

 

ウクライナ人はたくさんの辛い経験をさせられている。だが、トラウマに対する思いや受け止め方はいろいろある。トラウマがあったということさえ受け止めない人、自分がどうしてこんな可哀想な目にあったかという被害者意識を持つ人、そして、そのトラウマをじっくり見つめながら、その中にも成長する部分があったと受け止める人。

 

この30年間、ウクライナの人は自分の独立国家で普通に生活し、今までの歴史的なトラウマを乗り越えるために頑張っていた。チョロノビーリ事故が起きた後に家族レベルではあまりその話をしなかったのは、そのトラウマをどうすればいいか分からなかったからだと思う。しかし、国レベルでは、飢饉などの悲劇な出来事がきちんと歴史教科書に載って、マスコミや文学で語り合うことができて、博物館もできて、11月の第4土曜日は記念日になった。やっと過去のトラウマを乗り越えつつあると思っていたところに、今回の侵攻で新たなトラウマが増えた。それは何かというと、「戦争」そのもののトラウマ、戦争から海外に避難したトラウマや罪悪感など。また今回は戦争関係の報道が多く、現場からの悲劇的な写真や映像を見てトラウマを受けた人も少なくない。「目撃者のトラウマ」と言っても良いかもしれない。それはウクライナ人だけではない。ニュースが国際的に報道されているので、世界的にもビジュアルなトラウマを受けて寝られない人もいる。

 

避難して戦場から離れていても、日常の経験でトラウマが出てくる可能性もある。第二次世界大戦でウクライナ人が安い労働力としてドイツに送られた時の体の中に眠っているトラウマ。友達の家族がハンガリーに避難して2週間後、家を貸してくれた人から電話があって「温室で仕事をしませんか」と聞かれた。友達の年寄りの母親はそれを聞いて泣き出したという。「どうしてこの歳になっても私は温室で雑草を抜く作業を1時間5ユーロでしなければならないの?」と泣きながら話したそうだ。

 

話を持ち掛けてくれた人に聞いてみると、友達の母親は毎日のように夏の家の話をしていて、一緒にブダペストで種屋さんの前を通った時に「この春に種を撒けないことが辛い」と言っていたことがあったので、田舎町の温室で植物の世話をあそび程度ですれば心のトラウマのリハビリになるのではないかと思って善意で薦めたという。一方、子供の頃、第二次世界大戦で周りの人がドイツに安い労働力として連れて行かれたことがあったので、今回海外避難民として渡った友達の母親も同じように使われるのではないかと心配したらしい。長く海外にいる友達は驚きながら母親に「どうして断らなかったの?どうして泣きながら僕に電話するの?」と聞いても、母親はすぐには答えなかった。しばらくすると「一生懸命手伝おうとしてくれている人に断ったら悪いから、私は絶対にしたくない」とだけ言った。これは単なる文化ディスコミュニケーションなのか、それとも過去の歴史のトラウマの影響なのか。

 

今回の侵攻でこのように過去の大変な思い出が多くの人に出てきた。私のお母さんも今回の空襲のサイレンで急に一つ思い出したようだ。それは戦争が始まって、おばあちゃんの家にいた5歳にもならないお母さんが、おばあちゃんが庭に掘った防空壕に女と子供ばかりで隠れた思い出だった。今まで一度も聞いたことがない話だった。防空壕の中でおばあちゃんはご飯を作って運んで、土の中に掘った棚にアルミの食器とスプーンを置いた。空爆のドンという音で食器が下に落ちてガチャンという音を立てた。今回の空襲警報でその音がいきなり頭の中で浮かんできたようだ。人間は覚える手段がいろいろあって、言葉だけではなく、急に70年ぶりに記憶がよみがえることがあると実感した。移民研究、ディアスポラ研究をやってきた私もまさか自分の研究テーマがそのまま現実化してしまうとは思わなかった。

 

やっと少しヒーリングできたトラウマだらけのウクライナの人の心が、今回の侵攻の影響で再びダメージを受けた。その回復には想像もつかない長い時間がかかるのだろう。ただ一つ言えるのは、独立後の平和な時代のウクライナにとって「ソ連時代」あるいはロシアとの今までの付き合いがどういうものだったか、しっかり話し合う時間が足りなかったような気がする。今回のロシアの侵攻以来、国のレベルだけでなく個人のレベルでもそれを見直すことが大きな課題になっていると思う。

 

<オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO>
キエフ・モヒーラビジネススクールジャパン・プログラムディレクター、助教授。キエフ生まれ。キエフ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004 年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。
著書:藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。

 

※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。

 

 
2022年9月1日配信