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エッセイ318:金 キョンテ「私の1年」

オソオセヨ(어서오세요; お帰りなさい) 金浦空港の入国審査台の職員さんは、私の1年ぶりの帰国事実を確認し、温かく迎えてくれた。 コマプスムニダ(고맙습니다; ありがとうございます)   私は彼の挨拶に呼応し、入国場に向かった。

 

ようやく、私は、韓国に戻った事実に「半分くらい」気づいた。それは私が乗ってきた飛行機の乗客のほとんどが日本人だったせいかも知れないが、それよりは、私がまだ海の向こうに名残をのこして来たからだと思う。 ちょうど1年前の2010年9月25日、私は金浦空港を出発し、羽田空港に到着した。 韓国にいる頃から相当な方向音痴だった私は、「殺人的」な東京電鉄路線図を見た瞬間凍りついた。 (次の日、日本で初めて買った本は、東京近郊路線図が含まれた東京23区の地図だった)浅草のホテルに辿り着いた私は、ビールと勘違いして買った鮮やかなデザインの発泡酒を飲みながら、これから始まる1年の留学生活の緊張を和らげた。 日々の生活において若干の間違いもあったがなんとなく慣れて、目標とした1年間の勉強を始めた。東京大学日本史中世史専攻の外国人研究生として、親切な同僚達からの援助を受けながら勉強した。

 

思うに、それは今までの自分の人生最高の幸運の一つであったと思う。私はそこで歴史研究の基本中の基本とも言える、史料に対する真剣さを切実に学び、私の研究と精神が一層も二層も成長しうる契機になった。 私の研究分野は「壬辰戦争(1592~1598)」である。日本では文禄・慶長の役、または豊臣秀吉の朝鮮侵略と呼んでいる。もちろん、この時代を研究するのにも基本は史料である。史料を軽んじ、または偏狭な史料ばかり見ていたら、「正しい」研究はできない。私は当時の韓国(朝鮮)と中国(明)、そして日本の、三国の史料を全部見て、それらを利用して研究を進める、という意欲を(思いとして)持っていた。 当時の韓国と中国の史料は、ある程度把握し終わった状態で、これを基にして、いくつかの論文を発表した。しかし、日本の史料にはまだ接していない状態だった。私は日本史料に対する基礎知識がない状態だったのだ。 日本で(広い意味で)歴史史料と言えば、大概、古文書(こもんじょ)、史料、記録に分けられる。古文書はだいたい書状(手紙)類で、史料は編纂、または編集された歴史史料類、そして記録は日記類を意味するとみればいい。この各分野については、各々体系的な研究がなされている。東洋の記録文化と自国の独特な記録伝統をいかして、長い間研究が蓄積されて来たのである。

 

一方、初心者も接近できるように入門書も多く存在しており、このような親切で便利な接近性も羨ましかった。 私が主にみなければならなかったのは古文書だった。参戦した日本の武将がお互いに、または豊臣秀吉との間で取り交わした当時の生々しい手紙である。韓国(朝鮮)と中国(明)には「実録」という立派な公式史料があり、朝鮮と明の間で送受信された外交文書も多数存在するが、これらの史料はあくまでも公的に編纂された史料で、また精製された史料なので、現場の生々しさを盛り込むには限界があると思う。 韓国(朝鮮)と中国(明)の史料の中には、現場で活動していた武将の実態が含められた手紙類は極めて少ない。日本には現在、そのような手紙類が数えきれないほど多く残っており、大体、原本がそのまま残っている。もちろん、活字化され、研究者が接するのに便利になっている場合も多い。 日本の中世史学界(戦国時代を含む)では、この古文書を研究の基盤にしている。古文書を解読し、利用できる能力がなければ、中世史の研究は不可能である。三国が取り組んだ「壬辰戦争」を研究する私にとってもこの古文書の壁を乗り越えなければならなかった。

 

東京大学の場合、学部三年生になると先輩達と直接原文史料に接しながら解読の練習を始める。ゼミの発表や卒業論文の執筆も史料が基になる。このような基本的な訓練を受けてから大学院に入ることになっている。基本を徹底した後、即ち、武器の使用方法を学んでから戦場に投入されるということである。 私にとっては、日本の古文書に接することは初めてと言ってもいい位だったので、基本も身に着けないまま1年の間に成果を出して戻るというのは、とても欲ばりだったのだ。そのような情けない者をよく引っ張って、親切に教えてくれたチューターには感謝するばかりである。チューターと共に文書を読みながら、またひとりで概説書を読み、関連の研究書を読みながら、少しずつ、文字が、内容が見えるようになった。人の助けがなくでも、ひとりで少し古文書を解読できるようになった瞬間は、えもいわれぬ嬉しさだった。

 

