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エッセイ314:シム チュン キャット「日本に「へえ~」その9:「生きる力」って何ですか?」

周りに学校に通っている子どもがいない人はご存知ないかもしれませんが、日本の学校現場では学力低下を招いた元凶とされてきた「ゆとり教育」に実質的な終止符が打たれ、新しい学習指導要領が今年から小学校でスタートしました(中学校は来年、高校は再来年から)。文科省が作成した保護者用リーフレットの内容には、今後の教育方針として学習内容の充実(つまりもっと多く勉強しよう~)と授業時間の増加(つまりもっと長く勉強しよう~)のほかに、「生きる力」がやたらと強調されています。もちろん、「生きる力」は「ゆとり教育」のキーワードでもあったのですが、過去10年間のように「ゆとりの中で特色のある教育によって『生きる力』を育む」のではなく、これからは「ゆとりでも詰め込みでもなく『生きる力』をよりいっそう育む」というのが新しい学習指導要領の基本方針だそうです。なんかわかったような、わからないような感じではありますが、さらに読んでいくと「生きる力」とは「知・徳・体」のバランスのとれた力であると定義され、それは「確かな学力」と「豊かな人間性」と「健康・体力」という三つの重要な要素で構成されるそうです。まあ、ごもっともすぎて反対の余地もありませんが、ただ「想定外」の大震災と原発事故が起きた今でも、「生きる力」の定義がこのままでいいのかという疑念がどうしても湧き上がってきます。

乱暴な言い方をさせていただければ、3-11に起きたあの恐怖の巨大地震と超大津波の前で、「確かな学力」も「豊かな人間性」も関係ないでしょう。さらに、広島型原爆30発分ぐらいはあるという放射線物質を撒き散らした福島原発事故の前では、たとえこれまで培ってきた「健康と体力」があったにしてもそれが何になりましょう。誤解しないでほしいのですが、文科省が学校で子どもにつけさせようとする「生きる力」が重要でないと言っているわけでは決してありません。ただ、それ以前にもっと根本的な、もっと大事な「生きる」力が抜けていやしないだろうかという疑問が拭えません。

ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックの「リスク社会論」を引き出すまでもなく、現代を生きる私たちはいろいろなリスクと隣り合わせています。震災、津波、原発事故、自然破壊、テロ、戦争、金融危機、食の安全問題などのようなマクロなリスクもあれば、例えば就活に失敗して正社員になれないリスクや突然解雇されて失業するリスク、または家族を持ちたいと結婚を希望しているのにまったくモテないという非モテのリスクなどのような個人レベルのミクロなリスクもあります。詰まるところ、リスクとは自分が思い描いた通りの人生が送れなかったり、これまで生きてきた人生が突然絶たれたりするようなことであるともいえます。そしてマクロ・ミクロを問わず、それらのリスクのいずれも個々人の努力ではどうにもならない場合が多いのです。だからこそ、微力ながら出来る範囲で自分を守る知識と知恵、さらに予期せぬ逆境を乗り越える勇気と柔軟性、つまり「生きる」ことの根本たるものを学校で子どもたちに教えることがより重要なのではないかと僕は強く思います。例えば、天災が起きたときに防災教育のマニュアル通りに動く前にまず災害状況を判断してどうすればいいのかを自分で考えること、「世界平和は大事だ」というような当たり前のことを唱える前に民族紛争や宗教対立の本質と根源を理解すべく宗教の成り立ちや近代史などをしっかり勉強すること、「好きなことをやれ、夢を追え」という前にその夢の実現の難しさと、実現できなかったときに自分をどう守るのかと社会保障制度や労働制度および政治制度のあり方について学習議論すること、「いただきます」と感謝の気持ちを表すと同時に、目の前の給食がどこのどのような食材を使い、どのようなルートで教室の机までたどり着いたのかを知ること、などです。「人生は旅」というのなら、「確かな学力」、「豊かな人間性」や「健康・体力」も重要でしょうが、その旅の道中に発生しうるリスクとそれに備えるための知識と力も子どもたちに身につけさせてから旅立たせるべきなのではないでしょうか。

「生きる力」のことを、文科省はこれまで「the zest for living」という英訳を使ってきました。英語は「生きる力」というよりも、「生きるための情熱」という意味になります。まあ、日本の子どもたちに情熱を持って生きてほしいという狙いはわかりますが、淡々と人生を生きるのもそれはそれでいいのではないかと僕は思います。情熱に溢れる人生にしろ、おしとやかな人生にしろ、まず自分の思い通りに生きられないかもしれないというリスク、そしてそのリスクについての理解力、対応力と備えを学校でもっとしっかり教えるべきなのではないでしょうか。東北大震災と原発事故の後、学校教育のあり方が問われるべき転換期を迎えているといっても過言ではありません。近代未曾有のリスクを被ってしまった日本がこれからどう変っていくのか、いま世界の目が向けられています。

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<シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑>
シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。
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2011年11月2日配信