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エッセイ709:オリガ・ホメンコ「家はどこ?」

あなたとって家とは何ですか?

 

「お家はどこですか?」と聞かれると一瞬戸惑ってしまう。戦争で避難民になって家を離れたということもある。だが普段でも「あなたにとって家とは何?どこですか?」と聞かれたら考えてしまうかもしれない。習慣や年齢によって違いがあるとしても、「家」に対する思いは人それぞれなのだ。家はどこにあるかと聞いても、返事はさまざまであろう。ある人にとってそれは実家で、クリスマスやイースターに帰る両親の家で、母親の料理を食べて子供時代に戻れるところだ。そこは自分の心の家でもあるかもしれない。別の人にとっては、長い間頑張って積み重ねた努力で買った「マイホーム」である。旅行かばんの中に持ち込んで、どこでも「家」を作れる人もいる。「家はどこ?」と聞かれたら「飛行機の中」と笑いながら答える人もいる。人は色々で、家も色々である。

 

だが、家とは場所、もの、人、雰囲気でもある。特にコロナが始まってから、皆が「家」の物理的な存在を見直すことになった。家から仕事をするようになって、住んでいる環境をもう一度じっくり見直すことができた。2年間もじっくり見させていただいた。見たくないほど見ました(笑)。それまではほぼ「寝る場所」として使っていた人も、家の存在を見直さざるをえなかった。

 

外資系の法律事務所で働いている友達は、コロナの前には出張が多くてほとんどキエフ(キーウ、キイブ)にいなかった。自分の「家」を出張用スーツケースの中に持ち歩いた。だがいくら外見はそうだったとしても、やはり帰る場所が欲しくてコロナ前に家を買った。将来キエフに定住するかどうかも決まっておらず、賃貸よりお金がかかるのに、どうして買ったのか聞いたら「自分の靴下を自由にあちこちに散らかして誰にも文句を言われない自分だけのスペースが欲しい」と言う。何となく分かるなぁ。

 

別の友達に聞くと、「パートナーや家族、子供がいるところ」との答。そして好きなワンちゃんがいる場所。「皆一緒にいてワイワイする所ですよ」という答もあった。ある年寄りは「ゆっくり自炊できる台所と体をほぐせるお風呂場が自分の場所」と言った。確かに!

 

家に対するウクライナ人の思い

 

ウクライナ人は自分の家に対する特別な思いがある。都市でも田舎でもそれがよく分かる。例えば、街の古いマンションの玄関や廊下が汚くても、中に入ると綺麗に手入れされている。イギリス人ほどではないかもしれないが、やはり「マイホーム」を非常に大事にしている。ロシア革命以前に、ある歴史家で民俗学者がウクライナを旅した日記がある。その中で、ウクライナとロシアの村はかなり違うと書いている。ウクライナでは、家の周りに庭があって花を植え、壁は毎年塗り直されている。家の中も綺麗である。少しでもお金を稼いだら家に投資する。西に行けば行くほど家が豊かで綺麗になるという。

 

個人所有が許されなかったソ連時代でも、家は唯一の資産であった。自動車は購入するのが大変で、それほど普及していなかった。家は一番の資産であり、精神的にも大きな意味があった。圧力をかけられている社会から唯一逃げられる場であった。社会主義がいくらコントロールしようとしても、人々が朝食や夕食をとっている台所で、あるいは寝室で、どんな話をしているかは最後まで管理しきれなかった。家は自由に生活を楽しむことができる最後に残された「場」であった。特に台所はそうで、皆が集まり語り合う場所でもあった。ソ連時代でも台所で密かに誰にも言えない政治的な話をした。台所は「奥様」がつかさどるところでもあって、家の台所を見たらどのような人が住んでいるか大体分かるというくらいだから、台所を中心とした自分の家への愛と密着感は半端ではない。

 

家を出る

 

2月24日にロシアの侵攻が始まって、改めて自分の家の存在への思いが強くなった。コロナの2年間飽きるくらい居た家から突然出なければならなかった。一所懸命稼いで買って、内装を全部自分で一つ一つ考えて作った家を一気に奪われた。まだ物理的に存在していても、そこに帰れない精神的な辛さはうまく表現できない。家に残ってミサイルに撃たれて死ぬ場所になるか、それとも家はあるけど出るのか、こんなに厳しい選択を迫られるとは思っていなかった。

