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エッセイ575:エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ「私の日蓮(3):宗教的主体性」

 

「私の日蓮(1):日蓮研究に至った背景について」

「私の日蓮(2):日蓮の多面性」

 

〇「思想史的研究」と「宗教的注釈」との違いについて

 

日蓮宗の宗派と教団は大きく2つに分けられる。

 

ひとつは、日蓮宗の日興門流から派生した宗派と教団で、いわゆる「富士門流」である。今日その流れを受け継いでいる教団では日蓮正宗と創価学会が数えられる。基本的に日蓮の正体を、多くの大乗経典でいう「仏」、すなわち永遠な存在として扱っている。そのため、筆者が研究している日蓮の「写本遺文」(「日蓮遺文」の40%)のような、後代の弟子たちに偽造されたかもしれない文献でも、日蓮と同じ精神性を示していると思われるなら、直ちに彼自身に帰せられても問題ないという立場に立つ。

 

だが、この主体性を前提に「思想史的研究」を行えば、「思想史的研究」よりも「宗教的注釈」になるのではないかと考えている。「宗教的注釈」ならば歴史を超えた「何か」、たとえば永遠な存在としての日蓮の精神性に拠ろうとしても、それはそれで問題ないかもしれない。だが、「思想史的研究」は「思想史」すなわち「歴史」でないといけないので、歴史を超えていると思われる「何か」を基準に進んでいくのを避けなければならない。となれば、研究は歴史を超えた普遍性という幻想を諦めたところで仮言的言明にとどまり、「疑い」であり続けるという「科学性」を有しなければならないことになる。

 

上記以外の宗派と教団とは、「身延門流」を指している。日蓮を基本的に「仏」ではなく、「人」として扱っている。「人」として扱い、研究をすれば、筆者が研究している「写本遺文」のような、日蓮という「人」自身のものではないかもしれないという文献の「日蓮らしさ」を「疑う」のは一見妥当であろう。確かに、多くの写本遺文は室町期で支配的だった天台思想の影響下で偽作された可能性がある。だが、「日蓮の真作かどうかはわからない」「後に他の思想の影響下でつくられた偽作なのかもしれない」と歴史学的に「疑う」ということが、宗教的にも「信じてはならない」という立場に突然飛んでいくことになれば、大きな問題が出てくる。

 

「疑う」という点では上述の教団のような主体性を前提とする試みよりはもう少し科学性を示しているかもしれない。しかし、その裏にはまた護教的で宗教的な「何か」、すなわち鎌倉期の他の仏教思想などに対して日蓮の「純粋さ」を護ろうという目的が潜んでいる点では、日蓮の出発点としての歴史的背景との不可避な影響関係まで完全に無視してしまうことになる。そのため、「思想史的研究」よりは結局、「富士門流」とは違う形であれ日蓮の歴史性を超えようとする「宗教的注釈」に再び偏ってしまうのではないかと考えている。

 

〇「主体性」の選択について

 

宗教は己の都合のために、科学だろうとなんだろうと、何を活かそうとしても問題はないのかもしれない。仏教はある時点から確かに「富士門流」と同じような主体性で、仏滅の数百年後に現れた大乗経典を「仏」に帰せて受け容れたのだから、今度は科学思想まで受け容れて、活かそうとしても問題ないのかもしれない。だが、宗教は歴史性と理性の世界を超えようとする。対して、科学は基本的に理性の活動であり、「過去の無知から現在の研究へ、そして現在の研究から未来の進歩へ」という方向性のある時間、すなわち「歴史」の中で己を根強く位置付けている。そのため、とある文献の救済力まで測定できる計算機が存在するかどうかはっきりしない限り、歴史的かつ科学的に「偽作」だと言っても、宗教的かつ救済論的にも「信じてはならない」、要するに「人を救う力がない」というようなことになることは一切ないであろう。

 

以上の理由を踏まえて、日蓮遺文の「思想史的研究」をするのであれば、日蓮をひとまず「歴史的人物」として扱うのが最も妥当であり、その点では「富士門流」のような主体性は乗り越えるべきであると考えている。だがそれと同時に、日蓮の歴史性まで完全無視してしまったときの「身延門流」のような主体性をも乗り越えなければならない。「宗教的主体性」については以上である。(つづく)

 

<エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ☆Emanuele_Davide_Giglio>
渥美国際交流財団2015年度奨学生。トリノ大学外国語学部・東洋言語学科を主席卒業。産業同盟賞を受賞。2008年4月から日本文科省の奨学生として東京大学大学院・インド哲学仏教学研究室に在籍。2012年3月に修士号を取得。現在は博士後期課程所定の単位を修得のうえ満期退学。博士論文を修正中。身延山大学・東洋文化研究所研究員。

 

 

2018年7月19日配信