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エッセイ712:オリガ・ホメンコ「戦争の中で神様と会話」

自分の家が空爆され家を出なければならない時、家族以外に誰に助けを求められるのかしら。そんな時に聞いてくれる相手は神様しかいないかもしれない。しかし、神様とウクライナ人の関係は特別かもしれない。それは普通の宗教と少し違うかもしれない。特に中部のウクライナでは。

 

ロシア革命以降宗教は弾圧され、教会も壊され、自由に祈ることもできなかった。宗教の代わりに共産主義、神様の代わりに国のリーダーを信じていた。生まれた子供の洗礼もできなかった。やりたい人はひそかにするしかなかった。どうしてひそかに洗礼をさせていたのかというと、不安定な社会の中で子供を守るためには神様に任せるのが最初で最終的な手段だった。

 

宗教が弾圧されても、教会が閉まっても、神様を信じなかったことは全くない。開いている教会もいくつかあったが、そこの神父はおそらく国の指導者に従うか、組織的につながって裏で報告していたので、教会の人は信用できなかった。

 

しかし、教会に行かなくても皆家のどこか隠れた場所で祈っていた。田舎に行ったらおばあちゃんの家には必ずイコン(聖画像)があった。田舎では都会と違って誰もそれに文句を言わなかった。表では共産党のメンバーでも、洗礼を受けた時に頂いた十字架を大事に引き出しの中にしまっていた人もいた。

 

ソ連時代の小学校の授業では、「宗教の信者は変わった人で、子供が病気になっても医者にかからず、神の力で治せられると信じて死なせる」と教えられてびっくりし、家に帰って泣いた覚えがある。なんとなく宗教の信者は危ない人間と学ばされた。宗教の信者に違和感を持たせる雰囲気の中で育てられた。

 

宗教は表ではダメであったが、それでも自分より大きな力があると信じることはやめなかった。皆ひそかに復活祭とクリスマスを家で祝っていた。先生たちもそれが分かっていた。生徒の家庭でイースター・ケーキとピサンカ(装飾された卵)を作ると分かっていたので、前の週には「あのケーキをお弁当で持って来てはいけません」と注意された。

 

このような環境でずっと生活してきたウクライナ人には特別な宗教観が生まれたかもしれない。表と裏の宗教観という。表では祈ってはいけない、教会の近くを通る時に十字架をかけることもできない、そして教会へ行っても神父を信用できない状況だった。ウクライナ語でお祈りすることはほぼできなかった。教会はロシア語だった。ウクライナ語でミサをする教会はキーウには数カ所しかなかった。しかもそこでもロシア革命以降、特に1930年代のスターリン時代、また1970年代に強い圧力を受けて神父や信者を取り締まっていた。特にキーウの教会はそうだった。

 

2014年に東部で戦争が始まってからは、多くのウクライナ人はロシア正教会に行かなくなった。ミサのなかに政治が絡んでいるので、モスクワからの説教を聞きたくない。そして、何よりも自分の言語で神様と会話をしたいから。神と話せるものが言葉や言語でなくても。2018年にウクライナ正教会がやっと独立できたのは歴史的な出来事である。政治的な圧力でそれができたという批判には反論したい。要するに全ては政治である。ウクライナがロシア革命の後に一回独立した時、正教会には強い独立願望があったが、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)にロシアから強い圧力をかけられて認めてもらえなかった。自分の国を持って、自分の宗教の本部を持つのは当たり前の話である。税金を他国に納めるのではなく、自分の所に納めるのと同じような話だ。自分の言葉で祈り、ウクライナ正教会の本部がキーウにあるのは当然である。それも心の自由で、精神的な独立でもある。

 

このような状況の中で育てられたウクライナの子供に両親は「神様は心の中にいる」と言う。どこに行ってもあなたの心の中にいる。どの宗教のお寺に言っても祈ることができる。宗教は形だけで、神様は一人である。正教会から考えたらあり得ない話。正しい神はそこだけにあるからだ。でも歴史的、政治的な状況から考えたら、その厳しい状況を受け入れて、その中に自分の世界を作ることができたとも言える。

 

独立後間もない頃、ある有名な修道院で撮影をしていた時、成績が良い生徒が案内してくれた。その時に色々な話を聞いた。コネがある学生はお金持ちの町の教会で主任になるが、そうでもない人は遠い貧乏な地域の担当になるなど。そこも普通の社会と変わらないと思った。