 

ウクライナ人には既に数回、家を離れなければならない危険な状況があった。まず1986年4月のチェルノビーリ原発事故。その夏、キエフの女と子供はほぼ全員家を離れた。8月末に疎開先からキエフの家に戻った時、自分の家で再び普通に生活できることが信じられない気分だった。2013年の秋にヤヌコビッチ元大統領が欧州連合(EU)加盟への道を捨てた時にも、家を出ることを考えた若者が少なくなかった。ある友達は両親に「いざとなったら国を出る」と告げた。母親が昔は富の象徴でもあった壁にかかっている絨毯(じゅうたん)のそばに座って「でもこの家はどうするの?」と聞いた時、「いくら立派な絨毯の家であっても、それより自由の方が大事だ。このような60年代にフルシチョフの政策で作られ、もう古臭くなっている絨毯だらけのマンションはいらない。貧乏でも自由のままでいい」と答えたという。

 

その頃、別の友達は大きなソファを買うために貯めたお金を「万が一の貯金」に回した。幸い政権が変わったので貯金を取り崩す必要はなくなった。10年後、家と母親を大事にしているウクライナ人ですから、彼は母親を新築の高層マンションに引っ越させた。窓からは綺麗な風景が広がり、母親は毎日夕焼けを楽しんでいた。まさかその高層マンションの一角にミサイルが飛んでくることになるとは夢にも思わなかった。2月24日の午後に近所のマンションがやられた時、「家に居たら死ぬ」という厳しい現実を受け止める必要があった。それで家を出た。最初は西に逃げ、今は長男が住むドイツにいる。残念ながら家は動かせない資産であるため、今でもそこにある。キエフの家賃は半分になった。不動産屋が困り、建設会社はさらに困っている。新しい家を作る見込みはない。建設に使う鉄筋コンクリートの工場が破壊され、コンクリートの値段が急騰している。

 

だがそれだけじゃない。家を出なければならなかったことはもっと前からあった。その時からずっと続いているのだ。ロシア革命の時、裕福な農家はほぼ全部、家を奪われた。しかしながら、早く空気を読み取って早く家を離れ、大都市に移って隠れ通せた人もいた。実は私の親戚もそうだった。2月初めに私が出張に出かける頃、すでにキエフの空気は重かった。荷造りをしている間、どうして歴史は繰り返されるのか考えていた。私たちは自分の土地で自由に生活しているのに、どうしていつもよそ者に邪魔されるのか。答えが見つからない。その時、体のどこかで先祖から受け継いだ言葉に現れなかった記憶がよみがえって恐怖に襲われたことを今でも覚えている。無意識のうちに学校の卒業証書をかばんに入れていた。戦争で若い未亡人になった祖母が再婚した相手は、戦前に大学を卒業したが戦争中に卒業証書を失くした。戦争が終わっても再発行してもらえなかったため、祖父はずっと安い給料の仕事しかできなかった。小さい時からその話を聞いていたので「まずは証書」と思ったのだろう。

 

大切なもの

 

ウクライナでは「長く使う」という考え方で、自分の家に一番良いものを買う。今、西ヨーロッパに避難した多くのウクライナ人が、生活スタイルの違いに気づいている。ヨーロッパの人はあまり家にお金をかけない。アパートの壁紙、風呂場やキッチンの設備などに量販品を使うことも少なくない。そこで、逆にウクライナの生活レベル、またはクオリティ・オブ・ライフがかなり高いことに気づく。ウクライナに侵攻したロシア軍の兵士も自分の生活と比較して気づいたようだ。ウクライナの公安が聞き取れた電話の会話に「いい生活しているぞ。こんな家電は10年働いても買えない」というものがあった。それで洗濯機まで盗んで持っていかれる。ある意味でウクライナの家の生活レベルの高さを認めたことになるだろう。

 

ウクライナ人は家に対する特別な思いがあると言っても良いかもしれない。そしてもちろん家はイコール「自分が所有するもの」である。独立後30年間、資本主義の自由を味わったウクライナ人であるが、ものを買えなかったソ連時代をまだ覚えていて、「もの」に対するハングリー精神はまだまだ残っている。自分の家には一番良いものを買い、人前に出る時はまだまだドレスダウンではなく、ドレスアップする。

 

