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エッセイ713:陳藝婕「絵画鑑賞における『原作』の意義」

「絵画鑑賞において、最も大事なのは原作を見ることである」美術史専攻の課程の中で、先生たちはこういう言葉を繰り返し強調していた。学部に入ったばかりの頃、私は疑問を抱いた。真贋の鑑定なら紙、絵の具、表装といった要素もあわせて参考となるため、実物を調査するのは必要なことである。しかし、単に絵画を楽しみたい時に、複製品と原作の違いがそこまで重要だろうか?

 

技術の発展によって、高精度のプリント複製品や画像データでの保存が可能になった。中国美術史の専門家が日本のホテルで南宋時代の名作を見て、とても驚いたという逸話がある。後にこれは日本の東洋美術専門の出版社である二玄社による複製品だということが分かった。専門家も騙されるほどの複製品は、「下真跡一等」と評価される。「この複製品は原作とほぼ同じものであるが、原作ではないという点で一つレベルを下げたもの」ということである。一方、高精度の画像データは拡大が自由で、細部まで詳しく確認できる。それに対して美術館で原作を見る時、常に照明が暗くて、距離も遠く、データのようにはっきりと弁別することができない。図像分析などの研究をする際、原作より画像データの方が使いやすいのではないか?

 

こうした「原作」の意義に対する疑問は、日本留学中の経験で答を得ることになった。以下では日本絵画を例に感想を述べたい。

 

まず寸法に違いがある。日本絵画の中で屏風・襖絵は相当の割合を占めている。しかしカタログの印刷図版やパソコンで見る画像データはサイズに制限があり、原作よりかなり小さくなる。サイズの変化によって、鑑賞者に与える迫力も変わる。画集の図版を見る感覚は、二条城の大広間で襖絵を仰ぎ見る時に受ける衝撃とは比べものにならない。また、人物画の場合も同様である。等身大の画像は、鑑賞者と画中人物の心理的な距離を縮め、実在の人間としての印象を残す。それに対して宗教的な壁画にある巨大な仏像・神像は、非人間性の一面を強調し、観者に崇高な敬意を喚起させる。複製によってサイズが変われば、制作者の意図は汲み取ることが難しくなる。

 

次に素材に独特の魅力がある。日本画には、一般に鉱物の絵の具や金銀箔などの素材が利用される。鉱物で作られた絵の具は、光線の変化によって反射する。このピカピカする微光は、画面に透明感や活気をもたらす。写真、プリンター、画像データは、いずれもそうした素材の魅力を伝えることが出来ない。金銀色は絵画を写真に撮る際、最も再現が困難な部分であり、印刷を経ると一層見劣りがする。東山魁夷(1908年―1999年)の作品は一つの好例であると思っている。昔、私は画集や講座のパワーポイントなどで彼の絵を何度も確認したものの、その良さをあまり感じることができなかった。2018年、京都国立近代美術館の「生誕110年 東山魁夷展」で原作を見たことを契機に、初めてその美を知った。絵画の前に立つ時、寒い夜に光の冷たく冴えわたった森に浸みこんだ感じを覚えた。

 

最後に、一部の絵画において制作者が構図に注いだ奇想は、特定の展示方法でしか見ることができない。寺院の法堂の天井画と言えば、「八方睨みの龍」がよく見られるテーマである。即ち、頭をあげて天井を見ると、法堂のどこに立っても龍が自分をじっと見ている感覚がする。京都の相国寺、建仁寺、南禅寺、天龍寺、いずれもこのような龍図が採用されている。一部の屏風は、展開する際の凹凸を利用して立体感を示している。円山応挙(1733年―1795年)の≪雲龍図屏風≫(1773年、重要文化財、個人蔵)や木島桜谷(1877年―1938年)の≪寒月≫(1912年、京都京セラ美術館蔵)は、共にこのような作品だ。

 

日本留学の数年間で、私は多くの絵画の原作を実際に見て、大いに見識を広げた。美術鑑賞に対する「原作」の重要な意義を深く認識した。このほんのわずかな心得を多くの人々にシェアしたい。

 

<陳藝婕(チン・イジェ)CHEN_Yijie>

2021年度渥美奨学生。総合研究大学院大学国際日本研究専攻博士、中国北京大学美術史専攻修士、中国中央美術学院美術史専攻学士。専門は日中近代美術交流史、日本美術史。国際美術史学会(CIHA)、アジア研究協会(AAS)、ヨーロッパ日本研究協会(EAJS)などの国際学術会議で研究成果を発表。 著作に『黄秋園 巨擘伝世・近現代中国画大家』(中国北京 高等教育出版社、2018年)、「高島北海『写山要訣』の中国受容:傅抱石の翻訳・紹介を中心に」『日本研究』64集(2022年3月)他。

 

 

2022年7月28日配信