 

このような事情によって、ウクライナ人の宗教観が形成された。心の中にはいつも話せる相手がいて、それを、自分を守ってくれる天使か、神様か、自然の力か、手伝ってくれる力と呼んでもいいかもしれないが、いつまでも側にいてくれる力がある。大きく考えれば宗教は元々そのようなものだが、ウクライナの人は教会の人抜きで直接神様に話せるようになった。

 

ウクライナ人は昔から上からの圧力に反発心が強かったし、型式から抜けるようにしていた。その意味で新しい所に行く好奇心があり、国境を超えてコミュニケーションをする力もあった。17世紀のウクライナに生まれた家庭イコンの現象もある意味でその1つとも言える。もちろん教会で売っていた高いイコンを買えないという理由でもあって、形式を勉強していない人間が自由にイコンを描くようになった。そのイコンはギリシャ、ローマ、ロシアと違って、華やかで慰めてくれるもので、そこに表現されている神様は罰を与えられる存在ではなく、自由に相談できる相手でもあった。

 

1991年に独立して宗教が自由になった時、それまで禁止されていた宗教にどれだけ関心が集まったか想像してほしい。出版社に勤めていた人の話では、当時一番多く印刷したのは聖書、サスペンス小説、翻訳されたビジネス書だった。また色々な宗教団体が活動にやってきた。同級生は英語を勉強したかったがお金がなかったので、ある米国系の教会に通った。今まで見たことのない外国人であるアメリカ人がそこにいて、自由に会話ができたからだ。しかし3か月後に様々な理由でやめた。宗教ではなく英語が目的だったので。全然宗教に関心のない友達が牧師さんと結婚した時も皆驚いた。幼なじみの従兄は急に航空大学をやめて宗教学校に入った。ちなみに彼は立派な牧師になって今でもやっている。

 

だが同時に多くの若者を宗教から遠ざける大きな事件もあった。1993年秋に「白い兄弟」と言う新宗教団体にはいっていたキーウ大学哲学部や数学部などの優秀な学生がソフィア寺院あたりで集団自殺をしようとした時だった。警察や公安が早めに察知し、大人のリーダー夫婦を逮捕し、学生を家族に戻した。しかし、大きな精神障害を被って普通の生活に戻れなかった人もいた。マスコミに大きく報道され、新宗教の怖さに皆が気づいた。当時の若者の宗教への熱心さが冷めたとも言える。その後は冷静な目で宗教を見るようになった。

 

ウクライナの中部と西部では宗教に対する親近感が違う。大都会のキーウはそうでもないが、西へ行けば行くほど、道端に小さな祭壇が多くなり、日曜日に家族揃って教会へ行くのが当たり前になる。宗教が生活の中に溶け込んでいると言っていいかもしれない。正教のお祭りがその土地古来の信仰のお祭りと混ざって生活の中に入っている。お正月を祝って、1月7日に正教のクリスマスを祝って、その次に古来の新春を祝い、その後にキリストの復活祭を祝う。また教会と関係なく、古代の命のシンボルであるピサンカも作る。装飾した卵の伝統が後にイースター卵になったと言われている。7月7日には夏至祭のイワーナ・クパーラを祝う。たまたまその日は聖イオアンのお祭りも重なっている。さらに、最近では7月28日のキーウ公国がキリスト教を受け入れた日がウクライナ国家の日になった。そして古くからあるカレンダーに従って8月14日に蜂蜜収穫、8月19日にリンゴ収穫のお祭りがある。それがキリスト教のものとも重なっている。

 

日曜日に教会へ行かなくても、家にイコンがあってもなくても、車に小さなイコンを飾っている人も多い。特にタクシーの運転手だ。イコンに守られると思ってシートベルトを締めないのは不思議としか思えないが。

 