社会主義時代には共同生活というものがあった。「もの」も思い出も全部共同にさせて、人の個人性を無くそうという動きだった。共同農家、共同組合、共同ナントカができていた。友達の話を聞くと、東ドイツもそうだったらしい。施設で暮らす時には、自分のスプーンを持たずに共同で使うものがあった。しかし、日本の家庭ではそれぞれがお箸を持っているのと同様に、昔からウクライナの家庭では自分のスプーンを持っていた。他人のスプーンを使うのはタブーだった。亡くなった時にそのスプーンを棺に入れる習慣が今でも残っている。当時はもしかしてそれが唯一の個人資産であったかもしれない。

 

人はあくまでも「自分だけのもの」を欲して、自分が「安心して過ごせる縄張り」を確認していると思う。私もそうだ。ヨーロッパに来てから最初の2週間は、出張中の友達の家に泊まっていた。その時には自分が避難民になったという事実をなかなか受け止められなかった。その家には何でもあったが、やはり自分だけのものが欲しくなった。それである日ウィーンのIKEAに行って、取り敢えずスプーン、ナイフ、フォーク、お皿3枚とコップを買った。まだ寒かったから寝巻き、スリッパ、布団と枕も。自分だけの枕。新しい夢を見る枕を。久しぶりに100ユーロも使ったが、ものすごく得した気分だった。「IKEA、ありがとう」と思いながら青いバッグに入れて帰ってきた。そこは自分の家ではないが、少し家らしくなったような気がした。生活するのにどれだけものが必要か、引っ越しの時によく分かる。今までに25回くらい引っ越ししたことがあるが、いつもそう思う。長く夢見ていた自分の家を10年ほど前に買った。これでやっと落ち着くと思った。その先にこんな状況が待っているとは思わなかった。

 

避難民にとっての「家」

 

オーストリア、ドイツ、ハンガリー、イギリスなどでウクライナの避難民にインタビューをした。家の話も聞いてみた。「『自分のもの』と『自分のルール』があるところ」と答えた人が多かった。「自分の生活習慣が成り立っている空間である」という人もいた。キエフ郊外からドイツに子供3人を連れて避難してきたスビトラーナーさんにとっては、キエフに居た時と同じように、毎朝好きなコーヒーを作って飲むことが落ち着きを取り戻せるようだ。コーヒーメーカーは全く知らないドイツ人がコーヒー大好きな彼女にくれた。息子のミーシャ君はキエフから持ってきたサッカーボールで遊ぶことが「家にいた時にしていた」日常となった。そこにあった生活習慣や雰囲気が「家」なのだ。

 

3月からウィーンで借りていたウィークリーマンションで、キエフから避難してきたリトアニア人の国際機関の職員に会った。彼は「自分の子供のおもちゃが散らかっているところが家だ」と。なるほど。私の母にとっては、犬と散歩した後にソファでクロスワードをすることだ。フランクフルト空港で買ったクロスワードをあげたら大喜びしてくれた。ウクライナ語の本を買えずに悲しんでいるので、ユーチューブの使い方を3ヶ月かけて学んでもらった。夜のニュースを見たいのだ。彼女にとってはそれが家にあった毎日のリズムを整えるものだった。それを再生することができて良かった。

 

ヨーロッパの多くの国々は今回、ウクライナの避難民を受け入れてくれた。「家」の意味をよく分かっているイギリスの人々は、ウクライナ人の避難者向けのプログラムを「ウクライナ人向けのホーム」とそのまま名づけた。その説明書には「家」の定義がよく説明されている。まずは、自分の部屋、プライバシーがある空間。

 

キエフの家を離れなかった同級生とも「家」について話した。彼は留学もせず、早く結婚して子供を5人持ってずっとキエフで仕事をしている。やはり「大きな家はウクライナ、小さい家は自分の家。好きな人が待ってくれるところだ。臍(へそ)を埋めてあるところ(注)でもあって、我々の領土である。どこも行かない。最後まで戦う」と言った。それもなんとなくわかる。心配で毎日メッセージを送っている。彼は今、私たちの「心の家」を守っている。

(注)ウクライナの諺で「生まれたところ、母国」という意味

 

<オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO>
キエフ・モヒーラビジネススクールジャパン・プログラムディレクター、助教授。キエフ生まれ。キエフ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。
著書:藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。

 

※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。

 

 

2022年6月16日配信