例えば、戦争初期、朝鮮の民兵(義兵)の反撃と兵糧不足に悩んだ加藤清正が国元に送った51ヶ条の書状 (1593年8月8日 加藤喜左衛門・下川又左衛門宛 加藤清正書状;下川文書)からは、彼の危機感と共に私たちが知ることができなかった彼の細心な性格を覗き見ることができる。51ヶ条(実際は50ヶ条)という長い条項につれて、細部的な品目の指定と、命令を十分に遂行できなかった家臣に対する細かい叱責は、よく知られた大胆な清正のイメージとは違う彼の一面であり、また、いつも勝利したという「常勝」イメージとは違って、朝鮮の反撃に結構悩まされていたことも分かる。 同じく戦勝初期、毛利輝元が自分の妻に伝えた内容には、朝鮮の面白おかしい風景を詳しく描いているが(1592年5月26日 宍戸覚隆宛 毛利輝元書状;厳島文書)、これは自分を心配している妻を笑わせ、安心させようとする優しい思いであろう。またこの描写を通じて、当時の朝鮮の風景も想像できる。 これらの文書を、ただ面白おかしい歴史史料として一笑に付してはいけない。悲壮な戦闘、英雄の誕生等々のようなストーリの裏にはこのような人間の日常事、赤裸々な憤慨、危機感、生々しい人間事が広がっているのである。私はこれらを取り出して、三国の史料を比較しながら、この戦争を再構成するのを目標としている。

 

留学生活において、微妙な文化差からのストレスとか、自らの勉強の中で感じられる限界、そして、ホームシックがなかったかと言ったら、それは嘘だろう。その時、私を支えてくれたのは、すでに多くの友人はご存知だと思うが、「男はつらいよ」、寅さんだった。近くにあった寅さんの故郷、柴又に偶然に寄ってから、強い印象を受けて観始めた「男はつらいよ」の、全作品を観破すべく今も挑戦中である。故郷から離れた多くの人々の友達、寅さんに癒されながら、私は「つらい時」をのり越えた。

 

その影響もあったかも知れないが、私は一人旅を楽しむようになった。近郊日帰りは旅行とは言えないかも知れないが、日本では一人旅の文化(?) が発達しており、その上、公共交通としてバスよりは列車を好む私には、何処に行くにも至近まで列車が運行しているのが便利だった。朝早く、郊外に向かう、人のいない電車に乗り、窓のそとで変わる風景を見ながら自由を感じた。 事前調査が間違っていて、実際に着いたところにはあまり見物するものがないこともあったが、今考えてみれば私は往復の旅程自体をも楽しんでいたかも知れない。愛くるしい古い列車に乗って、歳月の振動と音を体で感じながら何処かに向かう瞬間々々、幸福を感じていたのだと思う。 美味しい食べ物!

 

今、日本では韓国料理が大人気だし、私自身も韓国に戻って来てから今日で一週間、食べたかった韓国料理を思う存分食べているが(もはや体重1キロ増加)、日本で食べた日本料理は韓国で食べるそれとは違う旨味があった。私は特に、すしと焼鳥のファンになってしまった。伝統のあるすし屋のすしではなく、イトーヨーカドーで売っているすしも、回転すし屋で走っているすしも私には美味しかった。焼鳥もまた普通の屋台で焼いている一串70~100円のその焼鳥が好きだった。種類の多様さと職人精神が入ったような、微妙な炭の香り。今もその匂いを思い出せる。 日本留学中、私の日常の中で最高の幸福の一つは、一人家で美味しい日本ビールとすし、または焼鳥を並べて食べる瞬間だった。

 

出国の前日、住んでいた家の契約が24日までだったので、仕方なく大井町のホテルに泊まった。 何度か頭の中で計画していた「日本での最後の晩餐」は早めに諦め(一人でいい店に行った経験がない)、駅前の屋台の焼鳥(ねぎま2本とレバー2本)と百貨店地下食品館の50%割引のすし、そしてサントリ-プレミアムモルツ500ミリ缶を買ってホテルの部屋に座った。 京浜東北線の轟音を聞きながら、東京湾と離着陸する飛行機の光を目に焼け付けながら、私は一年中食べた料理の中で一番美味しい「晩餐」を楽しんだ。

 

「さようなら」 外国人登録証を返却すると、羽田空港出国審査台の職員さんが別れの挨拶をしてくれた。 ごめんなさい。私はあなたの温かい挨拶にお返事できませんでした。この場を借りて、お返事したいと思います。 皆さんに申し上げたい御礼でもあります。 さようなら。ありがとうございました。

 

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<キム キョンテ ☆ Kim Kyongtae>

韓国浦項市生まれ。歴史学専功。韓国高麗大学校韓国史学科博士課程。2010年から東京大学大学院人文社会研究科日本中世史専攻に外国人研究生として一年間留学。研究分野は中近世の日韓関係史。現在はその中でも壬辰戦争(壬辰・丁酉倭乱、文禄・慶長の役)中、朝鮮・明・日本の間で行われた講和交渉について研究中。

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2011年12月7日配信