SGRAかわらばん
エッセイ648:包聯群「コロナ流行期の中国の言語対応」
新型コロナウイルス感染症が発見されて間もなく、中国政府は軍の医療チームを含む延べ4万2千人以上の医療関係者を、全国各地から武漢市をはじめとする湖北省の16都市に派遣した。その際、「抗疫」、「援鄂(鄂は湖北省の別名)」、「最前線」、「出征」という中国語語彙がメディアをはじめ、各医療チームのスローガンにも多く見られるようになった。医療関係者はコロナと「戦う」覚悟で湖北省(最前線)に出向かっている(出征)というニュースがメディアによって繰り返し報道され、全国的に「緊張」が走っていった。実はこの時、医療現場では「コロナ」以外にもう一つの「戦い」が始まっていた。それは人々の日常生活や社会活動に欠かすことができない重要な「武器」である「言葉」との「戦い」であった。というのは、湖北省に派遣された医療関係者を困らせることが起きたからである。つまり、患者の中に年配者が大勢いたため、まず「言葉」が通じないという問題が出てきたのである。方言の障害によってコミュニケーションがうまくとれず、治療に支障が出たのだ。
皆さんご存知のように、中国には56の民族がいて、その分言語も多いと思われがちであるが、ここで指摘したいのは、少数言語は別として、中国語の方言間の差異も大きいという点である。中国では、昔は「山を一つ越えれば、言葉が通じない」と言われるほどであった。標準語がすでに普及している日本からみると、この「言葉」が通じないという状況は考えられない光景だろう。しかし、現時点においても中国では、標準中国語(普通話putonghuaとも言う)が標準日本語のようにすべての地域に普及しているわけではない。学校で教育を受けられなかった人々は標準中国語を話すことができるとは限らない。特に今回のような場合、学校教育をきちんと受けられなかった年配者、あるいは地元の方言しか話せない方々は、外部の人との意思疎通に問題が起こりかねないだろう。
中国湖北省の方言は大きく3つに分けられる。即ち、西南官話、江淮官話と贛方言である。これらの方言はさらに細かい方言に分けられる。湖北省に派遣された医療チームは主に西南官話の武漢、荊州、宜昌、襄陽の各方言、江淮官話の孝感、黄石、鄂州、黄岡方言および贛方言の咸寧方言などを話す9つの地域で治療に当たっていた。これらの方言を全国から応援に来た医療関係者が知らないか、または標準語をあまり知らない患者さんが医療関係者の問いに答えられないか、方言で返してくるということが起こり、何を話しているかをお互いに理解できず、聞き取れないことがあったので治療にまで影響を及ぼしはじめていた。
最初に派遣された中国山東大学斎魯病院の医療チームが湖北省黄岡市に着いた時、現場で働く医療関係者が言葉の違いにいち早く気づいた。医療関係者と患者との意思疎通に障害が起き、治療の有効性に影響を及ぼしはじめたため、看護師のZ氏が自ら対策を考え「自救」に乗り出した。最初の『看護師と患者とのコミュニケーションブック』(『護患溝通本』)を2月1日までは作成し終え、職場である大別山地域の医療センターで実用化しはじめた。その後、山東省から第5次で派遣され、2月9日に武漢に到着した同大学医療チームのG氏も言葉の問題に気付き、現地の医師や大学の関係者に協力してもらい、武漢に到着してからわずか48時間以内に『湖北省を支援する国家医療チーム武漢方言実用ハンドブック』(『国家援鄂医療隊武漢方言実用手册』)を作成し、現場で使用しはじめた。
北京語言大学言語資源先端イノベーションセンター(語言資源高精尖創新中心Language Resources High-precision Innovation Center)の李宇明氏は、中国山東大学斎魯病院の医療チームが自ら『武漢方言実用ハンドブック』を編集したことを報道によって知り、すぐに多数の大学や研究機関及び企業などと連携を取り、「戦疫言語サービスチーム」(戦疫語言服務団)を立ち上げ、わずか3日間で『コロナ感染対策湖北方言通』(『抗撃疫情湖北方言通』)という「製品」を作り、「最前線」の医療関係者や患者らに湖北省の9つの方言と標準中国語の対応語彙や会話などを提供した。『湖北方言通』には感染対策や治療のためによく使われる156の語彙と75の文が選定されている。
現場への言語対策としての「製品」の形式は多種多様である。ウェブサイトネットバージョン、オンライン電話相談サービス及びネット上のテキストなどがあり、音声データとマイクロビデオも継続的に再生できるようになっている。またウィーチャット(WeChat)バージョンもある。標準中国語と方言の文と語彙が対応しているため、QRコードをスキャンすれば音声再生システムが起動され、音声放送ができる。そして『融合媒体ポケットブック(Fusion Media Pocket Book)』も手帳の形で印刷され、さらにTikTok(抖音)バージョンも作られた。それ以外に、方言翻訳ソフトも使用され、インテリジェントによる音声発信システムや医療アシスタント電話ロボット、そして日本ではあまり知られていないが、噂であるか否かを確認できる「奇虎360」会社の検索サイトまで登場した。湖北省や武漢市政府からビデオ同時通訳サービスも提供された。こうして「言葉」の壁を乗り越えていったのである。
後にこれを活かし、『コロナ感染対策外国語通』(『疫情防控外語通』)、『コロナ感染対策「やさしい中国語」』(『疫情防控“簡明漢語”』)なども短期間で作成され、現場や外国人に提供された。「やさしい中国語」は日本の言語サービスとして、在日外国人に提供されている「やさしい日本語」からヒントを得て作られたという。「戦疫語言服務団」の「災害言語サービス」対応に参加した機関や業種は多く、500人以上の人々が参加していた。医療関係者だけではなく、他の分野からもこうした膨大な規模の人々が動きだして言語対策を取り、「災害言語サービス」を提供していたことがわかった。
英語版はこちら
<包聯群(ボウ・レンチュン)Bao Lian Qun>
中国黒龍江省出身。東京大学から博士号取得。大分大学経済学部・教授。中国言語戦略研究センター(南京大学)研究員。TOAFAEC『東アジア社会教育研究』編集委員。SGRA会員。専門は社会言語学、中国北方少数言語。『言語接触と言語変異』、『現代中国における言語政策と言語継承』(1-4巻)などの著編書多数。
2020年10月15日配信