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エッセイ502:文景楠「修了に際して」

(『私の日本留学』シリーズ#3)
 
長らく籍をおいていた大学院を、この3月にいよいよ修了することになった。
 
季節は例年の春爛漫を段々と取り戻しているが、三十路をとっくに過ぎての門出を迎えて目の前をちらつくのは、「どきどき」や「わくわく」ではなく、「遅きに失する」とか「つぶしはもう利かない」といった明るい窓の外の景色とはいささか対照的な言葉だ。
 
大学を卒業してから博士号を取得するまで十年もの歳月を費やした。このこと自体は、途中従軍による2年間のブランクがあったり、アメリカで研究滞在をする機会があったりしたことを考えれば、さほど遅いほうではない。また、ありがたいことに大学に入学してから大学院を終えるまで複数の奨学財団のお世話になることができたので、同年代の幾人かの友人と比べてはるかに恵まれた学園生活を送ることもできた。修了に際しては期限付きながら常勤の職を得ることもでき、外国人として生活する多くの人々にとって最も大きな在留資格の問題もとりあえずは先送りできたことになる。なによりも、大体において面倒くさがり屋の自分が、真剣に取り組んでみたいと初めて思った「研究」から近いところに、なんとかまだしがみついているのである。
 
それでも肌寒い気持ちを拭い切れないのは、これから自分を待ち受けている日々が厳しいものであることにうすうす気づいているからだろう。国際競争と少子化の板挟みが、これから大学産業に飛び込もうとする新米研究者にとって所与の現実だからだ。自らの研究領域において高い水準を維持するだけで――それ「だけ」でも大変すぎるぐらいだが――己の存在価値が保証される人は、もうほんの一握りしかいない。
 
こういったいわゆる「業界の現状」に関しては、解決策を提示したりそれを吟味熟慮したりと、すでに様々な言説が飛び交っている。それらの多くは実際に傾聴に値するものであるし、目に入ってきたときには時間を割いて自ら読むようにもしている。にもかかわらず、ではこういった主題に対して何か自分なりの見方のようなものができてきたかといわれると、残念なぐらいその気配はない。今まで拾い集めてきた様々な意見を(学者らしく)綺麗に分類し整理することならできるかというと、その自信もない。かといって、問題を楽観視しているわけでは決してない。現代という時代や、その最中にいる大学が歴史的に稀に見る悲劇に見舞われているとは思わないが、他の時代と同じぐらい深刻な問題を抱えているという点は、さすがに認めざるを得ないだろう。だとしたら、これはちょっとした自己欺瞞ということになるのだろうか。
 
こうした状態から脱し、なんとか前に進もうとする自分の足を毎回からめとってしまうのは、現段階で問題を整理してしまいたいとする焦燥にどうしても抗いたくなるぼんやりとした気持ちだ。問題をさばこうとせず、そわそわしながらその前に立ちすくむというのは、場合によっては(はっきりした理由もなく単に)不安を不安がるのと同じぐらい不毛に映る。それを知りながらも一歩を踏み出せずにいるのは、自分が無理をして吐き出してはすぐにもみ消してしまう言葉が、いまひとつ自分の「実感」といえるものを捉えていないということに気づいているからなのだと思う。
 
こういった語り得ないものにこだわるのは、はっきりいって生産的ではない。それでも、博士論文を書くという、実感をすくい取るといったことから最も遠く離れた理詰めの作業を終えて社会に出て行くことになった今、自分はテキストの外にあるもの、記号で埋めつくされた議論に入ってこられないものに敢えてこだわりたいと望んでいる。綺麗な筋道を提示したり、論敵を打ち負かしたりするための議論は、当然それ自体として価値あるものだし、今後自分が書いていく文章の多くはそのようなものになっていくだろう。しかし、形式的な議論に終始してしまう性分だからこそ、そして、それがある意味で強く奨励される環境にいるからこそ、「問題と解決」といった図式の周りをうごめいている何かの存在を絶えず視野に収めることの重要性をここで自分に喚起しておきたい。
 
いうまでもなく、ここで記したことは大学やアジアの未来といったことに関して何らかの示唆を与えるものではない。そもそも、目新しい主張など何も含まれてはいない。しかし、ありふれた言葉を他でもないこの瞬間にこの場所でとある人物が発することに特別の意味があるのなら、この舌足らずのつぶやきは、これから自分が住まう社会ときちんと関わっていくという約束を己に課すことにはなると思う。それが実際有意味なものであったことを示すのは、まさにこれからの仕事となるだろうが。(2016年3月記)
 
<文景楠(ムン・キョンナミ)MOON Kyungnam>
2015年度渥美奨学生。2016年3月に東京大学で博士号を取得し、現在は同大学助教。専門は古代ギリシア哲学。
 
 

2016年8月18日配信