SGRAかわらばん

エッセイ639:アントナン・フェレ「米国、コロナウイルス、人種差別抗議」

 

2019年夏、ほぼ7年間に及ぶ私の日本留学が終わり、私にとっては第三国であるアメリカへ再留学した。

 

今まで暮らしてきた世界屈指の大都市である東京に比べると、現在生活の拠点となっているプリンストン市はまさに別世界のように感じられる。ラテン語では「野原」を意味する「キャンパス」という語が初めて「大学構内」の意に用いられたのはプリンストンだそうだが、プリンストン大学のキャンパスへ足を運んでみると「なるほど」と思わざるを得ない。学生たちが自らの置かれている場所をふざけて「野原」と呼び出した18世紀後半の古地図を見ると、大学の数少ない建物とそれを囲む野原以外に何もなかったことがわかるが、大学関係の施設が激的に増え、市自体も発展してきた現在でさえも自然豊かな場所であることに変わりはない。キャンパスを人間と共有する生き物の多さだけでも納得してもらえるだろう。渥美財団のマスコットであるラクーンはもちろんのこと、リス、キツネ、ウサギ、鹿などが遠慮なくこのキャンパスを自らの住処としている。

 

こうした場所に新型コロナウイルスが波及し、学生の大多数を実家に帰らせ、キャンパスに残るほかないその他の人たちを家に籠らせ続けてきたここ数ヶ月は、外部世界から孤立するという感覚に一層の現実感が加わった。土日もなく忙殺されている学期の間にはあまり自覚していなかったが、学期が終わり、ほとんどの拘束から放たれている現在になってみると、そうした感覚が著しく募ったわけである。夏になって晴れる日が増えてから散歩に出かける人も多くなってきたものの、「野原」は依然として眠っており、最近になって一部再開した理系の研究室に通っている院生以外に人はほとんどいない。

 

しかしながら、ニュージャージー州のこの片隅を囲む外部世界では、現在激しい社会運動が展開されつつある。5月25日のジョージ・フロイド氏の死を受けて、黒人に対する差別をめぐって全国的な抗議活動が起こり、6月末現在の状況ではデモや暴動が続いているのである。プリンストン大生を除けば人口の大多数を白人が占めているプリンストン市では、ミネアポリスで見られたような規模のデモはさすがに起こらなかったが、大学としては、米国社会の構造と歴史に深く刻まれている人種差別主義に対するコミュニティーの意識を高めると同時に、大学が高等教育・研究機関として取り組むべき方策を検討していると言う。

 

その方策のひとつとして、6月27日、公共政策学部・大学院と学生寮の名称から、ウッドロウ・ウィルソン(Woodrow_Wilson)の名前を削除する方針が発表された。ウィルソンとは元々プリンストンの卒業生だが、同学の教員、総長、またニュージャージー州知事を経て合衆国大統領を務め、ノーベル平和賞をも受賞した大人物である。大統領在任中、国際連盟の創設に尽力したことが評価されているのみならず、大学総長としても画期的な改革を導入し、プリンストンの発展に彼ほど貢献した人はないとさえ言われている。ところが、ウィルソンは同時に人種差別主義者でもあった。アイビー・リーグの他の大学が少数ながらも黒人学生を受け入れ始めた頃に彼らの入学を強く拒み、また大統領を務めた時にも連邦政府の公務員制度に一度廃された人種隔離を再導入するなど、生涯、人種差別主義者としての立場を貫いたようである。今回の方策を発表したプリンストン大学の現総長の言葉を借りれば「ウィルソン氏の人種差別主義は、当時の基準からみても著しくて重大なものだった」わけである。

 

当大学だけでなく、米国そのものの歴史にこれほど影響力を持った人物の名前を、その人物を輩出した大学の学部・大学院の名称から外すとは、「ポリティカル・コレクトネスの行き過ぎだ」とか「歴史修正主義に他ならない」などと、保守派の論者に言われている。しかしながら、どの人物を称賛し、学生の模範として提供するかという決断は、結局大学の裁量範囲だろう。また、公共政策学部・大学院の黒人学生が、彼らの入学を認めない人物に同化させられることに抵抗を感じるという気持ちは、尊重すべきではないだろうか。それはともかく、ウィルソンの名前を削除する方針が学内のコミュニティーには快く歓迎されたようで、「プリンストン・スクール・オブ・パブリック・アンド・インターナショナル・アフェアーズ」の立ち上げを祝う声が多かった。

 

感染が拡大する中、米国社会がこのように炎上してしまうとは、私には予想外であった。また、眠っているかのように映るキャンパスも、目に見えない形できちんと生命を保っていることに気づき、毎日の寂しさがしばらく紛れた。

 

 

英語版はこちら

 

 

<アントナン・フェレ Antonin_Ferre>
渥美財団2019年度奨学生。東京大学人文社会系研究科/プリンストン大学東アジア研究科博士課程。専攻は日本古典文学。

 

 

2020年7月16日配信