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エッセイ708:ミヤ・ドゥイ・ロスティカ「お誕生日に―ママのつぶやき」

13年前、28歳の時に息子を産んだ。当時私は博士課程2年生で、夫は来日が遅れたため私の後輩になった。同じ専攻に在籍し、同じ先生に師事していた。

 

出産3日前まで、毎夜遅くまで研究室にいて論文を書き、また先生の手伝いをしていた。

私費留学だった私たちは日本に来てから奨学金をもらうことができたものの、決して裕福な暮らしができたわけではなかった。子供を授かった時には、将来この子を育てていくだけの経済力があるかが不安だった。出産費用は国の助成があって、不足分もなんとか貯金から捻出できた。学生だった私たちには、将来の仕事の保証も全くなかったけれども、他方では将来子供の教育はどうするか、親になったからには責任を持たないといけないと思った。私が貧しい家に生まれ、行きたかった塾や習い事を全部我慢していた過去があったからかも知れない。なんとしても子供には不自由なく、何でも体験させたいと考えていた。

 

赤ちゃんの頃、息子は手間がかからなかった。夜泣きはしなかったし、夜起きたとしても、夫が対応して私を休ませてくれた。

 

保育園が決まっていなかった頃には、息子を連れて大学に行った。私と夫が授業の時には、インドネシア人の後輩たちに面倒をみてもらった。息子が2歳の頃、私は国連機関のプロジェクトに採用され、東北地方に度々出張することとなった。数日間家を空けることもあった。その時は、全て夫が息子の面倒を見ていた。今思えば、私が息子の弁当を作ったのは遠足の日だけだった。しかも「ママにはキャラ弁は無理」と説得し、友達の可愛い弁当を見ても私におねだりしないように先手を打った。

 

夫も共に学術界にいるので長期現地調査はもちろん、海外の学会にも息子を連れて行った。息子の“学会デビュー”は3歳の頃で、私が発表をする際は同じ教室に座らせ、iPadを渡して好きな「きかんしゃトーマス」「アンパンマン」「トムとジェリー」などの映像を見させていた。批判覚悟だったが、学会後いろいろな人に「静かに座れて、お利口な子だね。」と褒められ、励ましの言葉もたくさんもらった。

 

6カ所での非常勤講師をかけ持ちしていた頃はほぼ休みがなく、保育園や学校の行事にろくに参加できず、一緒に遊んでやれなかった。それでも息子は理解をしてくれた。

 

息子のために必死に働いていると思っているが、実は息子の方が我慢をして私のわがままに付き合ってくれているのではないかとも思う。13年間かなり我慢させている代わりに、これからはできる限りママ業をやるつもりでいる。

 

<ミヤ・ドゥイ・ロスティカ Mya_Dwi_Rostika>

インドネシア出身。2010年度渥美奨学生。大東文化大学国際関係学部国際関係学科講師。1998年広島県立三和高校に1年間交換留学をきっかけにガジャマダ大学で日本語を専攻。国士舘大学大学院博士号取得(政治学)。国士舘大学、大東文化大学、亜細亜大学、神奈川大学、放送大学非常勤講師、警察大学校インドネシア語主任講師を経て2019年より現職。専門は東南アジア(特にインドネシア)地域研究。インドネシアの障害児童学校への車椅子寄贈・奨学金提供のボランティア活動を活動中。

 

※このエッセイはミヤさんがフェイスブックに投稿したものを、許可を得て転載させていただきました(編集部)

 

 

2022年6月2日配信