宗教と同じくらいに運命を信じる人もいる。日本の友達がウクライナの一番有名な詩人のタラス・シェフチェンコの詩を読んで、「この人はどうして自分の運命を恨むのですか。ウクライナ人は人生観の中で運命に何パーセント任せられるのですか」と聞いてきた。なるほどと思って翌日クラスで私の生徒にその質問をした。そうすると50%という人、80%の人もいた。だが生徒は皆運命の大きな役割を認めた。それは迷信の文化とも言えるかもしれない。暗い歴史を経験しているので、人前ではあまり自慢しない。運が逃げないように自慢しないという習慣もある。神様を信じる人は迷信を信じないのが普通だが、ウクライナでは両方とも平和的に存在している。

 

外国の友達に「ウクライナの『運命』の定義は自分の受身的な立場の理由付けに使う」と言われたことがある。その時は、それは大きく間違っていると思った。しかし、戦争が始まってから再び「運命」のことを考えさせられた。3月の初めだったが、キーウにずっと留まっていた友達に避難するように呼びかけたが、「ここから離れない。しようがない。これが私たちの運命であったら、ここで死にます」と言われた。「自分は死んでも良いけど、子供を救いなさい」と言っても聞いてくれなかった。その友達は行動的ではなかったし、また戦争という大きな人生の変化の中でフリーズしていたとしてもおかしくないかもしれない。しかし他の人が決めた「死なせる運命」に任せてはいけないと思う。その人の旦那に話したら、家族を西の方に避難させてくれてありがたかった。皆元気で命が助かった。

 

戦争が始まってから、ウクライナ人は心の中で神様ともっと会話するようになった。私物はほとんど何も持たずに洗礼の十字架だけを体につけて家から逃げた人、軍隊に参加しているウクライナ人もそうだ。助けてくれるのは自分の手、人の手、また神の手しかない。戦争が始まってから4カ月の間にウィーン、ブダペスト、デュッセルドルフ、ロンドンの駅で出会った避難民のウクライナ人は、ほぼ全員が首に十字架をかけていた。多くの人は手に赤い糸もつけていた。その赤い糸は悪魔から守ってくれる「輪」であり、キリスト教とは全く関係ない。何も助けにならない時はそれでも良いと思う。これもウクライナでは迷信と言っても良いかもしれない土着の信仰が、宗教と複雑に生活の中に溶け込んでいると言えるだろう。

 

厳しい状況の中に置かれているウクライナ人は一人一人神様とひそかに会話をしている。「神よ、どうしてこんなことにさせられるんですか。私たちは何も悪いことをしていない。ただ自分の国で幸せな暮らしをしようとしていただけです。どうして守ってくれなかったのですか。私たちはどうしてこのような試練を味わうことになったのですか。しかし、周りの人は被害にあったけど、私と私の家族を助けてくれてありがとう。本当にすみません、こんな話をあなたにしてしまって。でもあなたにしか助けてもらえないからお願いしています。どうにかしてください、神様。私たちの上に傘を開き、燃えているところから、あなたの掌の上に救い上げてください。お願いです。お年寄り、子供たち、動物たちも。頼みます」と。大体皆このように毎日神と会話している。

 

BBCの記者が東部から報道しているテレビ番組を見ていたら、後ろにいたおばあちゃんがミサイルが飛んでいるのを眺めて大声でお祈りを早口に叫んでいた。イギリス人の記者は「どうして逃げないのか」と目を丸くしていた。

 

知り合いの13歳の息子は46時間もかけてドイツに向かっている車の中で話していた。到着前の1時間半は母親も疲れ切って運転中に居眠りすることを怖れて、上の息子にお祈りでもしてと頼んだ。その子が知っているお祈りは10分で終わってしまったので、母親を絶対に寝かさないために、いつものように神様との会話を始めた。無事に着くように頼んでいた。守ってもらうように大声で願っていた。無事に行き先に到着した。祈りが届いたとも言える。心の中にいる神に守られたとも言える。

 

ただの会話だけではなく、実際に積極的に行動もしていることに感動する。そこには諺(ことわざ)でも表現されている昔の知恵がある。「神様にお祈りをしようとしても、自分がただ寝ていたらダメです」。言い換えれば、神には自分の手しかないということだ。また「神に守られていても本当は刀がコサックを守ってくれる」を読めば神に対する定義がだいたい分かっていただけるでしょうか。

 

<オリガ・ホメンコ Olga Khomenko>
キーウ・モヒーラビジネススクールジャパン・プログラムディレクター、助教授。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。
著書:藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。

 

※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。

 

 

2022年7月14日配信