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エッセイ459:柳 忠熙「差異への想像力とこれからの日韓関係―大学での初講義体験の回想から」

昨年、大学で日韓関係の歴史についてはじめて教える機会を頂いた。朝鮮・韓国の歴史に重点を置いた授業で、時期的には朝鮮末期から植民地期まで、つまり19世紀半ばから20世紀半ばにかけての日韓の近代史であった。この時期は日韓両国が西欧列強の影響によって開国や開化をせざるを得ない転換期だった。と同時に、東アジアにおける「近代」が始まった時期でもあった。日韓の近代が「帝国/植民地」に基づいた帝国主義の時代を経て形成されたことは、今まで外交や教育など諸分野に亘って往々に日韓両国のナショナリズムを刺激する要因となってきた。このような過去の歴史について日本の大学生は何を知っていて、そしてどのように考えているのか、こうした問いが授業を担当するようになって、まず頭に浮かんだ疑問であった。

 

授業に際して、いつも最初に、なぜこの授業を受けるようになったのか、ということを学生たちに尋ねた。予想どおり、大半の学生たちは、韓流ブームや韓国の観光経験などが理由で、もっと韓国を知りたいという答えであった。その中には、韓国の大学に交換留学生として行ってきた学生がいて、現在の韓国の生々しい大学生活について聞くこともできた。

 

一方、これらとはかなり異なる観点で授業を受けた学生が一人いた。その学生は、「現在の日本における外国人に対するヘイトスピーチの現象に関心があって参加した」と言ったのである。その学生によれば、ヘイトスピーチをする人々の論理には理解できない側面があって、自分で朝鮮の近代史を知りたいという理由であった。

 

もう一人、韓国人の交換留学生がいた。私は毎回の授業で感想文や疑問を書いてもらうようにしていたが、その学生は、そこにいつも高校時代の「国史(韓国史)」授業の内容を思い出し、そしてたまに私の説明がすこし不満だというニュアンスの感想を書き残した。その学生は東アジアの近代史に関するほかの外国人留学生向けの講義を聴いていたようで、ある日、その授業での朝鮮の近代史についての説明が不十分でほかの留学生たちに誤解を与えるかもしれないと、私に訴えてきた。その学生の気持ちは理解できないわけではなかったが、何がその学生をそこまで熱くさせたのか気になった。そのときはその学生に最初の授業で強調した「歴史像」の問題を喚起させることで、その〈もやもや感>を治めようとした。

 

「歴史像」という概念は、日本史の成田龍一氏の著書から引いたものである。成田氏は、「歴史とは、ある解釈に基づいて出来事を選択し、さらにその出来事を意味づけて説明し、さらに叙述するものということになります。本書ではこれを『歴史像』と呼んでいきます」(成田龍一『近現代日本史と歴史学――書き替えられてきた過去』(中央新書、2012年)、ⅱ頁)と述べる。この「歴史像」についての説明は、歴史学を勉強する人にとっては当たり前のことであるかもしれないが(断っておくが、私は歴史学専攻ではなく、その隣接分野の文学や思想を主に研究する者である)、一般の人々、つまり歴史を学ぶことは歴史的事実を勉強する、あるいは覚えることだと考えている人々には、今までとは異なる観点を提示してくれる概念である。とくに大学生たちの柔軟な思考のためには有効だと思う。歴史に向き合うとき、ある事実を選択する行為自体が自分自身のある観点に基づいているという〈自覚〉が必要であり、ひいてはその事実で他人を説得することができる妥当性をもつことが必要であるという考えが、「歴史像」という概念の前提とされている。

 

こうした物事に対する思考には、そもそも世の中には、ある同じ出来事に対して、さまざまな異なる観点と解釈が存在するという、異なる観点への寛容性がある。それは差異への想像力によって可能となる。この差異への想像力は、単なる空虚な状況で生まれるものではない。ある出来事についての具体的な知識によって可能となるのだ。この知識によって自分なりの観点での発想ができ、説得力が保たれるようになる。こうした「歴史像」への思考から生まれる想像力を学生にすこしでも理解してもらい、彼らが関わっている歴史と社会を自分なりの観点をもって理解しようとする態度に気付かせること、それが私の授業の究極的な目的である。そしてこれからの私の課題でもある。

 

あの韓国人学生は、私の原論的な説明では納得がいかない様子だった。私がその学生に納得のいく史料などを取り上げて具体的に説明することができたとすれば、学生は納得した顔を見せたかもしれない。だが、そうした方法は知識の量と洗練された話法による説得だとは言え、こうした具体的な知識のみでの説明では、究極的なレベルにおいて互いを受け入れることはできない。いや、そもそも人と人が理解し合うということ自体が無理なのかもしれない。誤解や異なる考えの摩擦のなかで、<相手を理解しようとする態度やその試み>が存在するのみだと私は思う。その韓国人留学生のもやもやしているように見えた態度も、もしかすると、こうした理解と試みのある段階にあったものだったかもしれない。

 

前期・後期ともに、授業の最初と最後の感想が結構異なっていた。最初は歴史的事実を質問したり、授業の内容を要約して書いたりしたものばかり。しかし、最後のあたりになると、ある資料から自分の意見を述べるようになっていた。例えば、植民地支配による残酷さを語る学生もいた一方、植民地朝鮮における経済発展を統計資料に基づいて述べる学生もいた。その歴史的な判断はともあれ、何か資料を以て自分の観点を述べるようになったという点では嬉しいかぎりである。

 

今年で日本は敗戦、韓国は解放70周年を迎える。と同時に、日韓修交正常化50周年でもある。この半世紀の間、日韓の学者たちの交流を通じて相互の理解が深まったのは確かである。一方、一般レベルでのナショナリズムの雰囲気は依然として強く存在する。日韓両国の学生たちが自分の「歴史像」を持って、異なるさまざまな「歴史像」を理解できる態度や想像力を持つことになれば、これから50、70年後にはすこし異なる社会的雰囲気になるかもしれない。つまり、日韓関係ひいては東アジア諸国の問題に対して、現在の思考の単一化を図るナショナリズム的な観点よりも、少しは余裕を持って異なる観点を受け入れる雰囲気が形成されるかもしれないのだ。

 

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<柳 忠熙(リュウ・チュンヒ)Ryu Chunghee>

東京大学東洋文化研究所特任研究員。成均館大学卒、同大学大学院修士課程修了。2008年に来日、東京大学大学院総合文化研究科超域文科科学専攻(比較文学比較文化コース)博士課程単位取得満期退学。武蔵大学非常勤講師。東アジアの近代と知識人の問題について研究中(比較文学・比較思想)。論文:「近代東アジアの辞書学と朝鮮知識人の英語リテラシー」(『超域文化科学紀要』第18号、2013年11月)、「漢詩文で〈再現〉された西洋」(『朝鮮学報』第232輯、2014年7月)、「開化期朝鮮の民会活動と「議会通用規則」」(『東方学志』第167輯、延世大学校国学研究院、2014年9月、韓国語)。訳書:齋藤希史『近代語の誕生と漢文――漢文脈と近代日本』(黄鎬德・林相錫・柳忠熙共訳、現実文化、2010年、韓国語)。

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2015年5月14日配信